「江戸の用語辞典」を読んで気づくこと(備忘録)(35) |
江戸人文研究会編 廣済堂出版刊 発
*今回は「[は]から始まる言葉」のメモでございます。
「[拝借金]はいしゃくきん
『恩貸(おんたい)』とも申します。幕府や[大名]が災害の時などに貸し出した、無利息の救済金でございます。武士から農民まで、誰もが借りることができました」
ひょっとすると、東日本大震災の被災者への支援は江戸幕府の方が迅速かつ有効にできたのかも知れない。
「[破免]はめん
凶作の年に[年貢]を大幅に減らす処置を申します。
普段は[定見(じょうめん)]という定率法で年貢が決められますが、災害のひどい年には『検見(けみ)』という実際に田を観察して年貢を割り出す方法に変えました」
じつは江戸幕府の政治は封建的ではあっても人道主義が貫かれている。
たとえば第5代将軍綱吉の「生類憐みの令」は悪法として名高いが、これは人間にも適用されて、お陰でそれまで放置されてきた老人や病人や障害者の面倒をちゃんとみるようになった。一説ではそれが今日に至る「日本人の親切心」の発端になったという。
つまりは、人道主義的な国民性を形成するほどに江戸幕府は人道的だったと言える。
「[売卜者]ばいぼくしゃ
占い師、陰陽師のことを申します。
江戸中期になりますと、占い師は、流派、宗教に関わらず、全て京・[土御門家]の支配下になりました」
土御門家には、村上源氏、安倍氏、藤原北家と系統があり、京・[土御門家]とは安倍氏のことだ。
室町時代の陰陽師安倍有世(晴明の14代目の子孫)の末裔。応仁の乱を避けて、数代にわたり若狭国南部に移住。現在の福井県大飯郡おおい町、話題の大飯原発のある所である。
江戸時代初期に家康の命令で山城国(京都)に戻り、征夷大将軍宣下の儀式時には祈祷を行った。
安倍晴明の子孫である土御門家は、明治維新後華族令により、子爵を授けられる。
ちなみに安倍総理の安倍家は、山口県大津郡日置村(現長門市)で代々大地主の大庄屋で、醤油醸造業を営んでいた名家であり、先祖は前九年の役で源頼家に敗れ太宰府に流された安倍宗任に行き着く。この安倍氏の傍流には安倍晴明もいると母(岸信介の娘)が雑誌で発言している。つまり、土御門家とは元を辿ると重なっているようだ。
平安京の宮城、大内裏の上東門と上西門は大蔵通用門として「屋根を設けず築地を開いただけの門」であったため、「土の門」=「土御門」と呼ばれた。この門を出た通りが「土御門大路」であり、土御門家の姓氏もこの地名に由来している。
そもそも「御門」とは何か。
帝(みかど)の語源もこの「御門」である。
定住した部族が城砦集落を築き、外敵から部族を守った事から、その出入り口に在る門を「その部族の象徴」として部族のリーダーに結び付け、またそのリーダーを「御門(みかど)」と呼んだという。
「[拝領屋敷]はいりょうやしき
[大名][旗本][御家人]が幕府から拝領する屋敷を申します。
微禄の[同心]でも、百坪くらいのお屋敷を与えられますので、[長屋]などを建てまして家賃収入を得ました。[与力]は空いた土地を武家や医師、[寺子屋]、武芸者などに貸したりいたしました」
改革開放前の中国や旧ソ連では、不動産の私的所有ということがなく、国民一般に住居が支給されていた。[拝領屋敷]はその官僚版という位置づけだ。武士に不動産の購入や売買が許されていなかったことも似ている。
戦後の日本では、特殊法人が乱立し官僚の天下り先になったが、官僚機構のお上から拝領したものを自分たちでどう使おうといいだろ的な感覚は、戦前政府のさらに前の江戸幕府の[拝領屋敷]の感覚に由来しているのかも知れない。
「[羽織芸者]はおりげいしゃ
[深川芸者]が、当時、男の着物であった羽織を着ておりましたので、[芸子]ですが[芸者]と呼ばれます」
深川芸者は、深川が江戸城からみて巽の邦楽にあることから「巽芸者」と呼ばれた。
「芸は売っても体は売らない」のが身の上で、その意思表示か、男のように羽織をはおった。
当時の芸者は遊女と大差がないほど地位が低く、そこに誇り高く意気地を通した。
芸の力量もあったのだろうが、現代の男でもなかなかできることではない。まさに江戸っ子の気風と言えよう。
「[蓮池]はすいけ
上野・[不忍池]にある弁天島の[出合茶屋]のことを申します。
上流階級の方が密会や[逢瀬]に利用されました」
この本では、[蓮池]=弁天島の[出合茶屋]、と限定しているが、不忍池畔に多くあった出合茶屋の総称ではないかと思う。
