因果的な情動感情プロセスのどこに共時的解釈が可能なのかを再考する(2/3) |
「因果的な情動感情プロセスのどこに共時的解釈が可能なのか(2/3)」
「感じる脳」アントニオ・R・ダマシオ著/ダイヤモンド社刊 発
http://cds190.exblog.jp/6302018/
を再読して、現時点の関心事から再考する。
((1後半/3)http://cds190.exblog.jp/21729852/からのつづき
(2/3) と(3/3) に関しては、重要な基礎知識を正確に復習しつつ、分かりにくい表現の訂正に留めました。
合わせて現時点の検討は、次項(3/3) の後半で行います。)
生活経験と脳の情動装置
以上を整理するとこうなる。
「情動は、脳と心が有機体の内部環境と周辺の環境を評価(筆者注=認知)し、それにしたがい適応的に反応(筆者注=表現)する手段を提供する。
事実、多くの場合、われわれは情動を引き起こす対象を、まさに『評価』という本来の言葉の意味で、意識的に評価している。つまり、われわれはある対象の存在を処理するだけでなく、その対象との関係や、その対象と過去との結びつきも処理しているのだ。そういう場合には、情動の装置がありのままに評価する一方で、意識を有する心の装置が思考しながら同時に評価している。
いや、われわれは情動反応を調節することもできる。基本的に、われわれの教育的な成長の重要な目標の一つは、原因的対象と情動反応の間に非自動的な評価段階をさしはさむことだ。われわれはそうすることで、われわれの自然な情動反応が特定の文化の要求と調和するようにしている」
本項では、生活経験と情動プロセスの関係を、まず日常的用語法としての<知><情><意>の関係として確認することから始めたい。
1=日常的用語法としての<知><情><意>は基本的には「意識の世界」のこと
である。
一方、情動プロセスは、刺激によって引き起こされる身体的反応から起こる訳
だが、そこには無自覚的な「無意識の世界」のことも含まれる。
2=日常的用語法としての<知><情><意>それぞれに、行為を言う場合と成果
を言う場合がある。
<知>の行為は発想や洞察、思考であり、成果は知恵や知識である。
<情>の行為は情緒の発揮であり成果は情緒が形成する、<知><意>を除く
情緒の状態や関係であろう。
<意>の行為は意思や意欲であり、成果は意志や信念、精神である。
3=ダマシオの論述では、つまり脳科学や神経事象学では、
情動感情プロセスには、<情>の行為と成果の全体が含まれるのはもちろん、
(「意識の世界」にある)<意>の行為と成果も含まれる。
4=<知><情><意>の行為と成果には、個人レベル、集団レベル、社会レベル
がある。そして、それぞれに無自覚的な「無意識の世界」というベースがある
と同時にそれをさらに強化させていく。
社会レベルのこうした現象の全体が 「現象としての文化」である。
5=<情><意>の成果には個人レベル、集団レベル、社会レベルで<知>の成果
に流通するものがある。その内特に社会レベルの<知>の成果が「規範として
の文化」「索引としての文化」になっている。
ここで、<情><意>の成果でないもの、つまりは<知>の成果であるだけの
もの(たとえば科学技術)が「規範としての文化」「索引としての文化」にな
ることがないことに留意すべきだろう。
こうした確認事項を踏まえると、ダマシオの述べる「科学的な情動プロセス」と、私たちの「生活経験の文化プロセス」とを重ねてその差異と相関を検討していくことができる。
無論私は、後者の「生活経験の文化プロセス」の側から、私たちが情動感情プロセスの「現象の木」において「共時的な解釈」をできるところ、するところを見極めたいのだ。
ダマシオは前述した前提に立ってこう述べる。
「以上はまぎれもない真実だが、私がここで指摘したいの点は、情動が生じるために原因的対象(筆者注:<刺激>)を、いわんやその対象があらわれる状況(筆者注:<刺激>を生じさせる因果的ないし共時的関係)を意識的に評価する<必要>はないということ。情動はさまざまな状況で起こりうるということである。
たとえ情動反応が、情動を誘発しうる刺激の意識的認識なしに生じても、その情動には、そのときの状況に対する有機体の評価結果があらわれている。その評価が自身に明確に認識されていないことはどうでもいい」
