「因果論的思考」の何が悪くて「目的志向論的思考」の何が善いのか?(関連書籍解説のインデックス▲)後半 |
からのつづき
企業社会における「因果論的思考」対「目的志向論的思考」について
企業社会に目を転じて同様に現代的な話題を検討してみましょう。
あるメーカーが「レッドオーシャン」と自他ともに認める市場を前提に、「競合に対してより高品質でより低価格な製品をつくる」経営をしている、としましょう。
「レッドオーシャン市場」とは、赤い血潮を流す市場という意味で、高品質低下格を競い合う持久戦となって資本規模巨大の腕力の強い業界最大手でないと安定的に勝ち残れない市場のことです。
これを前提に前述のような「Bという目標*」を掲げ、それを「達成するには、A(という手段)をせよ」というのが経営方針となります。
なぜそんな形になるかというと、手段の指標である目標*を目的*と同一化しているからです。
注意すべきは、なぜそうするのかという目的*は説明していない、ということです。
「そんなの言わなくても当たり前だろ、会社が生き残るためだ」と言う人が多い。
しかし、「会社が生き残る」のは何かをするための手段であって、目的ではない。
なんのために「会社が生き残る」のかが問われない。
そう言うと、「会社が生き残らなければ社員は食っていけないだろう」と返ってくる。
しかし経営は会社が生き残るために社員を首切りするのである。
そう言うと、「一部の社員が犠牲になってもその他大勢が喰っていくには仕方がない」と返ってくる。
返ってくる話はおおよそ乱暴で具体性に欠けます。
象徴的には、リストラと言うとシビアーなアメリカ型の合理主義のような漠然とした思い込みがありますが、具体的に論じればアメリカ企業のリストラと日本企業のそれでは真逆であることです。
まず、日本企業が希望退職を募るのに対して、アメリカ企業は解雇する者を指定する。
次に、日本企業が高級取りの年輩者から切るのに対して、アメリカ企業は生活コストが少なく転職能力の高い若年者から切る。
そして、日本企業の場合、建前は希望退職だから首の切りっ放しだが、アメリカ企業の場合、業績が回復したら解雇した者を優先して再雇用する。
アメリカ企業の冷酷無比な合理主義に対して、日本企業の情け深い温情主義というステレオタイプの思い込みが蔓延っていますが、このように具体的なリストラの現実は真逆なのです。
さらに日本の企業社会はそうこうしている内に、非正規社員が拡大し、正社員と派遣社員の待遇格差が拡大し定着してしまいました。
どこか人道的にも聞こえた「一部の社員が犠牲になってもその他大勢が喰っていくには仕方がない」という理屈が虚しく響く現実になっています。
要は、運だか実力だか忍耐力だか知らないがそれらがあってとにかく正社員でいられた人たちだけが相応に仕事し暮らしていける。運だか実力だか忍耐力だか知らないがそれらがなくて正社員になれなかったり正社員でいられなかった人たちが冷や飯を食う、そういう構図になってしまいました。ここで「運」とは、日本企業のほとんどの社員が会社に就職してどの部門に配属されるかは本人の意志によらないことを言います。日本企業への就職は、職業に就くというより会社に就く訳です。
本来の人道的な主張とは、自分の利害を超えて社会全体の人々の現状を憂えたり行く末を案じるものです。
やはり「一部の社員が犠牲になってもその他大勢が喰っていくには仕方がない」というありがちな正当化は、実質的には人道的な主張とは程遠い物言いだったと言えましょう。
ここでも「因果論的思考」のタコツボ的なリニアーな展開による限界が指摘できます。
その主張はまた利害関係者としての欠乏動機だけによっていることが指摘できます。
本来の人道的な主張ならば、社会全体の人々の仕事と暮らしについて、その給料や昇給や労働時間といった数値に還元できる定量的な事柄だけでなく、働きがいや、仕事と人生に求める安心や、就労者同士の恊働や人間関係の喜びや創造性といった数値に還元できない定性的な事柄についても配慮する筈です。
ここで、数値に還元できない定性的な事柄の主張は、明らかに社会とその一員としての個人の成長動機によっていることが指摘できます。
これは綺麗事ではありません。
実際にそういう職場や企業も極めて少ないが確かにあり、むしろ好業績を上げて経営的にも健全に安定しているのです。
そこで展開されているのが「目的志向論的思考」です。
