こんな今だから「グローバル・ヒストリーの視角」が役立つ(6) |
本項(6)も引き続き、本書「第2章 勝てない『中国化』勢力-----元・明・清朝と中世日本」を検討する。
「銀の大行進」と織田信長と豊臣秀吉
天下統一目前の信長が重商主義を鮮明に打ち出し、国際商人を大名にとりたてる(「信長志向」)などしていた時、信長から賜る名物が茶会を主催する資格とされた。
ある功臣は報償として関東管領(かつて上杉謙信が任ぜられていた)を命ぜられ名物をもらえなかったことを泣いて悔しがったという。
重商主義の信長の下、茶会が主催できるとは、身分の垣根を超えて多様なキーマンとの自由な交渉を許されることであり、商業や交易を促進する経済官僚化することを期待される、ということだったのではないか。
残念ながらこの家臣は、旧態依然の農本主義の領国における地域密着型ガードマンに精を出せと言われたようなもので、信長が進めようとしていた新しい社会づくりの人事から外されたと感じたのではなかろうか。
ここで注目すべきは明智光秀である。
光秀は、将軍家との外交官の役割と、転戦指揮官の役割をこなしていた。
後者においては、後に地域密着型ガードマンにされてしまう家臣たちと各地の戦場で共に闘ったのだから彼らの信頼も厚かったと推察される。
つまり、
<権威と権力の分離>を自分と信長の間にも、信長と天皇の間にも想定し続けようとした将軍家、
そして、
農本主義体制で領国支配者としての地位を高止まりさせたい地域密着型ガードマン系の家臣たち、
光秀はこの両方の意向を担って謀反に至ったと推察される。
謀反後に自分を支えてくれるだろう勢力の前提があった筈だからだ。
この私の守旧派の存在についての推察は、前項(5)で触れた著者の室町幕府の宿老たちについての論述と同じ論理である。
「ポスト宋朝時代の中世日本というのは『時々だけ中国に似た政権が樹立されるのだが、おおむね短命に終わる』という独自の地政学的状況にあった」
その逆に、
「宋代以降の近世中国とはしごく稀に日本に似た政治体制が構築されるのだが、すぐまた壊れてしまう地域だと思っておけばいいのです-----この『しごく稀』な例外の一度目が、モンゴル帝国崩壊後に成立した明朝でした」
著者の言わんとすることは分かるのだが、「日本に似た政治体制」ということは限定的にしか当たっていない。
明朝も<権威と権力の一致>が貫徹する皇帝制という点で、日本と根本的に違う。
また、著者の用語法で言えば「反中国化」を完成した江戸の幕藩体制だが、じつは「日本に似てない」と言うべき清の統治機構にそっくりだったことがグローバル・ヒストリーのプロの歴史家によって明らかにされていたりもする*。
だから著者の言わんとするのは、「中華型」も「モンゴル型」も「アメリカ型」も一緒くたにした「いわゆるグローバリズム」という一点だけのこととして理解できる。
(*「世界史を書き直す 日本史を書き直す 阪大史学の挑戦」(和泉書店刊)という本の「第五章 大清帝国と江戸幕府-----東アジアの二つの新興軍事政権-----」で、杉山清彦氏は、軍制である「八旗制」が中国支配開始と同時にそのまま帝国の支配体制となったが、その「八旗」「旗人」と江戸時代の旗本や武士とが類似性を示していることを具体的に解説している。
示唆的な内容を含むので長く解説したい。
「八旗とは、比喩的にいうならば親藩のみで構成された幕藩制だといえるでしょう。
この体制はべつに満州伝統というわけではなく、ヌルハチが統一戦のなかで作り上げたものでした」
さらに、
「日本の幕藩制国家を念頭におきつつ、満州人王朝としての政治組織・支配機構・身分秩序を」検討する冒頭でこう述べている。
「一般的な理解では、(中略)日本は武人である武士が全国を分割支配する封建国家、これに対して明と清は、科挙試験によって採用された儒教知識人が文官として統治に携わる中央集権国家で、朝鮮もこれに準ずるとされ、およそ日本とは対照的であると説明されます(筆者注:著者の『中国化』しそこねた日本という捉え方もこれ)。
しかし、これはあくまで中国内地の漢人社会のみを念頭に置いた比較であり、清の支配層たる満州人を正面から捉えたものではありません」
異民族による征服王朝は、外からみれば統治者であり「中華型グローバリズム」の体現者であるが、それを運用する王朝内部の機構には当然、それとは異なる側面がある、
という当たり前のことに気づかされる。
アメリカのホワイトハウス内部には、あるいはそれに影響力を持ちうる世界では、「アメリカ型グローバリズム」とは異なる次元のメカニズムなりダイナミズムが働いている、と置き換えればしごく当たり前のことだ。
この当たり前を私たちは機械論的な抽象において見落としがちであると反省する。)
著者は「銀の大行進」絡みの極東情勢をこう解説していく。
「モンゴル帝国が衰えたのは、銀不足により紙幣に依存した結果、経済が混乱したためだと見られています。(中略)
モンゴル人を北方に追いやって明朝を建国した朱元璋(洪武帝)は、銀に依存した経済政策こそ某国の元凶と見なして、中国史上珍しい『反グローバル化』政策をとります。(中略)
これが里甲制で、移動の自由を廃止して民衆を地元の『戸』に縛りつけ、就業の自由も取り上げて各戸ごとに生産物資を国家が公定して世襲させ、複数戸で連帯責任を組ませて逃亡は許さない(筆者注:上からの「家康志向」一辺倒化)。
徴税も物納方式に戻し、地域の有力者を里長に任命して秩序維持に当たらせる。おまけに海禁政策をとって私貿易を取り締まり(筆者注:上からの「信長志向」排除)、海外交易は朝貢形式でしか許さない。(中略)
