小笠原教授の白熱教室を見て「コンセプト思考術の核心」を再確認(3) |
http://www.nhk.or.jp/hakunetsu/lecture/111002.html
組織や集団の構成員の役割、地位、職務に関連して
第2回講義の後半は、「組織や集団に参加するのか、帰属するのか」や、小笠原氏が指摘する日本人組織における「役割の精緻化」ということが解説される。
本論では、その検討に入る前に、役割、地位、職務といった用語の意味について確認しておきたい。
というのは、第2回講義のタイトルが「あなたの選択は?“就職”or“就社”」であり、「会社で業務を遂行する時、その組織に『帰属』するのか『参加』するのか。求められるのは『役割』なのか、『機能』(筆者注:=「職務」)なのか」と学生たちに問い掛けていて、基本的用語について確認しておかねばならないからだ。
たとえば、社長〜中間管理職〜平社員というのは「地位」、というのは分りやすいが、そうした「地位」なりの「役割」があると同時に「役割」という概念は他方面からも既定される。
たとえば、経営幹部としての経営統括、人事、財務などが「職務」、専門職としての営業、企画、設計、生産、流通、デザインといった分担が「職能」、というのも分りやすい。しかし「職務」と「職能」がどう折り合いをつけているかとなると、それを明快に説明するのは日本人組織の場合、想像以上に容易ではない。
たとえば組織側の組織論からの分類と、構成員側の能力論からの分類があり、どちらを踏まえるかで微妙な違いがあるが、実際は日本人組織ではその会社独特に自然な成り行きで折衷され、その慣習的な成り行きは暗黙知として合意されている。
さらに組織論には、前項(2)の最後に触れたように「機械論」的な捉え方と「人間論」的なとらえ方がある。
当然このことは、組織で活かされるべき人材能力についての能力論も同じだ。
そして組織論、能力論ともに、「メカニズム」を重視するか、「ダイナミズム」を重視するかで、まったく異なる「職務」「職能」の捉え方が可能になる。
また、講義においては、小笠原氏や私を含むある世代以上にとって経験して理解している常識が、今の時代の若者、社会に出ていない学生には無い、ということが重大だ。
たとえば、同じアルバイトにしても、リクルートが創始したアルバイト求人情報誌が一般化する以前の世代がしたものと、今の時代の若者がしているものでは大きく違う。アルバイト求人情報誌が一般化したということは、ある種の平準的なアルバイト需要が全国化したことを意味していて、そこには今私たちが当たり前に目にしている様々なフランチャイズ・チェーンの台頭があった。当然、そこでのアルバイトはマニュアル化したものであって、私の世代が地元の店の張り紙や地元民の口コミで知ったアルバイトとは異質だった。
何が最も異質だったかというと、仕事内容がマニュアル化してなかったということではない。どんな商売でもある種のマニュアル化はしている。ただ、一軒しかない家族経営だったりすれば、マニュアルという明示知にしていないだけだ。むしろ、職場での人間関係が大きく異なった。長く勤めれば、雇い主や同僚との関係は家族的なもの仲間的なものになった。そんな個店が集まっている商店街ならば、地域社会の人間関係とも繋がっていった。マクドナルドやセブンイレブンのアルバイトではそうはいかない。
つまり、「職場=職の場」の有り方は、組織や集団の有り方と仕事の有り方に直結するが、その「メカニズム」なり「ダイナミズム」は一つの職場や事業体にとどまらず、地域社会や日本社会の全体にまで連鎖している。
私たちは、そうした自分たちがコミットする「職場」と全体社会との連鎖を俯瞰することを忘れてはならないと思う。
とは言え、本論で私の昔話をするつもりはない。
ただ小笠原氏の講義内容の検討に入る前に、氏が講義でも触れた「場」の提唱者、野中郁次郎氏が日本型経営の強みとした「ミドル・アップダウン・マネジメント」について説明しておきたい。
それは、「人間論のダイナミズム」と「機械論のメカニズム」を調和的に統合したものであり、組織や集団の構成員の役割、地位、職務といったものが関わる部分と全体のホロニックな関係性についてざっくりと本質を捉えて理解することができる。
それは、氏が指摘する日本人組織における「役割の精緻化」ということにも関連する。
野中郁次郎氏が指摘した日本型経営の強み「ミドル・アップダウン・マネジメント」
ここで、本ブログで以前にした野中郁次郎著「知識創造の経営」(日本経済新聞社刊)の検討内容を挿入する。
かなり長い内容で一項目をとるが、小笠原氏の第2回講義後半を検討するのに必要なのでご容赦を頂戴したい。
