「日本人らしさ」の起源と「移動民〜転住民〜定住民」(4:その2)
http://cds190.exblog.jp/22297777/ からつづく。
征服から統一的な「領域国家」へ、そこに軍事的文脈を見るか、経済的文脈を見るか日向軍団の東征そしてヤマト王権という征服王朝の樹立については、諸説多々有るが、すべてが軍事的文脈で物事を見るパラダイムにある。
異論反論オブジェクション、みなこのパラダイムを土俵にして交わされている。
私はそれにはあまり関わるつもりがない。
その土俵で私に特段、主張したい体系だった自説がある訳でもない。
私は、
日向軍団の東征そしてヤマト王権という征服王朝樹立は、
朝鮮半島南端と北九州沿岸を本拠とする縄文人交易民「倭人」が
「濊(わい)人」を全面的にバックアップして推進した
「中長期的な中国文明商材の新規市場の開拓と独占の戦略」だった
と捉えている。
歴史を捉えるパラダイム自体についての転換をして古代経済の専門家が検討していけば、
周知の史実という食材でもこれまでとはまったく違う料理ができると思う。
私が自負する自分の役割は、パラダイム転換発想を促すコンセプトの開発者である。
そして同じ役割を、先史時代から古代にかけての歴史の捉え方においても試みている。
武智氏は、出雲を広大な版図をもった「帝国」として視ている。
たとえば、
倭国全土を「食(お)す国」としよう(筆者注:収奪対象としよう)と企図する日向(ひむか)軍団(日向三代神によって作られたもの)も、広大な版図を誇る<投馬(いつも)帝国>へ、直接進攻することには困難を感じていた。厳島も、綾羅木も、難攻不落の要塞であるかのように見受けられた
といった主旨を述べている。
私は武智氏の、出雲を「帝国」視する「広大な投馬(いつも)説(出雲はその矮小化した虚構とする)」には賛同しない。
私は、
出雲の実態は、島根半島西部の環日本海交易ネットワークのハブ拠点とその活動を支える後背地経済圏であって、
それは縄文時代、大陸で言えば新石器時代以来、自然に発生発展してきた遠隔地交易の「自由貿易」を展開した交易ビッグマンたちの同盟だった
と考えている。
それが、統一的な「領域国家」とそれによる「管理貿易」を目指す勢力を嫌ったことは言うまでもない。
しかしだからと言って軍事的に対立したとは言えない。
なぜなら、彼が排他性を主張する版図の拡大を図って侵攻してくることに対して専守防衛はしたが、その版図を侵攻し返すことはしなかったし、そもそもどの「くに」とも全方位で非軍需の交易産品を平和裡に交易する「出雲族」は、交易相手を侵攻する動機も理由もなかったからである。
「出雲族」が「厳島も、綾羅木も、難攻不落の要塞」としたのは、関門海峡などの要衝航路の「航行の自由」を確保するためだった。
一方、私は、
武智氏の、南九州に上陸して兵を養った「濊(わい)人」があくまで倭国全土の侵略を最終目標にして、まずは出雲に敗れて疲弊していた邪馬台国を急襲したという筋立てには賛同している。
ただし、以下について留意したい。
①武智氏の主張に限らないが、征服民族による王朝樹立説は軍事的文脈で語るものばかりであること。
そして、なんのために軍事侵攻をしたのかという動機、目的について武智氏は語っているのだが、詳しく語るものは極めて少ない。
戦争があった以上、敵国を侵略して支配するのが目的であり、まるでそれ以上問う必要はないかのようにである。しかし、敵国を支配して何をしようとしていたのか、という動機が出発点にはある訳で、そもそもそれがハッキリしてなければ侵略行動は開始されていない。だから、「濊(わい)人」には日本列島侵略の動機がないから騎馬民族による侵攻も征服王朝樹立もなかったという主張もある。私はそれに同意するものではないが、それはそれで論理的に筋が通っているとは思う。
②武智氏の主張は、大和地方の邪馬台国を急襲し、その後に広大な投馬(いつも)を征伐して倭国侵略を達成したというもので、そこは賛同する。しかし、単に日本列島で統一的な「領域国家」を樹立することだけでなく、出雲がもっていた日本列島内の主要交易産品の生産拠点と交易ネットワークを支配下におくことを目標にしたとまでは言っていないところが賛同しかねる。
武智氏の主張も軍事的文脈にあるため、あくまで倭国全体の支配が目標で、最強最大の投馬(いつも)に直接的には進攻することはできなかった、結果的に「神武東征」が先になったという話に終わっている。
一方、私は、
先ず統一的な「領域国家」の樹立という目標があり、それは海外との「領域国家」同士の「管理貿易」を徹底し、従来の多種多彩な「自由貿易」を密貿易として排除し、「管理貿易」を政商型交易者に独占させてその上納を得るという目的のための手段だった
という経済的文脈を捉える。
この文脈では、
「神武東征」→統一的な「領域国家」の樹立→「管理貿易」の徹底
→従来の「自由貿易」の排除=「国譲り」→密貿易の排除=ヤマトタケルの「西討東征」
という順序にならざるを得ない。
つまり武智氏と私では、たとえ軍事的展開についての意見が同じでも、その意味合いについての理解が、軍事的文脈か、経済的文脈かという大きな異なりがある。
③軍事的文脈で語る「濊(わい)人」による征服王朝樹立は、「神武東征」→「国譲り」という順序を想定するものも含めて、そこで完結してしまう。
武智氏は何のための軍事行動だったのかについて、ざっくり言えば、弁韓で二重統治者として喰えなくなった「濊(わい)人」が新開地の征服者となって喰っていこうとした、という主旨の説明をしている。しかし、この目的は軍事的勝利だけでは完了しようがない。むしろ軍事的勝利の後、どのような体制でどのような支配をすることで「濊(わい)人」は経済的にサバイバルしたか、という経済的文脈を連続的に語る必要がある。
(たとえば、
「神武東征」勝利後の喫緊の課題は、言わば国内的な「国譲り」ではなく、むしろ対外的な魏朝貢交易の「邪馬台国」からの継承だった。
「神武東征」の序盤に宇佐の地にあったと思しき「女王国」で死亡した卑弥呼に代えて壱与を擁立し、建前的には「邪馬台国」として魏朝貢交易を行った。これは、魏朝貢交易により魏の冊封国の「テュルク族」と魏の外臣化していた「安曇氏」が自動的に同盟関係になり、「神武東征」では敵対していたがその終盤に「邪馬台国」の宰相を謀殺して帰順し難航した戦局を打開したが、征服王朝における「安曇氏」の政商型交易者としての初仕事だった
と考えられる。)
私は、まず
「濊(わい)人」を先導した「倭人」が構想した「中長期的な中国文明商材の新規市場の開拓と独占の戦略」という目的を捉える。
「濊(わい)人」は、征服王朝樹立の暁に「倭人」にその管理貿易を独占させて上前をはねることを目的とした、それができれば後は何でも良かった。「濊(わい)人」は、朝鮮半島で小国群から未勝目料を取って回る騎馬民族として黒幕的二重支配者だった。直接的に民を支配することを嫌って「定住民」とならずに、回遊する「移動民」であった。それが、朝鮮半島南半にまで「領域国家」化の波が及んで食いっぱぐれてしまったことはすでに述べた。そしてサバイバルするために征服王朝を樹立したのであって、それ以上でもそれ以下でもなかった。
「倭人」も「管理貿易」化で、縄文時代以来の自然に発生発展させてきた「自由貿易」を圧迫され食いっぱぐれたこともすでに述べたが、「濊(わい)人」にともにサバイバルする手段として日本列島に侵攻しての征服王朝樹立を持ちかけたのだった。
私個人的には、
馬韓、辰韓、弁韓の境界域に成立した産鉄地帯を含んだ「自由貿易」のハブ型交易拠点と捉える弁辰において
「倭人」の交易拠点と陸路輸送の安全保障を「濊(わい)人」が未勝目料や通行料を取って担ったことで、両者は共存共栄の信頼関係にあった
と考える。それについても前項(4:その2)で述べた。
「濊(わい)人」は「倭人」の全面的バックアップにより征服王朝樹立に成功し、統一的な「領域国家」の体制を整えて行った。
しかし、統一的な「領域国家」の体裁を整える能力と意欲を「濊(わい)人」も「倭人」も欠いていた。
そこで、
難航した「神武東征」を「邪馬台国」宰相の謀殺によって好転させ、魏朝貢交易の「邪馬台国」からの継承を達成した「安曇氏」が「濊(わい)人」に重用される。中央政界に留まった「安曇氏」の筆頭一派である「物部氏」が軍需装備品の調達を独占し、畿内に鉄器製造拠点を設けた「肩野物部氏」が鉄器の調達を独占する。
結果、
征服王朝樹立の構想者にして最大の功労者である「倭人」は、大方が西北部九州にとどまり自らの活動海域をナワバリ
的に限定したことも手伝って、中国文明商材の新規市場の開拓の果実にあずかったのは、中央政界に軍需装備品の調達を「安曇氏」とシェアする形でとどまった「倭人」の「大伴氏」だけだった。彼らは朝鮮半島南端側を本拠とした「倭人」だったのだろう。(「物部氏」と「大伴氏」はその後、軍事豪族となっている。)
しかし、
いずれにせよ、「倭人」の中国文明商材の新規市場の開拓という構想はまさに目論み通り達成されたと言える。
私個人的には、
「出雲族」とは、正確には四隅突出型墳丘墓を共通墓制として同盟化した同盟「出雲族」のことで、この同盟化こそが「国造り」の繁栄のピークを打った最終形だったと考える。そのピークを、四隅突出型墳丘墓の巨大化が示している。
それ以前は、「出雲族」の前身一派、前進諸派ということになる。
最初の一派は、東北北部に西周代の青銅製刀子をもたらした一派であり、それは殷遺民の亡命商人が朝鮮半島北部東岸に逃れて環日本海交易の遠隔地交易民となり、その一部が渡来したものである。以来、中国の戦乱や動乱を逃れた商工民が同様に日本列島各地に渡来し新拠点を開拓したり、新拠点に転住したりした。最終的に島根半島を本拠地としたものが、同盟化する前の出雲に展開した「出雲族」ということになる。
スサノオ譚は、その一派には朝鮮半島から来て朝鮮半島に帰ったものもいたことを暗示している。
オオナムチが兄たち八十神に二度も殺されて根の国のスサノオのもとに逃れ、試練を与られスセリヒメとともに戻り「国造り」に向かう訳だが、最初に八十神を境界域に排除していることは、共存共栄できる諸派が同盟化したことを暗示している。
オオナムチはオオクニヌシとなり、主要交易産品の生産地の縄文人部族の族長の娘を娶って回る。それは、縄文社会の「贈与」経済に則って姻戚関係を持つことで交易関係を樹立し維持したということである。ところが、これがスセリヒメの嫉妬を買って追われることになりオオクニヌシは逃げている。
結局は元鞘に戻って、後世、それが由来となり縁結びの神ともされるのだが、私個人的には、この痴話喧嘩譚は、オオクニヌシの「内向き」=「国内重視」の印象をミスリードさせるためのものだったと勘ぐっている。
オオクニヌシが象徴する出雲の「交易ビッグマン」は、同盟「出雲族」の盟主であると同時に、環日本海各地の「交易ビッグマン」を交易同盟化した盟主という「メタ交易ビッグマン」でもあった。つまり、こうした「超外向き」=「海外重視」の実態を隠蔽している。
では、このようなオオクニヌシが展開していた交易活動とは、いったいどのようなものだったのか。
それを、「出雲族」の最初の前身一派がした交易活動に遡って検討していこう。
そもそも、殷から朝鮮半島北部東岸に逃れて遠隔地交易民となった殷の商工民が狙える市場は、中国の都市市場しかなかった。それは、宮廷、朝廷、都城の富裕層などの需要に応える市場である。西周代であれば、その都ということになる。
中国の史書には、<倭人>が薬種を周に献上したという記述がある。この薬種は、ウコン説とコンブ説があり、私はコンブ説をとっている。私個人的には、「出雲族」の最初の前身一派が、殷遺民という素性を隠して<倭人>として都市市場の市場調査に行き、スパイと看做されないように都城への入城の際に東北産ないし北海道産の昆布を献上したのではないか、と考えている。