要は江戸時代です。
中国大陸で後の徳川日本のような社会の建設をめざしたのが、明という例外的王朝といえましょう」
「ところが中国人は宋朝以降、自由(というかむしろ、好き勝手)の味を知ってますから、(中略)地域を越えたネットワークを活かしてどんどん闇経済に逃亡、大陸沿岸部は(中略)密貿易を牛耳るマフィアの温床と化します。
このマフィアの呼称がかの有名な『倭冦』で、特に後期倭冦が日韓中の混成部隊となった(筆者注:下からの「信長志向」)のも理の当然でしょう」
「明朝中国は、なぜそうまでしても自由市場を規制しなければいけないのでしょうか?(中略)銀不足が元朝衰退の要因となった歴史に学ぶがゆえですね。
だとすれば、銀さえ十分にあるなら無理をしないで済むわけです。(中略)そう熱望しているところに、本当に銀が出てきてしまう。どこで?-----ひとつは石見などの日本の銀山、もうひとつはポトシ銀山(現ボリビア、1545年開発)をはじめとした、ラテンアメリカのヨーロッパ植民地です」
「かくして西はラテンアメリカから東は日本まで、全世界の銀がブラックホールに吸い寄せられるが如く中国へ一方的に流入するという、1500年代後半の現象を『銀の大行進』と呼びます。
これがその後の世界を変えたのだというのが、現在のグローバル・ヒストリーの一番の基本軸です。(中略)
これまで見たこともない大量の銀が、中国へと向かって文字通り世界中から雪崩れこみ、その逆に絹や綿布や陶磁器や香料や薬草といった超高級品の数々が、山のように中国から世界へと溢れ出ていくわけです。(中略)
かくして、日本で戦国時代と呼ばれる16世紀(1501〜1600年)は、実は全世界が戦国乱世になります。
中国では、伝統的な倭冦マフィアのほかに、毛皮と朝鮮人参の交易路を押さえた満州マフィア(後の清朝)、東南アジアからの銀ルートに立脚した台湾マフィアやイスラーム・マフィア、新参者の南蛮マフィア(ヨーロッパ人のこと)がシノギを削り」
ということになった。
「中国では、銀が大量にチャージされたため、遠隔地間の取引はコンパクトに持ち運べる銀で済ませ、重たく不便な銅銭は近郊での日常業務だけに用いるようになります。
その結果どうなるかというと、日本に銅銭が入ってこなくなる。
あの後白河・清盛・後醍醐・義満といった『中国化』政権の権力の源泉だった、中国銭の流入ルートが根本から断ち切られた結果、一度は銭納化されたはずの年貢をやっぱり米で納めるという逆行現象が生じて、究極の自給自足的農業政権である徳川幕府ができるわけです」
「一方、『銀の大行進』がヨーロッパにもたらしたのが、かの有名な産業革命です。
南米のインディオ奴隷を文字通りタダで酷使して分捕った銀で、世界文明の中心たる中国から高級品を買いまくっている(中略)。といっても、銀の在庫はいつかは切れるわけだから、こちらも中国に何かを売りつけて銀を取り戻さない限り、現在の身分不相応なゴージャス生活は維持できない。
かくしてイノベーションへの欲求が生まれます(中略)。
そして好都合にも、これまで見たことのないような銀の大量流入でインフレーション(価格革命という)が起きた-----逆に、モンゴル時代から銀経済に慣れている中国では、インフレは起きません-----ことで、同時に投資チャンスもできる。
長期にわたるインフレというのは、要は今借金をしても返済時には負債が大幅に目減りしているということですから、ここは一発、大規模に資本を投下して起業してみるか、という話になる。こうして産業資本主義が生まれ、『世界の辺境の後進地帯ヨーロッパが、文明の中心たる中国を追い抜く』という奇跡の逆転劇が起きたというのが、現在の西洋史の通説的理解です」
ヨーロッパの資本家が安く手に入る銀を元手に、銀価格が固定した中国で効率的な投資ができた。1997年に起きたアジア通貨危機が、タイのドルペッグ制離脱が引き金になったことを思い起こされる。1990年代、アジアの多くの国が自国通貨をドルに連動させる通貨制度を採用していた。その結果、“為替変動のリスクを取らずに投資できる”メリットからタイなどにアメリカを中心とした潤沢な海外マネーが流入するようになり、設備投資(住宅・不動産など)の増大を通じて経済成長に大きく貢献した。要は、このドルを銀に置き換えて欧米側ではどんどん安く手に入るようになった状態、そしてタイを中国に置き換えて地元側の設備投資はインフレではないから進まず、進出する産業革命後の欧米側だけが自ら鉄道などを筆頭に設備投資に乗り込んできた状態、と想像してほしい。
これは凄まじい世界経済のダイナミズムだった。
列強の中国進出は、経済主導で起こった政治的そして軍事的な事態だったことを、歴史の教訓として私たちは忘れてはならない。
こうして疲弊していく中国に対して後に日本も軍事的にそして経済的に侵攻していき、経済的に後発したアメリカと満州利権で対立、国際連盟脱退に繋がっていく。日本は、国際連盟とは中国を収奪してきた欧米列強の牙城であるとみなした訳だ。
これは重視すべき一面の真実であって、常任理事国であった日本は、第一次大戦後の連盟設立に際し、人種あるいは国籍如何により法律上あるいは事実上何ら差別を設けざることを約すという「人種差別撤廃条項」を盛り込もうと提案、欧米列強から退けられている。
日本がすべて正しかったとは言わないが、重視すべき一面の真実を知らずに済ませることは「自虐史観」に属するだろう。
本題に戻ろう。
「銀の大行進」の世界情勢の下、織田信長はどのようなグローバル化を構想していたのだろうか?