トランスパーソナル心理学でフェルトセンスを重視してフォーカシングを確立したジェンドリングならば「どうでもいい」とは考えないだろう。それは学問分野の目的の違いだ。
そして、情動プロセスについての因果的な知識のなかった昔の人々もジェンドリングに賛成する。個人レベル、集団レベル、社会レベルのフェルトセンスを重視し、社会レベルでこれを「評価」する「索引としての文化」と、これを「創出」する「規範としての文化」を確立し発展させた。
そこでは「共時的な解釈」が長い月日をかけて綿々と行われ、その多くが現実的な妥当性をもった。「現実的な妥当性」とは、社会レベルの「生命調節」を成功に導くということである。無論、人類の歴史の中には多くの『現実的な妥当性」を欠いた「因果的な解釈」「共時的な解釈」という誤った「評価」もあったことは言うまでもない。しかしそれは、<部族人的な心性>が<社会的な心性>によって凌駕されたり一掃された後のことである。
「人間の発達の歴史の重要な側面の一つは、われわれの脳を取り巻いているほとんどの対象が強い情動だったり弱い情動だったり、よい情動だったり悪い情動だったりと、何らかの種類の情動を誘発する力をもつようになり、意識的あるいは無意識的にそうした情動が誘発されうる、ということと関係している。
このような情動誘発の中には進化によってセットされているものもあるが、そうではなく個人的経験をとおして、われわれの脳により、情動を誘発しうる対象と結びつけられるようになっているものもある」
たとえば、ある女性が嫌いな父親と同じ仕草をする男性を嫌ってしまうのだが、その理由を自覚していない場合があったりする。ある男性が上司を以前反りが合わなかった者と同じタイプと評価して敵対するのだが、どの程度ほんとうに同じタイプなのか確かめる訳ではない場合があったりする。
ダマシオは言う。
「いずれにしても、本を書けるような年齢になるころまでには、この世に情動的に中立なものはほとんどない。ほとんど認識できないほど弱い情動反応を起こす対象もあるし、強い情動反応を起こす対象もあるし、その間にもいろいろなものがある」
そして、
「複雑な有機体(筆者注:著者が人間のことを論じているこの箇所では、集団や社会のことを指しているのではないか)もまた、情動の実行が、個々の環境と調和してなされるよう調節することを学習する(中略)。
情動調節装置は、有機体の意識的な熟考なしに、情動の表出の強さを調節することができるのだ。(中略)
情動を誘発しうる対象は、現実のものかもしれないし、記憶から想起されたものかもしれない」
こうした「有機体の意識的な熟考なしに、情動の表出の強さを調節することができる」情動調節装置の社会レベルのものが、<刺激>やそれによる<身体的反応>を無意識的にあるいは意識的に評価させる「索引としての文化」であり、それらを無意識的にあるいは意識的に創出させる「規範としての文化」と言えよう。また、そうした文化を陰に陽に操るのが「操作としての政治」なのだろう。
私たちはプリミティブな形で個人レベルでも、<刺激>やそれにより引き起こされる<身体的反応>を無意識的にあるいは意識的に評価したり創出したりする。社会レベルの情動調節装置は、最終的にこの個人レベルの情動調節装置に受け入れられなければそれとして機能しない。「操作としての政治」も文字通り笛吹けど踊らずで機能しない。
プリミティブな形の個人レベルで、「因果的な解釈」「共時的な解釈」とは具体的には何なのだろうか。
まず解釈という以上、それは「意識の世界」の行為である。ただ、「無意識の世界」の成果を認知しよう、あるいは表現しようとする行為である場合もある。
ここで、因果律には原因Aから結果Bに至る時間差があり、Aがある時Bもある共時性において時間差がない、というシンプルな事実は重大だ。
部族社会の人々にとって、「無意識の世界」とは近代以降の人々のように意識が抑圧した想定外の世界ではなかった。彼らにとって「未知の世界」「不可思議の世界」は常に意識が対峙する想定内の世界だった。
ただ目の前の状況は現実として意識できても、なぜそうした状況が発生なり成立しているのかは分からない。その誰もが分からないがそういうものだと受け入れてきた部分が、ユングが捉えた「無意識の世界」だった。部族社会の人々には意識という概念もなく、彼らの認知表現としてはそのように言うしかない。
