日本人の<社会人的な心性>が<部族人的な心性>をベースに形成されたこと(4) |
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からのつづき。
(「2章 上代-----『日本らしさ』現出の時代
-----”異質の文化”を排除しない伝統は、この時代に確立した」の検討のつづき)
聖徳太子に見る「縁起にのっとった<情>起点」の<意>と<知>の展開
「太子といえばまず憲法である。これは推古天皇(中略)の十二年(604)(中略)に、自らお作りになったもので、憲法(いつくしきのり)と読むらしい。『いつく』は『斎(いつ)く』、つまり『心身を清めて神につかえる』という意味から出ているのであるから、憲法とは、おごそかな気持ちで取り扱うべき掟ということになる」
「おごそかな気持ちで取り扱うべき掟」とは、今、私たちが憲法論議をしているようなニュアンスとは著しく違う。
「おごそかな気持ち」とは<部族人的な心性>であり、「掟」とは直接的に人々の<情>を縛るものである。「掟」をおかすことを<部族人的な心性>は理屈無しに恐怖する。それは思っただけでも、くわばらくわばらと身震いするような、即座の無意識の身体反応を誘うほとんど情動である。
「太子が叔母である推古天皇の摂政になられたころ、日本では物部(もののべ)・蘇我などの大氏族の争いが多く、これが皇位継承問題と絡み合って、ついには穴穂部皇子(あなほべのみこ)殺害、さらにすすんで崇峻天皇暗殺という大逆事件を生ずるに至った。(中略)聖徳太子は、この殺されたほうにも、殺したほうにも血の繋がりがあった。
この血なまぐさい氏族争いを見てきた太子が、憲法を制定するときに、この日本を浄土、つまり楽園とするために、菩薩の浄土建設の心事十七項にのっとって、十七条を選び出したお気持ちはよくわかるような気がするではないか」
つまりは、「縁起にのっとった<情>起点の発想思考」だったと推察される。
「それゆえに、この憲法の第一条は『和ヲ以テ貴シトナス』ではじまり、第十条、第十四条、第十五条と繰り返して和の精神を敷衍なさっているのである」
「和」とは人間同士の<情>の和やかなあり方に他ならない。
「したがって太子の憲法は、あくまで憲法であって単なる掟ではない。
どこの種族にも具体的な掟はある。古代のゲルマン民族などにも精細な取り決めがある。
しかしそれは憲法ではない。『理念』を打ち出していないからである」
十七条憲法が、和の精神という「理念」を打ち出したことは、和を重んじる<部族人的な心性>の<情>そしてそれを捉える掟を、「理念」という<意>をもった<知>として明示知化することによって<社会人的な心性>を形成した、ということだ。
憲法発祥とされるイギリスは不文憲法(不成典憲法)だから、成文憲法の最初はアメリカ憲法(1788)である。
「アメリカ憲法が出来る約一二〇〇年前に、わが国が単なる掟ではない『憲法』を持っていたことは驚くべきことであり、それから約一〇〇年後の明治に、国家の根本法典たる西洋のコンスティチューションという単語を訳すとき、その訳語を、太子のお選びになった『憲法(いつくしきのり)』という言葉を借用したことは、明治の学者の達識を示す」
「縁起にのっとった<情>起点の発想思考」というと、何か情緒的で合理性や具体性に欠けるかのようだがむしろ逆である。発信者だけでなく受信者も共有する<情>を起点にすることで、現実的に人々に受け入れられやすく効果的に作用する<意>や<知>を調和的に統合していくことができる。
和を重んじる「理念」=<意>についてはすでに述べた。
和を具現化する<知>はどのように工夫されたのだろうか。
それは、和を重んじる<意>=目的を達成する手段となるべきで、同時に、人々が和やかな<情>でいられることを約束するものでなければならなかった。
著者はこれに関連するこういうことを解説している。
「まず第一は、国家の主権は一つだということを明確に打ち出していることである。
現在では国家の主権が一つであることぐらいは子どもでも知っているが、当時はかならずしも明確ではなく、多くの人々の中には、皇室の権威と大氏族の権威の差がぼやけていた場合があったと思われる」
正確には、皇室にも権威と権力があり、大氏族にも権威と権力があり、及ぶ範囲が錯綜していたということではないか。
ここで太子は前述した条件を満たす<知>を効果的に構成した。
先ずは、皇室に決して損なわれることのない権威を保全した。それによって権力の優位性を獲得し、たとえいずれ権力の優位性を失うことがあっても権威だけは絶対に損なわれない、その後の天皇制がそうであるような基本路線に持って行った。
私がそう考えるのは、素朴に、和を重んじる理念を打ち出す憲法という<情>起点の<意>をともなった<知>が受け入れられるためには、最大権力者ではなく、最高権威者として憲法を発することがふさわしくまた不可欠だったからだ。最大権力者が力にものを言わせて和を重んじさせるのはあまりに陳腐である。