信長がワンマンにして短命だったため、そのヒントは、著者の論述するような豊臣秀吉の言動に求めるしかない。
ただ私は、信長のヴィジョンを秀吉がグローバル政策、国内政策ともに共有していたとは思わない。故に信長ならば、朝鮮出兵における秀吉と同じアプローチをとったとは思わない。
そのことを追々くわしく検討していきたい。
なお本書で著者は信長を評価しないと述べて、信長についての論及も最小限にとどめている。
「清朝は、明朝の後半、東シナ海周辺の闇経済の利権をめぐる勃興マフィア勢力のどうしの『仁義なき戦い』を制した、満州族が建国したものです。
そもそも最初に先手を取ったのは、分裂抗争していたさまざまな組の大合同を達成した日本マフィアでした-----これがいわゆる、豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592〜98)ですね。
秀吉の狙いは、最低でも朝鮮半島をシベリア近辺まで征服して環日本海貿易圏を独占し、可能なら寧波(今日の上海対岸にあたる、当時最大の貿易港)に自身の根城を移して東南アジア交易をも支配下に-----というあたりにあったといわれています(中略)。
結局この野望は李氏朝鮮の抵抗と明の援軍の前に潰えますが、これでいよいよ明朝が疲労困憊したところに、鳶が油揚げをさらうごとく天下を穫ったのが、満州マフィアの愛新覚羅一家です」
清朝も、これまでの異民族の征服王朝と同様、中華思想にのっとった振る舞いをする。
「相手の信じている理念の普遍性をまず認め、だったら他所から来たわれわれにも資格があるでしょうという形で権力の正統性を作り出すやり方が、宋朝で科挙制度と朱子学イデオロギーが生まれて以降の、かの国の王権のエッセンスです」
「この清朝は、経済政策でも宋朝以降の路線に極めて忠実で、人頭税を完全に放棄して民衆の緻密な把握を諦め、貨幣流通の管理(たとえば銀と銅銭の交換レートの設定や、地域通貨的な紙幣の発行)も民間に丸投げするなど、ほとんど政府が社会のために何もしない究極の自由放任政策をとったことで知られます。(中略)
国家が再分配機能を放棄していますから、(現在の中国と同様)市場競争の勝者と敗者とのあいでに、絶大な格差が作られることになりました。
この場合、できる限り親族ネットワークのメンバーを増やしてサヴァイヴしようとするのが、やはり宋朝以降の宗族主義ですから、清代の中国は空前の人口増加を経験し、そして政府は万事レッセ・フェール(なすにまかせよ)で、それをコントロールする手段を持っていません。
すなわち、近年まで中国を悩ませてきた過剰人口時代の始まりであり、それがやがて、近代にはかの国の(一時的な)衰退を導くことになります」
私は、信長のヴィジョンを秀吉がグローバル政策、国内政策ともに共有していたとは思わない、と述べたが具体的にはこういうことだ。
(統治の原理や戦略の違いについて)
◯秀吉は信長の継承者を自負して重商主義を進めたが、その後の江戸幕府の農本主義の基礎づくりもしている。
信長も自身による天下統一後について、国内の幕藩体制的な間接統治と、対外的な朝鮮半島への拡張政策を構想していたとは思うが、その内容と秀吉が実際に行ったことには大きな隔たりがあったと考えられる。
その最大の理由は、信長は家康を配下に収めていたが秀吉は実質的に家康と敵対していた、ということを筆頭に、秀吉が信長のような言わば「絶対君主的な立場」には立てなかったことだ。
また信長ならば、自分が国内において「絶対君主的な立場」に立てない間は決して対外的な軍事政策を取らなかったのではないか、と信長の上洛への戦歴の着実さを見ても思えてならない。
「絶対君主的な立場」には立てなかった秀吉には3つのことが必要になった。
そして実際にそれを実行している。
①朝廷からの官位を得て豊臣家を権威づけること
②農本主義で領国支配を安定させたい勢力A
(国際交易のメリットを得られない戦国大名および武断派家臣)
と
重商主義で国内外の交易を盛んにしたい勢力B
(キリシタン大名や交易好立地を領国とする大名
および文治派家臣や信長が抜擢した国際商人上がりの大名)
との
バランスをとるバランサーとして両方から信認を得ること
③朝鮮出兵で外敵をつくり国内を自らの下で一体化すること
唐攻め、ないしは唐入りと呼ばれた侵攻は、
勢力Aに、海外領国の獲得を目指させ
勢力Bに、国際交易国家への変革によるその活動分野の拡大を目指させた。
*つまり大枠としては、
信長が絶対君主的に原理主義を徹底しようとして、
国際的な重商主義の下に国内的な農本主義をおいた
のに対して、
秀吉は2つの原理の折衷主義を
良く言えば臨機応変に悪く言えば行き当たりばったりで展開した、
と
捉えることができる。
◯信長が<権威と権力の一致>を可能な限り追求した
のに対して、
秀吉は<権威と権力の分離>を前提に自ら関白になって保身した。
◯信長が身分を問わない、