具体的な例を上げれば、村上龍氏のテレビ番組「カンブリア宮殿」で取り上げられた九州の地方スーパー「ハローデイ」http://www.halloday.co.jp/が象徴的です。
多店舗化による定量的な競争力を敢えて追求せずに、パートさん同士で店舗のディスプレイや商品開発を主体的に競い合ってもらうなど、人間論的な工夫によって顧客を魅了して熱烈なファンにして業績を伸ばしている。
その経営は、まず人間論的な目的*を経営理念として掲げ、その達成のための手段としてそうした独自の店舗運営をして結果として業績という数値を伸ばす、というものでした。
メーカーの方には、スーパーとメーカーでは違う、という向きもありましょう。
しかし、バブル崩壊以前のナレッジマネージャーとしての多様なミドル同士が縦横無尽に恊働していた本来の日本型経営においては、まったく同じ人間論的な主体的な競い合いが仕組まれ実際に集団独創を展開していたのでした。
「レッドオーシャン市場」という概念に対置されるのが、独自の市場を捉えて他の追随を許さない方法によって圧倒的なシェアを誇る「ブルーオーシャン戦略」という概念です。
「ハローデイ」もマーケティング的には「ブルーオーシャン戦略」と位置づけられます。
しかし私は、「ハローデイ」の本質は目的と手段というパラダイムの骨格を「目的志向論的思考」で構築しかつ実践していることだと思います。
「目的志向論的思考」が根幹にあり、「因果論的思考」は枝葉末節としてある。だから、誰にでもできる訳ではない。経営者や従業員には人間論的な態度能力が必要不可欠です。
一方、「レッドオーシャン市場」は目的も目標も手段もすべて数値に直接的に還元される。そこで勝者になるのは並大抵のことではなく、経営者も従業員も知的な能率や作業の効率だけが求められ、それが機械論的な部品性能として必要不可欠とされます。
機械に見立てられる組織やシステムにおいて少しでも人員の効率的な作動を邪魔するものは排除されます。既定路線にそぐわない就労者の人間論的な個性や主張は、個人のそれでも集団のそれでも猥雑さとして排除されます。
ハローデイやかつての日本型経営が仕組んだ、就労者同士の主体的な競い合いのような、因果論的な確実性が数値化できず約束されない手段は受容できません。
しかし、因果論的に確実なことは誰が考えてもやっても同じですから、必然的に同質化して過当競争に陥る訳です。
つまり、一つの会社の内向きの枠組みで一見、合理的に見える「因果論的思考」ですが、競合他社との競合というオープンな枠組みでは不合理だったりします。
思考という現象の主体はなぜかみなそこまでを考えようとしない。国内外の競合メーカー各社横並びに似たり寄ったりの製品が家電量販の店頭に並びすぐに値引き競争になります。
本記事を書いた2008年と大幅に加筆修正している2014年の間にあった典型例としては、国内メーカー各社が競って市場に投入した3Dメガネでみる大画面テレビが象徴的でした。
家電量販店頭で文字通り各社横並びの体験展示を見かけたり、一度や二度3Dメガネを試した人は多いでしょう。業界が期待したような話題沸騰とはならないままやがて4Kテレビの登場となりました。
「レッドオーシャン市場」対「ブルーオーシャン戦略」は、
「因果論的思考」対「目的志向論的思考」である
ということについては、
企業社会以外のたとえば動物園のこんな対比でも説明できます。
首都東京の都心で人気のパンダを擁する上野動物園は「レッドオーシャン市場」の雄である。
一方、北海道の遠来の客を呼び込みまた地元の家族連れやカップルに愛されて彼らを習慣的に反復集客する旭川の旭山動物園は「ブルーオーシャン戦略」の雄である。
赤字が累積して廃園寸前までいった旭山動物園を一躍、日本を代表する人気動物園に起死回生した園長と職員たちの物語は映画にもなりました。
彼らは、なぜ自分たちは動物を人々に見せたいのか(目的)、そのためには動物の何を見せればいいのか(手段)、そのためにはどんな動物の見せ方をしていったらいいのか、そしてどんな動物園にしていったらいいのか(目標)と、考えを進め、考えたことをそのままその順序で行っていった。
結果、飛躍した。
これは「目的志向論的思考」に他なりません。
同じような「目的志向論的思考」の成功事例はアメリカにもあります。
