「コンセプト思考術」を可能にしている言葉の創造性(1) |
深田智 仲本康一郎 共著 研究社刊 発
「3.1 言葉の創造性と認知的動機づけ」
<A>
「言葉の世界は、五感や運動感覚、情緒や感情、等をはじめとする我々の感性・身体性に関わる様々な要因によって動機づけられている」
<B>
一方、科学や数学、機械やシステムなどの世界は、以上とは異なる要因によって動機づけられていて、それは具体的な体系化や整合性、合理化や効率化に向かっている。
<C>
さらに、易や哲学やイデオロギーなどの世界も、以上とは異なる要因によって動機づけられていて、それらは抽象的な体系化や全体性、理想化や思想化に向かっている。
私たちは、ともすると、
<A>は<A>の世界(=コトの感覚、モノの感覚の世界)だけで
<B>は<B>の世界(=モノの機能の世界)だけで
<C>は<C>の世界(=コトの意味の世界)だけで
自己完結させてその用語とそれにふさわしい語用によってこれを発想したり思考し、対話したり議論する。
思い、想う思考術である「コンセプト思考術」は、そうしたそれぞれの世界で自己完結する発想思考には対応していない。
むしろ逆に、それぞれの世界で自己完結しているパラダイムそのものの限界を意識化ないし顕在化して、他の世界と調和的に統合した概念構造を求めるパラダイム転換志向に他ならない。
原発の安全神話、というものが崩れたが、
それがどのように構築されてきたか、と言えば、それは
<B>の世界(=モノの機能の世界)だけで自己完結させるという偏狭で浅薄なパラダイム(=機械論)においてであった。
それがいかにして崩壊したか、と言えば、それは
福島原発事故が起こったことによって、
日本国民が身をもって実感した現実の不安や危険という<A>の世界(=コトの感覚、モノの感覚の世界)と
日本国民が心の底から反省した人生や暮らしや国土についてのそもそも論という<C>の世界(=コトの意味の世界)と
調和的に統合する物事の見方、つまりは新しい広くて深いパラダイム(=人間論)においてであった。
(NHKスペシャル「原発事故調 最終報告~解明された謎 残された課題~」より
事業者・行政の視点=送り手側のモノ提供の論理
被害者の視点=受け手側のコト実現の論理)
「3.2 言葉の創造性」
◯概念メタファー理論の発展と展開
「我々には、具体的な経験を通して獲得した知識をもとに、新奇な経験や直接的には把握できない抽象的な概念を柔軟に理解していく想像力がある」
古今東西、人間はともすると、偏狭で浅薄なパラダイムに囚われてしまうことがある。
それは必ず、この想像力の欠如や想像力の発揮の抑制を伴っている。
それは、言葉の創造性の欠落や封印でもあった。
逆に言えば、言葉の創造性を解放してフルに発揮すれば、想像力は活性化し個人的にも社会的にも役立てられる、ということだ。
私の言葉やその概念の分析や構築にこだわる唯一の理由がここにある。
「この想像力の一部は、ある経験と別の経験との間に積極的に類似性を見出し、前者の知識に基づいて後者を理解していくという認知プロセスを基盤としている。
この認知プロセスはメタファー(metaphor)と呼ばれる」
メタファーは、推量(abduction)を可能にする必要不可欠な認知プロセスの一つである。
「メタファーには、比較の能力と比較の基準の設定に関わる認知プロセスが関与している。
何を基準に類似性(筆者注:アナロジー)を見出すかは、主体の主観的な解釈プロセスに動機づけられている」
「メタファーによる柔軟な解釈プロセスは、日常言語の創造的な側面にも反映される。(中略)
この種の関係は、概念メタファー(conceptual metaphor)と呼ばれ、
言語表現だけでなく、我々の思考や行動にも反映される(Lakoff & Johnson 1980)」
(経験基盤主義のメタファー理論)
・概念メタファー
「メタファーの問題を、単なる言葉の問題としてではなく、我々の思考や推論、行動と密接に関わる問題として扱う」ということにおいて、
メタファーとは、
「言語主体の類似性の認識を反映した具体的な言語表現ではない。
これらの言語表現の背後にある、ある概念を別の概念に基づいて理解するという認知プロセス」
である。
「ある概念が、常に、ある特定の別の概念に基づいて理解されるようになると、この関係は、我々の概念体系内に組み込まれることになる。
このような概念間の関係が、概念メタファーであり、A IS Bの形で示される」
原発の安全神話は、少なくとも、
・原発は機械である
