日本語と日本文化の特徴を考えるための認知言語学の知見(4) |
深田智 仲本康一郎 共著 研究社刊 発
(3のつづき)
http://cds190.exblog.jp/17577004/
からのつづき。
まず、日本語と日本文化の特徴を考えるに限らない、基礎的におさえておくべき認知言語学の知見から確認して行こう。
そしてその後に、各国の母語とその文化の特徴を考える上で鍵になる認知言語学の知見を確認したい。
「2.1.1 知識構造と意味モデル」から
「我々の知識は、日常経験をもとに構造化されている。
知識構造には、スキーマ、フレーム、スクリプト、シナリオ、理想化認知モデル、等がある」
◯スキーマ理論
「スキーマ(schema)とは、人間の思考や行動を司る知識の単位であり、(中略)
現在の心理学では、スキーマとは『環境との相互作用の過程で構成され、過去の経験を貯蔵・体制化しその後の知覚と経験を導く心的な構造』とされている(Mandler:1987:68)。
ここで重要なのは、相互作用の過程で構成される動的な構成体という発想と、過去の経験だけでなく未来の経験や知覚にも影響を与えるという点である」
「Bartlettは、人間が新しい現象を知覚または記憶する時に、それらを個別に処理するのではなく、過去の経験により組織化された理想的な構図あるいは図式を用いると述べている」
(「意味を求める努力」)
「これと反対に、Carmichaelらは、事物の命名がその後の記憶に影響を及ぼすことを実験的に示している(Carmichael et al.1932)」
(「知覚の体制化」)
「さらに、Bartlettは、物語などの文章の記憶も、写真のように外界を直接に反映するのではなく、個人的な経験や知識により主観的に改変されることを実験的に示している。(中略)
Bartlettは、このような記憶の変容は、記憶の欠陥によるものというよりも、人間が無意味な現象に能動的に意味を読み込んだ結果であるとしている」
「Piaget(1953)が子どもの認知発達の観点からシェマ(スキーマ)という概念を提案している。
Piagetは、人間を含めた生物=有機体は、環境から影響を受けるだけでなく、環境に能動的に働きかけ周囲の世界を構造化する存在であるという人間観に立っている。
そこで重要な概念は、環境への適応という概念である。
(「環境への適応」ということは、「環境をいかに捉えるか」という環境観を前提とする。
日本人の場合、自然環境は人間が適応すべきものであるが、欧米人の場合、自然環境は人間が克服すべきものである。中国人の場合、たとえば万里の長城を巡らしたり、巨大な岩山に漢字を彫り込んだり、環境緑化の視察官を騙すために山を緑のペンキで塗ったり、日本人にはない感受性を発揮することから、どちらかと言えば欧米人よりの自然環境は人間の自由に委ねられてしかるべきものと言える。
また、集団や組織や社会といった人間関係の総体を「環境」と捉える捉え方に、日本人と欧米人では大きな違いがある。
一神教の欧米人は神に「個人」として直接対峙し、そうした「個人」の集合が「社会」であり、「社会」も神と契約。日本人は社会の一員の「個人」ではなく、属する「世間」における位置づけ=「分際」、「自分」しかない。
つまり、欧米人は「個人」を土台として個人が生き抜くべき「環境」として「社会」を捉えるのに対して、日本人は「分際」を土台として「分際」が保たれるべき「環境」として「世間」を捉える。「分際」が「世間」において、「自分」として「お家」として保たれるのであれば死を厭わないということも極端ではなく大衆心理として働く。
たとえば、過労死。欧米人は、生きるために働いているのになぜ働いて死ぬのか、と理解できない。しかし、属する「世間」における「分際」を全うするという形のアイデンティティの死守の結果であると解釈できる。そして、日本人同士の間ではそれは理解できる動機なり柵なりなのである。)
Piagetのいう適応は、2つの意味を持っている。
第1は、生物は外界に対して自己の活動の図式を当てはめて行動を組織化するということ(同化assimilation)であり、
