日本人の<社会人的な心性>が<部族人的な心性>をベースに形成されたこと(5) |
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からのつづき。
(「2章 上代-----『日本らしさ』現出の時代
-----”異質の文化”を排除しない伝統は、この時代に確立した」の検討のつづき)
日本人の信仰心は「カミ・ホトケ」という先祖崇拝
著者は自身の信仰心を日本人の標準的なそれとして振り返ってこう述べる。
「私が子どものときに体験したのは、神であれ、仏であれ、要するに先祖崇拝であった(中略)。
子どもはのころに私が神様であるとして拝んだのは日本人の遠い先祖で、しかも偉い人である。私が仏様として拝んだのは自分の身近な人で、あまり偉くない人たちであった。
こういう先祖崇拝をドイツ語ではアーネン・クルトと言う(中略)が、日本の家庭においては、カミもホトケもアーネン・クルトという一つのカテゴリーに属するのである。そして平均的日本人は、たいてい、こういう神仏の理解の仕方をしているのではないだろうか」
「先祖崇拝は日本人の古来のシャーマニズム的信仰なのであって、仏教はシャーマナイズされてしまったのではなかろうか」
本来、仏教も因果応報という意味合いの因果律にのっとった<知>である。
ただその内容が、キリスト教と違って神との契約やそれを守ればどうなる破ればどうなる、というものではなく、仏性に目覚めて悟れば業の輪廻から解放される、そのための修行はこれこれしかじかである、というものだ。煩悩や欲を捨てることを説くから<知>の内容は無欲な<情>のあり方である。
だから本来の仏教は、大枠として<知>から入って、<情>かくあるべしに向かうものと言える。
しかし、日本おいてシャーマナイズした仏教は、大枠として、<知>から入るのではなく直接に<情>に働きかける方向に向かっていく。
たとえば、仏教には本来なかった山川草木悉皆成仏といったアニミズム的色彩を帯びるのは、御仏とダブらせて自然に対する<情>を喚起するものである。自然に抱かれている安堵感と御仏の慈悲をダブらせていくと言ってもいい。
また、念仏踊りや盆踊り(お盆に招いた霊を迎え 送るための「念仏踊り」が元とされる)といった身体性および祝祭性を帯びるのは、先祖や共同体に対する<情>を喚起するものである。人間同士の共生の安堵と御仏の加護をダブらせていくと言ってもいい。
こうした<知>起点から<情>起点への転換が仏教伝来後の経過においてあったことは間違いない。
これを著者は詳細に検討していく。
著者は、日本に仏教が渡来したのは欽明天皇の時代、538年ということになっているのは、「中央に入って来た時点の話で、北九州など大陸との交通が多かったところとか、帰化人の間では、ずっと前から仏教を奉じていた人が少なくなかったにちがいない」と説き起こす。
「欽明天皇のころは、朝鮮の南部は日本領で任那(みまな)府を置いてあったのであるが、そこに新羅(しらぎ)の侵入が起こったので、その鎮圧に派遣されたのは大伴狭手彦(さでひこ)であった(中略)。狭手彦は、(中略)朝鮮に渡って仏教徒になってしまったのである。
当時、任那では百済(くだら)の聖明王の発願で、日本領の安泰祈願のために大仏を鋳造して開眼式などをやっていた。(中略)
それは、たとえてみれば明治初年にキリスト教をどうすればよいか、というのと似た問題状況であったといえよう。国際的にやっていくには仏教を認めたほうがやりよいし、明らかにそのほうが開明的であるように思われたにちがいない。
この開明派の先端にいたのが例の大伴狭手彦であり、彼は半島に出張していただけに、国際状況に敏感であったし、態度も進歩的であった。
そこで狭手彦は当時の大臣(おおおみ)である蘇我稲目(いなめ)と連絡を取ったとみえて、百済王から仏像と経論が送られてきて、仏教の正式渡来ということになったのである」
ここで著者は、蘇我氏が「景行天皇のクマソ征伐、神功(じんぐう)皇后の朝鮮遠征を補佐し、応神天皇の即位に大功があったと言われる古代の英雄」竹内宿禰(すくね)の子孫であることと、「蘇我氏が朝鮮問題に関心が深く、仏教問題にも前向きであったのはその先祖と関係があったかもしれない」ことを補足している。