この本が出版されたのは1990年末、まさにバブル崩壊前夜だった。つまり、日本型経営に誰もが自信をもっていた時期に多くの協力者を得て著述された。
そういう点では、今の若い世代が知らない「本来の日本型の知識経営の本質」を知るのに最良の書だと思う。
野中氏は、日本型「知識経営」は<ミドル・アップダウン・マネジメント>の知識創造メカニズムが達成しているとする。
本論では、それがどのようなものか全貌を具体的かつ簡単明瞭に把握できるように、「コンセプト思考術」がベースとする言葉使いの4つの概念要素を踏まえて明らかにしたい。
<ミドル・アップダウン・マネジメント>の知識創造のメカニズムには、
エドワード・T・ホールが提唱した<モノクロニック>と<ポリクロニック>、
<メッセージング>と<ルーミング>、
以上の概念が重要に関わっている。
まずは、
<ポリクロニック>な知識創造体制、
<ルーミング>な知識創造環境、
以上が不可欠であることから説き起こしていきたい。
野中氏は、「知識創造の経営」の第二章/組織的知識創造理論の第二節/組織的知識創造モデルで、
「この節での関心は個人レベルの知識創造に留まることなく、個人の集合としての集団、集団の集合としての組織という多層レベルにわたる全体としての知識創造にある」
とした上で、以下の表2-1/情報の形式的側面と意味的側面との対比 を提示している。
<形式的側面> <意味的側面>
新奇性=
(1)”おどろき”はない (1)”おどろき”があり、
何かが”見え”てくる
(2)意味所与 (2)意味生成
既成の概念/範疇の反復 新しい概念/範疇の創造
変動性=
ロー・コンテクスト(普遍的) ハイ・コンテクスト(特殊的)
一般的であり静的関係性にある 場に特殊的であり動的関係性を
つくる
方法論=
(1)演繹的・分析的 (1)帰納的・全体的・発想的
hands-off(ムダを省いた hands-on(体験、直観)、
抽象化)、モデル メタファー
(2)直列処理的で (2)並列処理的で
経時的または因果的 共時的または関係的
(3)冗長性を避ける (3)冗長性をつくる
(最小有効多様性) (ノイズ・ゆらぎ・カオス)
(4)人間的相互作用を必要としない(4)人間的相互作用を必要とする
(コンピュータ・ネットワーク) (ヒューマン・ネットワーク)
「ここで組織的知識とは、特定の組織の行動を決定する、その組織に固有の認知的・手法的な諸能力を意味する。
特定の組織において、
組織観念やパラダイムないしパースペクティブ、組織のドメイン、戦略、製品概念などは、主として組織の認知的能力の形式化されたものであり、
組織の技術、特許、マネジメント・ノウハウ、データ・ベースなどは、主として組織の手法的能力が具現化されたものであるといえよう。」
と明快に指摘している。
つまりは、
「組織観念やパラダイムないしパースペクティブ、組織のドメイン、戦略、製品概念など」は目的論の文脈にあり、
「組織の技術、特許、マネジメント・ノウハウ、データ・ベースなど」は手段論の文脈にあり、
そもそも峻別すべきであるということだ。
野中氏はこの指摘によって、
<形式的側面>を重視することが手段の自己目的化につながりがちであり、
<意味的側面>を重視することこそ目的の確認や再生につながることを、
この後の論述を前に読者に想起させているようだ。
このような私なりの理解からだが、私も野中氏の考え方に大いに賛同する。
表2-1/情報の形式的側面と意味的側面との対比は、基本的には、
低コンテクストで「場」に関わらず普遍的であり
メカニズムとして把捉できる=<モノクロニック>×<メッセージング>、
と
高コンテクストで「場」に依存して特殊的であり
ダイナミズムとして把捉できる=<ポリクロニック>×<ルーミング>
との対比
として解釈できる。
よって、野中氏の中でもエドワード・T・ホールを下敷きにしているのではと思われるところだ。
(いくつか典型的事例を以下に上げておこう。
すべて<ポリクロニック>で<ルーミング>な「場」が組織知識創造の要となっていることに気づくだろう。
◯トヨタのカイゼン活動
◯ IYグループの隔週の課長以上が全国から東京本社に集合する会長会議
アルバイトやパートまでが戦力化して単品管理による売り上げ予測し仕入れし展示
◯キャノンの一人で組み立てる屋台生産方式
◯ドモホルンリンクルのCMで有名な再春館製薬所の本社オフィス
全本社部門が円形の大スペースに集合配置されていて、
何か問題が起こると「認識一致の太鼓」が叩かれ部門責任者たちが中央対話スペースに
集合
◯ニトリの本社オフィス
全本社部門が長方形の大スペースに集合は位置されていて、
みな同じ方向に机が羅列している
