「江戸の用語辞典」を読んで気づくこと(備忘録)(14) |
江戸人文研究会編 廣済堂出版刊 発
*今回は「[け]から始まる言葉」についてのメモでございます。
「[芸者]げいしゃ
江戸初期はもっぱら[太鼓持]など座敷を盛り上げる男性を指しました。
女性は[芸子]と呼ぶのが一般です」
いつの頃からか芸者と言えば女性であって、[太鼓持]や幇間のことを「男芸者」と呼ぶようになった。
どのようにしてこうした反転は起こるのだろうか?
今、女性の芸人のことを「女芸人」と呼ぶが、その時点である役割でメジャーな性だと役割名をそのまま言い、マイナーな性だと男女を最初に示した役割名になるようだ。
「女寿司職人」もそう。
「保父さん」などもこの系統に位置づけられる。
日本人には当たり前だが外国人からすればかなり珍しい。
いちいち男女を断らなくていい、というのが外国人の感じ方で、それに合わせて「看護婦」や「保母さん」といったある役割について特定の性を前提にする言葉遣いをやめて、「看護士」や「保育士」といった性を特定しない「◯◯士」という言い方になった。
一方、
夫を失った女をやもめと言い、その逆の男版を「男やもめ」という。
男の囲われ者の女を妾と言い、その逆の男版を「男めかけ」という。
これらはある役割でどちらの性がメジャーかマイナーかではなく、男女の役割関係の逆転というニュアンスがあると思われる。
「主夫」なんかもこの系統に位置づけられる。
「[傾城]けいせい
①『傾国』ともいい、国を傾けてしまうほど魅力のある女性のことを申しまして、主に[花魁]を指します。
『傾城町』は遊女町のことです。
②男傾城は[男色]を売る者、
または女性相手の美男の娼婦、情夫を申しました」
「男傾城」は[傾城]に男をつけることで、
男性主体での女色を男色に、
男性主体を女性主体に、
の2つの方向に反転していることになる。
「[芸子]げいこ
女性の[芸者]のことでございます。
お座敷で、舞や歌、遊びを披露し宴席を盛り上げるのがお仕事でございます。
上方では『芸妓(げいこ)』と書きます」
江戸初期はもっぱら座敷を盛り上げる男性を[芸者]と言ったということは、男の[芸者]が一般的だったのだろう。
それが、女の[芸者]も出て来てこれを区別するために、者を子や妓に替えて[芸子]「芸妓」と呼んだのだろう。
「[蹴転]けころ
江戸中期に上野から下谷周辺にいた私娼を申します」
江戸時代の最下層の娼婦・女郎がお客を蹴って転ばせてまでして店に入れていたことから「江戸時代の最下層の娼婦・女郎」を 意味する、と言われる。
生業を特徴づける動作メタファーがそれを営む人を表現する江戸の言葉は多い。
それは、売春する人→売春婦、といった明示知で分る造語法にとどまるものではない。それなら世界各国語に腐るほどある。
そうそう、あの辺の連中はそういう客あしらいするよね、といった客としての文脈を共有した上の暗黙知を踏まえた造語法がユニークであり、そうした江戸の言葉が多いのだ。
また、客の誰とでも寝る「転び芸者」から由来し、簡単に男と寝る素人風の女性のこと、とも言われる。
しかしこの「転び」は、誰でも構わず身を売ることが「不見転(みずてん)」と言われ戒められたこととの関連が想起される。
これらの場合、「転ぶ」のは体を売る方であって、蹴って転ばされる客の方ではないから、私はこちらの説はとらない。
「[下馬評]げばひょう
[下馬所(げばしょ)]付近で待たされる御供たちによる、[大名]や[旗本]の評価、噂のことを申します。
少しは内情を知った関係者による噂ですから、信憑性もございまして、庶民のゴシップ心をワクワクさせました」
今は、第三者が興味本位にするうわさ・批評のことを総じて[下馬評]と言う。
この意味の変化には[下馬所]など知らぬ庶民の、下世話で馬鹿らしくもある、といったニュアンスの連想が働いているのではなかろうか。
若い頃、江戸時代的な[下馬評]にふれた体験を思い出した。
日経新聞主催の見本市のテーマゾーンをプロデュースした際のことだ。
急きょ、総合事業部の人とどこかに急行することになり本社地階の新聞社のクルマの発着場に向かった。
たまたま私だけ先について待っていたのだが、その際、運転手の一人が同僚と「おいおい、総合事業部だってよ、この忙しい時に」と言っていた。
彼ら仲間内では事件記者を乗せて急行するのがやり甲斐と面白みのある仕事であって、時には、新聞に載る前に一般人に先駆けて重大事を知ることにもなる。しかし見本市や講演会を手がける総合事業部の事件性も緊急性もない案件の移動は、自分らでタクシーで行けよ、という感覚らしい。
彼らは日経の社員ではなくて契約ハイヤー会社の人間なのだったが、好奇心は立場をこえて誰もを魅了する。
現代の黒塗りの運転手も江戸時代の登城の御供も、待つのが仕事だ。そして待っている間に同業や同僚とおしゃべりして時間をつぶす。共通の話題は、誰それをどこに乗せて行ったがその際・・・といった誰もの好奇心をそそりわくわくさせる情報だ。
*次回は「[こ]から始まる言葉」のメモでございます。