「信長志向」の総括に信長が向かった経緯を確認する(4) |
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「改革者」としての信長
信長が「改革者」にいたる3ステップ
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「都市型領主」と「ムラ型領主」、あなたの会社の経営は?
第一ステップ=尾張時代の軍隊の「信長志向」化
第一ステップ=尾張時代の軍事体制の「信長志向」化
第二ステップ=岐阜時代の経済体制の「信長志向」化
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第二ステップ=岐阜時代の軍隊の「信長志向」化
第二ステップ=岐阜時代の知識創造体制の「信長志向」化
第二ステップ=岐阜時代のナレッジワーカー集団の体制と育成
著者は本書冒頭で信長を「改革者」とする。
そして「改革者」をこう条件づけている。
「改革者とは、より合理的な原理が貫徹する新たな国家・社会のビジョンを描き、人々を共感させ、理想の実現に向けて万難を排して邁進する哲人のことである。
その意味で、第一に新たな価値観を提示する思想家であり、第二にその思想をもとに周囲のみならず次代を育てる教育者であらねばならない。
不世出の改革者・信長の真価は、まさしくこの二点で評価されるべきなのである」
「改革者」は「思想家」+「教育者」でなければならない。
信長についても、人材の抜擢や運用だけでなく、育成を見て行かねばならない。
著者は、第二ステップ=岐阜時代の「家臣団と次代の育成」に注視している。
信長の家臣団の体制は、
第一ステップ=尾張時代に言わば「地方中小企業」から「地方大手企業」に躍進し、
第二ステップ=岐阜時代に言わば「中央国内最大手」に躍進し、
第三ステップ=安土時代に言わば「国内独占最大手」に成り上がり、さらに海外進出を計画する
というように進化した。
当然、その知識創造体制は、
集団を身内で固める「家康志向」では対応しきれない。
自由に活動する個人を適宜に集団に構成する「信長志向」でなければ対応できなかった。
無論、信長は消極的にそうした志向性をとったのではない。
「改革者」=「思想家」+「教育者」として、ヴィジョナリーな未来を先取りする形で積極的にそうした志向性をとったのである。
ヴィジョナリーな未来を先取りしようとするリーダーは、現代の企業経営者も含めて、必ず人材育成体制を長期的観点で戦略的に構築する。
また、教育内容を「思想家」として吟味して構成する。そのためにリーダー自らが古今東西の英知と最新の情報を吸収すべく、知識や情報をもたらす部外者を歓迎し尊重する。
「改革者」信長もその例にもれない。
著者は、その様相を岐阜城とその城下の様子から俯瞰している。
「金華山の山頂に営まれた城郭において、信長とその家族、そして諸国の服属領主から預かった人質たちが生活し、山麓には政務を執行する大規模な政庁が設けられ、常に近習や重臣たちが伺候するようになった。信長は、日常的に城郭と政庁との間を上下したのである。
城下町も、小牧をはじめとする尾張の都市から町人が大量に移住することによって拡大し、殷賑を極めた(中島両以記文)。この年(筆者注:信長が入城した永禄十二年1569年)の五月、イエズス会宣教師ルイス・フロイスは信長を訪問している。室町幕府を復活させた実力者に、布教の許可を求めたのである。
その折の岐阜の様子を『人々が語るところによれば、八千ないし一万の人口を数える』という大都市となっていたこと、しかも『同所では取引や用務で往来する人々がおびただしく、バビロンの雑踏を思わせるほどで、塩を積んだ多くの馬や反物その他の品物を携えた商人たちが諸国から集まって』繁盛していたと記録している(日本史)」