本州には様々な宝玉を産地がある。その宝玉には中国にはなもの、中国よりも安価なものがあった。また、出雲風土記は、出雲各地が様々な薬草の産地であることを示している。そのような宝玉についても、都市市場の調査を行ったのだろう。
おおよそ春秋戦国時代までは、「出雲族」の前身諸派は、本拠地周辺で産出する宝玉と薬種という原材料を主要交易産品として、中国の都市市場を最終消費地として想定したと考える。
日本列島の縄文社会の贈与」経済を中国の都市市場の「交換」経済に接続する彼らの交易ビジネスモデルでは、交換価値の不均等により利益を最大化できた。その利益を、大陸側の環日本海各地の「交易ビッグマン」とシェアするならば、彼らの方から日本海を渡って交易産品を取りに来るように仕向けることができたと考える。
そして時代が下るにつれて、大陸の都市市場は、周だけでなく、戦国の七雄の各国にも広がっていった。
統一的な巨大「領域国家」が登場した新漢代になると、中国の都市市場も巨大化し、「領域国家」化の波が及ぶにつれて朝鮮半島にも中国文明商材の市場が徐々に芽生えていった。
この市場変化に対応する形で、同盟「出雲族」が結成され、環日本海各地の「交易ビッグマン」たちが同盟化し、島根半島西部に環日本海交易のハブ拠点が構築された。
そこでは、環日本海各地の宝玉や薬種や希少金属(鉛や錫)などの希少価値ある原材料を、このハブ拠点に持ち込むと(つまりは投資すると)、青銅ベースに各種宝玉をあしらった宝飾品や妙薬とされる合薬を持って帰れる(つまりはリターンを得る)という交易ビジネスモデルが展開したと考える。
ただし、
アッセンブル商品としての宝飾品や妙薬には、以下のような条件があった。
◯渡海輸送と陸上の遠距離輸送のリスクとコストを配慮して、軽量小型で価格が高いもの。
◯金むくのベースの一品生産のような王侯貴族向けのハイエンド商品ではなく、
それに対すれば薄利多売と言えるような
宮廷女官や朝廷高官の威儀財や都市富裕層の婦女向けの青銅ベースの宝飾品といったボリュームゾーン商品。
(ちなみに青銅は遠目には金のように光り輝いて見えるので、それらのニーズを十分に満たした。
青銅ベースは緑青が出た古物は廃棄され、あしらわれた宝玉だけが使い回されたため、遺物としての出土がない。)
◯妙薬も、皇帝が求めるような不老長寿の神薬などではなく、
宮廷女官や朝廷高官や都市富裕層が入手できる価格の妙薬。
このように同盟「出雲族」の交易ビジネスモデルは、中国の都市市場を最終消費地として狙う輸出から始まった。
しかし、日本列島にも小国群が展開するようになっていた「神武東征」前夜の時代には、同盟「出雲族」はこれらの「くに」ぐにとの交易ビジネスモデルも重視していた。
朝鮮半島南半に及んだ「領域国家」化の波は、西日本にも及んだ。
富国強兵に資する鉄器、その原材料となる鉄素材の「争奪戦」が繰り広げられたが、当然それも西日本にも及んだ。
北陸に上陸して、鉄器を媒介に縄文人を支配しては「くに」を建てていった「テュルク族」は、琵琶湖地方から大和地方に入りそこで連合政府「邪馬台国」を建て、さらに吉備地方に侵攻して「くに」を建てた。それでも慢性的な鉄素材不足に悩んでいた「テュルク族」は、島根半島東部の産鉄地帯に侵攻したが、撃退された。
その責任問題と鉄素材の奪い合いから「くに」ぐにが内紛状態となった。「倭国大乱」である。
「邪馬台国」に男王が誰がなっても収拾がつかなかったが、卑弥呼が共立されて収束する。「女王国」を介して魏朝貢交易をすることで、魏に鉄素材を下賜してもらう方策によった。
それまでは、北部九州を中心とする「安曇氏」と、近畿を中心とする「テュルク族」とが、ともに排他性を主張する版図の拡大を志向する勢力として対峙していた。
この時、ちょうど両勢力の緩衝地帯となる中国地方を本拠地とする同盟「出雲族」はどうしたか。
どちらの勢力にも政治的・軍事的に与せず、鉄器ではなく青銅器を主要交易品目として、かつ威信財などの非軍需品目を両者と交易した。おそらく軍需物資でもある薬については、人道的な見地から両者と偏りなく交易したのだろう。青銅器の威信財は、「安曇氏」側には銅剣を主体に、「テュルク族」側には銅鐸を主体にすることで、両者が競合しないようにしている。これらの威信財は、両者と交易関係を締結維持するためのもので、ルーティンの交易活動の主要交易品目は、希少価値ある高付加価値の様々な民需品だったと考えられる。
青銅器については、出雲地方で製造して輸出するのではなく、政治的・軍事的な中立性についての信頼を確保した上で、両者の勢力圏内に指定される地域に青銅器を製造する仮設工房を設け、そこに青銅器を製造する高度人材を派遣し、銅と鉛を供給したと考えられる。「安曇氏」「テュルク族」は鉄素材の争奪戦と鉄器の製造を重視していたから、青銅器の威信財を自分たちで製造するよりも、自分の勢力圏内でアウトソーシングした方が良かったのである。
「倭人」が「濊(わい)人」に働きかけて統一的な「領域国家」を具現化し、その「管理貿易」を独占して展開しようとした交易ビジネスモデルは、どんなものだったのだろうか。
征服王朝樹立によって、中国文明商材を必要とする宮廷、朝廷という都市市場が形成された。
その最初は、都の造営で、木造の大型建物を建造するには、大工や石工という高度人材の大陸からの招聘、槍がんなや鑿といった鉄製工具の国内での調達が必要とされた。これに加えて、天皇皇后の威信財や天皇の周辺の支配層の威儀財の衣装や装身具や宝飾品などの国内での調達が必要とされた。
こうした高度人材の招聘やモノの調達をする国内外交易という「管理貿易」が、「安曇氏」=「物部氏」と「倭人」=「大伴氏」という政商型交易者に委ねられた。
朝鮮半島から招聘や輸入をするには、その対価として何を輸出したのだろうか。
私個人的には、
基本的には、北部九州で「安曇氏」が調達した温帯ジャポニカの乾田稲作による高品質な商品米
卑弥呼が魏王に献上したような野蚕による絹布(「安曇氏」が天蚕系を安曇野で調達)
食材および薬種となる干しアワビ(「安曇氏」が贄人として全国の産地から回収)
出雲や伊豆大島で自生する椿を原料とした椿油や、紫色を出す染料の椿の灰
などではないかと考える。
「中長期的な中国文明商材の新規市場の開拓と独占の戦略」という目的の達成は、「倭人」よりも「安曇氏」が主導していった。
長年の中国の巨大「領域国家」の政商型交易者としての実績とノウハウを蓄積していた「安曇氏」は、統一的な「領域国家」の体制を整える戦略としての交易ビジネスモデルを推進していく。
それは、前方後円墳の標準化と全国展開であった。全国各地の古墳造営現場に、大陸から招聘した高度人材である石工集団と鉄器製造集団が派遣され、鍛造炉が仮設され鑿などの鉄製工具を製造メンテナンスするための鉄素材が供給された。これらのヒトとモノは、都造営の際の石畳や基礎が必要として輸入されたものと同じである。
ただし、都造営では出費を支出するだけだが、前方後円墳の全国展開では、中央地方の有力豪族に建造費を支払わせそこから利益を上げることができた。
有力豪族の側はそのコストを支払っても標準化された前方後円墳を造営することで、権力の誇示やヤマト王権への忠誠を示すことができた他に、造営現場に仮設された鉄器製造工房では鉄製工具以外の様々な鉄器が製造されそれを授与されるというメリットがあったのではなかろうか。
そして、
その後の長い歴史スパンを俯瞰すると、
前方後円墳の標準化と全国展開が一巡するとその造営はキッパリ終焉し、
高床式穀倉をモチーフに伊勢神宮で標準化された神社建築様式にのっとった全国主要神社(一宮・二宮)の建立、全国主要仏寺(国分寺・国分尼寺)の建立に置き換わっていった
神社仏閣の建立は、さらに高度人材である大工集団と多種多量の大工道具を必要とした上に、建物を装飾する宝物の類、祭祀祈祷に用いられる祭具・法具という中国文明商材の新規市場の開拓となった
と分かる。
武智鉄二氏がその著「古代出雲帝国の謎」でしている軍事的文脈の解説の続きを要約しよう。
いきおい、日向軍団は、九州南岸に接近する黒潮の自然の動力を利用して、屋久島付近からその流れに乗り、土佐(土左)を中継地点として、まず大和へ向かわざるを得なかった。当時大和は、出雲との戦い(倭の大乱)に敗れて、その勢力もやや弱体化していた。
(筆者注:
「倭国大乱」は「国譲り」に比定されるのが一般的だが、武智氏は「八岐大蛇退治」に比定している。
私個人的には、「八岐大蛇退治」は、「テュルク族」の「くに」ぐにが支配の鍵とした鉄素材の不足から連合政府「邪馬台国」率いる連合軍で出雲の島根半島東部の産鉄地帯を攻めるも撃退されたことに比定する。「倭国大乱」を「テュルク族」の「くに」ぐにが鉄素材の奪い合いから生じた内乱と捉える。それが卑弥呼の共立によって収まったのは、「女王国」を新設して卑弥呼に魏に朝貢させて魏から鉄素材を下賜してもらう政策に転換したためと考える。)
この日向軍団は、高千穂の峰に降り立つ、いわゆる天孫民族であるが、諸種の事情を勘案するに、どうも濊人であるように思えてならない。濊の本拠地である江原道は、岩だらけの荒れ地で、物産は何もない。雪岳山の麓には、天の岩戸を想像させるような洞窟や、手力男命(たぢからおのみこと)でなくても動かせる「動岩」がいまも残っている。
ここから天孫降臨の大号令は発せられたのであろう。
(筆者注:
武智氏はそういう史実があったと言うのではなく、そういう神話の仕立てなのだろう、と言っている。
手力男命とは、岩戸隠れの際は岩戸の脇に控えていて岩戸から顔をのぞかせたアマテラスを引きずり出したアメノタヂカラオ。)
弁辰軍(筆者注:武智氏は松浦地方の末盧が弁辰人が侵攻し定住していたエリアとする)が大和へ入ることができるのは、応神天皇の時期で、神武・崇神よりも百年も後の、古墳時代(筆者注:3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指すことが多い)のことになる。
当時、辰王という大王がいて、三韓(1世紀〜5世紀)を統一するが、覇業の途中で姿を消してしまう。日本への侵略を開始したからであろうか。江上波夫氏の北方騎馬民族説は、これに当てはまる。
(筆者注: 一般に軍事的文脈の主張は国の王朝や軍を主体として捉えるが、「濊(わい)人」の侵攻征服説は「移動性に富んだ二重統治者」を主体とする点が大きく異なる。
私個人的には、
朝鮮半島南半で、「権力」的支配者だったのは黒幕的な二重支配者である「濊(わい)人」首長層であって、彼らは首長交替制で首長を選任し、首長が「権威」的君臨者を箕子朝鮮に出自をもつ王族から擁立して民を支配させた
と考える。
辰王は、朝鮮半島南半の「濊(わい)人」首長層が一体化していた時点の首長が擁立した王であったが、半島西岸、東岸、南岸で「濊(わい)人」首長層が3つに分かれ、それぞれの首長が馬韓王、辰韓王、弁韓王を擁立した
と考える。
よって、辰王は姿を消した訳でもなく、日本への侵略を開始した訳でもなく、存在価値が解消したもの
と考える。
なお、海上移動性に富んだ縄文人交易民である「倭人」の拠点も、もちろん「くに」ではない。どこかの「くに」の支配下にあるということでもない。
当時の「くに」とは都城や県城を拠点とした影響域であるが、それが国境をなしていた訳ではない。隣の「くに」と影響域同士が重なったり、どちらでもない緩衝域もあったりした(境界域)。
「倭人」の海洋交易拠点は、どこかの「くに」の影響域である陸地に囲まれながらも、家族が暮らす拠点の津々浦々から海に開いて自立していたり、どこの「くに」の影響域でもない岬で隔てられた入り江として自立していた。
