NHKテレビテキスト
100分de名著「古事記 歴史は一つではない」三浦佑之著 発
「古事記」が記した日本人の<社会人的な心性>のベース=<部族人的な心性>(5)
http://cds190.exblog.jp/21401269/からつづく。
本項(6)では「第3回 出雲神話という謎」の内容を、
前項(5)で述べた以下のような
「定住民」「転住民」「移動民」という視座から検討したい。
(再掲)
「稲羽のシロウサギ神話」が意味するもの
出雲神話は、古事記の上巻の三分の一が割かれている古事記のシンボルとも言える物語群だが、日本書紀には出て来ない。
古事記は「暗黙知・身体知の集大成」、日本書紀は「明示知・形式知の集大成」と捉えることができる。
日本書紀にはない出雲神話は「暗黙知・身体知の核心」と言えよう。
「その出雲神話の中心的存在がオホクニヌシノミコトです。スサノヲから数えて七代目にあたる子孫で、出雲大社の祭神。みずらに結って大きな袋をかついだ姿はおなじみです」
私は、オホクニヌシのトレードマークの大きな袋は「移動民」のシンボルであると捉えている。
「定住民」と、どこかに居住中の「転住民」は所有物をどこかに置いておける。しかし、「移動民」は所有物を常に手荷物として持ち歩かなければならない。オオクニヌシ(正確にはオオナムヂ)は、兄たち八十神の荷物も全て持たされたので大きな袋となった。
それが、
後世の神仏習合で大国主と同一視された大黒様では、米俵にのって打ち出の小槌と合わせて持つ、幸運や幸福が入っている福袋となっている。大黒様のルーツは、ヒンドゥー教のシヴァ神の化身であるマハーカーラであり、青黒い身体に憤怒相をした護法善神である。よって、大黒様の笑顔と福袋は、神仏習合時のオオクニヌシからの連想ということになる。これは、オオクニヌシのイメージにおいて、笑顔と大きな袋が重要な要素であったことを示している。
オオクニヌシは知識を持っていた。稲羽のシロウサギに教えた傷を治す治療法のような人や社会に役立つ知識である。
笑顔がオオクニヌシの人間性に由来するのに対して、大きな袋は、大国主の社会貢献的な知識に由来する。
具体的には、先進的な大陸の文明文化という幸せの素が入っていると人々に思われるようになっていて、それを連想させるように大黒様の福袋が想定されたと考えられる。
「稲羽のシロウサギ神話」はオホクニヌシの移動物語だが、大きな袋が象徴する
大陸の文明文化の伝播物語でもある。
オオクニヌシだけが担った大きな袋は、単に移動する八十神と、文明文化を伝播するオオクニヌシとの違いを、結果的に象徴している。
「ある時オホナムヂ(のちのオホクニヌシ)が稲羽(因幡)の国の気多(けた)の岬を通りかかると、肌が赤くむけて泣いているウサギに出会いました」
この岬という場所が<異界との重なり領域>であることは重要だ。
岬は、陸路で海岸を行った時に折り返す突端であるが、山の峠と同じで、陸上のある世界とある世界との「境界域」である。原初の沈黙貿易が行われたのもこのような、どの部族の縄張りにも属さないエリアだったと思われる。
<異界との重なり領域>は、そこをいかに通過するかという通過の仕方によって、本質的なことが試される通過儀礼の場でもある。
先走って言えば、
そこを先に通過した兄たち八十神は悪玉の「移動民」としての「荒神」性を露呈させ、最後に通過した弟オオナムヂは善玉の「移動民」として文明文化の伝播性を露呈した。
それは、転住先の先住民に歓迎され必要とされる善玉の「転住民」になりうる資質に他ならない。
オオナムヂが
「『どうしておまえは泣き伏せっているの』と訊ねると、ウサギはわけを話しました。
ウサギはオキ(隠岐)の島から稲羽までの海を渡るため、ワニ(フカ,あるいはサメのこと)に悪知恵をしかけたそうです」
と自分の計略とそれがあと一歩のところで失敗し大けがをしたおなじみの話をする。
ウサギはどうして島に渡ろうとしたのか。
江戸時代初期の鳥取藩侍医小泉友賢の『因幡民談記』では、『塵添壒嚢鈔(じんてんあいのうしょう)』に「老兔」の記載があるため、大兔(おおうさぎ)明神は老兔(ろううさぎ)明神であると考察し、菟は◇(にんべんに竹の右側を書く)草の林の「老兔」であり、洪水によって林から流され、◇の根に乗って沖の島に着いた。帰るために「鰐という魚」をたばかって、己とおまえとどちらが家族が多いか数えようと言って鰐を集めてその背を渡ったという。
他に、あるお姫様に会おうと島に渡ろうとしたという話もある。
いずれにせよ、ウサギの動機は一過的なものであり、ウサギは海上移動に不慣れな「定住民」を暗示する。
一方、ワニは、フカ,あるいはサメとも言われるが、いずれにせよ、集団で隊列を組んでウサギの海上移動を助けたことから、海上輸送を生業とする「移動民」を暗示する。
そして、
弟オオナムヂは善玉の「転住民」となりうる資質を、困難に直面している「定住民」のシロウサギに認めらて、その評判がそのまま因幡の「定住社会」の首長の娘、ヤガミヒメに伝わることになる。そして、ヤガミヒメに見染められたということは、首長の信頼と期待を得たということである。
隠岐は、大陸と本州の環日本海各地の交易拠点を外洋航海で結ぶ中継拠点である。
本州沿岸部の交易拠点のように近隣の海運と陸運と直結していない。
よって、
ワニは、隠岐の環日本海外洋航海の中継拠点と、島根半島東部のそれ以東の本州の沿岸航海の発着拠点との間の海上輸送を担う「移動民」を暗示すると考えられる。
島根半島東部の端(鳥取県の西部・中部)に位置する「伯耆国」は、「出雲国」東部と同様に鉄器製造が盛んであり、これらの地方の鉄が大和政権の原動力になったとの見方がある。会見郡の中海周辺に集荷分荷拠点があり、鉄素材が荷上げされたり鉄器が荷積みされたりしたのだろう。
それに対して「因幡国」は稲羽、稲場・稲葉と書かれるように大規模稲作拠点があったのだろう。気多岬のある気多郡は、所在不明だが山陰道の柏尾(かしわお)駅があったとされ、陸路と海路が接続する近隣交易拠点だったと考えられる。
「伯耆国」にも「因幡国」にも同盟「出雲族」の共通墓制である四隅突出型墳丘墓があった。しかし、ワニに象徴される会見郡の海上「移動民」と気多郡の海上「移動民」は、それぞれの活動海域と活動役割が割り振られていて、それを守ることで同盟「出雲族」の一員とみなされた。
因幡のウサギがワニを騙してが隠岐から気多岬に渡ろうとしたことは、会見郡の海上「移動民」に割り振られた活動海域と活動役割からの逸脱をさせた事になる。
騙したワニに復讐されたウサギの状態は悲惨で、読む者に、何もそこまでやらなくても、と思わせる。
それは、
環日本海交易ネットワークの遠隔地交易という全体を構成する部分として割り振られた活動海域と活動役割を逸脱した海上「移動民」の危険性を暗示している。
そもそも人類普遍的に、交易と戦争、交易船と海賊船の区別は流動的だった。同盟「出雲族」は、構成員の海上「移動民」に活動領域と活動役割が割り振っていて、それを守ることで相互協力的な協働が約束されたと考えられる。
オオクニヌシだけがもつ大きな袋というトレードマークは、新来の文明文化を象徴する
<知恵袋>と言えると同時に、
兄たち八十神のパシリのような過酷な経験や忍耐を象徴する<堪忍袋>でもあった。
オオナムヂは(その能力が肉体労働ではなく知識労働に向いていたために)「移動民」の最下層だったが、挫けることなく忍耐して自分の資質を生かしたがゆえに、「定住民」の先住民から歓迎される「転住民」としてその最上層に成り上がっていった。
この<堪忍袋>の持ち主は、遭遇する困難からカムムスヒ、それが遣わしたキサカイヒメとウムカイヒメ、スセリビメら女神によって救われた。
結果、
兄たち八十神は悪玉の「移動民」に留まり
オオナムヂは善玉の「転住民」になる可能性を萌芽させた訳だが、
スサノヲもこの<堪忍袋>を持ち合わせていなかった。
そのため、
スサノヲは「根の堅洲国」の国主という「交易ビッグマン」(定住民)にはなれたが、オオクニヌシのような環日本海各地の「交易ビッグマン」たちを統べる盟主のメタ「交易ビッグマン」(新拠点開拓を繰り返してネットワークする転住民)にはなれなかったと言えよう。
盟主のメタ「交易ビッグマン」は、実力主義で「交易ビッグマン」たちから選任されるが、そのリーダーシップの源泉は権力ではなく遠隔地交易の共同ビジネスモデルを構想して具現化する権威であった。
構想力には<知恵袋>が、具現化力には<堪忍袋>が必要だった。
「稲羽のシロウサギ神話」は、
「移動民」と「転住民」では
同じに先住民が暮らす「定住社会」に向かうとしても
目的も行動もまったく違う
ということを着実に踏まえている。
「転住民」は先住民の生活レベルが向上する方向で知識を与える。
それは、現地に住んで活動することが先住民に平和裡に受け入れられるための必須条件に他ならない。
古事記では、現地「定住民」に受け入れられることは、その「定住社会」の首長の娘との婚姻によって象徴されている。よって、首長の娘に気に入られるための必須条件とも言える。
一方、
「移動民」の典型は、海上輸送や陸上輸送に携わる肉体労働者である。
物を「定住社会」Aから「定住社会」Bに運んで、物流により「定住社会」同士の交易を助けて「定住民」の生活と産業に貢献する。これは悪玉ではありえない。
悪玉の「移動民」の典型は、海上輸送からみでは海賊、陸上輸送からみでは山賊である。彼らは輸送する物を奪うから悪玉であるが、一般的には通行料を払わせて輸送の安全を保証する形なので悪玉とも言い切れない。払わぬ者が襲われた。
しかし、
八十神は陸上「移動民」を暗示するが山賊ではない。ならば何を暗示するのか。
そもそもヤガミヒメという「定住社会」の首長の娘を娶ろうとして兄弟たくさんでやってきた、ということにヒントがある。
ヤガミヒメ絡みで末っ子のオオナムヂには嫉妬をむき出しにして攻撃したが、八十神同士は争わない。
私個人的には、
八十神は、朝鮮半島で小国群から未勝目料をとって回っていた扶余系の騎馬民族「濊(わい)人」を暗示している
と捉えている。
前漢武帝が朝鮮の直接経営に乗り出して「領域国家」化の波が及ぶと、朝鮮半島北部の扶余系の騎馬民族からその外臣化して「くに」を建てたり、自らの「国」を建てたりしていった。それができなかった諸派が南半に南下して、小国群から未勝目料をとって回る二重支配者となる。
やがて「領域国家」化の波が南半にも及んだ段階で、「国」を建てた支配層の一部になったり、建てられた「国」の統一軍になったりできなかった「濊(わい)人」が食いっぱぐれた。一方、建てられた「国」の「管理貿易」を亡命中国商人の後裔が政商型交易者として独占した。すると、自然発生的な「自由貿易」をしてきた縄文人交易民の「倭人」も食いっぱぐれた。この「倭人」が「濊(わい)人」を導いてバックアップして西日本に侵攻、征服王朝を樹立するに至った。
無軌道な八十神は、この朝鮮半島南半で小国群からみかじめ料を取って回っていた「濊(わい)人」を暗示している。彼らはお互いに争うことなく、協力して西日本への侵攻に向かった。
一方、ヤガミヒメに見染められ婚約したオオナムヂは、「国」を建てた支配層の一部になったり、建てられた「国」の統一軍になったりできた「濊(わい)人」を暗示している。また、「出雲族」の由来を踏まえれば、「国」を建てた支配層の一部になったり、建てられた「国」の政商型交易者になったりできた亡命中国商人の後裔を連想させもする。
(ちなみに、
西日本で初期ヤマト王権を樹立した「濊(わい)人」首長層の、朝鮮半島南半の「新羅」や「百済」の支配層の一部を構成した「濊(わい)人」首長層に対して、微妙な感情を抱き続けた。
「国」としては対抗意識を持って国内体制を充実するよりも朝鮮征伐に意欲的だった。
「濊(わい)人」首長層としては、「百済」のそれに連携する者(畿内にまで侵攻)と「新羅」のそれに連携する者(九州にとどまった)がいた。)
一般論としては、「転住民」「移動民」ともに善人もいれば悪人もいる。
そこを敢えて
「稲羽のシロウサギ神話」では、
オオナムヂの善玉「転住民」になりうる善良な資質を
八十神の悪玉「移動民」の極悪非道の行状と対照させることで
際立たせている。
悪玉「転住民」の典型は、侵攻という移動を成功させて橋頭堡や租借地を獲得する侵略者や、征服王朝を打ち立てる征服者である。
つまり、ヤマト王権を樹立した初期勢力の中核「濊(わい)人」自身がまさにこれであった。
しかし、自分たちのことは隠蔽して、支配主体を「天皇」(大王)としそれを「天孫族」の後裔として正当化した。
その上で、自分たちに敵対するだろう、新たにやってくる侵略者型の侵攻「移動民」を最大の悪玉として、無軌道な「移動民」である八十神によって連想させた。
古事記が編纂された7世紀後葉から8世紀前葉にかけて、ヤマト王権が拠点とする畿内からみれば、磐井の乱を起こした「九州豪族」は侵略者型の侵攻「移動民」になる可能性のある存在だった。
出雲神話では稲羽の白兎譚の後も悪玉「移動民」八十神の極悪非道は繰り返し展開する。
記紀編纂期のヤマト王権は、初期ヤマト王権という征服王朝を樹立した騎馬民族「濊(わい)人」のような存在に悪玉イメージを刷り込んだが、それは、天皇の祖先とする「天孫族」がイコール「濊(わい)人」と決して結びつかない印象操作をしたとも言える。
(なお、
ヤマト王権樹立当初、征服王朝を打ち立てた「濊人」首長層は、それが征服王朝であることを隠蔽するべく、自らは天皇(大王)を擁立する黒幕的二重支配者に徹した。「濊(わい)人」首長層は民族的血脈を男系で維持しつつ、出雲系の外戚勢力を取り込んで天皇(大王)を建前としては父子直系として立てていった。
ヤマト王権樹立当初にも樹立経過の正統性を訴求する言い伝えが創作され普及された筈である。そしてそこでは、騎馬民族の文明文化の後進性や粗暴性のイメージをもつ「濊(わい)人」の名が歴史から抹消された。
古事記の編纂内容を方向づけた天武持統の両天皇は、ヤマト王権樹立当初の経緯を揺るぎなく踏襲し、天皇の正統性をより着実に表現しようとした。
そして同時に、記紀編纂期の国内外の関係性を伴って多様化した渡来系主要氏族を念頭に、「蘇我氏」のような天皇を凌ぐ専制者の再来可能性を排除することを最重要課題とした。
そこで、オオクニヌシを脅かした八十神(無軌道な「移動民」)の「悪玉」イメージを、ある方法によって、天皇を脅かす逆賊の「悪玉」イメージに通底させている。ある方法とは、オオクニヌシが持っていて彼らが持っていない要素を、彼らのネガティブな共通性として強調することだった。たとえば、「蘇我氏」は最新の大陸の文明文化の導入者であり、オオクニヌシが持っていた<知恵袋>を持っていたことになるが、それが逆に天皇を脅かす権力につながってしまった。では、天皇を脅かす逆賊には持ち得ないオオクニヌシが持っていた要素とは何だろう。)
数としては
オオナムヂのような善玉「移動民」1
に対して
八十神のような悪玉「移動民」80(たくさん)
と後者の圧倒的多数を強調している。
シンデレラの姉たちのようにいじめっ子役の兄たちは数人でもよい筈なのにである。
これは、
「定住社会」に流れ者が来たら
まずそれは悪玉の「移動民」だから警戒すべし
と、神話を読む者、物語りを聴く者に無自覚的に印象づけた筈である。
「オホナムヂには八十柱もの兄たちがいて、その神々がそこへ通りかかりました。ウサギの姿を見て、何も聞かず、すぐさま、『海水を浴び、風通しのよい高い山の尾根の上に臥せっているとよい』と言いました。ウサギがそのとおりにしてみると、皮膚が乾いて裂け、ますます痛みがひどくなってしまいました。それでこうして泣いているのです、とウサギはオホナムヂに説明しました。
擦り傷に塩水を塗って風で乾かしたらどうなるでしょう。想像するだけで痛くなってきます」
八十神のタチの悪さは山賊の比ではない。
山賊は盗みを働くために人を暴力で脅す。八十神は、悪知恵を使い嘘を言ってウサギを陥れている。物盗りが目的ではない。要は現代の陰険な集団いじめと同じで憂さ晴らしをしているだけの陰険さなのである。
兄たち八十神は、出合った「定住民」の無知に乗じて嘘やデマで人々を惑わす悪玉「移動民」を暗示する。
たとえば、越中戸山の薬売りのように、定期的に巡回してくる行商は善玉「移動民」である。なぜなら、人を騙さず盗みも暴力も働かない安心感があるのは当たり前で、置き薬によって貢献性があることで信頼関係が生まれている。
これに対して、偽物を高く売りつけるような詐欺師は、一度売った相手の前には二度と姿を表さない。彼らは悪玉「移動民」である。八十神の「移動民」の悪玉性はこれに重なる。
八十神の極悪非道の特徴は、著者が「想像するだけで痛くなってきます」と表現するような残忍さである。
この後も、稲羽のシロウサギにしたことよりももっと酷いことを、ヤガミヒメの心を射止めたオオナムヂに嫉妬して二度も死に至らしめた。
こういう展開は、
物語を語られ聴く者にまず自ら身体感覚を再現的に仮想させて情動を揺さぶり
それがネガティブな感情そして思考を方向づける認知過程を誘導する
という効果を着実に上げる。
神話を読む者、物語り聴く者、さらに祭りの舞いを見聴きする者において、