つまりは身分に流動性を持たせる<実力主義の個人抜擢>を最大限行った
(秀吉の引き立ても含む。また、信長は親族の粛正から着手している)
のに対して、
秀吉は刀狩りと太閤検地をして秀次に人掃令という戸口調査をさせ、
結果的に兵農分離を達成し身分の固定化を進めた
(秀吉は親族を重用していて当然、世襲制を前提。
一方、信長は短命にしてどうだったか不明)。
私は、信長ならば、朝鮮出兵における秀吉と同じアプローチをとったとは思わない、と述べたが具体的にはこういうことだ。
(朝鮮出兵の目論みと手順の違いについて)
*信長も秀吉も冊封国の朝鮮を攻めれば宗主国の明が援軍にくることは予測していた。
そして両者とも勝算あっての出兵だった筈だ。
大きな違いはそもそも対外政策のヴィジョンとそれに応じた入口戦略と出口戦略にあるのだろう。
◯信長短命のために、信長が天下統一後どのような朝鮮出兵をしたかは誰も分からない。
しかし信長であれば、長期的な対外政策ヴィジョンの一里塚を着実に確保することに専念し、そのために応分の報酬を参戦大名に与えられなくても彼らの不満をねじ伏せられる体制をもって臨んだ、ことは確かだ。
信長は京都に上洛するまで居城を移しつつ力を蓄えながら交通と商業の要衝をおさえながら西進した。また、敵城を攻める場合、付城で包囲する長期戦によって兵站を確保しながら兵力の損失を最小限にとどめる戦術をとって同時多発的な戦闘を総合的に展開した。
(参照:「『信長志向』の総括に信長が向かった経緯を確認する(5:結論)」
http://cds190.exblog.jp/15639570/)
信長が国内で示した侵攻パターンを地の利不案内の朝鮮で採用しないとは考えにくい。
一方、秀吉が実際に展開した出兵戦略の最大の特徴は、文禄の役、慶長の役ともに小西行長を主将とする軍と加藤清正を主将とする軍に戦功を競わせたことだ。
信長も家臣に戦功を競わせたが、
秀吉の場合、前述した
「②農本主義で領国支配を安定させたい勢力Aと
重商主義で国内外の交易を盛んにしたい勢力Bとの
バランスをとるバランサーとして両方から信認を得ること
③朝鮮出兵で
勢力Aに、海外領国の獲得を目指させ
勢力Bに、国際交易国家への変革によるその活動分野の拡大を目指させた」
という色彩が濃厚だった。
私は、豊臣政権の外部者の誰がみてもそれと分かる露骨なやり方をしていることに注目する。
信長も、釜山を橋頭堡として確保したに違いない。
また信長も、小西軍と加藤軍が恊働した漢城(ソウル)までは侵攻しただろう。
しかし、そこからいわゆる北緯38度線を越えて小西軍のように平壌に、加藤軍のようにオランカイまで一気に侵攻させたかとなると疑問の余地が多分にある。
私には、両軍の戦功争いを焚き付けた秀吉が、短期決戦によって、農本主義で領国支配を安定させたい勢力Aに海外領国の獲得を目指させたと思えてならない。
短期決戦は、明の援軍がくることへの対応と、国内でのバランサーとしての信認の維持という両方の意味がある。また、秀吉にも当然ブレインがいてその中には、元寇の功労者に報償を与えられなかったことが鎌倉幕府の崩壊を導いたことを教えた識者もいたかも知れないし、たとえいなくてもその程度の人間論の現実は教わるまでもなく下克上の時代を生き抜いた秀吉ならば了解していただろう。
◯そもそも信長と秀吉では対外政策の目論みが大きく違ったのではなかろうか。
「秀吉の狙いは、最低でも朝鮮半島をシベリア近辺まで征服して環日本海貿易圏を独占し、可能なら寧波(今日の上海対岸にあたる、当時最大の貿易港)に自身の根城を移して東南アジア交易をも支配下に-----というあたりにあったといわれています」
と著者が論述するように、秀吉はそうした目論みを公言していたのだろう。公言していないのに占い師のようなことを誰も言いはしない。
それは信長が秀吉ら家臣に言ったことなのかも知れない。そういうことから、信長と秀吉が同じ対外政策の目論みをもっていたと考えられがちだ。(信長のスケールの大きい構想という嘘、つまり虚構によって、それに比較してスケールの小さな朝鮮侵攻を受け入れられやすくした可能性も否定できない。)
しかし、そのような言辞は、今の日本でどんな政権も輸出大国にします、輸出大国を維持しますと言っているのと同じではなかろうか。大切なのは足下からどんな輸出振興策をするかであって、その具体性が政権によって違ってくる。
信長と秀吉でも朝鮮出兵の目論みに具体的な大きな違いがあって、それに応じた入口戦略に違いがあった筈だ。
そしてまともな入口戦略ならば必ず想定する出口戦略と連動している。
具体的にはこういうことだ。
日本軍が釜山を確保し漢城を陥落した時点で進軍を止めれば、半島北側に李氏朝鮮を残存させる、という日本側のメッセージを示すことになる。
一方、平壌を陥落した時点でさらにオランカイにも侵攻していれば、李氏朝鮮を下して半島全体を日本のものにするぞ、というメッセージを示すことになる。