つまりは、「倭人」の族的結合の実態は、自立的な海の民の母港や海運要衝という「異界との重なり領域」のネットワーク(境界域)だった
よって、
「倭人」全体として、その部族連合としての族的結合は緩やかで、自分たちの「くに」を建てるという志向性を欠いていた
と考えられる。)
『後漢書』にいう倭の大乱(147年〜188年)は、この投馬(いつも)から、越の山田(やまた)の大蛇=テュルク系の邪馬壱(サバイ→鯖江)族が、撃退された戦乱を指すのである。
この戦いのため、投馬の九州地区での防衛力が低下し、そのすきに侵略軍は、日向の地に軍事基地を確立することができたのであった。この三つ巴の動乱の状態を『後漢書』は「暦年主なし」と伝えているのである。
(筆者注:武智氏の解説では投馬は綾羅木をもって、帯方郡の橋頭堡である「安曇氏」の「伊都国」や「一大国」と対峙していて、さらにその背後の松浦地方に弁辰人が建てた「末盧国」があった訳だから、武智氏自身が主張する「濊(わい)人」の有明海からの南九州上陸に対して、投馬の抑止力が「テュルク族」と戦う前に働いていたとは考えにくく、戦っている間に隙ができたとも考えにくい。
私個人的には、
弁辰人が松浦地方に侵攻して「末盧国」を建てることにも、弁辰の「濊(わい)人」首長層の一派が「倭人」一派のバックアップアップを得てその騎馬軍事力を発揮した
それは実質的に、より多くの「濊(わい)人」首長層の諸派がまとまって「倭人」の全面的なバックアップアップを得て南九州に上陸することにおける、橋頭堡となった
と考えられる。)
大和へたてこもった邪馬壱軍(テュルク系)は、シャーマン卑弥子を立てて女王とし、また帯方郡勢力と結びつくことによって、東方の諸小国を魏の属民という形で再編成(『日本書紀』の用語にしたがえば、”国索:くにくる”)することに成功した。
(筆者注:
「テュルク族」は連合政府「邪馬台国」を構成する「くに」ぐにがその支配の鍵とした鉄資源を奪い合う内乱=「倭国大乱」を治めるべく、卑弥呼を共立し魏に朝貢させて鉄素材を下賜してもらう政策に出る。そして「女王国」を魏朝貢交易の拠点として建てた。
私個人的には、
「女王国」は瀬戸内海側と日本海側の両方からの海路輸送による集荷と荷分けに便利な「宇佐の地」にあった
と考える。
「邪馬台国」が魏に冊封されて属国となると、公孫氏帯方郡の出先機関から魏の外藩に転じていた「安曇氏」の「伊都国」「奴国」「一大国」は自動的に「邪馬台国」「女王国」と同盟関係になった。
その際、公孫氏が魏に滅ぼされたことや、属国の王の方が郡出先機関の長官よりも上位であるため、「伊都国」の方が「邪馬台国」よりも下位になる。結果、魏から下賜される建前で弁辰の鉄が「女王国」に輸送されるが、その交易船の護衛を「安曇氏」がその縄張りである東北部九州の海域でしたと考えられる。)
南方の狗奴国(紀伊)だけは、おそらく異民族(襲:そ)であるため、女王国に従わなかったが、この朝貢関係をとりしきることで、かろうじて邪馬壱は魏の領事国として、大国としての面目を保つことができた。
(筆者注:
私個人的には、
「女王国」と敵対したとされるその南方の「狗奴国」とは、有明海から上陸した「濊(わい)人」と、「倭人」に誘致されてそれに加勢した山野系縄文人「熊襲」と海洋系縄文人「隼人」で構成された勢力圏のことだった
彼らは日向で「濊(わい)人」に陸戦部隊、海戦部隊として養兵され、「倭人」によって調達された軍船により水軍を構成した
と考える。
交易関係を締結維持するための朝貢交易は外交的・儀礼的なもので、その後にルーティンとしての定期的な交易活動が繰り返された。「狗奴国」の水軍は、魏の鉄素材をのせた「女王国」の交易船の帰り船を繰り返し襲った。卑弥呼は魏に窮状を訴えているから、「狗奴国」の襲撃と略奪の被害は甚大だったのだろう。)
日向三代神によって作られた日向(ひむか)軍団に関わる経過も、経済的文脈から見ると、軍事的文脈とは違ったものが見えてくる。
日向三代神とは、アマテラスの命をうけて降臨したニニギノミコト
それがコノハナサクヤヒメと結婚してできた子の海幸彦山幸彦、ホデリノミコトとホオリノコト
さらにその子の、東征する神武天皇の父であるウガヤフキアエズノミコト
の三代である。
「日向三代」は、
軍事的文脈では「濊(わい)人」が南九州に転住して兵を養い畿内侵攻計画を周到に用意した時期に相当する。
私は、
日向三代神の神話の中の二代目の海幸彦山幸彦譚こそが
「濊(わい)人」を先導した「倭人」の中国文明商材の新規市場の開拓という目的と
「濊(わい)人」の「倭人」に交易利権を独占させてその上前をはねるという目的を
原理的に正当化する物語になっている
と考える。
具体的には、
縄文以来の自俗的な「贈与経済」を兄の海幸彦が象徴し
すでに貨幣を用いていた中国文明的な「交換経済」を弟の山幸彦が象徴し
後者を海上交易民を象徴するオオワタツミの娘、トヨタマヒメが応援することで
前者優位から後者優位にパラダイム転換する物語
と言えるからである。
「贈与」経済は、「負い目感情」の経済である。弟が兄から借りた釣り針をなくして「負い目感情」を抱く。
弟は、オオヤマツミやトヨタマヒメの力を借りて、千本の釣り針で弁償しようとし、実物を見つけて返却して現状復帰しようとする。それは「交換」経済であがなおうとしたということである。
それを兄は許さなかった。これは兄があくまで「贈与」経済に立って、弟が抱いた「負い目感情」を相殺しようとしなかったということである。
最終的に弟が兄を降伏させたことは、「贈与」経済に対する「交換」経済の優位、ないしは「贈与」経済から「交換」経済への転換を暗示している。
また、
「贈与」経済に立った兄の海幸彦は、暗黙裏に「定住民性」を暗示している。
兄が弟に降伏したのは、弟がトヨタマヒメからもらった「潮満玉(しおみつたま)」と「潮乾玉(しおかるたま)」という満潮と干潮を操作できる宝玉を使って満潮にして溺れさせ、干潮にして助けるを繰り返して懲らしめたからで、逃げ出さずに降伏したのは「定住民性」ゆえである。
八十神に二度殺されてスサノオのいる根の国に逃げさらにそこから元に舞い戻ったオオクニヌシが「転住民性」を示していることと対照的である。
そして、
弟の山幸彦は、トヨタマヒメに海神の宮に連れて行かれて帰還するといった「転住民性」を明示している。
「贈与」経済から「交換」経済への転換を暗示する海彦山彦譚は、
「転住民」である侵攻征服者および交易拠点開拓者の「定住民」に対する優位性を暗示していると言える。
詳しくは、
「『古事記』が記した日本人の<社会人的な心性>のベース=<部族人的な心性>(9:結論/前半)」
(オオワタツミは協力的な海洋系縄文人を象徴し、それは本来その筆頭は「倭人」である筈だが、記紀では「安曇氏」の祖神であるとされる。)
母の妹(つまり叔母)であり、育ての親でもある玉依姫と結婚した。
五瀬命(いつせ)、稲飯命(いなひ)、御毛沼命(みけぬ)、若御毛沼命(わかみけぬ)の四子をもうけた。
難航する神武東征において、五瀬命(いつせ)は長髄彦に射られた矢の傷が悪化して戦死し、御毛沼命(みけぬ)は入水し、オオクニヌシとともに「国造り」をして突然去ったスクナヒコナと同様に常世へ渡り、稲飯命(いなひ)は入水し母のいる海原へ去った。
そして末子の若御毛沼命(わかみけぬ)が「邪馬台国」を降伏させて、神倭伊波礼琵古命(かむやまといはれびこ、後の神武天皇)となる。
ちなみに常世は、海の彼方または海中にあるとされる理想郷であり、マレビトの来訪によって富や知識、命や長寿や不老不死がもたらされる「異郷」であると定義されている。
これには、遠隔地海洋交易によってネットワークする遠隔地のイメージが重なる。
万葉集では、浦島太郎が行った竜宮城(海神の宮と重なる)も常世と記され、現実の世界とは時間の流れが著しく違うとされる。
このことから不老不死の「楽園」を表すともされる。
これは、海難の可能性ある遠隔地航海に生死をかけても、帰還すれば巨利を得られる遠隔地海洋交易の特徴を連想させる。
ネットワークする遠隔地が遠いほど、わざわざ時間をかけて持ってくる物事に希少価値がある訳だが、利益を上げる原理は「交換価値の不均等」であり、遠隔地は不朽の利益源泉であるゆえ「楽園」なのである。
定住拠点にとどまっている「定住民」には決してできない冒険と、決して得ることのない巨利を得ることが、遠隔地海洋交易の出立と回帰との間で生じる時間の歪みで暗示されているとも言える。
「転住民」である遠隔地交易民の時間感覚は、「定住民」のように線的でもなく、循環的でもない。
日本書紀の天照大神から倭姫命への神託では、伊勢を常世の浪の重浪の帰する国(「常世之浪重浪歸國」)とある。
ヤマトヒメノミコト(倭姫命)は第11代垂仁天皇の第4皇女で、天照大神を伊勢の地に祀った皇女とされる。それが斎宮の直接の起源であるとも伝えられている。
東夷の討伐に向かう日本武尊(倭姫命の甥王にあたる)に草薙剣(天叢雲剣)を与えている。
ヤマトタケルが野火に囲まれて草を薙いで難を乗り越えた、つまりは草薙剣を持っていたために延命し、後に妻の床のかたわらに置いてきたことが致命的となった。よって、草薙剣城は軍事的文脈では武力や呪力を象徴する。
しかし一方で、草薙剣は、経済的文脈では支配層の威信財である剣という中国文明商材に他ならない。
出土する古代の剣は古いものほど中国製であったり中国様式に忠実に従うものである。
初期ヤマト王権は、統一的な「領域国家」を目指して体裁を整えても、その「管理貿易」に従わない勢力が残存した。ヤマトタケルの西討東征譚は、言わば密貿易をする地方豪族の成敗であって、同時にそれはヤマト王権がもつ鉄剣の優位を暗示している。
それは、密貿易をやめてヤマト王権の「管理貿易」体制に従うならば、優位の鉄剣を分与するというメッセージにもなっている。
おそらく、初期ヤマト王権の段階で、軍需装備品の独占的調達者である「安曇氏」が製造した鉄剣の地方豪族への分与が行われ、その権威づけのために草薙剣譚が創作されたのではなかろうか。
私は、「濊(わい)人」が「邪馬台国」を降伏させ、その後、降伏させた「テュルク族」を率いて出雲を圧迫して「国譲り」をさせたと考えるが、それですぐに初期ヤマト王権の支配体制が確立したとは考えない。
なぜなら、
降伏した筈の「邪馬台国」ないし「女王国」の名代として壹与が、魏から転じた晋に朝貢しているからである。
「濊(わい)人」は卑弥呼に代わる女王として、傀儡化した台与(壱与)を擁立し、建前的には下した「邪馬台国」として魏に朝貢させている。
ここれは、明らかに、
初期ヤマト王権において「濊(わい)人」首長層が
整っていない新王朝としての体裁を整えることよりも
「邪馬台国」がしていた魏との交易の継承を優先した
ということである。
魏志倭人伝では「邪馬台国」のことを「女王国」と呼ぶことの方が圧倒的に多い。
これは、女王がタブーである中国からすれば軽侮を含んだ呼び名である。
その蔑視のニュアンスは当然、新女王台与(壱与)にも及んだ筈だ。
これに関して、
傀儡として台与(壱与)を擁立した黒幕の「濊(わい)人」首長層と
その外交ブレインともなった政商型交易民「安曇氏」は、
それでも中国(晋)から舶載品を持ち込んで
新王朝を中国文明商材の一大新規市場の端緒を立ち上げることができるならば良し
というスタンスだったのだと思う。
卑弥呼が魏から下賜された「銅鏡100枚」がどのような鏡だったか諸説ある。
確かなことは、
◯その後、多数の舶載鏡=中国鏡と、それを模倣してつくった仿製鏡が登場していること
◯古墳出土の鏡では、特に三角縁神獣鏡の、同じ鋳型からつくられた同范鏡が多く、
九州から関東まで多くの古墳に副葬されていること
である。