第2は、外界の事物や相手に対する活動がうまくいかない場合、自らの活動の形を変化させることで、よりよい適応の形を形成するということ(調節accomodation)である。
このようにPiagetの図式は、静的な閉じた知識ではなく、新たな経験によって活性化したり、また新しい図式を形成したりという動的な特徴を備えている。
こういった動的なスキーマ形成は、現在の認知心理学では”知覚の循環”と呼ばれ、図式の喚起によって行動や理解が方向づけられ、また、新たな情報によってスキーマが修正されるといった循環的なプロセスとして描かれている(Neisser1976:21)」
「Piagetの図式は、外界における身体的な活動の図式であり、新たな状況に対する構えのようなものと理解することもできる」
◯フレーム理論
「Minslyによると、ロボットや人間が柔軟に新しい状況に適応するためには、世界に関する詳細かつ完全な知識ではなく、その基本的な枠組みが必要であるという。(中略)
我々は『新しい状況に直面した時(あるいは、現在の問題に対する見方を実質的に変更した時)、記憶の中からフレームと呼ばれる基本構造を選び出す。
これは、人間が記憶している枠組みで、その細部を必要に応じて変更することにより、現実の世界に適合させるものである(ibid.:238)』」
「ここでいうフレーム問題は、いかにして状況に関与しない情報を無視するかという課題であり、逆に言えば、実際の状況で無視してはいけない状況をいかに効率的に発見するかということになる」
(「フレーム問題」)
「顔の知覚において重要なのは、目・鼻・口など部分の形ではなく、それらの部位の配置=構図(レイアウト)であることが分かってきた。(中略)
つまり、顔の知覚は、部分の合成によるものではなく、顔布置という大きな枠組み(顔フレーム)に基づくものと言える。(中略)
これはあらゆる事物や現象を生物的な有機体とみるアニミズム的発想とも関連を持つ。
その言語的な現れが、事物を人間と見なす”擬人化”ということになる」
(「相貌的知覚」)
「フレームは言語理解において、典型的な場面を記述する枠組みとして機能し、適切な理解や推論を行わせる。(中略)
言語に関わる知識の枠組みは大きく、
言語を理解するための知識フレーム(knowledge frame)と
社会的相互作用を含む発話の場面を理解するための相互作用フレーム(interactive frame)
の2つがあるとされている(Tannen 1993)」
(「言語理解フレーム」)
「スクリプト(script)とは、日常的な出来事や物語や歴史など、時間的な事態の推移を含む現象の理解のための知識の枠組みである(Schank & Abelson 1997)。(中略)
認知意味論では、こういった知識は、『受話器を取る』という表現で『電話をかける』ことを表すといった時間的な近接性に基づくメトニミーの理解に用いられるだけでなく、<人生は旅である>や<議論は戦争である>といった時間的な出来事の推移を含むメタファーにも利用されるものと見なされている(lakoff & Johnson 1980)。(中略)
こういったスクリプトの概念は、(中略)人間の出来事記憶にも成り立つことが心理的な実験で実証されている(Bower et al.1976,等)。
現在のスクリプト理論は、人間が将来の行動を決定する際の記憶モデルと見なされ、他者の行動理解や自己の行為調整といった、実践的な活動の資源として利用される知識構造として提案されている」
(「スクリプト理論」)
「我々は、日常経験のすべてを同程度に重視して知識を構造化しているわけではない。日常生活の中でよく起こる、より基本的な経験をもとに構造化している。
この基本的な経験(言い換えれば、プロトタイプ的な経験)は、『理想化認知モデル』(Idealized Cognitive Model,ICM)と呼ばれている(Lakoff 1987:Cf.4)。
理想化認知モデルは、様々な条件を内包した1つの複雑な構造体、『経験的ゲシュタルト』(Experiential gestalt)である。