ホンダやスズキやカワサキといった日本製バイクにおされて破綻寸前までいったハーレーダビッドソンが、ほんとうのハーレー好きの就労者だけが残って、旭山動物園と同じように目的→手段→目標をゼロから考え直して成し遂げた起死回生、この話は有名です。
目標が、何かに至るための手段となる過程における道標であるとすれば、目標を目的と混同することは「手段の目的化」に他なりません。
そして「手段を目的化」している人たちのほんとうの目的は何なのか?ということが、じつは腫れ物にさわるように問われないでいる現状が企業社会一般にあります。
機械論の前提に潜む限られた利害関係者の人間論とでも申しましょうか、これはいたってポリティカルなマターです。
会社四季報や日経ビジネスには掲載されませんが、経営の実際を方向づけている社内政治であり、数年勤めた社内の人間であればおおよそ空気として感じ取っていることだったりもします。
「因果論的思考」において、思考の内容ではなく思考の現象の主体の目的は、結局は彼ら限られた人たちのエゴ、つまりは狭量な自我です。
会社が生き残るためには「ブルーオーシャン戦略」という手段もあることは、いまやまともなビジネスパーソンならみな知っています。
業界の優位大手には正しい「レッドオーシャン市場」狙いで苛烈な競争に挑むことですが、劣位大手や中堅企業では正解ではない、正解は資本規模など腕力に欠ける会社でも勝てる「ブルーオーシャン戦略」であることも常識に属します。
しかし、なぜかそのような会社の経営幹部までも「レッドオーシャン市場」に対応し続けます。
そして「なぜブルーオーシャン戦略をとらないのか」けっして説明しようとしない。
説明責任も無いかのごとく振る舞っている理由を察すると、そこにはこの業界やうちの会社は「そういうものだ」「今までそうやってきた」という決めつけだけでなく、慣れ親しんだその決めつけにおいて自分の立場が維持できるというエゴを垣間みない訳には行きません。
これと同じようなことに「選択と集中」の論議があります。
なぜか日本のメーカーでは「選択と集中」の論が金科玉条のように言われる際に、必ず<モノ割り縦割り>が前提で好採算部門だけを残し非採算部門を切るという話になります。
しかし、情報家電などハード/システムとソフト/コンテンツとオンウェブ・サービス/ソリューションが三位一体でプロダクツも市場も形成されている現代です。アップル社のプロダクツを見れば<コト割り横ぐし>であることは高校生でも分かることです。そしてアメリカ的な合理主義を徹底してきたアップル社は<コト割り横ぐし>で「選択と集中」をしているのです。
動物園の話にたとえれば、
日本のメーカーの<モノ割り縦割り>の「選択と集中」は、人気の高いパンダを残して人気の低いレッサーパンダを切るという話になります。
一方、経営合理主義を徹底するアメリカの場合、<コト割り横ぐし>の「選択と集中」もあり、それはパンダにしろレッサーパンダにしろ、動物たちの自然の生態をクローズアップして見せようという全館コンセプトの話になります。その全館コンセプトを打ち出すにふさわしい動物をふさわしい形で展示しよう、それができない動物はいくら人気があっても長い目でみて全館コンセプトの魅力化の足をひっぱるから外そう、そういった考えを展開することになります。
そもそもパンダが人気だと言っても、日本人の人気であり、遠路やってきた中国人にとってパンダは日本に来てまで見るものではありません。
それは、好採算部門と言ってもその会社の前年度の業績で他事業部門と比較した話であって、グローバル競争をしている現代、そもそも世界の競合と比べてどうなのかという視座が欠落していることに重なります。
また、全館コンセプトに魅力的な個性がない場合、いくら人気動物を導入しても、導入当初に一過的に来場者を増加させてもすぐにジリ貧になってしまい、巨額な導入投資が赤字を累積させるだけだったりします。
これは、好採算部門と言っても企業ブランド全体に魅力的な個性がない場合、不採算部門に降格する可能性が高いということに重なります。
なぜこのような冷静に俯瞰すれば誰でも分かるような理屈が論じられず、「これでいくしかない」的に偏った考え方が正当化されるのでしょうか。
すべては、
「因果論的思考」において、思考の内容ではなく思考の現象の主体の目的は、結局は彼ら限られた人たちのエゴ、つまりは狭量な自我である
ということに起因します。
かつての異論や異端を許容して時代変化の不確定性に備えた日本型経営とは違って、今の日本企業では社員はただ経営方針に従うしかないし、労働組合の経営参加など遠の昔の話です。