後者は、ヤマト王権が前方後円墳を標準化して全国展開した際に分与されたと考えられている。
ちなみに、同范鏡は中国ではほんの僅かで、日本では非常に多く、特に多いのが三角縁神獣鏡である。
古墳の副葬品と、すでに触れたように古墳の造営に要するヒトとモノも中国文明商材の一大新規市場と言える。
副葬品は、被葬者を権威化する威信財であり、同時に生前の生活や仕事を象徴化するものであった。
つまりは、古墳に埋葬されるような支配層の生前の生活時空、仕事時空から中国文明商材の一大新規市場になっていったと言える。
(補説)
南九州の「伊勢」と「阿多隼人」とその産鉄について
ちなみに、アマテラスを祭る所を伊勢とすると、伊勢は南九州にあったという説がある。現在でも鹿児島県伊唐島では、八代海のことを伊勢海と呼ぶ。これは武智氏の「濊(わい)人」が有明海に上陸したという主張と重なる。
また、鹿児島県の北薩一帯を中心に「伊勢」関連地名が多く存在し、鹿児島県には24社と日本で最も多くの伊勢神社と称する神社が存在する。万葉集には長田王の歌として伊勢に遣わされた時に詠った歌や筑紫の旅の歌とされる6首があるが、長田王が遣わされた伊勢は現在の八代周辺の南九州にあったという考えもある。
伊勢の枕詞が「神風」であることについて、三重県は台風が多くないし紀伊半島に遮られ大風も吹かない一方、南九州は台風が頻繁に接近通過することが指摘されている。
私が注目したいのは、
『日本書紀』巻六垂仁天皇二五年(丙申前五)三月丁亥十や『倭姫命世記』に、
伊勢國は「傍國可怜國(かたくにのうまし国)」との表現があり、
これは「その海岸には干潟が出来て、それがだんだん陸地となるというまことに結構な国である」との意味である
ということである。
これは、古代の海洋交易拠点として結構な地形であると言っているのではないか。
出雲の島根半島西部の環日本海交易ネットワークのハブ拠点があったと思しき神門水海の、出雲大社の大鳥居が立つ丘陵頂から外海の日本海とともに足元から見下ろせただろうその北半の河口地帯もこれであった。
この表現のような、堆積物による自然陸化と干潟の干拓による地形が三重県にはないことが指摘されている。
一方、有明海は日本最大の干潟ができることで有名である。
紀伊半島の伊勢は、古代の海洋交易拠点としては、河口に干潟ができるような結構な地形ではなかった。
しかし、海からの伊勢神宮への貢進や熊野参詣のルートとして海運が古くから盛んで、むしろそもそも海運が盛んだった要衝近くに伊勢神宮が整備されたと考えられる。
倭姫命は天照大神に長く仕えた巫女のような存在であり、天照大神鎮座の場所を探し宇陀篠幡(うだのさきはた)へ行き、さらに近江・美濃をめぐって伊勢国へ至り、斎宮(いはいのみや)を五十鈴川のほとりに立て磯宮(いそのみや)と称し、ここが天照大神が初めて天から降りた場所とされた。
そして、
この倭姫命の環伊勢湾地方の巡行は、後世、伊勢神宮の最初式年造替を準備した持統天皇が繰り返した巡幸と重なる。
後者は、伊勢神宮を消費センターとするその祭祀や建て替えに必要な主要産品の生産拠点を「信仰共同体」としてネットワークする後背地経済圏づくりであった。
それは持統天皇が発案したことではなく、そもそも前者の倭姫命の巡行に磯宮の祭祀準備としてのそういう性格があったのではないか。
伊勢に隣接する志摩の熊野灘に沿ったリアス式海岸の良港は古くから造船や水軍の拠点となった。
遡れば縄文人の海洋交易民の母港が分布した海岸エリアだったと考えられる。
それは、「神武東征」の終盤に「阿多隼人」に先導された一気の海上東征のように、九州の南沖合から黒潮にのって一気に辿り着ける海岸エリアでもあった。
決して途中で奪われてはならない超貴重な舶来品や、舶来の貴重な知識や技術を担う大陸の高度人材を、外洋を高速で航海してで安全にヤマト王権中枢に伝来させる、渡来させる上では鍵となる拠点港があった可能性が高い。
この文明の波が繰り返し来ったことから「常世の浪の重浪の帰する国」とされたのではないか。
つまり、
環伊勢湾地方の全体を俯瞰すれば、
伊勢湾岸では、環伊勢湾地方を互いに結ぶ近隣交易の沿岸交易が展開して
熊野灘沿いのリアス式海岸では黒潮にのって外洋航海が可能な高速航海船によって遠隔地交易が展開した
と考えられる。
そして後者は、決して奪われてはならない超高級品を大陸から輸入する際や、超高度人材を大陸から招聘する際、北九州沿岸から関門海峡を抜けて瀬戸内海を通って大阪湾に至るルートよりも、海賊のリスクや地方豪族の縄張りの通関を避けてより迅速かつ安全だった。
「熊襲」「隼人」が反抗的に描かれるのに対して、「阿多隼人」はその祖を海幸彦とされ、仁徳紀で天皇や王子の近習であったと早くから記され、雄略天皇が亡くなり墓の前で泣いたなどの記事がある。それは、天皇の私的な家来であることを示すとされる。
私は、
それは近畿にとどまった「阿多隼人」が天皇の私経済や「濊(わい)人」首長層との直接的な関係を持った
外洋を行ける高速航海船の造船と操舵において彼らに近侍した
と考える。
境界祭祀を司るとみられる「境部(境合部)氏(さかいべうじ)」の系統は7氏あるとされ、この内、大和国宇智郡(現五條市原町おおすみ)境合部が「隼人」系と見られている。奈良県南西部の吉野川沿いの五條市は、東へ伊勢街道、西へ紀州街道、南へ西熊野街道、北へ下街道がのびる交通の要衝で、水運の中継集散地である。
初期ヤマト王権樹立時には、大和地方の祭政拠点の表玄関が難波方面に向いていて、いざという時に逃走路になる裏口は五條方面に向いていたと考えられる。
そこの境合部が「境部(境合部)氏」系だったということは、征服者であり少数民族である「濊(わい)人」首長層が信頼する征服協力者の「阿多隼人」に逃走路を確保させ、熊野灘沿いのリアス式海岸からの外洋航海による言わば高跳びを用意させていたということではないか。
「阿多隼人」の本拠地は薩摩半島の西岸の吹上浜である。
吹上浜はその地名から、航海船が風を待って出帆するのに適した浜だったのではないか。
また、吹上浜は日本三大砂丘の一つで、金峰山の麓から流れてくる万之瀬川の河口は、
伊勢國は「傍國可怜國(かたくにのうまし国)」
「その海岸には干潟が出来て、それがだんだん陸地となるというまことに結構な国である」と表現された地形と似た地形だったと考えられる。
「阿多隼人」以外の「大隈隼人」など他の「隼人」は、もともとは南西諸島から南九州を行き来して島嶼交易をしていた縄文人交易民である。
一方、
「阿多隼人」は、もともとは中国南部で上陸を許されなかったマレー人の遠隔地交易民で、最終的に阿多の地に渡来した者である。彼らは鉄生産能力と外洋を向かい風でも行ける航海船の造船と操舵の能力を持った。その鉄生産能力とは、大陸の北の「赤鉄鉱・磁鉄鉱による高温製鉄」ではなく、大陸の南の「褐鉄鉱による低温製鉄」だった。
彼らが阿多を拠点とした理由は、吹上浜(伊作田)で砂鉄(磁鉄鉱)がとれたためとするよりは、褐鉄鉱の露頭やパイプ状ベンガラ(オレンジ色の浮遊物・泥状のもの)がとれる湿地帯があったからとしたいところだが、そのような情報は得られない。
ところが、薩摩半島南端部より南へ約38キロに位置する火山島である薩摩硫黄島の長浜湾に、今日も鉄に富む海底温泉が沸いていて、湾内の海水が赤褐色に変色している。湾内が閉鎖的であるため水酸化鉄の沈殿や堆積が起きやすい環境にあるという。非晶質の3価の鉄を主とする水酸化鉄や酸化鉄黄土、鱗鉄鉱や針鉄鉱の総称が褐鉄鉱である。薩摩硫黄島で採取した褐鉄鉱を含んだ泥を吹上浜に運び、砂丘に設けた塩田の塩作りのように、広大な浜を利用して水分を蒸発させて濃縮する作業をしたのではなかろうか。その際、「阿多隼人」は阿多での産鉄に専念し、鉄素材の原料となる褐鉄鉱を含んだ泥の薩摩硫黄島からの採取と搬入は「隼人」たちに人海戦術でやらせたのではなかろうか。
(縄文人交易民の「隼人」は、南西諸島から南九州にかけての各海域で島嶼交易や沿岸交易をしていた。それを渡来人の「阿多隼人」がまとまりある遠隔地交易に組織した。 「神武東征」に備えた「日向三代」では、大陸の文明文化と接していた朝鮮半島南端と北九州沿岸を拠点とした縄文人交易民の「倭人」が、従来から九州西岸で交易関係にあった「阿多隼人」に「濊(わい)人」への加勢を誘った。「阿多隼人」は南西諸島各海域の「隼人」たちを率いて加勢し、鉄製の工具と部材を必要とする外洋を向かい風でも行ける高速航海船を建造し、「隼人」の一部をその乗組員に育成したと考えられる。 「阿多隼人」に動員された「隼人」たちは「神武東征」後、薩摩半島から大隅半島に分布し、奈良時代にかけてそのまま留まった者と、南西諸島の故地に戻った者がいた。またヤマト王権に反抗した者、服従し上京して様々な奉仕をした者がいた。)
交易利権を目指した「倭人」を調達利権を確保した「安曇氏」が出し抜く
たまたま昨夜、通販レンタルビデオで中国テレビドラマ「クィーンズ 長安、後宮の乱」を見た。
ドラマは、前漢の本始二年(紀元前72年)から、漢宣帝時代末期から綏和二年(紀元前7年)に漢哀帝が即位するまでを舞台にしている。
その前に見終えた中国テレビドラマのシリーズは「美人心計」だった。漢の高祖(在位,前202年―前195年)である劉邦が亡くなった後、呂皇后が漢王朝の実質的な支配者となりライバルである側室薄姫と争う、これに巻き込まれたヒロインの物語だ。
こららのドラマはまさに宮廷や朝廷の「中国文明商材」の見本市として見ることができる。
本論で検討している「中国文明商材」とは、その新規市場開拓としての征服王朝樹立の目論みに関するものであり、市井に出回る地産地消型の民需商材ではなく、国際的に輸出入する遠隔地交易型の官需商材を前提にしている。
商材というプロダクトには、原材料や完成品といったハードだけでなく、それを製造する技術や技術を担った高度人材というソフトやサービスも含まれる。
ハードな製品市場の筆頭が、
宮廷で使われた衣服や宝飾品と王宮の建築と内外装、寺院で使われた衣服や祭具と寺院の建築と内外装であり、それが朝鮮や日本の王宮や王都の中華型デファクトスタンダードになって極東グローバル市場が形成されていった。
無論、
朝鮮半島や日本列島といった東夷の「くに」や「国」の「中国文明商材」の需要は、購買力や文明文化の進展度合いに応じて、とても本家中国には及ばないレベルから出発している。
ただ、
小国群が連合する「くに」から統一的な「領域国家」に転じる過程で、宮廷や朝廷の「中国文明商材」が本家中国を模倣するようになったことは確かである。
朝鮮半島において「領域国家」とその「管理貿易」が台頭し、それまで小国群分立状態で未勝目料をとってまわれていた武装移動性に富んだ騎馬民族の二重統治者「濊(わい)人」と、それまで縄文以来の「自由貿易」を生業としていた海上移動性に富んだ交易民「倭人」が、ともに食いっ逸れる。
当時、中国文明商材の市場は、本家中国の宮廷と朝廷、諸侯王の都城、豪族や豪商の邸宅、国の寄進によって建立された寺院くらいしかなかった。
朝鮮半島では三韓(馬韓・辰韓・弁韓)の「境界域」である弁辰に、中国由来の亡命産鉄民とそれに同行した亡命交易民が結集して「交易ビッグマン」が自由に行き来するハブ型交易拠点が形成され、中国由来の王を権威づけするべく三韓の王宮も中国文明商材の市場化しはじめていたと考えられるが、その市場規模は中国の諸候王にも比べるべくもない貧弱なものだったと考えられる。
そして、
三韓がそれぞれ小国群を統一して百済・新羅・任那加羅に「領域国家」化し、その王宮や朝廷がより中国文明商材の市場化するが、「管理貿易」化によってそれまで一般的だった「自由貿易」が圧迫されていく。
ただし、