この理想化認知モデルの構造化には、Fillmore(1982)のフレーム理論における命題的構造、Langacker(1986)の認知文法におけるイメージスキーマ構造、Lakoff & Johnso(1980)におけるメタファー的/メトニミー的写像が関与している。(中略)
理想化認知モデルは、単なる背景知識ではなく、我々が日常経験を把握していく際の指標、すなわち、多様な日常経験をカテゴリー化し、構造化していくための基準としての役割を果たしている」
(「理想化認知モデル」)
「2.1.2 身体的基盤と言葉の意味」から
◯身体性
「言葉をはじめ、我々の思考や推論、行動には、この身体を基盤とした主観的な解釈、すなわち『身体性』(embodiment)が反映されている。(中略)
経験基盤主義の実在論では、心と身体は分離不可能であり、言語を獲得する以前と以後の身体的経験は、認知への動機づけとして連続的に捉えられる。
我々は、身体を介して外界とインターアクトしながら、様々なことを経験し、概念に先行する意味のある構造(イメージスキーマ)を形成する。このイメージスキーマをもとに、我々は、さらに、メタファーを介して心理的領域や社会的領域に関わる経験を構造化していく。
概念構造の基盤には、このような身体を介した経験と主観的な解釈のプロセスが認められる」
◯身体性とイメージスキーマ形成
「我々は身体を介して日々様々なことを経験する。個々の具体的な経験は非常に複雑な構造をしているが、その中には繰り返し現れる比較的単純なある一定のパタンや形、規則性などが存在する。
このパタンや形、規則性は、イメージスキーマ(image schema)と呼ばれている(Johnson 1987,Lakoff 1987)。
身体的経験を介して獲得されるイメージスキーマは、意味のある統一体、すなわち、経験的ゲシュタルト(experiential gestalt)である。
我々は、このイメージスキーマを介して個々の具体的経験をカテゴリー化し、このイメージスキーマ構造をメタファーに写像していくことによって概念構造を構築していく。
イメージスキーマは、概念構造を形成する基盤、すなわち『前概念的構造』(preconceptual structure)の1つである(Lakoff 1987:267-268)」
(「イメージスキーマ」)
「イメージスキーマの典型例としては、<容器>の他に、<経路>(PATHS)、<リンク>(LINK)、<力>(FORCE)、<バランス>(BALANCE)、<上−下>(UP-DOWN)、<前−後>(FRONT−BACK)、<部分−全体>(PART−WHOLE)、<中心−周辺>(CENTER−PERIPHERY)などが考えられる。
これらはすべて、日常経験から立ち現れる普遍性の高いイメージスキーマである。
これらのイメージスキーマを介して、我々は、概念構造を構築し、日常経験を理解し、推論を行う」
(ちなみに日本人にとって「世間」は、日常経験から立ち現れる普遍性の高いイメージスキーマの代表である。
ある人が、「そんなことは世間が許さない」と誰かに言った時、その「世間」はその言った人の属する「世間」なのであって、必ずしも言われた誰かの属する「世間」とぴたりと重なってはいない。その点では、神と契約した「個人」の集合である「社会」、これも神と契約しているのだが、そうした「社会」のもつ普遍性はない。極めて主観的で恣意的であるが、それでも同調圧力の高さを特徴とする日本人の場合、大衆心理として日本人の身内意識の及ぶ範囲で普遍性をもつ。
この「世間」においては、内と外=身内と余所者、「世間」における分際の上と下が重視される。これは欧米人の社会観、個人観という<社会人的な心性>と大きく隔たるものだが、有史以前の人類普遍の<部族人の心性>である。欧米人もそれを幼児心理としては発揮したり成人しても深層心理に潜在させていて時に大衆心理として顕在化させる。その典型例を上げるならば、白人社会という「世間」における人種差別だろう。神の前に平等であるという一神教の<社会人的な心性>の基本を逸脱しても正当化される「世間」である白人社会を前提とした。)
「子どもは、意味というものを理解する以前の生後3ヵ月くらいの段階から、世界を『知覚的』にカテゴリー化している。
