日本語と日本文化の特徴を考えるための認知言語学の知見(5) |
深田智 仲本康一郎 共著 研究社刊 発
(4)
http://cds190.exblog.jp/18430166/
からのつづき。
まず、私が日本語と日本文化の特徴を考えるために、おさえておくべき認知言語学の知見と考えることの方向性を概説しておきたい。
ざっくりと言って、認知言語学は欧米由来の精緻で詳細な議論をして展開してきた分野なのだが、ごっそり抜け落ちている、あるいは指摘はしていても軽視している領域がある。
それは、
「コンセプト思考術」(参照:http://cds190.exblog.jp/709471/)の用語法で言うと、
<モノの機能>の因果律や客観的分類に検討の大半が向かっていて、
<モノの感覚>と<コトの感覚>の共時性や親近性(=縁起)の検討がまだまだ不足している
ということだ。
そして、
私が、日本語と日本文化の特徴を考えるためにおさえておくべき認知言語学の知見と思うのは後者の不足している方なのである。
本論シリーズでは、この観点からの検討を一貫させていきたい。
「2.2 意味の分化とカテゴリー化」から
「言葉が意味を持つのは、その背後にある日常経験を意味あるものとして捉えているからである(Lakoff 1987,Johnson 1987)。
日常経験は、認知主体、認知対象(客体)、環境、主体の認知活動とそれに基づく具体的活動、等から構成されている。
初期の言語は、これらを融合した未分化な状況全体を指している(尼ヶ崎 1990)。
我々は、様々な認知能力(五感、運動感覚、情緒/感情、視点の投影やスキャニング、比較の能力や参照点能力、等)を介して、混沌未分な日常経験を、ほとんど自動的に・無意識的にカテゴリー化し、それに基づいて知識を構築しながら、外部世界を解釈していく(ef.Lakoff & Johnson 1999)。
この認知過程は、投げ込まれた環境の中のその環境と相互作用しながらよりよく生きていくために欠かすことのできない環境の中で生き抜いていくために必要な事物であり、意味は、このような日常の解釈、すなわち概念化のプロセスを経て創発してくる(Lakoff 1987, Langacker 1988)。
カテゴリー化は、この外部世界の意味づけのプロセスの中で最も重要な認知プロセスの一つである。
カテゴリー化の仕方が異なれば、知識構造が変わり、言葉の意味も、また思考や推論、行動も変わってくる」
冒頭述べたように、欧米由来の認知言語学がこれまで、
<モノの機能>の因果律や客観的分類に検討の大半が向かってきたことは、
欧米の言語におけるカテゴリー化がそれらを基調にしていることと無関係ではないだろう。
また、私が日本語と日本文化の特徴を考えるために、
<モノの感覚>と<コトの感覚>の共時性や親近性の検討を重視しようとするのは、
日本語におけるカテゴリー化がそれらを基調にしているからである。
◯古典的カテゴリー論
「古典的なカテゴリー論では、カテゴリーは明確な境界を持つとされ、
そのメンバーはそのカテゴリーを定義づける必要十分条件によって規定される。
あるカテゴリーのメンバーは、共通の属性を持ち、同等の資格でそのカテゴリーに帰属するとされる。
これは、アリストテレス以来の客観主義的な科学観に基づくカテゴリー観である。
この科学観のもとでは、客観的に観察可能なものだけが研究対象とされ、それらをできるだけ合理的、理論的、体系的に説明しなければならないとされていた。(中略)
したがって、各カテゴリーは、そのメンバーが共通に持つ特性によって特徴づけられるとされ、カテゴリー化を行う我々の身体的特徴やそれに基づく解釈とは無関係に『客観的』に規定される『非身体的な』(desembodied)なものであった(Lakoff 1987)。
「コンセプト思考術」の用語法で言うと、
「客観的に観察可能なものだけが研究対象」が、<モノの機能>に大きく重なっている。
そして、
「それらをできるだけ合理的、理論的、体系的に説明」の認知言語学の検討の重心は、
時間軸では因果律であり、
空間軸では客観的分類なのであった。
「コンセプト思考術」の用語法で言うと、
