小笠原教授の白熱教室を見て「コンセプト思考術の核心」を再確認(6) |
http://www.nhk.or.jp/hakunetsu/lecture/111002.html
(本論シリーズで「役割」関連ですでにした検討:
(3)http://cds190.exblog.jp/16590107/
◯ 組織や集団の構成員の役割、地位、職務に関連して
◯ 野中郁次郎氏が指摘した日本型経営の強み「ミドル・アップダウン・マネジメント」
◯ 日本人に対して言われる「役割ナルシズム」に関連して
◯ 日本人の組織や集団に対して言われる「役割の精緻化」に関連して(予告)
(4:間章)http://cds190.exblog.jp/17150633/
◯ シンプルに言えば、要は「機械論」的か「人間論」的か
(5:間章)http://cds190.exblog.jp/17156912/
◯「全体最適/部分最適」は、
全体/部分を空間軸で設定するか時間軸で設定するかでパラダイムが変わる
私は小笠原氏の講義を聴いて、欧米人(たとえばパンゲ)から見ると「役割ナルシズム」、つまり自己愛にさえ見える日本人の「役割」への思いや思いにのっとった行いの実際はどのようなものか改めて思い返してみた。
すると、確かに氏やパンゲが言うように日本人には「自己同一性」よりも「役割同一性」を優先する傾向があると言えるのだが、より精緻に考えると、欧米人のように「自己同一性」と「役割同一性」が乖離ないし対立している状態を当然とするのではなくて、日本人は「自己同一性」と「役割同一性」とを調和的に両立している状態を当然あるいは理想としている、というパラダイムの相違にこそ比較文化論的な基盤があると思い当たった。
そして、小笠原氏が欧米流と日本流を二項対立的に示す鍵概念の多くに、欧米人パラダイムで対立とされるものを日本人パラダイムで両立していることがあり、さらに日本人パラダイムにおいては、中国流を含めて三者鼎立で捉えて日本流が他二者を調和的に統合していることがあると思い当たった(その明快な典型は、戦後の日本人が話している和漢カタカナ英語を混ぜこぜにした日本語である)。
そうした日本人パラダイムを(4:間章)では、日本人ならではの「人間論」パラダイムとして、(5:間章)では、「全体/部分」の捉え方についての日本人の「時間軸」として抽出した。
小笠原氏が講義でさらりと述べ学生がさらりと聞いている内容に、疑問や疑問を解くヒントを得たりした。
たとえば、氏は、浮世絵の絵師・彫り師・刷り師の三位一体の制作体制にふれて、「部分最適」が集合している典型例と解説した。私は番組録画のその部分を何度も聴き直したのだが、氏が「部分最適」とする理由が理解できなかった。
私は氏が間違っていると決めつけるつもりはなく、私と彼の考え方の基本的な枠組み、つまりパラダイムが意識的にも無意識的にも隔たっているのではないかと思った。
氏は全ての事柄について「全体最適」と「部分最適」が当然のごとく対立していると捉えるパラダイムに注視しているのに対して、
私は、日本人ならではのユニークな事柄については「全体最適」と「部分最適」が調和的に両立しうる、両立することを最善とするパラダイムを重視している、
ということに気づいた。
浮世絵の絵師・彫り師・刷り師の三位一体の制作体制はその典型例でもあり、3つの「部分」がそれぞれの匠を極めていく「部分最善」があり、それが1つのプロセスとその成果であるプロダクトを高付加価値化していく「全体最善」に直結する。
こうしたプロセス観やプロダクト観は、一般庶民から様々な職人、現代の技術者や研究者といった各種の専門家まで、私たち日本人がごく普通に、つまりは意識的にも無意識的にも抱いているものである。その根底には様々な事柄に通底している日本人の欧米人とは異なるパラダイムがある筈だ。
つまり、「部分最善」を積み重ねれば「全体最善」に至る、ないしは「部分最善」と「全体最善」は両立する、ということなのだが、ここで重要なことに気づく。
微妙な話だが重要なこととして、「部分最善」を完備しなければ「全体最善」が成立しない、とは考えないことだ。それでは厳密には、欧米人の「機械論」のパラダイムにある考え方だ。
機械という「全体」が最善であるためには、部品という「部分」が全て最善でなければならない、という捉え方なのだ。これは、(5:間章)で論じた「全体」を空間軸で捉える「全体最適」論である。
繰り返しになるが、
「日本人が念頭におく『全体最適』の『全体』は、概念空間も含めて時間軸におけるそれであり(縁起で成立している)、
現在から未来に向けた時間経過においてその時々に変容していくべき経過全体の最善形のことである。
