「江戸の用語辞典」を読んで気づくこと(備忘録)(9) |
江戸人文研究会編 廣済堂出版刊 発
*今回は「[お]から始まる言葉」についてのメモの続きでございます。
「[往来切手]おうらいきって
江戸時代のパスポートでして、自分の国から出るためにはこれが欠かせませんでした。
[道中手形]『往来手形』は関所ごとに一枚ずつ必要でしたので、諸国を巡る商人は往来切手を使いました。
切手には何処の国の某であると記されて、管轄役所の判が押されておりました。(中略)
今日のパスポートは日本国籍を証明し『通行と保護を願う』旨が記されておりますが、往来切手には『行き倒れても、知らせは不要』と書かれておりました。『旅先で死んだら、そこで埋葬してもらってかまわぬ』ってことです」
江戸城下町や各藩の支配下にあった身内の者が縄張りの<内>から<外>へ出たとたんに、彼らは「はみ出し者」という扱いになった。
それが「お家大事」主義と同じく統一的な価値観だったために、江戸時代を通じて「流れ者」=「はみ出し者」という捉え方が一般的に定着したと考えられる。
特にそうした捉え方は、農本主義の定住民を前提とする士農身分において厳しかった。
工商身分およびそれ以下の芸人などの身分では、幕藩の御用や認可を受けた多様な移動民・転住民が厳しい監視下において例外的に容認された。
それ以外の管理から漏れる者は、「はみ出し者」の「流れ者」であって「関所破り」をしたり「裏街道」を行かなければ移動できない。そして「関所破り」は大罪だった。
じつは、こうした交流の構造が、現代の日本人の知識創造の構造にも当てはまる。
たとえば産学共同とは、お上の御用や会社の認可を得ているもので、このタイプの恊働に参加するナレッジワーカーは、江戸時代で言えば権力なり権威の管理下にある「表通り」を行く移動民に相当する。
このタイプの移動民はベースとなる定住拠点をもっていてそこから反復的な往復運動をしている。現代のナレッジワーカーで言えば、あくまで帰属組織と固定的な専門分野をベースに同様のタイプと、帰属組織やそれが属する業界や学界の用意するパラダイムで交流する。
よって彼らは「はみ出し者」でも「流れ者」でもないし、「関所破り」に相当する、想定外の異分野との交流をともなった用意されないパラダイムへの逸脱は決してしない。
私は、以上のタイプとその有りようが良いとか悪いとかいうつもりはまったくない。
支配的なタイプはそういうタイプだという事実を指摘して、もう一つのタイプもあるという事実を指摘したいだけだ。
現下の現実を指摘すれば、今、話題のフューチャーセンターのほとんどはこのタイプのものである。
その参加者の大方は、企業や役所や大学やNPOといった組織の一員として参加している。組織を辞めたとしても参加する者、参加させてもらえる者はきわめて少ないだろう。ここが、かつてバブル期をピークとした、あくまで有志個人をベースに草の根的に自然発生した勉強会や異業種交流会との大きな違いなのだ。
若い世代ほどそれに関わった経験がないため、この本質的な違いとその意義に思い当たらない。大した違いはないと思っているようだが、実際、かつての勉強会や異業種交流会で培われた恊働関係は個人同士がベースであり、属した組織を辞めても何ら関係なく継続した。今自分が組織の看板を掲げて参加しているフューチャーセンターで、無条件にそのような展開が許されるかどうか、一度自問してみてほしい。
以上、組織や権威の看板で「表街道」を行くタイプについて触れたが、それとは違うもう一つのタイプもいるし、あたなも成りたければ成れる。
それは江戸時代で言えば、「関所破り」をしたり「裏街道」を行って移動していた幕藩の管理下から漏れる「はみ出し者」の「流れ者」である。
現代の知識創造の構造におきかえれば、世間一般では想定外の異分野との交流への逸脱をする者、典型的には「異端」と言われる者に相当する。
世の中、逸脱の仕方ほど多様なものはない。
逸脱してまで達成しようとする課題は、逸脱者の数だけあると言える。
そうした者の活動こそが、真の多様性を育んでいく。