・機械は科学の成果である
・科学は自然を支配したり人間を制御できる至上のものである
という認識を意識的にか無意識的にか前提にしている。
そして、原発絡みの専門用語とその専門家的な語用は、こうした概念体系内に組み込まれる形で展開し、安全神話を、神話ではない科学的な常識として成立させた。
そして、安全神話の崩壊とは、こうした概念メタファーのほころびに他ならない。
「ある概念が、常に、たった1つの別の概念との関連で(筆者注:1つの領域の概念群との関連で)理解されるわけではない。
個々の概念には様々な側面がある。そのそれぞれが、異なる概念に基づいて理解される可能性がある」
原発の安全神話は、
<B>の世界(=モノの機能の世界)だけで自己完結させるという偏狭で浅薄なパラダイム(=機械論)に発想思考を限界づけることで成立していた。
それが崩壊した今、
私たちは、他の領域の概念群との関連として、
日本国民が身をもって実感した現実の不安や危険という<A>の世界(=コトの感覚、モノの感覚の世界)と
日本国民が心の底から反省した人生や暮らしや国土についてのそもそも論という<C>の世界(=コトの意味の世界)と
調和的に統合する物事の見方、つまりは新しい広くて深いパラダイム(=人間論)で原発を捉えるべく、
専門用語に囚われない生活者や人生を全うし後の世代の人々の暮らしをも想いやる人間の言葉で発想し対話しなければならない。
それは、新たなる理想的な概念メタファーを構築する、ということである。
・経験内の相関関係:経験的類似性と経験的共起性
「メタファー表現の基盤には、客観的な類似性が認められる場合もある」
が、
「我々の日常経験に基づく『相関関係』(correlation)」に基づく場合もある。
そして、
「この相関関係には、少なくとも、経験的類似性(experiential similarithy)と経験的共起性(experimential cooccurrence)の2つが認められる」
たとえば、
<恋愛>は<旅>である、<考え>は<食べ物>であるは経験的類似性。
量が増えれば、嵩も大きくなる、つまり<量の上下>は<嵩の上下>であるは経験的共起性。
・身体性とメタファー
「Lakoff(1987)は、我々の思考を『身体的でかつ想像的なもの』と規定している。
我々の概念体系の中核は、身体的経験に直接根ざしており、
『抽象的な』思考も、メタファーやメトニミー、心的イメジャリーといった想像力(imaginative capacity)を介して、間接的に身体的経験と結びついている。
この経験基盤主義の考えの中で、メタファーは、具体的な経験の中から立ち現れる前概念的構造を、抽象的な概念構造へと投射し、それによって後者を理解していくという、身体化された想像的構造として規定されている。
前概念的構造には、基本レベルカテゴリーとイメージスキーマという2つの構造が存在する。メタファーを介してその構造が抽象的な概念領域に投射されるのは、イメージスキーマである」
<恋愛>は<旅>であるというメタファーにおいては、
「<恋愛>が目標領域、<旅>が起点領域となる。
前者は、後者のイメージスキーマ的構造を写像することで理解される。この写像はきわめて体系的である。
また、このメタファーを介して、我々は、<旅>に関する知識をもとに、<恋愛>のある状態を推論する。メタファーにおいては、単に、起点領域のイメージスキーマ的構造(筆者注:原発に機械のイメージスキーマ)が写像されるだけでなく、起点領域に関する知識(筆者注:機械は科学の成果、そして科学は自然と人間を制御できるという知識)も目標領域(筆者注:原発)を理解するために写像される。
しかし、起点領域のすべての存在物や知識(筆者注:機械は欠陥がありえ故障もする、科学は万能ではない)が目標領域(筆者注:原発)に写像されるわけではない。目標領域内に対応する存在物や知識が認められない場合には写像されない」
<原発>は<機械>であるという概念メタファーは何ら問題はない。
しかし安全神話は、<原発>は<完全無欠の機械>であるという概念メタファーにおいて成立していた。そして<完全無欠の機械>など、人間が機械をつくる以上、この世に存在しないのである。
「Lakoff(1993)は、メタファーの特徴として次の3つを擧げている。
A. 起点領域と目標領域の間には体系的な対応関係が見られ、これが言語表現にも反映される。
B. メタファーを介した推論に基づいて我々の推論と振る舞いが決定される。