(それは、空間的にもその土地土地人々にとっての経過全体の最善形の多様性を認めるものであったりする。)」。
つまり、「部分」が「部分最善」を尽くしていれば、「時間経過においてその時々に変容していくべき経過全体の最善形」である「全体最善」が出現する、という捉え方である。「全体」を時間軸で捉える「全体最適」論である。
無論、「部分」が好き勝手にやっていて予定調和的に「全体最善」が出現する訳ではない。浮世絵制作で言えば、絵師と掘り師が擦り合わせをしたりお互いの技を協調的に切磋琢磨したり、掘り師と刷り師が同様のことをした。
さらに、ある「部分」の技術的限界を他の「部分」の技術的工夫によって補い最終的プロダクトに求められる品質を維持したり向上したりしたのである。そういうケースでは、蔦屋重三郎のような「全体」プロデューサーが制作コストと顧客ニーズを勘案してディレクションなりコーディネーションをしたのだろう。
ここで気づかされるのは、
欧米人の「機械論」パラダイムでは、「全体」を設計して推進管理するプロデューサーがいて「部分」はそれに従って「全体最適」となる。トップダウンだけである。設計した「全体」が陳腐化すれば、それを廃棄したり革新して「部分」を入れ替えるのもトップダウンであるが、
日本人ならではの「人間論」パラダイムでは、「全体」を設計して推進管理するプロデューサーが編成した「部分」はそれに従って「全体最適」となるだけでなく、「個別最善」を連携して「全体最善」を更新していく。さらに、浮世絵で言えば絵師・彫り師・刷り師の生産ラインに加えて、浮世絵を企画する商品企画スタッフや浮世絵を売る販売ラインもある。つまり、新たな「個別最善」を追加しさらに連携して「全体最善」を商品品質レベルから事業価値レベルに高次元化していく。たとえば、広告主を募ってその商品を浮世絵に盛り込み広告収入を得て売価を押さえて多売する、といったことが工夫されていく。そうした工夫は浮世絵業界で蓄積されていった訳であって一人蔦屋重三郎が考えたという訳ではなかろう。
つまり、「部分」からのボトムアップがあったり、絵の題材や絵に盛り込まれる商品の異業種異業界という他の「全体」とのコラボレーションもあった。
こうした浮世絵という商品品質レベルに止まらず、浮世絵ビジネスモデルという事業価値レベルをも更新していったことが、
「日本人が念頭におく『全体最適』の『全体』」が「概念空間も含めて時間軸におけるそれ(縁起で成立している)」であり、
「現在から未来に向けた時間経過においてその時々に変容していくべき経過全体の最善形」を常に志向する「『全体最善』と『個別最善』が調和的に両立した」ということなのである。
もう少し江戸時代の浮世絵事業の現場を想像してみよう。
絵師と掘り師と刷り師が相談したとして、新機軸についての相談をしたのは掘りや刷りに専念している職人ではなくて職人を束ねる頭(かしら)ないしは元請けという中間管理職的なナレッジワーカーだった筈だ。
そして蔦屋重三郎のようなプロデューサーは、ビジネスモデルの構築者・更新者であり、顧客ニーズを捉えてそれに適応する技術シーズを導く目標設定をするスーパーバイザーでもあったのだろう。
私はここに、前項(3)で触れた「野中郁次郎氏が指摘した日本型経営の強み『ミドル・アップダウン・マネジメント』」の素朴な形を見る。
蔦屋重三郎=トップ=セマンティック・カタリシス
職人を束ねる頭(かしら)ないしは元請け/浮世絵企画者=ミドル=ナレッジワーカー
絵師・彫り師・刷り師/浮世絵販売者=ロワー=エキスパート
ということだ。
私は、小笠原氏が講義で、浮世絵の制作体制をして「部分最適」の集合とする主旨の解説をして、学生が何の疑問も抱かずにそうかと受け止めている光景を見て、これはまずいと正直思った。
同じビジネス文化論や知識創造論を研究したりその有効性を提唱する者として、粗削りながらも氏とは違う見方を提示しておく必要を感じた。
以上を叩き台として読者の方々それぞれの検討を深めて戴ければ幸いです。)
「役割の精緻化」は手段なり結果だから先ずその目的なり原因を問うべく背景を探る
(小笠原氏は、講義で日本人にとって「役割の精緻化」自体が自己目的化している、とも受け取れる論述も展開しているが、結論的に力説しているのは、日本人は「個別最適化」を目的に「役割の精緻化」を手段としてしている、という論旨だった。どうしてそう言い切れるかは、私には理解できなかったが。)
まず「役割の精緻化」について、講義で小笠原氏が解説しているままを紹介することから始めるが、氏は、私言うところの
「集団を身内で固定する集団志向(家康志向)」の<世間>だけを想定し、
「自由に活動している個人を集団に構成する集団志向(信長志向)」の<世間>を捨象している、