極めて少数派である逸脱者の課題は、そもそも担い続けることのリスクが大きく、未達成になりがちだ。しかし逸脱者は逸脱者に学ぶため、未達成の課題と成果を積極的に引き継ぎ孤軍奮闘する者が必ず現れてくる。課題未達成で行き倒れになった骨を拾う者はいなくとも、課題と成果の一部を引き継ぐ者が一人でもいるならばそれでいい、というのが「はみ出し者」の「流れ者」や「異端」の心構えなのだろう。
「[大店]おおだな
大きな店の意味でございます。大店が並んだ最大の通りは日本橋通りで、その中で最も大きかったのは三井越後屋(現・三越)でした。従業員が千人いたそうですから、一国のお城なみのスタッフでございます。
ちなみに三井越後屋に遅れること179年、西暦1852年に世界初のデパートといわれます『ボン・マルシェ』がパリにオープンいたしましたが、従業員は三百人ほどでございました」
ボン・マルシェは、バーゲンセール、ショーケースによる商品の展示、値札をつけ定価販売を始めるなどの百貨店としてのシステムを確立したと言われる。
ところが正札販売については、三井越後屋の方が先で世界で初めてだそうだ。
ボン・マルシェは、現代にまで継承されている「ショーケースによる商品展示」の対面販売をフロアー展開したのだが、これと三井越後屋の販売方式の違いが、従業員の人数の多寡に反映していると考えられる。
三井越後屋の場合は、売り手と買い手の1対1の対応が時空を問わず継続するのが基本である。持ち場のショーケース周りとか百貨店店内といった特定の場所やそこが運営される時間に限定されない。
具体的には買い手が得意客か一見客かや、身分の高低で売り手も相対する場所も異なった。
つまり、経営者がいてマネージャーがいて売り子がいるという欧米的マネジメントではなくて、売り手一人一人が「個人商店」であるような人間関係を買い手ないし得意客との間に形成して維持していったのだ。
たとえば、身分の極端に高い買い手であれば経営者自らが相手先に商品ラインアップをもって出向くトップセールスした。上得意であれば幹部マネージャーが店の座敷で応対した。ごく平凡な一見客であれば平社員クラスの売り子が店先で対応した。
ボン・マルシェと三井越後屋の従業員の多寡は、小売店規模の大小よりも、こうした販売体制としての人的組織の構造的な差異の方が反映していると考えられる。
そして、まったく同様の事柄が現代の企業社会にまで持ち越されている。
いろんな業界の大手から零細までの会社で、営業マンやクリエイターが、組織の制度の範疇でその管理と支援を受けながらも、まるで「個人商店」のように振る舞っているケースが多々ある。
バブル崩壊以降の日本型経営の全否定において組織のフラット化が図られた筈の会社でも、「個人商店」的に振る舞って顧客の期待に応え続ける実力派は多くその存在感も大きい。
業界によっては、彼らの部下を育成し管理する能力よりも、個人プレイの営業開拓能力や新機軸創出能力に期待して、彼ら向けのキャリアステップを用意している大手も多い。
大手広告代理店の場合は、人気実力派の「個人商店」的なクリエイターが独立した後も緊密な関係を保つことでお互いのメリットを交換していたりする。
こうした社員の「個人商店」的な有りようとそれへの会社の対処は、今も日本の<世間>ならではの微妙な暗黙の了解によって成り立っている。
このことは、村社会の農耕における共同作業の人間関係から出て来る類ではないなので、私は以前からその起源について興味をもってきた。
ひょっとすると、三井越後屋以前の小売りの有りようが起源なのかも知れない。
三井越後屋が世間に先駆けて「店先売り」を始めた訳だが、それは、文字どおり来店した客に商品を売るというものだ。つまりそれまでの大店の商売は、セールスマンが商品を包んだ風呂敷をかつぎ顧客を訪問するのが一般的だった。そのため大店ほど多くのセールスマンを抱えていた。
そこに三井越後屋が大都市江戸の中心地で、通行人が気楽に立ち寄れる店構えにして「店先売り」を始めて大成功する。たくさんの商品をその場で見ることができるのも人気の要素だったという。