C. 慣習化されている写像関係をもとに、何が新しい創造的な言葉の使い方であるかを理解することができる(筆者注:コンセプト思考術の<送り手側のモノ提供の論理>→<受け手側のコト実現の論理>)」
以上の論には2つの疑問が呈されている。
1つは、
「本来はよく分かっていないはずの目標領域の構造が、メタファーを介して理解される依然にすでにある程度分かっている必要がある。
これは、理解しにくい抽象的な概念をより具体的な概念との関連で理解する、というメタファー本来の機能とは矛盾する」こと。
いま1つは、
「目標領域制約(筆者注:特定の類似性が除外されること)がどのような経験的基盤に基づいているか明らかになってはいない」こと。
(概念メタファー理論の展開)
・メタファーの基盤としての「経験的相関」:プライマリー・メタファー
前述の2つの疑問を解く方策として、
「Grady et al.(1996)は、メタファー的根源(metaphoric primitives)とメタファー的複合(metaphoric compounds)を区別することを提案している。(中略)
それぞれ、プライマリー・メタファー(primary metaphors)、複合的メタファー(complex metaphors)と呼ばれている。
プライマリー・メタファーは、独立した直接的な経験と独立した言語事例をもつメタファー、
複合的メタファーは、複数のプライマリー・メタファーによって合成された、しかしながらその構造に矛盾のないメタファーである。
プライマリー・メタファーにおいて写像されるのは、非常に限られた、一貫性のある構造である。この構造は『シーン』(scene)と呼ばれている。
直接的な経験的基盤を持つため、プライマリー・メタファーは、言語の違いを超えて普遍的に観察される。
Grady et al.(1996)は、このプライマリー・メタファーの経験的基盤が経験的相関であると主張する。この経験的相関には、経験的共起と経験の時間的連続が含まれる(筆者注:前者は共時性に、後者は因果律に重なる。ゆえに経験的相関とは両者渾然一体の縁起に重なる)」
たとえば、<考え>は<食べ物>であるという概念メタファーは、容器メタファー、導管メタファーといった複数のプライマリー・メタファーによって合成されていると解釈できる。
<考え>は人間にないしはその心や頭に落ち着くのであり、それらは容器であるというメタファーが前提になっている。さらに、そこに落ち着くためには外から入ってくる導管があるというメタファーが前提になっている。ということは、それら複数のメタファーによって合成されている、ということだ。
ここで、容器メタファー、導管メタファーは言語の違いを超えて普遍的だが、それら複数のプライマリー・メタファーの合成した複合的メタファーが普遍的かどうかとなるとケースバイケースである。
<考え>は<食べ物>であるという概念メタファーは、日本語(腑に落ちる)と中国語(咀嚼jǔ jué:かみ砕く、味わう)でも観察されるが、英語ではmindを容器とするメタファー、そこに<考え>が至る動詞が前提する導管メタファーは観察されるが、それらが合成した<考え>はOBJECTではあるが<食べ物>とはならない。
・融合仮説
歴史的な意味変化は、先に経験があり、それが経験的基盤となって、そこから抽出された経験的相関が、慣習化されている写像関係を構成しメタファーになる、この繰り返しで説明できる。
しかし、先に経験がない幼児がメタファー的な言語表現を獲得したり、メタファー的な認知パタンを会得していくことは、これでは説明できない。
Bowerman(1989)によると、
「ある状況である言語形式が用いられた場合、子どもは、その状況で考えられる様々な意味の中から、その言語形式と起点領域及び目標領域における意味が同じ状況の中で存在する(co-present)と仮定して、はじめてこの言語形式と目標領域における比喩的意味とを結びつけることができる。
これは、(筆者注:先行した経験から抽出した)写像を介した比喩的意味の習得ではない。起点領域における意味と目標領域における意味との相関(correlation)に基づく習得である」
「Johnson(1999)は、『大人が多義語として解釈している語であっても、子どもは、はじめ、それを大人が区別している様々な意味を融合した意味を表す語として解釈している』という融合仮説(conflation hypothesis)を立て、これを実証してきている。(中略)
例えば、一般に、UNDERSTANDING IS SEEINGに基づく拡張とされるseeの意味拡張(<見える>から<分かる>への意味拡張)も、言語習得的な観点からは、次のように考えられる。