前記再春館と好対照のバリエーション
◯正社員比率75%のスーパー、オオゼキの個店主義の売り場
商品分野ごとの担当者がバイヤーであり、かつ独自のレイアウトをし価格、陳列、売場
作りを行う個店店主)
逆に言えば、
ダイナミズムとメカニズムの調和的統合する<ミドル・アップダウン・マネジメント>の知識創造には、
<ポリクロニック>な知識創造体制、
<ルーミング>な知識創造環境、
の両者が不可欠である。
つまり、この両者を一般的に伴わない欧米型の組織とは、構造的に大きな隔たりがあるのである。
当然、同じ「役割、地位、職務」といった言葉を用いて、日本型と欧米型を比較検討しても、その言葉自体の意味合いやニュアンスからして違っているから厄介だ。
具体的には、「機械論」的な組織のアルバイト経験やテレビ等での見聞きしかしていない若い世代は、「人間論」的ダイナミズムと「機械論」的メカニズムを調和的に統合した組織での実際経験をした世代の話を聞いても、その言葉遣いを今の自分たちの知る意味合いで受け止めてしまう。
一番まずいのは、「人間論」的ダイナミズムに関わる「役割、地位、職務」を、「機械論」的メカニズムに関わる「役割、地位、職務」と誤解してしまうことだ。
小笠原氏が学生に解説する「役割の精緻化」についても同じリスクがある。
野中氏は、
「知の創造についての私の理論の基底にあるのは、
暗黙知と形式知のダイナミックな相互作用が知識創造の基本である
という仮説である」
と述べて、
「それを組織的に行うマネジメント原理を本書では、
トップダウン、ボトムアップという西欧で生まれたパターンに対して
ミドル・アップダウンと呼び、その内容を展開した。
ただし、ここでいうトップ、ミドル、ボトムというのは職位ではなく機能であり、
組織的知識創造を三層の相互作用で捉えることが重要であることを意味している(中略)
人口知能で一部使われている概念を利用すれば、
セマンティック・カタリスト(意味の触媒者=トップ)、
ナレッジ・エンジニア(知識の触発者=ミドル)、
エキスパート(専門家=ロアー)
と言えるかもしれない。」
とミドル・アップダウン・マネジメントを提唱している。
「コンセプト思考術」のベースである言葉使いの4つの概念要素に照らすと、
「暗黙知」 =<コトの感覚>+<モノの感覚>
「形式知」の内の「言語知」 =<コトの意味>
「形式知」の内の「科学知」 =<モノの機能>
ということになる。
これを踏まえると、
ミドル・アップダウン・マネジメントのメカニズムは、以下の図表のように解説することができる。
3階層それぞれについて解説する。
まずセマンティック・カタリスト(意味の触媒者としてのトップ)が、
事業や業務という<コトの意味>を目的論であるテーマ(文脈)として言語知(形式知)で打ち立てる。
またこれに基づく先導的ないし象徴的な行動をとる。
つまり行動知(暗黙知)を展開する。
次にナレッジ・エンジニア(知識の触発者としてのミドル)が、
事業や業務の目的論をいかに手段論に繋げるかというプロセス(手順)を行動知(暗黙知)で模索する。これは事業や業務に関わる暗黙知が集中する<コトの感覚><モノの感覚>を場において捉えようとする活動だ。
上層からの目的論を言語知(形式知)としてブレイクダウンしつつ、下層に向けて手段論を科学知(形式知)として方向づけする。
最後にエキスパート(知識の適用者・開拓者としてのロアー)が、
事業や業務の具体的アウトプットという<モノの機能>に上層からの手段論の方向づけを受けて落とし込む。
上下の階層間のコミュニケーションは、
場におけるミドルによる上下層との行動知(暗黙知)の受発信
と
2つの情報ブリッジ
によって促進される。
情報ブリッジAは、
コンピュータ・ネットワークが代行できる「形式的側面」を流通させる科学知の情報システム、
つまり「数と機能」重視のITである。
情報ブリッジBは、
ヒューマン・ネットワークに依存する「意味的側面」を流通させる言語知の情報システム、
つまり「観念と意味」重視のCI(コーポレート・アイデンティフィケーション)である。
これを顧客や社会という受け手側の受け取り方を重視して展開するのが、コーポレート・ブランディングということになる。
情報ブリッジはあくまで、情報流通の手段であって、情報そのものを創造するのは企業側の3階層と顧客側(主にリーディング階層)の行動知とそれらの双方向および相互関係による共同学習である。
私は、
それを可能にする「場と感覚」重視の行動知(暗黙知)交流空間である「ルーミング」こそが企業組織による豊かな独創に不可欠な中核要素である
と主張している。
ITがそのまま「場」になる訳でもなく、CIやブランドがそのまま「場」になる訳でもないことは論を俟たない。