ということを最初に断っておかねばならない。
(<世間>とは人間関係の総体であって、日本人は様々な<世間>に身を置いてそこでの分=<自分>にアイデンティティを求める。日本人の集団志向はイコール<世間>志向だが、それに2タイプあるのだ。さらに「自己同一性」と言っても、神と直接対峙する<個人>として<社会>に参加している欧米人とは「自己既定」からして異なっていることも留意すべきだろう。)
おそらく氏の中ではこのことと、氏流の正確な言葉遣いとして、
日本人は「会社に帰属する=就社する」が
欧米人は「会社に参加する=就職する」、
日本人は「チームに帰属する」が
欧米人は「teamに参加する」
といった解説とパラレルに関係していると思われる。
若い世代は現代の企業社会の様相を踏まえて、そうだなと納得しているが、バブル崩壊した後しばらくたった頃まで、おおよそ90年代までは、昔から「家康志向」と「信長志向」の合わせ技経営が日本の企業社会では一般的だった。
若い世代は紋切り型の「日本的経営批判」を信じるしかなくあまり気づかないことだが、終身雇用が一般化した戦後、バブル崩壊までの昔の方が転職や起業は活発だった。サラリーマン比率が小さく自営業比率が大きかったことから考えても当たり前だ。つまり、会社やお店に帰属するのではなく、ある職能者として参加する就労者が多かったのだ。包丁一本さらしに巻いて〜♪的な職人から、ホワイトカラーと言われたサラリーマンもそうで、同じ会社に勤める仲間がその会社と同業の会社を起こすことは珍しくなかった。
また企業の方も、ルーティーンワークは社内の人材で済ませるが、新機軸を模索するスタッフワークについては外部のブレインや異業界異業種の協力者を集わせることがやり手のトップやナレッジワーカーのハブ的力量だった。(現在は、ルーティーンワークを派遣や下請けにやらせて、スタッフワークのすべてが正社員の専管事項になっているが、新機軸の模索に関して敢えて社内にはない知見を求めて部外者を活用する「信長志向」が当然のごとく展開していた。現在は、知識創造という活動自体がある種、内向きに既得権化した、という感じが否めない。)
小笠原氏には長い海外勤務経験があるが、私には五年会社勤めをした後の長いフリーランス経験がある。様々な業界の様々な案件で外部ブレインをプロデューサー、プランナー、ディレクター、コンサルタントとしてやってきた訳だが、それは「信長志向」の<世間>だけを渡り歩いてきたということで、身を以てその現場と時代変化を論じることができるのだ。
「家康志向」の<世間>を一辺倒化して前提するのは何も氏に限ったことでない。
近代国家日本の創成期を除いたそれ以降の官僚社会がそうである。その「家康志向」一辺倒化は現代にまで連綿とつづき、まさにその「マスターピース」になっている。小笠原氏は、日本の官僚社会を「部分最適」の集積の「マスターピース」と述べていたが、その通りで、そのことと各省庁という「部分」が「家康志向」一辺倒化していることとは同義である。
外部の学識経験者はじめ様々な専門家の意見を尊重する会議体が、あたかも「自由に活動している個人を集団に構成する集団志向(信長志向)」のような体裁で行われるが、それは実質、御用学者や御用商人が官僚の書いた筋書きに乗るだけの出来レースであることが多い。日本の官僚が両志向の合わせ技をやっている風を装うことは、外圧を利用して内の<世間>を動かすことと合わせて、まさに「匠」の域に達していると言えよう。
歴史を大きく振り返れば、「家康志向」一辺倒化は、江戸時代の幕藩体制以来、定住民とその社会ばかりを前提し、移動民や転住民とその社会を排除ないしは軽視してきた為政者の誘導するところであった。
注目すべきは、幕藩体制の武家社会は当然「家康志向」だが、それに対抗する浮世絵や歌舞伎や落語などの町人文化の担い手は「信長志向」だったことだ。そして、「家康志向」一辺倒化は必ず社会を硬直化させ膠着状況をもたらすが、それを繰り返し打開したのは「信長志向」の有志の抜擢や活躍だったことだ。典型的には坂本龍馬や勝海舟など、組織人でありながらその立場や保身に囚われない者や組織を離脱した者で、その「役割」は組織と組織をより公平で高い次元で連携させる媒介者となることだった。彼らの思考と行動は、「機械論」的に「機能」という言葉で説明しきることはできまい。そこには日本人の抱く使命感に近しい「役割」観があるように思う。
また注目すべきは、戦後の企業社会では、官僚社会の進める護送船団方式に与した企業ほど「家康志向」が強く、距離をおいたり対立して新機軸を打ち出した新興企業ほど「信長志向」を重視して両志向合わせ技の知識経営をしてきたことだ。
しかし、それはおおおそバブル崩壊までのことである。