日本の天皇は「征服王」ではなく「神聖王」と言われるが、「神聖」こそ最高権威者の存在理由であり、もっとも「神聖」な最高権威者が、神に代わって和を説くから人々も聴く耳をもった筈だ。
著者は、皇室と大氏族の対立を、「アメリカ独立当初の連邦政府と州政府の関係」に似ていると論じているが、それは権力抗争であった。
聖徳太子の工夫は、権力抗争を最大権力者を競うパラダイムで解決しようとせずに、「神聖」こそ最高権威者の存在理由とするパラダイムに先ずふったことだった。
そして、それはその後の日本人の「権威と権力の分離」という特性を方向づけた。
「国家の主権は一つだということの明確な打ち出し」とは、どんな国家が存在するかの認識を共有する、国家意識が統一されていることが前提なのだが、その前提は憲法では触れられなくて良い。誰もが抱く共通認識があればいい。その「統一的な国家意識の構築作業」は憲法とは別立てで進められた。権力絡みは律令体制、権威絡みは仏教新興そして後の古事記や日本書紀に繋がる国史編纂の動きである。
「太子の国家意識は当然、国史の編纂の必要性と連なってくる。それで蘇我馬子と協議されて、『天皇記』と『国記』の編集を開始なされたが、完成されないうちにお亡くなりになった。そして、その原稿や資料は蘇我蝦夷が滅ぼされるとき、一緒に焼けてしまったと言われる」
「第二に、太子が明らかにされたことは、政治の公正、裁判の公明正大、人材登用における適材適所ということである。これも氏族制度の弊害を除かれようとした意図からでたものであることは明らかである」
これは、権力の運用の規定である。
つまり、第一に権威の確保→第二に権力の規定 という順序になっている。
「これによって古代日本のカースト制的職業の世襲は、少なくとも理念的に打破されたのであった。
しかも、さらに重要なのは、第十七条において、政治の重大事は『独断スベカラズ、必ず衆と論ずべし』としていることである。このあたりは、それから約一二五〇年後に出された明治天皇の五カ条の御誓文に驚くほど似ていることが明らかであろう」
第一条「広く会議を興し万機公論に決すべし」のことである。
つまり、第十七条目の最後を、組織知識創造の方法の規定で締めくくっている。
以上のように総じて十七条憲法には、国史という「縁起」にのっとった<情>を起点にして、<意>から<知>へ、という流れを見てとることができる。
「次に興味を惹く点は、この憲法における宗教の扱われ方である。
誰でも、この憲法が仏教の興隆をすすめていること(筆者注:すすめるということは<意>)を知っている。
第二条に『篤ク三宝ヲ敬ヘ。三宝トハ仏(ホトケ)・法(ノリ)・僧(ホウシ)ナリ』という項目があることから見て、明らかなようである。
しかし、これが今日考えるような仏教であったと考えてはいけないであろう(中略)。
太子の憲法に流れている思想系統は、主として儒教・仏教であるほかに、法家や道家の思想も入れられている。その条文に用いられた用語には漢訳仏典系のものが多いが、そのほか詩経・書経・孝経・論語・孟子・荘子・中庸・礼記・管子・史記・文選(もんぜん)などから採ったものがある。つまり太子は、当時の唐・天竺の文化と思想の精髄を集めようとなされたらしいのである。
仏教は、当時にあっては、まだ優れた宗教哲学としてのみ存在し、大祈祷など、今日の仏教がやるようなことはやっていなかった。
したがって、『法』とは優れた思想からくる学説(筆者注=<知>)であり、『僧』は学者(筆者注=知識人ないしナレッジワーカー)である。つまり今流に言えば、仏・法・僧を重んずるということ(筆者注=<意>)は、学問精神を尊び、学者を大切にし、民主主義思想を重んずるといった意味に近いと解釈したほうが実態に近いであろう」
ナレッジワーカーである「僧」は、何も仏教だけに精通していた訳ではない。大陸の知識を広く修めて言わば実学的な知識を合わせ持ち、帰化人の様々な職能人と恊働したりそれを統括して様々な事業をマネジメントした。
聖徳太子は、後の空海などと同様に、そんな「僧」を束ねる総合プロデューサー、総指揮者だったと言える。
「したがって太子が寺を建てたのは、今日でいえば大学を建てるのに似た行為であった。
さればこそ、太子の憲法の中には、日本のカミについての規定が何もないのである。
太子にとって(また当時の日本人にとって)日本のカミは自分の先祖のことなので、その霊が不滅であることは誰も疑わなかった。太子であろうが太子の敵であろうが、日本のカミについての意見は一致しているので、憲法が採りあげるほどのことはなかったのである。
太子自身が、篤く日本のカミを尊ばれたことはよく知られていることであり、太子が『カミよりもホトケを好まれた』などと言うのは、まったくナンセンスである」