つまり、「店先売り」がその後の小売りの趨勢となったものの、人材体制は従来の「訪問販売」のそれが残存した(三井越後屋の場合、上得意の大名武家屋敷への「訪問販売」が継続された筈で、それが現代の「百貨店外商」に繋がっている)。それが、現代に至る社員の「個人商店」的有りように繋がっているのではなかろうか。
そして「訪問販売」=「行商」の原型は、「旅行商」であって移動民である。
会社の「個人商店」的な実力派の中には、割り当てられた業容をどんどん顧客の期待に応じて変容させていく者や、条件さえ整えば容易に独立する者が多い。
どちらかというと組織より自分個人に依拠するメンタリティの持ち主が「個人商店」的=「行商」的な能力を発揮するのは、古来からの人材の様相なのかも知れない。
「[大縄地]おおなわち
下級武士に与えられた[組屋敷]のことを申しまして、徒組、小納戸組などの組ごとにまとまって与えられました。
身分は低くても[御家人]であれば百坪以上の土地がありましたので、菜園を作ったり、[長屋]を建てて貸したりする武士もおりました。今日でも御徒町や納戸町などの地名が残ります」
私は二つのことを指摘したい。
一つは、[組屋敷]が「組ごとにまとまって与えられた」ということは、そこには連座制が働くということだ。
つまり、同じ組の一員が逸脱をした罪で全員が罰せられるため、誰も逸脱しないように相互に監視し抑制するというメンタリティが無自覚的に血肉になっていった。
これは村社会の五人組でも同じで、戦中の隣組から現在の町内会まで日本人の血肉になっている。集団を身内で固める「家康志向」の不文律でもある。
いま一つは、維新後に「武家の商法」がうまく行かなかったこととの関係だ。
「武家の商法」がうまく行かなかった具体的な理由は様々だろうが、総じて言えることは、[組屋敷]の様相に象徴されるように、武士はビジネスの資源を受け身で与えられ機会を組の一員として横並びでとらえてやってきた訳だが、それが身分よりも経済を優先するようになった維新後の社会でまったく通用しなかった、ということだと思う。
しかし、豊臣秀吉も斎藤道三も遍歴商人、つまり行商から身を起こしている。武士だからと言って、個々人に商才がない訳では決してない。つまり、個人よりも組織に依拠しようとするメンタリティこそが、依拠できなくなった環境で「武家の商法」がうまく行かなかったことの本質的な原因なのだ。
こうしたメンタリティの様相は、現代の企業社会における組織人と起業家やフリーランスとの関係にもまったく同様に見て取れる。
最初から起業家なりフリーランスになるという人は稀だ。たいていは会社なり役所なりの組織人を経験してから独立している。
その際、うまく行く人とうまく行かない人がいるがその両方に、もともと居た縄張りの<内>で御用や下請けに止まる人と、もともと居た縄張りの<内>に囚われず新たな<内>に関わったり、そうした<内>同士を<外>からつなぐ「関所破り」をする人がいたりする。
そもそも幕藩体制の武士には、土地というビジネス資本を個人で購入して所有することが許されなかった。
幕藩が貸し与えた屋敷の土地を、組の一員として横並びで活用することだけが許されていた。幕藩の経営が疲弊する中、役目を与えず俸禄を減らし残りの生活に必要な分は自分で稼げと言われる武士が増大した。しかし、土地というビジネス資本を個人で所有して活用することが許されない以上、彼らにできることはとても限られていた。坂本龍馬の叔父が武家相手の金貸しをしていたなどは、かなりの才覚の持ち主と言えよう。
私には、こうした幕藩体制下の武士の様相と、現代の「家康志向」一辺倒化しかつ組織を機械論化し人材を機械部品化してしまった企業社会の社員の様相とが重なってしまう。
1990年代までは、自由に活動する個人を集団に構成する「信長志向」を「家康志向」と合わせ技する日本的経営が一般的だった。そこでは、<内>と<外>を融通無碍に交流させる前者が、<内>と<外>を峻別する後者の限界を補完していた。同様のことが社内の事業部門間にもあって、前者が全社最適を捉える企業家精神にのっとって横断的連携を促し、後者の事業部門の相互不干渉で分断された縄張り主義の限界を補完していた。