バブル崩壊後の長引く不況、アメリカ一国主義の台頭と並行したアメリカ型グローバリズムの導入、それに伴う「日本的経営」の短絡的な全否定が横行する中で、ほとんどの日本企業において「家康志向」一辺倒化が進んだ。「信長志向」の<世間>は社内的にもプライベート的にも一掃されてしまって今日に至る。
オフィシャル〜社内的には、異なる事業部門の横断連携が回避されて分断経営が安易な不採算部門切り捨てに向かった。
プライベート〜社外的には、外国人が注目するほど盛んだった個人の資格で参加する勉強会や異業種交流会が廃れ、そこでの出会いや対話がオフィシャルなビジネスに繋がる、つまり外部ブレインの活用や異業界異業種との恊働を多発させる、社内外個人ベースで融通無碍な「信長志向」の<世間>が解消していたったのだ。
ちなみに、「日本的経営」の知識創造原理を説明する野中郁次郎氏指摘の「ミドル・アップダウン・マネジメント」、そのミドル=ナレッジワーカーは、社内のトップ=セマンティック・カタリシスとロワー=エキスパートを垂直的に媒介するだけでなく、社内の異なる事業部門や社外の異業種異業界の企業や大学のナレッジワーカーを水平的にも媒介した。つまり、社内外個人ベースで融通無碍な「信長志向」の<世間>のハブ型キーマンだったのだ。
彼らが「中間管理職の崩壊」とともに雲散霧消した。ちなみにその経過は、日本社会全体の「中間層の崩壊」と軌を一にしている。
最近は、リーマンショックでアメリカの衰頽が決定的となってアメリカ型の「機械論」的組織やそのマネジメントの限界が見えてくるとともにtwitterなどのSNS起点の交流が活発化するにつれて、トップ/ミドル/ロワーを問わない個人ベースのオフィシャル/プライベートを問わない交流が活発化し、信長志向の<世間>が現代的に再生してきているの感もある。
つまり、小笠原氏が「内向き」というキーワードで日本人の<世間>について「家康志向」の<世間>だけを想定していることは、企業社会の戦後のバブル期までの実情と最近の状況の二つから乖離している、と言えるのだ。
「信長志向」の<世間>の「外向き」性は日本人の<世間>と集団志向を前提とするものであって、欧米人の<社会>と個人主義を前提とする「外向き」性とは大きく異なる。
その点は、前項(2)http://cds190.exblog.jp/16510120/で触れたので、そこで提示した以上の概念図を参考にしてほしい。
番組における小笠原氏の講義内容をそのまま忠実に紹介しよう。
◯フリップ「タスク遂行は、『役割』、『機能』?」
「役割」とは ← ・補完的・相対的・柔軟 ・代替性が低い
「機能」とは ← ・排他的・独立的・硬直的・代替性が高い
(筆者注:「役割」は、「人間論」的で遂行能力が人間関係に依存したり影響力をもつ
「機能」は、「機械論」的で遂行能力が人間関係に依存せず影響力もたない)
◯画面下テロップ「役割の精緻化」:
自分の役割を複雑化して、精緻なものに深化させ
当事者にしか分らないようにしていくこと
(筆者注:「役割の精緻化」は手段なり結果だから先ずその目的なり原因が問われる。
小笠原氏による以上の定義は、
会社であれば社員が個人的保身を目的に意図的にすることなのか、
日本の会社の業務内容の複雑性が原因で結果的にそうなることなのか、
主体的なものであれば意図的にネガティブ、
受動的なものであれば態度的にネガティブ、
ということで、
いずれにしてもあまり良いこととは受け取れない内容になっている。)
◯画面上に「役割の精緻化」というタイトルが出た後の小笠原氏の講義:
「で、結局、日本人って、内向きにものを考え、『役割の精緻化』をどんどん始めてしてしまうっていう、『役割の精緻化』っていうのが日本人の特有なところかも知れないですね。
ま、だいたい『役割』って精緻化するもんかよっちゅう話があってさ。『役割』は『役割』でしかないっしょ、という話はあるんですけど。この話は、『役割の精緻化』ちゅう、少しあの前に言ったかもしれないけどさあ、日本人てあの、『役割構造』っていうのを維持するのがすごく重要だって言ったよね。で、構造を維持していく上で『役割の精緻化』していくと『役割の構造自身』って壊れないですよね。じつは。なかなかいじれなくなりますよね」
「日本人って訊くとさ、だいたいマイナスのこと悪いこと言うでしょ。あの、出来る理由は言わないけど、出来ない理由は百個くらい言いません?これは誰でもみんなそうですよね。少しは出来るように考えようよと言うより、出来ない理由を言う方が多いですよね。これはアメリカと正反対。
で、それって後向きと言うよりは、やっぱり『役割構造』をこわさんという理由で出来ない理由をたくさん言うんだろうね」
