「江戸の用語辞典」を読んで気づくこと(備忘録)(25) |
江戸人文研究会編 廣済堂出版刊 発
*今回は「[た]から始まる言葉」のメモでございます。
「[太公望]たいこうぼう
中国の誇示から『釣師』のことを申します。
釣りは武士の嗜みのひとつで、精神修養になるとされる・・・暇潰しでございました。
釣ったのはもっぱら鮒でして、(中略)鮒なぞ釣らずに、鰻などを穫ればお金にはなったのですが、武士は表向き釣った魚は食べないことになっておりました」
太公望は、周の軍師、後に斉の始祖となった呂尚のことで、釣りをしていたところを文王が「これぞわが太公(祖父)が待ち望んでいた人物である」と言って召し抱えた話に由来する。
中国では「太公望の魚釣り」(太公釣魚)というと「下手の横好き」のことだとも言われるが、私には腑に落ちないことがある。
それは、呂尚は曲がっていないまっすぐな針を使い、さらにあえて針を水中に入れず水面から三寸上に垂らしたとも言われ、これでは下手か上手いかという以前に、魚釣りの格好はしていても魚を釣る気がないからだ。文王の目に止まるために釣りをしているふりをしていた、とも言われる。
そこで調べてみると、中国語では「太公釣魚、愿者上鈎」という言い方をして、「喜んで騙される」とか「騙されたものが悪い」ことを意味すると分かった。
この場合、呂尚が魚釣りをしているふりをしていることを知っていながら、文王の方も偶然の遭遇を装って彼を召し抱えた、ということになる。
これなら、営業恋愛と分かっていて貢いでしまうキャバクラ通いや、負けると分かっていて足しげく通ってしまう競馬などに通じる「下手の横好き」と一脈通じるニュアンスを感じ取ることができる。
しかし、太公望=呂尚を、果たして「太公」と表現するものだろうか、という疑問が残る。太公は文王の祖父のことなのだから。
ちなみに呂尚は、後代の創作において中国の代表的な兵法書「六韜」の著者とされた。この「六韜(りくとう)」ほかの兵法書を大江維時が唐から持ち帰ったが「人の耳目を惑わすもの」として封印したとされる。
「六韜」は、「韜(とう)」が剣や弓を入れる袋のことだから、全六巻という意味で、その一つが「虎韜」つまり「虎の巻」で、これが兵法の極意を意味するようになった。
中国も日本も慣用句の形成においては、細かいことを省いたり正確さを欠いても象徴的な表現力のある言葉遣いが残ってきたと言えそうだ。
「[大小]だいしょう
[太刀]と[脇差]の二本のことでございます。
江戸時代になりまして、武士は『大小二本差し』と定められました。
一方、武士以外は太刀を持ち歩くことが禁止されました。九寸五分(約二十九センチ)未満の長さの脇差は、護身用として届け出をすれば誰でも持てました」
江戸っ子の武士に対する啖呵に、「二本差しがこわくておでんが喰えるか」というのがある。
だが、串が二本ささったおでんを見た事がないので調べてみた。
すると、「おでん」という言葉は、もともとは「煮込み田楽」と言ったようで、それを略して丁寧語にして「おでん」になったという。
確かに、田楽であれば串が二本ささっている。
柳多留拾遺「田楽は むかしは目で見 今は食い」
ついでに、田楽はなぜ「田楽」というようになったか、調べてみた。
田楽は田植えの時に踊る芸能で、豆腐に串を刺した料理が、田楽を踊る姿に似ていることから「豆腐田楽」と呼ばれたそうだ。昔のおでんは豆腐を串に刺し味噌を塗って焼いたものだった。
江戸初期の笑話本「醒酔笑」によると、「田楽法師が白袴を下にはき、上に色のついた物を着て、鷺足(一本足の竹馬)に乗って踊る姿が、白い豆腐に味噌を塗りたてた格好によくにているからだろう」とのことだ。
要は、竹馬を使って一本足の傘のお化けみたいな踊りをしていた、ということで想像するとこの踊りの方がびっくりだ。
「[大八車]だいはちぐるま
荷車のことでございます。
『八人の代わりになる』ので『代八』と呼ばれたのが始まりだそうです。(中略)
江戸の町中は勝手に通れません。大八車は大荷物を運びますんで、轍ができて道が痛みますから嫌われました。道は町々で[町人]がお金を出し合って管理しておりますので、大八車を使うには町の許可が必要でした。許可を受けた車には焼き印が押されます。
大八車が嫌がられたもうひとつの原因は交通事故です。なにせブレーキなんかありませんので、無理もございません。事故を起した車屋(筆者注:人足)は、追放刑にされました」
「[高積見廻り]たかづみみまわり
[町奉行]配下の[与力]一騎、[同心]二名で、高積みされた荷物を見廻る御役目でございました。[大八車]に積み過ぎていないか、通りを邪魔していないか、放火の種にならないかも見張りました」