この2つのメッセージは、宗主国明にとっての意味合いが天と地ほどに隔たりがある。
前者は明の冊封体制を否定せず、後者は否定しているからだ。
日本と明が講和するにしても、明から引き出せる講話条件が大きくことなってくるのは明らかだ。
こうした出口戦略の大きな違いが、信長と秀吉にはあったのではなかろうか。
私は個人的にこう思う。
信長ならば、
・まずは大陸に地歩を得ることを着実にすべく、漢城を陥落した時点で進軍を止め、半島北側に朝鮮を残存させる前提で明と講和交渉に入ったのではないか
・その際、秀吉がはねつけたのだが実際にされたように、明の使者が信長を日本国王に封じる旨を記した書と金印を携えて来日する事になったとしても、
すでに国内で将軍そして朝廷の権威を脅威としなかった信長は、たとえば半島南半に新しい国を打ち立てて実効支配する条件で、その国だけ建前的に明の冊封体制に下るといった当面の妥協点を探ったのではなかろうか
と想像する。
明の顔を立てた冊封体制を蹴飛ばすのは、半島南半で力を蓄えて半島北半を制圧した後にすればいい、それだけの話だ。
信長の交通=交易の要衝をおさえた居城を移しつつの上洛という着実な西進。
石山本願寺に手を焼いて天皇に調停を頼んで講和して後これを撃退した迂回策。
強敵である上杉謙信には恭順の意を示すなど。
信長の面子や建前など屁とも思わない現実主義者の一面を知る者としては、このような想像をしてしまうのである。
「小西行長と加藤清正の対立」にみる日本型集団志向の陥りやすい残念
とはいえ私が興味があるのは、死んでいた信長ならばどうしただろうとか、日本軍と朝鮮・明連合軍の実際の形勢がどうでどうして日本軍は敗退したのかといったことではない。
無かったことは無かったし、日本側と朝鮮側の研究成果を照らしても分からないことは分からない。
私が知りたいのは、あくまで人間論の現実である。
この観点から私が注目するのが、実際にあった「小西行長と加藤清正の対立」である。
「小西行長と加藤清正の対立」は一般的にあまり注目されず知られていないが、とんでもない事態を含んでいるのである。
たとえば、大日本帝国の陸軍と海軍が派閥争いが絶えず非協力的でさえあったことは知られている。しかし、陸軍が海軍を敵に売るということはあり得なかった。
しかし、小西行長は朝鮮半島で加藤清正を敵に売っているのである!
私は、追って解説するこの一事*をとってみても、日本軍そしてそれを支える豊臣政権そのものに、朝鮮敗退につながる内部要因があったのではないかと疑ってしまう。
先ず、「小西行長と加藤清正の対立」についてウィキペディアから関連事項を抜き書きしていこう。
それに至る経緯や当時の背景などを理解しなければ、そんなことがあったとは、そこだけ聞いても誰もにわかに信じられないからだ。
◯小西行長について
・文禄・慶長の役では、加藤清正と先陣争いをしたことが有名
清正に先んじて漢城を占領し、さらに北進を続け平壌の攻略を果たす
・関ヶ原の戦いでは、西軍の将として奮戦し敗北
・出自は、堺の薬を主に扱う商人である小西隆佐の次男として京都に生まれる
→岡山の商人の養子に
商売で出入りしていた宇喜田直家に抜擢されて武士になり家職として仕える
→羽柴秀吉が三木城攻めをしている際、秀吉が気に入り臣下に
・秀吉近臣時代
豊臣政権では舟奉行に任命され水軍を率いる
太田城の水攻めでは、安宅船や大砲も動員して攻撃し開城のきっかけを作った
・摂津の守を任ぜられ「豊臣」の姓を名乗ることを許される
・高山秀友に後押しされて洗礼をうけたキリシタン
小豆島ではセスペデス司祭を招いてキリスト教の布教、島の田畑の開発に積極的
バテレン追放令の際に改易となった高山右近を島にかくまい秀吉に諫言
・宇土城主時代
九州征伐、肥後国人一揆の討伐で、肥後南半国の宇土、益城、八代の20万石あまりを与えられた
宇土城普請に従わなかった天草五人衆と戦いになり(天草国人一揆)、これを加藤清正らとともに平定、天草1万石あまりも所領に
・秀吉は、後の朝鮮出兵を視野に入れて、水軍を統率する行長を肥後に封じたという
・当時、天草は人口3万の2/3にあたる2万3千がキリシタンであり、60人あまりの神父、30の教会が存在。イエズス会の活動に援助を与え保護
・行長の宇土城は水城として優れた機能を持っていたという
秀吉の意を受け、水軍指揮と海外貿易の適地であった八代に麦島城を築城(八代はルイス・フロイスが『日本史』で絶賛した土地だった)
(筆者注:後の「漢城」=ソウル占拠と関係か。)
・高山右近の旧臣が多く家臣に取り立てられた
(筆者注:キリシタン大名つながりはある種の知縁志向であり、常に血縁志向との対立可能性を内包している。)
・肥後北半国を領した清正と次第に確執を深める
・文禄・慶長の役
小西行長と加藤清正の両名が年来先鋒となることを希望、秀吉は行長を先鋒として、清正は2番手とした