それらは、行動知(暗黙知)交流空間である<ルーミング>の質を方向づける人々の掲げるテーマや取り組み姿勢として機能してはじめて価値を持つ。
日本人に対して言われる「役割ナルシズム」に関連して
さて、以上の野中氏の「ミドル・アップダウン・マネジメント」の指摘を踏まえて、小笠原氏の講義内容の検討に戻ろう。
氏の「役割」についての論述の主旨はこうだ。
日本人の場合、
「境界の中、<内>における自分の位置が『役割』だ」
「<内>における自分の位置で自己確認ができるから、『役割』は地位や分担や職務以上のものとなる」
「それを、フランスの日本文化研究者モーリズ・パンゲは『役割ナルシズム』と言った」
「役割ナルシズム」とは、日本人特有の「役割自体が自己存在の基盤となっている」状態を言う、とテロップで解説された。
ここで小笠原氏は
「本来、『役割』は目的を遂行するための手段であるのに、日本人の場合『目的』になってしまっている」
と解説する。
このスタンスはパンゲはじめ欧米人のスタンスである。
このスタンスは、ビジネス文化論において最重要な「仕事」についてのスタンスでもある。
たとえば、欧米人は、仕事は生きるためにしているのであって、できることなら仕事を早くやめたい人が多い。だから「ハッピー・リタイアメント」と言う。
日本人の場合、会社を退職しても、できればそれまでの経験を活かして社会に貢献したい参加したいという人が多い。「第二の人生」も仕事絡みなのである。
また、日本人は日常的な仕事を通じて社会に貢献したいと思うが、欧米人は、日常的な仕事はオフィシャルなものでチャリティはプライベートなものという割り切りが、ビル・ゲーツから、日曜礼拝に通いながら敵を暗殺させるマフィアのボスまで一般的だ。
また、日本人は仕事を通じて学習するとか人材を教育すると考えて当たり前だが、欧米人は、何らかの仕事ができる具体的な能力を備えた人材を採用したり昇進させて、学習するかどうかは本人任せで、会社側が社員に手を差しのべて教育するということは日本のようには一般的ではないし、内容も現在の本人の今の職務にとって必要最低限のことである。日本のように、平社員に幹部候補生としての教育をする、しかも仕事を通じてするというビジネス文化はない。
私が氏の論述で違和感を覚えるのは、欧米型にしても、日本型にしても、どちらも主体にとっては「本来」の形なのに、あたかも欧米型の方が本来で普遍的、日本型が逸脱して特殊的というニュアンスを発していることだ。
欧米型が普遍的なのは、低コンテクストで「場」に関係なく普遍化しやすいからであり、
日本型が特殊的なのは、高コンテクストで「場」に依存して多様化という特殊化をしているからである。
仕事観という広がりから俯瞰するなら、アメリカの会社員と日本人の会社員を比べるだけでなく、東京下町の魚屋さんとパリの魚屋さんも比べなければならない。戦争中でもお得意のために魚の仕入れに奔走した日本の魚屋さんと、ナチスが進攻してくる時にリゾート法を制定していたフランスの、バカンスの季節になるとみんないなくなってしまうパリの魚屋さんでは、単に魚を仕入れて売るというだけなら同じだが、仕事観にはもっと深い違いがあるのは明らかだ。
私は、「本来」という言葉は、もっと高邁で本質的な地平から発せられるべき言葉だと思う、本来。
仕事観においても、
日本型は、<知><情><意>の調和的統合を図るべく「コトの感覚」「モノの感覚」が重要に働いている。(「コトの意味」「モノの機能」を精緻化している。)
欧米型は、<知>と「モノの機能」(制度やシステムも含む)への機械論的な偏重がある。
両者の違いは、
「目に見えないダイナミズムの高コンテクスト性」
と
「目に見えるメカニズムの低コンテクスト性」
の違いでもある。
私は、「役割ナルシズム」というパンゲの言葉遣いにも違和感を抱く。
日本人のもつ仕事への使命感や担った役割への責任感は、果たして「ナルシズム(自己愛)」と呼べるような私的な利己的な感情だろうか。
確かに、そういう人もいないではないが、社会なり世間なりへの貢献を目指している場合、公的であり利他的な感情である。
私が学生に講義をするのであれば、こうしたフェアな対比も加えて、少なくともパンゲの表現をそのまま容認するような形にはしないだろう。
おそらく、欧米人は、
普遍的にメカニカルな低コンテクストの世界を公的(パブリック)、
特殊的にダイナミックな高コンテクストの世界を私的(プライベート)、
と捉えていて、
この二項対立の色目メガネですべてを認知し表現してしまうのだろう。
ところがそれが酷い近視眼、時に取り返しのつかない短絡であることは、たとえば、