弁辰のハブ型交易拠点では、どの「国」に属さない経済特区であり、「自由貿易」前提で交易活動をする「倭人」の「交易ビッグマン」と、その安全保障を担う「濊(わい)人」首長層とが恊働関係にあった。だがその前途に先細りを予感した両者は、「濊(わい)人」が「倭人」のバックアップで日本列島に侵攻し征服王朝を建てることによる、中長期的な中国文明商材の新規市場の開拓と独占の戦略を構想して推進していった。
「領域国家」の台頭やその「管理貿易」によってともに食いっ逸れるくらいなら、運命共同体となって新しい「領域国家」をつくり、「倭人」がその「管理貿易」を独占して「濊(わい)人」に上納するというサバイバル構想である。
それは大胆ではあるが、両者によるそれまでの交易活動と安全保障の協働のシンプルなバージョンアップであった。
日本列島は、いまだ国群分立状態でそれを脱する気配なく、「濊(わい)人」の騎馬武力を持ってすれば、日本列島最強の「邪馬台国」を制圧してそれが連合する「くに」ぐにを統一することは可能だと、彼らは考えた。
縄文時代以来、朝鮮半島南端と北九州沿岸を本拠とし西日本各地とも交易してきた「倭人」が、その海上移動性をもって兵卒や兵糧の輸送をすれば、「濊(わい)人」の騎馬軍を南九州に上陸させることが可能であり、さらに縄文人交易民だから山野系縄文人の「熊襲」や海洋系縄文人の「隼人」の加勢を誘導することも可能だった。
この時代の冒険的な遠隔地海洋交易において、
リスクを最小化し利益率を最大化する商材は、なるべく小さくて軽い希少価値の高いモノだった。
ただし、
王の印璽などの使い手と需要が極端に限定される稀少な特注品では大規模市場にはつながらない。
また、
先進技術は中国の官営工房が握っていたから、技術的優位性で完成品の希少価値を創出することはできなかった。
皇帝の冠や皇后の宝飾品の類いは、中国国内では諸侯群においてそれなりの規模の需要があり市場を形成しただろうが、朝鮮半島や日本列島の「くに」ぐににはそれを大量に買い取る財力はな買った。
よって、
そういう舶来の華美なモノの使用をいかに少なく済ますかが、中国文明商材の新規市場の立ち上がりにおいて工夫された。
さらに日本の朝廷文化・宮廷文化では、むしろ簡素を美徳とする美意識が積極的に形成され、それが日本民族の認知表現パターンとして今日まで継承されている。
王都や王宮の大部分が木造で、石造の基礎や石畳、版築の壁が最小化されたことにも、同じ経済的条件と同じ美意識が働いたように思われる。
そのため、
「美人心計」や「クィーンズ 長安、後宮の乱」に登場する妃たちのファッションはきらびやかさを極めるが、初期ヤマト王権の宮廷はきらびやかさを限定して一点豪華主義とし、後の宮廷文化の美意識ではそれを奥ゆかしさとして継承したと言えよう。
思うに、
「倭人」は、征服王朝が統一的な「領域国家」になれば財力が集中して、少なくとも中国の諸侯レベルの都城が建設され中国文明商材の新規市場が相応の規模をもって形成されると予測したのではなかろうか。
しかし、
徴税の中央集権化が徹底しない初期ヤマト王権においては、財力が政権に集中しなかった上に、簡素な奥ゆかしさを良しとする美意識が根強くなり、中国文明商材の新規市場は予測した規模では形成されず、期待を裏切られたのではなかろうか。
そこに、「領域国家」の政商型交易者の経験なしにその交易利権の独占を目指した「倭人」の限界があった。
一方、
そうした征服王朝の現実に対応したの「安曇氏」で、彼らは中国の巨大「領域国家」の外臣化した政商型交易者としての百戦錬磨の経験から、単純な交易=輸入利権だけにこだわらずに、加えて国内で生産しての調達利権を確保した。
畿内の中央政界に留まった「安曇氏」は、「物部氏」として軍需装備品の調達利権を独占し、同様の「倭人」」=「大伴氏」と双璧をなしたが、同時に交野に鉄器製造拠点を設け「肩野物部氏」として鉄器の調達利権を独占した。これは朝廷の国軍の武器需要に応えるもので、征服王朝がその支配の生命線として最優先するものである。「安曇氏」は、軍需装備品の最新モデルを中国からサンプルとして輸入しすぐに自前で製造して調達する体制を整えたのだった。
このような国内生産を前提にした調達利権を確保するには、当然、天皇(そしてその後ろ盾の「濊(わい)人」首長層)の意向に即応するべく畿内に留まらねばならなかった。
「倭人」の大方は西北部九州に留まり、朝鮮半島南端と北九州沿岸に挟まれた縄張り海域を活動海域とすることにこだわったために、これはできなかった。彼らは西北部九州で活用できる単純な交易利権にこだわったのである。
中国文明商材の新規市場開拓戦略に貢献する輸入品目で、なるべく小さくて軽くしかも希少価値が高いモノとは、「ある程度、量産される貴重品で、ある程度の量が反復して消費されるもの」でなければならない。
その分かりやすい典型が、銅製および鉄製の文様や宝飾を施した鏡である。
それは、鏡が軽量小型ということではない。枚数が多量になれば嵩張り重い。
そうではなくて、国内での量産を可能にする舶載鏡というサンプルが、それを元に国内で最終的に量産される仿製鏡に対して相対的に「小さくて軽くしかも希少価値が高いモノ」ということになるということなのである。
魏は卑弥呼の朝貢に対して銅鏡100枚を下賜している。これは(魏呉蜀の)呉製とされる。
私個人的には、
これは魏が呉を滅ぼした際の戦利品で、呉風の銅鏡を魏の王宮で使う訳にもいかず取っておいたものを、ちょうど朝貢してきた東夷に下賜した
と推察している。
現代の日本に爆買いする中国人観光客が訪れるようになった当初、彼らは友人知人へのお土産をたくさん買って帰った。魏は、朝貢使を遣わせた卑弥呼がその成果を誇るべく周辺の支配層に配り与える使い勝手を前提に、この銅鏡100枚を下賜したのではなかろうか。
そして、この100枚の銅鏡かどうかは別として、日本では三角縁神獣鏡など同じ鋳型で量産された同范鏡の存在の多さが中国にはない特徴となっている。
これは、「ある程度、量産される貴重品で、ある程度の量が反復して消費されるもの」の典型と言える。
「女王国」があったとおぼしき「宇佐の地」から内陸に入った肥田地方で、「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」という中国製の宝飾鉄鏡が見つかっている。
これなどは、魏の曹操が同じ鏡を持っていたとされ、西日本で模造しても当時、購買力を持った者がいたとは思えない。
私個人的には、
これは「テュルク族」の魏朝貢交易を補佐していた「安曇氏」が、鉄器製造能力があった「テュルク族」に同様のものを造らせようと、呉から職人とともに持ち込んだサンプルだったのではないか
そして「安曇氏」は、もっと簡素化したものを量産して朝鮮と西日本の「くに」ぐにの支配層の日用品として売り込もうと考えたのではないか
と推察している。
その真偽はともかくも、
中国から日本列島でも需要がありそうな舶来品を輸入し、需要が確認されればそれをサンプルにして日本列島内で模造品を自前製造するというパターンを、「安曇氏」がヤマト王権樹立の以前からやっていたこと、あるいは他者にやらせていたことは間違いない。
そして、それに際して必要な専門知識や専門技能をもった高度人材を招聘したり入植させていたことも間違いない。
それは商工民に限らない、稲作民でも大陸の先進的な稲作をする稲作民でもあり得た。
「安曇氏」は越が楚に滅ぼされた際、その遺民の稲作民を越(こし)=北陸に入植させている。この越の稲作民とは、越王勾践のもとを去った范蠡が山東半島の南に連れて行った稲作民と同じ、稲作北限を北上させた稲作民だったと考えられる。
正確には、温帯ジャポニカを乾田稲作した高品質な商品米で、これを消費地の華北地方の近くで量産することで范蠡は巨富を築いたのだった。
一方、当時の「安曇氏」はまだ北部九州で「倭人」や「出雲族」と共生していて、まだそこで排他的な版図を主張する「くに」を建てて、大規模稲作拠点を群展開することができない段階にあった。そこで、「安曇氏」は大規模稲作拠点を群展開できる先として、「出雲族」の勢力圏の山陰や瀬戸内地方や環浪速潟地方を飛び越えて、
越(こし)=北陸を想定した。しかしその寒冷な気候で稲作をするには、温帯ジャポニカを乾田稲作した高品質な商品米の北限を北上させた越移民の稲作民の技術を必要としたと考えられる。
このように、政商型交易民の「安曇氏」は、需要のある交易品目に目がいくだけでなく、それを生産する拠点づくりをするという発想思考と行動パターンを実践してきていた。
サンプルとして舶来品を輸入し、その製造技術の移転のために中国人職人を招聘し、生産拠点に原材料とともに投入して、製造調達体制を構築していく。
そういう行動パターンがもともとあった「安曇氏」は、初期ヤマト王権においても、「物部氏」が軍需装備品の製造調達、「肩野物部氏」が鉄器製造拠点を儲けて鉄器の製造調達を同様の行動をとった。初期ヤマト王権に下った「出雲族」や「テュルク族」の産鉄民を再編したのだろう。
中国文明商材の新規市場の開拓と独占の戦略に資する交易としては、
「倭人」のように交易=交易産品というモノの輸出入と短絡するか
あるいは
「安曇氏」のように交易=技術や文化や産業というコトの移転と捉えるか
でまったく次元の違う発想思考と行動をとることになった。
宮廷文化の象徴である高価な絹に鮮やかな刺繍を施したような衣服や宝石や貴金属の贅を凝らした宝飾品も、当初は希少な舶来品を、限られた高貴な者が身につけるべく輸入したが、それでは市場規模は限られて成長性も見込めない。
すぐに専門の渡来人を配属させた織部司(おりべのつかさ)などの官営工房で量産して朝廷内に普及させた。
国産で代替できるものは国産で済まし、どうしても舶来でなければ手に入らない原材料や高度技術による製品だけが輸入されたと考えられる。
このような新王朝の朝廷や宮廷の中国文明商材の新規市場の現実を踏まえた諸条件に即応した調達ビジネスモデルを構築して利益を上げることに、政商型交易民の「安曇氏」の本領が発揮された。
しかし、朝鮮半島南端と北九州沿岸に挟まれた縄張り海域を行き来する交易にこだわる縄文人交易民「倭人」には、技術移転や産業育成のような行動はできず、どうしても朝鮮半島からのモノの輸入と高度人材の招聘に終始したと考えられる。
そもそも、
呉の遺臣を祖とする「安曇氏」は、滅亡した呉を追われた時以来、言わば海を介した「転住民」性があり、それを活かして長い歴史の荒波を乗り越えてきたのに対して、
朝鮮半島南端と北九州沿岸に挟まれた縄張り海域を行き来する交易に終始した「倭人」は、言わば海を介した「定住民」性があり、それにこだわることでサバイバルの仕方が限定された
と言えよう。
宮廷朝廷における中国の豪華絢爛に対する日本の清楚素朴について
経済的文脈に沿って俯瞰して改めて感じるのは、
中国古代の宮廷建築の内外装の豪華絢爛であり
対するところの日本のそれらの清楚素朴である。
中国の宮廷では宝物を至る所にこれ見よがしに展示しているのに対して
日本の宮廷ではまるですべての宝物を宝物殿に隠したかのように殺風景である。
そこに中国人と日本人の美意識の違いを見出すことができるが、それは結果であって原因ではない。
原因つまり由来には大きく3つの系統が考えられる。
①
初期ヤマト王権という征服王朝を建てたのは騎馬民族の「濊(わい)人」だったこと。
騎馬民族は、遊牧生活を「移動民」としておくり、異民族支配を「転住民」として展開した。
それは、継承すべき財産が基本的には動産であって不動産ではないという特徴をもった。
その首長は首長層から交替制で実力主義で選任された。
つまり、首長層は特定の家系ではあるが、一つの首長の家系だけで世襲される訳ではなかった。
つまりは、富の蓄積が特定の首長の家系に集中することがないという特徴をもった。
以上の帰結として、