(筆者注:私はフリーランスだからかも知れないが、知り合いの同業者やクライアントには「出来ない理由百出」タイプは皆無だ。「どうしたら出来るか」を投げかけられて答えるのが仕事や取引だからだ。
官僚社会やよほど官僚主義化している企業であれば、その社内コミュニケーションは氏の言うような状態になっているだろう。
だが、アメリカ型のフラット組織を導入しながら現場の自由裁量をまったく拡大しなかった多くの日本企業の場合、当然の帰結として組織が「機械論」化し人材が「機械部品」化し、既定路線の業務をマニュアル通りにオートマチックにこなすだけになった。そんな会社の方が、既定路線からの逸脱をさけてマニュアル以外のことはやらない出来ない、ということがある。
今はそういう会社の方が多くなっていてそこで既定路線ではない業務をマニュアルから逸脱してすることを求めれば、まさに氏の言うような「出来ない理由百出」状態になる。そうならないとすれば、そういう無理難題を誰も口にしなくなっているからだろう。
今の学生たちが想像するのはそういう現代の一般的ケースではないかと思う。少なくとも、彼らが詳しく見聞きしたことのない「日本的経営」のケースではない筈だ。
そして、バブル崩壊以前のごく一般的な「日本的経営」の会社を振り返れば、様々な局面なり部署で、内向きな「家康志向」では「出来ない理由百出」状態になる課題を果敢に掲げては、その解決を外向きに「信長志向」で図ることが当たり前だった。
私自身そうした案件に駆り出され外部ブレインとして多様な「役割」で参加してきた。そんな実体験を重ねた私には、氏の言うように「出来ない理由百出」が日本人の民族的傾向であるとは、決して思えないし言えない。
これは氏と私の日本企業に絡む経験の違いによるのだろう。)
「で、この内向きの『役割の精緻化』っていうのも、結果的にはそういう『役割構造』を安定化することに寄与はしてしまうんですけど。
で、そういうその『役割の精緻化』していってどんどんこう『役割』に特化していく中で、全体最適と個別最適ってあるじゃない。聞いた事あるよね」
(筆者注:氏の講義はこの後、全体最適/個別最適論に展開し、内向きな「役割の精緻化」の帰結として「個別最適」志向となる、と結論される。
この論理展開のところは私は論述の前提からして賛同できないので前提的な私見を(5:間章)で補足した。)
◯フリップ「役割ナルシズムと最適への姿勢」:
内向きな役割の最適化
個別最適 全体最適
各々の役割の個別最適化であり、
全体最適ではない。
番組における小笠原氏の「役割の精緻化」についての講義部分は以上だ。
私がひっかかってしまったのは、きっと、私がこれまで良い意味で使ってきた「精緻」という言葉が、とてもネガティブなことのように氏の講義から聴き取れたためだろう。
正直、なんか「精緻」という言葉がかわいそう、と感じた。
日本人にとって「役割」が「精緻」になる、あるいは「役割」を「精緻」にするのには、それなりの理由があるのではないか。
それを背景からもっと時間をかけて深く検討してみなければと思った次第だ。で、(4:間章)(5:間章)と本項(6)冒頭の本論シリーズで「役割」関連ですでにした検討の復習をしてここに至っている。
遠回りのようだが、この道程を経なければ、日本人にとって「役割」が「精緻」になる、あるいは「役割」を「精緻」にする理由を、私なりに納得できる形で求めることができなかったし、まだできていない。
そもそも私ふくめ日本人自身には、「役割」を「精緻」にしている「精緻」になっているという意識がない。
私が思うにおそらく、日本人に特徴的な「縁起にのっとった<情>起点の発想思考」同士では、彼らが形成する<世間>や<場>において特定の<情>を一貫させて<知>や<意>の方を調整したり更新しているために、特段「精緻」という印象を持たないのではないか。「精緻」だとしたら、その主体の<情>と他者との<情>の交流が「精緻」なのかも知れない。
ところがそれを、欧米人に特徴的な「因果律にのっとった<知>起点の発想思考」からすれば、機能的でなく複雑怪奇だから「精緻」と表現しているのではないか。
ひょっとすると、中国人に特徴的な「共時性にのっとった<意>起点の発想思考」からすれば、ビジネス交渉で相対した現地法人の日本人が、何かというと自分で決断せず本国の本社にお伺いを立てて決して意志的でなく情緒的であることを理由に「役割の情緒化」と表現するのかも知れない。
人間とは、自分と同じ所と同じ所の欠落という対極ばかりを主観的に見て他者を速断してまうからだ。
相手がもっているユニークさを、相手の世界観や生活観や人生観の発露として客観的に時間を掛けて見ていくことは、俊敏さを求められる現代ではより困難になってきているから要注意だ。