「欽明天皇が百済の聖明王が献上した仏像をお受け取りになったときは、まだお若かったのであるが、同席した大臣たちに、
『私も、この柔和な容貌をした仏像を拝んでみたらどうであろうか』
とおっしゃられたので、開明派の蘇我稲目は喜んで、
『西の諸国は、みなこれを礼拝しております。日本の国だけがどうして背くことができましょうか』と答えたのである」
ここで、開明派が<知>起点なのに対して、仏像の柔和な顔立ちに惹かれた若い欽明天皇が<情>起点だったことは憶えておきたい。
「ところが、国粋派の物部尾輿(おこし)と中臣鎌子は、
『わが国において帝王の位にある者は、つねに天地国家の百八十(ももやそ)の神々を、春夏秋冬、祀り拝むのがお仕事であります。今になって新しく外国の神を拝むならば、日本のカミの怒りを招くことになりましょう』
と申し上げた。
これを聞かれた若い天皇は、日本の神々の怒りに触れては大変だというので、拝仏のことはお取りやめになり、この仏像を稲目にご委託になって、勝手に京都あたりで流布するように試みさせになられたのである。(中略)
そこで稲目は、その仏像をいただいて、自分の屋敷の中に寺を建てて、拝めるようにしたのであった。(中略)
ところがその年、疫病がおおいに流行して多くの人が死んだので、物部・中臣の両名は、天皇にこのことを申しあげ、仏像は難波の掘りに投げ捨て、寺も残らず焼き払ってしまったのである」
このようなことは次の敏達(びだつ)天皇の時にも起こっていて、結局、「日本において、仏教が宮中に根を下ろしたのは、主として女の力であった」ことを著者は追って解説していく。
国粋派の天皇説得、それを受けた天皇の翻意は、「日本の神々の怒りに触れることへの怖れ」というこれまた<情>起点だった。
そして、事態は<情>起点によって打開されるしかなかったが、そういう所で力を発揮するのが女性たちなのである。
欽明天皇には皇位に関係のある妃が三人いた。
第一の妃が、宣下天皇の皇女石姫(いわのひめ)で、その子が敏達天皇だった。
「敏達天皇は仏法が流布する前に成人され、儒学、特に歴史を好まれた」という。
第二と第三の妃はともに蘇我稲目の娘である。
姉の第一の息子が用明天皇であり、その妹が異母兄の敏達天皇の皇后となり、のちの推古天皇という女帝になる。
第二の妃の妹の末の皇子が、のちの崇峻天皇であり、皇女の方が腹違いの兄の用明天皇と結婚して聖徳太子を産んでいる。
ここでポイントは、
「蘇我氏の血を引かなかった方は敏達天皇だけである。
だからこそ、この天皇は仏教を信じなかったと思われるのであるが、この天皇の妃は(中略)異母妹である。この妃の母は、蘇我稲目の娘で熱心な仏教信者であり、その娘、つまり敏達天皇の妃も信者である。したがって、天皇ご自身は文史を愛して仏法を信じないにせよ、すでに仏教は皇室に入ったのだ」
ということにある。
「性的差異のエチカ」の著者リュス・イリガライは、男と「数」と「観念」の密着、女と「場」の密着を主張している。
皇族の女性たちが仏教信者となったことは、彼らが仏教を信奉する「場」を形成したということであり、それは「観念」つまりは<知>起点ということではない。「場」に求められる感情や感覚つまりは<情>起点ということに他ならない。
ちなみに、歴史上、女帝は8人、再即位を入れると延べ10人いる。
興味深いことに、推古天皇(592年〜626年)から称徳天皇(764年〜770年)のほぼ6〜7世紀に6人(再即位を入れると延べ8人)と集中している。
この時期は大陸文化を積極的に導入しながらも日本文化が大きく方向づけられた時期であるが、<知>起点では折り合いのつかない事態が、<情>起点で展開する「場」のダイナミズムによって打開された、そういう時期として俯瞰することができるのかも知れない。
敏達天皇を継いだ用明天皇は蘇我稲目の娘の子で仏教信者だった。
つまり、
「仏教が正式に日本に渡来したのは第二十九代欽明天皇の御代であり、それが後宮に入ったのは第三十代敏達天皇の御代であり、天皇ご自身が信者になられたのは第三十一代用明天皇からである」。