中国王朝のような堅固な城塞都市や都城といった不動産の集積地を都の拠点として固定化することなく、
家畜や奴婢などの動産をともなって移動したり転住することに終始した。
よって、
移動や転住に対応するべく、宝物で飾り立てるような宮廷をもつことなく、
運搬が負担になるほどの宝物を蓄積する志向を欠いた
と言える。
日本の天皇も藤原京までは、天皇の代替わりのたびに宮処を移して「転住性」を示したが、
それは騎馬民族由来の継承形式の動産を不動産に置き換えたものと捉えることができる。
そして、
継承する不動産は「転住性」を妨げない質実剛健と簡素が求められた。
また、
中国の王朝は王家の家系が交代する。特定の家系ということで権威が認められる訳ではない。
あくまで「権力と権威の一致」を前提に、実力主義でどんな者でも権力者=権威者となれるから、
権威=権力を巨大な王城や墳墓そして華美な宮廷や宝飾をちりばめた冠装束で象徴しなければならなかった。
それに対して、
騎馬民族も、その内部では「権力と権威の一致」なのだが、族長は天孫の後裔として権威を認められた特定の家系の首長層から交替制で実力主義で選任される。
つまり、特定の家系という権威が前提となっているから、改めて手にした権力や財力で権威を誇示する必要がない。
中国の王朝の「権力と権威の一致」は、結果論的に天意とされていて、逆に言うと天意を損ねれば首がすげ替えられる易姓革命の考え方である。
それに対して、
騎馬民族の「権力と権威の一致」は、天孫族の後裔という権威者が権力者ともなるという考え方である。
そして、
日本の場合、初期ヤマト王権において、
騎馬民族の「濊(わい)人」が黒幕的なキングメーカーの権力者で
それに擁立された天皇が権威者となり
権力者の意向を権威者が実践するという二重支配から
「権力と権威の不一致」が始まり今日まで続いている。
この場合、
天孫族の後裔という権威者は、表舞台から秘匿された「濊(わい)人」首長層ではありえず、あくまで表舞台に立つ天皇ということになる。ここから始まった「権力と権威の不一致」の構造が、その後ずっと続いている。藤原摂関家と天皇、平清盛太政大臣と天皇、将軍や関白と天皇、軍部や総理大臣と天皇と形を変えて現代にまで存続していきている。
②
日本の天皇は中国の皇帝と違って、天と共同体を媒介するシャーマンという役割を担っているため
天皇が暮らす宮処そして宮廷は政治拠点=権力拠点である前に、その前提として祭祀拠点=権威拠点であったこと。
私たち日本人は、八世紀初頭に確立した律令神道体制のパラダイムで考える癖がついていて、それより4〜500年も前のことまで、後世に編纂された記紀神話の物差しで考えてしまう。
すると、
以上のことが特段、特異なことではないと感じがちだ。
また、縄文人の部族社会では、族長とシャーマンという「権力と権威の並立」があり、縄文人の<部族人的な心性>が弥生人の<社会人的な心性>にもベースとして温存された経緯は、あたかも自然発生的な成り行きのように思えてしまう。
確かに、
そのことを記紀神話に照らしても、
天孫の後裔が天皇という権威となり、権力は時の政権である摂関家や太政大臣や征夷大将軍や関白や総理大臣が担ったという今日に至る歴史を踏まえても、
違和感なく受け止められるから異を唱えにくい。
しかし、
古今東西の歴史で、このような日本の経緯は特殊であり、とても自然発生的に起こりうる経緯ではない。
文明文化後進の「濊(わい)人」が統一的な「領域国家」として初期ヤマト王権の体制づくりをするには、
文明文化先進の、海外交易に連なる日本列島内経済圏を構築した「出雲族」の協力的な一派と、「くに」ぐにを建てて民を直接支配した「テュルク族」の協力的な一派を外戚勢力として取り込まねばならなかった。
その際、
「濊(わい)人」首長層は、その男子たちに「出雲族」「テュルク族」の首長層の女子たちを娶らせ、首長交替制で選任された首長が、首長層内部の力学と外戚勢力同士のバランスを配慮して適切なる男子を天皇(その妻を皇后)に擁立した。表向きには、前の天皇を父、次の天皇をその子とする男系直系の系譜という建前をとった。
この時、本来、イコール天孫族の「濊(わい)人」首長層とその首長こそが、黒幕的なキングメーカーとして実質的な権力者なのだが、表舞台に出ない以上、天孫族の後裔という権威者として機能しない。権威者は、あくまで擁立した天皇である。
そして、
ここがポイントなのだが、
初期ヤマト王権の樹立当初の段階では、天皇の権威の根拠は、「濊(わい)人」が表舞台に出ない以上、「出雲族」「テュルク族」という外戚勢力に依存した。
また、
こういう言い方も可能だろう。
誰もが目前の現実として征服王朝の樹立への経過を知っている時に、「天孫降臨」もへったくれもない。
目前には、文明文化後進の征服者の権力が、文明文化先進の征服協力者の権威を利用しているという現実があった。
しかし、
初期ヤマト王権において、実質的な権力者が黒幕的なキングメーカーの「濊(わい)人」首長層の首長であるものの、彼ら自身がそれを秘匿する体制づくりをしていく。
ここで、
「権力と権威の一致」を前提すれば、文明文化先進の権威を征服協力者の外戚勢力に依存しつづけることが、外戚勢力に権力を奪われることになりかねない。
そこで、
「権力と権威の不一致」を前提にして、朝鮮半島の「国」ぐにで採用されていた天孫降臨譚の日本列島版が物語られたのだと思う。権威を、文明文化先進性の文脈ではなく、神話や呪力といった神秘性の文脈で想定した。
そして、征服協力者であった外戚勢力についても、「出雲族」一派は遡れば天孫族と親戚であるとしたり、「テュルク族」一派は、特に卑弥呼をモチーフに天孫族の後裔とイメージをダブらせたりして、天皇ともども権威が運命共同体的に正統化された。
結果、
天孫族の後裔である天皇は、天の意向を共同体に媒介するシャーマンという権威者となり、
そして天の意向の実態は、黒幕的二重支配者である「濊(わい)人」首長層とその首長という権力者の意向である
という「権力と権威の不一致」体制となった。
天皇が暮らす宮処そして宮廷は政治拠点=権力拠点である以前に、その前提として祭祀拠点=権威拠点であった。
宮処の宮は、天皇が天の意向を「国」に媒介するシャーマンという役割を果たす祭祀拠点=権威拠点であり、かつ遷移した。
黒幕的なキングメーカーの「濊(わい)人」首長層の新首長が、新天皇を擁立しそれによる新しい宮処の造営を利益源泉としたからである。そして、彼らも新しい宮処ないしその近隣に造営時点から暮らした。天皇の代替わりで宮処が遷移する、それに先んじて遷移した。そんな「転住民」性を帯びた彼らの、言わば「人が変わらず場所が変わる拠点」が秘匿された政治拠点=権力拠点だった。
では、
表舞台の政治拠点=権力拠点はどこにあったか、こちらは「邪馬台国」の政治中枢があった「磯城の地」に固定されていて、その県主になる外戚勢力が表舞台の権力者=行政の実務者の役割を担ったと考えられる。つまり「場所が変わらず人が変わる拠点」である。
祭祀拠点=権威拠点で行われた祭祀は、いったいどのような信仰にのっとるものだったのだろうか。
「濊(わい)人」が黒幕的なキングメーカーに徹して表舞台に出なかったのだから、騎馬民族や遊牧民族の信仰にのっとった訳はない。
では、征服協力者の「出雲族」一派や「テュルク族」一派の信仰にのっとったのか。
先ず、「出雲族」は脱国家主義の文明文化先進の遠隔地交易民であり、航海の安全や商売の繁盛を祈る類の実利に結びつく交易信仰をもってはいたが、「国」や「くに」の祭政に役立つような信仰も祭政祭祀も行っていなかったと考えられる。
次に、「テュルク族」は卑弥呼による鬼道が中国の史書に記されているが、征服王朝であることを歴史から削除しようとした「濊(わい)人」が、被征服者の海外にも知れ渡った文明文化後進性を示す信仰をわざわざ継承することはありえない。
結局、
消去法でいくと、渡来系の主要勢力ではなく、全てに共通する被征服者であり被支配者である土着民=縄文人の信仰にのっとるしか無かった。
(私個人的には、このような構造は、共通語としての「和語」の成立でも展開したと考えている。縄文人の文法を「和語」の骨格として、単語や動詞に漢語やテュルク語を混入していって共通語を形成したのではないかと。)
縄文人の信仰とは、風土という具体的な自然に神をとらえるアニミズムとシャーマニズムである。
本来の縄文信仰には、地母神や子を産む性である女性に対する信仰があったが、そういう祭政に活かせないディオニソス的(内容が形式に優越する衝動)である縄文性は排除された。
もっぱら、農本主義に調和しそれを促進する形で祭政に活かせるアポロン的(形式と秩序への衝動)である弥生性だけが抽出された。
おそらく、
縄文信仰を踏まえ、後には標準化された神道祭祀に繋がっていった最初の祭政祭祀は、
中国由来の「出雲族」や「安曇氏」が知っていた道教祭祀をベースにして、
道教の自然崇拝が風水や天地といった形で自然を抽象化して体系立ててきたものを
風土や山川草木といった具体的な様々な自然に神をとらえるアニミズムとシャーマニズムに置き換えて、
独自の祭政祭祀を工夫したものだった
と考えられる。
結果的に、
祭政祭祀の空間は、磐座や神籬の延長にある自然素材を活かした簡素な仮設的なものから始まり、
それが建物として常設化したのが宮そしてその社となった
それは白木造りの木肌が瑞々しさを体感させる、そういう具体的なニュアンスの集中表現だった
と考えられる。
宮そしてその社が実際にどのような建築だったのかは分からないが、
後世、天武持統両天皇が高床式穀倉をモチーフに標準化した白木づくりの神社建築様式の質感の原点はそこに求められる
と考えられる。
つまり、
初期ヤマト王権において、
政治拠点=権力拠点である「都」は
中国の都城と朝廷を念頭につくられ
祭祀拠点=権威拠点である「宮処」は
自然の環境と自然由来の媒体を重要要素とする独自のものとして構想された。
後者が則った信仰は、民=土着民の縄文人の信仰を土台にし、その内の農本主義を調和的に促進する要素(弥生性)だけを抽出したものだった。
具体的には、
三輪山信仰のような縄文由来の山や滝や磐座の自然崇拝、
八百万に神を見出すアニミズム、
縄文人を稲作民化するに際して普及させた豊穣祭祀
などである。
初期ヤマト王権においては、
こうした自然崇拝を基調とする祭祀拠点=権威拠点(宮処)を前提として
空間的にはそれに付随する形で政治拠点=権力拠点(都)が成立した
である以上、
朝廷文化・宮廷文化は、
中国のように四方から遠望できる平原の中央で権力を誇示して
城壁で周囲と隔絶した都城において朝廷の壮大と宮廷の豪華絢爛に向かうのではなく、
盆地のむしろ山裾近くに自然に溶け込むような木造建物群の若々しさと
権威を奥ゆかしく漂わせる装飾や衣装の清楚単純に向かうことになった。
(統一的な「領域国家」を目指す初期ヤマト王権における祭政祭祀を様式化したのは、呉の遺臣を祖として中国の巨大「領域国家」の外臣化してその王朝文化に触れてきた「安曇氏」だったと考えられる。
中国で国家宗教となっていた道教の原初形、自然崇拝を基調とした原始道教を参考にし、道教の自然が風水や天地といった抽象的であるのに対して、風土や山川草木といった具体的な自然を捉える自然崇拝を基調とすることで、道教と差別化した、後の神道に繋がっていう祭政祭祀を工夫したものと考えられる。
それは、「豪族」化した渡来人が、土着民=縄文人を稲作民として管理するべく工夫した稲作共同体の農耕儀礼や稲作共同体群を取りまとめる「くに」の祭政祭祀から出発したのではなかろうか。
当初は、政治拠点(建物群)に近接する山や滝や磐座に仮設的な祭壇を設けてそこを祭祀拠点にした。
やがて政治拠点(エリア)の内部に祭壇や象徴的な稲田を仮設してそこを祭祀拠点にした。