「移動民」=悪という認識は、この認知過程を反復する強化学習によって深まっていく。
「哀れに思ったオホナムヂは、正しい治療法を教えます。
(中略)
ウサギが教わったとおりにすると、傷はすっかりよくなり、オホナムヂはたいへん感謝されます。
世界を見渡すと、賢いウサギが他の動物と知恵比べする民話はたくさんあって、その多くに、『海の生きもの』よりも『陸の生きもの』のほうが賢いという結論が導かれています。
しかし、古事記の場合は、海のワニにまさった陸のウサギよりもさらに賢い存在として、オホナムヂが登場するのです」
私は重視すべきは単なる賢さの比較ではないと思う。
A=
他者を疑わずに信じて裏切られて復讐するワニ
B=
他者を騙してそれがバレて復讐された挙句、自分が騙され泣きを見るウサギ
C=
たまたま出会った困っている者を騙してさらに泣きを見させる八十神
D=
たまたま出会った困っている者に正しい知恵を授けて助けるオホナムヂ
ここには、
D>A>B>C という善良から極悪非道への序列がある。
この序列で分かりにくいのがD>Aのところである。
そこは、
騙されたと分かってこっぴどく復讐したワニに対して、
二度も殺されたオホナムヂが、オオクニヌシになるに際して、八十神に復讐するのではなく「境界域」に追い払うことでケリをつけている
ということで読む者に了解される。
世の中には、
集団イジメをする八十神がいる
集団にいじめられるが、完全な善人である訳ではなく時に他者を騙して利用するウサギもいる
人を疑わないが騙されたと分かればこっぴどく仕返しするワニもいる
それが世の中の人間模様と思うと、八十神を追い払うだけでケリを付けたオオクニヌシDの、ワニAとの隔たりの大きさに気づく。
オオクニヌシDだけが、全体最適を考えている
のに対して、
ワニA、ウサギB、八十神Cは、自分のことだけを考えている。
明らかに、
「国造り」と称する広範な交易経済圏を交易ネットワークによって形成できるのはオオクニヌシDだけである
「その知恵はただの知恵ではありません。
オホナムヂがなぜ蒲の穂に横たわるように言ったのかというと、当時、それは血止めの薬草として使われていたからです。つまり、オホナムヂはただ心やさしい神様であるだけでなく、医療の知識のある神なのです。
古代においては怪我や病気を治す巫医(ふい)的な要素は王者になるための資格の一つでした。
この神話はそうした王の資格を語る話になっていますが、その底には民間伝承における陸と海との対立葛藤を語るモチーフがあったのです。それが、古事記の稲羽のシロウサギ神話では、もともとのウサギとワニのお話の上に、オホナムヂという少年英雄の知恵を語る神話がかぶさることで、シロウサギを助け、そのシロウサギに護られるオホナムヂの優位さが強調されるというかたちの二重構造になっているのです」
私は、以上の著者の述べることを、
出雲神話は、
海上「移動民」(ワニ)より「定住民」(ウサギ)が賢く
さらにそれよりも「移動民」(八十神)が悪賢いが
さらに最も賢くかつ善良な「転住民」(オオナムヂ=オホクニヌシ)がいる
ということを
無自覚的に印象づける神話になっている
と捉える。
「稲羽のシロウサギ神話」の段階では、オオナムヂが賢く善良な「転住民」の資質を垣間見せて「定住民」に歓迎されるも、交流を受け入れられるという入口に立ったに過ぎない。
オホナムヂは実質的な交流によって貢献する前に八十神に二度も殺されて「根の堅洲国」に逃れることになる。
これは、
戦乱の中国を逃れてきた亡命中国商人が朝鮮半島東岸において交易拠点を立ち上げようとすることに対して
未勝目料をとろうとする騎馬民族の「濊(わい)人」の妨害に繰り返しあった苛酷な経過をなぞっている
のではなかろうか。
であるならば、
スサノヲが「根の堅洲国」を建ててその国主になることができたのは、太刀・生弓矢・天詔琴(オオナムヂがスセリビメと逃げる際に盗み出した)が象徴する何かによって騎馬民族の「濊(わい)人」を制圧したことによる
先行した亡命中国商人はこの何かを持たなかったために、オオナムヂが八十神に二度も殺されたように殲滅されていた
ということになる。
スサノヲは逃げるオオナムヂに、太刀・生弓矢・天詔琴で八十神を討って国造りをしろと命じる。
オオナムヂはそれに従って、出雲でスサノヲのような国主(「交易ビッグマン」)になる。
ここまでは、スサノヲと同じに、太刀・生弓矢・天詔琴によって達成できた。
しかし、
オオクニヌシならではの営みはそこから始まる。日本列島各地の主要交易産品の生産地の縄文人部族をネットワークして広範な交易経済圏を形成していった。それは、オオクニヌシが族長の娘を娶って回ったことによるが、縄文社会の財である女性を介した「贈与」経済である。負い目感情を抱き合い相殺しあうことで信頼関係を構築できる。オオクニヌシがもたらす大陸由来の文明文化は必要条件ではあっても十分条件ではなかった。
十分条件は、オオクニヌシの公正さ・誠実さ・優しさであり、縄文社会の向上に貢献しようとする誠意だった。
これがオオクニヌシにあって、スサノヲにないものだった。
これにより、オオクニヌシは環日本海交易ネットワークのハブ拠点において、大陸の「交換」経済に日本列島の縄文社会の「贈与」経済を接続することができて、環日本海各地の「交易ビッグマン」たちの盟主、メタ「交易ビッグマン」となることができた。
オオクニヌシの公正さ・誠実さ・優しさは、環日本海各地の「交易ビッグマン」たちをして盟主として仰がせるその権威の源泉でもあった。
八十神から逃げただけの「移動民」オホナムヂであることに終止符を打って、「国造り」を目指す「転住民」オオクニヌシに生まれ変わるには、スサノヲのもとでも多くの試練を経なければならなかった。
そして、その試練の成果の最初の一つが、無益な復讐心にとらわれず八十神を「境界域」に追い払ってケリをつけた「交易ビッグマン」の大物ぶりだった。それは、無軌道な「移動民」を日本列島内の交易ネットワークの連鎖の構成単位として活動領域を限った輸送民に再編したことを暗示している。
「オホナムヂに感謝したシロウサギが『あなた様こそ、ヤガミヒメを妻になさることができるでしょう』と予言した」
結果的にその通りになる。
この経緯は、
新拠点開拓型の「転住民」が転住を達成するには
「定住民」とのファーストコンタクトが重要な通過儀礼となっていて
人間として歓迎され交流が受け入れられることが不可欠である
という原則を物語っている。
物語を語られ聴く者は、善き「転住民」が転住を達成する必須要件を無自覚的に学ぶことになる。
具体的には、
無軌道な「移動民」とたとえ見えがかりが同じでも
本質的な大きな違いとして公正さ・誠実さ・優しさと
先住民社会の向上に貢献しようとする誠意がある
ということである。
このようなオオクニヌシのスサノヲにない要素は、先住民社会にすぐに信用される訳ではなく、必ず保守性や排他性の抵抗に合う。それを乗り越えさせるのが<堪忍袋>であり、これもスサノヲにない要素であった。
「心やさしく医術の知識もあるオホナムヂも、最初からヒーローだったわけではありません。
八十柱もの兄たち(筆者注:悪玉「移動民」)から使用人のようにこき使われていました。
ウサギ(筆者注:困難な状況にある「定住民」)のそばを通りかかった時も、オホナムヂは大きな袋をかついで、お兄さんたちの荷物持ちをしていたのです。
そのような境遇ですから、オホナムヂがお兄さんたちに抜きん出るためには、このあと幾多の試練を経なければなりません。
しかし、正しい心をもったオホナムヂにはたくさんの援助者があらわれます。
その援助のほとんどが母や妻によるものだったことは、出雲が母系を重んじる社会であったことをあらわしているのかもしれません。
また、シロウサギもそうですが、動物が援助者になるというのも、おとぎ話のようで興味深いところです」
大きい<堪忍袋>=並外れた受容力
援助者の女神たち
縄文人の庶民とその職能を暗示すると思しき動物たち*の援助者
(*婿としてヤガミヒメに推薦した白兎、トヨタマヒメが海神の宮から乗ってきた亀)
以上が、オオクニヌシの
公正さ・誠実さ・優しさと
縄文社会の向上に貢献しようとする誠意
を強調していることは間違いない。
オオナムヂの試練と成長の物語が意味するもの
最初の試練は、先着の兄たちをさしおいて後着のオホナムヂが美しいヤガミヒメの心を射止めてしまい、八十神が嫉妬に狂ってしたむごい仕打ちだった。
ここでは、彼らのために悲惨な目にあった因幡のシロウサギについて著者三浦氏が「想像するだけで痛くなってきます」と述べたように、生理的に情動が刺激される展開が繰り返されることを検討したい。
「真っ赤に焼けたイノシシの形をした岩を転がし落としたのです。そうとは知らぬオホムナヂは下で待ち受けていて、灼熱の岩をまともに抱き取り、ぺちゃんこに押しつぶされて死んでしまいました」
母神が「高天原」にいる(遠隔地交易の守護神と思しき)出雲の守り神でもあるカムムスヒに助けを求める。
カムムスヒは(出雲国風土記によると)自分の娘神であるウムギヒメ(蛤の女神)とキサガヒヒメ(赤貝の女神)の二人を遣わしオホムナヂの母神と協力して蘇生させる。
「キサガヒヒメが、焼けた岩にへばり付くごとくに死んでいたオホナムヂの骸を、貝の殻でもって少しずつ岩から剥がして、ウムギヒメが、それを待ち受けて、母神の乳(ち)の汁に薬をまぜ合わせて、ひどく焼けただれたオホナムヂの体にくまなく塗った。
すると、まもなくオホナムヂはうるわしい男にもどって生き返った」
この蘇生も「想像するだけでこちらの気持ちのやわらいでくる」といった、良い方向で生理的に情動が刺激される展開である。
重要なのは、
以上のような展開とその描写が
先ず聴く者読む者の無意識的な即座の身体反応(緊張や弛緩)をともなう情動を喚起させ
それが感情そして思考を方向づける認知過程
である。
「移動民」に喩えられる八十神の極悪非道がそのような認知過程で身体的緊張とともに不快な印象を与え、
「転住民」に喩えられるオホクニヌシに成長していくオホナムヂの善良さと苦難がそのような認知過程で身体的弛緩とともに快適な印象を与える。
聴く者読む者は深く安堵するが、それはそのようなオオクニヌシを肯定し受け入れるということである。
八十神はさらにむごい仕打ちを繰り返す。
「大樹の幹をタテに割ってこしらえたワナを山の中にしかけました。そして、オホナムヂをだまして連れ出し、ワナの間にはさんで殺してしまいました。これまたひどいやり口です。すると母神があらわれ、幹を割いて引っぱり出し、命を復活させます」
物語の展開と描写を聴く者読む者は、不快な情動起点の認識過程を繰り返す。
現代で言えば、いじめっ子グループがターゲットのいじめられっ子を執拗につけねらう陰湿さである。
母神はオオムナヂに「木の国(紀の国)」へ逃げるように促し、オオナムヂはさらにそこからスサノヲが主となって治めている「根の堅洲の国」に逃れる。
だがそこでも試練が待っている。スサノヲの娘、スセリビメと恋に落ちて結ばれるが、スサノヲが彼に執拗に試練を与えたのだ。
ここで、
「木の国(紀の国)」が本州の太平洋沿岸の黒潮を利用する遠隔地交易拠点
「根の堅洲国」が朝鮮半島東岸のリマン海流あるいは対馬海流を利用する遠隔地交易拠点
とすれば、
オオナムヂはさまざまな遠隔地交易の経験を積んだ後に、出雲で「交易ビッグマン」であるオオクニヌシになったことになる。
「オホナムヂをわざとヘビのいる部屋に寝かせたり、野原に火を放って火攻めにしたり、自分の髪についているムカデを取らせたりして、婿の資格があるかどうかを試すのです」
ここでも、物語の展開と描写を聴く者読む者は
不快な情動起点の認識過程を繰り返すことになる。
スサノヲのはかりごとに対して、スセリビメが魔除けの布や切り抜ける知恵を授けて協力し、オホナムヂはスセリビメを背負い、スサノヲの宝物(太刀と弓矢と琴)を持って逃げる。
それに気づいたスサノヲは追いかけ、「葦原中国」につながる黄泉平坂を逃げ登るオオムナヂにこう叫ぶ。
(ちなみに、黄泉平坂はスサノヲが立ち入れない「境界域」で、誰の縄張りでもない<異界との重なり領域>だったことになる。スサノヲが立ち入れず、オホナムが行き来できたのは、スサノヲにはない能力の潜在性を暗示している。)
「その、お前の持っている生太刀(いくたち)と生弓矢(いくゆみや)とをもって、そなたの腹違いの兄どもや弟どもを、坂の尾根まで追いつめ、また、河の瀬までも追い払い、おのれが葦の中つ国を統べ治めてオホクニヌシとなり、また、ウツシクニタマ(筆者中:ウツシクニタマノカミ=国土の魂の神)となりて、そこにいるわが娘スセリビメを正妻(むかひめ)として、宇迦の山(筆者中:出雲大社の北から連なる北山山系とされる)のふもとに、土深く掘り下げて底の巌根(いわね)に届くまで宮柱を太々と突き立て、高天の原に届くまでに屋の上のヒギ(千木)を高々と聳やかして(筆者注:オオクニヌシがその建立を「国譲り」の条件とした高層神殿を想起させる)住まうのだ、この奴(やっこ)め」
「木の国」経由で「根の堅洲の国」に逃げただけの「移動民」のオオナムヂから
スセリビメとともに「根の堅洲の国」を離脱し「葦原の中つ国」の国主になろうと「転住民」になっていくオホナムヂ
これに対して、
単なる「荒神」の「移動民」として「高天の原」から「葦原の中つ国」に降臨した後
八岐大蛇を退治して「定住民」を救い「定住社会」を自立させて去る新拠点開拓型の「転住民」となり
最終的に「根の堅洲の国」の国主となり「定住民」となったスサノヲ
が、
悪賢く残忍なだけの「移動民」である八十神について
坂の尾根や河の瀬といった「境界域」(誰の縄張りでもない<異界との重なり領域>)に追い払え
と命じている。
それによって「葦原中国」を統治するオホクニヌシになれと命じた。
出雲神話では一貫して、
「移動民」は悪で、
「転住民」は悪ではないが最善でもない、
「定住民」が最善だ
という固定観念を聴く者に繰り返し印象づけている。
ここでも、同じ印象づけに向けた伏線が周到にはられている。
すでに「根の堅洲国」で国主となって「定住民」化したスサノヲが、「境界域」である黄泉平坂に立ち入れなかったことは、それが「定住民」が犯してはならないタブーで、犯せば国主はおろか最善である「定住民」ではなくなること(「移動民」化ないし「転住民」化)を暗示している。
「高天原」から「葦原中国」に降り立つまでのスサノヲも、八十神も「粗暴さ」が共通する「移動民」に喩えられる。
しかし、
スサノヲの「粗暴さ」は、母のいる国へ行くことを望んだり、怒ってオホゲツヒメを殺してしまったり「直情的」で「陽」である。
それは、「定住社会」を明快な到達対象や建設対象としてそれに自立的に関わる善玉の「移動民」性や「転住民」性に通じる。
一方、
八十神の「粗暴さ」は、ならず者の憂さ晴らしの感と悪知恵による執拗さがある「知能犯」で「陰」である。
それは、「定住社会」を搾取対象としこれに暴力的に依存する悪玉の「移動民」性に通じる。
よって、
善玉の「移動民」だったことのあるスサノヲが
海をいく悪玉の「移動民」は河の瀬に
陸をいく悪玉の「移動民」は坂の裾に
留まらせろと命じた
ということになる。
河の瀬や坂の裾は、原初的な近隣交易の「いち」の立った「境界域」で、誰の縄張りでもない<異界との重なり領域>である。
ここで、
水平軸で「定住社会」と「定住社会」を結ぶ「境界域」の内、主要な交通要衝のものが
垂直軸で天界や地界と地上を結ぶ<異界との重なり領域>となっている
ということに注目したい。
具体的には、
「黄泉の国」や「根の堅洲国」との行き来ができた黄泉平坂である。
黄泉平坂は、島根半島東部の中海の南(松江市東出雲町)に比定される。
そこは、日本海の外洋航海=対大陸交易の中継拠点である隠岐と行き来した、本州の沿岸航海=沿岸交易の集荷分荷をした中継拠点の陸路との結節点だった。
そのような日本列島の内と外を結ぶ中継拠点性が、黄泉平坂を<異界との重なり領域>とさせたに違いない。
垂直軸で天界や地界と地上を結ぶ、とは神話上の観念である。
具体的には、
遥か沖合の日本海から本州沿岸を見渡せば、大きな河の瀬=大河口の分布を連鎖させる可能性を俯瞰できる
高い山間地から広く山並と平野を見渡せば、大きな坂の裾=大扇状地の分布を連鎖させる可能性を俯瞰できる
そのような視座が垂直軸の実態だったと考えられる。
外洋を航海し、山間地を鉱物資源を探索して登山した遠隔地交易民は、そのような視座を持ち合わせ、そのような俯瞰ができた。
オオクニヌシが往復した黄泉平坂という垂直軸の<異界との重なり領域>とは、具体的には日本海を渡る外洋航海を意味したと考えられる。
そして、
スサノヲは、無軌道な「移動民」である八十神を「定住社会」から「境界域」に追い払えと命じたのに対して、
オオクニヌシは、彼らを排除するのではなく、日本列島内を広範な交易経済圏とするのに不可欠な交易ネットワークを、活動領域を限った近隣輸送を連鎖させて構築するために、組織だった近隣輸送民に再編したと考える。
「オホムナヂの神話は、ひ弱な少年が試練をくぐり抜けて徐々にたくましくなり、やがて立派な統治者になるという成長物語の典型である」