<知>起点では折り合いがつくかつかないかの係争になるが、<情>起点では時間をかけて形成される「場」のダイナミズムが働いていく。この両者では流れている時間の質が異なり、それを可能にするのが女帝の連鎖だったのではなかろうか。
「用明天皇は、亡くなられる少し前に、仏教に帰依してもよいかどうかを群臣にはかっておられるが、そのときも物部(守屋)・中臣(勝海)の二人は反対したが、この二人は蘇我馬子のために滅ぼされてしまう。天皇の意志が仏を信ずることにあることが明らかになれば、国粋派の意気も上がらなかったのであろう」
しかし、<情>起点ということは、必ずしも<知>起点でつかなかった折り合いに決着をつけることに帰結せず、どちらかと言えば棚上げにする、争わなくて済むように論題をずらすといった方向に流れる。
「用明天皇の仏教入信は、(中略)天皇の性格を一変したことであり(筆者注:<知>起点でみると)国体の断絶に見える。しかし実際は(筆者注:<情>起点の対処により)断絶しなかったのである。
たとえば、天皇は皇女酢香手姫(すかてひめ)を伊勢神宮に仕えまつらせた。
その皇女は、推古天皇の御代まで三七年も伊勢に奉仕したと言われるが、皇女が伊勢に仕えることは、伊勢神宮の創立当時からそうだったわけである。つまり、天皇は仏教を信じても、日本のカミの祀りは絶やさなかった。
おそらくこのようなことを指して『日本書紀』は『天皇は仏の法を信(う)けたまい、神の道を尊びたもうた』と書き記したのであろう。
この場合の『神の道』の内容はかならずしも明らかではないが、アーネン・クルト(先祖崇拝)と解釈してよいと思う」
仏教は「法」に基づいた宇宙的とも言える高度な<社会人的な心性>を形成するものだが、日本の場合、神道との両立や連携によってアーネン・クルト化し、あくまで<部族人的な心性>をベースに温存した<社会人的な心性>を形成する方向に転換された、ということである。
「法」が<知>なのに対して、
「道」は<情>や<意>を伴うものである。
その後の日本での仏教の独自展開においては、この「道」が重視される。
ここで私が思い起こすのは、昭和天皇と今上天皇が靖国神社を頑なに参拝なさらないでいらっしゃることだ。
もし、<情>起点に立つならば、国のために戦死した英霊に参拝してもよさそうだ。
お二人の天皇は国が国民を煽動して抱かせた<情>を起点とはしない。あくまでも起点とするのは、八百万の神への畏怖やもっと普遍的かつ素朴なアーネン・クルト(先祖崇拝)の<情>である、というお考えがあるのではないか
というのが私の個人的な推察である。
またそうしたお考えを全うしてこそ、憲法上の「政教分離」をおかさずにすみ、シャーマニズムやアニミズムの意味合いを守った「祭政一致」に徹することもできる。
「仏教は一つの学問、あるいは人間に関する哲学として受け容れられたのであって、アーネン・クルトを廃することとは別に考えられていたと見てよいであろう。
アーネン・クルトという中核さえ侵さなければ、日本の国体は不変と言ってもよいであろう」
この著者の考え方を、昭和と今上のお二人の天皇が持っていらして、靖国神社をむしろ「アーネン・クルトという中核」を歪めるものと看做していらっしゃるのではなかろうか。
縁起にのっとった<情>起点は「場」のダイナミズムを重視、本音建前の乖離もOK
「仏教導入ほどクリティカル(危機的)な事件は、それまでなかったといってよいと思う。そこでは一歩間違えば、天皇の存在を無用にする方向に歴史が流れて行く可能性が、すこぶる大きかったからである。
それが逆に、推古天皇=聖徳太子のコンビの出現を生み、日本の歴史は、皇室を中心とした仏教興隆で、一まわりも二まわりも大きい文化を作る方向に進んで行ったのであるから、不思議な感じがする」
これは<知>起点では起こりようのない不思議である。
同じような不思議が大化の改新でも、明治維新でも起こっている。
やはり<情>起点だから、<情>の一貫性なり継続性があれば<知>がどうなろうと結果オーライということなのではなかろうか。