「カテゴリー化を行う我々の身体的特徴やそれに基づく解釈」が、
数値化できるものを除いた定性的な<モノの感覚>と<コトの感覚>に重なっている。
そしてその解釈の重心は、共時性や親近性である。
◯カテゴリーの揺らぎ
「実際には、あるカテゴリーのメンバーのすべてに共通の属性など存在しない。
Witgensteinが述べているように、ドイツ語でSpiel(ゲーム)と呼ばれるものには、盤ゲーム(囲碁、将棋、チェス、等)、球技(野球、サッカー、等)、オリンピック、カードゲーム(ポーカー、花札、等)、遊戯(かごめかごめ、等)、競技、等といった様々なものが含まれ、その一部に共通する特性(例えば、<勝敗>、<技術>、<幸運>、<娯楽>、等)は認められても、そのすべてに共通する特性は存在しない(cf.吉村 1995)。
このような現実のカテゴリーの在り方を、Witgensteinは、『家族的類縁性』(family resemblance)と呼んでいる。
例えば、姉と弟は体格が似ていて、父と娘は顔つきが似ており、母と息子は体質が、父と母は笑い方が似ている、というようなその家族のメンバーの何人かに共通する類似性は見られても、その家族全員に共通する特徴は存在しない。
カテゴリーのメンバーはすべて、この家族のような関係にあるというわけである。
この『似ている』という基準は、実は、非常に曖昧な基準である。何がどの程度似ていれば『似ている』と言えるかに関する明確な規定は存在せず、『似ている』基準が1つである必要もない。
子どものカテゴリー形成には、既知の事物に対して与えられたラベルをそれとよく似た未知の事物にも適用していくというルールが関わっているが、その際、『似ている』の基準となる観点は常に同じではない(cf.尼ヶ崎 1990)」
『似ている』の基準となる観点は、言語によって異なるし、同じ言語でも民族や国籍によっても異なる。
ただし、「客観的に観察可能な」<モノの機能>や数値化できる<モノの感覚>については、「同じ」であることが明快で、「似ている」の基準も曖昧ではない。
たとえば、世の中にはたくさんの種類の<犬>がいるが、交尾して子どもを産むことができるという客観的事実に基づいて「同じ」であることが明快で、<犬>らしさという「似ている」の基準もかなり絞られる。これは、「家族的類縁性」とは一線を画している。
また、数値化できる<モノの感覚>についても、たとえば速度が速いか遅いかも、何かに比較してそれより速いか遅いかという相対的な判断になるが、同様に速いという「似ている」の基準、同様に遅いという「似ている」の基準は明快である。
一部の明快な「同じ」ないし「似ている」の基準をもつカテゴリーを除いた、現実一般のカテゴリーの「家族的類縁性」において、
「そのカテゴリーを代表する例とそうでない例とが認められる。(中略)
<鳥>のカテゴリーであれば、スズメはこのカテゴリーを代表する例であれが、ペンギンはそうではない。
カテゴリーのメンバーは、古典的カテゴリー論で述べられていたように同等の資格でそのカテゴリーに属しているのではなく、カテゴリーを代表する典型的なメンバー、すなわちプロトタイプ(prototype)から非典型的なメンバーへと段階的に分布している」
ここで話をいったん整理すると、こうなる。
・現実のカテゴリーは、「家族的類縁性」に基づいている。
・同じカテゴリーとみなす「似ている」の基準は曖昧である。
・同じカテゴリーのメンバーは、それを代表する典型=プロトタイプから非典型へ段階的に分布している。
典型=プロトタイプと非典型の隔たりは、
「客観的に観察可能な」<モノの機能>の隔たりに比例する。
たとえば<鳥>カテゴリーでのプロトタイプの隔たりは、
飛べないペンギンの方が、飛べてかつ水中を泳ぐこともできる鵜よりも大きい。
典型=プロトタイプと非典型の隔たりは、
数値化できる<モノの感覚>の数値の隔たりに比例する。
たとえば<長生き>カテゴリーでのプロトタイプの隔たりは、
平均寿命+1歳(短命とは言えない)の方が、平均寿命+30歳よりも大きい。
私が、以上の当たり前の話で指摘したいのは、まさにそれが誰がどうみても当たり前である「低コンテクスト性」である。