とする著者の見解が一般的だ。
もちろんそのような物語ではある。
しかし私は、
古事記の本質は「暗黙知の体系」であり、
その冒頭でかつ中核をなす出雲神話の目的は
「移動民」は悪で、
「転住民」は悪ではないが最善でもない、
「定住民」が最善だ
という「定住社会」を支配基盤とするヤマト王権にとって都合のいい固定観念を聴く者読む者に刷り込むことだった
と考える。
なぜなら、
それが古事記のハイライトシーンを断片的にでも読む者聴く者見る者にもっとも深く無意識的に受けとめられている意味内容だからである。
それは、日本人が集合的無意識として共有する価値観となっていて、現代の私たちも誰に教わるでもなく漠然とだが強固な固定観念としていたりする。
古事記に登場する女神たちに注目すると面白いことに気づく。
おおよそ無難に幸せになっていそうなのは「定住民」の妻たちである
ということである。
ただし、
古事記が彼女たちについて、幸せに暮らしたとさ、と断言している訳ではない。
「移動民」の妻の悲劇や「転住民」の妻の心痛が印象強く物語られているために、読み手は無自覚的に、「定住民」の妻たちは無難に幸せになっていそうだという認識を自分で刷り込んでいる。
この手法が男神=男性たちにも使われていることはすでに述べた。「移動民」は悪玉の極悪非道ばかりがクローズアップされ、「転住民」も善玉の艱難辛苦ばかりがウローズアップされれば、日々これ好日を望む万人は、「定住民」が最善だという自己認識を無自覚的に刷り込むことになる。
女神たちの場合、イザナミがカグヅチを生んで陰部を火傷をおって亡くなってしまう展開や、コノハナサクヤヒメが夫ニニギの子を一夜で身籠ったことに国津神の子ではないかと疑われて疑いを晴らすために産屋に火を放ってその中で三柱の子を生む展開など、とても衝撃的な出産物語がある。
これによって、特に語られない出産は安産だったのだろうと、読み手は思うでもなく思ってしまう。
コノハナサクヤヒメは、「濊(わい)人」の東征に協力した山野系縄文人の首長を象徴するオオヤマツミの娘で、本来「定住民」であった。それが天孫降臨してその時点で「移動民」であるニニギに嫁いだ。そこから悲劇が起こっている。コノハナサクヤヒメの姉イワナガヒメは、醜女を理由に送り返されていて、それにより生命の限りを受けたとされる。このことは、「定住民」の継続確実性、「転住民」の継続不確実性を象徴している。
結果、「定住民」は「定住民」同士で結婚するのがいい、「定住民」が最善だという価値観が刷り込まれている。
イザナキは、亡くなったイザナミを追って「黄泉国」へ行きイザナミに会うも約束を破ってその姿を見てしまったために「葦原中国」に逃げ帰る。
つまり、この時のイザナキは二国間を行き来した「移動民」だった。イザナミの追跡は、地界と地上の境である黄泉比良坂(よもつひらさか)の地上側出口を大岩で塞ぐことで不可能となったから、イザナミもそうされなければ行き来ができた「移動民」だったと言える。
よって、イザナミは、とても幸せとは言えない「移動民」の妻の最初ということになる。
イザナミが死ななかったならば、イザナキと相思相愛の夫婦の「定住民」として幸せに暮らした。また、イザナキがイザナミを迎えに行くという「移動民」になってなければ、死別した夫婦として両者ともにそれぞれの世界で幸せな「定住民」でいられた。そのように思う読む者聴く者見る者は、「定住民」が最善だという自己認識を刷り込んでいる。
コノハナサクヤヒメの夫ニニギは、アマテラスの孫で「高天原」から「葦原中国」に天孫降臨した垂直軸の「移動民」である。
そして、コノハナサクヤヒメの不幸は「移動民」の妻となってからと言える。
(天孫族はその後、神武東征に向けて転戦型の「転住民」となっていく。)
ヤマトタケルに東征に同行し入水によってその軍船の航行を可能にしたオトタチバナヒメ。
明快に、オトタチバナヒメも、とても幸せとは言えない「移動民」の妻であった。
「転住民」の妻もとても幸せとは言えない。
「転住民」の妻の筆頭は、「根の堅洲の国」からオホナムヂとともに離脱し「葦原の中つ国」にやってきたその正妻スセリビメである。
オオクニヌシが八千矛神として古志に妻問いしヌマカワヒメを娶り子を設けたことに激しく嫉妬して、それを嫌ったオオクニヌシは大和に逃げようとする、それをすんでの所で仲直りというハッピーエンドに展開する。
しかし、それは「定住民」の妻同士としてもつライバル意識の嫉妬を、「転住民」の妻として、新拠点開拓の一環で縄文人首長たちと姻戚関係を結んで回る夫を理解して克服したのだった。それは一般的な女性にはできない理解であり克服だった。
つまり、スセリビメは一般的な夫婦のようには幸せとは言えない「転住民」の妻である。
このように、ふつうに幸せとは言えない「移動民」「転住民」の妻たちばかりを見てくると、
「定住民」の妻たちについてわざわざ詳しい記述がなくても、
「定住民」の妻たちはおおよそ安産で子を生んでふつうに幸せに暮らしてきた、と想像してしまうのが人情である。
このような主人公たちの妻たちの有り方はけっして偶然ではなく、古事記の物語の編集者が意図的に演出した仕掛けであるのは間違いない。
因幡のシロウサギ神話で登場したヤガミヒメは、「根の堅洲国」から帰還したオホムナヂと夫婦になり出雲にやってきたが、嫉妬深い正妻スセリビメを恐れて、生まれた子供を木の股に挟んで稲羽に帰ってしまった。ヤガミヒメには再婚した形跡がないという。
ヤガミヒメは因幡=稲場・稲葉の稲作「定住民」の首長の娘である。「根の堅洲国」から帰還して「国造り」に励む「転住民」となったオオクニヌシとは一緒に暮らすことに違和感を感じるようになっていて、その上に正妻の圧力を感じて、もうやってられないということになったのではないか。だから、実家に帰って父母とともに「定住社会」で幸せに暮らした感じがする。
ヤガミヒメと立場が真逆なのが、妻問いをされて実家で娶られ子を産んだヌナカワヒメである。
ヌナカワヒメも「定住民」の妻だが、実家暮らしでスセリビメを恐れることはなかった。子タケミナカタは「国譲り」の時にオオクニヌシに代わって奮闘するも、タケミカヅチに一捻りで撃退され逃げた諏訪の地から出ない約束をする。つまりは「定住民」に回帰したか、諏訪地方という領域原点で新拠点開拓型の「転住民」となったかした。タケミナカタの奮闘は、母の実家の翡翠産地が天孫族=「濊(わい)人」に奪われることを危惧したためだったのではないか。しかし、彼らは直接支配を望まず上納を求めただけだった。結果、タケミナカタは翡翠産地を本拠地として経済的な勢力圏を諏訪地方に展開したということではないか。
ヌナカワヒメはずっと実家暮らしをしながら、息子タケミナカタにオオクニヌシのもとで交易民化させ、「国譲り」の後も実家帰りした息子タケミナカタに諏訪地方に経済進出させた。ヤガミヒメのように無理をせず、深慮遠謀をもって「定住社会」での幸せな父母との暮らしを守ったヌナカワヒメには、常に沈着冷静な強かさが感じられる。
古事記の読み手聴き手、特に女性が感情移入する場合、「移動民」や「転住民」の妻たちの悲劇や心痛が強く印象づけられるために、「定住民」の妻は「定住社会」で無理なく幸せに暮らした筈だという自己認識を刷り込むことになる。
それはヤマト王権が古事記で刷り込みを狙う価値観、「定住民」が最善だを
無意識的な即座の身体反応(緊張や弛緩)をともなう情動を喚起させ
それが感情そして思考を方向づける認知過程において着実に刷り込んでいるということである。
読者として想定された天皇周辺の支配層の、文字が読める妻が無自覚的に「定住社会」を当然視ないし絶対視すれば、それは家庭内から揺るぎない価値観として定着していったに違いない。
古事記を戦略的コンテンツとして演出し構成した編纂者の深慮遠望を感じる。
オホクニヌシの国譲り神話が意味するもの
「オホクニヌシはスサノヲの言葉を受け、八十の神々を追い払い、葦原の中つ国を統一し、日本列島にはじめて国をつくりました(筆者注:出雲半島西部に環日本海交易ネットワークのハブ拠点をつくり、島根半島全体をそれを支える後背地地方経済圏とした)。
国をつくるにあたって、出雲の守り神カムムスヒは、今度も自分の子スクナビコナ[少名毘古那](筆者注:ガガイモの実の殻で出来た船に乗って来訪した蛾の皮を着た小さな神。日本書紀は悪童的な性格と。「常世国」へ渡り去る)を遣わし、オホクニヌシの国づくりを助けるように取り計らいます。
そうして穏やかな暮らしが長く続いたある日、高天の原のアマテラスが突然、葦原の中つ国はわが御子(筆者注:天孫=ヤマト王権の初期勢力)に治めさせると言い出します」
「高天の原の神々は、なにか問題が起きると天の安(あめのやす)の河原に集まって、会議を開いています。アマテラスは参謀のタカミムスヒやその息子で知恵者のオモヒカネや八百万の神々らと作戦を練り、(中略)
まず、一番手としてアメノホヒという神を派遣しました」
アメノホヒは、アマテラスの次男である。スサノオとアマテラスの誓約(うけい)の際に生まれた男神である。
アメノホヒは、オホクニヌシに心服してしまい地上に住み着き、3年間高天の原に戻らなかった。
オオクニヌシは、もともとその祖先のスサノヲがアマテラスの弟であるから、アマテラスの子を通じて姻戚関係を再構築すれば事を穏便に済ませられると考えたということかも知れない。
そもそも、オオクニヌシは、排他的な領域を主張する「国造り」をしていた訳ではなく、様々な産業拠点や交易拠点をネットワークして広範な交易経済圏を形成していた。それは、初期ヤマト王権を樹立した「濊(わい)人」首長層を暗示する天孫族が統一的な「領域国家」と、必ずしもバッティングしない展開もありえた。その考えをオオクニヌシは、アマテラスに派遣されたその次男アメノホヒを説得して推進しようとしたのだろう。
ところが、アマテラスはこれを許さなかった。
「アマテラスはまた神々と相談し、改めてアメノワカヒコ[天若日子]という神を遣わします」
アメノワカヒコは、オオクニヌシの娘のシタデルヒメ[下照比売]の婿になってしまう。葦原中国を得ようと企み8年たっても高天原に戻らなかった。
征服王朝を樹立した「濊(わい)人」首長層は、黒幕的二重支配者として天皇(大王)を擁立することに徹して、「濊(わい)人」の名前を歴史から末梢した。「濊(わい)人」首長層は、朝鮮半島で小国群からみかじめ料を取っていたのに代えて、統一的な「領域国家」の「管理貿易」を縄文人交易民の「倭人」に任せて上納を得れば良いという心つもりだった。ところが、「濊(わい)人」にも「倭人」にも統一的な「領域国家」の体裁を整える動機も能力もなかった。結果、広範な広域経済圏を形成していた「出雲族」の一派を外戚勢力として取り込んだ。具体的には、オオクニヌシノの嫡男で「国譲り」に積極的に応じたコトシロヌシ(オオモノヌシと同体とされる)が神武天皇の岳父となっている。
古事記では、最初の出雲神話がありそのクライマックスが「国譲り」で、その後に「天孫降臨」「日向三代」「神武東征」が続く。
私個人的には、古事記はあたかもその順序で歴史が展開したように編纂されているが、「実際に起こったこと」の順序は、天孫族=「濊(わい)人」首長層は、「神武東征」勝利の後に同盟「出雲族」に「国造り」を迫ったと考えている。
そうであれば「国造り」は、「テュルク族」の「くに」ぐにの連合政府「邪馬台国」と同盟関係にあった「安曇氏」の首長である「伊都国」長官(ネギハヤヒ)が、宰相難升米(ナガスネヒコ)を謀殺して裏切り難航していた「神武東征」を勝利に導いた後、ということになる。
なお、樹立した初期ヤマト王権の喫緊の課題は、「邪馬台国」のしていた魏朝貢交易の継承であり、これを同盟関係において補佐していた「安曇氏」が女王壱与を立てて代行した。時期的には、こうした動きと、アメノホヒの3年、アメノワカヒコの8年が重なることになる。
私個人的には、アメノワカヒコは「安曇氏」の代表で、同じ中国由来の遠隔地交易民として「出雲族」を説得するべく派遣されたのではないか、と考える。
オオクニヌシが婿にしたアメノワカヒコは、天津国玉神(アマツクニタマ)の子である。
天津国玉神とは、名前からすれば「国」は大地、玉は魂、天は「高天原」の意味で、「高天原」の大地の魂を司る神様ということになるが、要は「国譲り担当大臣」という急拵えの高官だったと解釈できる。それに「安曇氏」の代表が任命されたと考える。その子アメノワカヒコが説得者として派遣された。
そして、
オオクニヌシは、アマテラスの次男のアメノホヒ=「濊(わい)人」ではなく、アマテラスの配下のアメノワカヒコ=「安曇氏」と姻戚関係を結んだ。
アメノワカヒコが葦原中国を得ようと企んだとは、「安曇氏」が同盟「出雲族」の環日本海交易ネットワークのハブ拠点とその広範な後背地交易経済圏を得ようと企んだということである。
この企みは、タケミカヅチが派遣されてタケミナカタを一蹴して「国譲り」に至った時に達成された。但し、島根半島西部のハブ拠点は解消され、あたかも交易拠点などなかった、あったのは祝祭拠点だったかのように印象づけられた。結果、コトシロヌシがオオクニヌシの多数の子たちを率いて、日本列島各地の産業拠点や交易拠点のネットワークだけが譲渡された。
オオクニヌシに象徴される「出雲族」本流は、脱国家主義の「自由貿易」前提のベンチャー型交易者で、出雲の地を去った。「国譲り」譚では、島根半島西部の交易拠点に高層神殿の建立を求めて幽界を統べる者となっている。
「国譲り」に積極的に協力したコトシロヌシ一派は、もはや転向「出雲族」であって、島根半島東部の産鉄地帯の産鉄民の三輪山への入植に応じた。これを正当化するために、「国造り」の最後にオオモノヌシの登場譚が追加されていると考える。実際の同盟「出雲族」の広範な後背地交易経済圏の形成は、スクナヒコナが協力して去った段階ですでに完成していたと考える。
アマテラスが
「正邪の判断をする矢を下界へ投げ下ろすと、寝ていたアメノワカヒコは、その矢が胸に突き刺さって死んでしまいます」
経緯は省くが、アメノワカヒコはアマテラス側から裏切り者として殺されてしまうのである。
これは
実際の「安曇氏」のどのような動きが許されれざる裏切りと見做されたのだろう。
それは、「安曇氏」の「出雲族」本流に対する動きであって、転向「出雲族」に対する動きではあり得ない。
初期ヤマト王権を樹立した「濊(わい)人」首長層が「安曇氏」を徴用したのは、百戦錬磨の国家主義の「管理貿易」前提の政商型交易者だからである。ところが、オオクニヌシという同盟「出雲族」の盟主に会ってみると、脱国家主義の「自由貿易」前提のベンチャー型交易者に魅了され憧れてしまう。
アメノワカヒコは、葦原中国を得ようと企んだとは、じつは「出雲族」本流の継承者として環日本海交易ネットワークのハブ拠点とその広範な後背地交易経済圏を継承することを、オオクニヌシの方から持ちかけられそれに応じたということと考える。
アマテラスがアメノワカヒコに望んだのは、むしろ転向「出雲族」となったコトシロヌシが「国譲り」に積極的に応じた動きであったのだから、これはまさに裏切りであった。
そして、
地上で催されたアメノワカヒコ(安曇氏)の葬式に父アマツクニタマ(安曇氏)がやってくるのだが、
オオクニヌシの娘のシタデルヒメの兄でアメノワカヒコと親友だったアジスキタカヒコネ(出雲族)が、アメノワカヒコとそっくりだったので抱きついて突き飛ばされたりしている。
こんな話がわざわざ書かれているのは、必ず何かを暗示するためである。
私は、
「安曇氏」と「出雲族」の
同じ中国の戦乱や動乱を逃れて遠隔地交易民となった族的結合
という共通性
と
「安曇氏」が国家主義の「管理貿易」前提の政商型交易者
「出雲族」が脱国家主義の「自由貿易」前提のベンチャー型交易者
という異質性
と
両者の連携可能性
を暗示していると考える。
ここで重視すべきは、
アジスキタカヒコネとシタデルヒメは、オオクニヌシと宗像三女神のタギリヒメノミコト(オキツシマヒ)の子である
ということだ。
宗像三女神は、アマテラスとスサノオの誓約(うけい)で生まれた神で、系譜ではスサノオの娘と見られる。
九州の豪族「宗形」の氏神で、宗形君(ムナカタノキミ)は天皇家に娘を継がせるなど影響力のある海洋豪族だった。
私の一連の仮説群を先に述べてしまうと、以下である。
初期ヤマト王権を樹立させた「濊(わい)人」首長層が出雲に説得のために派遣させた「安曇氏」は、「出雲族」と交渉し連携可能性を見出した。
当初の(アメノワカヒコとの)連携案は「出雲族」主導のもので「濊(わい)人」首長層に否定されたが、その後の(アマツクニタマとの)連携案は「安曇氏」主導のもので容認された。
その内容は、
(コトシロヌシが積極的に協力したように)日本列島内の交易ネットワークで形成された広範な交易経済圏を譲渡する一方で
島根半島西部の環日本海交易ネットワークのハブ拠点は解体し、オオクニヌシに象徴される「出雲族」本流は出雲の地を去る
というもの。
去ってどうするかというと、
「安曇氏」の本拠地である北部九州の宗像の地に転じてそこで「安曇氏」と協働する。