そうした時代までは、組織よりも個人に依拠する社内外の人材がその個性的能力をさらに活かすべく勉強会や異業種交流会を草の根的に自然発生させ、プライベートな交流にも関わらずその成果をオフィシャルに発展させていたのだ。
野中郁次郎氏が指摘する日本型の知識経営の中核を担うミドル=ナレッジワーカーは、当時はトップ=セマンティック・カタリシスとロワー=エキスパートという上下を繋ぐだけの媒介者ではなかった。事業部門同士、社内と社外、異なる業界・業種同士という左右内外も繋ぐ媒介者だったのだ。しかも、それを個人の資質と熱意と創意によって達成していた。だから誰でも中間管理職になれば、そうしたハブ型キーマンになれた訳ではない。そしてその内の、全社最適を深慮遠望できる企業家としての資質のある者がトップ=セマンティック・カタリシスになるのが優良企業のパターンだった。
ところが現代の機械論化した組織において機械部品化した社員はどうか。
「幕藩が貸し与えた屋敷の土地」というビジネス資源を「組の一員として横並びで活用する」というビジネス機会だけを許された御家人状態にある。
このことは、会社や役所の看板を掲げて参加し業界や官界の思惑から逸脱しない範囲の対話によって未来を見ようとする、大方のフューチャーセンター参加者にも大筋で言えよう。
異なる立場の異なる知識分野の人々が横断的に対話する場、そういう場ならば古今東西の各方面でいろいろに展開してきた。
「フューチャーセンター」もそういう場ではあるが、その本質は間違いなく「未来志向」にある。
これにU理論の「未来から学ぶプロセス」を掛け合わせることで、その創造的でかつ人間の内面が深く関わった実践が可能となるのではなかろうか。
勝海舟の海軍操練所や坂本龍馬の亀山社中(自由に活動する個人を集団に構成する<信長志向>)は実質、当事者たち等身大の「フューチャーセンター」だったと思う。
対照的なのが出島で、出島は幕府なりの目論みの「未来志向の知識交流拠点」だったが、集団を身内で固定する<家康志向>が一貫していた。そもそも江戸初期、ポルトガル人を管理する目的で、幕府が長崎の有力者に命じて作らせたもので、その後ずっと空間も交流も<内>と<外>の峻別を基調とした。
ある企業において「フューチャーセンター」の成果が経営にどのように活かされているか、を見た場合、
◯全く活かされていないなら
「離れ小島」レベル
◯都合のいいとこだけ取られているなら
「出島」レベル
◯経営を多分野統合型で人間の内面にも照らす未来志向にしているなら
「海援隊レベル」
と言えよう。
「大縄地」という言葉に注目してほしい。
これは、大きな「縄張り」の地、という意味だ。
発想思考の地平に置き換えれば、そこから逸脱してはならぬと想定された、考え方の基本的な枠組み=「パラダイム」に相当する。
私たちは自分に用意された知識創造の場について、
それが「大縄地」に留まる類のものなのか、
それとも「関所破り」や自分ならではの「裏街道」を行くことを促す類のものなのか、
よく見極めなければならない。
見極めてどう対処するかは人それぞれだと思う。
私はどちらが良くどちらが悪いとは決して思っていない。
私がこだわるのは、どちらか一辺倒では、真に自由で多様な多分野統合型で人間の内面にも照らす未来志向を切磋琢磨していく社会には決してならない、それは本質的なことだということです。
「[御構場所]おかまいばしょ
[江戸払]など追放刑を受けた者が、立ち入りを禁じられた地域や街道を申します(筆者注:本論の文脈でいうと「表通り」)。
ですが[旅姿]でしたらどこでも行くことができましたので、正確には『生活してはいけない区域』のことを申します」
ここで注目してほしいのは、[旅姿]でしたらどこでも行くことができました、というところだ。
つまりこの受刑者の話を移動民に話に敷衍すると、
お上から規制されたのは、正確には移動民ではなくて、移動民が定住することだったと言える。
[旅姿]のフリーランスを四半世紀やってきた私としては思い当たるところが多々ある。