十七条憲法は、仏教の興隆を図るものであり、なぜ仏教を興隆させるかと言えば、皇室と大氏族の権力闘争を鎮静化させるためであった。
皇室の崇めるカミが大氏族の氏神よりも上位にあるなどと、わざわざ条文に盛り込む訳がない、ということもあったのではないか。
カミ絡みでは「神聖」をめぐる競合があったが、日本最古の歴史書である古事記(712)(筆者注:内容は神代における天地(アメツチ)の始まりから推古天皇の時代に至るまで)で最終的な決着をみる。
『古事記』は帝紀と旧辞とから成るが、帝紀は、朝廷の語部(かたりべ)などが暗誦していたものを6世紀半ばから文字によって書き表された。旧辞は、宮廷内の物語、皇室や国家の起源に関する話をまとめたもので、やはり同じ頃書かれた。帝紀も旧辞も6世紀前半ないし中葉頃までに、大和朝廷の大王家を中心とした貴族や豪族が創作した口頭伝承から作成された。
「神聖」をめぐる競合はこの過程を主戦場とした。
つまり、史実としての決着は太子が憲法制定する頃にはついていたと考えられる。
前述した太子による国史編纂事業はその固定化作業だったのだろう。
結果的に十七条憲法は、最大権力者の権力の押しつけとは真逆であると同時に、最高権威者の権威をカミに連なるとする信仰に由来する「神聖」ではなくて、和を重んじる現実に由来する「神聖」として再構築している。これは実質的に、和を重んじない天皇は「神聖」にあらず、ということであり、最大権力者による天皇の擁立と傀儡化を戒めている。また、中国の天意に背く皇帝は退出する易姓革命の思想が反映しているとも解釈できる。
いずれにせよ、
聖徳太子の憲法は、
神話=過去に根拠をもつ継承者としての「神聖」を
現在から未来にわたって「和」を具現化する「神聖」にパラダイム転換した
当時の日本人の価値観=<社会人的な心性>を革新するものだった
と言える。
前者の「神聖」は人々の<部族人的な心性>が受けとめるが、たとえば外国人である中国人はどう受けとめるか。彼らはすでに<部族人的な心性>を捨象ないしは限定した<社会人的な心性>を形成していて、それによって蛮族の未開の概念として受けとめるしかない。そこで聖徳太子は、日本人の文化的文脈の基調として<部族人的な心性>を踏まえた<社会人的な心性>を形成し、それを固定化して中国人のそれと対等に位置づけるという作業を果たしたのである。
そして言うまでもなく、現在から未来にわたって「和」を具現化する「神聖」とは、現在の象徴天皇制が担っているものでもあり、私たち現代の日本人の<社会人的な心性>もそれをそのように受けとめている。
太子の「縁起にのっとった<情>起点」は呪術力なのか日本型集団独創の源流なのか
「太子と仏教といえば、法隆寺をはじめとする仏教建築やそれに付随しての彫刻などを思い出すわけであるが、これもまた現代的な意味がある。
法隆寺については天智天皇九年(670)の再建論などがあるが、いずれにせよ世界最古の木造建築物である(中略)。
私は石の建造物やその遺跡が残っていることには驚かないけれども、木造のものが残っているのには感激するのだ。(中略)
放っておけばすぐ駄目になるのだから。ともかく千数百年間、多くの地震や兵火の多い国が木造建築物群を、ほぼ原型のまま保持してきたことは、一種の奇跡と言ってよい。
西欧で一番古い木造建築でも、法隆寺よりは数百年も新しいので比較にもなにもなるものではない。しかもその建築や美術工芸には、シナの六朝時代(三〜七世紀)の影響のみならず、遠くギリシャ、東ローマ、ペルシャ、インドなどに起源があるものが少なくなく、六世紀の日本の大和の文化は世界的性格を具えていた」
「聖徳太子の秀才性と関係あることは小野妹子を遣隋使としてご派遣になり、また留学生を送られたことである。
太子はまことに日本的秀才であられた。
つまり外国文化の優秀性をただちに見抜く力と、その外国の長所は輸入しうるという自信を具えておられたのである。
これは、日本人にとってはあまりに当然のことなので、普通は意識にのぼらないことである。しかし、外国の例を考えると、これがまことに日本的稟質(ひんしつ)(筆者注=天からうけた性質)であり、しかもその原形が、太子によって作られたことが、よくわかるのである」
ポイントは、この「日本的稟質」というものが、外国の良さに敏感でかぶれ外国礼賛一辺倒になってしまう、いわゆる「アメリカ出羽守」的なあり方とは真逆だ、というところだ。
「太子が仏教を学ばれたのは、高麗から来朝した慧慈(えじ)についてである。そのころは日本に文教が伝来してから、四、五〇年といったところで、まだそれを消化する伝統は形成されていなかった」
ところが、太子は二三年の間に「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」の注釈を完成し、それは「のちに唐に伝えられ、唐の僧によって、またの注釈書が作られた」ほど優れたものだった。
