「江戸の用語辞典」を読んで気づくこと(備忘録)(45) |
江戸人文研究会編 廣済堂出版刊 発
*今回は「[ゆ]から始まる言葉」のメモでございます。
「[遊女]ゆうじょ
[遊郭]で働きます風俗嬢のことでございます。[吉原]では[太夫]『格子』『端』の三クラスに分かれておりました。
[岡場所]などの非公認の場所では『売女(ばいた)』と呼ばれました」
「[遊里]ゆうり
[吉原]や[岡場所]などを申します。
または、公許の[遊郭]に対して、非公許の岡場所などをいうこともあります」
ここで私が注目したいのは、日本人の発想思考において「場」というものが「世間での分際」の中核概念になっていることと、そのパラダイムがそのまま日本語の造語法になっていることである。
お上公認の[吉原]の[遊女]が上で、非公認の[岡場所]の「売女」が下。
[吉原]の中でも、店の奥で自分の部屋にいる[太夫]が最上、張見世の格子の中にいる「格子」がその下、さらに端っこにいる「端」がそのまた下。
たとえば、稼ぎのいいお金持ち→大きな屋敷に住んでいる→なんか偉そう、そういうことは古今東西、実力主義の競争社会ならばあって当たり前だ。
しかし日本人に流通している「世間での分際」は、そのような普遍的な低コンテクストな(文脈依存性が低い)ものではない。
そして「分際」とは「身分」なのである。実力の上下=報酬の上下だけでは済まされない高コンテクストな(文脈依存性が高い)ものなのである。
その象徴が、[岡場所]の「売女」という言葉が、女性をその品行を理由に罵る言葉として一般化したことだ。
その際、男が女に「この売女!」ということはあっても「この遊女!」とか「この太夫!」と罵ることはなかった。
それは、いま私たちが「この貧乏人が」と罵ることはあっても「この金持ちが」と罵ることはないことに通じる。
「[有徳]ゆうとく
お金持ちのことを申します。または、徳のあること、その人物を申します」
江戸社会では、お金持ち=徳がある、あるいは偉い、だった。
[吉原]で[太夫]になるには、ただ美人であればなれる訳ではなく、お客はもちろん周りの人たちが盛り立ててくれるような徳が必要だった筈だ。
それと同じように、生業ごとにお上によって「世間」が規制されていてその仲間の間で、人よりも多く公務を分担するとか公共事業を支援するなどして「分際」を高めなければ本当の金持ちになることはできない。そういう江戸社会において金持ち=徳がある、あるいは偉い、は当然のことだったのかも知れない。
そういう現実の機微というものは古今東西ある訳だが、現代にも続いている日本人に独特なことはそれが言葉遣いに反映していることだ。
たとえば、フィリピン人ホステスが客の男性を「しゃっちょ(社長)さ〜ん」と呼んで媚を売る。言われた方も悪い気がしない。中には社長じゃないのに社長然と振る舞う人も出てくる。
レストランで従業員が客の前で経営者を「オーナー」と呼んでいたり、居酒屋やスナックで客が亭主を「大将」「マスター」と呼ぶのを見掛ける。
私たちにとっては何でもないことだが、欧米でホステスや従業員や客がそのような呼びかけをしているのを聞いたことはない。
これはもちろん、職場で上司を「ボス」、トップを「社長」と呼ぶ低コンテクストな人間関係とは違う。そういう呼びかけならば欧米人もやっている。
低コンテクスト的には、フィリピン・クラブのホステスにとって客が実際に社長であるかどうかは前提ではないし、客にとってレストランを仕切っている者が店の所有者かどうかはどうでもいいし、居酒屋やスナックの亭主が、何らかの権力や権威をそこで持っているかどうかもどうでもいい。
しかし日本語の呼称は、そうした低コンテクスト的にはどうでもいいことにこそ常にこだわる、複雑怪奇に高コンテクストな(文脈依存性が高い)ものなのだ。