日本人の文化的な特徴は、外国人には当たり前ではないもので、つまりは日本人が共有する「高コンテクスト性」である。
それはつまるところ、
「<モノの感覚>と<コトの感覚>の共時性や親近性」が
「似ている」の基準となる「家族的類縁性」に基づいたカテゴリー化を踏まえている
というその<有りよう>
である。
いま一つだけ典型例を上げておくと、若い夫婦が子どもを授かって、赤ん坊に向かってパパですよ、ママですよ、などと呼びかけている内に、夫婦どうしも、パパ、ママ、あるいはおとうさん、おかあさんと相手のことを呼ぶようになる。
ここで、「パパ/おとうさん」「ママ/おかあさん」というカテゴリーは、欧米人の「自分の父」「自分の母」という基準を逸脱している。「子どもにとっての父」「子どものとっての母」も含めるという「似ている」基準を踏まえている。
日本人の場合、たとえばお店の年輩の売り手にも、「おとうさん」「おかあさん」と呼びかける。つまり「他人の年長者の男性」「他人の年長者の女性」も含めうる、そういう「似ている」基準がそこにはある。
では、以上の「似ている」基準に一貫しているカギ要素は何かというと、<家族的な親近感を抱く対象>ということになる。それが、①実の親子、②結婚して離婚していない夫婦、③他人だが親近感をもつ相手と展開している。
①は、万国共通の低コンテクスト、
②と③は、日本独特の高コンテクストにおいて成立している。
(ちなみに、「おばさん」「おじさん」が「他人の年長者」をも言うのは中国語も同じ。「叔叔shu1shu1」「阿姨a1yi2」)
「プロトタイプとして選択されるメンバーには、
(ⅰ)実際に知覚しやすい事物、
(ⅱ)はじめにそのカテゴリーの手がかりとして与えられた事物
(ⅲ)日常的によく経験する事物、
等が認められる」
<鳥>でスズメやハトがプロトタイプなのは(ⅲ)、
「パパ/おとうさん」「ママ/おかあさん」で実の親がプロトタイプなのは(ⅱ)、
(ⅰ)は、赤と言えば日本人ならば日の丸の赤がプロトタイプであることなど。
「カテゴリーが変容すればプロトタイプも変わる可能性がある。
事実、子どものカテゴリー化は、しばしば大人のそれとは異なる。社会・文化的な『似ている』の基準を獲得していくにしたがって、子どものカテゴリーとそのプロトタイプは、大人のそれと同じものになっていく」
私は、今日では、子どものカテゴリーが大人のそれを変容させていく、といった事態も発生していると思う。
たとえば、テレビゲームは、当初は子どもが部屋で遊ぶ「おもちゃ」や「ゲーム」の非典型として登場したが、やがて典型になりゲーマーが大人化していき、かつオンラインで見知らぬ人とも対戦したり協力するようになり、老若男女にとっての新たな遊びの典型=プロトタイプになってしまった。
つまり階層構造の全体が変容してしまい、大人のカテゴリーの方が変容を迫られてしまった。
「階層的なカテゴリー関係の中には、認知的・言語的に際立つカテゴリーが存在する。
この種のカテゴリーの習得は早く、よく知覚・記憶され、イメージも形成されやすい。
また、このカテゴリーのメンバーは、じっさいに操作しやすく、それを表す語の使用頻度は、複合や派生による使用も含めて極めて高い(Lakoff 1987)。
これは、このカテゴリーが、知覚的・機能的なゲシュタルトだからである(Rosch et al.1976)。
<家具>、<椅子>、<台所用の椅子>の中では、<椅子>がこのレベルに相当する。
この基本レベルカテゴリーは、そのカテゴリーのメンバーに共通する属性の数を最大に、また、それとは異なるカテゴリーのメンバーとの共通属性の数を最小にするカテゴリーでもある」
「以上のような日常のカテゴリー化の在り方は、次の4点にまとめられる:
(ⅰ)カテゴリーのメンバーは、家族的類縁性によって関連づけられる、
(ⅱ)カテゴリーの境界は曖昧で、基準とする観点や新しい事物の導入によって如何様にも変わりうる、
(ⅲ)カテゴリーのメンバーは、典型的なメンバー(プロトタイプ)から非典型的なメンバーへと段階的に分布している、