「太子は法華経のときなど、シナの僧の注釈本をテキストとして用いられたのであるが、それを正確に理解されたのみならず、納得のゆかないところは、『私釈少シク異ナリ』とか『今之ヲ須(モチ)ヒズ』とか、自主的見解を随所に差しはさまれておられるのである」
太子はただ頭がよいだけの天才ではなかった。
私は、率直に最善解を追求するという態度能力こそが「日本的稟質」だったのではないか、と思う。
著者が指摘する経学の天才であったことは、個人の能力に負うところが大であり、個人の能力として完結できる。
しかし、法隆寺の建立というような公共事業の場合、総合プロデューサーないし総指揮者としての手腕が問われ、様々な職能集団を束ねて指導しなければならない。集団運営、組織運営の能力が求められ、具体的には当時の先鋭的な職能集団である帰化人との恊働能力が必要だった。
また、法隆寺が現代にまでその威光を放っていられるのは、大陸伝来の木造建築技術を日本の風土や建材に合う形で改良したからと思われる。
そうした最善解が日本の木造建築技術のスタンダードになり、また最新知識と現場の創意工夫を合わせて最善解を追求する姿勢が日本の匠の態度能力の理想になり、この両方が後々まで綿々と継承された。
それが、法隆寺をはじめとする神社仏閣の古建築が、様々な備品の工芸品とともに現代にまで、物理的にもそれらを作るノウハウ的にも維持され改良されてきているベースになっている。
そのような文化的遺伝子は、著者が例示するイギリス由来のウイスキーや、誰もが知る南蛮由来の鉄砲の量産化、現代の欧米由来のアニメやファッションに繋がっている。
すべて模倣から始まるが、ある時点でブレイクスルーのパラダイム転換をすることで本家に勝っている。
ただ、聖徳太子のような高貴な伝説的天才と、優秀とはいえ一般庶民の匠とを同列に論じるためには、「文化的遺伝子」などという抽象的な説明では済まされない。
そこで注目されるのが、若かりし頃の太子の実像である。
五木寛之氏がその著「霊の発見」で鎌田東二氏と以下のような対話をしている。
長いが引用しよう。
五木
「加古川の鶴林寺に、聖徳太子像があるんですけれども、その聖徳太子像は、髪はねじれたざんばら髪で、まさにヒッピーか行者のようなんですね。(中略)
もうなんとも言えない、婆娑羅な姿なんですよ。(中略)
聖徳太子が、なにかやっているときの形相に思える」
鎌田
「修行?(中略)
まさに修験の姿ですね、それは。いま山開きの話が出ましたが、聖徳太子には、そういうプロの行者のモデル的側面があると思うんです」
五木
「いわゆる仙童、仙人につかえる子どもだったともいいますね。
歴史学者の井上鋭夫さんが太子研究をやっていますね。太子と呼ばれる人びと、渡り職人などもそうです。彼らの太子信仰、尊敬する太子は、功成り名を遂げた聖徳太子ではなく、ひょっとしたら自分たちと同じ、放浪者としての聖徳太子に対する憧れではなかろうかと。私もつくづく、そう思うんですね」
鎌田
「聖徳太子は、大工にせよ板前にせよ、技芸の徒の祖のような位置にありますしね」
五木
「板前さんたちも、尊敬していますね」
鎌田
「『日本書紀』の中では、もうすでに、神仏習合のモデルを聖徳太子がつくったように書かれています。
小さいときから、未然のことを知る能力があったとも書かれています。予知能力ですね。
聖徳太子は、神道的なシャーマン的能力をベースに持っていて、そこに儒教や仏教で学んだことをミックスしているのかもしれない。
ですから、聖徳太子のベースは、神道的なシャーマニズム、その上に仏教、儒教を加味しながら、仏教思想を中心にして、日本の中央集権的な国家体制の、芯をつくっていったと思えるんですよ。
心の教えとしては仏教(筆者注=因果律にのっとった<知>)、社会組織論としては儒教(筆者注=共時性にのっとった<意>)。
しかし、その根っこにあるのはやはりシャーマニズム(筆者注=縁起にのっとった<情>)」
五木
「私たちは、聖徳太子を、日本のインテリ階層の代表みたいな人物と考えてきたわけですが、そうではないんですね。
たとえば、大阪の四天王寺は、和宗ですね。あそこには聖徳太子の堂がある。
四天王寺を建てるときに、聖徳太子が現場に立って、大工の棟梁たちを指図して図面を引き、ここにはこういう柱を埋めろとか、細かいことまでやったらしい。そういう伝承があって、いまでも大工さんたちの組合が、講で聖徳太子のお参りに来るんだそうです」
五木
「これまでの、歴史の教科書が教える聖徳太子というのは、非常に線の細い、最期に滅ぼされる、悲劇的なインテリのような、ちょっとハムレットみたいな感じがするんですが・・・」
鎌田
「じゃないですよね」
五木
「そうじゃないと思いますね。滅ぼされて、唯物是心とか、世間虚仮(筆者注:この世にある物事はすべて仮の物であり、仏の教えのみが真実である、という聖徳太子の言葉)では、なにか頼りない感じがあるけど」