それでも銀行や株主というステイクホルダーも関わっているのですから社会的に問題になりそうなものですが、そうはなりません。
それは、銀行や株主も金銭の「因果論的思考」を単線的に展開するだけなので、経営悪化による累積赤字が巨大になるまで物を言わないからです。また物言いをするとしても、人件費コストを縮小するリストラを促すくらいです。それも日本のリストラは、アメリカのような合理主義的な事業再編成ではなく、高級取りの年輩者から希望退職者を募っていく単なるコストカッティングに過ぎません。
ほとんどの場合、ハーレイダビッドソンや旭山動物園のように「目的志向論的思考」が交わされる場も機会もないままとなります。
「目的志向論的思考」と「セレンディピティ」について
「目的志向論的思考」は、現象の主体が、自分以外のもの、自分たち以外のもの、人間以外のものと拡大進化していく対象の側にある 。
よくお客様のために良かれ、カスタマーのために良かれ、世のため人のために良かれ、ということが言われます。
これは目的を論じているのであって、それを掘り下げて行くと、お天道様、大我ないし大いなる自己、集合的無意識、内的かつ外的な大いなる自然、なんでもいいのですが、人間を超越するものの意志を想定しそれを土台にしています。
それは思考の土台であって思考の産物ではなく、それを抱いていると心身が安らぐような感情や情緒であると言えましょう。
私たちの思考という現象の主体は、人それぞれで、また人生や生活や仕事の局面というその時々で異なります。
しかしそれが「目的志向論的思考」である時、その目的を正当化する根底の土台が、人間を超越するものの意志であったり、それを抱いていると心身が安らぐような感情や情緒であることは同じです。
ちなみに、トランスパーソナル心理学の臨床では、身体の痛みに主体性を想定しそれに問いかけたり、その意志に成り代わったりするフォーカシングという手法が使われます。
私の追求する発想ファシリテーションにおいても、無意識的に浮上してきた発想そのものに主体性を想定し、それに問いかけたり、その意志に成り代わることを促します。
「日本型の集団独創」の大枠も、現代の日本に生まれた私たちには託された何かがある、その何かに主体性を想定して、真剣な「群れ遊び」によってそれに問いかけたり、その意志に成り代わろうという側面を持っています。
たまたま同じ場に居合わせた人々だからできる、世のため人のためになるユニークなことがある筈だ、そういう一期一会を積極的に呼び込もうとします。
そしてそのような場で実際に「意味のある偶然=共時性」があることは、プロジェクトXを見るまでもなく、歴史的事実として認知されてきています。
ただしそれがどのようにして起こるのかについての科学的な説明はありません。
しかし、偶然の重なりだとしても客観的にみて意味があり、「目的」があって共時的に現象したと後から説明できたりはするのです。
「共時性」に重なる概念に「セレンティピティ」があります。
「セレンディピティ」とは、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉です。
何かを発見したという「現象」ではなく、何かを発見する「能力」を指し、平たく言えば、ふとした偶然をきっかけにひらめきを得て幸運をつかみ取る能力のことです。
私は、「意味のある偶然=共時性」を呼び込んだり見出したりする能力が「セレンディピティ」なのだと思っています。
そして、それは「目的志向論的思考」の能力でもあるのです。
たとえば、ある「因果論的思考」でした仮説を、「因果論的思考」で検証すべく実験をしていたとしましょう。それは失敗したが、何か気に掛かる物事が発生した。この気に掛かるというところと、気に掛かってどうするかというところが、「セレンディピティ」の能力です。
あれ、これはあれに使えるのではないか、とか、こういうことが起こるのは何かが私に違う方向のことをするよう仕向けているのではないか、とか思う。
これは「目的志向論的志向」に他なりません。
たとえば、接着剤を開発していて発生した失敗作が、まてよ、くっついても剥がれることを発見したんだと捉え直してポストイットが誕生した話は有名です。
顧客のクレームが単なる改善ではなくまったく新しい商品やサービスの発想に繋がることがありますが、これも同じ構図にあります。