明治維新では、尊王攘夷をスローガンにしていた倒幕派が倒幕したとたんに開国富国強兵に転換する。<知>としては真逆を行った訳だが、徳川幕府がする開国富国強兵と新政府がするそれでは起点となる<情>が違い、当然、その<意>も<知>も修正されるということでみな納得した。
大化の改心でもまったく同じような経過があった。
著者は、「日本の古代の律令が出来てきたときに、仏教がどのように扱われたか」について論じて行く。
「大化改新(六四五年)は、聖徳太子が亡くなられてから専横を極めた蘇我氏を、皇太子であられた中大兄皇子(のちの天智天皇)が滅ぼされた一種のクーデターであった。(中略)
このとき総参謀になったのが中臣鎌足(のちの藤原鎌足)である。
鎌足の先祖は蘇我馬子に滅ぼされた中臣勝海であり、鎌足の母もまた、そのとき滅ぼされた物部守屋の子孫であった。父系から見ても母系から見ても、ホトケ様支持派に滅ぼされた神代以来のカミ様派の反撃のように見える。それが単なる国粋派の捲き返しでなかったところが面白いのだ。
鎌足がクーデターの準備をしていたころのブレーンになったのが、なんと聖徳太子によって大陸に送られて帰朝した新知識人である僧旻(みん)や南淵請安(みなぶちのしょうあん)であった。大伴氏や中臣氏は、元来は、反大陸・国粋党のはずであったのだが、一たび政権を握るや、大陸の制度に倣った政治機構を作り上げたのである。その新政府の要職には留学生が参加していた点、幕末の攘夷派が、一たび国政を執るや、開港にすりかえた、あのやり方とよく似ている。
したがって、明治政府が幕府の開港政策をさらに押し進めた開化政策を採ったように、大化改新の政権は、蘇我氏の開明政策をさらに進めた大陸風の政治をやり出し、その論理的結論として、大宝律令が出、その改修版としての養老律令が出て、古代律令国家が成立するのである」
「その古代律令における仏教の地位こそ、まことに日本的であった。(中略)
仏僧たちが天文を見て、吉凶を述べたり、国家のことを語って人民をまどわせたり、治安に害のあることをしたら、処罰されるということである。(中略)
仏教とは小道(しょうどう)をなしてはいけない、つまりお守札など売ってはいけない、おまじないや、お御籤をやってはいけない、吉凶禍福を説いてはいけない、病気の治療に関係してはいけないとされていたのであった。(中略)
陰陽道のほうが吉凶を占い、わざわいを除く仕事をしていたのである。陰陽道のほうは、いろいろな自然界の現象などは、天に代わって政治の善し悪し(筆者注:天意)を反応して見せるものだ、という立場でやるのだから、はじめから、日本のカミとも矛盾しないで、宮廷でも重く用いられていた。この陰陽道のほうは足利時代ごろまでに、その機能の大部分が仏教のお寺に取られてしまったから、われわれにはピンとこないけれども、古代においては、きわめて重要な役割を果たしていたようである」
ここで「古代律令における仏教の地位」の「縁起にのっとった<情>起点」による本音建前の乖離が二重に指摘できる。
①「一種の幸福論というべき宗教哲学」である仏教を矮小化して捉えたこと
②陰陽道とのバッティングを避ける建前がどんどんおざなりにされていったこと
である。
因果律にのっとった<知>起点の発想思考であればこうはいかない。
陰陽道は易経に通じ、儒教とともに共時性にのっとった<意>起点の発想思考の体系であるが、これでもこうはいかない。
「建前と実際が喰い違っても平気というのが日本人の特色というべきか、律令で仏僧の国家関与を禁じながら、片方では、どしどし仏教関与を押し進めていったのであった。
それは当時、朝廷で主として使ったお経の種類を見ればわかる。つまり国家の安泰を祈り、国民の豊楽を祈る金光明王経(中略)や仁王経が盛んに用いられたのである。(中略)
いずれも律令に反したことを天皇自らやっていることになるのだが、これは問題にされなかったらしい。(中略)
昭和の軍人も『軍人は政治に関わらず』などという軍人勅諭を一兵卒にまで暗誦させながら、現役の陸軍大臣が総理大臣になっても、当人も国民も平気だったのだから、日本人は古代から、成文律を忘却できる国民だったのかも知れない」