大八車絡みの物事は、今でいうダンプカー絡みの物事に重なる。
どこか荒っぽく、危ない雰囲気が漂っていて、それを規制や監視で押さえ込んでいるというニュアンスだ。
タクシー運転手のことを「くもすけ」と言ったり、何らかの文化的な脈絡というものが綿々と繋がっている、ということがあるのだろうか。
「[達引・立引]たてひき
意地の張り合いのことを申します。特に、義理を立て合うことを申します。
『ここは私が払う』『いやいやうちが!』『いや、それは困ります!』みたいなことです。
江戸では三回以上の押し引きは[野暮]でした」
私は一人で地元ガストに行く時、好んで入り口すぐ側のドリンクバー前の席に座る。すると月に1〜2回は女性同士のそういうやり取りを目にする。
確かに三回以上の押し引きは、単にうるさいだけでなく人間関係の葛藤みたいなものが周囲にも伝わってくる。以前にレジ前でもめた女性二人が再度来ているとき、今回はどうなるのかと観察していると、帰り際、一人がトイレに席を外した隙に残った一人が支払いを済ませてしまって、いざ店を出ようとレジ前を通る段になってそれが発覚して駐車場で押し引きをしていた。
この三回以上の押し引きは野暮という原則はいまも通用する。
そう言えば、ダチョークラブの上島さんが「嫌だよ俺」と拒んだことを他の二人が「じゃ私がやります」「いえいえ、私がやります」と競い、それを見た上島さんが「いや、私が」と言うと二人が「どうぞ、どうぞ」と押しつける、というのもリミットの三回だったりする。
文化的遺伝子は、言葉や言葉遣いにおいて継承されるが、息や間合い、合いの手や囃し立て、といった歌謡性においても構造的に継承されるのかも知れない。
「[旅姿]たびすがた
『旅装束』とも申します。旅向きの服装のことでございます。(中略)
女性は杖を持って、[手拭]を被りまして、荷物は御供が持つのが普通でした。女性はひとり旅ができないので、必ず御供がいるものです。
また、今日のように着替えなんてのは持って行けません。ほとんど着たきり雀で旅をいたします。ですから女性は、三、四枚着物を重ね着して行きました。(中略)
武士は[道中]でも両手は常に空けておくものでした」
ファッションではなくて持てないから重ね着とは。
武士は手を空けておかねばならず荷物を持てなかったとは。
武士も荷物を運ぶ旅の場合、御供が必要ということか。
平賀源内みたいな人がキャリーバックを考案すれば大ヒットしただろう。
「子連れ狼」の拝一刀が大五郎をのせた車を手押しするのは時代考証的にはどうなのだろうか。
「[男色]だんしょく
ホモセクシャルのことで、男性と男性の恋愛のことを申します。(中略)
レスビアンは『ト一八一(といちはちいち)』や『小倉庵』と申しました」
私としては、レスビアンを意味する「ト一八一」と「小倉庵」の語源に興味をもった。
ネットで検索しても何もでてこない。
「小倉庵」は、大塚のお蕎麦屋さんや経堂のたいやき屋さんが出て来て、店の名前が江戸言葉ではレスビアンを意味するなんて知らないのだろうなあと思ったりして語源探しを諦めた。
「ト一八一」を検索してて「女性同姓愛史・日本編1」というサイトに出会った。
「第一章 江戸時代まで」の「第二節 江戸」に以下の記述があったが、語源の解説はなかった。これほどの研究サイトでそれが無いということは誰も知らない、ということかも知れない。
「遊郭においては女性同士の性的行為には『ト一ハ一』(といちはいち)という隠語が用いられていた。
しかし、これは単に恋愛関係の上で行われたのではない。そうではなくて、遊女としての技能伝授のために同性愛的行為が行われたという。また、客を取れない遊女たちが慰みとして行っていたようでもある。大奥においても似たような状況であったと考えられる。」
私が注目したのは、「隠語」にしては(といちはいち)の読みは長い、ということだ。
隠語は隠れて話すような言葉なのにあまり長いと隠れることには不都合でおかしいと思うのだ。
で、これはカタカナの「ト」と漢字の「一」と「八」と「一」の表す字体とその集合を絵として何かに見立てているのではないか、と推理した。
推理といっても、根拠のない直感に過ぎない。
「ト一ハ一」が絵として何に見立てているのか、レズビアン行為を実際にしたことも見たこともない私には根拠を仮説することさえできない。また今後の宿題にもできない。
その筋の人による検証なり解釈なりを求めたい。
ヒントは「遊女としての技能伝授のために同性愛的行為が行われた」ということにありそうだ。
あなたは「ト一ハ一」を絵として見て何に見立てますか。