それは端的に言えば、日本人のコミュニケーションが、相手がどんな「世間」に帰属するか(あるいは帰属しているというお約束にするか)、そこでどんな「分際」にあるのか(あるいはあるというお約束にするか)という前提なくして成立しない、あるいは常に潜在的にそれをメインの話題にしてなされる、ということである。
最近、モンスターなクレーマーが衣料量販店の店員や区役所の職員を土下座させて警察沙汰になっている。そこで、なぜ土下座を要求したり応えてする展開になるのかというところにも、同じ高コンテクスト性(文脈依存性の高さ)が働いている。
そして、被害者が訴えて警察が出動するところから低コンテクスト性(文脈依存性の低さ)の展開となり、その展開は世界共通の法律によって担保される。それまでは、江戸時代の掟にみんな従っているかのようだ。
「売女」は、風俗の一番下の「世間」である[岡場所]の風俗嬢のことだったので罵りの言葉になったのであり、低コンテクスト的に相手の女性が風俗嬢であるかないかはどうでもいい。
これはフィリピン・クラブの「しゃっちょさ〜ん」が、相手が社長かどうかはどうでもいいことと同じだ。
吉原では大金持ちの遊客が「お大尽さま」と呼ばれた。「大尽」は「大臣」にかかっている。「しゃっちょさ〜ん」は江戸時代のこの発想法なり造語法なりを継承している。
かつてこんなことがあった。あるNHKの番組で、物腰のやわらかさから女性にも人気のあるリベラルな東大教授が、カンボジアへのPKO派遣に反対を唱えていた。その時、PKOを束ねる国際連合カンボジア暫定統治機構UNTACの事務総長特別代表に国連事務次長だった日本の明石康氏が就いた話に触れた際、「明石さんは単なる事務屋さんなんですよ。事務屋が現地へ行ったって云々」と述べた。
私は、彼のような理知的な人ですら「事務屋さん」なんて言葉遣いをするのだと驚いた。
この「◯◯屋」「◯◯屋さん」という言葉遣いは、低コンテクストな事務次長、事務総長といった言葉には含意されない、低コンテクスト的にはどうでもいい、高コンテクストなニュアンスを含ませている。
それがどのような文脈なのかは、発話者の表情や振る舞いや発話の前後の物言いから推し量るしかない。だから、場合によっては「◯◯屋」に信頼を、「◯◯屋さん」に親しみが込められていることもある。
この時は誰もが件の東大教授が「現場で役に立たない文官に過ぎない」と言いたいのだと受けとめたと思う。そういう物言いだった。
ところがその後、UNTACの任務は選挙の組織・管理をはじめ、停戦の監視、治安の維持、武装勢力の武装解除、難民・避難民の帰還促進など多岐にわたったが、明石康氏は職責を全うしたと知った。
この「◯◯屋」「◯◯屋さん」という言葉が、大きな立派な建築物ではなく、小さな店舗や屋台という、つまりは公的というよりは私的な「場」を連想させるということがポイントだ。
また、連想させる「場」がお上の領域なのか、お上が公許する領域なのか、それ以外の領域なのかで、善きものから悪しきものまでの権威づけもなされるということもポイントだ。
その状態がメタファーになって、発話者が暗黙知や身体知を盛り込む余地を形成している。
件の東大教授は、国連という公的な権威の最高峰の人事をあえて公的から程遠い私的なメタファーで表現する、という巧妙なレトリックを使っている。
つまりここにも、日本人の発想思考において「場」というものが「世間での分際」の中核概念になっていることと、そのパラダイムがそのまま日本語の造語法になっていることが見てとれるのだった。
ちなみに、[太夫」というトップレベルの[遊女]が憧憬や尊敬の対象になるというのは、日本独特、江戸時代独特のことである。無論、単なる高級娼婦ではないからであるが、そういう娼婦の「世間」の序列と文化を形成していることが日本独特なのである。