日本にまで「領域国家」化の波が及んだこの時代、沿海地方や朝鮮半島東岸も「領域国家」化=「管理貿易」化が進んでいて、「自由貿易」の環日本海交易ネットワークはすでに衰退。環日本海各地の交易拠点の「交易ビッグマン」の内、サバイバルできたのは、「領域国家」化した「国」を立ち上げた支配層の一部を構成した亡命中国商人や、「国」の体制づくりに対等な立場で貢献する立場を得た遠隔地交易民だった。
「出雲族」本流(オオクニヌシ)もこの後者として、初期ヤマト王権の「管理貿易」を「倭人」とシェアしてほぼ独占する「安曇氏」(アマツクニタマ)と連携することを約束した。
この時点で、「根の堅洲国」の国主スサノヲに象徴される朝鮮半島東岸の交易拠点の「交易ビッグマン」はすでに先行してこの後者になっていた。
よって、
宗像地方に転じた「出雲族」本流は、北部九州の「安曇氏」と協働しつつ初期ヤマト王権の中央で重用された「安曇氏」と連携したが
現地では、初期ヤマト王権の「領域国家」の体制づくりに貢献する交易ビジネスモデルを構想し、それに必要な大陸交易を朝鮮半島東岸の「交易ビッグマン」(「根の堅洲国」のスサノヲに象徴される)との間で展開した。
その交易ビジネスモデルの構想内容と具現化に必要な交易産品については具体的に後述するとして、
以上のような仮説群がどこから導かれるかを以下、説明する。
磐井の乱から白村江の敗戦にかけての時期に、「安曇氏」は北九州の本拠地を失って、全国のアズミに発音の似た地名の交易要衝に分布している。この時、それまで名を伏せて宗像地方で連携していた「出雲族」本流だけが残され、天皇家と直接的な関係を持って「宗像(宗形)」の名を授かり、地名も「宗像(宗形)」とされた。
この経緯を古事記は神々の系譜で暗示している。
(「安曇氏」は「神武東征」終盤に「テュルク族」を裏切るまでそれと同盟する敵だったにも関わらず)
「安曇氏」の祖を、イザナキとイザナミの「神生み」で生まれたオオワタツミとしている
(「宗像氏」は6〜7世紀に「安曇氏」が北九州の本拠地を失った時に歴史上にその名を出現させているにも関わらず)
「宗像氏」の祖を、アマテラスとスサノヲの「誓約(うけい)」で生まれた「宗像三女神」としている
この「宗像三女神」は、
沖津宮の「田心姫神(タゴリヒメ)」、中津宮の「湍津姫神(タギツヒメ)」、辺津宮の「市杵島姫神(イチキシマヒメ)」
という北部九州を発着する対岸交易船の航路を示すが、
明らかに
イザナキの「黄泉帰りの契」で生まれた「ソコワタツミ(底津綿津見神)」 「ナカワタツミ(中津綿津見神)」 「ウハツワタツミ(上津綿津見神)」の三神に対応している
この三神は、交易相手の「根の堅洲国」を発着する対岸交易船の航路を示している
では、
宗像地方に転じた「出雲族」本流は、初期ヤマト王権が「領域国家」体制づくりに貢献するいかなる交易ビジネスモデルを構想し、それを具現化すべく北部九州と中央の「安曇氏」といかなる協働をしたのだろうか。
それは、前方後円墳の標準化と全国展開とそれに伴う三角縁神獣鏡の国産と配布である。
(前項(5)で触れたが、
日本書紀では、アマテラスからの連想が卑弥呼に向かわないように巫女的な存在を登場させることが、倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)によっても行われている。古事記では、夜麻登登母母曾毘売命(やまととももそびめのみこと)という名のみみえる。
日本書紀は、倭迹迹日百襲姫命がオオモノヌシの妻となるも、その正体=蛇体に驚いて夫の怒りをかい、後悔のあまり箸で陰部をついて死に、その墓は「箸墓」と呼ばれたとしている。それが、纏向遺跡群の最古級・最大級の盟主的な前方後円墳の「箸墓古墳」とされている。
私個人的には、
纏向は「テュルク族」の「くに」ぐにの連合政府「邪馬台国」の本拠だったが、「濊(わい)人」が「邪馬台国」を制圧して初期ヤマト王権を樹立した際に纏向を自らの本拠とした
樹立直後の直近の課題として「邪馬台国」の魏朝貢交易の継承があった。女王卑弥呼は、宇佐の地と思しき「女王国」で戦死していた。この難題を処理したのは「邪馬台国」と同盟関係にあって魏朝貢交易を補佐していたが「神武東征」終盤で寝返った「安曇氏」だった。「安曇氏」は女王壱与を立てて建前「邪馬台国」、実質初期ヤマト王権で魏朝貢交易を代行した。この時、女王壱与の継承を内外に向けて正統化する必要があり、当時としては新型で最大の古墳=最古級・最大級の前方後円墳を造営した。それが「箸墓古墳」だった
卑弥呼の遺体を「女王国」から回収して埋葬できたかどうかは分からないが、卑弥呼の墓を女王壱与が造営することでその継承が正統化された
と考える。
しかし、記紀編纂期、アマテラスからの連想が卑弥呼に向かわないようにする必要から、「卑弥呼」「邪馬台国」を登場させない記紀はその経緯を隠蔽した。その代わりに、初期ヤマト王権において転向「出雲族」の外戚勢力化と島根半島東部の産鉄民の三輪山地方への入植を正当化したオオモノヌシの三輪山祭祀譚を踏襲し、それに絡めてその妻、倭迹迹日百襲姫命の箸墓埋葬譚を創作した
と考える。
前方後円墳の前身となる多様な墳墓を「テュルク族」の王たちがそれぞれの「くに」で造営していた。それを「纏向型」に標準化したのは、「テュルク族」を制圧して樹立された初期ヤマト王権で、その後「纏向型」を基本とする「定型化」で大王およびそれに服属する勢力の首長の権力権威を正当化する共通墓制としていった。)
前方後円墳の標準化と全国展開は、初期ヤマト王権が統一的な「領域国家」の建前を整える方策だった。これを推進したのは、中央で政商型交易者として徴用された「安曇氏」だったが、交易ビジネスモデルとして構想したのは、宗像の地に転じていた「出雲族」本流だった。
同盟「出雲族」が共通墓制としていた四隅突出型墳丘墓の造営技術が応用された。具体的には、葺石技術、石材加工技術、それに用いる鑿などの鉄製工具の製造技術が必要となり、造営現場の仮設工房で鉄素材から鉄器を製造する能力を持った石工集団という大陸の高度人材の輸入を「出雲族」本流が担った。
(造営現場の仮設工房で製造された鉄器には、大王が地方首長に下賜する鉄製の武器や開墾具も含まれ、地方首長たちはそれを獲得したいがために労働力を供出したと考えられる。単に服属首長の権威権力を証明することを許されて纏向型前方後円墳を造営したとは考えにくい。
なお、鉄素材の輸入は魏を後ろ盾にした「安曇氏」の専門でありそれを担ったと考えられる。
四隅突出型墳丘墓の造営技術は高句麗のものとされ、朝鮮半島北半から東岸の交易拠点を経由しての招聘で、それを朝鮮側で担ったのは「根の堅洲国」のスサノヲに象徴される半島東岸の交易拠点の「交易ビッグマン」だったと考えらえる。)
「出雲族」本流が得意としたのは、鉄器ではなく青銅器であった。
女王卑弥呼が共立されて「テュルク族」と「安曇氏」がともに魏を仰ぐ同盟関係になるまで、西日本の二大勢力として対峙していた時代、それに挟まれた緩衝帯的地方を本拠地とした同盟「出雲族」は、敢えて富国強兵に資する鉄器ではなく、青銅器の威信財によって両者との交易関係を維持した。しかも、近畿を本拠地とする「テュルク族」には銅鐸、北部九州を本拠地とする「安曇氏」には銅剣の類を主要交易産品として、両者の権威競合を回避している。
青銅器の威信財の製造は、供給地に仮設工房を設けて青銅器職人を派遣し青銅の原材料である銅・鉛・錫などを持ち込んだ。「安曇氏」「テュルク族」の本拠地に仮設工房を設けられたのは、政治的・軍事的に中立であることへの信頼があったからだ。
(九州の青銅器生産の中心地は吉野ヶ里の地だった。そこは、呉の遺臣を祖とする「安曇氏」と五島列島までは一緒だったが、国家主義で交易主義の「安曇氏」と分かれて有明海の北沿岸の平野部に渡来して大規模稲作拠点を群展開した脱国家主義で農本主義の「くに」の本拠地だった。
彼らは、「安曇氏」よりも脱国家主義で交易主義の「出雲族」と親交し、その青銅器製造の仮設工房と青銅器製造職人を受け入れたと考えられる。)
三角縁神獣鏡の国産と配布は、青銅器の威信財の製造を得意とした「出雲族」本流が構想し、製造拠点づくりの指導と製造職人の派遣を担い、主要製造拠点の推進運営と纏向型前方後円墳の造営とリンクした大王による地方勢力への下賜を「安曇氏」が担った。鋳型を持った青銅器製造職人を、纏向型前方公演分の造営現場の仮設工房に動員しそこで製造させた可能性もあろう。同盟「出雲族」の青銅器製造職人が全国各地を転住していたと考えられ、「国譲り」で失業した彼らの救済策だった可能性もある。
「国産」とは、いわゆる「仿製鏡(ぼうせいきょう)」、中国鏡をその周辺地域において模倣製作した鏡の日本列島版ということである。
3世紀後半から4世紀初め(布留0式)の纏向型前方後円墳
その後の古墳時代前期(〜4世紀前半)の纏向型を定型化したと思しき前方後円墳
(丘陵や台地の高い地形を利用して築かれることが多く、前方部よりも後円部の方が高いのが特徴)
に副葬された仿製鏡の三角縁神獣鏡を想定する。
古墳時代中期(5世紀)は、古墳が巨大化し500メートルの大台に乗ってきて、重要視される副葬品がそれまで鏡から鉄製の武具に代わった。青銅製の鏡は、交易ビジネスモデルとしては衰退したと考えられる。
(ちなみに、
古墳時代の前期と変わらず中期にも見られる副葬品として、祭祀に用いられた石製品がある。ただし流行の変化はあった。
前期には、貝輪や青銅製釧のレプリカである「腕輪型石製品」が流行し、中期には、刀子、斧、鎌などの鉄製の小道具のレプリカである「石製模造品」が流行している。
こうした石製模造品は古墳だけでなく峠や島など交通要衝でも検出されていて、交易祭祀で用いられた可能性がある。
「安曇氏」は、瀬戸内地方で石材の中間材への加工拠点を展開していてその流通を得意としていた。もともとは実用的な石器を完成品とした大量生産・大量供給を想定していたが、鉄製工具を使った高度な加工を施す装身具や祭具といった象徴的な石器を完成品とした希少価値化・限定生産に転じた。
こうした石製模造品は、「安曇氏」が独自に構想推進した国内交易ビジネスモデルだったと考えられる。)
一方、
「安曇氏」は「出雲神の嫡裔」「大国主命の神裔」であるという言い伝えが一般に流布している。
これは、
6〜7世紀に「安曇氏」が全国のアズミに発音の似た地名の交易要衝に分布した際に、現地でそのような風聞神話を広めたものと考えられる。
同盟「出雲族」が遍歴した各地にはオオクニヌシの風聞神話が根強く残っていて、それに便乗したのだと思う。
7世紀後葉〜8世紀前葉の記紀編纂期のヤマト王権は、
「濊(わい)人」や「テュルク族」=「邪馬台国」の存在の隠蔽を踏襲して、後者への「安曇氏」の裏切りを隠蔽しつつ、「安曇氏」は最初から「天孫族」に貢献した協力者だったことにする必要があった
合わせて、「安曇氏」を「出雲族」の後裔とする一般的に流布していた風聞神話を否定し、かつ軍事豪族の「物部氏」の祖としても知られる「安曇氏」の、宗像の地に転じた「出雲族」との協働関係も隠蔽する必要があった
そのためには、かなりの力技で「実際に起こったこと」を「実際には起こらなかったこと」に改竄しなければならなかった。
一方で、
天武・持統の両天皇が目指した律令神道体制の、神道体制は全国の主要神社を消費センターとした経済体制でもあり、中央の(「物部氏」のように政治勢力化せずに)経済勢力であり続けた中央の「安曇氏」と全国の交易要衝に分布した「安曇氏」が、中央と地方の「贄人」として活躍することで成立した。これを権威づける必要もあった。よって、「安曇氏」の存在を隠蔽したり矮小化するという手段は取れなかった。
そうした背景から帰結したのが、「安曇氏」の祖神をオオワタツミとして、「物部氏」の祖神をニギハヤヒ(「安曇氏」の首長の「伊都国」長官)とした設定だった。
ただし、
古事記が面白いのは、「実際に起こったこと」を明示知としては記述しないで隠蔽や脚色をするの一方で、天皇周辺の人々がその暗黙の了解事項や主要氏族内部の言い伝えに照らせば、必ず行間から読み取れる暗黙知を暗示しているということである。
アマテラスは
「武勇にすぐれたタケミカヅチ[建御雷]という神を召し、空飛ぶ船の神であるアメノトリフネ[天鳥船]をお伴につけて、最後の切り札として派遣します」
タケミカヅチは、波の上に逆さに立てた剣の切っ先にあぐらをかいてオホクニヌシと対面し、国を譲れと言う。
オホクニヌシは、跡を継いだ息子のコトシロヌシから返答をさせる。コトシロヌシは「この国は、天つ神の御子に奉りましょう」と速攻で譲歩する。
もう一人の息子、豪胆なタケミナカタが登場して力比べをもちかけて手を握る。タケミカヅチは自分の手をツララにそして刃に変えて脅かし、タケミナカタの手を握りつぶし体ごと放り投げてしまう。
「波の上に逆さに立てた剣の切っ先にあぐらをかく」
「自分の手をツララにそして刃に変えて脅かし、タケミナカタの手を握りつぶし体ごと放り投げる」
などの展開と描写も、物語を聴く者に身体感覚→情動→感情→思考の認知過程を繰り返させるものである。
タケミナカタは東方に逃げ、タケミカヅチに後を追われ、科野(信濃)の国の州羽の湖(諏訪湖)で降伏してその地から出ないことを約束させられた。そしてタケノミナカタはいまも諏訪大社の祭神である。
ちなみに降伏した者がその地で神として祀られたのは、「国譲り」の後の島根半島西部も同じである。オオクニヌシは、高層神殿で神として祀られ鎮魂され封印されたという連想を導いているとも言える。
ヤマト王権による信仰的な鎮魂や封印は、出雲国造家のような祝祭豪族が実践した史実だったのかも知れないし、
古事記によって割り振られた神を祀る主要神社によって、あたかも史実のように暗示され続けてきただけかも知れない。
それはケースバイケースなのだろう。
日本人の全員を意識的にか無自覚的にかこの認識のグレーゾーンに誘い込み、最終的には思考停止の信仰的な大衆心理を導きながら、特定の価値観だけは着実に共有させる
そのような共同幻想こそ、
古事記の「暗黙知の集大成」としての戦略的なパブリックリレーションの全体像に他ならない。
なぜ日本書紀にはない出雲神話が古事記にあるのか
「その答えは、出雲地方に大きな勢力をもつ集団が存在していたからではないか」
と著者三浦氏は述べる。
私は、すでに前項(3:間章)で述べたように、
まずヤマト王権が正史の日本書紀と正史ではない古事記の二本立てについて、
「文化」は下=庶民から自然発生する物事
「文明」は上=為政者が構想強制する物事
という用語法をとった上で、
建前の事実の連鎖をつづった正史「日本書紀」は、
上=為政者が構想強制する「文明」において
ヤマト王権の「権力」の正統性を位置づけている。
本音の事実の連鎖をつづったもう一つの歴史書「古事記」は、
下=庶民から自然発生する「文化」において
ヤマト王権の「権威」の正統性を位置づけている。
と捉えている。
「神話の内容から推察するに、もともと出雲は独自の文化を有し、優れた生産能力をもっていたと思われます。ところが、ヤマトの王権が強大化し、全国統一が進んでいく中で征服されたのです。
そうした出雲の人々のありし日の繁栄を象徴的に語っているのがオホクニヌシの地上統一という話であり、その出雲が、ヤマトに服属するという歴史を象徴的に伝えているのがオホクニヌシによる国譲りの話なのです」
「彼らがヤマトに屈するまでにはかなり大きな抵抗があったのではないかと推測され、時期的には三世紀頃、中国の史書に『倭国大乱』(日本で大きな争いが起こっている)と記されている事件がそれに当たるのではないかと思われます。
これだけ中味の濃い神話が残されているのですから、出雲を中心として日本海側の勢力は、一時はヤマト王権に匹敵するほどだったのではないでしょうか」
と著者は述べる。
しかし、
私個人的には、
「倭国大乱」は一般的には二世紀後半とされ、卑弥呼の共立によって収まった「テュルク族」の連合内部の内乱だったと捉えている。
さらに、
私個人的には、
史実の順序は、
「濊(わい)人」の九州上陸(天孫降臨)→九州での養兵(日向三代)→黒潮にのって一気の畿内侵攻(神武東征)→邪馬台国を降伏させ卑弥呼が死に傀儡女王として壱与を立てる→「濊(わい)人」が魏を後ろ盾とする「安曇氏」を派遣して交渉させ、降伏させた「邪馬台国」の「テュルク族」連合軍を先兵にして出雲を圧迫しての「国譲り」
であり、古事記の物語の構成順序とは異なると考えている。
「テュルク族」はもとは匈奴に同行した鉄生産先住民で、離脱して日本海を渡り北陸に上陸、鉄器を媒介に縄文人を支配して「くに」ぐにを建て行き、鉄資源を求めて琵琶湖地方を経由して大和盆地に至って連合政府「邪馬台国」を建てた。連合軍で鉄資源を求めて吉備地方に侵攻して「くに」を建てるも、さらに出雲を攻めて撃退された。
「倭国大乱」は、「テュルク族」内部のその敗戦の責任のなすり付け合いと鉄資源の奪い合いの内乱だったと考える。
これが卑弥呼という女王の共立によって収束したのは、魏への朝貢によって鉄素材を下賜してもらう政策に転換したためである。
よって、「倭国大乱」は「濊(わい)人」の九州上陸(天孫降臨)より前であって、「濊(わい)人」に西日本に侵攻して征服王朝を建てる構想をもちかけ全面的にバックアップした「倭人」は、「テュルク族」の「くに」ぐにの連合内部の内乱である「倭国大乱」を知ってそのチャンスと判断したと考える。