部族社会の人々にとって、因果律とは因果応報のことであり、悪いことをすればその報いを受ける、いま悪いことが起こっているのはすでにしたことの報いだという解釈だ。
一方、共時性とは、マクロには大いなる意志に従って森羅万象が同時に起こっているという解釈だ。アニミズムや霊的信仰のそもそもの前提である。
たとえば、春がくれば時を同じくして様々な植物が芽吹き動物が発情する。この時、春がくることが原因で芽吹きや発情が結果である、という認知表現は彼らには意味をなさなかった。なぜならそれは分析の対象とはならない摂理そのものだったからだ。冬の次になぜ春が来るのかと問わないように、春になるとなぜ芽吹くのか発情するのかを問わなかった。問わなければ解釈される世界も宇宙も主体にとっては存在しないのである。
ご先祖様を祀り敬う。それを疎かにすると罰があたる。疎かにするのが原因で罰があたるのは結果だが、そうしたことのそもそもの前提である、ご先祖様が自分たちを見守ってくれている、というのは摂理である。そもそも私たちがいる時ご先祖様もいる、という共時性がなければ因果応報は成り立たない。
原理が未知で不可思議だが事実としてそういうものであると誰もが疑わないことを摂理とすれば、「共時的な解釈」とは摂理に照らして現象を評価することだったと言えよう。
摂理は人間を超越する何か大いなるものの意志の働きと捉えられたから、「共時的な解釈」の原点は、摂理にそなわい事態が発生した時に、大いなる意志にそわない事態が発生していると捉えた。そこには「因果的な解釈」と微妙だが決定的な違いがある。因果律は原因Aが先に起こって結果Bに至るしかなく、大いなる意志にそわない事態が発生したことが原因となって摂理にそわない事態が発生するという結果を導いているとも解釈できる。しかし、部族社会の人々が捉えたのはそういう経過ばかりではなかった。摂理にそわない事態の発生を、このままいくと大いなる意志にそわない良からぬことが起こる予兆としても受けとめたのである。予兆は後に起こる結果の原因ではない。
縁起は因果律と共時性が分別されない渾然一体の一元論であるが、その縁起をあえて因果律と共時性の二元論の統合として図式化して、予兆を説明するとこうなる。
すべてのことが起こった後から全体を振り返って話として、
原因Aが起こって結果Bが起こった
一方、Aがある時Xがあり、Bがある時Yがある。
さらに、Xが原因となってYが結果として生じる、
ということが言えたとして、ただ最初の段階ではこうした全体は未知であるとしよう。また最終的にもXが原因となってYが結果として生じる理由は分からないとしよう。
このような場合、<部族人的な心性>は、
最初にXが発生した時点でXがBの予兆であり、Bを未然に防ぐにはこの時点で発生しているか発生する筈のAを見出して排除すべしとした。
部族社会が想定した大いなる意志の目的とは、「人間が自然と共生し、社会的に調和すること」であった。それは、人智の及ばぬ摂理に従うことで達成される。
ある行いが摂理に従うものか背くものかを照らすとは分析的思考ではない。無論、それを多元論的に総合した俯瞰的思考でもない。
主体の内に向かってする「良心的な情緒に心身を委ねる」ことや
主体の外に向かってする「天意を知るべく占う」ことであった。
主体の情緒と環境の天意とを照らすことが「共時的な解釈」の主成分だった。
情緒とは、創造的な認知表現プロセスの端緒となるポジティブな情動プロセスをもたらすでもあり、破壊的な認知表現プロセスの端緒とあなるネガティブな情動プロセスをもたらすものでもある。
原始的という意味でのプリミティブな情緒の話の典型は、私たち現代人の日常的な実感でもある「内平らかにして外成る」だ。
よい情緒に心身を委ねていると、自然とよい情緒をもたらすような物事が集まってくる、悪い情緒ならばその逆という感じ方や考え方だ。
これを「内平か」が原因となり「外成る」という結果をもたらすと「因果的な解釈」をすることもできるが、そもそも天意を全うしていた調和状態があったという前提があり、その理想状態においては、そもそも「内平か」である時「外成る」があったと「共時的な解釈」をしている。
だから、こう考えるのが一番、実際に近いのだろう。
つまり、部族社会の人々は、
人間を超越するものによって摂理が全うされている理想状態は「共時性」が働いていて、