鎌田
「聖徳太子は、呪術をしています。まちがいなく。
『日本書紀』を読むと、物部氏と戦うときには、四天王の力を駆使してます。まさに調伏、降伏させるような呪術をしているんです。白木の仏像を頭に立てて、祈祷のようなことをするんですね、そういう呪術力をもっているんですよ」
五木
「ああ。それは十六歳の聖徳太子でしょうね」
鎌田
「まさに異様な力を駆使しながら、日本に呪術的な仏教の力を示していった人だと思うんです」
五木
「私は、不思議で不思議で、しかたなかったことがあるんです。
まだ若かったころですが、いわゆる賎民に属する人たち、あるいは被差別の、船頭とか木地師とか、そういう人たちのあいだに、聖徳太子の信仰があった、向こうは雲の上のエリート、それなのに、なぜ聖徳太子を信仰するのだろうかと。
けれども、聖徳太子の原像というのは、もっともっと地上に密着した、低いところにあったという実相をつかんだとき、なるほどと納得がいったのです。
ほんとうは、雲の上の人ではない。
のちの斑鳩の悲劇が、ロマンチックな聖徳太子像をつくりだしているんですね」
鎌田
「聖徳太子というのは、謎の多い人物で、日本人の象徴的な原型を示していると思いますね。最近は、聖徳太子非実在説まで出てきました(笑)」
五木
「われわれが抱いている聖徳太子のイメージは、明治以来の富国強兵と軍国教育でつくられたんですね。
江戸時代、いや、もっとむかしの時代の聖徳太子は・・・」
鎌田
「ちがうイメージですね」
五木
「下克上の民というか、被差別の中で、腕ひとつで生きていくような人たちに、憧れられる要素をもった人物だった。
日本列島には、聖徳太子の実像を語りつぐ、歴史の表舞台には顔を出さない闇の人びとのネットワークがあるのではないか。私は、こんなふうに思うところがあるんです」
鎌田
「技芸やドロップアウトの人たちを全部、講として集約するようなオーガナイザーとして、まさに五木さんの『嵐の王国』のオーガナイザーみたいな、そういう闇の世界を支配していた人。
表の光から陰に追いやられていく一族たちを、全部そこに集めるような」
五木
「異能者、超能力者、霊能者。みな共通する何かをもっていたのでしょう。
大師信仰もそうですね」
鎌田
「空海も、役行者もそうでしょう。
行基もそういう力をもっていたと思いますね。
日本人がなんで大師信仰をもっているのか。山岳の開山は、いちばん多いのが役行者と空海ですね」
五木
「温泉伝説も多い。ここに杖を立てたら温泉が湧いたという」
鎌田
「そう。行基も多いですね。
この三者には、民衆の想像力を喚起していく力の源がある」
五木
「あるのでしょうね。彼らの霊力のほとばしりを、旅の先々などで出会った人びとが感知し、一つの伝説を編んでいったんだと思います」
私は、2つのことを指摘したい。
1つは、「呪術力」と言い伝えられたことの太子の実相についてである。
「呪術力」と言い伝えられたのは、現代の私たちも想像してしまうような祈祷や呪詛といったオカルティックな非日常的な場面があったからだろう。
しかし伝説として流布したのは、その場面に遭遇しなかった大多数の人々に、さもありなんと思わせる事実が突きつけられたからと考えるのが自然だ。
タンジュンに言って、法隆寺を見た人々が、現代でいえばスカイツリーに相当する先端技術の結集を目にしてこんなものを建てる日本のメーカーは凄いと思うように、聖徳太子を凄い、「呪術力」があると言われるてるのは本当だろう、と思った。さらに、当時の建設工程をみてない大多数の人々の中には、法隆寺は聖徳太子が「呪術力」で建てたと短絡する者もいたことだろう。現代人でも、ピラミッドやマヤ遺跡は宇宙人が作ったと信じている人がいるように。
また、建設現場で聖徳太子の一挙手一投足をみた人たちにとっては、つまり彼らの日常的な場面では、稀少な道具や知識や技芸が驚異的と目に映る効果を発揮すると、それを「呪術力」と捉えた可能性が高い。
古代には今のような科学とか技術といった概念自体がなかった。それは日本だけでなく洋の東西を問わない。科学も技術も芸術もみんな一緒くたで「もの作りの呪術」だったと言ってもいい。
たとえば、西洋の錬金術の起源は古代エジプトの冶金術にあると言われる。古代ギリシアで、アリストテレスの質料・形相論から、卑金属の形相をとり質料因としこれに形相因を与えて金にするという理論がアレキサンドリアで発達した。これにはアリストテレスの四元素説(火・地・空気・水の4リゾータスがアルケーとして万物を構成しているとする)が影響を与えた。このことから類推して、古代エジプトの冶金術も、中国の陰陽五行に基づいた漢方薬づくりと似通った、いわば「呪術の知的体系」だったのではなかろうか。