かつて「家康志向」と「信長志向」の合わせ技の知識経営が一般的で、多種多様な外部ブレインとの繋がりをもつミドル=ナレッジワーカーが多分野統合型のハブ型人材として評価された時代、[旅姿]のフリーランスは企業だけでなく役所にさえ歓迎された。
それが日本の社会全体で「家康志向」一辺倒化が進むにつれて、社内や役所の考え方に忠実に従うだけの「下請け的フリーランス」や、社内や役所の考え方を権威づける「権威者的フリーランス」は身内として継続的に受け入れるが、社内や役所にはない考え方を求めて内部からすれば異端でさえある「外部ブレイン」を一過的に活用するという「信長志向」は一掃されてしまう。
私の場合、合わせ技の時代と一辺倒化の時代だけでなく、前者から後者への移行期の微妙な体験もしている。具体的には、トップ直轄や部門長直轄で特定の役職名で顧問契約を結ぶ時期が10年程あったのだが、それがこの移行期に当たる。
その際、トップだけが社内の限界を感じて「信長志向」を温存し、社員のほとんどは高まるリストラ圧力のもと「家康志向」に一辺倒化しつつあった。こうした状況で、[旅姿]=移動民の私が地位役職を得たことに対して社員が抱いた印象や思いは、余所者が身内のように偉そうにしている、移動民がまるで定住民のように振る舞っている、定住するつもりではないかといった嫉妬や疑念だった。
驚くことに、知識創造の方向性についての私の考えやその活動の成果といった命題について反対されたことは一度もなかった。つまりそうした意見を交換する議論や対話にならずに、組織における上下内外の人間関係という文脈ばかりが問題視されたのである。
そこには彼らが日頃社内で強調しているロジカルシンキングといった論理などまったく介在せず、縄張り意識や保身をめぐる一方的な感情だけがあった。
私は、そういう側面を持ち合わせがちな組織に属することがいやで独立して[旅姿]のフリーランスをやってきた。移動民を自負する私には、そうした縄張りという閉鎖的な定住地の反応がバカバカしいだけだった。そこで役職名を得て組織人として活動する仕事はその後一切していない。特に「家康志向」一辺倒化した組織では、身内とは異なる考え方や行動形式をもつ「外部ブレイン」の介在ならではの知識創造にまともに着手すらできないからなおさらだ。
[旅姿]のフリーランスは、組織の柵や業界の常識や特定分野へのこだわりのない移動民だ。
[旅姿]を維持し、どこにも定住する意思のないことは言動が明示している。
それでも、「家康志向」一辺倒化が極まった企業社会や官僚社会では歓迎されない。なぜなら、「家康志向」一辺倒化が規範とする人材像や活動パターンとそれが真逆のものだからである。
それは定住社会における移動民的人材の宿命、「家康志向」一辺倒化社会においてその硬直と膠着を打開しようとする「信長志向」者の宿命なのだ。
「[御目見得]おめみえ
『御目見え』とも書きます。将軍や[殿様]に直接会うことを申します。
また武士、[奉公人]の位を表す表現でございます。『御目見得以上』『御目見得以下』という表現をいたします。
将軍の[直参]の場合、『御目見得以上』を[旗本]、『御目見得以下』を[御家人]と申しました」
日本語の場合、相撲の「幕内力士」と「幕下力士」もそうだが、コミットできる場所の内外で人の身分や格の上下を規定するパラダイムにある造語法が多い。
「御目見得以上」「御目見得以下」も、接見可能な場所の内外で身分の上下を表現している。
こういう言葉が多いということは、想定される場の<内>に居るか<外>に居るかが最も重視されてきたというメンタリティの特徴を示している。
最近では、「中の人」という言葉を聞くようになった。意味するところは、必ずしも「内部事情に詳しい人」という情報や「現場の従事者」という専門性に重点がある訳ではない。そうではなくて、重点はあくまでも<中>の人ということにある。
企業社会において、トップの側近に居られるということは、機能的と言うよりむしろ象徴的に有意味に受け止められる。