(筆者注:先陣争いが有名だが、そもそも行長が先鋒とされて言わばハンディを秀吉からもらっていた。)
・行長は度々朝鮮側に対して交渉による解決を呼び掛けているが、何れも朝鮮側が拒絶または黙殺
・平壌奪還を図った祖承訓率いる明軍の攻撃を撃退し、明軍に対して講和を呼び掛け50日間の休戦と講和交渉の同意を取り付けた
次に朝鮮軍が平壌を攻撃したがこれも撃退
・島津忠辰が仮病を使って出陣を拒否し改易された際には身柄を預かるなど国内でも活動
(筆者注:後に行長は島津家に命を救われている。島津家とは領国隣接の地縁とも言えるが、ともに交易志向だったのではなかろうか。)
・文禄2年(1593年)に明軍による平壌攻撃が行われると、抗しきれず漢城まで退却
漢城駐留時、進撃してきた明軍を碧蹄館の戦いで破った
戦意を喪失した明軍と兵糧不足に悩む日本軍との間で講和交渉を開始
行長は石田三成と共に明との講和交渉に携わり、明側の講和担当者・沈惟敬らと共謀
秀吉には明が降伏すると偽り、明には秀吉が降伏すると偽って講和を結ぼうとする。この時、行長家臣の内藤如安(明側の史料では小西飛騨)が日本側の使者として明の都・北京に
結果、明の使者が秀吉を日本国王に封じる書と金印を携えて来日する事に
冊封の内容は順化王の王号と金印を授与するもので、秀吉の王冊封以外に行長、大谷吉継ら和平派諸将が大都督、行長家臣が都督指揮に任じられる内容
これは明の臣下になることを意味し、秀吉が求めた講和条件は何ら含まれない
これを秀吉に報告する段階で行長は、書を読み上げる西笑承兌に内容をごまかすよう依頼したが、承兌は書の内容を正しく秀吉に伝えた
このため講和は破綻、この講和交渉の主導者だった行長は秀吉の強い怒りを買い死を命じられるが、承兌や前田利家、淀殿らのとりなしにより一命を救われる
・慶長の役
再び出兵を命じられ、講和交渉における不忠義を埋め合わせる武功を立てて罪を償うよう厳命される
・秀吉死去による帰国方針が伝えられ、明軍と交渉して円滑な帰国を認める旨の同意を取り付けた。
朝鮮水軍の李舜臣の反対で、海上封鎖による帰国妨害が続けられたが、島津義弘等の救援により無事帰国
・関ヶ原の戦い
秀吉が死去しての帰国後は徳川家康の取次役を勤めるなど家康に接近
慶長5年(1600年)の家康による会津征伐に際しては上方への残留を命じられ、
その後に起こった関ヶ原の戦いでは、石田三成に呼応し西軍の将として参戦、敗北
・斬首された際、キリシタンゆえに浄土門の僧侶によって頭上に経文を置かれることを拒絶
ポルトガル王妃から贈られたキリストとマリアのイコンを掲げて三度頭上に戴いた後首を打たれたと伝えられる
教皇クレメンス8世は行長の死を惜しんだと言われる
◯加藤清正について
・本能寺の変に応じた秀吉に従って山崎の戦いに参加
翌年の賤ヶ岳の戦いでは敵将・山路正国を討ち取るという武功を挙げ、秀吉より「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3,000石の所領を与えられた
・文禄・慶長の役では、加藤清正と先陣争いをしたことが有名
行長に漢城を先んじて占領されてオランカイまで侵攻
・関ヶ原の戦いでは九州に留まり、黒田如水とともに家康ら東軍に協力して小西行長の宇土城などを開城、調略し、九州の西軍勢力を次々と破った
戦後の論功行賞で、小西旧領の肥後南半を与えられ52万石の大名に
・出自は、
刀鍛冶の加藤清忠の子として尾張国愛知郡中村に生まれる
母が羽柴秀吉の生母である大政所の従姉妹(あるいは遠縁の親戚)であったことから近江長浜城主となったばかりの秀吉に小姓として仕える
・清正は秀吉の親戚として将来を期待され、秀吉に可愛がられた。清正もこれに応え、生涯忠義を尽くし続けた
・文禄・慶長の役では、
漢城陥落後、一番隊や黒田長政の三番隊と別れ東北方向の咸鏡道に向かい、海汀倉の戦いで韓克誠の朝鮮軍を破り、咸鏡道を平定。現地の朝鮮人によって生け捕りにされていた朝鮮二王子(臨海君・順和君)を捕虜に。さらに朝鮮の国境豆満江を越えて満洲のオランカイ(兀良哈)へ進攻
しかし当地は明への侵攻路から外れている上に得る物が乏しいため、早々に朝鮮領内へ引き上げ、咸鏡北道を帰順した現地朝鮮人の統治域とし、日本軍は吉州以南に布陣
明軍が現れた京畿道方面に配置転換が命じられ咸鏡道を引き払い漢城に入った
*明・朝鮮と本格的な交渉が始まると、清正は主に惟政らに秀吉の講和条件を伝えた。だが秀吉の条件は明にも朝鮮にも到底受け入れられるものではなかった。このため、秀吉の命令を無視してでも和睦を結ぼうとする小西行長・石田三成らは、清正が講和の邪魔になると見て、彼を秀吉に讒訴。清正は京に戻され謹慎となる。
増田長盛が三成と和解させようとしたが、清正は断っている。
慶長地震の際、秀吉のいる伏見城へ駆けつけ、その場で弁明したことにより許された。