(ⅳ)他のカテゴリーとの境界が最も明確なカテゴリーは、基本レベルカテゴリーと呼ばれ、このカテゴリーは、認知的・言語的に際立っている」
ある時期から「テレビゲーム」が基本レベルカテゴリー化した。
「テレビゲーム」の下位に、ハード面では部屋でするそれと、持ち歩いてする「携帯ゲーム」があり、ソフト面ではRPG、シューティング、エキササイズなどゲームコンテンツの種類がある。
かつては「テレビゲーム」の上位に「ゲーム」があり、「ゲーム」の上位に大人も子どもも使う遊び道具として「おもちゃ」があった。「テレビゲーム」登場当初、それは「ゲーム」の非典型であり、当然「おもちゃ」の非典型でもあった。しかし、今や「テレビゲーム」が「ゲーム」という集合の部分ではなく、それぞれに独立した集合となっている。階層構造の全体が大きく様変わりをしている。
「コンセプト思考術」の観点から言うと、
パラダイム転換を狙う発想思考とは、カテゴリー構造を変容させる、新たな基本レベルカテゴリーを創出することである、
と言える。
今、カテゴリー構造を変容させつつある例として電気自動車がある。
電気自動車は、クルマというカテゴリーにある。電動支援自転車が自転車というカテゴリーにあるように、今後もそのことは変わらないのだろうか。
たとえば、家電はもともと家の中で使う電気製品のことだったが、やがて携帯するものも家電になっていった。またカメラは家電ではなかったがデジタル化によって情報家電に仲間入りした。ならば、家の外で携帯して使う物(たとえばドローン)までは家電だが、人が乗る乗り物となれば家電ではないということか。そうとも言えない。と言うのは、電気自動車の方も変化してきているからだ。
すでに小型化してタイヤや屋根のないものが出てきている。
世界最小の電気自動車「WalkCar(ウォーカー)」というものがある。電動のサーフボードのような歩行支援具である。
これは家電量販店で売っていてもまったく違和感がない。むしろクルマのショールームにある方が違和感があるだろう。よって家電という括りに入ってしまう可能性が高い。
◯プロトタイプ理論と語の意味
「カテゴリー化のプロセス(すなわち、何をどの基準から『似ている』と見なし、分類するか)は、知識の構造化と、それに基づく思考や推論の過程において最も重要なプロセスの1つである。
言語表現が主体の解釈を反映している以上、この解釈を支えるカテゴリー化のプロセスや、それによって形成された知識構造も、言葉には反映される」
たとえば、私は、Wiiの「柔らか頭塾」というゲームを母の認知症予防に使っているのだが、それは、Wiiという「テレビゲーム」の上位に「医療機器」という概念を据えているということである。
そうした場合、「テレビゲーム」の下位に「認知症予防」「呼吸法による内筋強化」などの効用を羅列することになる。さらに、中国人の健康志向のお年寄りが公園に集まるように、分割画面上に参加者が集合し「太極拳」を一緒にする「太極拳公園」といったオンラインゲームも発想されよう。
「代理母でも『母』と呼べるのは、代理母が<母>のプロトタイプが持つ<子を産む>という特性を持つからである。
実際の伝達の場では、このようなカテゴリーに関する背景的な知識だけでなく、場面や状況に関する知識、ジェスチャーや表情、等との関連で、すでに存在する言語表現が、柔軟に、かつ、創造的に用いられている。
事物の1つ1つ、あるいはカテゴリーの1つ1つに相当する言語表現がなくてもコミュニケーションが可能なのは、このためである。
このことは、言語表現の多様性の背後には、カテゴリー化によって構造化された知識だけでなく、それを創造的に利用していこうとする我々の『想像力』(imagination)があることを示している(Lakoff 1987)」
けっきょく、発想とは、新たなカテゴリーづくりであり、それを言い表わす言葉づくりに他ならない。
オンラインゲームの「太極拳公園」という私の造語も、<公園>のプロトタイプが持っている<人々が自由に集まって一緒に何かをする>という特性を、テレビ画面上に集結することを<公園>の1つの有り方として位置づけた訳だ。