平和憲法の骨格である憲法九条の戦争放棄が、改憲しないで解釈拡大だけで運用されてきたことにも重なる。
このことは一般的に悪い事として日本人は反省するが、必ずしも悪い事ばかりではない。
なぜなら、<情>において人々や社会の現状のリアリティを踏まえそれを起点にした<知>の再構築や<意>の更新は一つの現実主義であり、<情>の経済における合理主義でもあり得るからだ。
無論それが創造的であるためには、起点となる<情>が公助的・社会貢献的で前向き・外向き・下向きであることが求められる。逆に利己的・社会破壊的で後向き・内向き・上向きでは破壊的事態に直結することは言うまでもない。
著者は、古代の人々のリアリティを自身の戦後昭和の体験から推察するが、その特徴はまさに日本人の情緒、<情>であり、その核心をつきつめていくと呪術的であり祝祭的である<部族人的な心性>に行き当たらざるを得ない。
「天皇がいくら仏教を信じたからといって、日本には古来の神々がいて、祭政一致だったはずである。これはどうしたのだろうか、というと、それはそのまま、依然として盛大に行われたらしい。
すなわち、仲春(ちゅうしゅん)(旧二月)には祈年祭(としごいまつり)をして農事のはじめに当たって五穀成就を祈り、季春(旧三月)には鎮花祭(はなしずめまつり)をやって疫病神をおさえる。次に風神祭、水神祭をやって大風が吹かないよう、水が涸れないように祈る。また春秋の神衣祭(かんみそまつり)は、天照大神以前からあった祭りということで、もちろん厳重に守られる。そして秋の収穫を終えると、十月には神嘗祭(かんなめまつり)、十一月には新嘗祭(にいなめまつり)で一年一度の大祝宴をやることになっていた。
皇室で新嘗祭を行い、廷臣たちが豊明(とよあかり)の節会(せちえ)(新嘗祭の翌日、天皇が廷臣たちに新穀を賜る儀式)を楽しむとき、日本じゅうの村々では氏神、あるいは産土神(うぶすなかみ)の祭りをやっていた。これは宵祭、本祭、裏祭があり、村じゅう挙げて楽しんだものであった」
ここには「中心と周縁の共時性」が見てとれるが、因果律と共時性が渾然一体の、こと分けされる以前の未分化な森羅万象の原理原則が縁起だから、それは「天皇と民が繋がる縁起」の特徴として捉えることができる。
易や儒教に見る共時性が天意などの決定論であるのに対して、「天皇と民が繋がる縁起」は偶有性の重視を基調としつつ物事を人為的にみんなで同時にすることで、人と自然、人と人、人と人工を結ぶ情緒を維持する人間論にある。
著者は昭和の子供の頃を振り返って、
「このごろは、しきりにコミュニティの連帯感などと言われるが、そんなものではなく(筆者注:因果律にのっとった<知>起点のものではなく)、それはそれは、底抜けに楽しい、村を挙げての祭りであった(筆者注:縁起にのっとった<情>起点のもの)」
と述べている。
つまり日本人の場合、古来より、呪術的かつ祝祭的な縁起にのっとった<情>の横溢と循環という<部族人的な心性>が意志的にか無意識的にか発想思考の起点、認知表現の起点にあるのである。
それは、たとえばキリスト教徒でもないのに正月同様にクリスマスやバレンタインデーで盛り上がることに端的に現れている。
「天皇が国分寺を作ってお経を上げさせても、そんなこととは関係なく、日本じゅうの神社では、春夏秋冬の祭りは厳密に執り行われ、しかも、仏教を広めることに熱心だった天皇ご自身も、宮中では、やはり神代以来のしきたりでカミを祀っておられ、その祭りをよく行うことこそ政治の根本という認識は、いささかも揺るいでいなかったのである」
「天武天皇(中略)はきわめて篤く仏教を信じられた方であり、諸国に金光明経や仁王経を講ぜしめられたり、薬師寺を建立なされた方である。そして六八五年には、大和法起寺に三重塔を完成させ、しかも全国の家ごとに仏壇を作って仏像を拝むように命じられた。
しかし、まさにこの六八五年に、同じ天武天皇が伊勢神宮の式年遷宮(正遷宮。定期的に神宮を立て直すこと)をお決めになったのである。