*慶長の役では、左軍の先鋒となった小西行長に対し、右軍の先鋒となる。再び朝鮮に渡海する際、行長は明・朝鮮軍側に清正の上陸予想地点を密かに知らせ、清正を討たせようとしている。
敵の李舜臣はこれを罠だと判断して出撃せず、清正は攻撃を受けなかった。
・関ヶ原の戦い前夜
秀吉が死去すると徳川家康に接近し、家康の養女を継室として娶った
(筆者注:加藤清正の血縁主義は徹底している。)
・前田利家が死去すると、福島正則や浅野幸長ら6将とともに石田三成暗殺未遂事件を起こし、これに失敗するとさらに家康への接近を強めた
◯「小西行長と加藤清正の対立」の整理
・領地が隣接し常に境界線をめぐって争ったといわれる
・行長が熱心なキリシタン、清正が熱心な日蓮宗信者
天草五人衆の反乱の際、キリシタンの多い天草衆に対して行長は事態を穏便に済ませようとしたが、清正の強引な出兵・介入が原因で武力征伐に踏み切らざるを得なくなった
・行長が文治派、清正が武断派
(筆者注:これはそのまま
行長が重商主義=交易主義、清正が農本主義=領国主義
知縁主義=キリシタン、清正が血縁主義=地縁主義
ということに重なる。)
行長は清正から「薬問屋の小倅」と侮られその反発として朝鮮出兵の際、軍旗として当時の薬袋である紙の袋に朱の丸をつけたものを使用したという
・文禄の役の際の京城攻めの先陣争いで行長が一日の差で清正を出し抜いた
・文禄・慶長の役を通じて作戦や講和の方針をめぐって対立
*小西行長・石田三成らは講和の邪魔になる清正を秀吉に讒訴。清正は京に戻され謹慎
*(慶長の役の際の京城攻めの先陣争いで)
李氏朝鮮に配下の要時羅を派遣して清正軍の上陸時期を密告、清正を討ち取るよう働きかけた
李氏朝鮮は李舜臣に攻撃を命じたが、李は罠だと思い攻撃を躊躇ったために陰謀は失敗
以上のような「小西行長と加藤清正の対立」は、
遠い親戚という血縁者=生え抜きと、血縁でもないのに豊臣姓を許された者=ヘッドハントされた中途採用者といったことに始まる個人的な対立図式とも言えるが、
統治政策の根幹に関わる好対照を示していて、そこを秀吉がわざわざクローズアップさせたとしか思えない。
この好対照は誰がみても明らかであり、二人が象徴する勢力の拮抗や価値観の対立が秀吉の政権内部にも、秀吉に一応は従った形の大名たちの間にもあったと考えられる。
こうした周辺状況が、行長をして清正を朝鮮軍に討ち取らせるという暴挙*を可能にさせたのではなかろうか。
政権内部に行長に同調する味方勢力いるから秘密が漏れないだろうという前提があり、またたとえ疑われても同じ価値観の大名たちを秀吉が敵にまわせない以上、不問に付されるのではないかという判断もあったのではなかろうか。
こうした前提と判断は、行長や石田三成が明側との謀議によって講和を成立させようとしたこと*にもあったようだ。そして謀議が秀吉に発覚して行長が死を命ぜられた際、周囲が秀吉を引き止めて行長が許されていることにも符号する。
(ちなみに、石田三成は小姓から台頭した言わば生え抜きだが、秀吉と現地の連絡役という立場の行動は、豊臣家中で福島正則ら武断派の反発を招いていた。)
当時、信長だけがグローバル化を望んでいた訳ではなく、大名に取り立てられた国際商人を筆頭に、領国が立地的に大陸への侵攻や大陸との交易に適した大名もグローバル化を期待した口だろう。
信長から名物を賜った、つまりは茶会を主催する資格を与えられた、経済官僚予備軍の信長家臣の大名も期待した口で、前々から人脈を構築し国際情報をシェアしていたと推察される。(逆に、名物を賜われなかった大名=地域密着型ガードマンに専念せよと言われた信長家臣の大名は、国際交易のメリットを得られない戦国大名であり、反グローバル化ではないまでもその地位の高止まりを期待して、行長ではなく清正が象徴する勢力なり価値観に同調していたと推察される。)
信長の構想を遺志として受け継いだ形の秀吉の朝鮮出兵だが、従軍した大名は勝算あり戦功によって得るもの多大と考え、東国江戸に封地替えされそこに留まらされた家康にはいわば貧乏くじを引かされたの観があった。
後に鎖国政策をとる家康だが、開幕当初はスペインに対して日本を経由する世界航路の就航を提案していて、幕府による管理貿易推進に積極的だったのである。
信長や秀吉そして家康がどのようなグローバル化をするかは、たとえ国際交易や対外侵攻に無関心な戦国大名といえどもある一点で注目していた筈だ。
それは、鉄砲や大砲の火薬に必要な硝石である。
硝石は国内の天然産出がなく輸入に頼らなくてはならなかった。
鉄砲の移入、製造、鉄砲隊の拠点と言われた堺や根来寺や雑賀衆だが、みな共通して、貿易や海運にも従事し硝石を入手できる立場にあった。
逆に言うと、政権が国による管理貿易を進めてそれ以外を厳格に禁止するならば、政権が硝石をつまりは軍事火力を独占することになるのだった。