というのは、不忍池畔に多くあった出合茶屋の総称には「池の茶屋」「蓮の茶屋」もあり、蓮池に面して池中に張り出した座敷が「蓮池院」と呼ばれていたからだ。
吉原が遊郭の代名詞のように、地名がその土地にまつわる何かの隠語となるという造語法である。「茶屋」と言うところを人聞きを憚って[蓮池]と言ったのではなかろうか。
1625年、江戸幕府は、西の比叡山延暦寺に対応させ、この地に寛永寺を建立した。開祖である慈眼大師・天海は、不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島になぞらえ弁天島(中之島)を築かせ、そこに弁天堂を作った、とあり、弁天島はそもそも由緒正しい、霊験あらたかなる人工島だったことが分かる。
しかし、なぜそもそもそんな所に出合茶屋の出店ができたのだろうか。
御殿女中や後家がよく利用したとも言われる出合茶屋は、神社や寺院の門前に多かった。
そうした状況が260年の江戸時代のいつ頃に発生していたか。
それによって、その経緯の推察は異なってくる。
家康が江戸幕府を開いたのが慶長8年(1603年)、戦乱の時代が終わって浪人が仕事を求めて江戸に集まったことから江戸の人口は圧倒的な男性過剰、女性不足となり、江戸市中に遊女屋が点在するようになる。そこに武家屋敷の整備など都市開発が重なり遊女屋はたびたび移転を強制された。これにその代表が遊郭設置の陳情を繰り返し、元和3年(1617年)に江戸初の遊郭、「葭原」の設置を許可した。この時、幕府は、江戸市中には一切遊女屋を置かないこと、また遊女の市中への派遣もしないこと、遊女屋の建物や遊女の着るものは華美でないものとすることを条件づけた。
遊廓を公許にすることで冥加金(上納金)をとれる、市中の遊女屋をまとめて管理し風紀の取り締まれる幕府と、市場を独占できる一部の遊女屋の利害が一致した形で吉原遊廓は始まった。
この時の遊郭は、現在の日本橋人形町にあたる葦屋町、当時の海岸沿いの葦の茂る僻地だった。
寛永17年(1640年)、幕府が遊郭に対して夜間の営業を禁止したことで、市中に風呂屋者(湯女)が多く出現、その勢いは吉原内にも風呂屋が進出するほどだった。
出合茶屋は、料理屋ではない。料理を直接提供しない(仕出し屋などから取り寄せる)、寝具を備えている(芸妓や私娼と一夜を過ごすこともできた)。要はラブホテルの先駆であり、原則的には素人同士のカップルが人目を忍んで利用した。不義密通は重罪で捕まるのを怖れたということもあったろう。
出合茶屋も、以上のような風俗エリアの展開とともに、棲み分けし連動しながら発展したと考えるのが自然だろう。
そう考えると、出合茶屋の発生は江戸初期となる。
但し[蓮池]方面での増殖は、明暦2年(1656年)に幕府が遊郭を浅草寺裏の日本堤へ移転した後ではなかろうか。
そう推察する理由は、
この時、風俗エリアが拡大され、夜の営業が許可され、風呂屋者(私娼)を抱える風呂屋が取り潰された。ラブホテルでもタクシー運転手に導かれた客が娼婦を呼べるということが昭和でもあり、風呂屋者の放出は必ずや出合茶屋と連動した筈である。そういう事業者側の背景から風俗エリアとラブホテル・エリアはあまり遠くに離れてあるのは歴史的に不自然なのだ。浅草方面からやってきて上野の山の手前北側に寛永寺門前の鴬谷があり、上野の山をかわした南側先に行って[蓮池]方面に行き着くが、これが距離的限界である
からだ。
神田明神裏手の湯島も寛永寺裏手の鴬谷もラブホテルの多いエリアだ。江戸時代は上野の山の手前は庶民向けの出合茶屋、奥はセレブ向けの出合茶屋という棲み分けがあったのではなかろうか。御殿女中と歌舞伎役者の組み合わせのようなセレブは籠を使ったから多少遠い所でも、人けなく一目につかない僻地の方がいい。その極みが不忍池畔の[蓮池]だったと考えられる。
(ひょっとすると神田明神裏手の湯島の出合茶屋は、現在の人形町の葦屋町に吉原があった頃から発生していたのではなかろうか。人形町からの神田川を超えて行く距離感がちょうど浅草寺〜鴬谷くらいなのだ。)
それにしても天海由来の由緒正しい霊験あらたかなる人工島である弁天島に出合茶屋があった、というのは驚きだ。
寺社の門前に出合茶屋があったのは、寺社奉行と町奉行の管轄グレーゾーンで事業者たちの前者への付け届けが利いて後者を敬遠できたからではなかろうか。とはいえ、寛永寺は徳川家の菩提寺である。