そこには、まず[廓]という公許の「場」であること、そして売春という低コンテクストではない、疑似恋愛遊戯や平安貴族文化のパロディ化などの文化性という高コンテクストが介在している。
私は、源義経の愛妾、静御前が白拍子だったことや、今日でも下鴨神社で「今様 白拍子」http://youtu.be/IdcG8-2Cn4kが舞われることを連想してしまう。
日本人ならではの認知表現パターンの特性に、間違いなく高コンテクスト性がある。
たとえば、その世界では構成員最大を誇る暴走族の総長が芸能人になって、その経歴がそれなりに評価されていたりする。暴走族も一つの「世間」であり、最大のそれを束ねる頭だったということは、弱小のそれの頭だった者とは比べ物にならない評価をえる。最大の暴走族は警察が本気で相手にしたという意味合いで言わば公許を得ていた。また東京で警視庁と対峙するという、地方ではなく中央、日本の周縁ではなく中心を「場」にしたことも、彼の元暴走族総長としての評価の根底を支えていると思われる。
評価において、暴走族がどういうものかとか、彼がどのような暴走行為をしたかとかは一切捨象される。
ある世界の最高峰の「世間」でトップという「分際」に立ったことだけが評価される。
これは、省庁のトップや大企業のトップが世界共通に評価されるような低コンテクスト性とはまったく異質である。事務次官だけでなく高級官僚も評価され、社長だけでなく管理職も評価され、トップに至るまでの序列が世界共通に明示的に認知されたり表現される、そういう明示知的な体系に照らされる訳ではない。
「[湯女]ゆおんな・ゆな
[湯屋]の中で、客の世話をしてくれる女性のことでございまして、江戸初期の町にまだまだ女性の少なかった頃に登場いたしました。
武士も庶民も総出で江戸の[普請]にあたっておりまして、毎日みなさん泥だらけでしたので、背中を流したり、髪をすいたり、結ったり、男たちの世話をしてくれました。(中略)
[時代が下がる]につれてなくなりましたが、江戸後期になりますと『湯女風呂』として再登場しまして、夜には湯女が[小唄]や踊りで客を楽しませました。あまりに流行って[吉原]が廃れたという話もございます」
[湯女]は、中世に有馬温泉などの温泉宿でみられしだいに都市に移入された。当初は垢すりや髪すきのサービスだけだったが、次第に飲食や音曲に加え売春をするようになったため、幕府はしばしば禁止令を発令し、江戸では明暦三年(1657年)以降吉原遊郭のみに限定された。
禁止後は、三助と呼ばれる男性が垢すりや髪すきのサービスを行うようになって現代に至る。
あかかき女、風呂屋者(ふろやもの)などの別称で幕府の禁止令を逃れようとした歴史があった。
私が注目するのは、
①風呂の世話をする者が売春もする者になる過程
それがグレーゾーンを介してグラデーションであって画然とした一線がある訳ではないこと
②江戸の女性庶民全般の特徴
たとえば湯女のファッションを一般庶民の女性が流行ファッションとして受け入れるなどとても蔑視して差別していたとは思えないこと
③江戸社会と現代日本との構造的一致
以上①②が現代日本の女性の様相と相似形であること
である。
慶長八年(1603年)に家康が征夷大将軍に任ぜられると、家康は各大名に江戸の市街地普請を命じ、江戸の大規模な拡張を開始した。湯女が登場し演芸化し売春化し江戸以外にも拡大した時期である。湯女は制限されたので、江戸では別に「風呂屋女」という名称を立て表向きは職分を分け、湯女と同じく売春した。寛永六年(1629年)に女歌舞伎が風紀を乱すとして禁止されると「風呂屋女」と称して風呂屋が美女を置いて接客を始め、彼女らが女歌舞伎役者に代わる私娼として人気を集めた。