摂理に背いたりあるいは従おうとする人間社会の実相においては因果応報という「因果律」が働く
と捉えらえていた。
それはおおよそ現代世界の私たちの生活実感や世相実感でもあろう。
また現代人の認知表現プロセスにおいても、同様の構造を見て取ることができる。
たとえば、摂理が全うされている理想状態は「共時性」が働いていて、これを認知して表現しようとする行為が、社会レベルで外に向けて表現するのが「芸術」とされ、個人レベルで内に向けて認知するのが「瞑想」だったりする。
情動を誘発する「鍵と鍵穴」「バイパス」そして脳や身体をとりまく仕掛け
ダマシオは「鍵と錠前」という表現をしている。
本ブログで私は、すでに「言語と文化」たとえば「日本語と日本文化」の関係を「鍵と鍵穴」の関係と記述してきたが、この文脈とダマシオの論述とが重なってきたので、「錠前=鍵穴」と記述することにする。
「神経学的に言うと、情動を誘発しうる対象と関係するイメージは、視覚領域や聴覚領域のような、一つまたはそれ以上の脳の感覚処理システムにおいて表象されねばならない。これをプロセスの提示段階と呼ぶことにしよう。提示は束の間だが、その刺激の存在に関する信号が、脳の別の場所にあるいくつかの情動誘発部位で利用できるようになる。
これらの部位は、鍵が合致したときのみ開く錠前(筆者注=鍵穴)と見ることができる。もちろん、情動を誘発しうる刺激が、ここで言う鍵である。注意すべきは、情動を誘発しうる刺激は、すでに存在している錠前(筆者注=鍵穴)を選択するのであって、脳に新しい錠前(筆者注=鍵穴)の作り方を教えるのではないということ。
ついで情報誘発部位は、脳の別な場所にあるいくつかの情動実行部位を活性化する。この後者の部位が、身体に生じる、そして情動---感情のプロセスを支える脳諸領域に生じる、情動状態の直接的原因だ。
最終的に、情動のプロセスは反響してそれ自体を増幅することもあるし、縮退して消えていくこともある」
私が「鍵と鍵穴」の関係と記述してきた「言語と文化」の関係では、言語という鍵が文化という鍵穴に合う形で形成されたり使用されたりするだけでなく、言語という鍵が新しい文化(そして政治)という鍵穴(錠前)を作りもする。
人間の個々の脳や身体が基本的には固定された生態系であるのに対して、文化を担ったり育んだりする社会や世界は変容する生態系という決定的な違いがある。しかし、人間が社会を、人類が世界を構成する以上、世界内存在として人生をおくり生活をくらす私たち個々は社会や世界との相互作用の中で変容したり古今東西誰もに普遍的なところを維持したりしていく。
その際、私たち個々に現れる変容性や普遍性がもっとも集団や組織や社会や世界と相互作用するのが、知情意の内では<情>と言える。<知>には偏向や偏重の可能性がつねにあり、時にそれに裏打ちされる<意>も同じだ。イデオロギーや選民思想などに根ざした<意>の場合、みんなと同じでいたい、違うことを言って仲間はずれにされたくないという<情>に根ざしているとも言えるが、それは<情>の普遍性が社会と強く相互作用しているということだ。
思うに、社会において大衆が参画する最終段階では、
新しく作られた文化(そして政治)という鍵穴(錠前)にあう新しい鍵になる<刺激>をもたらす言葉、これをもって人々が話をする(思考する)ようになる。
すると、個々人レベルではそうした社会に対する「勘」として<背景的情動>が誘発され、恐れたり喜んだりする<一次の情動>が誘発され、共感したり当惑したりする<社会的情動>を誘発される。
多くの人々が思考により理性的な話し合いや判断を積み重ねていると意識しているのだが、現象的には、無意識的にこうした情動プロセスに導かれている。
卑近な例で言えば、小泉前総理が「自民党をぶっ壊す」といって誕生した時に賛同した同じ人が、いま小泉政治を「弱者いじめの政治だった」と批判する(2007年の論述)。
冷静に客観視すれば、その人が話していることが状況に依存して受動的に変化しただけで、その人の思考が主体的に着実な手続きをもって変化したということではない。こういう人々の言動が同期し多発していって大衆の社会参画に結実している。
いずれにせよ、人々の言動を表出させる脳内現象は化学反応であって、それを喚起したり調節するのが情動プロセスなのだ。
では、人間とその社会は心もとないものか?