法隆寺のような建物をつくるには、帰化人の大工が渡来して働くことが大前提だが、彼らが技能だけでなく金属製の工具をもたらしたことは言うまでもない。
そして、この金属製の工具自体が「呪術の知的体系」の産物であり、かつその製造過程も製造者である鍛冶本人自身も呪術と捉えていた。シャーマンとして「神聖」なる権威をもった天孫族が鍛冶部族とされたし、人類普遍に鍛冶師は部族社会で呪術師的な位置づけを得ていた。
鉄製品について、日本史のポイントに触れておこう。
「鉄製品(日用生産工具、副葬武器、装飾品)、鉄器生産のいずれを挙げても弥生終末期まで、ヤマトはエアー・ポケットのような状態だった」
「鉄に関わる技術・文化の波は西から、北から押し寄せるものの、それらを十分に享受することはなかった」
それが、古墳時代(3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指す)になったとたんに突如としてヤマトに鉄文化、製鉄技術が花開く。
「威信性や象徴性に比重をおいた形で、鉄文化の充実を目指したがために」
古墳時代前期後半以降からにわかにヤマトにおいて古墳への鉄器埋納ブームが起きたという。
つまり、鉄製品自体が、呪術や祭礼との深い関わりで捉えられていた。
法隆寺のような精密な木造建築をつくるための精緻な木工工具は、当時、鉄製産技術の最先端であり、古墳副葬武器の技術レベルからかなり発展した段階のものではあろう。しかし、鉄製品生産の工程や、武器や工具の巧みな使用が呪術であると、あるいは呪術の働きを利用したと看做されたとしても、当時まだ色濃く残存する<部族人的な心性>からすれば不思議はない。
現代人の私たちでさえ、巧みな製品や製品の巧みな使用のことを「神懸かり」と表現するが、それは当時の人々が同じ印象をもって文字通りの捉え方をした名残なのかも知れない。
以上のことから、
鎌田氏が太子のことを「呪術的な仏教の力を示していった人」と言うのは、太子が寺院や仏像の建立において当時の「ハイテクノロジーをオーガナイズした人」というのと同義と捉えていいと考えられる。
また、四天王寺の言い伝えで「現場に立って、大工の棟梁たちを指図して図面を引き、ここにはこういう柱を埋めろとか、細かいことまでやった」というように最新技術の導入指導をした聖徳太子も、それに従ってうまくいくのを目にした現場の人たちからすれば、「呪術的な仏教の力を示していった人」であった。
聖徳太子はその生い立ちと政治家としての人生からして、何らかの修行をして呪術的な力を会得したとは考えにくい。
私個人の想像は、聖徳太子は当代随一の「都会っ子」で、子供の頃から様々な先端技能をもった渡来人の仕事場に出入りしていてそこを遊び場にして育ったのではないか、というものだ。
明治時代の皇族の子息がお雇い外国人が作業する現場に足を踏み入れ、好奇心にかられていろいろ習い聴く、そういう感じだ。
五木氏が触れた「髪はねじれたざんばら髪で、まさにヒッピーか行者のような」聖徳太子像は、工事現場を遊び場なり学び場にしていた姿なのではなかろうか。
純真無垢な子供は多感な好奇心が先立ち、漢語の学習や学問にも自主的に精が出てしまう。努力ということもなく楽しみながら学習する習慣がついていく。
後の中大兄皇子(天智天皇)の逸話として百済人と直接話せたといわれている。聖徳太子も帰化人との現場対話を日本語と朝鮮語のチャンポンでできた公算は高い。周知の、聖徳太子は十人の話を聞き分けた、という言い伝えについて、十の言語を話せた、とする説もある。
そして、教材は東アジア文化圏の最先端の現場と現物であり、教師も帰化人という最先端のエキスパートであり、何より聖徳太子が高貴な身分なのだから懇切丁寧に手取り足取り噛み砕いて教えてもらえた筈なのだ。
今で言う「地頭力」のずば抜けて良かった聖徳太子は、天才的な資質もあったのだろうが、天才を開花させるに際してこうした学習環境が大きく作用したと想像する。
鎌田氏がいう「小さいときから、未然のことを知る能力があった」「予知能力」というのも、周囲の文官の大人が知らない言わば理工系の先端知識を現場学習や学者である「僧」から得ていた太子がそれを使って予測して言い当てたことに驚いた、元ネタはそんな類の話だったのかも知れない。
つまり太子の修行とは、山岳を駆け巡る修験道のそれではなくて、日々、現場で未知の見聞を広め知識だけでなく実地に体験的に自分のものとする、そういう知的修行だったと考えられる。大自然の中での修験者修行とはまったく性質を異にする。
自然体の主体的な日々の探求の繰り返しは、当時の日本では他の誰も経験できない現場実習の英才児童教育であり、幼い頃から太子は天真爛漫に自由奔放にそして活動的に学習した。その活動的な印象が口伝えされていく中で「山岳を駆け巡る修験道」のイメージをダブらせていったのかも知れない。