一方、幕藩という間接統治体制において各藩による管理貿易を認めたり、一切の規制を緩和する自由貿易にするといったことは、各藩の軍事火力の蓄積を実質的に野放しにするから、よっぽどのうまみがない限り政権がとることはなかっただろう。
秀吉政権の内部者にしても、秀吉に一応は従った形の大名たちも同じ推測をしていた筈だ。
その上で、勝算ありとする朝鮮出兵に参加するに際して、日本軍の勝利と自らの戦功によって、戦後の報酬として何を獲得しようとしたのだろうか。
すでに述べたように、
農本主義で領国支配を安定させたい勢力A
(国際交易のメリットを得られない戦国大名および武断派家臣)は、
海外領国の獲得、国内領国の交易拠点化(あるいは交易拠点への封地替え)。
重商主義で国内外の交易を盛んにしたい勢力B
(キリシタン大名や交易好立地を領国とする大名
および文治派家臣や信長が抜擢した国際商人上がりの大名)は、
国際交易国家への変革によるその活動分野の拡大、
だったのではなかろうか。
そして、
そのような2通りの期待を抱かせることに秀吉は成功したのだが、
2つの集団志向を対立させたことが朝鮮敗退を招いた敗因の一つとなった。
秀吉の死と朝鮮敗退は勢力Aと勢力Bの両方に負担と失望を帰結した。
この後、歴史は家康の台頭と関ヶ原の戦いそして豊臣政権崩壊に向かう。
私には、
豊臣政権没落の遠因は、
朝鮮出兵において勢力Aと勢力Bを分断し対立させた秀吉の人事戦略にあった、
と思えてならない。
この見方は、史実の因果関係を注視する歴史家とは異なる。
人間論の現実の連続性を見る私流の見方である。
2つの集団志向を対立させてはならない。
2つの集団志向のどちらも中途半端になる折衷をしてはならない。
これは、
日本人の集団志向2タイプ、
集団を身内で固める「家康志向」
自由に活動している個人を適宜に集団に組織する「信長志向」
においても言えることだ。
バブル期をピークに成熟化した本来の「日本型経営」の特徴も、両者の合わせ技にあった。
合わせ技とは、適材適所で2つを並行させ全体としては調和的に経営が統合する、というものである。
この合わせ技を、信長は天下統一が現実味を帯びて来ても同時多発的に展開した。
一方、秀吉は、天下統一後の重臣人事を身内重視、血縁重視の「家康志向」に偏らせ、かつて信長に倣った外部者の個人抜擢のような「信長志向」は影を潜める、合わせ技をしなくなった。
おそらく旧信長家臣からすれば、そこに信長と秀吉との大きな落差が感じられたに違いない。
ちなみに家康は、三河以来の集団合議制(「庄屋仕立て」と家康は呼んだ)という「家康志向」を基調としながらも、小牧・長久手の戦いで雑賀衆や根来衆といった自立性の強い傭兵集団を活用する「信長志向」もしている。さらに、幼少より小姓として仕えさせた成瀬正成に、秀吉の攻撃で四散した根来衆50名を与えて17歳で一軍の将とした。この鉄砲隊が後に根来組といわれる百人組の部隊で、後に根来組同心として内藤新宿に配置される。関ヶ原の合戦では最前線で活躍している。
総じて江戸幕府を開く以前の家康は、「信長志向」的に外部の個人や集団を取り込み、その内の功績のあったものを身内化して「家康志向」を拡張していく、そういう合わせ技を精緻に展開している。
さらに家康は、開幕以後も、旧武田家家臣を優遇したことが知られている。家康は武田信玄を、農業、治水、治山、軍事などあらゆる国づくりの師としたと言われ、それを継承する武田遺臣を厚遇、つまりは集団抜擢したと考えられる。これも「信長志向」である。
260年の幕藩体制で日本人に血肉化して、何も考えなくても何の努力もしなくても日本人がしてしまう、集団を身内で固める集団志向を私は「家康志向」と名づけたのだが、家康自身は「信長志向」も巧みに使う合わせ技を展開し続けたと言える。
日本の歴史を振り返り、その人間論の現実に目をこらすと、
今の日本社会にもそのまま当てはまる反復パターンが見えてくる。
つねに「家康志向」の一辺倒化が、組織を硬直化させ社会を膠着化させている。
そしてつねに、それを一部有志なり一部の卓越したリーダーによる「信長志向」が打開している。
そして、
「家康志向」一辺倒化に至る前段と
「信長志向」が台頭してきた当初段階で
必ずお約束のようにでてくる残念な事態が、
「家康志向」と「信長志向」を対立させる見方ややり方なのである。
秀吉家臣の場合、
血縁主義=地縁主義 × 農本主義=領国主義 の加藤清正が
集団を身内で固める「家康志向」の代表でもあり、
知縁主義=キリシタン × 重商主義=交易主義 の小西行長が
自由に活動している個人を適宜に集団に組織する「信長志向」の代表でもあった。
人間論の現実からは、
両者を対立させた秀吉よりも、
秀吉の死後、関ヶ原の戦いの前夜まで接近してきた両者の内、
小西行長を遠ざけ、加藤清正を近づけた家康の方が、
人間を見抜いて従わせることの大局観において数枚上手だったと言わざるを得ない。
やはり家康に匹敵した実力者は、その盟友である信長だけだったのだと思う。