動物と同じ「情動プロセス」の強さからそうとも言えるし、
人間ゆえの「感情プロセス」と「思考プロセス」の強さからそうではないとも言える。
「感情プロセス」は、個人レベル、集団レベル、社会レベルにおいて、最終的には文化(そして政治)を拠り所として確定する側面がある。同じ「感情プロセス」の行為や成果に対しての評価は文化(そして政治)の価値観によって異なる。
そしてそのことに、たとえ理性的な見えがかりがあったとしても、みんなが従っている規範や規制に従おうとする「情動プロセス」が働いていることが大いにある。つまり、動物と同じ「情動プロセス」が「感情プロセス」を方向づける可能性は否定できず、「感情プロセス」が人間ならではのものだからと言って手放しで人間的な行為や成果に向かうとは限らない。
一方、文化(そして政治)という鍵穴は、新しい言語という鍵に応じて作っていくことができる。
ここで言う言語とは、話したり書いたり読んだりする言葉だけでなく、音楽や舞踏や絵画やファッションやデザインなどなど多彩なコミュニケーション手段のことで、それらすべてが「情動プロセス」の起点である<刺激>になる。
よって、文化(そして政治)の有り方次第で、創造的な「情動プロセス」を導くことも破壊的なそれを導くこともできる。そのことは「情緒教育」「情操教育」の重要性そしてその操作可能性のリスクとして論じられている。
私が言葉の働きを重視するのは、言葉とそれによるコミュニケーションの構造的特徴が、そのまま文化(そして政治)の構造的特徴に反映するからだ。
特に日本語とそのコミュニケーションの「場依存性」や「歌謡性」は部族社会由来の構造的特徴であって、それが日本文化(そして日本政治)の構造的特徴の中核を形成してきたと言える。
このことは、日本人の個人レベル、集団レベル、社会レベルの「感情プロセス」はもとより「情動プロセス」そして「思考プロセス」に深く関係している。
日本語の構造的特徴とそれによる成果である日本文化(そして日本政治)をよりユニークな豊かなものにしていくためには、日本語教育は、人間と人間の関係、人間と自然の関係についての情緒と情操を高める一環でなされるべきだ。
「興味深いことに、情動を誘発しうる刺激(ECS)の存在にわれわれが気づいていようといなかろうと、正常な扁桃体はその誘発的機能を行使する。
情動を誘発しうる刺激を非意識的に感知する扁桃体の能力」
たとえば、
「アーニー・オーマーンとレイモンド・ドランの最近の研究で、特定の刺激(たとえば、単なる怒りの顔ではなく、ある特別な怒りの顔)がある不快な事象と結びついていることを、健常者たちがいつの間にか学習することが明らかになっている。悪い事象と結びついている顔をこっそり提示すると、<右の>扁桃体が活性化される。しかし、それ以外の顔をひそかに提示していてもそうはならない」
さらに、
「情動を誘発しうる刺激は、選択的な注意に先んじて、ひじょうに素早く感知される。
たとえば、後頭葉あるいは頭頂葉の障害によって盲目視覚野(つまり、『無視』により刺激が感知されない視覚野)が生じた後も、情動を誘発しうる刺激(たとえば、怒りとか喜びの顔の表情)は盲目または無視の壁を『打ち破り』、実際には感知されたのだ。情動誘発装置がこれらの刺激を捉えるのは、刺激が通常の処理チャンネル(普通なら認知的評価をもたらしていたはずだが、盲目ないしは無視のためにそれがまったくできないチャンネル)をバイパスするからだ。この『バイパス』という生物学的解決の価値は明白だ。それは、注意を払っていようがいまいが、情動を誘発しうる刺激が<感知されうる>ということである。そしてこれにより、その後に注意としかるべき思考をそれらの刺激に<さし向けることができる>」
つまり、特定の鍵穴(錠前)がこわれていたり、そもそも数が少なく無かったりしても、「バイパス」という奥の手があるといういことだ。
「最近の研究では、人間の扁桃体の中のニューロン一本一本から直接信号を記録してみると、大部分のニューロンが快い刺激にではなく不快な刺激に反応するようになっていることが示されている」