ヒトラーの特殊的にダイナミックな高いコンテクストの私的世界が、
ナチスという普遍的にメカニカルな公的世界を生んでしまったという歴史や、
普遍的にメカニカルな科学によって成り立つ原子爆弾が、
特殊的にダイナミックなアメリカという一国の世界戦略において日本に投下されたという歴史から
明らかだ。
私は、欧米人と日本人が交流する際、短絡的なあるいは表面的な二項対立に立脚することは危ういと思っている。
たとえば、アメリカ人も接待はする。ただし、それは会社の「役割」を離れた個人としてする。だから、家に招いた旦那の接待に奥さんが活躍したりする。私は、私と同じに大学でアイスホッケーをしていたというアメリカ人コンサルタントとプライベートでプレイをした際、ゴール前で自分でシュートすればいいものをキーパーを引きつけておいて私にパスをしたことにびっくりしたことがある。接待麻雀でわざと相手に振込んだりするのと同じ感覚だったのだ。私はその時、彼らの接待は文字通りの「個人技」なのだと理解した。これは、日本人サラリーマンが会社の経費で領収証をもらって接待するのと想定時空が本質的に違う。
会社の組織やそこでの思考形態だけを見れば、確かに二項対立で理解ができる。しかしそれが全てではない。欧米人こそ、日本人とは違う個人の世界を大切にしている。そしてアイスホッケーの氷上のゴール前での恊働体験を共にすることで、欧米人の「個人」と日本人の「自分」が重なる領域が見えてもくるのだ。
アメリカ人にとっては、高コンテクストな人間関係や意思の疎通は、「社会」が用意している所与のものではないだけで、個人技でそれこそ個別具体的にユニークに獲得していくものなのだろう。
一方、日本人にとっては、高コンテクストな人間関係や意思の疎通は、「世間」が用意している所与のものなのだ。その前提を変えない限り、接待で家に招いて奥さんが手料理を振る舞おうが、麻雀で振り込もうがゴルフで握ってわざとパットを外そうが、お決まりの世界になってしまう。
話を、仕事観から、「役割」論に戻そう。
この際、パンゲが言った「役割ナルシズム」を、日本人として日本の歴史文化を踏まえてちゃんと検討しておこう。
それをしないと、単にパンゲが言った「役割ナルシズム」が客観的な正解のように、若い世代に誤解されてしまう。
日本人の「役割」観は、前述したような仕事観に含まれている。
そして、今の日本人の仕事観はどこから由来しているかと言えば、それは江戸時代からだ。
青木美智男著、日本の歴史/近世庶民文化史/別巻「日本文化の原型」 (小学館刊)によると、
「江戸時代の士農工商という身分は、この漢字のとおり、士=武士=武術、農=百姓=農業、工=職人=工業、商=商人=商業と、身分と職業が一致している。
それゆえ幕藩制国家は、職分制国家であるといわれる。
しかも身分が個人についているのではなく、家と結びついているので、その家の身分=家の職業=家職が、その家に生まれた人間の生き方を決めることになる。
つまり『家職に精勤する』ことを運命づけられていた」
現代の日本人の職能意識に、それが全うできているかはともかくも、それを理想とするという意味合いにおいて、「家の身分=家の職業=家職が、その家に生まれた人間の生き方を決める」江戸時代の<社会人的な心性>が今も息づいている。
核家族化により「家」意識が、家に投影されなくなった分、集団や組織、企業や地域社会、そして国家などに投影されるようになった。と同時に江戸時代の「家職」意識は家や身分を離れて、「仕事への関わり方が、その人の生き方を決める」ようになった。
たとえば、自己の品格へのこだわりがその人の職能意識に投影されている。だから、ナルシズムとの距離は短くなり、職能意識とナルシズムが実態的には重なるケースも多いとは言えよう。しかし、決して、利己的な私的な感情が核になる<心性>ではないと思う。
(参照:「江戸時代における『日本型の発想思考』の集団独創化を探る(7:結論) 」
http://cds190.exblog.jp/11482006/)
小笠原氏は、「役割ナルシズム」に触れた後で、学生に、初めて出社した時に上司に対して「何をしたらいいですか?」と問う日本の職場と、「私はこれができます」と言うアメリカの職場とを対照する。
そして、日本の職場での日本人新入社員の上司への問いは、「自分に役割を頂戴と言っている」と説明する。
一方、アメリカの場合はジョブリストという明示的枠組みがあり、新入社員でも「私はこれができます」とコントリビューション(貢献)を具体的に提案できる、と説明する。
後者のアメリカに対して日本の職場の方が不甲斐ないとするかのような空気が教室に漂った。そういう空気にも私は違和感を感じてしまう。