この時期のカテゴリー化は、能動的に動くか否か、生物的な動きか否か、自分とインターアクトするか否か、動くのか動かされるのか、ぴったりとしているのかゆったりとしているのか、何かの中に含まれているのか否か、等といった、とりわけ視覚によって観察可能な空間的・運動的特徴に基づいている。(中略)
意味は、この種の知覚内容をカテゴリー化するというプロセスの中で発現。(中略)
この知覚的意味分析を介して取り出されたイメージスキーマは、事態を表示したり概念を構築したりするための判型(format)として機能する。
この判型自体を知覚したり認識したりすることはできない。初期の段階におけるイメージスキーマは、意味の発現以前の、運動に関連した空間情報や空間移動に関わるダイナミックでアナログ的な表示である」
(「空間情報と移動に基づくイメージスキーマ」)
言葉の問題としては、赤ん坊をあやす「高い高い!」や「いないいないバーッ!」、赤ん坊に向かってその行動を表現する「はいはい」「たっち」などの語感が、赤ん坊がイメージスキーマを形成する知覚的意味分析を促したり形成過程に応じたりしているように思える。
この時、赤ん坊の言語学的な発達を促すのは、何も言葉だけではなく、だっこやおんぶや添い寝など多様なスキンシップを含むノンバーバルなコミュニケーションも重要な働きをする。
赤ん坊を前で抱くか背負うか、幼児を親と同じ部屋で寝かせるか別の部屋に一人で寝かせるかなどの文化差も多分に影響してくると思われる。
「成長するにしたがって、子どもは、物体の分析を中心とする知覚的意味分析だけでなく、世界全体を意味あるものとして分析できるようになる。
それによって、イメージスキーマどうしを結合させ、様々な概念を獲得していく。この種の概念の獲得は、言語を習得する以前から始まり、単純な文法形式を理解するのに応用される。
言語習得によって、子どもは、事態をより細かな概念へと分析できるようになる。
<生物>か<無生物>かといった大まかな分析から、<犬>と<猫>の区別ができるような段階へと移行するのである。
さらに、言語を習得することで、子どもは、その言語に特有の事態の表示の仕方や解釈の仕方を習得する」
ここで、言語習得によって、
区別が精緻化する段階への移行は、各国の母語と文化に関わらず展開するのに対して、
言語に特有の事態の表示の仕方や解釈の仕方を習得することは、各国の母語と文化の特徴に直結する。
本書では、次のような例をあげている。
・「英語では主として前置詞で表わされる<容器性>の概念は、韓国語では動詞で表わされる。
また、韓国語において<容器性>の概念を含む事態の解釈に重要な<ぴったりしている>か<ゆったりしている>かという概念(TIGHT FIT と LOOSE FIT)は、英語では重視されない」
「Mandlerは、イメージスキーマを、意味の獲得以前の知覚的意味分析能力によって抽出されるダイナミックでアナログ的な空間関係表示あるいは空間移動表示として規定している」
日本語の場合、この知覚的意味分析を介したイメージスキーマの形成において、擬態語的ニュアンスの色濃い幼児語そして擬態語が特徴的に働いているように思われる。
たとえば、赤ん坊から幼児にかけて、動物を見ながらわんわんは<犬>、にゃんにゃんは<猫>と名詞を教わる。自分がしていること、なっている状態を体験しながら、おねんねは<寝る>、おねむは<眠い>と動詞や形容詞を教わる。
さらに幼児の言語習得能力が高まってから憶える副詞や擬態語は、それがどのような程度や状態を表すのか、親の身体性(表情を含む)の表現を心身でシミュレーションしながら子供は体得していくように思われる。
たとえば、「はやく」は「はやく寝なさい」と言われる場合と、「はやく歩いて」と言われる場合があり、どのようにして子供は前者は時間的に早くであり、後者は速度的に速くであると理解するようになるのか。親と自分が形成しているその場の状況、親の発する言葉の語感、親の表情などを反復的に経験する内に親の言わんとしている意味を確実に理解するようになる。
たとえば、「ぐずぐずしてないでさっさと食べなさい」と言われると、自分がしていた状態が「ぐずぐず」であり、自分にそう改めることを求められている状態が「さっさと」であると理解するようになる。