「機械論のメカニズム」と「人間論のダイナミズム」、どちらが他を主導するかが問題だ
すでに私は、前項(3)で、野中郁次郎氏が日本型経営の強みとした「ミドル・アップダウン・マネジメント」を自作の概念図を使って解説しその際、それが「人間論のダイナミズム」と「機械論のメカニズム」を調和的に統合したものであり、組織や集団の構成員の役割、地位、職務といったものが関わる「部分と全体のホロニックな関係性」において成立していることを示した。
「精緻」といえば、そうした様相の全貌が「精緻」なのである。
このことは当然、小笠原氏が指摘する日本人組織における「役割の精緻化」ということに重大に関連する。
まず明らかなことは、
「機能」は「機械論のメカニズム」を成立させていて、
「役割」は「人間論のダイナミズム」を成立させている。
ただし、短絡を避けるべく注意しておきたいことがある。
たとえば組織論やマネジメント論において、
欧米流がすべて「機械論のメカニズム」ではない、
日本流がすべて「人間論のダイナミズム」ではない
ということだ。
具体的には、アメリカには「シンボリック・マネージャー」(T. ディール /A. ケネディー 著、城山 三郎訳) と分析される様相もある。それは、シンボリックと感じさせるのも感じ取るのも人間だから「人間論のダイナミズム」に他ならなない。日本人は、何かというと「人の上に立つ者」を戦国時代の武将や三国志の英傑に喩えるが、そんなプレジデント愛読者的な日本人からすると何を今更と思われるものだろう。
つまり、こういうことではなかろうか。アメリカ人にとって「機械論のメカニズム」は意識的に明示知として共有されているが、「人間論のダイナミズム」は暗黙知であり、この暗黙知を意識的に活用しているのは一部のエリートであって、他の大衆は無自覚的に受け止めて誘導されている。だから、そのような本がエリートになりたい読者に売れたのだろう。
また、何の本で読んだか忘れたが、世界の一流企業の社長の身長を調べたら高身長の者が多数を占めたそうだ。これも、社長のもつ身体的な特徴が、社長に従う社員に組織にとって望ましい影響を与えるという暗黙の了解が意識的にか無意識的にかあっての結果だから「人間論のダイナミズム」が関係している。
社長は意思決定しその内容を社員に説明し遂行させるという「機能」を担っている。同じ「機能」を果たせる知的能力がある者であれば、身長が高いなどの身体的な特徴があった方が身長が低いなどの逆の特徴があるより、より遂行を円滑にできる。そんな経験則が暗黙知として意識的にか無意識的にか共有されているのだろう。
それは、「機械論のメカニズム」を「人間論のダイナミズム」が促進したり、場合によっては抑制したりする、という現実を表わしている。
では、アメリカと日本が同じかというと、実際そうではない。
これはまったく私の仮説なのだが、アメリカと日本の違いはこう説明できまいか。
アメリカ人の場合、
「機械論のメカニズム」>「人間論のダイナミズム」という強弱があり、
「機械論のメカニズム」 が「人間論のダイナミズム」を促進したり抑制する。
日本人の場合、
日本的経営では、
「人間論のダイナミズム」>「機械論のメカニズム」という強弱があって、
組織設計の段階で、
「人間論のダイナミズム」がそれを活性化するように「機械論のメカニズム」を設定し、
組織運営の段階で、
そのように設定された「機械論のメカニズム」を「人間論のダイナミズム」が促進したり抑制してきた。
「人間論のダイナミズム」は属人的で人間関係の総体である<世間>に影響されるから、空間軸で多様であり時間軸で変容する。
だから、それに主導された「機械論のメカニズム」は、たとえ欧米的な「機械論」的体裁をもっていても、本物がもつ決定論的な「機能」の内実を伴わないところが多々でてくる。
典型的には、企業の基本理念やヴィジョンやミッション・ステートメントやそれを体現するという経営戦略や経営計画や経営組織だ。それらがいくらお題目的に「全体最適」を標榜するものであっても、事業部門や人的派閥の「個別最適」がまかり通り、それを経営が制御できない場合、容易に縄張り争いや相互不干渉といった不調和が現出する事態になる。
一方、日本的経営を脱した会社や、アメリカ的経営で新しく立ち上がった会社では、
「機械論のメカニズム」>「人間論のダイナミズム」という強弱があって、
組織設計の段階で、
「機械論のメカニズム」がそれを活性化するように「人間論のダイナミズム」を設定する。
分りやすい例としてはベンチャー企業であり、社員にインセンティブとして与える株、ストック・オプション制度がそれである。