日本では、職場での自分の立ち位置として「役割」がある以上、アメリカ人のように「私はこれができます」ということは、新入社員が自分の「役割」=職場での立ち位置を自分で決めてかかることになる。
日本には、それを頼もしい人材だと評価して受け入れる会社と、新参者のくせに生意気だと受け入れない会社がある。最初に新入社員がすべきは、入った会社がどちらなのかを見極めることだろう。
つまり、アメリカ的なアプローチを受け入れる会社ではすでに当たり前のことが、日本的なアプローチしか受け入れない会社ではやってもダメ、というのが現実だ。
そして、日本的なアプローチしか受け入れない会社で、新入社員が日本的なアプローチで「何をしたらいいですか?」と問うのは当然で、それ以外に選択肢はなく、別段、その会社にも新入社員にも不甲斐ない印象をもつまでもないことだ。
アメリカ的なアプローチを受け入れる会社ならば、指示待ち人間よろしく「何をしたらいいですか?」と問えば、新入社員は不甲斐ないということにはなる。しかし現実的には、そういう人間はそうい会社には入社試験の段階で跳ねられているだろう。
よくよく番組を振り返ると、氏は仕事をする側が「役割」を重視し無ければ求め、有れば大切にするという話をした後、仕事をさせる側との相対関係で組織と人材がどう仕事を展開させるかの話へ話題をシフトしている。
ここで本来は、日本型の職場では、仕事をさせる側も「役割」の設定と分配によって組織を運営し人材を管理している、ということを先ず言わねばならない筈だ。
そして当然、アメリカ型の職場では、仕事をする側もさせる側も「職務」を重視し、ジョブリストとコントリビューションを照らして合意が形成される、ということにも触れねばならない。
というか、ただそれだけの話なのだ。
日本型の組織や職場、アメリカ型の組織や職場、ともに部分と全体が相関関係にある。
その全体同士を比較対照しないと、日本型の部分をアメリカ型の全体に戯画的にあてはめる想定をしても、その想定自体に現実味がない。不甲斐ないと感じたのは実はその現実味の無さだったのかも知れない。
氏は、京都議定書のまとめ役となった日本が「役割ナルシズム」に陥っていたと言う。
私も、よくアメリカに対抗してまでやったなあと思っていたので、なるほどと思った。
確かに氏の言うように、日本人は「役割」を与えられると頑張ったり、勝手に「役割」を担ったつもりになって頑張り過ぎたりすることは、国の歴史としてもあった。
ただ、注意しなければならないのは、その「役割ナルシズム」は、ある限定的な「場」においてのみ維持されるものだということだ。
限定は空間だけではない、時間によってもなされる。
京都議定書で約束した、日本のCO2削減目標「1990年に比べて−6%」を、日本が本気になって達成しようとした気配はあっただろうか。いまや誰も話題にすらしない。
こういうのは、その場凌ぎの利己的な偽善と言われてもしかたないから、国としての「ナルシズム」と言わざるを得ないと思う。
一方、今年の猛暑で日本国民が節電を達成したことについても氏が「役割ナルシズム」と決めつけたことについては異論がある。国難を前にした国民としての「役割」を忠実に遂行したということではあるが、それは「ナルシズム」だろうか。
そう考えた時に、私は気づいた。
日本人が、国難を前にした国民としての「役割」を忠実に遂行したのは、自己愛のためではなく、自分が日本国民であるという自己認識を保つためだった、と。
その国や組織や集団に帰属している自己認識を求める<心性>を、欧米人は自己愛だと勘違いしているのである。
それは大きな勘違いだ。なぜなら、その時、日本人が一番大切にしているのは「自分」ではなく、正確には「自分」の<世間>での位置づけであって、ということは「自分」よりもそれを位置づけてくれる<世間>という前提の方を大切にしているということになる。
ここが欧米人には理解できないから勘違いしても仕方ない。その理解不能は、決死の神風特攻への理解不能であり、武器らしい武器をもたない玉砕攻撃への理解不能であり、ひょっとすると福島の放射能汚染地域で生活し続ける人々への理解不能なのだろう。
彼らが「自分」の命や健康よりも大切にしているのは、「自分」の<世間>での位置づけであって、それは「自分」よりもそれを位置づけてくれる<世間>という前提の方を大切にしていることと並行する。
欧米人には、よほどの知日派でないとこの説明は微妙に過ぎて理解不能かも知れないが、日本人の学生や日本に興味をもって日本語の授業を受けるような外国人留学生には、是非とも説明しなければならないと思う。
これは、日本人のビジネス文化に限らない、重大な論題なのだから。