日本語に特徴的なのは、「早く」「速く」の方の言語習得過程ではなく、「ぐずぐず」「さっさと」の方である。
「ぐずぐず」は単に「遅く」という<身体性>だけでなくそれが伴う<情緒性>を含意している。
「さっさと」も単に「速く」という<身体性>だけでなくそれが伴う<情緒性>を含意している。
その含意の内容を言葉にして正確に表すのは困難である。個々の体験によって、言葉が発せられた状況に応じて意味にブレがある。しかしおおよその<身体性>と<情緒性>の相関するイメージを日本人同士であれば推量できている。
この日本語に特徴的な、<身体性>と<情緒性>を含意する身体語や擬態語、その言語習得過程は、おそらくMandlerの指摘した知覚的意味分析を介したイメージスキーマの形成において、身体的知覚と情緒的知覚を追加したものと捉えるか、次に本書が解説している「身体化されたシミュレーション」(embodied simulations)の一部と捉えるか、あるいはその両方に股がるものと捉えるかするべきなのだろう。
「言語学者や心理学者の多くは、イメージスキーマを、長期記憶の中に形成されたスタティックな表示として規定している。(中略)
これに対し、Gibbs(2005)は、イメージスキーマにはスタティックな表示としての側面だけでなく、オンライン処理の際に起こる『身体化されたシミュレーション』(embodied simulations)の一部というダイナミックな側面もあることを指摘している。
例えば、ある文を、その文の意味に合う絵を見せながら提示した場合とその文の意味とは異なる絵を見せながら提示した場合における被験者の反応時間の違いを比較してみると、前者の方が反応時間が早い」
(「オンライン表示としてのイメージスキーマ『身体化されたシミュレーション』」)
この実験における「ある文」と「文の意味に合う絵」の関係が、そのまま「ある副詞や擬態語」と「その意味に合う程度や状態を示す身体や表情」の関係に重なる。
「言語表現の意味の理解の背後には、何らかの身体的なモデルとそれを特徴づけているイメージスキーマ、及びこの2つに基づくその事態のシミュレーションが存在している」
本書では、<容器性>と<力>のスキーマに相当する英語の身体語表現で例示しているが、日本語の身体語表現の場合、事態のシミュレーションに具体的な<身体性>だけでなく抽象的な<情緒性>も含意されるケースが多いのが特徴である。
たとえば、「鼻の下を伸ばす」などはその典型だろう。実際に、男性は助平なことを考えると鼻の下が伸びるのかどうか分からないが、なんか伸びていそうな身体感覚に心当たりがあり、伸びてないか気をつけたりしてしまう。また、漫画やアニメの表現では、実際に鼻の下を伸ばす表現をしていて、それを見た者もその心理を助平と読み取る。
また、<情緒性>の表現にあえて<身体性>を含意させているケースも多い。
たとえば、惜しい、悔しい、ならば英語も中国語もあるが、「口惜しい」となると日本語ならではの表現であり、口の様子がシミュレーション的に喚起される。
「Gibbs(2005:131-132)は、オンライン処理の際に起こるこのような身体的なシミュレーションの一部としてのイメージスキーマを、生物としての人間が持つ、自己組織化体系(self-organization systems)内のアトラクター(atractors)として位置づけている。
このアトラクターは、この自己組織化体系内で安定したパタンを創造し、それらを保持するのを助ける役割を果たしている。
自己組織化を可能にするサイクルには、
生物としての統制をとる身体全体のサイクル、
自らと環境とを関連づける知覚運動サイクル、
他者の意図の理解をはじめとする間主観的インターアクションのサイクル
の3つがある。
オンライン処理に関わるイメージスキーマは、この3つのサイクルの中から立ち現れ、脳(あるいは心)と身体と世界との構造的な結びつきを表示する認知体系内の安定したパタンである」
「Gibbsの研究は、イメージスキーマを脳に局在している心的表示として捉えるだけでは不十分であることを明らかにしている。