という。
不快の刺激から恐れや怒りを抱く「情動プロセス」はほっておいてもフル回転している。
ならば、せめて文化(そして政治)による情動調節をすすめる教育は、快の刺激から楽しみや喜びを抱く「情動プロセス」に向かう情緒を活性化させるようにすべきだろう。
脳内にそういう働きをする鍵穴(錠前)の数が足らないのなら、どんどんそういう働きをする「バイパス」を作るべきだ。
私個人としてはそういう考え方で、子供の短所を直すことより長所を伸ばすことを優先する教育論もある。しかし世間一般に、子供が先々困らないようにいろんな勉強を早め早めに詰め込む教育方針が人気だ。
私は、詰め込みが悪いのではなくて、詰め込みさせる社会や親たちの動機が、恐れや怒りを抱く「情動プロセス」による競争的なものであり、それにつねに親や教師の表情を通して子供たちが幼い時からさらされることを問題視する。
子供たちにつねに触れて欲しいのは、楽しみや喜びを抱く「情動プロセス」による共生的な動機や表情ではないか。そのためには「情操教育」と言うよりもずばり「感動教育」が有効だと思う。
私は子供の頃、家業が忙しく親に放任され、成績が悪くても勉強しろと言われたことがない。都心にしては自然豊かで樹々の茂った丘や魚釣りのできる掘りや池があり、また子供が自由に出入りできた大学キャンパスやさまざまな廃墟(廃屋化していた迎賓館や今、首都高速になっている廃線になった都電線路など)があって毎日、冒険と悪戯にかまけていた。今にして思えば、子供たちで「感動教育」の自習をしていたようなものだった。
話が脱線しているようだが、そうではない。
ここで、
恐れや怒りを抱く「情動プロセス」による競争的な動機や表情は、因果律で現象していて、かつ「因果的な解釈」によって成立しているのに対して、
楽しみや喜びを抱く「情動プロセス」による共生的な動機や表情は、大いなる意志にそう理想状態はこうだという摂理を体現しているという点で、共時性で現象していて、かつ「共時的な解釈」によって成立している
ということを体験的な現実として指摘しておきたいのである。
たまたま私が通った学区の小学校は、区立にもかかわらず9割が学区外からの越境だった。親が何らかの手段で現住所を変更して子供を学区外から通わせる。中には小学校の最寄り駅の四ッ谷に大船から通う低学年の同級生もいてテレビで取材されていた。四ッ谷には有名な学習塾があり、そうした越境組のお金持ちの子供の多くがそこにも通っていた。親も子供もよく勉強すればいい学校に行ける、いい学校に行けばいい会社に入れる、いい会社に入れば幸せになれるというシンプルな因果律にのっとっていた。
一方、学区に家があり徒歩で通う地元の子供は、都心の邸宅に住む高官や社長の子息もいたが、私のような自営業の子供が多かった。私たちは家に入れば家業を手伝わされるだけだからつねに新しい遊びを求めて徘徊していた。近所の学齢の異なる子供が群れて遊ぶことも多かった。遊び仲間の間では、脳裏に地図のようなものが共有されていたと思う。それは大人の地図とは違って道路や住戸や敷地が基準になるものではない。表ばかりのつまらない所と裏のいりくんだ面白い所、安全な所と危険な所、そんな陰陽や異界が布置された「情緒の地図」である。「情緒の地図」とはあそこに行くとこういう気分になる、あそこにいるとこんな感じがするというもので、場におけるAがある時Bもあるという共時性を経験的に積み上げて共有したものだ。そして、同じ情緒の地図を共有していても、え、あそこでそんなことをしたんだ、え、あそこでそんなことがあったんだ、と仲間の挑戦や遭遇を聞いては個々の個性を理解した。あいつはそういうことをやっちゃうやつなんだ、あいつはなぜかよくそういうことに出会うよな、と。
「勉強しないと立派な大人になれませんよ」という教育がいいのか、
「みんな仲良く互いの個性を尊重しあってると楽しいでしょ」と自分で体験させる教育がいいのか。