私自身には、「セレンディピティ」の能力が幸いあってした成功談と、不幸にも欠落していてした失敗談の両方があります。
ここでは失敗談の話をしましょう。
かつてホンダの開発部門に新車コンセプトを提案しそれは没になったことがありました。その際、なぜか人材育成部門の責任者の方から青山本社に呼ばれました。私がマツダの開発子会社の立ち上げで顧問業務をした後、パイオニアの依頼で研修講座を引き受けるようになる前のことです。
先様は、私の後に「コンセプト思考術」と名づけるコンセプト立案の方法論の研修をする気はないか、とたずねてきたのです。没になった提案にその思考フォーマットの資料が含まれていてそれを評価してくださった。
しかし私は断ってしまいました。
その時の私としては新車コンセプト開発の面白みを知ったマツダの仕事が終わり、他メーカーで同様の仕事を続けたいという思いばかりが強かったのです。
若かった私は発想思考の方法論を教えることだけを求められても、という気持ちになってしまいました。
それから数年後に恩人の依頼にこたえてその出身のパイオニアの企業研修として「コンセプト思考術」講座を始めました。本業ではないにしても20年ちかく続けました。その間にクボタやゼロックスやリコーでも同講座をやりました。ホンダでも「コンセプト思考術」講座をやっていれば、カーナビや家庭用農機などをテーマに企業恊働を促進できたなあ、と思ったのは随分後になってからでした。
ホンダの件では当時の私に、偶然をきっかけにひらめきを得て幸運をつかみ取る能力が欠落していたのです。
私の発想ファシリテーションは、「意味のある偶然(じつは必然)」であるシンクロニシティを受け入れ、世のため人のためになるアイデアがそれを実現できる人々に降り立とうとすることに気づいてもらう、ただそれだけです。
しかしホンダの件では、私の気持ちはとにかく新車コンセプトの開発に携わりたいという欲ばかりになっていて、そのような気づきができなかったのです。
一方、開発部門に送った資料をどういう訳か目にとめた人材育成部門の責任者の方は、部外者である私のコンセプト開発の方法論が研修に役立つと気づいた。先様の方はセレンディピティを発揮した訳です。この方は私という人間を知らずに「コンセプト思考術」の方法論だけを見てそうと気づいた最初の人でした。おそらくホンダのワイガヤ文化と「コンセプト思考術」のパラダイム転換発想との融合を期待したのでしょう。
世のため人のためになるアイデアがそれを実現できる人々に降り立とうとすることに気づくこうとする、そうしていると「幸運に出会う能力」セレンディピティが作用します。
以上の私の失敗談からも分かるように、これは口で言うほど簡単なことではありません。
実際に「セレンディピティ」を発揮できた時とできなかった時との違いはほんの紙一重だったりするのです。
こうした経験から私自身が具体的に心がけていることは、何事にも囚われない素直な情緒性において拡散的思考と収束的思考の交代を繰り返すことです。
ホンダの件では、新車コンセプト開発をしたい、それについてはこうだという収束的思考ばかりを続けて煮詰まってしまいました。
もしほんの何かの切っ掛けで拡散的思考ができたならば、とりあえずホンダの企業研修を請負い、それに専念する過程の受講者との付き合いから新車コンセプト開発やそれ以上にエキサイティングなチャンスが巡ってくるのではないかと展望できたのでしょう。
私は宗教家でも超能力者でもないただの凡人です。
ですが誰でも、素直な気持ちで世のため人のためを優先していれば「意味のある偶然=共時性」が起こります。そして、私がエゴに囚われて心の目を曇らせていなければ「セレンディピティ」が発揮され、偶然の出合いや気づきが人との関わりにおいて創造的な発想や洞察に繋がっていきます。
このようにシンクロニシティやセレンディピティを前提としたり受け入れたりする「目的志向論的思考」では、
現象の主体が、自分以外のもの、自分たち以外のもの、人間を超越するものと拡大し深化していく対象の側にある。
「世のため人のため」と言うとあたかも偽善者みたいですが、
私の実感は、「世」や「世の人」の意志が現象の主体であってそれに成り代わっている、というものでした。
ややオカルト的な印象は免れないでしょうが、本当にスゴい発想が浮かび思考が鋭く展開していく時、私は自分が発想したり思考していると感じません。何かが私を媒介にして表現しているかのような忘我の状態にあります。