この定めに従って、持統天皇(筆者注:女帝、天武天皇の皇后)の年代に、第一回の式年遷宮が行われて以来、本年度(昭和四十八年度)の第六十回正遷宮に至るまで、約一三〇〇年間、そのことが廃らなかったことは、世界史の奇跡といっても誇張ではない。(中略)
神代ならいざ知らず、天武天皇の時代には、もうそれより半世紀以上も昔に法隆寺さえ建っているのだから、瓦を用いれば何のことはない、はるかに耐久性のある社殿が容易に造れたはずである。しかし天武天皇はそうなさらなかった。
それで神代以来の復元の繰り返しを一三〇〇年間近く、日本人はやってきたのである」
神社建築の様式は、聖武天皇と皇后(持統天皇)が仏教建築の技術を用いながらも高床式の穀倉をデフォルメして神殿化したものと言う。
「このメンタリティが藤原時代になると和魂漢才と言われ、明治以降は和魂洋才などと言われるものになるのであるが、この奇妙な取り合わせが、すでに天武天皇のときに鮮明な形で出ていることに注目したい。
これは明らかに、近代的工場を作るときに地鎮祭をやったり、超高層ビルの上に小さな社を残す現代日本人の心と連なっている」
「和魂漢才」「和魂洋才」は、日本人が縁起にのっとった<情>起点で<知>を改良する<意>を表現する言葉と言えよう。
著者はさらに、日本人が縁起にのっとった<情>起点で再構築した<知>について解説していく。
「その結果が、本地垂迹説とか神仏習合とかいう、日本独特の思考的努力である。
これは奈良時代からしだいに生じて、藤原時代に完成した神学であり、天台宗系から出たものを山王一実(いちじつ)神道、真言宗系から出たものを両部習合神道と言う。(中略)
要するに、カミとホトケは同じである、あるいはカミはホトケとなることができるということなのだ。(中略)
平安時代になると、カミは仏法によって悟りを開いて菩薩になることができるというようになった。八幡宮のカミを八幡大菩薩などと言うのがこの例である。
ところが、さらに時代が下って藤原時代になると、カミは菩薩どころか、ホトケになることができるところまで進んだ。つまり、カミとホトケは同じものになる。カミはホトケが仮の姿で現れたもの、つまり権現であるというのである。熊野権現などがその例であろう。(中略)
この神仏同体説を説明するために、両部習合神道では、真言の両部、つまり金剛界と胎蔵界(中略)を用いて、日本の在来のカミはすべてホトケの権化であるとして、いちいちその本地を定めることにしたのである。
かくしてインドの辨財天が安芸の厳島姫となって権現し、同じくインドの摩訶迦羅天(まかきやらてん)が日本の大国主命として、つまり大黒天として権現したという。
なかでも傑作なのは奈良の大仏の大日如来で、あの十六丈の毘盧遮那仏が、天照大神の本地だということで、非常な崇敬を集めたこともあったのである。(中略)
この神仏習合のうちで、最も早かったのは、おそらく八幡宮である。
この神社は元来、『やはた(八畑?)』という地名を指すという説があるが、ご身体は応神天皇である。応神天皇は朝鮮征服の神功皇后の息子であり、朝鮮との関係も深いとされていたせいか、古く豊前の宇佐地方一円を支配していた宇佐一族に氏神として尊崇されていた。そして場所がら逸早く本地垂迹説の影響を受けて、菩薩号を奉られた神社の第一号である。(中略)
そして八幡宮は清和源氏によって氏神として尊崇され、特に源頼朝が鎌倉の鶴岡に勧請(神仏の分霊を迎えること)してその守護神としてからは、武士たちが自分の領地にも祀るようになったため、今日でもその神社の数は郷社以上約四〇〇、末社の数は全国の神社の約半数に及ぶ、といわれているぐらいである。
このように両部神道は一二〇〇年以上も前に日本に広がったのであるが、明治政府の神仏分離政策によって八幡大菩薩は八幡宮に、山王様は日吉(ひえ)神社に、熊野権現が熊野座(くまのにます)神社になった。(中略)
日吉はもちろん、比叡山の『ひえい』から来ており、神代以来の地主であった大山咋神(おおやまくいのかみ)を祀る。