従来のオンラインゲームは、参加者が競争したり協力するものだったが、その代わりに、ただ定期的に同じ画面上に集合して同じことを一緒にする(そうする自他を見合う)ことにフォーカスした。つまりそこに「似ている」基準を転換した訳である。
「この想像力の基盤となる認知メカニズムは、メタファー(metaphor)やメトニミー(metonymy)、等が認められる。
メタファーは、概念間の類似性に、
またメトニミーは、概念間の近接性あるいは隣接性に基づく認知プロセスである(筆者注:本論では便宜的に両方あわせて「親近性」と言っている)」
「言葉は、カテゴリー化に基づく知識構造と想像力を介して、多様な意味を持つようになる。
ある1つの言語表現が持つ様々な意味は、プロトタイプ的な意味を中心として放射状に広がる1つのカテゴリーを形成している(Lakoff 1987)。
これは『放射状カテゴリー』(radial category)と呼ばれている。
また、カテゴリーには、
より上位の(より抽象的な)カテゴリー
(筆者注:「コンセプト思考術」では<コトの意味>)
や
より下位の(より具体的な)カテゴリー
(筆者注:「コンセプト思考術」では<モノの機能>)
が存在する
この関係は、言語表現の意味にも反映される。
Langackerの、プロトタイプとスキーマ及び拡張に基づくネットワークモデルは、放射状カテゴリーに、この上位/下位のカテゴリー関係を組み込んだものである」
上図において、
上向きの矢印は「スキーマ化」、
下向きの矢印は「具体事例化」、
横向きの矢印は「拡張」
をそれぞれ表わしている(cf.山梨 2000)。
プロトタイプから拡張事例への「拡張」は、何を踏まえるかと言うと、
概念間の類似性(それに基づくメタファー)
や、
概念間の近接性あるいは隣接性(それに基づくメトニミー)
である。
それらは、「コンセプト思考術」の用語法で言う
<モノの感覚>や<コトの感覚>の「親近性」に重なる。
たとえば、Wii Fitを医療器機と捉えれば、医療器機である血圧計との隣接性が想定できる。
「Wii Fitを医療器機と捉える」という発想がどうして可能となったかというと、最終的なシステム化が発想されていない段階では<モノの機能>ではありえない。
Wii Fitによるエキササイズの感覚がリハビリの感覚に近しいという<コトの感覚>の近接性からである。
「Wii Fitも血圧計と同じ医療器機と捉える」ならば、機能的にそれらを連携させる発想にすぐ結びつく。
Wii本体に血圧計を繋げて、医療的な効果をテレビ画面上に提示したりエキササイズ・プログラムを自動的に更新するようにしてはどうか、さらにはオンラインで医師の診断やアドバイスの情報を受信できるようにしてはどうか、と連想が進む。
この時、Wii本体とテレビモニターとWii Fitというシステムと、スポーツ科学の研究施設の実験計測システムや遠隔医療システムなどとの近接性が先によぎるのかも知れない。これは<モノの感覚>の近接性に他ならず、無意識的にはこれが媒介になって機能的な連携、つまり<モノの機能>の発想に至っているのかも知れない。
実際に私たちの発想がどのように展開しているかは定かではなく、各人各様であり、ケースバイケースであろう。
しかし、以上のような展開の手順を踏む、ないし踏まなかった手順を遡って踏むことは明らかに可能である。そしてそれを思考フォーマット(4概念要素で割り振られた6つの空欄)に概念要素として分別記入することで、概念構築を再現したり構成しなおしたりができる。
私たちはこうした思考についての思考、メタ思考によって、欠落していた思考を浮上させることや、補足して思考成果の全体をより創造的にすること、より現実的にすることができる。
これがまさに「コンセプト思考術」の狙いであり仕組みに他ならない。
◯カテゴリーの状況依存性
さらに、「コンセプト思考術」の狙いであり仕組みであることにパラダイム転換がある。
パラダイムとは、つまるところ、カテゴリーやそれにおいて成立しているプロトタイプが依存している状況のことである。
この状況についての、考え方や捉え方を転換してしまおう、というのである。
それはカテゴリーについての規定の変更を迫ったり、カテゴリーの意味を解消してしまおう、ということである。