私はこの体験に魅了されて発想思考をしたり集団独創を促進する仕事を続けてきているのだと思います。
私一人が一人ブレスト状態でそうなるのも快楽ですが、個人として信頼と尊敬を抱き合う仲間の集団がブレインストーミング状態でそうなるのは戦慄をおぼえます。それが仲間で共有する成功体験につながるような場合、一生の思い出になります。また、その経験を通じて、ただのビジネスパーソン同士だった関係が仕事を離れても友人であるような人間関係に変容したりもしてきました。
こうしたことのソース(源)は、大我ないし大いなる自己、集合的無意識、内的かつ外的な大いなる自然といった人間を超越するものに求めざるを得ません。
いずれにせよ、商品やサービスについて優れたパラダイム転換発想が浮上する場合、お客様の生活と私の仕事、社会のあり方と私の関与する事業、私と独創する集団などがポリクロニックに一体化して<自他未分化の情緒>を抱くことになります。
それは、「因果論的思考」がタコツボ的で単線的でモノクロニックに分断されて、<自他分化>を超えてお互いを組織という機械の部品とみなす人間関係を展開させるのとは真逆の現象です。
(参照:「私たちが無自覚でいる『日本型』の構造 その2=<モノクロニック>と<ポリクロニック>」
http://cds190.exblog.jp/255178)
ある企業が商品やサービスを構想する場合、
客観合理的である因果律にのっとる「因果論的思考」ですれば、
その成果は必然的に画一的な似たり寄ったりになりがちで、商品やサービスとしては同質化ゆえの過当競争になります。(3Dメガネでみる大画面テレビのように)生活者からすれば他と大差を見出せない重箱の隅論に関係者全員を付き合わせることになります。
しかし、
「目的志向論的思考」ですれば、
その成果はそれぞれの企業の特徴そして制約さえも活かしたものになります。同じ目的志向論を共有する部門内外の者、会社内外の者が出入り自由の多様な場が設定され、たまたま居合わせた人々が自分たちならではの成果を主体的に競い合うようになる。すると同じ目的志向論を共有する特定の生活者のライフスタイルのこだわりに対応した独特の世界観が創出され、想定するカスタマーとともに喜びを分ち合いながら独特の世界が具現化していくことになる。
けっして「レッドオーシャン市場」の画一的な商品やサービスを前提とする高品質低価格化競争には陥りません。
じつは、「ブルーオーシャン戦略」という外来語がない昔から、本来の日本型経営における集団独創はこれをやってきていたのです。
そこでは、
「独特の世界観の達成により想定カスタマーと社員がともに幸福になる一つ事」
それが目的*になってきました。
その誰もが知る企業事例が、無印良品の良品計画やニトリです。
両社は直営店舗を展開する小売り業ですが、商品を製造するメーカーでもあります。
「目的志向論的思考」の特徴は何と言っても、目的に向かっている過程において、目的を抱いた時から、心の深い部分で幸福を感じることです。
これは哺乳類の捕食活動において、生死をかけたリスク50%の活路探索に向かったその時から、脳内麻薬という快楽報酬の分泌が始まって捕食を終えた後まで続いて総計が最大化する脳内現象に通る精神現象なのではないでしょうか。
また結果だけでなく、経過から幸福感を感じるということは、欠乏動機ではなく成長動機に支えられている、ということも言えましょう。
それは、マズローが至高体験として提唱した、Have欲求ではなくBe欲求をみたす自己実現▲を果たすものであることは確かです。
私は、自己実現は目的達成した瞬間に実るのではなく、真剣に目的達成に向かって歩み始めた瞬間に実りはじめるのだと考えています。
起死回生したハーレーダビットソンや旭山動物園の関係者が、人生を終える時、幸福感とともに思い出すのはどの瞬間なのでしょうか。
私は起死回生が成った時ではなくて、チャレンジ精神を奮い起こして心の深い部分で「どんぐり=魂のコード」が活性した瞬間ではないか、と思うのです。その時から彼らは幸福を感じ始めたのではないかと思うのです。(こう思うようになったのは「人生の旋律」を読んだ影響▲でしょうか。)
また、ハーレーや旭山動物園のカスタマーが幸福感を分かち合ってくれたのは、ヤマハやホンダの日本勢との競争に明け暮れた時や、画一的な動物園運営手法の改善に明け暮れた時ではけっしてなかった。