「岐阜は、山上の城郭---山麓の政庁(御殿)---城下町(政庁周囲には家臣団屋敷、その周辺には空穂町・新町などの町人地で構成)とそれを囲む惣構(外郭)の土塁という構造をもち、いつでも畿内方面への大軍団派遣が可能な、まさしく城郭を核とした軍事基地というべき兵営都市としての機能をもっていたのである。
城下町とは、いつでも移動可能なべースキャンプというのが信長の思想なのである」
そして、この「移動可能なベースキャンプ」を構成する中核は、戦闘要員である武士や兵卒だけではなかった。
「当時の信長家臣には、伝内(筆者注:塩屋を営みながら近習でもあった大脇伝内)のように兵・商未分離の者も少なくなかった」
後方支援要員である「兵商未分離の者」も多く含まれた。
つまりは、移動民や転住民が大方を占めたと言っていい。
幕藩体制の敷かれた江戸時代の城下町のイメージは「定住民社会」であり、それが現代の日本の都市のイメージに繋がっている。
しかし、信長の西進した居城の城下町は「移動民社会」ないしは「転住民社会」だったことは覚えておきたい。
城下町としての岐阜(井口)は、「惣構が廻らされている城下町と、その周縁部にある加納(御薗)市場」から成っていて、両者をもって城下町とする考えと、別の機能と捉える考えとがある。
いずれにせよその二元的構造は、
惣構内部を「主従制・イエ支配の空間で、家臣団、直属商工業者の居住区」、
周縁市場を「イエ支配の及ばない非主従的空間『楽市』『公界』」
として捉えられる。
このことは江戸も似ている。
外堀と海に囲まれた内側が武家屋敷と御用商人が中心の「主従制・イエ支配」エリア
外堀や大木戸から外側に吉原のような悪場所や新宿や品川などの宿場町の「イエ支配の及ばない非主従的」エリア
という中心周縁構造をしていた。
つまり、
中心部は、江戸城に暮らす御三家から代替される将軍、城下の各藩の江戸屋敷に暮らす人質や江戸詰めの家臣、同じく城下で店を営む上方から下った御用の商工者による「転住民社会」
周縁部は、宿場に泊まって街道を行き来する旅客や物流業者、異界である吉原や悪場所に出入りする遊び客による「移動民社会」
だった。
岐阜の場合、中心部の「転住民社会」が転戦「転住民」性を発揮した信長の主導するものだったから、周縁部の「非主従的空間『楽市』『公界』」の移動民性はさらに活発だったと考えて自然である。
私は、岐阜このようなハイパーな転住民性を活性する中心部と移動住民性を活性する周縁部の二元的構造が、安土の外国人居留地を含む国際性豊かな城下町に進化したとザックリ捉えている。
著者は、周縁部の「加納市場の東端に位置する瑞龍寺に信長家臣団が出入りしていた」ことに着目しそこでの人材育成を俯瞰している。
「この時代、蒲生氏郷(筆者注:信長の寵臣で 文武両道に優れた人材、信長の娘・冬姫と結婚。キリスト教の洗礼を受け「レオン」)は瑞龍寺の南化玄興に師事して儒教や仏教を学んでいる。
十代半ばの氏郷は、人質として岐阜城で起居していたのだが、ここまで出向いて学問に励んでいたのである。岐阜城下には、古刹などのしかるべき学問所がなかったようだ。おそらく他の大名・領主の子弟たちのなかにも、岐阜城下から加納まで通っていた者もあったであろう。
ここには瑞龍寺のほか、中心的な寺院浄坊や橿森神社などの寺社が鎮座していた」
ここでまず私たちは、嫡男の「人質」というものについてネガティブに過ぎるイメージを改めなければならない。
「人質」を差し出すのは恭順であると同時に同盟でもある。
同盟を長期的に発展させるには、「改革者」信長の場合、同盟相手の嫡男に思想教育をすることが有効だ。
蒲生氏郷は、その成果が信長にとって理想的だったから寵臣となったと考えられる。
項を改めて検討するが、信長は安土築城に際して、中国の思想や文化を取り入れている。信長自身が学んだというよりも、しかるべき知識人を招聘したり家臣に学ばせ構想させそれを信長が吟味したと考えられ、その集団的な学習と構想は岐阜城下のこの周縁部で行われた筈だ。