ではなぜ、古事記の物語の構成順序は、こうした史実の順序と違うのか。
それはすでに前項(5)で検討したように、
私個人的には、
征服王朝樹立の当初、「濊(わい)人」首長層は、征服ではなくてあくまで「天孫族」が「出雲族」に「国譲り」をさせた平和的な吸収である、という風聞神話を創作して普及した
降伏させた「邪馬台国」の名、制圧した「女王卑弥呼」の名も歴史から抹消した
「濊(わい)人」首長層は黒幕的二重支配者に徹してその名も歴史から抹消した
文明文化の先進性を誇った「出雲族」を外戚勢力として取り込み、実質的には「濊人」の民族的血脈を繋ぎつつも、家系的には「天孫族」と「出雲族」の後裔とされる天皇を擁立していった。
天武・持統両天皇は、こうした初期ヤマト王権の風聞神話を揺るぎなく踏襲するとともに、記紀編纂期の多様化した「渡来氏族」の不安定な相互関係を安定化させることを課題とした
古事記はこの課題を果たす「共同幻想」として編集された
これは、天皇の周辺の支配層向けの「暗黙知の集大成」である古事記のお家事情への対応に他ならない
一方、海外向けでもある「明示知の集大成」である日本書紀は、必要以上にお家事情に対応する必要も、微妙な「忖度」を暗黙裡に誘導する必要もない。
それで、関係者の暗黙の了解事項がないと暗示を読み解けない「暗黙知の集大成」の中核である「出雲神話」は捨象された
と考える。
古事記は、
「葦原中国」の最初の物語である出雲神話を起点にして、
明らかに「定住民」「転住民」「移動民」と判別できる主人公とその関係者を登場させて、
それに関わる価値観を刷り込んでいる
私はそこが古事記のミソ、出雲神話のミソだと考えることはすでに述べた。
❶「定住民」の「定住社会」
地縁血縁に根ざした共同体を継承
典型的には農耕民
土地の所有、地域の共同管理や共同作業を重視
社会のパラダイムは農本主義
第一次産業=農林水産業が主体
支配被支配の多層化したピラミッド構造=垂直軸
❷「転住民」の「転住社会」
交易や支配の新拠点を開拓する共同体を継承
典型的には冒険的な遠隔地交易者
志縁によって集まりまた新たな志縁によって散じる
社会のパラダイムは冒険的な交易主義 侵略的な覇権主義 第二次産業が鍵
=遠隔地交易のための航海船の建造 原材料の製品への加工
武器武装の生産
ネットワーク構造=水平軸
(国の管理貿易の交易利権を独占する政商や御用達交易者の場合は垂直軸)
❸「移動民」の「移動社会」
移動生活の手段に根ざした共同体を継承
典型的にはルーティーンの近隣交易者 流浪の芸能者
移動媒体の所有と操作技能の継承 芸能の錬磨を重視
社会のパラダイムは輸送インフラの制度が規定 移動芸能場の制度が規定
第三次産業が主体 =運輸、通信、情報、娯楽などのサービス産業
輸送拠点や芸能場のネットワーク体制=水平軸
(水軍として軍事体制下に入る時は垂直軸)
以上のように「定住民」「転住民」「移動民」を概念規定した上で、
古事記の神話は、
❶「移動民」の「移動社会」は悪
❷「転住民」の「転住社会」は悪ではないが最善でもなく、一過的な善
❸「定住民」の「定住社会」が最善
というシンプルな暗黙の決まり事を、
読む者が自ら理屈抜きに導き出してしまうように演出された物語が繰り返されている
「出雲にかぎらず、似たような勢力は関東や九州など全国各地に存在したのではないかと思います。出雲はそうした勢力の代表として古事記に取り上げられているだけかも知れません。
ヤマト王権は地方勢力を一つずつ征服し、徐々に統一国家を作り上げていきました。
そして、支配と治世をさらに充実させるため、七世紀の聖徳太子の頃から中国にならって法治国家としての歩みを始め、その取り組みの一環として、自分たちの来し方を記す国史の編纂に着手したのです。日本書紀も古事記も、淵源を求めれば、同じくこの流れの中にあります」
著者はまたこう述べている。
ヤマト王権が
「手こずらされた相手のことをこれをほど詳細に、また魅力的に述べようとする古事記の真意はどこにあるのでしょう。
日本書紀と比較して古事記を眺めると、そこに関わっていたのは中心にいて国家を支えていた人々ではなく、その周辺にいた人々なのではないかと思えてきます。
だからといってわたしは、古事記が滅ぼされた出雲勢力の子孫によって作られたとか、現政権に逆心をもつ者たちによって語られたとは思っていません。(中略)
この問題はひとまずここで置いて、第4回で再度ふれたいと思います」
これについて、
古事記が「暗黙知の集大成」として、人々に特定の「暗黙の了解」を意識的にか無意識的にか誘導することを目的としていたとする私は、
その目的にかなう物語の構成や演出を導くことができたのは、
著者三浦氏が言うように中心に対して周縁の人々ではなく(それは風土記を作っている)、
やはり中心の支配層に残った歴史的動向に触れた人々だったと思う。
ただし、彼らは、
誰もが知る「表立った政治動向・軍事動向」を知る人々ではなく
知る人ぞ知る「水面下の経済動向・交易動向」を知る人々
だったと考える。
なぜなら、すでに本論シリーズで検討してきたように、主要な神話の展開が遠隔地交易絡みの諸勢力の動向として解釈できるからである。
「定住民」「転住民」「移動民」との絡みで言うと、
「出雲族」「安曇氏」「倭人」「阿多隼人」のような遠隔地交易民は、新拠点開拓型の「転住民」であり、
「テュルク族」「濊(わい)人」のような征服者は、建国型ないし転戦型の「転住民」であり、
みな経済的な動機からそれぞれのサバイバル戦略を構想し行動を開始していて、最終的に進出地の交易体制・経済体制を改変して交易上・経済上の基盤を構築している。
このことについては、項を改めて「第4回 古事記の正体とは」の内容とともに考えたい。
ここでは以下、その際に重要となる著者の論述を紹介して若干の私見をそえて本項(6)を終えたい。
「日本海文化圏」を「環日本海交易圏」として神話を解釈する
「わたしが『日本海文化圏』と呼んでいるものがあります。
ヤマト王権の支配が全国に及ぶ前、日本海の沿岸各地には複数の集団が点々とあって、それぞれに資源や文化をもちながら、海のルートを用いて交流していました。
その存在が明らかになっているところとしては、出雲、筑紫、高志(こし 越、現在の北陸地方)、そして、高志の中心と考えられる糸魚川あたりから姫川を伝って内陸に入った州羽(諏訪)などです」
私も『日本海文化圏』を『環日本海交易圏」として捉えているが、
それは
①縄文時代から遠隔地交易が始まっていて
三内丸山はその拠点で大陸の殷文化に連なる北方文化とも交流していた
②殷が滅んで遺民が流浪の商人となり朝鮮半島北部東岸に至り環日本海の遠隔地交易民となった
その一部が日本列島に渡来し「出雲族」の最初の前身一派となった
(東北北部の西周代の青銅製刀子をもたらしたもの)
③中国の動乱や戦乱を逃れて遠隔地交易民となったものが繰り返し参入し
脱国家主義の「自由貿易」前提のベンチャー型交易者という特定職能を媒介とした族的結合が
「出雲族」の前身諸派となった
④島根半島西部に環日本海交易ネットワークのハブ拠点を構築し
四隅突出型墳丘墓を共通墓制として同盟「出雲族」がなった
ただし、
⑤「③の段階」で
呉越同舟の呉の遺臣を祖とする「安曇氏」も北部九州に渡来していて
当初、朝鮮半島南端と北九州沿岸を拠点とした縄文人交易民の「倭人」という先住民と
先行して参入していた「出雲族」と共生していて、大規模稲作拠点の群展開に限界があり
越遺民の稲作北限を北上させた稲作民を越(北陸)に入植させている
⑥「③の段階」で
北部九州を拠点とする「安曇氏」と近畿を拠点とする「テュルク族」という
排他的な領域を主張する二大勢力が対峙
その中間域を本拠地とする同盟「出雲族」は両者と平和裡に交易関係を維持するべく
「安曇氏」には銅剣の類、「テュルク族」には銅鐸という威信財を供給した
「テュルク族」は匈奴に同行した鉄生産専従民で
「出雲族」が越前で行っていた碧玉加工に用いる鉄製小型工具を製造させるべく入植させたが
富国強兵に資する鉄器を媒介に縄文人を支配して「くに」ぐにを建てていった
その「管理貿易」は勢力圏と接する丹後半島を本拠地とする遠隔地交易民が担った
彼らは脱国家主義の「出雲族」には参加せず、東南アジアとも連絡する独自路線をとった
(ベトナムで類似品が検出されているガラス釧をもたらしたもの)
といった具合いに、
長い歴史スパンで様々な遠隔地交易民の諸勢力が関わった広範な交易経済圏だった。
「海岸線に点々と沿った文化圏ですから、船の神事にも共通性があります。
諏訪の北には安曇野(あずみの)と呼ばれる土地がありますが、これは、宗像氏という一族とともに、北九州に本拠を置く、海運や交易を業とする海の民、安曇氏が川を遡って住み着いた土地(筆者注:北九州の拠点を失って全国に分布した安曇氏の信仰上の中心拠点とされた)とされています。さらに、タケミナカタの『ミナカタ』は、宗像氏の『ムナカタ』につながるのかもしれません」
以上は、「国譲り」に相当する同盟「出雲族」の解体とその日本列島内の交易ネットワークの譲渡の後の展開である。
私個人的には、
❶タケミナカタが象徴する北陸翡翠産地の同盟「出雲族」の一派が、母ヌナカワヒメのいる本拠地を奪われると思い一人抵抗、「濊(わい)人」を象徴するタケミカヅチに撃退され、逃げたのが諏訪地方だった。初期ヤマト王権は「定住民」化を条件にその地方での域内交易を認めた。
❷初期ヤマト王権はその「管理貿易」を政商型交易者の「倭人」と「安曇氏」に独占させたが、「倭人」のほとんどが九州にとどまり中央にとどまった「倭人」と連携しなかったのに対して、「安曇氏」は北部九州の本拠地と中央で連携し、同盟「出雲族」が譲渡した日本列島内の交易ネットワークを継承した。元同盟「出雲族」の北陸翡翠産地や諏訪地方の産業拠点については、域外への産品の集荷や域外からの必要産品の入荷といった遠隔地交易は「安曇氏」が担うことでこれをコントロールした。
それは、天皇への初物貢納を担い通行特権を持った天皇直轄の「贄人」によるのであって、「朝廷の公経済」ではなく「天皇の私経済」の利益源泉となった。
❸6〜7世紀、「安曇氏」は北九州の本拠地を失い、全国のアズミに発音の似た地名の交易要衝に分布する。飽海、熱海、渥美など沿岸部だが例外なのが「安曇野」で、天蚕と呼ばれる野蚕の産地でその技術が秘匿されたことや、オオワタツミに連なる穂高見命(ホタカミノミコト)を祭る穂高神社が信州だけでなく「安曇氏」全体の信仰拠点であったことが指摘されている。「天皇の私経済」の利益源泉となった従来の中央と地方の「贄人」体制を、律令神道体制の神道体制において再編意図に応じた方策だった。
❹「国譲り」に相当する同盟「出雲族」の解体時、出雲を去った「出雲族」本流は水面下で「安曇氏」は提携していて宗像地方に転じ、初期ヤマト王権が統一的な「領域国家」体制づくりに貢献する交易ビジネスモデルを構想し、北部九州と中央の「安曇氏」が協働して推進した(前方後円墳の標準化と全国展開、三角縁神獣鏡の国産と供給)。ところが「安曇氏」は北九州の本拠地を失って、宗像地方にひとり残ってしまう。天皇家が直接的な関係をもち宗像の名を授け、「宗像氏」は天皇に近しい海洋豪族となっている。古事記の宗像三女神譚はそれを正当化するために創作された
と考える。
宗像三女神はそれぞれ沖津宮、中津宮、辺津宮に鎮座とされる。
「安曇氏」と水面下で協働してその名を伏せた「出雲族」本流は、沖合の沖津宮を中核拠点としていた公算が高い。
そして、この時の呼び名が「水方(ミナカタ)」だったとすれば、著者三浦氏のいう「タケミナカタの『ミナカタ』は、宗像氏の『ムナカタ』につながる」可能性が見えてくる。
つまり、「水方(ミナカタ)」とは本来、海上交易民、水上交易民を意味し、タケミナカタは大きな高い山を意味する「岳」の「水方(ミナカタ)=山岳地帯の河川交易民を意味したという仮説が浮上する。
「安曇氏」が、そもそもは「出雲族」が手がけていた野蚕拠点を「安曇野」として管理下におき、同じく管理下においたタケミナカタに象徴される中部北陸の河川交易民を介して沿岸輸送に接続、隠岐から沖津宮のある沖ノ島に海上輸送し、名を伏せた「出雲族」本流が朝鮮に輸出した。これは、「天皇の私経済」を潤す主要交易品であり、それゆえに天皇家は後世に渡って近しい関係を維持した。そして「宗像氏」は、海洋豪族として北九州沿岸の海域を支配し、ヤマト王権に対して軍神の神助をはかったり親征の中止のお告げを伝えたり密接な関係にあったとされる。
私個人的には、「宗像氏」の神秘化や、宗像大社のある沖ノ島の聖域化は、そもそもはその交易活動を秘匿するための方策だったと考える。
野蚕、ヤママユの絹は淡い緑色や黄色、茶色が特徴で、「魏志倭人伝」に倭の人々が養蚕して絹を織り、卑弥呼が魏に絹製品を献上したとの記述がある。この絹製品を「テュルク族」に生産供給したのが、内陸の山間地にまで産業拠点を開拓していた「出雲族」だったと考える。その縁故があったから、タケミナカタは諏訪地方に逃げたのだろう。「テュルク族」の魏朝貢交易を補佐した「安曇氏」は、集荷拠点であり分配拠点であった宇佐の地の「女王国」から先の魏と行き来する交易活動であって、「テュルク族」は貢納品一つ一つの生産供給については「出雲族」や丹後半島の遠隔地交易民に依頼したと考える。
ちなみに、「テュルク族」の「くに」ぐにの連合政府「邪馬台国」であり、それを制圧した「濊(わい)人」が本拠地とした纒向で、絹製のきんちゃく袋が発見され、野生の蚕「ヤママユ」の絹でできている可能性が高いと分析されている。
卑弥呼の魏朝貢交易を補佐し、壱与を共立しての魏朝貢交易を代行した「安曇氏」は、野蚕そして絹に関わる交易資源と交易機会を熟知していた筈で、それを「天皇の私経済」の利益源泉にすべく生産輸出体制を整えることは容易だった。
こうした「実際に起こったこと」は表立って歴史に記されていないが、
「宗像氏」が「出雲神の嫡裔、大国主命の神裔」という風聞神話も伝えられ、天照大神と素戔嗚尊の誓約によって生まれた宗像三神を祭神とする祭祀豪族ともされたことで、暗示しつつ正当化されている。
沖津宮、中津宮、辺津宮のある、沖津島、大島、北部九州沿岸という
「これらの地域は日本海の海流に乗れば朝鮮半島とは指呼の間ですから、当然交流があって、鉄のインゴット(鉄鉱石を溶かして塊にした製鉄の原料)なども豊富に入ってきました。
出雲周辺には古代の製鉄遺跡が多く見られますが、当時の日本列島では鉄鉱石の採掘はまだできなかったので、出雲は他地方にまさる先進地帯でした」
という著者三浦氏の見解に対して、
私は
富国強兵に資する鉄素材を主要産品として重視したのは、魏の外臣化し出先機関として「くに」を建てた、国家主義の「管理貿易」前提の政商型交易者者である「安曇氏」であり、魏朝貢交易によって魏から鉄素材を下賜してもらう政策に転じた「テュルク族」を補佐したこともその延長線上にある
つまり、鉄素材の輸入は、「国譲り」という同盟「出雲族」の解体の前から「安曇氏」がリードしてきたことだった
一方、「出雲族」本流は一貫して脱国家主義の「自由貿易」、ないしは国家と対等な自立した立場のベンチャー型交易者で、国家を後ろ盾にした「管理貿易」でスケールメリットを発揮する政商型交易者にはできない交易ビジネスモデルを発想し構想した。おそらく、「安曇野」の野蚕から絹糸絹布を作り輸出する交易ビジネスモデルも「出雲族」本流が構想し、推進を「安曇氏」が担った
つまり、宗像地方の「宗像氏」ないしその前身の出雲から転じた「出雲族」本流と、「安曇氏」とが協働したのは、鉄素材の輸入ではなかった
と考える。
(ただし、古墳造営の石工に使われる鑿や、木製工芸品づくりに使われる鑿や槍鉋の歯などの小型鉄製工具のための鉄素材の輸入は、それを使う職人という高度人材の輸入とともに、朝鮮に対応する「宗像氏」と国内に対応する「安曇氏」の協働で行われた。
ちなみに、鳥取県(因幡国)の青谷上寺地遺跡からは、精巧なデザインと木工技術による多種多様な木器とそれを作るのに使用されたこれまた多種多様な鉄製工具が発見されている。弥生時代から入り江の潟地に矢立てで囲んだ集落をつくり、そこが木工集団と製鉄集団が恊働する木製祭具の生産拠点になっていたと推察されていて、そのような産業拠点が主要な木材集荷拠点で継承的に展開されたと考えられる。)
「日本海文化圏は、(中略)南は九州、沖縄へと続き、北は東北、北海道まで続いていた可能性もあります。南洋のフィリピンあたりでしかとれないゴホウラ(護法螺)という貝を用いた腕輪が、北海道の縄文時代の遺跡で発見されたりしていますので、海流に乗って長い長い海の道の連なりが存在したのは間違いないでしょう。
そして、そこで行われていたのは、単なる経済活動としての交易ではなく、『クラ』とか『ポトラッチ』とか呼ばれる、精神的なつながりを伴う『贈与交換』であり、その時の大切な宝物の一つがヒスイだったのかもしれません」
たとえば、