寛永十二年(1635年)に参勤交代が始まると、新たに大名のための武家屋敷が建設され、武家人口のみならずそれを支える町方人口も増加した。
「風呂屋女」の人気が超盛り上がった時期である。吉原の公娼が風呂屋に出稼ぎに出ることもあり、慶安元年(1648年)に風呂屋禁止令が出たが、効果がなく、同年四年には風呂看板の売買を禁止、風呂屋女は一軒につき三人までとする制限を出すなど規制したが一向に効果がないため、明暦三年(1657年)に幕府によって200軒以上あった江戸町内の風呂屋が打ち壊された。
風呂と売春の複合業態が度重なる幕府の規制にも関わらず超盛り上がった背景には、江戸の人口において慢性的に男性比率が高く、かつ全体として流動性が高い、つまり独身なり単身の男性が多かったことがある。
ただこれは、売春を遊ぶ男=需要サイドを説明するが、売春を担う女=供給サイドを説明していない。
売春を担う女=供給サイドは、いつの時代も3つの回路が複合している。
①売春のプロの他地域からの参入、売春のプロの他形態からの参入、そしてその両者が重なるもの
といった「プロの参入回路」
②食事や入浴の世話→演芸→売春というサービス業やサービス職能の風俗化
といった「サービス・職能の変遷回路」
③江戸の商家に奉公に出てきたが暇を出されたり田舎に帰れなかったり
武家の身分でありながらいろいろあって湯女になり遊女になったり
といった「女性人生の遍歴回路」
③について想像を巡らすならば、
開府当初の[普請]時代には、農家の次男坊とその恋人なり妻が一緒に出稼ぎに出てきて、男は[普請]に女は非演芸・非売春の湯女をするといった、江戸町方全体が風呂付き飯場状態ということもあったのかも知れない。
参勤交代が定着してそれを支える町方人口増加時代には、江戸の商家に奉公に出てきて何らかの理由で暇を出されたが田舎に帰れない単身女性が②の「サービス・職能の変遷回路」を歩む、といったこともあったのではなかろうか。
中には悪い男に惚れてしまいこれに貢ぐ人生を歩んだ女性もいたのだろう。
文献資料をもって確認はできないが、似たような人間模様は新宿や上野などで今日も綿々と続いてきていて市井の人間観察から推量できる。
さらに、あまり学者が言及しないことだが、普通のつまりは素人の女性とプロの風俗嬢や売春婦との距離は、じつは世間が差別的に峻別しているほど大きくはないことを指摘したい。
私は風俗には疎いが、業態の異なる風俗業の飲み仲間が複数いたので、彼らに現実を教えてもらった。
たとえばあるデートクラブ経営者は、女性会員の普段着のスナップ写真を見せてくれたが、あまりに普通の若い主婦であることにびっくりした。彼は私に、たとえばこの人は雨の日はダメなんですよ、なんでか分かりますか?と聞いた。私は、旦那が大工さんとか、と答えたら正解だった。雨の日は夫が家にいるので不審に思われる行動ができないのだ。
またある女性は、決して若いとは言えない年齢だったが、テレホンセックスのアルバイトを自宅でしていて、お客と会ったこともあると言っていた。会ってどうしたかは聞かなかったがきっとケースバイケースだったのだろう。
また昔のキャバクラ嬢には、OL、大学生・専門学校生、高卒・中退の専業といて、仲良くなったお客と友達として関係をもつ者から、デートするとこちらが求めていないのに金額を提示する者までいた。
お上や法律の線引きは、管理売春組織に所属するかどうかだが、実際には私娼という江戸以来の伝統が今も息づいている。
社会問題となった女子高生の援助交際が象徴的だが、現代の売春の全体が、生活が困窮してといった消極的な理由ばかりではなくなっている。また生活資金の補填という目的があっても、かつての貧農の身売りのような凄まじい貧困というケースは稀で、子供の学費や夫がリストラにあってなどと、人間的尊厳まで犠牲にしてということは例外に属する。テレホンセックスのアルバイトをしていた飲み友達などは興味本位というか楽しんでいる感じだった。