インセンティブ、動機づけとは「人間論のダイナミズム」に他ならないが、それを株式制度という「機械論のメカニズム」の範囲内でやるところが、日本的経営や日本人組織一般の伝統的な「人間論のダイナミズム」との大きな違いである。
私は、日本人ならではの「人間論のダイナミズム」は古来、<部族人的な心性>が色濃く、それによって繰り広げられる人間関係や人間と超越者(自然)との関係は、意識的にか無意識的にか「贈与」や「互恵」をベースにしていると思う。これと近代主義的な「機械論のメカニズム」との距離は、著しく大きい。
一方、欧米人の「人間論のダイナミズム」は見分け・こと分けを十全に済ませた後の<社会人的な心性>で成り立ち、それによって繰り広げられる人間関係や人間と超越者(神)との関係は、意識的に「交換」や「契約」をベースにしていると思う。これと近代主義的な「機械論のメカニズム」との距離は、著しく小さく一部重なっているとさえ言える。
日本人ならではの「人間論のダイナミズム」を特徴づけるものとして、お金じゃない働きがいや、仕事そのものを報酬とする張り合いといった、日本人一般がごく普通に抱く情緒性や感受性がある。
つまりは<情>の関与が指摘できる。
欧米人の「人間論のダイナミズム」にも彼らの<情>が関与している筈だが、こと仕事やビジネスに関する<情>は日本人の場合とは実際、かなり隔たりがある。
それは、仕事を取り巻く環境、つまり企業社会の有り方の違いを背景とするのだろう。
日本人ならではの「役割」観、それを果たそうとする思いは実践から体得するしかない
日本の企業社会の有り方を象徴するのは、廃れたとは言え、日本的経営である。
日本的経営の3要素は「終身雇用」「年功序列」「企業内組合」だが、実質的にはすべて「機能体」としての会社よりも「共同体」としての会社の「組織構造」を確固たるものにし「組織運営」を潤滑にすることを最優先の目的としてきた。
しかし、それは「機能体」としての会社の「組織構造」や「組織運営」を疎外するものではなく、日本においてはある時期まではむしろ現実的に活性化するものだったのである。
ここで注意すべきは、そもそもは「人間論のダイナミズム」がそれを活性化するように「機械論のメカニズム」を設定した「終身雇用」「年功序列」「企業内組合」が制度劣化してしまった、しかしそれ即イコール、「人間論のダイナミズム」がそれを活性化するように「機械論のメカニズム」を設定するという大枠が間違いだった、ということにはならないことだ。
ところが、ここをほとんどの日本企業と日本人ビジネスパーソンは短絡的に勘違いしてしまった。即イコールで結んでしまったのだ。
具体的には、集団で中長期的成果を上げる有効性(高コンテクスト性)に強みのある日本人と日本企業なのにも関わらず、個人の短期成果を上げる効率性(低コンテクスト性)に強みのあるアメリカ企業とアメリカ人のようになるべきとしてしまった。
日本的経営の長所を残し短所を改める(それをした例外的な企業は世界的優良企業として飛躍した)のではなく、短絡的に全否定して、アメリカ型の「機械論」的に最もシンプルな「機械」であるフラット組織と「機械部品」のように交換可能な人材を設定する「全体/部分」論に終始していった。
ところが、組織や制度が変わっても、人間や人間関係を左右する人の心はそう簡単には変わらない。
私流に言えば、日本人に特徴的な「縁起にのっとった<情>起点の発想思考」は変わらない。
日本人の主軸であり続ける「縁起にのっとった<情>起点の発想思考」が、
「人間論のパラダイム」では前向きに利他的・互恵的・公益的に働いていたが、
「機械論のパラダイム」では後向きに利己的・競争的・攻防的に働くようになってしまった。
こうした日本人の変容は、企業社会に限らない。
官僚社会、学校社会、地域社会すべての社会全体に通底した日本人の変容ではなかろうか。
歴史を振り返れば、戦後の焼け野原から出発した日本人と、東日本大震災からの復興をめざしつつ原発事故後の放射能汚染問題の渦中にある現在の日本人との違いも、同じ構造で説明できる。
日本全体の経済状況、国土の荒廃状況は終戦直後の方が悲惨だったにも関わらず、「人間論のダイナミズム」が矮小化してはいまいか。
日本人一人一人の当事者意識が希薄化し勢い「機械論のメカニズム」にばかり依存してはいまいか。
さらに問題を大きくかつ複雑にしているのが、世界と日本そして日本人一人一人が直結しているという、終戦直後にはなかった事態だ。直結は、情報的に、経済的に、環境的に、政治的にと錯綜して多岐にわたる。
そして直結する世界の方も、政治、経済、金融、エネルギー、環境、教育、福祉などなどすべての論題において、
実質「機械論のパラダイム」が「人間論のパラダイム」を主導するべしという勢力と、
いや「人間論のパラダイム」が「機械論のパラダイム」を主導するべしという勢力とが