魏志倭人伝の時代、中国の魏はもちろんのこと、「領域国家」化の波が行き渡った朝鮮でも、「交換経済」が行われていた。貨幣がなくても、基軸通貨的な主要交易産品がそれに代わっていて実質的な貨幣経済も進展していた。稲作民に収穫の一部を上納させ、その代わりに共同体のインフラ整備や公共事業の資材を供給するのも「交換経済」がである。
その時代の日本列島はどうだったかというと、
渡来人が持ち込んだ稲作共同体という稲作文化において、縄文人が受け入れやすい文化伝来者の文化英雄化(「出雲族」)や共同体作業の信仰化(「安曇氏」)を伴いながら、つまりは「贈与経済」の名残を残しながらの「交換経済」が進展していた。
「安曇氏」は中国の巨大「領域国家」の外臣化して「くに」を建ててを日本列島内外で「交換経済」一貫させた。
一方、「出雲族」は、縄文社会の「贈与経済」を温存しそれと大陸の「交換経済」を接続することで交換価値の不均等を最大化して利益を上げた。部族社会では女性は財であり、女性を嫁がせることは財の贈与であった。オオクニヌシは、主要交易産品の生産地の縄文部族の族長の娘を娶って回ったが、それは縄文社会の原理に則って交易関係を締結維持させる活動だった。
「高志の奴奈川(新潟県糸魚川市を流れる姫川下流域)は日本唯一のヒスイ(勾玉の素材)の産地なのですが、この交易圏内では、縄文中期から晩期にかけてヒスイ工房の跡が何か所も見つかっています」
オオクニヌシが妻問い形式で娶ったヌナカワヒメは、翡翠産地の縄文部族の族長の娘だったと考えられる。
オオクニヌシは、縄文社会を温存したまま翡翠産出を効率化させ、それを原材料とした装身具づくりの拠点をつくって列島内交易ネットワークで結んだ。これにより、自給自足の小規模な翡翠産出と翡翠装身具づくりは、効率的な量産を前提とする産業化した。
ちなみに、
出雲国風土記に記載がある玉造温泉、その名の由来も、この地にある花仙山で良質の青瑪瑙が採掘できたために、この地の人々が玉造を生業としていたことにある。三種の神器の一つ、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)も櫛明玉命(くしあかるだまのみこと)によってこの地で造られたとされている。
こうした神話は、それまでの自給自足だった産品の効率的な量産を前提とする産業化を正当化するものだった。
古事記における南方系の神話と北方系の神話の交錯から何を見るか
「現代の日本人は南方系アジア人と北方系アジア人の二重の混合によってできあがったという『日本人二重構造モデル』という考え方が有力です。
まず数万年前から数千年前レベルの古層に東南アジアなど、南のほうから流入してきた人々があり(縄文文化)、
その上に、今から三千年前頃から朝鮮半島経由で何波にもわたって流入してきた人々が重なり(弥生文化)、
その二つが混じりあって、いわゆる日本人というものができあがったという仮説です。
そして、三、四世紀以降、この国の支配は天皇家を中心とした北方経由で渡来したと考えられる弥生人の子孫が握ることになりますが、古事記を見ていると、両者の文化が混じりあっている中にも、古層としての南方系/縄文系の文化の痕跡が濃厚に感じられるのです。
それは、南方系のルートが出雲や高志、筑紫などをつなぐ日本海文化圏のあり方とかなり一致しているからかもしれません」
初期ヤマト王権が樹立した当初、支配層を構成する主要渡来系勢力は、それぞれの神話をぞれぞれの内部で神話を語り伝えていた。
「出雲族」は中国北部の神話
「安曇氏」は中国南部の神話
「テュルク族」はステップロードの神話
「濊(わい)人」は扶余由来の朝鮮半島の神話
「倭人」は朝鮮半島と北九州の沿岸に挟まれた島嶼の縄文人の神話
「阿多隼人」は西南諸島から南九州にかけての神話
そして、当然、時期は違うが、
「出雲族」の神話には、主に本州の縄文人の神話がその対等な混交から加わった可能性
主に本州の縄文人の神話には、逆に「出雲族」の神話が加わった可能性
北部九州の縄文人の神話には、彼らを稲作民に再編した「安曇氏」の神話が加わった可能性
山野系縄文人「熊襲」の神話には、彼らを陸戦隊に再編した「濊(わい)人」の神話が加わった可能性
海洋系縄文人「隼人」の神話には、
彼らを沿岸島嶼交易民を遠隔地交易民の連鎖に再編し、海戦隊に再編した「阿多隼人」の神話が加わった可能性
がある。
以上のような関係性において、南方系の神話と北方系の神話が日本列島全体で交錯した。
「環日本海交易圏」は、
脱国家主義の「自由貿易」前提のベンチャー型交易者である環日本海各地の「交易ビッグマン」たちのネットワークだったから
特定の神話に集約化する傾向は希薄だったと考えられる。
ただし、その盟主、メタ「交易ビッグマン」であるオオクニヌシに象徴される同盟「出雲族」は、もっぱら交易慣行の前提となる交易神話を形成したのではないか。それは、後背地経済圏の新石器時代人の<部族人的な心性>と、遠隔地交易を相互に展開する金属器時代人の<社会人的な心性>とを調和的に融合する神話だったと考えられる。それが、島根半島を本拠地とした同盟「出雲族」の場合、南方系の神話と北方系の神話の融合ということになったのではないか。
著者三浦氏が指摘する「日本海文化圏」は、
諏訪地方などの内陸部を含むため、本州の縄文人の神話がその対等な混交から「出雲族」の神話に加わった可能性、逆に「出雲族」の神話が本州の縄文人の神話に加わった可能性が色濃い。具体的には、三内丸山に見られる巨木信仰とその発展形が両者に見られることはそうした相互関係の帰結ではなかろうか。
「南方、北方の双方から流入してきた観念や思想の大きな特徴を言うと、南方系(縄文)の世界観はしばしば水平的な広がりをもち、北方系(弥生)の世界観はしばしば垂直的な構造にとみます。(中略)
オホクニヌシによる国譲りの神話を、(中略)もう一度見直してみましょう。
オホクニヌシにはヤガミヒメ、スセリビメの他に、高志の国に出かけてめとったヌナカハヒメ[沼河比売]という妻がおり、タケミナカタは、この二柱の子という伝えがあります。ここには出雲(オホクニヌシ)と高志(ヌナカハヒメ)と州羽(タケミナカタ)という縄文的な日本海文化圏のつながりがあらわれています。
そこへ、天(高天の原)からタケミカヅチが降りてきて、垂直に立った剣にあぐらをかいて国譲りを迫りました。これは上下のヒエラルキーを強調した弥生的(ヤマト的)な権力構造と言えます。その力によってタケミナカタは敗走し、出雲から州羽へと逃れ、降参したのです。
図式的にいえば、北方系の人々の支配が貫かれることによって、それより古層にあった南方系のネットワークが終焉したことを象徴しているのかもしれません。
じっさい、弥生系のヤマトによる国家支配体制ができてから、日本海文化圏は解体させられました」
垂直の移動や転住、水平の移動や転住は、古今東西の神話にあり、その対照性を見て取れる。
しかし、明快な垂直軸、水平軸を意図的に前提し神々とその行動を配置するするとなると、何らかの権威権力を正当化しようとする主体による創作であると言える。「くに」や「国」が現れる前の新石器時代人の<部族人的な心性>では、当然、建国神話は生まれない。
朝鮮の扶余系騎馬民族の建国神話は、天孫降臨を伴い、水平軸では乗り越えられない文明文化の後進性を、垂直軸で天界を持ち出すことで乗り越えている。
この扶余由来の朝鮮半島の神話を「濊(わい)人」も踏襲した。
一方、征服王朝は、征服した多様な民族的勢力を調和的に統合しなければならない。この場合、主人公の神を水平軸で移動、転住させ、そこに彼らの祖神を登場させ主人公の神と交流、混交させることになる。
(その前段として野生種から栽培種を産んだ人間の営みを神格化したオオゲツヒメ、自然を壊す産鉄や人々の安寧を乱す賊を象徴化した八岐大蛇を登場させている。前者は南方系の神話のハイヌウェレ型神話、後者は北方系の文化の影響が考えられる。遼寧省西部に紀元前4700年頃〜2900年頃に存在した紅山文化の墳墓からは、ヒスイなどの石を彫って動物などの形にした装飾品が多く出土している。 恐竜など大型動物の化石は竜の骨(竜骨)と信じられ長く漢方の材料として使用されたという。三内丸山遺跡は、縄文時代前期~中期(紀元前約3900~2200年)だから、紅山文化の影響を受けた可能性がある。また、紅山文化を踏襲した殷文化が「出雲族」の最初の前身一派の殷遺民によってもたらされた可能性もある。よって、出雲神話の八岐大蛇は北方系の文化の影響を受けた「環日本海文化」の可能性が高い。)
そして、
山野系の新石器時代人が登場するならばその山野系の神話時空を援用し、海洋系の新石器時代人が登場するならばその海洋系の神話時空を援用し、両者が登場しての葛藤や交流であれば両者の神話時空を対峙させる。そういう原理的なやり方が出雲神話でも展開している。
具体的には、
「天孫族」が垂直軸で降臨した後、最初は山野系縄文人の首長であるオオヤマツミを登場させ(外戚勢力として取り込んだ経過を暗示)、その不可思議な展開において山野系縄文人の神話時空を介入させている。イワナガヒメ実家返し譚やコノハナサクヤヒメ出産譚などである。
次に海洋系縄文人の主張であるオオワタツミを登場させ(外戚勢力として取り込んだ経過を暗示)、その不可思議な展開において海洋系縄文人の神話時空を介入させている。トヨタマヒメに導かれた海神の宮往還譚(「倭人」の朝鮮半島南端と北九州沿岸の往還を連想させる話)、海幸山彦係争加勢譚(「倭人」や「隼人」がすでに経験していた「交換経済」による「贈与経済」超克の話)などである。
以上のように古事記に、さまざまな時代と地域の元ネタ神話、元ネタ文化が挿入されているのは、編纂者が物語の主旨と構成から適宜に加工して配置したものと考えられる。
古事記の神話を概観して注目されるのは、大きくは南方系、ギリシャ・アラビア系、朝鮮系の神話が援用されていることである。
朝鮮系の神話は、騎馬武力を誇る「濊(わい)人」首長層が降下した軍事豪族、百済や新羅から渡来した主要氏族の言い伝えが援用されたものと考えられる。
ギリシャ・アラビア系の神話は、「テュルク族」の後裔の言い伝えが援用されたものと考えられる。
南方系の神話は、太平洋島嶼から日本列島だけでなく朝鮮、中国、インドネシアにまで分布しているもので、古事記への援用は数として最も多く、これは海洋系縄文人である「倭人」「隼人」、遠隔地交易民の「阿多隼人」の言い伝えが援用されたものと考えられる。
そして、
海外由来の神話の影響は、古事記の前半部分、特にイザナキ・イザナミの物語に集中していて(*1)、
アマテラスやスサノヲやオオナムチ(オオクニヌシ)の物語では限定的である(*2)
ということが注目される。
(*1
<南方系>としては、 オノゴロ島、国生み、イザナキ・イザナミの結婚・出産、イザナミの死
*2
<南方系>としては、 スサノヲが殺したオヲゲツヒメから五穀や蚕が生まれる話
オオナムチの苦難
海幸彦・山幸彦
<中国系>としては、 アマテラスの天の岩戸
<朝鮮系>としては、 日本と朝鮮の降臨伝承の類似性が指摘されている)
風聞神話が創作され流布した順序は、以下と考える。
❶
初期ヤマト王権の樹立当初、
朝鮮半島の騎馬民族「濊(わい)人」が征服王朝を樹立した経緯と、転向「出雲族」の一派(コトシロヌシ)を外戚勢力として取り込み、天皇(大王)を擁立する黒幕的二重支配者に徹する「濊(わい)人」首長層の存在を隠蔽するための風聞神話
↓
降臨した天孫族の後裔が天皇(大王)=「天孫降臨」「日向三代」「神武東征」
しかし、「神武東征」で「濊(わい)人」が「テュルク族」を降伏させて初期ヤマト王権が樹立された訳ではないとして
「天孫族」で象徴する「濊(わい)人」の名は出さず、中国の史書にある「卑弥呼」「邪馬台国」の名も出さない
あくまで、「天孫族」は反乱分子を制圧しただけで
ヤマト王権の樹立は、「出雲族」を象徴するオオクニヌシが「国造り」した「葦原中国」の「国譲り」
「国譲り」=同盟「出雲族」の解体の前夜、「出雲族」本流と「安曇氏」が業務提携したことを正当化する風聞神話
↓
アメノワカヒコ(安曇氏)がオオクニヌシの娘シタデルヒメ(出雲族)の婿となる譚
後者の葬儀にきた父アマツクニタマ(安曇氏)がシタデルヒメの兄でアメノワカヒコと親友だったアジスキタカヒコネ(出雲族)を息子とそっくりで抱きつく譚
ただし、この段階では、
アジスキタカヒコネとシタデルヒメは、オオクニヌシと宗像三女神のタギリヒメノミコト(オキツシマヒ)の子
宗像三女神は、アマテラスとスサノオの誓約(うけい)で生まれた神で、系譜ではスサノオの娘
という想定はまだなく、
宗像三女神の想定は❸の段階
アマテラスの想定は❹の段階
まで待たねばならない。
❷
磐井の乱に向かう過程で、
「神武東征」までは協力貢献したが
離反して「九州豪族」を形成していった九州にとどまった「倭人」「熊襲」「隼人」に関わる部分を変更した風聞神話
↓
協力的な山野系縄文人オオヤマツミは本来「熊襲」を象徴したが、そのような連想を回避すべく
「熊襲」はヤマトタケル西討譚で成敗されるクマソタケルで象徴
協力的な海洋系縄文人オオワタツミは本来「倭人」「隼人」を象徴したが、そのような連想を回避すべく
「倭人」は「神武東征」の水先案内人に矮小化
オオワタツミは(海洋系縄文人ではない遠隔地交易民の)「安曇氏」の祖神とする
「阿多隼人」は離反した「隼人」を「神武東征」において海戦隊に組織したが、
南九州沖合から一気に紀伊半島南部に海上東征した功績と
高速航海船の建造と操舵の技能を買われて天皇に近侍したことから
その祖を山幸彦に抗ったが降った海幸彦とする
(陸戦隊化した「熊襲」と海戦隊化した「隼人」の南九州の国「狗奴国」は、「神武東征」時点で東海関東地方沿岸にも展開。
これを海上輸送で支援したのが「阿多隼人」だった。
ところが、この東海関東にとどまった「熊襲」「隼人」が離反して「蝦夷」を形成していった。
「阿多隼人」は祖神を、天孫族でありながら本流に抵抗した汚点を持つ微妙な立ち位置の海幸彦とされた)
❸
磐井の乱から白村江の敗戦に至る時期、
「安曇氏」が北九州の本拠地を失い、全国のアズミに発音が似た地名の交易要衝に分布
宗像地方で「安曇氏」と協働していた出雲から転じた「出雲族」本流の後裔が一人残されて
天皇と直接関係を持ち「宗像氏」の名を授かり天皇に近しい海洋豪族となった
このことを正当化する風聞神話
↓
宗像三女神譚
アジスキタカヒコネとシタデルヒメは、オオクニヌシと宗像三女神のタギリヒメノミコト(オキツシマヒ)の子
つまり、出雲の地を去って宗像地方に転じた「出雲族」本流は、現地の「安曇氏」を外戚勢力として取り込んで協働したことを暗示
ただし、この段階では、
アマテラスとスサノオの誓約(うけい)で生まれた神で、系譜ではスサノオの娘
という想定はまだなく、
アマテラスの想定は❹の段階
まで待たねばならない。
❹
壬申の乱で天武天皇が即位してから持統天皇に至る時期、
律令神道体制が目指され、律令体制で「朝廷の公経済」、神道体制で「天皇の私経済」が担われ、
後者において中央と地方の経済勢力に特化した「安曇氏」が中央と地方の「贄人」となり
天皇の初物貢納という建前で、通行特権を駆使して国内外交易ネットワークを推進
主要神社を消費センターとしてその建て替えや祭祀に必要な産品の生産者を信仰共同体化して地方経済を創成
こうした神道体制の戦略的コンテンツとして古事記を編纂
↓
その際に、
伊勢地方の土着信仰だったアマテラスという女性太陽神を採用
伊勢神宮の最初の式年造替で神社建築を高床式穀倉をモチーフに標準化し、
円鏡で象徴するアマテラスを祀る神道祭祀を標準化
この時点で、
宗教権威的な守り神であるカミムスミ〜スサノヲ〜オオクニヌシの神話群
(「天皇の私経済」の体制である神道体制のネットワークと水平軸が重なる)
と
政治権力的な司令神であるタカミムスヒ〜アマテラス〜天孫族の神話群
(「朝廷の公経済」の体制である律令体制のピラミッドと垂直軸が重なる)
の
調和的統合が構成された。
つまり、この段階で、
宗像三女神譚
アマテラスとスサノオの誓約(うけい)で生まれた神で、系譜ではスサノオの娘
という想定がなされた。
「宗像氏」と、「根の堅洲国」が象徴する朝鮮半島東岸の交易拠点との交易関係が暗示されている。
なお、
この❹の古事記の完成形を整える時期に、
海外由来の神話の影響は、古事記の前半部分、特にイザナキ・イザナミの物語に集中しているとされる創世神話が、
中国や朝鮮に対して独自性あるものとして編纂された。
世界の創世神話は類型化されていて、日本の「国生み神話」は地上が神の両親から生まれたという「世界両親型」にあたる。
ちなみに、
中国の「天地開闢神話」は、混沌の中で巨大な体を持つ神、盤古の混沌に対する働きかけで天地が開闢する「世界巨人型」。
朝鮮も、混沌の中に隙間が生じて天地王ボンプリが生まれ、天と地を互いに引き離そうと隙間の四隅に銅柱を立てた「世界巨人型」。
東南アジアは、卵から世界が生じたとする「宇宙卵型」が多く、ユーラシア北部から北アメリカにかけては、一面水浸しの世界があり神や動物が水底の泥から地上をつくる「潜水型」が多いという。
結局、日本列島以外の世界の最も「国生み」に近しい創世神話を探ると、それはハワイの地上をつくる神話である。