小笠原氏は、欧米人は、ロールをプレイする、ロール・プレイング・ゲームという言葉があるように「役割」は演じるものという認識があるが、日本人は「役割」に没入して一体化してしまう、と解説する。
これは、母国語と母国文化のパラダイムが一つの循環論になっているのだが、日本語では日本文化を体現するように「役割」という言葉の意味合いが既定されていて、欧米語では欧米文化を体現するように「役割=roll」という言葉の意味合いが既定されているだけなのだと思う。
その典型が、第一回講義の冒頭で論じられた、日本語だけが一人称が多様に変化する、つまり「役割」が「場」や「相手」に応じて変わる、ということだ。
英語や中国語では一人称は原則1つなので、言葉遣いではなく、ことさらに身を以て演じるしかない、ということもあろう。
日本人は「役割」に没入して一体化してしまう、というのは欧米人からすれば、自己愛に埋没する「ナルシズム」に見えるのだろうが、これもすでに指摘した「日本語の話し手の視点」がコンテクストの内部にある、ということでしかない。
つまり、パンゲが「役割ナルシズム」と命名した「役割自体が自己存在の基盤となっている」状態とは、日本人の個々という主体に関わるだけでなく、<世間>における位置づけによって自己を認識し、おそらく自分の想定した<世間>に対して自己を表現して生きている、という全体システムに拡張しうる内容をともなっている。
そして、その本質はナルシズムではない。
何かを愛しているとすれば、それは「自分」の位置づけを受け入れてくれる<世間>や「相手」であって、「役割」および「役割」の遂行はむしろ愛の証なのではなかろうか。
小笠原氏は、人の自己認識の2要素を、
「自我同一性 どんな状態でも自分は自分である(自我)というアイデンティティ
役割同一性 社会における役割の遂行に自己を見いだすアイデンティティ」
と説明し、
欧米人は、自我同一性の方が役割同一性よりも強い、と言う。
それは私も、接待で個人技を発揮するアメリカ人からも見て取れた。
ちなみに中国人学生が、中国人も自我同一性の方が役割同一性よりも強い、と言っていた。政府高官の汚職や不正蓄財が社会問題になる中国では、みんな国よりも本音では、家族や親族のことを大切に考えている。中国人は長い歴史においてついこの前まで、国が定まらなくて虐げられてもしぶとく生きのびてきた末裔たちなのである。
一方、日本人は氏によると役割同一性が勝っているというよりも、役割に一体化している、それをしてパンゲは「役割ナルシズム」と呼んだのかも知れない、と言う。
私は、正確な意味での「どんな状態でも自分は自分である(自我)という自我同一性」を、一般的な日本人はほとんど体験しないのではないか、と思う。
一般的な日本人が<世間>の中ではじめて「自分」を位置づけて自己認識を得ているとすれば、そういうことなのだ。
正確な意味での自我同一性を体験するには、欧米で暮らし欧米的な「社会と個人」の構造に身を置くか、一人山にこもって仙人のように暮らすか(それも何らかの<世間>と「自分」を結びつけるような体系から無縁の無我の境地で)しなければならない。
結局、欧米の「社会と個人」、日本の「世間と自分」という異なるパラダイムの間では、相手のこちらとの違いについてこちらの用語で説明しきることは原理的にできない。
「自我同一性」しかり「役割」しかりだ。
一つ一つの対照的な現象を丹念に対照していって、部分と全体の相関関係の構造的違いについての認識を多角的かつ高コンテクストに深めて行くしかない。
じつは、「役割を演じる」の「演じる」という日本語の言葉にも注意が必要だ。
「ロールをプレイする」の直訳かも知れないが、欧米人にとって「プレイ」は演じるという意味だけでなく、遊ぶ、スポーツなどをする意味もある。そういう動詞の目的語になるものが「ロール」でもある。
一方、日本語の「演じる」には、役者が役を演じるという意味しかなく、たとえば実物の遠山奉行は、時代劇じゃあるまいし奉行を演じていたのではなく、奉行というお役目を「果たしたり、まっとうする」。
私は、日本人については「役割」という言葉よりも、「役目」という言葉の方が日本人の特性に密着しているように感じる。
「果たしたり、まっとうする」と言えば、日本人の仕事観と重なる人生観の形容にもフィットするからだ。役目をまっとうして死ねれば本望という<情>や、役目を果たすまでは死ねないという<意>を日本語と日本文化は容易に連想させる。
これは単なる言葉遊びではない。
太平洋戦争の末期、玉砕を命じた指揮官たちが、兵士たちがそれを敢行する前に首を並べて自刃している。