だから、象徴的な有意味を打ち消す、腰巾着とか、鞄持ちとかいった蔑称も用意されている。
さらにそういった蔑称を跳ね返す、腹心とか、懐刀といった肯定的な名称も用意されている。
そうした用語のネットワークを注意深く見ると、トップの身体の<内>か<外>か、<外>ならば肌からの距離が遠いか近いかで序列が形成されていることに気づく。
英語ならば、yesmanとかadviserとか命題絡みのトップへの言動の有り方で造語されているが、日本語の場合、トップとの身体的位置関係をベースに造語されている。
人間は母語で発想したり思考したり、さらには物事を感じたり感情を抱く。
ということは、私たち日本人は、「命題絡みの言動」の有り方やその内容=コンテンツよりも、立場の上下内外や「何かとの身体的位置関係」に囚われがちである、ということになる。
集団を身内で固定する「家康志向」の一辺倒化は、その極端に偏って極まった様相を呈している。
一方、自由に活動する個人を集団に構成する「信長志向」者は、「家康志向」者から蔑視ないし敬遠ないし敵視されがちだが、彼らは決して<外>から<内>に対抗している訳ではない。
身内だけで通用する固定観念や身内ばかりが囚われている柵から自由に、<内>と<外>や、異なる<内>と<内>同士を交流させようとしているだけなのである。
勝海舟や坂本龍馬が、定住民としての役職を求めた縄張り主義者でも保身主義者でもなかったことを見れば明らかだ。移動民が持ち合わせる交易民としての個性を自然体で発揮するのと同じである。
しかし、彼らが定住する欲得を抱かないことがいくら明らかでも、彼らの存在や達成しようとする課題を面白くないと思う定住民もいる訳だ。それと同じことが、「家康志向」一辺倒化の極まった日本の企業社会、官僚社会、学校社会、地域社会の全てで起こっている。
そして同時に、草の根的な有志個人がボランティアやNPOやNGOを組織したりそれらが連携するという「信長志向」も拡大していて、社会全体としては「家康志向」一辺倒化の弊害と限界を補完しようとしている。
「[御借上げ]おかりあげ
財政の逼迫した[大名]が、家臣の[知行][俸禄]を『借りる』と称して、[減俸]したものでございます。(中略)
特に江戸後期は財政難で、リストラやワークシェア、派遣侍など、現代と変わらぬ労働のやり繰りがされておりました」
「[御役御免]おやくごめん
①役職を辞め[小普請組]など、仕事のない部署へ移動することを申します。
②リストラのことを申します」
①は、最近はあまり聞かなくなった「窓際族」のことだ。
「窓際族」には絶妙な造語感覚がある。
窓際は一応、部長や課長など名としては長のつくの者のデスクの所定位置だ。
しかし実を伴うには、デスクの前に部下たちのデスクが集合していなければならない。
「窓際族」の場合、部下はなく、同様の者のデスクだけが窓際に羅列することになる。
場所から立場役職を表現する造語法は日本に限らない。漢語から導入した日本語にも多くその発展形もある。たとえば正室(zheng4shi4)に対して側室(ce4shi4)、男子を生んだ側室を言う「御部屋様」などだ。しかし、場所の微妙な様子から立場役職を表現する造語法となるとユニークである。
ちなみに、女子を生んだ側室は「御腹様」と言い、男子を生んだ側室が部屋=権威をもって偉そうに振る舞えるのに対して彼らがもつのはお腹の娘だけ、つまり権威はない様子を表現している。
今は「窓際族」を企業が抱えていられる悠長な時代ではなくなった。
だから死語になったのだろう。
一方、年金受給年齢が上がるに応じて、国は企業に退職者の再就職を受け入れることを義務づけようとしている。
私としては、誰もが「家康志向」の一辺倒化した機械論的な組織像と機械部品的な人材像をそのままに就労を論じている、そのパラダイムにこそ問題性や限界性があると思えてならない。