それは、カテゴリーの状況依存性を意識化し、異なる状況とそれに立脚する新たなカテゴリーを提示することで達成される。
それは社会構成主義の用語法で言えば、「もう一つの物語」を語ることで「支配的な物語」を無意味化する、ということである。
(相互作用的属性)
「我々の用いるカテゴリーは、世界の中に客観的に存在するのではなく、人間が対象といかに関わるかその相互作用の結果(筆者注:あるいは物語)として規定される。
(理論に基づく概念観)
「認知意味論では指摘されることは少ないが、認知心理学ではプロトタイプ論に続くカテゴリー観として『理論に基づく概念観』が提案されている(Murphy & Medin 1985)。
理論の基づく概念観は、人間は世界をなぜ今あるように概念化するかという『カテゴリーの自然さ(naturalness)』に答えるもので、カテゴリーの備える意味のまとまりを重視する。
この概念観によると、自然な概念を構成する属性間には、意味的な相関=凝集性が存在する。(中略)
Murphy & Medinは、このような相関を支えるのは、環境の構造であるとともに、人間がそこに主体的に因果関係を読み込むからであるとし、カテゴリーの自然さは、そういった因果関係を支える”理論”によって保証されると述べている。(中略)
現在、発達心理学では、こういったカテゴリーを支える理論を、科学理論と対照させた『素朴理論』(folk theory)としてまとめる方向に進んでいる。
素朴理論とは、学校や社会で明示的に学習する科学理論と異なり、人間が日常の中で認める暗黙の常識のことであり、分野ごとに素朴物理学、素朴生物学、心の理論(素朴心理学)、等が提案されている」
「暗黙の常識」とは、既成概念や固定観念でもあり、それがカテゴリーが依存する状況、パラダイムを形成していることもある。
たとえば、Wiiのようなゲーム機器は遊び道具である、という「暗黙の常識」に囚われているかぎり、医療器機として捉えるという発想は浮上しない。
「素朴理論は、言語以前の世界に関する我々の経験をガイドするものであり、イメージ図式とも関連が深い(無藤 1994)」
私が思うに、この言語以前の世界に関する我々の経験をガイドする「素朴理論」を、
欧米人は、科学や一神教に代表される因果律に則った<知>の枠組みで捉えがちである。
反対に中国人は、易や天意を重んじる儒教に代表される共時性に則った<意>の枠組みで捉えがちである。
日本人は、因果律と共時性が渾然一体である縁起に則った<情>の枠組みで捉えがちである。
これは、
深層心理的には、
言葉が因果律や共時性に則って分化する以前の未分化な時代の<部族人的な心性>を温存しかつ基調として踏まえている、ということである。
同時に、戦後思潮史的には、
和漢洋(ひらがなの和語、漢字の漢語、カタカナ英語ないし外来語)を混交する言葉遣いによって、
欧米の因果律に則った<知>起点の発想思考と、
中国の共時性に則った<意>起点の発想思考とを、
日本人が原初から温存し基調としてきた縁起に則った<情>起点の発想思考で調和的に統合している、
ということである。
(アドホック・カテゴリー)
「Barsalou(1983)は、言語的に確立した概念だけでなく、実生活の中で暫定的に形成されるカテゴリーについて精力的に研究を進めている。
Barsalouは、人間が日常的に用いる概念は不変の固定的なものでなく、その場その場で動的に編成されるとし、そのような暫定的なカテゴリーをアドホック・カテゴリー(ad-hoc categories)と呼んでいる」
前述のWiiやWii Fitを遊び道具ではなくて医療器機として使う場合、それはアドホック・カテゴリーである。
(模倣学習と文化学習)
「一旦学習された道具や人工物の用途は、ある文化に暮らす人々にとってあまりに自然かつ常識的なものとなり、そこから逃れることは極めて困難になる。
つまり、我々の行為は、自然の環境だけでなく、文化的な伝統によっても制約されている。(中略)
これは我々にとって人工物とその用途が密接に結びついており、柔軟な発想ができなくなっていることを意味する。