(中略)
視覚と心理という2つの経験は、子どもの生活の中でも自然に共起している、すなわち日常的に融合状態にある経験である。この事実を介して、子どもは、<分かる>の意味を獲得する」
中国語では<分かる>は明白了で、視覚的に明白であることから、同様の<見える>から<分かる>への意味拡張を観察できる。
一方、日本語の<分かる>からは、違いで<分ける>から<分かる>への意味拡張を観察できる。
Johnsonが大人が話しているとした多義語は、1つの語で複数の意味があるものである。子供には、今大人が話した多義語が何を意味しているかが<見える>ことが<分かる>になる。
一方、日本語に特徴的な擬態語や身体語は、身体性と情緒性という複数の意味を統合して1つの語になっていて、たとえばある擬態語をそれに近いが微妙に意味と表現が異なる擬態語との違いで<分ける>ことができると<分かる>になる(ex.きちんとvsきっちり)。
あるいは、ある身体語を同じ身体部位を異なる使い方で使った身体語との違いで<分ける>ことができると<分かる>になる(ex.足が重いvs足が棒になる)、ということが観察できる。
こうした日本語の場合、<見える>ことはさほど重要ではない。むしろ見えがかりに大差がないのに<分ける>べき微妙な違い(身体感覚をともなった情緒性)があることを認知することが重視される。
「Johnsonは、比喩的意味の獲得のはじめの段階として、起点領域の意味と目標領域の意味とが融合した意味(conflated meaning)を表すような段階を設定する必要があると主張している」
この段階を経て、1つの語の多義に応じた意味と使い方の多様性に気づき、概念領域を分化させていく。
一方、日本語の場合は、幼児は、最初に親が教える擬態語や身体語などにおいて、複数の意味を統合した1語をまさにそうした微妙な意味が出現している現場において、その状況認識とともに多数学習していく。(空気を読む、そして空気に馴染む、という日本人が重視する行為はこうした幼児期に親との関係性の中で習得される、日本人にとって基礎的な認知表現パターンなのかも知れない。)
この学習過程は日本人が繰り返してきたことであり、日本語を母語とする限りこれからも繰り返していくことである。微妙な話ではあるが、大きく日本人の認知表現パターンを方向づけていると考えられる。
コンセプト思考術においては、<コトの感覚><モノの感覚>の概念要素が重要なポイントとなるのだが、また、それは暗黙知の明示知化という過程でもあるのだが、そこで以上のような身体性と情緒性を統合した意味を表現する日本語ならではの擬態語や身体語が活用されうる。
ところがこれと同じ意味内容を外国語で表現しようとすれば、日本語のように1語では済まない。多義語を連ねて表現するしかない。その際、どのような多義語のどのような意味を繋げて表現するかと考えなければならない。
日本人は、この過程を日本語、特に擬態語や身体語を含む和語を活用することによって、無自覚的に身体身体化された想像的構造を踏まえてやってのけている。日本人にとってコンセプト思考術とは、そうした無自覚的にやっている認知表現パターンを思考フォーマットへの概念要素記入によって意識化する作業である。
一方、外国人がたとえば母語を使ってコンセプト思考術の思考フォーマットを活用する場合は、英語の多義性と、多義的な語を組み合わせて語義を限定する言い回しなどを指導しなければならない。
具体的には、<コトの感覚><モノの感覚>の概念要素(冒頭で述べた<A>の世界)を記入する際、身体性と情緒性を統合した感覚、ないしは両者の統合が欠落した感覚を記述するようにインストラクションすべきだ。(<B>の世界の<モノの機能>、<C>の世界の<コトの意味>は直訳して済ますことができる。)
・プライマリー・メタファー:無意識に習得されるもの
「プライマリー・メタファーは、日常生活を介して、自然に、かつ、無意識に習得される、人間という生物に固有の特徴に動機づけられたメタファーとして規定されている。(中略)
身体を介した経験を感覚運動経験(筆者注:<モノの機能><モノの感覚>で表現される)、
それと連動して起こる判断を主体的判断(筆者注:<コノの意味><コトの感覚>で表現される)
とすると、
日常経験は、この両者の融合された(conflated)主体的経験である。
この主体的経験の2つの側面である感覚運動経験と主体的判断とを分化し、
前者を起点領域、