対立ないし対峙している。
かつて、敗戦からバブル崩壊に至る時期、世界では東西冷戦の時代、資本主義と共産・社会主義が対立した。それが各国国内の対立にもそのまま反映した。
それと同じように現代では、新自由主義や金融資本主義を最右翼とするグローバルに力をもった「機械論のパラダイム」と、各国各地域ごとにあるいは各階層各社会課題ごとに個々人やその集団が多様に展開する「人間論のパラダイム」が対立ないし対峙している。
前者が世界統一的に展開して強力である一方で、後者はいまだ連帯しきれずに孤立化していてまだまだ孤軍奮闘の域にあって強力とはとても言えない。
私は、このような現代世界において、日本企業だからこそできること(国際的な利害関係で結ばれたシンジケート企業にはできない、というかやる気がないこと)があると思う。
日本人ならではの「人間論のダイナミズム」がそれを活性化するように「機械論のメカニズム」を設定する、その成果としての新たな手立てや試みを積極的に打ち出していく、ということだ。
それは、私たち日本の企業社会を幸せにするだけでなく、世界の企業社会をも幸せに導く雛形を生み出す可能性がある。
すでに国内外の社会起業家たちの動きは、単なるNPOや企業の枠組みを超えた社会への貢献と影響をもたらしている。
おそらく私たちにとって一番大切なのは、様々なリソース(既存共有のものから未知なる発明発見までを含めて)を新たな枠組みで組織やその活動に再編することなのだろう。
そうした試みを果敢に模索していく事業組織や事業活動において求められる人材の「役割」は、心豊かものとして必然的に「精緻」なものとなろう。
日本人ならではの「役割」観がある。
その実相としては、
「人間論のダイナミズム」が「機械論のメカニズム」を主導する、
そういう文脈に立脚していると考えられる。
しかし現在、それをどの程度の日本人が抱いたり実践しているかは分らない。
「人間論のダイナミズム」の働き方は、「機械論のメカニズム」の働き方が客観的で普遍的であるのに対して、主観的で個々人によって多様であるからだ。当然、世代差や、職種職能の違い、会社業界といった職場環境の違い、そして個人差が大きく影響している。
だから、戦後復興期に始った「傾斜生産方式」や「護送船団方式」、高度成長期に普及した「日本的経営」や「所得倍増意識」、オイルショック以降バブル期に向かって膨張した「一億総中流意識」や「ジャパン・アズ・ナンバーワン(経済の選民思想)」といった周知の過去の事実をもって、「人間論のダイナミズム」が「機械論のメカニズム」を主導した手立てを説明することはできるとしても、現在の有り方や今後の有り方を具体的に描写することは難しい。
さらに現在は、さまざまな格差が広がり利害関係が錯綜し、それを踏まえた人々の価値観や信条が多様化している。「人間論のダイナミズム」が「機械論のメカニズム」を主導した古い総合的な手立てが衰頽したり劣化して役立たなくなっているばかりではない。新しい試みがさまざまな弱者を救済する急務から具体的に出て来ているものの、それらを「◯◯方式」とか「◯◯的経営」、「◯◯意識」とか「◯◯思想」と総括したり、社会全体に有意義かつ有効に働く総合的な手立てはこうだと見極めることはまだ困難だ。
私は学者ではないから、過去や現状の分析や解釈よりも、非力ながら未来を切り拓くに役立つ知見の創出に常に力点を置いている。
日本人にとっての「役割」観、日本人ならではの「役割」観という論題も、未来を切り拓くに役立つヒントを見出すものとして論じたい。
そんな私が現時点で言えることは、日本人にとっての「役割」観、日本人ならではの「役割」観を欧米人(アングロサクソン)の「機械論のメカニズム」の「機能」観に照らして、複雑怪奇だ、精緻だと言い切って「内向きで部分最適志向でネガティブなもの」と決めつけることはできない、ということただそれだけである。
私は、日本人にとっての「役割」観、日本人ならではの「役割」観を、「外向きでポジティブな方途」、しかも「機械論のメカニズム」の「機能」観が想定する全体最適がともすると全体最悪をもたらす現実を前に、その限界を打開する潜在力をもっているものと信じ、その方途として模索していきたい。
私自身はこれまで「ミドル・アップダウン・マネジメント」のミドル=ナレッジワーカーをフリーランスとしてやってきてその実践を踏まえて「コンセプト思考術」をはじめとする多様な研究をしてきた。今後も自らの実践を通して自分自身の「役割」観を更新していくつもりだ。それは私の特殊解であってそれがそのまま一般解になる訳ではないが、経験を踏まえた具体性をもって、日本人ならではと思われる「役割」観を抽象化および構造化していこうと思う。