ただ見ようによっては、「気の流れ」の活性化ということでは、大自然と身体を媒介に対峙する修行と、純真無垢な好奇心に導かれるまま現場実地体験を重ねることとには、一脈通じる価値観なり感性と言える。
何が言いたいかと言うと、
修験道の修行が、「気の流れ」を自分の身体と大自然で還流させて活性化する個人的側面が強いのに対して、
太子の修行は、「気の流れ」を現場で多くの多様な人々と関わりを理想的な学習関係や恊働関係として活性化する集団的側面が強い、
と対照的ではあるものの、
ともに「気の流れ」の活性化を自分の心身を起点に図っていくことは同じで人的活動として隣接している
ということだ。
太子の後々の功績を見れば明かだが、太子は総合プロデューサーなり現場総指揮者としての能力を発揮した。それは具体的には、森林の伐採作業から建築現場の大工作業までの、木や鉄製の道具をめぐる人的活動を総合的に組織して統括したということに他ならない。
聖徳太子にしても、空海にしても、行基にしても、オカルティックな呪力・神通力があったとされるのは、そのような非日常的な伝説の場面が実際にあったというよりも、「稀少な道具や知識や技芸が人々にとって驚異的と目に映る効果を発揮することが呪術と看做された日常的な場面」を実際に間近で見た多くの人々がいて、その事実が背景なり裏付けとなって伝説を形成したと考えられる。
私が指摘したいいま1つは、
聖徳太子の「職能集団直轄」が日本人の集団独創モデルになったことである。
ヤマト王権が律令制度を導入しながら温存した従来制度に「供御人」がある。
「供御人」は天皇に直属して全国の海の幸山の幸の初物を献上する役目だったが、通行税を免除されるなど交易上の特権を与えられていて、天皇の私的な経済基盤、情報収集ネットワークでもあったと想像される。
律令制導入で、中国式の科挙を除いた官僚体制となって(ちなみに宦官も除かれた)、米の徴税がピラミッド型の権力構造として垂直軸で効率化された。米以外の生産物もこの体制で租庸調の「調」で徴税した。
一方、それとは別途に天皇直轄の「供御人」体制において初物の供犠(くぎ)を受け入れた。それは天皇が権力構造のピラミッドの頂点に立つ位置づけではなくて、天皇が「供御人」と水平軸で交流しうる祝祭的なネットワークの中心に立つ、権威構造の同心円の中心と周縁を前提にするものだった。
つまりは、シャーマンと民との関係性である。
同心円の水平面から垂直軸で上に位置するカミに対しては、人間はシャーマンも民も同じ水平面という立ち位置にある。ここが中国式の皇帝と天皇との大きな違いであり、天皇直轄の「供御人」体制は律令制の枠外でこうした民との関係性を保持したことになる。
律令制度を導入しながら従来制度「供御人」を温存した意味合いはこれである。
「供御人」に与えられた全国を自由に安全に往来する特権は、政治的なものと言うよりも、天皇や神仏の権威によって保証された宗教的なものとして始まっている。
天皇と「供御人」の直接的関係と、聖徳太子と「多様な職能集団の帰化人」の直接的関係とは構造的に似通っている。
「供御人」の初物の供犠に対して通行税の免除などの交易上の特権を与えたように、
「多様な職能集団の帰化人」の先端技術の供与に対して生活や雇用の保証を与えたのではあるまいか。
具体的には諸国の社寺建立に携わる便宜を図ったということである。
そして、
「供御人」が天皇の私的かつ直接的な経済基盤や情報収集ネットワークだったように、
「多様な職能集団の帰化人」は聖徳太子の私的かつ直接的な情報収集ネットワークや知識集積ネットワークだったのではあるまいか。
具体的には、寺社建築の場合、多様な職能集団は物件ごとに異なる諸条件があってそれに対応する最善解が編み出されていく訳だが、その知識をこのネットワークは蓄積していった筈なのだ。
ちなみに日本最古、いな世界最古の企業は578年創業の株式会社金剛組である。(現在は高松コンストラクショングループの子会社。)
四天王寺建立のため聖徳太子によって百済より招かれた3人の宮大工のうちの1人である金剛重光により創業された。江戸時代に至るまで四天王寺お抱えの宮大工となる。
ゼネコンの走りとイメージすれば、東京に本社があるゼネコン大手のような位置づけで、地方には中堅ゼネコンがあり、さらに遠隔地の現場を渡り歩く下請け業者があるように、大工集団も分散分布していったのだろう。またゼネコンにセメントや鉄骨を納品する業者に相当するのが、木地師のような木材の生産流通に携わる職能集団である。
太子信仰がこうした人々の間にあることは、太子と彼らの深い関係に由来するのは間違いない。
木地師の絡みで重要なのは、その古代の源流である「杣工(そまたくみ/そまく)」のネットワークが情報収集組織にもなりえたことである。
「杣(そま)」とは、古代から中世にかけて律令国家や貴族・寺社などのいわゆる権門勢家が、造都や建立など大規模な建設用材を必要とする事業に際して、その用材の伐採地として設置した山林のことである。