ところが、伝教大師最澄が、比叡山に延暦寺を開いたとき(七八八年)、この神を、新しい寺の鎮守神にしたのである。最澄は、唐の天台国清寺に祭られている山王祠をヒントにして、この神を山王権現にしたともいうが、最澄のころは神仏習合説はまだそこまで進んでいなかったと思われるので、最澄も聖徳太子式に、カミもホトケも崇めたのではあるまいか」
そもそも神仏同体説なり本地垂迹説は、聖徳太子式のカミもホトケも「ありがたい」と崇めた<情>起点で、<知>を再構築というよりまったく新しく仮想したのだから、聖徳太子の発想とさほどの開きはないと言える。
「何はともあれ、この神は徳川家の産土神(鎮守の神)というので江戸の神社の首位に置かれ、この前の空襲で喪失したものの、今では前よりも壮大な社殿が出来ているのであるから、この神代のカミも不死身である」
これは、赤坂見附、現在の地下鉄駅でいうと「溜池山王」にある日枝神社のことだ。
私が生まれたのが旧赤坂台町、今のTBSビッグハットの裏あたりで、育ったのが紀尾井町、赤坂見附の弁慶橋を渡った突き当たりとこの近所であったため、子供の頃の夏祭りの縁日の思い出や拝殿に各町内の神輿が勢揃いした記憶がある。
成人してからJR代々木駅近くに暮らしたが、近所に代々木八幡があった。
50を過ぎて伊東に引っ越したがその住所は八幡野である。
神輿を担いだ訳ではない私でも時空的に決して無縁とは言えない。
一年というサイクルの時空をカミ様に見守ってもらい、
一生というサイクルの時空をホトケ様に見守ってもらう
ちなみに八幡野の祭りでは、山裾にある八幡宮来宮神社と八幡港の間を神輿を担ぎ山車を引く人々が練り歩く。
(交通整理をする警察官も神輿の往来に跪いて頭を下げている。)
この八幡宮来宮神社は、もともとは二社が別殿だったのが一つの本殿になっている。
八幡宮は、祭神は誉田別尊(ほむたわけのみこと)=応神天皇で、神護景雲3年(769年)に勧請されたもので、1国に八幡宮を1社置く制度の下、伊豆国の八幡宮に定められたという。
来宮神社は、祭神は伊波久良和気命(いわくらわけのみこと)で、本来は岩窟に祀られていたため、「磐座の神」の意味であろう。大変な酒好きと伝えられる来宮神社の「来(木)宮」の称、漂着神伝承など、キノミヤ信仰が濃厚。太古に、酒瓶(さかべ)にのって現在地の東方、八幡野港付近の金剛根津に漂着、「堂ノ穴」という岩窟に祀っていたのを、八幡宮に遷祀した。さらに、当初2社は別殿だったが、延暦年間(782~806年)に1つの本殿に祀るようになったという。
来宮の神は大変な酒好きで、海岸に鎮座していた時に沖を通る船人に神酒の奉納を強要したため、困った人々が内陸部の「元屋敷」と呼ばれる現社地の一隅に遷したが、そこからも沖が見えて相変わらず神酒を乞うので、八幡宮の脇に再度遷祀した。
来宮神社の旧社地「堂ノ穴」の中には、「淡島さん」や「稲荷さん」と呼ばれる祠や石仏が並んでいる。かつての八幡野は農業主体の「岡」と漁業主体の「浜」という2部落から成っていたが、「淡島さん」を婦人病や出産の神として浜部落の婦人が出産や月経時にこの洞窟に籠もった。また当地一帯の人々は、物を頭上に載せて運んでいたが、この習俗はほぼ日本列島の太平洋岸における北限だったとされる。
私は、八幡港から山裾の神社までの練り歩きの最後尾の軽トラに、顔を白塗りして一升瓶を飲む酔っぱらいのような人が乗っているのを見かけた。
ひょっとすると酒好きの神様役の人だったのかも知れない。
新参者には立ち入れないような地元民同士の盛り上がりを感じた。これは、スペインの田舎街のトマトを投げ合う祭りに日本人が飛び入り参加しても受け入れられるといった類いとは違う。同じ地縁血縁の先祖を尊崇しているローカリズムが色濃い。
そうした先祖共有の実感がある地元の人々同士は、著者が述べていた「底抜けの楽しさ」といった<情>が喚起されているように見えた。
21世紀の現代、伊豆高原という東急グループはじめとする企業群がリゾート開発したエリアの一画にこのような祝祭時空が今も息づくことを思えば、古代、全国津々浦々にこうした祝祭時空があり緊密にネットワークしていたその濃密さは想像に難くない。
(参照:東急リゾートブログ「八幡野秋祭り 八幡野来宮神社に行ってきました」