これを、「役割」との一体化の一例と言わば機能論的に<知>的な説明もできるが、それでは、役目をまっとうして死ねれば本望という<情>や、役目を果たすまでは死ねないという<意>といった一般的な日本人が尊重する感受性は掬いとれない。捨象されてしまう。
玉砕を命じるような極限状況においてこそ、人間は一番大切にしているものが、組織としても集団としても個人としても表出すると考えれば、これは単なる言葉遊びではなしに本質論の筈だ。
アメリカ人には、指揮官が指揮をしないで先に自殺してしまうことは、機能論的に理解不能だった。
おそらく中国人なら、敗北が天意であり君主に忠誠を尽くすことが大義であれば、指揮官たちは一緒に戦って死ぬだろうから、意味論的に理解不能だろう。
敢えて私が解釈するならば、
指揮官たちは首を並べて自刃することで<世間>における「自分」の位置づけを守りつつ、
これから玉砕するだろう兵士たちの「自分」の位置づけを受け入れる<世間>を、彼らの前で改めて体現して見せた、
ということだと思う。
アメリカ人から無益、中国人から無意味と思われるものが、日本人にとっては大切であった訳だ。
前の戦争での極限状況での自刃は、現代の日本人からしても共感しがたいものではある。
しかしそこから私たちが学ぶべきは、そのような集団と組織の行為を出現させた日本型は、構造的には今も生きている、ということだ。
「アメリカ人から無益、中国人から無意味と思われるものが、日本人にとっては大切であること(日本人ならでは大切にすべきこと)」っという状況は、個々人の日常的な空気のような事どもから、一生を左右するような国の一大事の選択にまでありうる。
ただ、当の私たち自身がその大切さに気づいていないかも知れない。
戦後、日本人の<社会人的な心性>は欧米化したために、本来「日本人にとっては大切であること(日本人ならでは大切にすべきこと)」は、自刃のように「日本人がしてしまうこと」ではなくなり、「アメリカ人から有益」と言われ続けきたこととの好対照から「無益」だと勘違いするようになっている。
このまま行けば、本来「日本人にとっては大切であること(日本人ならでは大切にすべきこと)」は、「日本人がまったくしなくなったこと」としてのみ観念することができるようになるのだろう。
日本人の組織や集団に対して言われる「役割の精緻化」に関連して(予告)
小笠原氏が指摘する「役割の精緻化」とは、
「自分の役割を複雑化して 精緻なものに深化させ 当事者にしか分らないようにしていくこと」
である、とテロップが解説した。
この「役割の精緻化」をどのように理解すればいいのか。
私は2つの方向から考えたいと思う。
先ずは、
「贈与」関係を前提とする<部族人的な心性>
と
「交換」関係を前提とする<社会人的な心性>
との絡みから。
この検討で、「役割」なり「役目」なりは、
前者においてはそもそも高コンテクストな「世間と自分」の関係において精緻なものであったのが、
後者において低コンテクストな「社会と個人」の関係において単純化した
という経緯を確認したい。
そして現代では、洋の東西を問わず、
「役割」なり「役目」を配分したり獲得するポリティクスにおいては、
明示知的かつ意識的には「交換」関係を前提とする<社会人的な心性>が働いているが、
暗黙知的かつ無意識的には「贈与」関係を前提とする<部族人的な心性>が働いている、
という仮説を検討したい。
どこの国の個人・集団・組織でもそうなのだが、<社会人的な心性>の構造的な違いがポリティクスの差異に反映していると考える。
そして以上の検討を踏まえて、前述した野中郁次郎氏が指摘した日本型経営の強み「ミドル・アップダウン・マネジメント」を、改めて検討したい。
じつは、「組織認識論」の加護野忠男氏も「知識創造論」の野中郁次郎氏も<知>を論じているが、<情>や<意>を論じていない。
しかし、日本型を考える上で<情>を外すことはできない。
心理学的には、<情>には、
とっさの無意識的な身体反応を伴う一過的な「情動」
と
意識的な思考を伴い時間経過で変容する「感情」
とある。
<部族人的な心性>は前者の「情動」を集団的にコントロールする側面が強く、
<社会人的な心性>は後者の「感情」を組織的にコントロールする側面が強い
と考えられる。
日本型の特徴は、<部族人的な心性>を<社会人的な心性>の基層に色濃く温存していること、しかも「因果律」でも「共時性」でも掬いとれない、それら渾然一体の「縁起」に関わる<部族人的な心性>を温存していることである。
ならば、「ミドル・アップダウン・マネジメント」において、組織の上下左右、そして内外を媒介する「ナレッジ・エンジニア(知識の触発者=ミドル)」こそ、集団の「縁起」の体現者として働いていると考えられる。
以上のような展開の検討を項を改めて展開したい。