ハワイ王国の天地創造神話は18世紀に編纂されたもので、元々は王室のみに語り継がれていた口述詩で、最後の女王リリウオカラニが英訳したという。
第1話で、天が回っていた時、大地はまだ熱かった 天が回り終えたとき、太陽の光が隠れわずかに発するのみで 冬のある晩、どろどろした大地が作られ暗の中に夜が生み出された。 第2話で、クムリポは夜、男性で生まれた ポエレは夜、女性で生まれた、とする。
共通点は、兄妹神が登場すること、オノゴロ島のような「どろどろした大地」が地上の始まりとすることである。
よって、
「国生み」譚は南方型と言っても、ポリネシア(ハワイ〜ニュージーランド〜イースター島を結ぶ巨大三角海域の島嶼群)由来と考えられる。
(一方、アジアでは近親相姦を戒める筋書きの神話が多いと言われ、「国生み」譚からイザナミの死後の「黄泉の国での破局」譚までがワンセットで特徴を成していると分かる。)
ちなみに、
母音を有意味音とする言語を「母音主義」、子音を有意味音とする言語を「子音主義」というが、「母音主義」の言語は日本語とポリネシア語だけである。
このことから、日本列島の四周からやってきた主要渡来系勢力が共通語として日本語を形成していく際に、それぞれの「子音主義」の言語を排して、縄文人の言語の「母音主義」と「膠着語」の文法が採用されたと考えられる。
「膠着語」とは、ある単語に接頭辞や接尾辞のような形態素を付着させることで、その単語の文の中での文法関係を示す特徴を持つ言語のことである。「膠着語」に分類される言語は、トルコ語、ウイグル語、ウズベク語、カザフ語等のテュルク諸語、モンゴル諸語、満州語等のツングース諸語、日本語、朝鮮語や、フィンランド語、ハンガリー語等のウラル語族、タミル語等のドラヴィダ語族、チベット・ビルマ語派、エラム語、シュメール語、ハッティ語、フルリ語、ウラルトゥ語等の古代語という。つまり、
「濊(わい)人」「テュルク族」、縄文人交易民である「倭人」の言語が「膠着語」だったと考えられる。
つまり、
主要渡来系勢力の共通語として形成された日本語は、文法的には北方系+土着系で、発音的にはポリネシア由来の南方系+土着系、と言える。
❹の記紀編纂期は、律令神道体制の構築期であるとともに、主要渡来系勢力の共通語として形成された日本語の形成期であった。
天皇の周囲の支配層に向けて和語で書かれた古事記は、そのような日本語の完成形を示すという役割を持っていた。
古事記における海外由来の北方系の神話と南方系の神話の混在は、北方系+土着系の文法を南方系の主要渡来系氏族(阿多隼人の後裔)に示し、ポリネシア由来の南方系+土着系の発音を北方系(出雲族、安曇氏、テュルク族、濊人の後裔)や西南諸島からの南方系の主要渡来系氏族(阿多隼人の後裔)に示したと言える。
ざっくりと言って、
ヤマト王権の支配層において共通語として形成されたい日本語=和語は、
縄文人交易民の「倭人」の後裔である「大伴氏」が一番楽だったように思えるが
和漢混合において、漢語の単語を訓読みで入れ込んで書いたり読んだり言ったり聞いたりすることは「出雲族」「安曇氏」が慣れ親しんでいた
一番大変だったのは母語との共通性が「膠着語」だけである、「テュルク族」の弟磯城一般の後裔と、黒幕的二重支配者に徹した「濊(わい)人」首長層の後裔だったが、すでに前者は天皇の外戚勢力化、後者は軍需装備品調達を独占した「物部氏」への騎馬武力を誇っての降下による混交という経過を経て、共通語を習得する言語能力を高めていたと考えられる。
話を戻そう。
「国生み」譚は南方型と言っても、ポリネシア(ハワイ〜ニュージーランド〜イースター島を結ぶ巨大三角海域の島嶼群)由来ということは、
ポリネシア人が渡来したということである。
人類がはじめてポリネシアに足を踏み入れたのは、約3000年前で、日本では縄文時代晩期にあたる。最初の居住者はたちは、東南アジアの熱帯島嶼で暮らす知識や技術を持っており、東南アジアから多様な文化要素を携えて東進してきたものと考えられている。
よって、縄文時代晩期に日本列島に渡来して縄文人となったポリネシア人がいたということである。
ここで、
日本列島内の最も「国生み」に近しい創世神話を探ると、それは沖縄の「琉球開闢神話」である。
世界が混沌としていて創世神がアマミクという神さまに、「この下に神降りすべき霊地がある。いまだに島となっておらず、口惜しいことだ。そなたが神降りし土地をつくれ」と命じ、その場所が後の琉球となった、とする。
共通点は、オノゴロ島のような島を地上としてつくることである。
私の仮説はこうである。
①
兄妹神が登場し、オノゴロ島のような「どろどろした大地」が地上の始まりとするポリネシアの創世神話の祖型が、
ミクロネシアを経由して南西諸島に伝播した。
縄文末ないし弥生初めに西南諸島で信仰されていた「琉球開闢神話」の祖型に影響する、その際、兄妹神はアマミクのような土着神一柱に置き換えられた。
(ただし、薩南諸島については「琉球開闢神話」の祖型が信仰されてなくて、兄妹神のまま受容された可能性もある。)
② マレー系の遠隔地交易民の「阿多隼人」(鉄生産能力と外洋航海船の造船と操舵の技術を持つ)が中国南部に交易拠点をつくろうとするが上陸が許されず、南西諸島に展開。それぞれの海域で島嶼交易や沿岸交易をしていた海洋系縄文人の「隼人」を連鎖させて南西諸島と南九州を行き来する遠隔地交易ネットワークに再編。
「神武東征」に協力する頃には南九州の阿多を本拠地としていた「阿多隼人」が、薩南諸島の海洋系縄文人の「隼人」を動員。その際、アジアに多い近親相姦を戒める筋書きを、薩南諸島で信仰されていた創世神話に援用した。それが、イザナキ・イザナミの「国生み神話」の祖型となった。
③「神武東征」に勝利して、「阿多隼人」はその功績から「濊(わい)人)」首長層そしてそれに擁立された天皇(大王)から軍神的な信頼を得た。記紀に記述される九州から瀬戸内地方を年月をかけて東進した「神武東征」は、大阪湾で大敗する。ただし、記紀は、東征軍は南下して紀伊半島南部から大和地方へ侵攻したとして、別働隊の存在と功績を隠蔽した。(私個人的には、 「阿多隼人」が造船し操舵した外洋高速航海船(軟鉄製部材を使って造船した風上に進める帆船)で南九州沖合から黒潮に乗って一気の海上東征をした この別働隊の参加によって「神武東征」の難航が打開された という説をとっている。)軍神的な信頼を得た「阿多隼人」の後裔は、外洋高速航海船の造船と操舵の能力を買われて天皇に近侍する。この時期に、彼らが「隼人」に伝播したイザナキ・イザナミの「国生み神話」の祖型を天皇とその周辺に伝播したと考えられる。
注目すべきは、イザナキとイザナミが天の浮橋に立って、沼矛を指し下ろしてかきまわし、矛からしたたり落ちた潮が 積もり重なって島になったオノゴロ島だが、古事記の他所で登場している内容である。仁徳天皇が吉備国に行幸して難波から海を行き淡路島から国見をして、「阿波志摩(あはしま)、淤能碁呂志摩(おのごろしま)、阿遲摩佐能(あじまさの)、志麻母美由(しまもみゆ)、佐氣都志摩美由(さけつしまもみゆ)』と大阪湾に面する島々が見えると述べている。この淤能碁呂志摩(おのごろしま)のある大阪湾海域は、瀬戸内地方を年月をかけて東進した東征軍が大敗した海域である。
そしてこの後、オノゴロ島に高天原より降ったイザナキとイザナミが、 天の御柱(みはしら)と 八尋殿(やひろどの)を見つけて、互いの凹凸を補い合う近親相姦譚に展開する。 その際、別々に 天の御柱を回って八尋殿で会う。その際、イザナミが先に「まぁ、なんと愛しい男神よ」と、その後にイサナキが 「まぁ、なんと愛しい女神よ。」と言う。。 言い終わった後にイザナキは 「女性が先に言うのは良くないだろう」 と言うが二神は婚姻を行う。ところが、イザナキの悪い予感は当たり、生まれた子は水蛭子だった。次に淡島(あわしま)を生むが、これも子には数えまない。 二神は相談して高天原に行く。天の神々は占いをして 「女性が先に言葉を話したのがよくないようだ。 また帰って先に言う方を改めなさい」と。 地のオノゴロ島に帰り降りてやり直す。すると淡路島、 四国、 隠岐。 そして九州、壱岐、対馬、佐渡、最後に本州と大八島国を生む。 国生みを終えたイザナキとイザナミは神生みをする。 石の神、土の神、海の神、風の神、山の神、穀物の神。 ありとあらゆる神々を生むが、 火の神を生んだことが原因でイザナミは命を落とししまい、ニ神による壮絶な黄泉国譚に展開していく。以上の一連の展開は、ワンセットで近親相姦を戒める筋書きとなっている。それが展開するのが、瀬戸内地方を年月をかけて東進した東征軍が大敗した海域であるのは偶然ではないだろう。
天の御柱をイザナミは右から廻り、イザナキは左から廻った。先に声をかけるのが右回りのイザナミだったことが災いし、先に声をかけるのを左回りのイザナキにしたら成功した。
これは、日本地図を上から見て四国を天の御柱に置き換えれば、初回に右回りして先に声をかけたイザナミが、瀬戸内地方を東進して大阪湾で大敗した東征軍を暗示し善処し左回りして先に声をかけたイザナキが、南九州から黒潮に乗って一気の海上東征して勝利した別働隊を暗示している「淡」路島は「会う」路島を連想させると言える。
海外由来の神話の影響は、アマテラスやスサノヲやオオナムチ(オオクニヌシ)の物語では限定的であるとされるが、
さらにその後の「神武東征」という、実際のヤマト王権樹立に至る実質的な建国神話は他国のそれを参考に創作された。
建国神話は、
その中の始祖神話については神話としての類型があり他国のそれと差別化された独自性を求めることになるが、
王朝樹立に向かう「実際に起こったこと」の神話的記述は基本的には自動的に独自性があって然るべきだ。
ところが、
「天孫降臨」譚(征服民族の南九州上陸)は、朝鮮南部にあった駕洛国(金官伽耶国)を42年に建国した始祖首露王のクジボンへの降臨譚を祖型としているとされる。
「神武東征」譚(征服民族による制圧)は、朝鮮の「東明(朱蒙)東征」譚と展開や動物の登場が酷似していると指摘されている。
つまり、独自性よりも共通性が見てとれる。
古事記においては、人間臭い戦記物的な部分は、神話としても記録としてもあまり重点を置いてなかったのではないか。
だから、意図的に朝鮮とそっくりな構成や演出がなされ、対外的に神話としての体裁を保って、読者にとって物語として面白ければそれで良しとされたのではなかろうか。
初源的な「風聞神話」は生活を育むための「風の便り」だった
「日本海文化圏は、(中略)南は九州、沖縄へと続き、北は東北、北海道まで続いていた可能性もあります。南洋のフィリピンあたりでしかとれないゴホウラ(護法螺)という貝を用いた腕輪が、北海道の縄文時代の遺跡で発見されたりしていますので、海流に乗って長い長い海の道の連なりが存在したのは間違いないでしょう。
そして、そこで行われていたのは、単なる経済活動としての交易ではなく、『クラ』とか『ポトラッチ』とか呼ばれる、精神的なつながりを伴う『贈与交換』であり、その時の大切な宝物の一つがヒスイだったのかもしれません」
「ポトラッチ」とは、集団で行われる財の費消の儀礼である。
二つの集団の首長が、贈与の競合を行い、相手方より価値のある財を贈り物として提供することのできる首長が、優位性を占めるという制度である。
貢納よりも上回る価値の下賜が行われた朝貢交易も、「冊封国より価値のある財を贈り物として提供することのできる宗主国が、優位性を占める」という同じ原理に基づいている。
モースは、あくまでも贈与を儀礼的交換の一形態と見て、「ポトラッチ」を交通(コミュニケーション)の手段として見る一方、集団間における威信確立のための演劇的行為と見なした。
バタイユは、ポトラッチの財の蕩尽の中に経済の至高の到達点があり、日常生活において営々と働き注意深く蓄積してきた財を一瞬のうちに破壊するという行為に、経済関係のネットワーク(網の目)の中にいる当事者が気づかないほとんどエクスタシーに近い快楽原則が働くと見た。
モースは「ポトラッチ」の社会的働きを重視し、バタイユは「ポトラッチ」の心理的働きを重視しているが、両者が相乗効果して祝祭的交易を成立させていると言えよう。
現代世界でも、「ポトラッチ」のような祝祭的交易は現象している。
その典型は「投機市場」である。投機は博打である以上、長くかけて貯めた金を一気に失う者もいて、死にたいくらいのショックを受ける敗者がいる一方で、貯めた金を一気に何倍にもする者もいて、天にも昇るような歓喜に震える勝者がいる。両者の反応は表層において真逆だが、深層に働いている情動的な心身のメカニズムは同じものである。「投機市場」はこのような極端な勝者と敗者を両極にもつ経済関係のネットワークに他ならない。
極端な例ばかりではない。
たとえば、買い物という行為が楽しく、買い物でストレス発散する女性、思わず衝動買いをしてしまう男性は、一般庶民の普通の消費生活における「ポトラッチ」的な消費活動に他ならない。
さらに消費活動に限らない。
バタイユの視点に立てば、経済行為は顕在的な側面と潜在的な側面が表裏一体していることを理解する。
前者は、計画的な生産と持続的な蓄積と日常的な取引などに見られる表層の経済行為である。
後者は、財の蕩尽に伴うカーニバル的『さかしまの世界』が覚醒させる衝動に見られる深層の熱狂狂気である。
カーニバル世界においては規則的な日常の生産活動、行為、秩序を維持するための言語といったものはすべて御破算にされて、すべての価値観はひっくり返されてしまう。
祝祭は時に厳格なルールのもとに遂行されるし、主催者と参加者を隔てる階層格差もあるが、祝祭の根底には常に、日常生活を支配する価値を相対化するか無化して、人間が潜在的に持っているアナーキーな状態を表現するという性格をどこか秘めている。
(日本人の特徴は、潜在的な側面が優位の経済行為である「贈与経済」が、社会慣行として残存していたり、人間関係において優先する人が多いことである。
たとえば、お歳暮お中元のやり取り、義理チョコを配る、ご近所さんに何かのお裾分けをするなど職場や近隣の付き合いにまで浸透している。
よって、財の蕩尽に伴うカーニバル的『さかしまの世界』は、会社の飲み会の無礼講や、神社の祭りや成人式で地元社会で優位にない若者が主役になるなど、カーニバルに比べれば地味なものしか見られない。)
「戦争」も、財の蕩尽に伴う「カーニバル的『さかしまの世界』と言える。
交易船が容易に海賊船に変わる、関所を設けて通行料をとったり用心棒を買って出る者がそれを断れば容易に略奪者に変わる、そういう職能が古今東西に存在することも、表層に顕在する経済行為と深層に潜在する熱狂狂気が表裏一体であり容易にショートすることを示している。。
「ポトラッチ」の原理が働くのは、二者間の破壊的な費消の競争だけではない。
多者間の建設的な貢納の競争でも働く。
神への奉納の競争において優位な者が威信を確立するということは、古今東西の「信仰共同体」の様相である。
日本の特徴的な展開は、「奉納」や「寄進」の発展形として神社で行われた相撲、取締りがゆるい寺で行われた博打(寺銭)だろう。その谷町や博徒の心理に「ポトラッチ」の原理を見てとれることは言うまでもないが、宗教施設との関わりでスポーツや博打に拡張している点は独自性である。(奉納の芸能音楽への拡張は普遍的。寄進のチャリティへの拡張は見られても、博打への拡張は教会や寺院では見られない。)
そして、
現代世界のグローバル化した市場経済、投機、投資、ベンチャー事業、商品開発や市場開拓といった冒険的な経済行為には、多かれ少なかれ「ポトラッチ」の原理が働いていて、それぞれの共同幻想世界がその関係者によって形成されている。
初源的な「ポトラッチ」の原理が働く事例に話を戻せば、
ニューギニアおよびメラネシア地域の男たちはヤムイモの栽培に熱中し、長さ3.6メートル近くの塊茎を収穫した記録もある。この長いワビと呼ばれるヤムイモを育てるには、さまざまなタブーを守り、儀礼を営まなければならないと考えている。ヤムイモを収穫すると、どの男もその中で一番りっぱな塊茎を選び、仮面やいろいろな飾りに使って、まるでそこに精霊が宿っているように仕立てる。村の威信、ヤムイモを育てた各個人の威信を高めることを目的として開かれる盛大な収穫祭で陳列して誇示する。だが、このような社会では自らが育てた聖なるヤムイモは、自分で食べたり使ったりしないという。
ヤムイモのメンタリティにおいては、丹精込めてつくった最長のヤムイモを自分では食べずに仮面やいろいろな飾りに使ってしまうという貢納が、蕩尽に相当する。
日本人の特徴は、その<社会人的な心性>が、石器時代の人類普遍の<部族人的な心性>をベースに温存して形成されていることである。
だから、このヤムイモのメンタリティがそのまま、かつて自他ともに「モノづくり大国」と認められた時代のモノづくりの担い手にそのまま当てはまる。