なぜならそんな時の関係者は自分たちのことばかりを欠乏動機で考えて、業界競争や集客競争の劣勢をいかに挽回するかという視点に立っていたからです。それは「コンセプト思考術」で言う<送り手側のモノ提供の論理>ですから、受け手側のカスタマーが幸福感を分かち合ってくれよう筈がありません。
自分が心から楽しみ喜べることと、お客様が心から楽しみ喜べることを、どうしたら一つ事にしていけるか? そうは考えなかったのです。
人をしてそのように考えさせるのは岡潔先生がその著「情緒の教育」で語る▲ように「情緒」です。なのに仕事において「情緒」をなくしていたのです。
そのことに気づいて、自分自身の今も超越者からの授かりものとしカスタマーに良かれを自然体で思える「情緒」を回復した時、彼らの幸福は始まりました。
なぜ私はハーレーや旭山動物園に就職し仕事をしているのか、そのことの自分にとっての意味と世のため人のためになる可能性を探る。
それはまさに「目的志向論的思考」に他なりません。
彼らの発想思考は自然と<受け手側のコト実現の論理>になりました。じつは、この時、経営者や就労者の人格も「コンセプト思考術」で言う<人種>から<人となり>に転換していました。
(参照:「9)『種』志向か『態』志向かでまったく違う人の生き方や国の形になる」
http://cds190.exblog.jp/722281/)
ちなみに、世界規模のマーケットを捉えれば、
「因果論的思考」は文化一元主義=短絡的グローバリズムに、
「目的志向論的思考」は文化多元主義=共生的グローカリズムに、
それぞれに展開します。
私の最大の関心事は、知識創造と、市場創造のマーケティングという分野において、
日本はやみくもに文化一元主義路線の競争に突き進み自らの独特な文化力を損なっていくのか、
それとも
日本は独特な文化力を活かして文化多元主義路線を先陣をきって開拓していくのか、
ということです。
それは、まさに私たち日本人の日々のそれぞれの仕事における意志と行動、その積み重ねにかかっています。
安易にアメリカ型のグローバリズムに流されていく大勢がいて、一方に、日本の独自性だけをみて世界各国それぞれの独自性をみてそれとの恊働を摸索することには純血主義的に排他的である、言わばガラパゴス派が根強くいます。
そのどちらでもない方途ですが、これを具体的に考え理解し解説し行う人はまだまだ少ないと言わざるを得ません。
「因果律」+「共時性」=「縁起」と日本人の「社会人的な心性」
最期に、仏教ではどういうことを言っているか紹介しておきます。
結論を先に概説すると、
森羅万象は「因果律」と「共時性」が渾然一体である「縁起」を原理とする
と捉えます。
そもそも有史以前の人類が普遍的にもっていた「部族人的な心性」も、この「縁起」にのっとるものでした。
そして部族から国の原初形態に展開するに至り「社会人的な心性」が形成されるのですが、
中国人は天意を尊重して
共時性にのっとった<意>起点の発想思考でその世界観と認知表現パターンを形成していきます。
西洋人は神を尊重して
因果律にのっとった<知>起点の発想思考でその世界観と認知表現パターンを形成していきます。
日本人はどうしたかというと、
「社会人的な心性」をあくまでベースに「部族人的な心性」を温存しながら形成していきます。
(参照:「『心性』=部族人的心性+社会人的心性(概念規定メモ)」
http://cds190.exblog.jp/8004169/)
具体的には<自他の未分化性><人間と自然の未分化性><人工と自然の未分化性>を情緒において確信しつつ、
縁起にのっとった<情>起点の発想思考でその世界観と認知表現パターンを形成していきます。
(参照:「日本型の発想思考の特徴論のキーワード」
http://cds190.exblog.jp/20417706/)
たとえば仏教でも、中国の六朝時代に道家の哲学を媒介にした「山川草木悉皆成仏」の天台宗や華厳宗で強調された主観的な主張が、日本で自然主義的にというかアニミズム的に浸透していって、後の神仏習合にソフトランディングしている。この経過にも、同じコンテンツでも中国人と日本人では認知表現パターンの違いがありそれゆへの受けとめ方の違いが反映しています。
芥川賞作家であり禅僧である玄侑宗久氏と、世界的遺伝子研究者である村上和雄氏とが以下のような対話をしています。
