縁の「ほとけ」(解け、仏)をも発揮させていく |
どうも、どこかに私以上に私の書いたブログ記事の内容を憶えている人がいるらしい。
最近、アクセスのあった過去記事をチェックすると、その内容が今の私自身が重きをおいていることではっとさせられることが多い。
この記事もそうだ。
「社会や集団そして対話における『観音力』の重要性」2009年 04月 13日
http://cds190.exblog.jp/10039761/
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私は年度変わりの前後しばらく写真三昧していた。
ここ数年の長年お世話になったクライアント企業の経営危機絡みの諸々に専念していた頭をリセットし白紙に戻すためである。
そして最初に地元の文房具店を兼ねた小さな本屋で手にとったのが本書だった。
それは、私にとって、まさにこの転機に読むべき本だった。
これまで私は「空間能力」、つまりは(縁の)「むすび」(結び、産巣日)ばかりを発揮させようと追い求めてきた。
しかし人生後半戦は「時間能力」、つまりは(縁の)「ほとけ」(解け、仏)をも発揮させていくのがよかろう、
との示唆を頂戴した気持ちなのだ。
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これを書いたのはもう5年前で、伊豆に越してまだ2年目で、気持ち的には東京でやってきたことをまだ少し引きずっていた。
今はそういうことは皆無だ。
しかし、3年前に福島第一原発が爆発し、その後なんら事故が収束に向かわず放射能汚染が垂れ流される。
私は、伊豆にひっこんでもできることとして、SNSで自分の足元から、信頼する顔見知りと情報共有し日常的に対話し連帯しようと試みてきた。
これは、(縁の)「むすび」(結び、産巣日)ばかりを発揮させようと追い求めてきた、ということに他ならない。
この年度替わりに、思っていたのは、それにそろそろ区切りをつけて、(縁の)「ほとけ」(解け、仏)をも発揮させていくのがよかろう、ということだった。
もういいだろう、やるだけやったよ、と言われたような気がした。
クライアント企業の経営危機の時も私は同じようなことをして同じような結末になったような気がする。
当時は日本の企業社会の縮図を体験したと思っていたが、その縮図は日本社会の全体に拡張されてしまった。
それが分かった以上、私は同じことを繰り返す訳にはもういかない。
異なる次元の方途に向かわねばと思う。