そういう大きな価値観の違いはあるにしても、かつてとの相似形はたくさん見てとれる。
たとえば実家で同居する母親も了解してるケースがあり、それなどは明治初期の「地獄」と呼ばれた、母親がやり手婆になって娘に売春をさせ、人のよい青年と親子で仲良くなり娘の結婚にこぎつけたり、娘をいい旦那にそわせてこぶ付きで妾にさせたりした話を彷彿とさせる。
学者というのは、書物で学ぶため、そういう生な女の強かさというものを考えに入れない。
生な女の強かさは、非売春・非風俗の一般女性の素人のそれでもあって、玄人、プロのそれと地続きであることは言うまでもない。
女の強かさには軽快さがある。
何事も明るく楽しげにするということであるが、これが男にはいろいろに効果的だ。
暗く辛そうにでは逆効果なのは当たり前だが、男は明るく楽しげにが苦手で、何かあればすぐに暗く辛そうにになってしまう者が多い。それを女が癒してくれる訳である。
私は、女の強かさである軽快さ、明るさと楽しさ、そこに日本の「風俗業」が文化としての「風俗」になってくる接点があると思う。
たとえば、公娼と言えば、アムステルダムの「飾り窓」で、今はどうなったのか分からないが、私の学生時代には健在で、聞いた話によると、、明るさと楽しさ、文化性といったものとは無縁だったという。売春行為という世界共通の低コンテクストな性的取引があるだけで、暗く怪しげではあってもとても谷崎潤一郎の「陰影礼賛」の高コンテクストな世界は望めない。
中国や韓国にも歌舞音曲と売春の文化的な複合業態はあったし、独自の高コンテクスト性を誇るような立派なものは公許であり、地位の高い人々も利用したという点で、日本の廓と同じで、[太夫]的な[遊女」も存在した。
日本の場合、何が違うかというと、人気の風俗嬢のファッションを一般庶民の女性が真似た、というところで、それは日本と同じ儒教文化圏ながら中国や韓国ではないことだった。
日本の場合、たとえ蔑視されるような身分であっても、その「世間」の最高峰が社会的に評価される、ということが古くからある。たとえば、杉本 苑子の歴史小説「華の碑文」は、青少年の世阿弥が稚児として寺に差し出されボロボロになって帰って来るところから始まる。そういう身分であることを最初に鮮烈に提示している。それが芸能を極めてその「世間」の最高峰になることで将軍に仕えるような身分になり、後世にも名を残している。
現代でも、少なくなった芸子や芸者について、芸能の側面だけが無形文化財のように評価されるようになったが、人数が多かった時には枕芸者、温泉芸者の類も多く十把一絡げに賎視されていたことも否定できない。つまり、人数が少なくなった分、その「世間」のエリート化したと捉えることができる。
身分の賤しいからぬ人の娘でありながら父の勘当を受けて湯女になり遊女になったとされる勝山は、③「女性人生の遍歴回路」に①「プロの参入回路」の重なった典型である。
勝山は武州八王子の生まれ、正保三年(1646)に堀丹後守の屋敷の前にあった紀伊国屋風呂の[湯女]となり、その才能と美貌でたちまち江戸中の評判となった。紀伊国屋風呂が閉鎖され、承応二年(1653)、吉原の楼主山本芳順に招かれ[太夫]となる。
その髷が「勝山髷」と呼ばれ、一般庶民の女性にも元禄ごろ盛んに結われた。
また、堀丹後守の屋敷の前にあった一群の風呂屋が「丹前風呂」と呼ばれた。
「風呂屋女」が勝山にあやかって着ていた衣装を通い詰めた旗本奴たちが似せて「風流」を競った「丹前風」が、今の「丹前」の始まりという。武家の男性にまで勝山のファッションは影響したということになる。