私は自分の確信のあることしか言えないから、後者がいいと思う。
「もう一つ別の重要な誘発部位は前頭葉に、それもとくに前頭前・腹側内側にある。この領域は、より複雑な刺激の情動的意味を感知するように調整されている。
ここで言う複雑な刺激とは、たとえば、社会的な情動を誘発しうる対象と状況がそれだ。そこには、生まれながらのもの、学習によるもの、双方が含まれる」
ダマシオは、「他人の事故を目撃することで呼び起こされる同情、そして人が死ぬことで呼び起こされる悲しみ」といった共生的な動機や表情に通じる事例を上げている。
これは、前述の教育論で言えば、楽しみや喜びを抱く「情動プロセス」による共生的な動機や表情と関係深い。共生的な動機や表情が失われていることについての「察し」だからだ。
恐れや怒りを抱く「情動プロセス」による競争的な動機や表情ばかりが促進されれば、「自分さえ良ければいい」として、「察し」ができない、「察し」をしない人間が増産されることになるのではないか。
ダマシオは、「過去に嫌な経験をした家の記憶から同様の家を嫌悪する」事例も上げている。
このことは、「学校社会で嫌な経験をした人間関係の記憶から、社会に出た後も同様の人間関係を嫌悪する」という「情動プロセス」のことでもある。そして、学校社会の「察し」をしない人間関係が、あるいは特定の「察し」方しかしない人間関係が企業社会や地域社会にそのまま反映する、そういうことはすでに起きている。
「情動を誘発しうる刺激がきわめて社会的で、それに対する適切な反応が当惑、罪悪感、絶望、といった社会的情動であるとき、前頭葉へのダメージはそうした情動の能力を一変させる(中略)。この種の損傷は正常な社会的行動を危うくする」
これは、前頭葉がダメージを受けた時の話だが、前頭葉の使い方が偏った場合に偏った社会的情動が誘発されやすくなる回路の発達をも説明するのではないか。
「たとえば、発作の外科治療に対する評価を受けている神経疾患の患者の前頭葉・腹側内側領域からの単一細胞活動記録は、この領域の多数のニューロンが、<不快な>情動を誘発しうる写真に劇的に反応することを、それも左より右の前頭葉でそうであることを明らかにしている。
ニューロンは刺激が提示されてからわずか120ミリ秒(0.12秒)で反応しはじめる。そしてまず、自発的な発火パターンを一時停止する。ついで、少しの静寂があってから、より強力、より頻繁に、発火する。逆に、<快い>情動を誘発しうる写真に反応するニューロンはほとんどなく、あっても、不快なものに同調するニューロンに顕著に見られるストップ・アンド・ゴーのパターンなしに反応する。(中略)
デヴィッドソンは、健常者に対して行った脳波の研究をもとに、右の前頭皮質は左のそれよりネガティブな情動と結びついているという考え方を示した」
なんとここでも、脳は不快の刺激の方に強く反応する訳だが、右脳優位ということが注目される。
右脳がほっといても不快の刺激に反応するならば、右脳に快の刺激を与えて反応させる「感動教育」はなおさらのこと必要なバイパスづくりだと言える。
人類は、部族社会の昔から、個人レベル、集団レベル、社会レベルを一貫する形で<快の刺激→快の身体的反応→快の情動発生>というポジティブ・プロセスを集中的に活性化させる「祭り」を営んできた。
そうしなければやってこれなかったからだと、以上の脳科学と神経事象学の知見は言っているかのようだ。
私は「場依存的な日本人」が得意とする集団独創をいかに促進するかという方法論を、
企業やその部門においては、
対内的には「日本の予祝儀礼=祭という非日常的時間」に求め、
対外的には「『異界との重なり領域』における交換儀礼=市という非日常的空間」に求めてきた。
両者ともに、
個人レベル、集団レベル、社会レベルで<快の刺激→快の身体的反応→快の情動発生>というポジティブ・プロセスを集中的に活性化する「祭り」の基本パターンと言える。
((3前半/3) http://cds190.exblog.jp/21737250/につづく)