http://blog.tokyu-resort.co.jp/branch/izu/201009/22/blog200049-21599.html)
「藤原氏は氏神として春日神社、氏寺として興福寺を持っていたのだ。
もう一つ例を挙げれば、例の和気清麻呂であるが、彼は宇佐八幡宮の誓いによって神願寺を建てている。
要するに、この種の奇妙さを挙げれば、きりがない。そしてこの種の奇妙さの中に日本の精神史を解く鍵があるのである」
東京都心で生まれ育った私はとかく為政者の信仰や宗教政策に注目してきたが、伊豆の八幡野に引っ越してからは、全国津々浦々にあるだろう土俗的な信仰や祝祭を媒介にどのような地元民の精神性や関係性が形成されてきたかも重要だと考えるようになった。
中心と周縁の相互関係や相乗効果があって、日本人全体の精神史が形成されているからだ。
以下、そうしたことも踏まえて考えを深めていきたい。
「仏教という高級宗教は、日本のカミに骨抜きにされ、先祖を祀る宗教にされてしまったのである。
神仏習合説は最初、ホトケがカミを包み込むために考え出されたものであったが、気が付いてみたら、ホトケとカミの差はなくなり、いつのまにか偉い死者はカミ、偉くない近親者の死者はホトケというような差までつけられてしまったのである。
専門の学者はこの現象をどう呼ぶか知らないが、私はこれを『仏教のシャーマナイゼイション』、つまり『先祖崇拝化された仏教』、もっとはっきり言えば、『カミに従えられたホトケ現象』と呼ぶことにしている。
先に上げた春日神社の例で言えば、この藤原氏の氏神は法相擁護の霊神になった。つまり氏神が仏教の守り神にされたのである。ホトケより格の上のカミ、本地より高い垂迹というものが出来たわけであるが、(中略)大乗仏教が今なお国家的規模で生きているのは日本ぐらいだから、大乗仏教に関するかぎり、確かにホトケはカミに守られているのである」
二年前に父がなくなった際、自宅の仏壇の位牌を調べてはじめて宗派が◯◯宗であると確認した。
伊東市内の◯◯宗のお寺に戒名を依頼する電話をすると「うちは葬式宗教ではないから檀家にならないと戒名を上げられない」と言われた。
ちょうど上京予定があり、四ッ谷荒木町あたりの◯◯宗のお寺をネットで探してダメ元で電話した。するとその住職は快く応じてくれて、指示通り故人についての必要情報を書いたメモと、位牌に入っていたご先祖様の戒名の書かれた複数の木札の写真、安価な戒名代金を封書で送ると、戒名が筆書きされた木札を送ってきてくれた。私としては上京の際に立ち寄ろう、荒木町なら帰りに一杯やれるなどと不謹慎な算段をしていたのだが、結果的には戒名通販の体裁に収まってしまった。葬祭関連ではいろんな雑事に追われていたから助かった。
同じ◯◯宗でもいろいろ派があるとのことだったが、「戒名の命名法や筆法が同じ派です」と住職に言われた。ご先祖様のお導きだろうか。
この後、私は遺骨をもって開通したての九州新幹線を利用して鹿児島に向かい、予め探してお願いした◯◯宗のお寺で読経してもらい、父が建てた墓に納骨した。
いずれ母の時にも同じことをすることになる。
そんな私は、年の初め、三ヶ日に地元の来宮神社に詣出て交通安全のお札をもらい、年度末までに上京して神田明神で病気平癒のお守りをもらい、中野の北野天満宮で学業成就のお守りをもらってくることを習慣にしている。
考えてみると、一年というサイクルの時空をカミ様に見守ってもらい、
一生というサイクルの時空をホトケ様に見守ってもらっている私がいる。
これは、現代の平均的な日本人の信仰生活でもあろう。
この時空が大きな枠組みとなって、私たち日本人の発想思考は意識的にそして無意識的に個性化したり制約されたりしているのではなかろうか。
そこでは、神仏一体、神仏習合の<知>ではなく、明らかに<情>が起点になっている。
そしてその核心は、呪術的かつ祝祭的な<部族人的な心性>であり、
あくまで<部族人的な心性>がベースに温存されて、日本人独特の<社会人的な心性>が形成されきたのである。
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へつづく。