寛永頃までは、評定所のお茶だし役を吉原遊女が派遣されてやっていた、という史実がある。評定所は、複数の奉行の管轄にまたがる問題の裁判を行なった機関で、町奉行、寺社奉行、勘定奉行と老中一名で構成された。
現代の感覚からすると奇習としか言いようがないが、当時はそれを自然とする感覚があった。奉行所とそこから特権を与えられた悪場所が独特の慣習を合意していたと考えられる(まさか吉原側はエリート役人が集まるお役所に遊女を昼に奉公させて夜の集客を図っていたのか)。
そういう現代人には思いつかない機微に通じた取り決めが、寺社と寺社奉行と門前の出合茶屋との三者間にもあったのではなかろうか。
当初の弁天島は文字通り船で渡る島であった。しかし寛文12年(1672年)に弁天島から東に向かって石橋が架けられ徒歩で渡れるようになった。
橋が架けらて弁天島は弁天堂に参詣する人々や行楽の人々で賑わったことから、上流階級の密会に使われた出合茶屋が弁天島にできたのは橋の架けられる前だったのではないか。もしそうであれば、寛永寺建立から橋が架かるまでの間の半世紀のいつかということになる。
[蓮池]が弁天島および不忍池畔の出合茶屋の代名詞になっていく期間を考えれば、前半(1625〜1650年)の四半世紀のいつかという公算が高い。
もしそうであれば、徳川家康の側近で3代将軍・徳川家光に仕え、寛永寺の創建はじめ江戸の都市計画に関わり陰陽道や風水に基づいた江戸鎮護を構想し、寛永20年(1643年)に亡くなった天海の意向で弁天島への出合茶屋の出店が許されたという可能性も高い。
仮定尽くしで恐縮だが、徳川家の一大事に発展しかねないような密会が行われ、万が一にもフライデーされては困ると、天海が寛永寺管理下の不忍池の中島を利用させた可能性も否定できない。
その場合、先に橋のない人工島の弁天島に特殊御用の出合茶屋が出現して、追って明暦2年(1656年)に浅草に移転した吉原の発展とともにそれと棲み分けかつ連動した庶民含めたセレブ向けの不忍池畔の出合茶屋エリアも発展していった、と考えられる。
その場合、弁天詣出の人気が彼らのようなロマンチックなセレブたちから一般庶民に広まっていってそれに応える石橋築造となった、ということになる。
私にはこの順序が合理的と思われる。
「[果たし合い]はたしあい
武士の決闘を申します。
『果て』までやりますので、どちらかが死ぬまでやるのが基本です」
果てるまでやりあう、ということで「果たし合い」なのか。
「[旗本奴]はたもとやっこ
江戸前期に現れました[旗本]でありながら無頼な行動をする連中で『大小神祇組』『白柄組』『六法組』などと名乗り、徒党を組んで暴れました。こういう輩を取り締まれないのは、リーダーが旗本の次男坊などだったためでした。
作法に厳しい武家社会でしたが、次男以下は本筋ではないので、乱暴狼藉を働いても、家長はお咎めを受けませんでした」
現代中国で言えば、共産党幹部の息子たちの受け継いだ特権と太いネットワークを基にした「太子党」みたいなものか。ただ彼らは一人っ子政策の本筋の嫡男だから、あちらの方が手に負えない。
ちなみに、歌舞伎の「六法」は、特別に大きく手を振り足を力強く踏みしめながら歩く演技のことで、主に舞台から花道を通って引っ込むときに行われる。江戸の町を我が物顔に歩くぞ、という名乗りのような組名なのではなかろうか。
「しかし、庶民も黙っていたわけではありません。
彼らに対峙する[町奴]が登場し、しばしば激しく衝突いたしました」
現代中国で言えば、庶民の叩き上げの腕っ節という点で、太子党と対立する共産主義青年団の位置づけに相当するのだろうか。後者は共産党指導下の全国統一組織の大衆団体である。
「[八州廻]はっしゅうまわり
[関八州]を管轄にしました広域警察のような御役目を申します。
江戸後期になりますと、この地域に[無頼漢]が増え、賭博やヤクザな行為を派手に行い、治安が悪化いたしました」
ニューヨーク市警に対するところのFBI連邦警察といったところか。
「[八丁堀の旦那]はっちょうぼりのだんな
町奉行所の[与力][同心]のことでございます。
八丁堀に官舎がございまして、そこにお住まいですんで、親しみを込めてこう呼ばれます。普通の武士を『旦那』などと気安く呼んだりはいたしません」
そういえば、必殺仕置き人の中村主水は何でも屋の加代から、「おい、八丁堀!」って呼び捨てにされていたなあ。
「[八丁堀銀杏]はっちょうぼりいちょう
[町方]の[与力]が好んでした、町人風の髪型でございます。
