あの世にもっていける気持ちだけで暮らす |
この前「あの世にもっていける気持ちだけで暮らす」というフレーズがふと浮かんだ。
思い出すたび言い得て妙だと思う。
あの世にもっていけない気持ちで暮らしていれば今生の一時一時が心苦しいだけではない。
死んだ時にそういう気持ちに囚われていればなかなか成仏もできないだろう。
感動とか感謝とか何かにつけて言う人がいる。
心の底からの深い感動や感謝は日々忘れないしあの世にもっていけるが、浅い感動や感謝は今生限りどころか二三日で忘れてしまうのではないか。
そういう深浅を思うと、私は感動とか感謝とかいう言葉をそうやたらに使えない。
たとえば父母の恩は子供にとって言葉ではない。
不思議なことに、反りの合わなかった父への私の感謝は、父の認知症が進みその妄想話に付き合い下の世話をするようになってから湧いてきた。それは私と父の関係における深い感謝であって、それまでに抱いていた育ててくれた恩に対するどこか杓子定規な感謝とは違った。後者はそれに比べれば浅かったように感じた。
父の介護を引き受けたのは、父の恩に報いるといった感謝ゆえではなかった。老老介護が限界にきて倒れた母を楽にさせたいという一心からだった。
当たり前のことではあるが、感謝はしようと思ってするものではないと実感した。
誰だって感謝する時は自然とする。しない時はしない、ただそれだけの話だ。
だから、よく何かをして感謝されないと腹を立てる人がいるが、仮に社交辞令で感謝されてそれで満足するとしたらその人は何を求めているのだろうとも思う。
世間には、何かをしてもらったことで逆に相手を馬鹿にしだす人もいる。そうやって負い目を払拭する人もいる。しかしそういう人にいちいちかかずらわっていると「あの世にもっていけない」気持ちのお裾分けに預かることになる。
感動もしようと思ってするものではない。
特に深い感動は誰だって自然とする。それはその人にとっての気づきだから、何に深い感動をするかは人それぞれで、する人はする、しない人はしない。
浅い感動ほどみんながしていると無自覚的に自分もと付和雷同してしまったりする。
父が大往生した後、老母を見守り世話する生活をしていて、その生活自体に日々感動してきた。
感謝があって親孝行するのではなく、親孝行していると感謝の気持ちが深まっていくのを父の介護で実感したが、母の場合、それは日々の感動のゆえで、感謝は森進一の「おふくろさん」的な過去に対するそれではなくあくまで現在に対するそれなのだ。
身体的には世話をしているのは私だが、心の面では私の方が生きがいや張り合いを得ている、というのが正直なところで、ゆえに今感謝を深めるのである。
7年前、都心を引き払い伊豆に引っ込んだ時は正直、人生こんなリタイヤの予行演習のような遠回りもあってもいいか、という投げやりな気持ちだった。
しかし、じつは人生で一番大切なところに近道したような気持ちに今はなっている。
いずれ母を看取ることになるが、その悲しみをものともしなくらいに喜びを溜め込んでいく、そんな日々なのかも知れない。