さらに常設的な(エリアと建物群)としての宮とその社を建てそこを祭祀拠点とし、
最終的に政治拠点(エリアと建物群)と合体させ、
それを「宮処」と呼ぶようになったのではなかろうか。
宮とその社を建てた当初段階では、祭壇となる建物は木皮を剥かない生木を使った仮設建築が常設化した程度だった。それは木皮を剥いた生木の白木造りの朝廷や宮廷の建物と意図的に差別化して、自然崇拝を視覚化する建築様式だったと考えられる。
私たちは、三輪山や磐座を御神体としてその前に鳥居や注連縄があるような祭祀空間から、一気に、八世紀初頭に天武持統両天皇によって確立した高床式穀倉をモチーフとした白木づくりの神社建築にイメージを繋げてしまいがちだ。それはまさに、律令神道体制の戦略的コンテンツである記紀神話と、戦略的メディアである神社の建築様式と祭祀様式の文脈にそのまま乗せられていると言える。
しかし、神社建築様式が確立されたり記紀神話が体系立てられたのは八世紀初頭であり、その4〜500年前の初期ヤマト王権樹立当初は、もっと混沌とした宗教情勢があり、祭政拠点での祭祀を様式化する根拠となる信仰もまだ混沌としていた筈なのである。)
③
初期ヤマト王権が、朝廷・宮廷をテコに「中国文明商材」市場を創出しそれを成長軌道に乗せるためには、
今で言う「選択と集中」が必要だったこと。
当初は、朝廷・宮廷の造営や運営に必要な産品を舶載品の輸入という遠隔地交易に依存した。
その際、いくら希少価値があっても、輸送のコストとリスクから重くて嵩張るモノが排除された。
例えば、多数の青銅製の鐘で構成される「編鐘」は日本では採用されなかった。小さな銅鐸のようなものだから国産しようと思えばできた筈だが、サンプルとなる舶載品も入ってきていない。これは逆で、重く嵩張るモノだったから排除され、軽く嵩張らない楽器をサンプルとして輸入し国産化し、それで成り立つ音楽を朝廷・宮廷で標準化して、楽器という中国文明商材とともに支配層に市場開拓していったという順序なのだと思う。
青銅器は、日本でも中国でも権力権威を象徴する威信財の代表だった。
しかし、
中国では、大きく重い鼎やフルセットでかなりの重量となる編鐘が重視されたのに対して、
日本では、銅鐸(当初は小型で後に大型化)や銅剣そして銅鏡など比較的に肉厚が薄く軽量のものが重視された。
これは、
偶然ではなく、また特徴的な認知表現パターンの違いでもなく、サンプルの舶載品の輸入の制約が方向づけたと考えられる。
そして、
中国文明商材全般、国産で代替できるものは国内製造で済まし、どうしても舶来でなければ手に入らない原材料や高度技術による製品だけが輸入されていった。
この時、
国産で代替できるものの国内製造については、徹底的な省資源化・省力化がなされ、
舶来でなければ手に入らない原材料や高度技術による製品の輸入については、品目自体の徹底的な絞り込みがなされた。
結果、
総じて日本が採用した中国文明商材は、重厚長大ではなく、軽薄短小に向かう。
無論、日本が採用して国産化した単品で重厚長大の中国文明商材もあったろう。雅楽で使われる(吊枠の周囲に火焔の形の装飾があり、上方の日月の飾りを入れると高さ数メートルに及ぶ)火焔太鼓の原型のようなものである。しかし、それは太鼓に装飾を組み合わせて巨大化しているアッセンブル商品であった。
(ちなみに、量産化され大型化された銅鐸は、直接的に中国から入ってきた中国文明商材ではない。
朝鮮の小銅鐸に由来するという説があり、また私個人的には、騎馬民族が馬に装着した鉄製の馬鈴に由来すると考えている。それが「フン族」がヨーロッパにもたらして鉄製カウベルになり、「テュルク族」が日本にもたらし銅鐸になったと。)
たとえば、
中国の紫宸殿に林立する大柱は、大木を切り出して運んで来るのが大変だったりそれに彫刻を施すのが大変で、それが政治的な権力の象徴になった。
日本でも、切り出せるような大木が稀少だった訳でも彫刻する職人がいなかった訳でもないから、真似て国産化しようと思えばできた筈だが、柱に象徴的に装飾を施す例は中世の中尊寺金色堂を待たねばならない。
日本の古代は、総じて政治的な権力の象徴化よりも、宗教的な権威の象徴化が重視された。また、有力氏族による神社仏閣の建立のように「大陸文明の導入力」を誇示する政治的な権力の象徴化が、宗教的な権威の象徴化を通じて行われた。
この豪華絢爛ではなく清楚単純に向かう柱も、特徴的な認知表現パターンが原因で結果しているのではなく、経済的文脈の制約や効率を踏まえた結果である。全ての中国文明商材においてそれが継続蓄積したために、日本人の特徴的な認知表現パターンがそのように形成されたということである。
中国の宮廷建築の外構は、ほぼ全体が石造りと版築からなる巨大なものである。皇帝だけがその上を通れる「陛」を筆頭に、彫刻の施された石造部分が重視され、大量の石材と石工の労働力を必要とし、それ故に政治的な権力の象徴になった。
そして、日本でも石材も石工も稀少であった訳ではないから、規模を縮小して真似ようと思えば真似ることができた。
しかし、日本では宗教的な権威の象徴化が重視され、むしろ全てが重厚長大ではなく軽薄短小に向かう。
御所ばかりでなく王都の寺院そして神社までが後世にわたって、石造り部分は土台や階段など必要最小限であり、残りは玉砂利を敷いたり土を露出させたりで、複雑な彫刻が施された石造部分といえば狛犬や灯篭くらいだ。
以上のような3つの系統の原因ないし由来から、
朝廷建築・宮廷建築において
中国の豪華絢爛に対して、日本の清楚単純という対照的な表現パターンが形成された
これは総じて、
経済的条件と権威表現の重視による「中国文明商材」の消費パターンであった
と言える。
「中国文明商材」の新規市場は、
朝廷文化・宮廷文化というトップからピラミッドの裾野にかけて序列性や分野性をともなって普及していった。
このようにして標準化した「中国文明商材」の消費パターンは、
建築においては朝廷宮廷から王都の寺院そして神社へと展開し、衣服や宝飾品や調度品においても大宮人の官需から渡来系有力氏族の民需へと展開していった。
「中国文明商材」の新規市場は、初期ヤマト王権の需給条件によりその当初段階から、単なる輸入産品の交易市場を需要産品を国産化する調達市場へと転換していった。
その際に鍵になったのが、
様々な製品群を製造するのに必要な様々な鉄製工具であり、
何より、どのような工具をいかに使って製品を造るかという知識と技術であり、
それを担う職人や工人集団であった。
鉄素材や鉄製品は日本でも、「出雲族」「安曇氏」、匈奴に同行していて離脱した鉄生産専従民の「テュルク族」、「阿多隼人」などが各地で製造していた。
しかし、中国由来の高度な建築工法と連動した高度な大工道具というハイテク製品は、6世紀の仏教伝来に続く本格的な仏寺の建立を待たねばならない。
私寺の最古は6世紀末から7世紀初頭に蘇我馬子が建てた飛鳥寺であり、官寺の最古は6世紀末から聖徳太子が造立開始した四天王寺である。
本格的な神社建築は、寺院建築を応用した木造建築であるからさらに後で、神社の建築様式を決定したのが伊勢神宮の最初の式年造替で690年、伊勢神宮の建立がその20年前として670年頃、その当時のこととなる。
つまり、
7世紀までは神社仏閣に標準化した建築様式がない段階であり
木造建築の市場は「中国文明商材」の新規市場とはならず、在来の工法と大工道具によった
7世紀以降の神社仏閣に標準化した建築様式が成立した段階から
木造建築の市場は仏寺建立そして神社建立に引っぱられる形で、中国由来の高度な建築工法と連動した高度な大工道具というハイテク製品が普及して「中国文明商材」の新規市場として拡大していった
と考えられる。
兵器の製造管理を主に管掌していた「物部氏」は、5世紀には「大伴氏」と並ぶ有力軍事氏族へと成長していた。
国軍的な「物部氏」は天皇の親衛隊的な「大伴氏」と対立してこれを退けるも、6世紀には「物部氏」が神祇を祀る中臣氏とともに排仏派となり、崇仏派の「蘇我氏」と対立するようになる。
「中国文明商材」の新規市場という観点からみると、
崇仏派の「蘇我氏」は、仏寺建立をテコにしてその創出を狙った革新派となり
排仏派の「物部氏」は、先行市場におけるシェア保全をはかった守旧派となった
ということではないか。
6世紀末、「物部氏」は「蘇我氏」との戦いに敗れて没落していった。
そして「蘇我氏」の私寺飛鳥寺を皮切りに、7世紀、官寺の仏寺建立が展開していった。
「蘇我氏」の勝利の背景には、「中国文明商材」の新規市場の創出と成長を求めた勢力の台頭と加勢があったと考えられる。
「中国文明商材」の新規市場という観点からみると、
絹布に高価な刺繍をほどこした衣装なども、
中国由来のハイテク建築と軌を一にした豪華絢爛ではなく清楚単純に向かう展開をしている。
当初は、舶載品が限られた皇后皇女向けに輸入され、ほどなく渡来人を招聘しての官製工房での製造が始まり、皇后皇女から官女へ、宮廷から朝廷へ、大宮人から主要豪族へと市場が拡大していった。
そして、
「美人心計」に見るような中国装束史からすると地味だった前漢当初の皇后の衣装と類似点の多い十二単が、奈良時代の後期にその原形をなし、平安時代の中期には女房装束の儀服になっている。
征服王朝を樹立し、初期ヤマト王権において黒幕的なキングメーカーとなり擁立した天皇の私経済を利益原泉とした「濊(わい)人」首長層は、天皇の私経済の規模が、朝廷の公経済の規模を上回ったりそれと同程度であった時代までは、その勢力や影響力は隠然として大きかった。
しかし、
徐々に朝廷の公経済の規模が拡大し天皇の私経済を大きく上回るようになっていく。それに従って、その勢力や影響力は減退していった。
もともとは、「濊(わい)人」首長層が取り込んだ征服協力者の外戚勢力をコントロールして擁立した天皇だったが、外戚勢力が自立性を強め、最終的に天皇自身が天皇の私経済を自らの利益源泉としていった。この体制を固定化したのが律令神道体制であった。主要神社を消費センターとする地方経済圏を創成し、それをネットワーク化し、天皇への初物貢納を担う天皇直轄の「贄人」が国内外交易を展開した。
「濊(わい)人」首長層は、もともと黒幕的二重支配者としての立場を歴史の表舞台から秘匿していた。よって、その後裔がどうなったか分からないが、族的結合として公的に認知される氏族になったとは考えにくい。元々は遠隔地交易民であった「安曇氏」と「倭人」の筆頭一派が、軍需装備品の輸入者や調達者の「物部氏」「大伴氏」となり、やがて国軍的なそして親衛隊的な軍事豪族となった。それは、「濊(わい)人」首長層の内の、騎馬武力を誇りそれを表舞台で活かしたいと考えた男子が「物部氏」「大伴氏」に降下したものと考えられる。そして、中央の有力氏族への降下が、地方の有力豪族への降下に展開し、黒幕的二重支配者として「濊(わい)人」首長層は雲散霧消していった、ということではないか。
(騎馬民族による黒幕的二重支配は終焉したが、騎馬武力を誇る武士団に、相応の地位役割を得られなかった天皇の後裔が降下する貴種流離譚が源氏や平家を成立させるなどを展開させる文化的遺伝子が後世に受け継がれていった。)
政治勢力化した「大伴氏」「物部氏」「物部氏」が没落するも
結局、経済勢力のままでいた「安曇氏」がサバイバルした
以上、初期ヤマト王権が樹立した新王朝を、「中国文明商材」の新規市場として主にモノの観点からみてきた。
舶載品の輸入市場は、おそらく「倭人」が「神武東征」の前に期待したように「管理貿易」を独占できたとしても、その市場規模は限定的で中長期的には頭打ちであった。
そして実際には、「安曇氏」が舶載品をサンプルにして国産化をリードした調達市場が、成長市場として拡大していった。