イメージスキーマは、ダイナミックな自己組織化体系の中で、日々の活動を通して繰り返し創造される経験パタンである」
たとえば、「目が点になる」という表現がある。引いてしまうような類の驚きを表現する。
この表現は、漫画やアニメでもそのままの形で表現された。
最初は「目が点になる」という言葉を知る者がそれを絵にした。次の段階では、まだ言葉を知らない者(たとえば外国人の日本アニメのファンなど)も含めて、ちょうど日本人の幼児が親の発話と様子から言葉を学ぶように「目が点になる」絵を見てそれが表現する感情を理解するようになる。すると彼らは、そのような類の驚きをした時に、絵のように目の表情を無くしたり、「目が点になった」という言葉遣いがしっくりきてするようになるのかも知れない。
「ダイナミックな自己組織化体系の中で、日々の活動を通して繰り返し創造される経験パタン」とは、ここまでの広がりを持つものと考えられる。
ここまで考えてくると、日本語と日本文化の特徴を考えるための認知言語学の知見、として「イメージスキーマ」が不可欠の鍵の一つとなってくる。
「イメージスキーマは、相互に関連し合っている可能性がある」
(「イメージスキーマのネットワーク」)
本書の解説では、<出入り>や<起点−経路−到達点>、<容器>とその下位の<虚−実><内−外><表−裏>のスキーマで例示している。
私は、
各国の母語とその文化を通じて普遍的な<低コンテクストのスキーマのネットワーク>ではなく、
日本語とその文化に特徴的な<高コンテクストのスキーマのネットワーク>に注目したい。
たとえば、前述の「目が点になる」という言葉遣いは、顔のある部位の様子をメタファーとして表情そして感情を表現する。そしてそれが漫画やアニメの絵の表現にそのまま展開する。
これと同様に、「ガーンとなる」という言葉遣いは、ショックのあまり無表情になる様子をメタファーとして表情そして感情を表現する。そしてそれが漫画やアニメの絵の、顔面を斜線で覆うという表現に展開する。
ここで、「日本語とその文化に特徴的な<高コンテクストのスキーマのネットワーク>」が、
顔の表情の群といった<同次元のネットワーク>と、
言葉遣いと絵の描き方といった<異次元のネットワーク>に展開していることは、
じつは特筆すべきとても重要な事柄だと思う。
(<同次元のネットワーク>は、
顔の表情についての「言語を理解するための知識フレーム」に重なってくる。
<異次元のネットワーク>は、
話し手と聞き手の関係についての「社会的相互作用を含む発話の場面を理解するための相互作用フレーム」に重なってくる。
漫画やアニメでは、物語に登場する話し手と聞き手の関係だけでなく、物語の語り手とその聞き手あるいはコンテンツの提供者と鑑賞者の関係も展開し、時にそれらが交錯するが、その意図を発想したり理解するのはこのフレームによる。
日本の漫画アニメでは、この<異次元のネットワーク>の展開が顕著に多彩であるように思う。
たとえば、綺麗に描かれていたヒロインの顔や姿が突然、粗末な描き方の変な顔や姿になる。よく見掛けることだが、アイデンティティが崩壊するような描法変更は欧米コミックではあまり見掛けない。
また、梶原一騎原作、ちばてつや画の「あしたのジョー」では、登場人物の力石徹の葬式が行われた。連載元の講談社講堂で劇作家の寺山修司による主催で約800人ものファンが詰め掛けた本格的な葬儀となった。
この他にもファンに愛されて、アニメや漫画の中で死んでしまった後、現実にお葬式が行われたキャラクターはいる。アニメ化された麻雀マンガの「闘牌伝説アカギ 」の赤木しげる、作品内で死亡した日付に「十周忌」が行われた。およそ1000人が参列した。原作者の福本伸行が墓碑ノミ入れを行った。「北斗の拳」のラオウ、東京の高野山東京別院で「昇魂式」が催された。会場には葬儀委員長の谷村新司、映画でラオウの声優を務める宇梶剛士のほか、角田信朗、武田幸三、森下千里らが参列。雨の中、3000人以上が参列。実際の寺院で、アニメキャラクターの葬儀が行われたのは初めてだった。)
(5)
http://cds190.exblog.jp/18479053/
につづく。