「信長志向」の合わせ技の知識経営が一般的だった当時、転職や独立や起業は今以上に活発だった。若い世代は、終身雇用が一般的だった時代にまさか、と思うかも知れないが、実際にそうだったのだ。右肩上がりの成長期だったからと言われそうだが、そうではない。「信長志向」の個人ベースの人間関係が自由で創造的だったからであり、「家康志向」一辺倒化した現在はそれが欠落しているのである。組織を離れた個人同士の信頼関係がなければ、砂粒のように孤立している個人でしかなくまず独立や起業はできない。
「信長志向」の人間関係の土台となったのは、熱意と創意のある個人同士のネットワークであった。そこでは、若かろうが年寄りだろうが、組織人だろうがフリーランスだろうが関係なく、個々人のユニークな命題と解答、課題と解決策といった、多様な考えや個性的なアイデアが重視されそれが活発に交換されるだけだった。
私には、当時のそうしたパラダイムを現代的に再生する必要がある、と思えてならない。
今は命題絡みの個性的な意見の持ち合わせのない者ほど、対話や議論をフランクにしない。人間関係の上下左右内外の文脈にこだわり、対話や議論をする前提となる「家康志向」の環境づくりに終始する。
こうした傾向が、主催したり参加する個人の内面から払拭されない限り、ワールドカフェやフューチャーセンターも、会社や業界や官界に用意された想定パラダイム内の成果しか上げられないだろう。
それはそれで有意義な活動であり創造的な成果が上がるとは思う。
しかし今の日本社会や企業社会には、それでは間に合わない事態があり、それでは救えない人々がたくさんいる。
今の日本には、ドラスティックにかつ誰もの人間性を尊重して解決していかなければ、日本人の全員が大変なことになってしまう、そんな問題と課題が山積している。
そのような状態を導いておいて解決できないでいる日本社会の硬直化と膠着状況。
その土壌に日本社会のさまざまなレイヤーにおける「家康志向」一辺倒化があるとすれば、その同じ志向で対話や議論の環境づくりをして何をしても、大本の原因が解消され一転希望が立ち現れるような、ドラスティックで誰もの人間性を尊重した解決は決して得られないように思う。
「家康志向」一辺倒化して後のこととして、社内の職場や地域の隣人という身内同士の日常会話においても、会社やお上の意向からそれる話題を避ける傾向が指摘できる。それでほんとうに着実な未来を足元から切り拓いていけるのだろうか。
「信長志向」合わせ技が一般的だったかつて、公害問題で非難される自動車業界を憂えるあるクルマメーカーの幹部開発者が30代半ばの若造外部ブレインの私に、クルマメーカーとしてできる社会貢献が何かないだろうか?と相談してきたこともあった。その際私は、スペアタイアをリサイクルタイアにすれば、新車1台につき1つ、つまり日本の低いリサイクルタイヤ比率を一挙に20%に上げることができるというアイデアを即興で披露した。その幹部開発者は偶然にもタイヤメーカーのテストドライバー出身ですぐに古巣の仲間に相談すると反応した。リサイクルタイヤとは今テレビCMでやっているリグレット・タイヤのことだ。かつてはどこの会社でも、社会問題を企業課題と捉える真摯な姿勢が人望厚い人の上に立つ者には漲っていた。そして上の立場の者ほど、社内にはない考え方に貪欲で常にアンテナをはり、自分たちとはまったく思考や行動のスタイルの異なる部外者に積極的に問い掛けた。この話もその一例に過ぎない。
フューチャーセンターでは、会社の人間が相手ではないから自由闊達に対話ができる。しかしその有意義な成果を会社の現業や職場にフィードバックしようがない、もしそんな事態を放置するならば、会社の名刺を交換して参加した職能人としては本末転倒ではなかろうか。
以上のことは、社会的に影響力のある大手企業や中央官庁に勤めるビジネスパーソンほど自問してもらいたい。
本物の未来志向は、ハレとケを、内と外を、上と下を、近と遠を、老若男女を、専門家と素人を分け隔てるそんな全ての垣根をとっぱらって、誰もにとって切実なことを誰もと真摯に対話することではじめて可能になると思う。オープンでフェアであることに例外があってはならない。
私が海舟や龍馬に学ぶのは、それを自然体で実践した彼らの人となり、その一点です。
*次回も「[お]から始まる言葉」についてのメモを続けます。