「安曇氏」の筆頭は軍需装備品を調達する「物部氏」で、「倭人」の筆頭も同様な立場にあった「大伴氏」で、ともに軍事豪族として政治勢力化していく。そして結果的に「大伴氏」が「物部氏」に排除された。
そして、
7世紀、仏寺建立が牽引する建築市場と法具市場が成長していく前夜、それまで軍需装備品や鉄器の官需を独占することで勢力を維持してきた「物部氏」が「蘇我氏」に排除される。
「物部氏」を筆頭とする「安曇氏」も大陸の高度人材の招聘や入植を得意としたが、それは主に工人や職人といった労働集約型人材であった。
それに対して、「物部氏」が誇った「中国の文明文化の導入力」は、学者や技術者といった知識集約型人材の招聘によるものだった。
(この点では、「大伴氏」の政治勢力としての全盛期を築いた大伴金村が、6世紀初め、百済からの任那4県の割譲要求に対して五経博士の受け入れを条件にこれを承諾したことは、同じ土俵での「蘇我氏」と競合していたことを示している。そして、「蘇我氏」が金村に百済から賄賂を受け取ったという嫌疑をかけてこれを排除している。)
そして、
乙巳の変で、天皇を凌ぐ権勢を誇った「蘇我氏」が、後の天智天皇である中大兄皇子と後の藤原氏である中臣鎌足に打たれる。
一方、
こうした政争史から距離をおいて、経済勢力に止まった「安曇氏」は、時代の荒波を乗り越えて巧みにサバイバルしている。
「物部氏」のように政治勢力にならずに、経済勢力のままで畿内にとどまった「安曇氏」は、新王朝の体制づくりをテコにした「中国文明商材」の新規市場の創出と掌握に専念した。
当たり前のことだが、大陸から文明文化先進の文物を輸入し人材を招聘するには、日本から大陸に輸出する対価が必要となる。つまり、大陸で受容される国内産品をまとめて輸出しなければならない。
天皇直轄の「贄人」となった中央と地方の「安曇氏」は、その国内ネットワークを独占する「管理貿易」に接続して、この輸出を達成していた。
経済勢力ではあるものの、政治勢力と競合しまた政治勢力から圧迫されるようになっていく。
「安曇氏」は、6世紀半ばの磐井の乱から7世紀半ばの白村江の戦いにかけて、北九州の拠点を失い、全国のアズミに発音の似た地名の交易要衝の各地に分布し、結果、それを交易ネットワークとしてサバイバルしている。
中央で権勢を誇った政治勢力である「物部氏」は6世紀末に没落している。
7世紀の「安曇氏」のサバイバルは、中央と地方の「贄人」のネットワークの拡充によった
主要な政治勢力が、大陸との交流や交易に専念して競合している時代に、敢えて国際的な交易機会から距離をおいて、国内の地方経済圏の創生とそのネットワーク化に専念した
と考えられる。
7世紀半ばの大化の改新で天智天皇が即位し白村江の戦い(663年)で敗戦する頃までは、朝廷の動向は、親百済派と親新羅派の対立に大きく左右された。
天智天皇は、白村江の敗戦までは親百済派で、敗戦後は一転して親新羅派のようになっている。
これは、唐と新羅の占領軍を迎えなければならな かった天智天皇が,唐に対して低姿勢でありつつ唐の直接支配を免れるべく、新羅と連携したためではなかろうか。第二次大戦に敗戦した日本がGHQの支配を受け、それがさった後、今日まで「日米合同委員会」の指導に従う体制となったように、「日新羅合同委員会」の指導に従うようになった。唐と新羅は対立していて、新羅と日本は唐を朝鮮と日本から去らせたいという点で一致していた。
白村江の戦いの前後の天智天皇の動きは、国際問題の一画を占めた動きだった。
逆に言うと、それより前は日本の中の政治勢力同士の政争や、日本と朝鮮にまたがる「濊(わい)人」首長層同士の対立や連携の動きとして総括できる。
私個人的には、こう捉えている。
征服王朝を樹立して天皇を擁立する黒幕的なキングメーカーとなった「濊(わい)人」首長層は、弁辰由来の「濊(わい)人」首長層で、これを朝鮮半島南端の「倭人」がバックアップし「神武東征」勝利の後、中央にとどまった。
一方、
南九州への上陸(「天孫降臨」)や「熊襲」「隼人」の養兵(「日向三代))、そして(「神武東征」の序盤戦である)北九州への侵攻の橋頭堡になった「末盧国」を建てた「濊(わい)人」首長層も、弁辰由来の「濊(わい)人」首長層だったが、これをバックアップしたのは西北部九州にもともといた「倭人」で、「神武東征」勝利の後、九州にとどまった。
ところが、
この両者の利害が対立していった。
なぜなら、中央にとどまった「濊(わい)人」首長層ばかりが新王朝の黒幕的二重支配者として、政商型交易者として「管理貿易」を独占した「安曇氏」(畿内と北部九州で連携)と中央にとどまった「倭人」(畿内と西北部九州で連携せず)からの上納を得たからだった。
畿内の「濊(わい)人」首長層は、同じく黒幕的二重支配をした「百済」の「濊(わい)人」首長層と連携した(ともに支配民族として少数だった)。
一方、
九州の「濊(わい)人」首長層は、同じく地位役割を公的に明示した「新羅」の「濊(わい)人」首長層と連携した(ともに支配民族として多数だった)。
結果、
後者に、「神武東征」勝利まで大きな貢献をしつつ報われないと九州で反乱分子となっていた「熊襲」と「隼人」が加勢し、中央に対する離反勢力である「九州豪族」が形成されていき、最終的に中央に対する国際的な独立戦争である「磐井の乱」(527年)に帰結する。
「新羅」と連携し「九州豪族」を率いた九州の「濊(わい)人」首長層を、「百済」と連携し「物部氏」(「安曇氏」筆頭)を送り込んだ中央の「濊(わい)人」首長層が鎮圧した。
この結果を受けて、ヤマト王権の黒幕的二重支配のレベルでは、親百済派が親新羅派より優位となった。
そして、
天智天皇が倭と百済遺臣の連合軍で白村江の戦いに敗戦する頃までは、朝廷の動向はこうした国際的な「濊(わい)人」首長層同士の闘争に大なり小なり、直接的にか間接的にか引きずられる側面があったと考えられる。
ところが、
ヤマト王権において、黒幕的キングメーカーとしての「濊(わい)人」首長層の存在が(表舞台の有力氏族への降下によって)雲散霧消していき、国を超えた「濊(わい)人」首長層同士の闘争は無意味化していく。
そもそもヤマト王権の内部の権力闘争は、畿内の「濊(わい)人」首長層の内部の権力闘争であった。
天皇の外戚勢力として取り込まれた征服協力者の「出雲系」(協力的な「出雲族」一派)vs「大和系」(協力的な「テュルク族」一派)に始まる。彼らは、ともに「濊(わい)人」首長の男子を娶った女子の家系である。
その後、
「葛城氏」が外戚勢力として台頭して天皇に匹敵する権勢を誇ったことがあった(葛城王朝への王朝交代説もあり)。「葛城氏」は、実質的には天皇を擁立する「濊(わい)人」首長と対峙していたのかも知れない。
さらに、
軍需装備品の交易者・調達者である「倭人」の「大伴氏」と「安曇氏」の「物部氏」に、「濊(わい)人」首長層の男子が降下して軍事豪族(親衛隊と国軍)になり、両者が権力闘争を展開したが、これも畿内の「濊(わい)人」首長層の内部の権力闘争であった。
そして、
大陸の文明文化の導入力で秀でた「蘇我氏」が外戚勢力として台頭して天皇を凌ぐ権勢を誇った。「蘇我氏」も、「葛城氏」のように、実質的には天皇を擁立する「濊(わい)人」首長層と対峙していた(王朝交代を狙っていた)のかも知れない。
「蘇我氏」は、政策的には唐化政策をとった新羅に近しく、交易的には朝鮮南西部と親密で百済に近しい、と背景は複雑である。
中大兄皇子と中臣鎌足は、天智天皇が百済復興に乗り出したくらいだから親百済派である。彼らは「蘇我氏」と、政策的には対立、交易的には競合した。彼らが「蘇我氏」を滅ぼした背景には、黒幕的二重支配の復活を狙った「濊(わい)人」首長層のバックアップがあったのかも知れない。
唐が百済を滅ぼした「百済の役」の前夜、百済の支配層がまとまりを欠いていたのは、「濊(わい)人」首長層による黒幕的二重支配の不首尾によるもので、百済の復興を天智天皇に求めたというのは、黒幕的二重支配者の立場を失った百済の「濊(わい)人」首長層が自らの復活を日本の「濊(わい)人」首長層に求めたということだった。日本の日本の「濊(わい)人」首長層も黒幕的二重支配者の立場を雲散霧消させつつあり、百済復興の地=任那復興の地が、両者の黒幕的二重支配者の立場を復活させるものと想定されたのではないか。中臣鎌足イコール百済王子豊璋とする説があるが、両者がその地の王として擁立しようとしたのが豊璋だったということになる。
長い歴史スパンを俯瞰すると、
朝廷内外の主要渡来系氏族は、自らの出身地から同郷の渡来人を呼び寄せ、おのずと親中国派、親百済派、親新羅派が形成されて、朝廷の政策は彼ら政治勢力の対立によって揺さぶられた
一方、
中央と地方で経済勢力であり続けた「安曇氏」は、常に国内の交易ネットワークを形成掌握して、それを環境変化に応じたやり方で大陸交易に接続してきた。
大陸の先進的な文明文化を担う工人や職人といった労働集約型の高度人材の招聘や入植が、朝廷・宮廷・天皇に必要とされればそれに応じ、学者や技術者といった知識集約型の高度人材が必要とされれば同様にそれに応じた。
ただし、
中央で経済勢力であり続けた「安曇氏」は、自らが政治勢力化することを嫌い、自らの遠隔地交易民という職能を媒介とした族的結合の中に、渡来人たる高度人材を取り込もうとはしないで、彼らが専門技能や専門知識を活かせる氏族となるようにした。つまり、現代のヘッドハンターや派遣会社のように人材の斡旋だけをした。
そして、
中央にさまざまなエキスパート氏族を発生自立させた信頼関係によって、全国の主要寺院や主要神社を消費センターとした地方経済圏のさまざまな案件の課題解決を彼らに依頼し彼らを派遣したと考えられる。
中央のさまざまなエキスパート氏族の側も渡来人として、政治勢力としての党派性のない、天皇に初物を貢納する天皇直轄の「贄人」という経済勢力である「安曇氏」への協力に躊躇することは無かったと考えられる。
高度な知識労働者を求める朝廷の側も、それを提供する渡来人の側も、専門分化した職能の専門分野で職能集団を捉えて、その族的結合を擬制的一族として氏族となった。
そして、ヤマト王権は、渡来人交易者を通訳や翻訳や洋行随行などの外交実務者として再編成して活用したりする。
また、
当初は渡来人仏師が出身地により百済派・新羅派に分かれて、親百済派・新羅派の政治勢力と結びついていたが、新世代の仏師はどの様式もこなせるようにともに切磋琢磨して日本固有の様式を追求していった。主要な神社仏閣を消費センターとした広範な交易経済圏を前提とする「安曇氏」の経済勢力の下では、そういう組織知識創造や集団知識創造が自由闊達に展開していった。
ちょうど、
新大陸でアメリカが建国する前夜の経過に似ている。旧大陸(欧州)からの移民が始まった当初は、出身母国を同じくする移民たち同士でまとまって集住し、そのテリトリー同士が出身国や出身地の人間関係を後ろ盾にして競合した。それが合衆国建国にいたる過程で、テリトリー同士はともに欧州からの独立を勝ち取るために共同するようになり、建国後は出身国の違いに関係なく欧州とは異なる新天地ならではの新流儀を共創していった。
これと同じことが、日本の古代でもあったと言えばよいだろう。
これは、
日本の知識創造社会が
主要渡来系氏族のそれぞれが大陸の出身地の文明文化をいかに日本にもたらすかという
大陸中心の過去起点のパラダイムから
日本の王権の成り立ちや風土にあわせた国づくりや国風文化をいかに形成していくかという
日本中心の未来志向のパラダイムに転換した
ということで、
まさに知識創造者としての「日本人」の特徴の出発点だったと言えよう。
(参照)
「古代の政治史・軍事史の背景にある経済勢力の動き」
「日本人らしさ」の起源と「移動民〜転住民〜定住民」(5)