対話をおさめた本「心の力」を以前検討した際▲に引用したところをまた紹介します。
村上氏がセレンディピティ(偶然幸福に出会う能力)の体験談をなさりそれに対し、玄侑氏がこういう主旨の解説をします。
「仏教ではそれを『縁起』、一般には『ご縁』と言う。
ある出来事のひとつの解釈法として、あるものが生じたから別のものが生じるという『因果律』があり科学が担っている。しかし、実際にわれわれに起こることは、それだけでは説明できない。
ユングはそれを『共時性』という概念で解釈しようとした。
お釈迦さまは『因果律』と『共時性』の両方を含めた概念として『縁起』を説いている」
「お釈迦さまは、
『これ有とき、彼有り。これ生ずるによりて彼生ず。これ無きとき、彼無し。これ滅するによりて彼滅す』という言葉で縁起を説明している。
『これ生ずるによりて彼生ず。これ滅するによりて彼滅す』は因果律、
『これ有るとき、彼有り。これ無きとき、彼無し』は「因果同時」と言い、ユングはこれを共時性と解釈した。お互いに離れた存在が、同じときに、その二人に起こることが関連し、関係し合っているという視点だ。
しかし、私たちは因果律以外のものを偶然として馬鹿にする傾向がある」
『これ有とき、彼有り。これ生ずるによりて彼生ず。これ無きとき、彼無し。これ滅するによりて彼滅す』とは、
岡潔著「情緒の教育」を検討した際▲に引用した道元禅師の話に通じます。
「ある禅師とその弟子とがいた。そのとき、風鈴が実にきれいに鳴った。禅師がその理由を聞くと、その弟子は『二心静寂なるが故に』と答えた。禅師はこれによって、ただちに、代々持ち伝えてきた正法眼蔵をその弟子に譲ったという。
二心とは主体としての法(その弟子)と客体としての法(風鈴の音)とである。(中略)
善行を行うためには『自他の別』を超え『時空のわく』を超えなければならない。
そのためには、無明(自我本能)を充分抑制しなければならない。だから道元禅師はまず『諸悪莫作』(諸悪なすなかれ)を徹底的に行えと訓えているのである」
二心静寂なる、とは、主体と客体が<自他の未分化性>において「時空のわく」を超えている、ということです。
これは、悟りといった高尚な現象でもありますが、私のような凡人にも起こるセレンディピティや何かに取りつかれたように無意識が発想を浮上させたり思考を展開する忘我の現象でもあります。
欧米人がセレンディピティとかブレインストーミングとかという英語で説明する現象や能力を、日本人はとりたてた命名をすることもなく、日常的にやってきたと私は思うのです。
たとえば、短歌や俳句、それを集団で交感する連歌や俳諧は、セレンディピティやブレインストーミングを活性化させる高度な対話形式に他なりません。
日本人にとっての<情緒>は、
呉善花教授が「日本的精神の可能性」で指摘している日本人の<自他未分化性>と<人工と自然の未分化性>▲をベースとして、
角田忠信教授が「日本人の脳」で提唱した情緒が左脳優位▲であること、
つまり欧米流とは異なる『もう一つの合理的思考』(情緒起点の推量)につながっていることを特徴とします。
これは、
まさに「因果律」+「共時性」=「縁起」を感じとり創りだしていく感性なのだ
と思います。
現代の日本人もその言葉遣いにおいて、
人間と自然との関係性や人間同士の関係性を重視し、また情緒性を含意した身体感覚を表現する多彩な擬態語や身体語を多用する和語を土台にして、
漢語(漢字=音読み)と洋語(特に戦後はカタカナ英語)を混交することにより、
欧米的な<知>起点の発想思考と中国的な<意>起点の発想思考とを、
良くも悪くも*日本的な<情>起点の発想思考において統合している。
(*起点となる<情>が利他的か利己的か、ポジティブかネガティブか、開放的か閉鎖的か、創造的か破壊的か、エロスかタナトスかなどで思考内容が真逆に振れてしまう。)
これは、
「縁起論的思考」をベースにして、
「目的志向論的思考(共時論的思考)」と「因果論的思考」とを
統合している、ということに他なりません。
(参照:
「現実論として『情緒起点でする推量』と『パラダイム転換』の関係を整理する(1)」
http://cds190.exblog.jp/4125838/
「(2) 」http://cds190.exblog.jp/4133979/
「(3) 」http://cds190.exblog.jp/4134207/)