現代でも、キャバクラ嬢が女子高生のファッションリーダーとなった時期があり、その後は彼女たちのファッションに憧れてキャバクラ嬢になる者も出てきた。ヘアスタイルに限れば、成人式の「アゲアゲ」などの一般女性への普及にも影響しているのではなかろうか。
一連のファッション傾向は、派手で奇抜で、中世以後の日本において高揚した美意識の一つ「風流(ふりゅう)」に重なる。それは、人目を驚かすために華美な趣向を凝らした意匠を指し、婆娑羅や数寄とともに侘び・寂びと対峙する存在として認識されたものである。
歌舞伎の語源と言われる「傾く(かぶく)」には、勝手な振る舞いをする、奇抜な身なりをする、という意味があり、前述の旗本奴の言動やファッション「丹前風」もこれで、「風流」の江戸的展開と言える。
ちなみに「アゲアゲ」は擬態語でもあり、テンションが高い状態を表す若者言葉で、クラブで気持ちが高揚し、踊り出すときや踊りたくなるような曲が流れたときにアゲアゲは使われるという。
旗本奴は勝山由来の[風呂屋女]のファッションだけを真似たのではなく、彼女たちの「アゲアゲ」的な言動の軽快さ、明るさや楽しさをも真似たのではないかと想像する。ファッションだけを取り入れ、それを着こなす人間の精神性や雰囲気を捨象するということの方が考えにくい。
侠客を歌舞伎の舞台でよく勤めた役者、多門庄左衛門は、当時流行していたこの丹前姿で六方を踏んで悠々と花道を出入りしたことで絶大な人気を得た。この丹前六方にあやかって、丹前を着流して市中を悠然と闊歩する者が後を絶たなかったので、彼らのことも「丹前」と呼んだ。
「「湯屋」ゆや
(前略)
江戸は築地(埋め立て)によって作られた町ですので、江戸の初期は[普請]で毎日泥だらけになりましたので、湯屋は不可欠なものでした。
しかし、火事が多いので、庶民が『内風呂』を持つのは禁止されておりました。そのため、他の都市に比べて湯屋が多く、江戸末期には市中に六百軒ありました。(中略)
江戸中期までは[入込湯(いりこみゆ)]という混浴がほとんどでしたが、『風呂褌』や[湯文字]を着けて入浴しました」
[湯文字]とは腰巻きと同じもので、女性は混浴では胸を露にしていたことになる。
参照:『艶本枕言葉』上巻 山東京伝 作画
「猿猴(えんこう)にあきれて娘湯を上がり」という川柳がある。
薄暗い石榴口の中、娘が湯に入っていると、手長猿みたいな手がのびてくる。あまりにしつこいので、あきれて湯から上がった、という意味だ。
今の公衆マナーや法律では考えられない展開である。
前述した
②食事や入浴の世話→演芸→売春というサービス業やサービス職能の風俗化
といった「サービス・職能の変遷回路」
は、今、私たちが考えるほどに、江戸庶民にとっては飛躍のある展開ではなかったと考えられる。
また、私たちは「湯屋」での性犯罪を心配したりしてしまうが、こんなことがあった。
「[町方]の[与力][同心]は、朝の時間帯に湯屋を専用で使っておりました。女湯があるところでは、女湯を貸し切りで使い、湯代は米で月払いしておりました。
また、そういった湯屋は、同心が開店資金を出し、[岡引]が経営しておりました」
つまり、湯屋を警察官が経営していれば、性犯罪も起こりようがない。
[岡引]が経営していない湯屋も、[与力][同心]の立寄所になっていて、[岡引]の休憩や情報収集を兼ねた見廻りもあったのだろう。
江戸社会では、高コンテクスト的に高度な複合業態や職能兼務が工夫されていたが、湯屋のネットワークがパトロールや捜査や犯罪抑止のネットワークにもなっていた公算が高い。
寛政三年(1791)、老中松平定信の「寛政の改革」により入り込み湯は禁止されたが徹底はされてなかった。それで大した支障がなかったとすれば、こうした背景から町方のお目こぼしなり目配りなりがあったためだろう。