後者を目標領域
とする中で、
自然に、かつ、無意識的に、概念体系の中に取り込まれたメタファーが、プライマリー・メタファーである」
「我々は、『認知的無意識』(the cognitive unconscious)によって、経験に基づくプライマリー・メタファーを概念体系の中に創造する(Lakoff & Johnson 1999)とともに、それらを組み合わせ、様々な知識を組み込みながら複合的メタファーを創造する。
この営みは、発達の初期の段階から、日々の外界との相互作用という身体的な経験を介して行われている」
・概念メタファーの動機づけ再考:相関と類似性
「メタファーには、大きく分けて2つのタイプが存在する。
プライマリー・メタファーのような相関に基づくメタファーと
類似性に基づくメタファーである」
Achilles is a lion は類似性に基づくメタファーである。
これと文化を超えて万人に共通するプライマリー・メタファーとは自ずと異なる構造にある。Achilles is a lion はプライマリー・メタファーのように経験の相関に基づいていない。
「Grady(1999)は、メタファーを、活性化のネットワーク内の概念間の結びつきのパタンとして捉え直し、その上で、この類似性に基づくメタファーと相関に基づくプライマリー・メタファーとの違いを論じている」
Achillesの概念要素の1つの「勇敢さ」と、lionの概念要素の1つの「勇敢さ」が、類似性として抽出されている。その上で、後者が起点概念となり、前者が目標概念となっている。
<Taking a career risk>は<GAMBLING>である も<Taking a career risk>の概念要素の1つの<Taking a risk>と、<GAMBLING>の概念要素の1つの<Taking a risk>が、類似性として抽出されている。その上で、後者が起点概念となり、前者が目標概念となっている。
一方、<量の上下>は<嵩の上下>である のような共起の相関に基づくプライマリー・メタファーは、前者と後者、それぞれの全体の概念構造の類似性を踏まえている。前者、後者は双方向的であり、どちらも起点概念、目標概念になりうる。
・概念メタファーと文化
「概念メタファーは、その動機づけとなっている身体的・文化的な事態を(追)体験することで獲得されるだけではない。
適切な状況で用いられたメタファー表現を学ぶことで、その言語表現に関わる概念メタファーを獲得する可能性もある」
「概念メタファーが、個々人の頭の中に存在しているだけでなく、社会・文化的に共有されているものであることを指摘している。
言語表現における概念メタファーの体系的な出現は、概念メタファーが、文化的なモデルをも反映していることを示唆している。
文化的なモデルとは、その文化に属する人々に共有されている文化的スキーマである」
・メタファー、イメージスキーマと言語習得
「子どもの初期の身体的・感覚運動的経験は、メタファーによって構築されるより複雑な思考の基盤になっている。(中略)
子どもたちが幼い頃からイメージスキーマ的構造を所有しているということは、前言語的概念が、この感覚身体的経験に基づいて形成されることを示している。
この種のイメージスキーマは、子どものメタファー的な言語の理解と密接に関わっている。
子どもによる慣用表現の理解は、イメージスキーマを基盤とする初期のメタファー的思考に動機づけられている」
コンセプト思考術によるパラダイム転換発想において特に重要なことは、以下のことだが、
それは当然、子どもの発想思考に限ったことではない。
「子どもが新奇のメタファー表現を生成したり理解したりできるのは、イメージスキーマを抽象的な知識の領域に投影するというメタファー的能力を持っている(言い換えれば、メタファー的に思考できる)からである。
メタファーにおいては、起点領域と目標領域の両方(筆者注:コンセプト思考術の思考フレームワークで言えば、現状パラダイムの問題性と新規パラダイムの理想性の両方)に関する完璧な知識は必要ではない。
子どものように、起点領域に関するイメージスキーマ的構造(筆者注:送り手側のモノ提供の論理)さえ持っていれば、それをもとに(筆者注:コトの皮相的な意味=問題の発見をもとに)、目標領域の多くを構築できる(筆者注:受け手側のコト実現の論理)。
メタファー的理解の発達は、子どもの(筆者注:大人が新しい領域を探索し新しい課題に挑戦するにおいても)概念的な知識、言語力、情報処理能力の限界と密接に関わっている」