かつての日本の大手メーカーの製品開発者は、世界に誇る最高品質・最高性能の高額製品を打ち出すことに熱中し、それを自分で買えるとは限らなかったがそんなことは誰も気にしなかった。また、敗戦までの貧農の稲作民は軍隊に入って初めて白米を日常食として食べることができたという、それでも彼らはより上手い米づくりに切磋琢磨した。こうした日本人のモノづくりに向かう勤勉性は、最長のヤムイモづくりに熱中するが、その聖なるヤムイモを自分では食べない<部族人的な心性>に由来する。
私は、ヤムイモのメンタリティが日本人のモノづくりのメンタリティに帰結している淵源を辿れば、
それは日本列島への様々な稲作伝来の内の、
北部九州に渡来した「安曇氏」がそこを本拠地に大規模稲作拠点群を稲作共同体群として展開し始めたことに行き着くと考える。
彼らの大規模稲作拠点である稲作共同体は、産業指導者たる「安曇氏」が転住する大型建物を持った環濠集落から出発する。
縄文人を稲作民に再編するに際して、文化英雄である「安曇氏」は豊穣神を稲作共同体に媒介するシャーマンとして振る舞った。
「安曇氏」は、乾田稲作で収穫した温帯ジャポニカ米を基軸通貨的な主要交易産品とし、大規模稲作拠点群を瀬戸内地方を経て近畿地方へと分布させていった。
一方、「出雲族」は、彼らの主要交易産品の生産拠点や交易拠点の活動を維持するための食糧調達拠点を縄文人に産業指導して形成した。その一環で、大規模稲作拠点も展開したが、縄文社会を再編することなく温存して縄文社会が自律的に展開できることを優先したので、必ずしも稲作特化の「選別型農耕」にこだわらず、立地によっては雑穀に加えて稲作もする「網羅型農耕」や山間地の自然の水利条件の変化に応じる水陸両用の稲作も展開させたと考える。
こうした「安曇氏」と「出雲族」の稲作拠点は、瀬戸内地方と近畿地方と北陸地方において、棲み分けて混在した。
ところが2世紀に入ると「テュルク族」が参入してくる。
北陸は越前に上陸した彼らは鉄器を媒介に縄文人を支配して「くに」を建て、鉄資源を求めて琵琶湖地方から大和地方に「くに」ぐにを建てながら展開し、連合政府「邪馬台国」を建ててさらに吉備地方に「くに」を建てた。
この過程で、「くに」ないし「国」という枠組みで排他的な領域を主張する「安曇氏」と「テュルク族」はバッティングする。当該地方にあった「安曇氏」の大規模稲作拠点は「テュルク族」のものとなってしまう。
その際、「テュルク族」は、
文化英雄である「安曇氏」が豊穣神を稲作共同体に媒介するシャーマンとして振る舞った体制を
「テュルク族」の巫女的な祭司が豊穣神を稲作共同体に媒介するシャーマンとして振る舞う体制に置き換えた。
なぜなら、
それによって
稲作民が共同体の構成員として稲作に切磋琢磨する「ヤムイモのメンタリティ」を温存し
かつ「テュルク族」が専門外の稲作において「安曇氏」より稲作指導力が劣る分、強化した
のである。
そして、
「神武東征」で「テュルク族」を制圧した「濊(わい)人」も
稲作民が共同体の構成員として稲作に切磋琢磨する「ヤムイモのメンタリティ」を温存した
ただし
黒幕的二重支配者に徹した「濊(わい)人」首長層は、擁立する天皇(大王)を
「テュルク族」の巫女的な祭司に置き換えて
豊穣神を稲作共同体に媒介するシャーマンとした
のである。
最終的に、
記紀編纂期のヤマト王権も、
稲作民が共同体の構成員として稲作に切磋琢磨する「ヤムイモのメンタリティ」を最重要視し
これを維持発展させる「神道体制」を構築していった
(神社の建築様式を高床式穀倉をモチーフに標準化、神道の祭司様式を豊穣祈念感謝として標準化、主要神社に神話を割り振りその祭祀を方向づけ)
ゆえに、
「神道体制」の戦略コンテンツである古事記の主要神話に
「ヤムイモのメンタリティ」に連なる太平洋島嶼由来の神話要素が散りばめられている
と考える。
ここで、
「ポトラッチ」は、
「定住社会」が前提で、「定住社会」の首長同士が競争しそれによって「定住民」に威信を示すものである
のに対して、次に検討する
「クラ交易」は、
「移動民」が主体となって成立するもので、そのような社会は「移動社会」である
と指摘を挟んでおく。
交易と言えば、モノのやり取りであり、それはモノを得るためモノを与えるためという目的のための手段のように考えがちだ。
確かに「交換経済」である、客と店の売り買いの言わば国際版である貿易はそうである。
しかし「贈与経済」である朝貢交易では、目的は宗主国たろうとすること冊封国たろうとすることである。
さらに「贈与経済」でも初源的な「ポトラッチ」や「クラ交易」となると、モノのやり取りもその目的も違ってくる。
「ポトラッチ」は、相手のモノよりも自分のより価値あるモノを蕩尽することの競争であって、贈与ですらない。
これは、どう考えれば良いのか。
「贈与経済」の本質は、「負い目感情」のやり取りである。
お互いの「負い目感情」を同等にして相殺させれば、対等な関係に落ち着く。敢えて一方のより大きな「負い目感情」だけを残すように決着させれば、主従や上下の関係に落ち着く。宗主国が冊封国の貢納品よりも価値ある下賜品を与えるのは後者である。
「ポトラッチ」もより価値あるモノを蕩尽した者に対して、それより価値の劣るモノしか蕩尽できなかった者が「負い目感情」を残すという「贈与経済」なのである。その目的は、首長同士であれば、衆目の前で威信の優劣をつけることである。
では、「クラ交易」はどのような「贈与経済」なのだろうか。
「クラ交易」のクラは、メラネシア人が行う特定の財貨の交換行為をさす言葉である。
クラで取り交わすのはムワリ(白い貝殻の腕輪)とソウラヴァ(赤い貝殻の首飾り)の二種類の貝殻製の装身具、バイグァである。
バイグァが、円環構造にある1000キロ、2000キロの海路をものともせず、帆船で遠洋航海する人々によって交換されていく。
原初的な形態としては、数百キロに及ぶ円環構造の危険な海路をカヌーで何日もかけて命懸けで行った。
注目すべきは、
ソウラバは時計回りに、ムワリは反時計回りに、2年から10年かかって島々を一周する
ソウラバは男性の性質をもち、ムワリは女性の性質をもっているとされ
ちょうど男性と女性がひきつけあうように、互いに反対方向に回ってゆくとされ
両者がクラにおいて巡り会い交換されるとき、ソウラバとムワリが結婚したといわれる。
この話、どこかで聞いたことがないだろうか?
そうなのだ、イザナキとイザナミのオノゴロ島譚の展開とまったく同じ円環構造なのである。
オノゴロ島に高天原より降ったイザナキとイザナミは、 天の御柱(みはしら)と 八尋殿(やひろどの)を見つけて
別々に天の御柱を回って八尋殿で会い互いに声をかけるのが二神の婚姻となる
というくだりである。
二つのバイグァは、クラが行われているすべての地方で、人が手にすることができる宝物のうちでも最高のものだと考えられている。
有名なバイグァには固有の名前や、その歴史にまつわる数多くの伝承が伴う。バイグァには、クラで他のバイグァと交換されること以外にはいっさいの実用的な価値はなく、また他のいかなる品物とも交換することはできない。
バイグァとそれを流通させるクラには厳格なルールがあった訳だが、ルールは由来によって権威づけられた筈である。
その由来の根源にクラ交易をする島嶼群に共通する神話があったと考えられる。
そして、それはイザナキとイザナミのような兄妹神の婚姻譚であった可能性が高い。
そう考えると、
アジアに多い近親相姦を戒める筋書きである兄妹神の婚姻譚がインドネシアを経てメラネシアに伝播して海洋系神話に展開した
長いタイムスパンを踏まえれば、島嶼が孤立したままだと内婚制に限界をきたす、近親相姦をタブー化すると同時に、他の島嶼の血を導入する外婚制を一部採用しなければならない。「クラ交易」に選別された男子は、島嶼群全体で共有する評価基準で勇猛果敢な男子として許容される外婚制の対象となったのではないか。
クラ交易に参加することは大きな名誉であり、そこで有名なバイグァを手に入れることは、それを手離さねばならぬにしても男に高い威信を与える。
誰もがクラに参加できるわけではなく、クラと男の社会的成功とは密接に結び付いているという。クラに参加する各人には、何人かの特定のクラ相手がおり、この関係は生涯持続する。
クラ遠征は、バイグァを手に入れる目的で、交換相手のいる両隣の島に1回ずつ行われる。通常のクラとは別に、大船団によるウバラクとよばれる大規模なクラ遠征が、数年に一度行われる。クラ遠征には、出発に先だって、カヌーの建造をはじめとする、長期にわたっての大掛りな準備が必要である。
クラを成功させるための種々の呪術は、個々人の秘伝として注意深く守られている。共同体の仲間を出し抜いて、よりよいバイグァを手に入れることは、人々の大きな関心事である。
実際の交換は、数多くの伝統的な約束事に従って儀礼的に執り行われる。交換は一方的な贈り物の形をとり、公衆の面前で仰々しく行われる。この際、贈り手は無造作に怒ったような態度でバイグァを投げ出し、受け手も冷淡で侮蔑的な態度を装う。2種のバイグァは同時には交換されず、1回の遠征でバイグァを受け取るのは訪問者側だけである。これによって、逆に訪問を受けたときに、等価のバイグァを贈る義務が生じるという。
「負い目感情のやり取り」である「贈与経済」の、敢えて先に一方に「負い目感情」の負債を残し、後にそれを相殺させるという手順を踏んでいる。
クラ交易そのものは、いかなる意味においても経済的交易ではないが、クラの場を借りて、相当な量の物資の取引もみられる。
(非日常の儀礼的な交易で関係が構築なり更新されて、それを踏まえて日常の定期的な交易が続くことは、卑弥呼の魏朝貢交易でもあった。「女王国」を発着する交易船が「狗奴国」に繰り返し襲撃されることを卑弥呼が魏に訴えているが、それは後者である。
現代の日本人の生活習慣では、お近づきの印にと渡される贈答とその後の通常取引が前者と後者である。)
クラの場はまた、異なる地域の人々が情報やゴシップを交換し、潜在的には敵対関係にたつ人々の間に同盟と友好が再確認される機会でもある。
「クラ交易」は、それに参加する広大な海域の人々を結び付け、諸海域間に連帯と協力の関係を維持する制度でもあった。
島嶼群を円環構造の時計回り、反時計回りでつなぐの関係性は、一部の島嶼で自然災害が生じた時の他の島嶼へ緊急避難や他の島嶼からの急行救援にも役立った筈だ。一部の島嶼に共通の外敵の侵攻あれば非常事態を伝える情報伝達回路にもなった筈だ。
すべての住民=「定住民」がクラに参加するわけではない。
各々の村に一定の住民が、日本で言えば無尽講に加わるように加入する。クラの関係はあくまでも個人を単位としたものであるという。
一人の男は、一定の数の他村の男とクラの関係にある。
つまり、クラの主体は「定住民」から選別された「移動民」なのである。
彼はできるだけ由緒のあるものを入手し、しばらく自分の手許に置く。彼はできるだけ長く占有したいので、交換を引き延ばす。しかし、あまり長く占有すると円環構造のネットワークが停滞するため、彼は非難の的になる。交換の相手も、交換の場において、こういう雰囲気または世論を背景として激しくかけひきを行って彼に揺さぶりをかける。彼もまたおまじないを口にしながら防戦につとめる。
交換という経済行為が演劇性を帯び、呪術や詩的な要素もフルに動員されて、経済の場が活気を帯びるという。
『クラに一度入ったものはクラのもの』という言葉がある。
クラの円環構造の「移動民」の付与される聖別された権威は、流通するモノにも付与された。
島から島へ回っている間に、交換される”首飾り”と”腕輪”には一種の物神性が生じる。特別の呼び名が生まれ、その品物の歴代の所有者の冒険の物語が時間空間を超えて語りつがれる。語りつがれることによって、これらの装飾品は神話的な体系の中に組み込まれるという。
日本の社会的な慣行にも「クラ交易」の原理やルールを見てとれるものが多い。
たとえば、
日本独特の甲子園の高校野球大会と優勝旗である。
毎年春夏、全国の都道府県の代表チームが一同に集まって優勝旗を争奪することは、ある種の円環構造における威信財の移動である。
優勝旗には過去の優勝校を記録が付随している。
織田信長が、どこから着想したか分からないが、行った「名物狩り」と家臣の功績に対する褒美としての「名物の下賜」。これにも「クラ交易」の原理やルールを見てとれる。信長は、畿内の茶人から高価な茶道具(名物)を金銀米で買い取った。非常に価値のある茶道具を集めてほぼ独占した信長は、これらを茶会で披露し、富と権力を誇示しましたが、注視したいのはそこから先である。 戦の褒美といえば、領土や武器(刀・槍など)などが一般的だったが、信長は名物狩りをした高価な茶器を家臣に与えるようになる。すると、家臣の方も領土よりも名物を欲するようになった。彼らが名物に呪術的とも言える魅力を感じたこともあったろうが、信長が功労のあった一部の家臣にのみ名物を下賜して茶会を開くことを許可したからだった。茶会には武士以外の豪商を招くことができ、天下統一を見越したて経済官僚化しようとしていた家臣には、それが許されるかどうかが登竜門となった。いわゆる信長による「茶の湯御政道」は、名物と称される茶道具を持つことや茶会を開けることが、武将としてのステータスとなり、信長は家臣の掌握統制に茶会や茶道具を有効活用したのだった。下賜された家臣は名物を所有し続け威信財は移動しない。移動したのは、「名物」を保持者として主催が許された茶会にくる出席者であり、「名物」の保持者として相応の茶会に行くようになった家臣自身の方である。「名物」絡みの人間関係が円環構造となり、それを「名物」の保持者が主催者および出席者として移動したのである。
「名物」の下賜者と保持者が形成した共同幻想世界は、現代にまで至っている。それは「書付道具」とその箱である「書付箱」に象徴される。書付道具は箱書をした人が愛好していた品や、制作を手掛けた品である。歴史的に有名な人物や権威のある人の「ゆかりの品」を持ちたい人は多く、その人気や需要が名品の価値をさらに高める。 裏千家や表千家などの家元にゆかりのある書付道具は「裏千家道具」「表千家道具」などと呼ばれ他の書付道具と区別される。
書付箱は、単なる書付がされた共箱ではなく、宗匠や高僧、茶人などによって書きつけられたものを意味する。書付箱を伴った書付道具は、言わば現代の「名物」であり、同じ人がずっと所有することもあるが、出入りの茶道具商に進められて買ったり手放したりを繰り返す人もいる。独自の流通網、顧客網という円環構造が成立している。
欧米の各種アートでも作者が作品にサインしたり刻印を打つことや、鑑定家が鑑定書を付随させることは一般的だが、使用した愛好者や茶道の宗匠が容器に箱書きするというのは独特である。
特定の価値観や審美眼を共有する共同幻想世界が単なる観念ではなく、茶道という作品の使用を前提として具体的に組織された「裏千家」「表千家」それぞれに「裏千家道具」「表千家道具」が流通している。それは、流通網、顧客網という円環構造が、我が流派こそ良しとする「信仰共同体」ごとに完結しているということであり、個人が誰でも参加できるオープンなグローバル市場とは真逆のものである。
もちろん、「裏千家道具」「表千家道具」を買おうと思えば誰でも買える。それこそAmazonのサイトでクリック一つで。
しかし、所有者だけでなく使用者として参加するとなると様々な儀礼や作法をマスターしなければならず、そうした参加者として「裏千家道具」「表千家道具」を所有し使用するならば、『クラに一度入ったものはクラのもの』という認識を持つ。いずれ誰かに譲るとしても、ちゃんと儀礼や作法に則った使用をしてくれるクラ相手にしたいと願うだろう。
「神道体制」は、戦略コンテンツの古事記、神社の建築様式の高床式穀倉をモチーフにした標準化、神道の祭祀様式の標準化、神話による主要神社への祭神の割り振っての祭祀や祭りの神楽の方向づけなどを総合的に関連づけるものだった。
その中の神社の建築様式の標準化は伊勢神宮の第一回の式年造替で完成したと考えられる。後世に続く完全コピーが開始されたからである。
周知のように式年造替は、20年ごとに内宮・外宮の正殿等、正宮・別宮の全ての社殿と御装束・神宝の造り替えが繰り返し行われるものである。
式年造替が行われたのは、伊勢神宮の他に、住吉大社、香取神宮、鹿島神宮(以上20年ごと)、賀茂御祖神社、賀茂別雷神社(以上21年ごと)、出雲大社(不定期)である。
これらの神社は、テレビ局で言えば全国ネットのキー局で、それぞれ系列の地方局を傘下に率いている。伊勢神宮がNHK総合で、出雲大社がEテレ、他が民放各社といった感じか。
注視すべきは、
これらのキー局神社の式年造替で出た古材や造り替えられた古い神宝の類が、系列の地方局神社に流通したことである。タダで贈与したものと、対価と交換されたものがあったと考えられる。ここまでを「神道体制」の経済体制として捉えたならば、天皇直轄の中央と地方の「贄人」がその全体を仕切ったと考えられる。
このような式年造替で発生した古材と古物の神宝も一種の物神性が生じたモノとしてリサイクルした訳で、
『クラに一度入ったものはクラのもの』という認識を持たれたことは間違いない。
その流通構造は、中央から地方へはキー局から同系列地方局への垂直軸の放射状だが、地方同士の同系列地方局同士の分配や交換は、クラと同じ水平軸の円環構造だったことになる。