Tomaselloは、このような人工物の用途は、共同体の中で観察と模倣によって文化的に学習されるものであり(文化学習)、これらが習慣化することで文化的な行為が円滑化されていくと述べている(Tomasello 2000)」
既存のパラダイムを成立させているのは、従来行われてきた「模倣学習」であり「文化学習」に他ならない。
よって、パラダイム転換は、この「模倣学習」や「文化学習」の成果である「支配的な物語」をともすると常識とも思わず条件反射的に繰り返して来ていることの意識化から着手しなければならない。
その際、「模倣学習」にしろ「文化学習」にしろ学習内容の製作者や発信者がいて、私たちが受信者になっているという相互関係を俯瞰することが不可欠である。
これを俯瞰するならばいろいろなことが推量でき、仮説でき、さらに仮説を検証して、仮説を「もう一つの物語」に仕上げることができる。
「このような人工物の用途はどのようなメカニズムで獲得されるのだろうか。この問題に関して、Tomaselloは人間が他者の意図を知覚する能力を持っていることを重視する。中でも重要なのは、我々は他者の行為を観察する際、試行の段階、つまり、ある目標が達成される前から相手が何をしようとしているかが分かるという点である。(中略)
Dennett(1996)は、このような他者の理解を志向姿勢(intentional stance)と呼び、他の人工物などの理解と異なることを指摘している。このような指摘は発達心理学の知見に照らしても妥当な見解であり、我々が他者の意図を理解できるのは、人間が生得的に他者理解のメカニズムとして”心の理論”を持つことによるとされている(Baron-Cohen 1995)」
学習内容の製作者や発信者、という送り手側の他者の理解も、この「志向姿勢」によって可能となる。
そして、消費者や生活者としての受け手側の理解は、私たちは自然体でできたり、より容易に「志向姿勢」によって可能となる。
ところが、送り手側と受け手側では利害が相反するから、優先する価値観が異なる。優先する概念要素が異なるから、当然、カテゴリー化が異り、カテゴリー構造が異なってしまう。
そうした両者と構築する概念体系の相互関係は、コンセプト思考術の思考フォーマットによって容易に構造的に俯瞰できる。
「最近の研究では、神経生理学の観点からも、他者の行為を見た時に自分が実際に動いている場合と全く同様の活動を示す神経細胞(ミラー・ニューロン)が発見されている(Galleze: 1996)」
「こういった他者の行為の先取り知覚は、行為や感情の理解に関わるメトニミーの基盤となっている。
例えば,後述する『筆をとる』、『筆を置く』といった動作はある目的をもった行為の一過程として知覚される。『筆をとる』という場合は、筆で何かを書きつけることが目的であり、我々はこのような低次の行為から高次の意図を知覚しているといえる」
送り手という他者の行為(構想→設計→生産→販売)の先取り知覚は、提供する<モノの感覚>を、行為や感情の理解に関わるメトニミーとして捉えることで感受される。その内容は言葉にしがたい暗黙知や身体知への直観を伴うこともある。
受け手という自己ないし同じ立場に立ちうる他者の行為(欲求→購入→利用→維持)の先取り知覚は、享受する<コトの感覚>を、行為や感情の理解に関わるメトニミーとして捉えることで感受される。その内容は言葉にしがたい暗黙知や身体知への直感を伴うこともある。
私は、以上の<モノの感覚>と<コトの感覚>が、言わば共感覚のようにシンクロするところに、日本人の発想思考の特徴があるように思えてならない。
そして、それがなぜ多くの日本人が自然体で得意としたり、その成果について誰もが敏感に予感したり深く知覚できるのか、というと、私たちの認知表現のOSである日本語がカギになっていると思うのだ。
特に、身体性と情緒性の両方を含意した日本語ならではの言葉遣いがカギなのではないかと仮説している。
なぜなら、そうした言葉遣いの成り立ち自体が、<モノの感覚>と<コトの感覚>の共感覚的なシンクロだからである。
(6)
http://cds190.exblog.jp/18569192/
につづく。