そして「杣工」とは、杣において伐採や製材に従事した者のことである。
たとえば、「富山の薬売り」が加賀前田家のスパイだったという説がある。藩財政の補足のために行商を組織し、約二千人の行商人が二十二組に分かれて全国を回ったが、経費がかかる割に利益が少ない商売だったという。それゆえのスパイ説である。
また、武田信玄は、巫女頭に任じて200~300人の少女を集めて巫女養成所を作らせ、忍びの訓練を受けた少女たちが「歩き巫女」となって全国を回り、情報を収集したといわれる。
為政者が移動民を組織する際に、情報収集ネットワーク化を図ることは珍しくないし、許認可の条件とすれば容易に構築できる。
一般に轆轤(ろくろ)を用いて椀や盆等の木工品を加工、製造する職人のことを言う「木地師」については、そもそも皇族との関係や移動民性が指摘できる。
皇族との関係は、すでに触れたように「杣工」を源流とすることだ。
具体的には、9世紀に近江国蛭谷(現:滋賀県東近江市)で隠棲していた惟喬親王が、周辺の杣人に木工技術を伝授したところから始まり、日本各地に伝わったという伝説がある。
移動民性とは、木材の流通業者が商工拠点に定住するのに対して、木地師には移動性があったことである。
細かくなるが触れておきたい。
石川県加賀市山中温泉真砂(まなご)地区は、惟喬親王を奉じる平家の落人の村落と伝わっていて、時代を経て何通りかの御綸旨(ごりんじ/蔵人が天皇の意を受けて発給する命令文書)で森林の伐採を許された主に木地師たちの小村落であったり、山中漆器の源とされる。朝倉氏の庇護もあったが天正元年の一乗谷城の戦い以降は庇護が無くなり一部の木地師たちは新天地を求めて加賀から飛騨や東北地方に散って行ったとされる。明治初期までは、全国各地で朝廷・幕府の許可を受けた木地師達が、良質な材木を求めて20〜30年単位で山中を移住していたという。
木地師の源流である古代の「杣工」の一部も、寺社建立ニーズの増大に応じる形で、近畿地方を中心とした周縁エリアでこうした20〜30年単位の移動をしていた可能性が高い。
末端の「杣工」ほど、信仰にすがらねばならないような過酷な環境条件を暮らしたから、彼らの継承によって太子信仰が後の木地師の間にも浸透定着していったのではあるまいか。
また、天皇や聖徳太子のような皇族が、「杣工」の拡大とその移動性を利用して情報収集ネットワークを構築したとしても不思議はない。
たとえば、皇室と氏族が、あるいは公家と寺社が対立する時代に、どこの誰がどのような木材発注をしているか分かれば、その資産状況やどのような規模のどのような建築を建てようとしているかを中央だけでなく地方においても把握できた。
「賎民に属する人たち、あるいは被差別の、船頭とか木地師とか、そういう人たち」
「下克上の民というか、被差別の中で、腕ひとつで生きていくような人たち」
に太子信仰が広まっていた背景にはこんな経緯があり、
敢えて深読みすれば、太子の呪術力伝説を強化することで、遠隔地を定期的に移動する末端の「杣工」のネットワークを維持した、とも考えられる。
法隆寺や四天王寺の建設で、太子は実際に最高品質の木材を伐採させ納品させることを、この「杣工」のネットワークで可能にしたのであるが、これがその後の寺社建立ニーズの増大とともに拡大していく。天皇や皇室が最高品質の木材を優先的に入手できるようになれば、権威と権力を示すにおいて大氏族よりも有利となる。
総合ブロデューサーに求められる不可欠の資質は、①知識や情報の他に②人、③モノ、④カネの確保である。
太子は、
①都会っ子として現場学習した
②その時からの多様な職能集団の帰化人の人脈を活かして人を確保し、
②周縁にまで広がる「杣工」のような移動民や山間民のネットワークで最高品質の建築資材を確保し、
③仏教興隆の必要を説いて公共事業予算を確保した。
そして建設現場では、総指揮者として先鋭的知識の結集による最善解の打ち出しに尽力した。
つまり、総合プロデューサーとしての用意周到なバックボーン作りがあった上で、博学聡明な総指揮者としての現場力や多様な職能集団の統括力を発揮したということではなかろうか。
よって、法隆寺や四天王寺の陣頭指揮しての建立とは、単なる神懸かった天才=「稟質」とは違う次元の事柄と言える。
私は、
ここにはむしろトップが高貴な神懸かりの天才でなくても成り立つ
大事業を組織や集団が達成するべくトップが職能集団を直轄する日本型集団独創の源流がある
と考えたい。
そしてそれは、
日本型の集団志向の2タイプの内の、
垂直軸で定住民と定住社会を前提とする「集団を身内で固める<家康志向>」ではなくて、
水平軸で移動民と移動社会を前提とする「自由に活動する個々を適宜に集団に構成する<信長志向>」だった。
(5)
http://cds190.exblog.jp/19859745/
へつづく。