与力は朝がゆっくりなので、朝風呂に入って髪を整えてから出勤いたしました。いつもこざっぱりしているので、町娘にモテました」
[八丁堀銀杏]は、武家の髷と町人の髷を足して合わせたような独特で、その特徴は髱(たぼ)と呼ばれる後ろ髪を少し膨らませている反面、チョン髷が普通の侍スタイルより細く短くきりっと結ってあること。
ところがこの髪型、小説など活字ではよく見るのに映画やテレビで見ることは皆無と言われ、必殺仕置き人の中村主水もどういう訳か八丁堀風の「小銀杏」にはなっていないという(藤田まこと氏の面長と関係するのか)。
初期市川雷蔵作品の中に、[八丁堀銀杏]を結い黄八丈の着物に黒の巻羽織といった絵に描いたような八丁堀の旦那が出てくる一本があるという。1963年製作、監督・森一生、脚本・小国秀雄による「昨日消えた男」だそうだ。
「[橋番]はしばん
大きな橋に置かれました、橋を管理する番人です。
橋番は[番小屋]に住みまして、昼夜なく橋の清掃や飛び込み自殺の防止に努めました」
「[放し亀]はなしがめ
[橋番]が兼業でやりました商売で『放生会(ほうじょうえ)』にちなみまして、生き物を買って逃がすと功徳になると、亀や鰻などを売っておりました」
「[番小屋]ばんごや
『木戸番屋』の略でございます。[町木戸]の脇に建てられた[木戸番]が住み込みで詰める小屋を申します。
木戸番は[番太郎]とも呼ばれ、町に雇われています。[木戸]の開け閉めが主な仕事で、昼間に日用品を売ったりするものは『商い番屋』とよばれます」
私が面白いなあと思うのは、江戸時代の庶民の役目にはいろいろな兼業が許されていることだ。
[番小屋]では近所の子供向けに駄菓子も売っていた。
この場合の[木戸]は[町木戸]であり、町ごとに設けられた扉で、その向かいには[自身番](その小屋を[番屋]という)があり[町役人]が詰めていて「見廻り同心」が巡回してきた。つまりお上に連動した御役目を分担していた、つまり公務をしていた訳だが、それに私的商売の兼業が許されたというのは、現代人の感覚では理解できない。
[橋番]の[放し亀]もその類である。
江戸の都市計画と都市行政は、あくまで城下町という臨戦体制を前提にしていた。それゆえの城下の見廻りであり有事の際の対応というのが建前だった。
しかし天下太平が常態化していくと、その建前では無駄なことや補えないことがでてくる。町民を動員する役目において、そこに臨機応変に対応しないと維持できない。特に現場担当者の収入の確保が最優先課題で、それをいろいろな兼業許可がクリヤーしたと考えられる。
前出の、評定所のお茶だし役に吉原遊女が派遣されたことも、ある意味で兼業である。昼の役所と夜の遊郭の兼務というのは破天荒だ。よく分からないがそれなりのメリットが役所側にもあった筈だ。たとえば、色っぽいいい女がお茶出ししている姿を裁かれる罪人が見れば、罪状を素直に認めて少しでも量刑を軽くしてもらいその分早く娑婆に戻って来ようとしたのかも知れない。とすれば罪状認否の効率化に貢献したことになる。。
その真偽は分からぬが、いずれにしても江戸社会は、そうした機微に通じた慣習や決まり事が人間論的でおもしろい。
話は飛ぶが、大学時代にパリを訪れた時、公衆便所の出口におばさんが座っていて皿かなにかに小銭を入れて出たことを思い出した。それが掃除夫の彼女の収入源だから必ず払いなさいと姉に言われてそうしたのだった。その時、カフェのギャルソンの収入源もチップだという話も聞いた。
官民問わず、就労者に場所を縄張りとして与え、就労の報酬は受益者からとれ、という発想が一貫していた訳だ。これはカフェの客やトイレの利用者が就労者を直接に評価し管理していることになる訳で、一つの文化のあり方、知恵に他ならない。
[番太郎]や[橋番]の公務をしつつの私的商売の兼業も、これに一脈通じる前近代性を感じる。
ただこれが古くて不合理かというと必ずしもそうではない。
公務に差し支えなければ給与を低く抑えられるし、番をする場所によっては兼業収入の方が大きくなり就労者の方も役得がある。そして木戸や橋を通る通行人もいろいろ助かって、三方そろって得をする。
そう考えると、前述のパリ方式の知恵よりも合理的で、その合理性は機械論的ではなく、むしろ人間論的で世の中の機微に通じている。
私たち現代人は、雇用というものを、雇用者と就労者を単線的につまりは機械論的にマッチングさせて成立するものとだけ考えているが、そこには人間論やコミュニティー論にかかわる知恵が欠落しているのかも知れない。