中世以来、境内都市は商工業ネットワーク拠点であり、加納の寺社群も周縁市場とセットでそういう性格をもっていたと考えられる。そして、知識創造組織のピラミッドの上層の仕上げの活動、たとえばプレゼンや意思決定は城内で行われたとして、下層の下ごしらえの活動、たとえば多人数での情報の収集整理や模型作りなどの手仕事は城外の寺社群で行われたのではなかろうか。
そこでは、博学な知識人から様々な職人、様々な商人といった転住民や移動民が交流した。
自由に活動する個人を適宜に集団に構成する「信長志向」の知識創造が、思想的・教育的に高い次元で体制化するためには、こうした知識創造場が都会的にインフラ化される必要があった。
「外向き開放的な都会的インフラ」とは、現代の企業が「信長志向」の知識創造をする場合においても、その組織と制度として不可欠のことである。
岐阜時代に信長の家臣団の体制は一気に拡大した。
動員可能な軍隊は尾張時代のせいぜい千人から、上洛以降は数万人になった。
これを信長の意を受けて統括指揮する近習組織について著者はこう述べる。
「彼らの特徴としては、やはり尾張出身者が圧倒的に多いことである。しかしこの段階(筆者注:上洛時)では、信長同様にほとんど国許を離れて任務を果たしている。そして前田利家のように、嫡男以外の庶流である場合が少なくないと思われることである。おそらく、嫡男は尾張の本領を守っていたのであろう」
ここで信長が、尾張の本領を守る嫡男の「定住民性」=集団を身内で固める「家康志向」よりも、国許を離れて任務を果たす庶流の「転住民性」=自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」を重視したことがみてとれる。
著者はさらに、太閤記の冒頭部分から、信長が尾張以外の他国衆や武士以外の者の仕官や近習や大名への登用をしたことに触れてこう締めくくる。
「岐阜時代から本格的に形成される家臣団中枢については、本国を離れた、しかも家督ではない次男以下の者が多かった可能性が指摘できよう。
要するに彼らは『根無し草』であり、その分、本国や本領で長年にわたって形成されたしがらみから自由な『実力者集団』だったとみてよいだろう。
全国どこでも戦い、全国どこでも支配する、という兵農分離的思考は、ここから発信されてゆくのである」
次に、著者は信長のトップ直轄のブレイン集団に着目している。
「松井友閑・武井夕庵・楠木長諳(正虎)らの僧形の側近集団に着目したい。
『当代記』などによると、夕庵がしばしば信長に君子の道を諌言したことが知られる。信長よりはるかに年長の彼らは、日常的に近侍し、その諮問を受けるなど、学者・官僚・外交官・秘書官・書記官などの役割を幅広くこなし、政策決定にも深く関与した」
「僧形の側近集団のなかで特に注目したいのが飯尾(いのお)流の能書家として知られる楠木長諳である。
彼は、永禄二年十一月に正親町天皇に願い出て、当時朝敵とされていた楠木正成の勅赦を実現し、彼自身も正成と同様の河内守に任ぜられている。正成に自己のアイデンティティを求め正虎と称した彼は、名分論を中核とする朱子学に通暁したイデオローグであった可能性が高い。(中略)
将軍相当者となった信長が、朱子学的名分論が浸透するなかで、明君としての位置づけを与えられた楠木正成の子孫と称する長諳を右筆として重用するというのは、いかにも興味深い」
信長が朱子学と、それを根本理念として国を支配する中国の皇帝や帝都に深い関心をもっていて、それを安土築城にも反映させたことは間違いない。
僧形のブレイン集団には、中国古代の食客のような「転住民性」を感じさせる。
ちなみに、徳川家康も朱子学を精神的支柱とする幕府を構築している。
僧形のブレインをチェックすると、
崇伝という臨済宗の僧が、駿府政権に参画し外交事務、諸寺領の検地などの寺社行政を担当している。家康がある事件をきっかけにキリスト教禁止の強化を図った際、崇伝は一夜にして伴天連追放文を書き上げ、以後、幕府の宗教政策を主導した。
そして有名な天海。南光坊。生年と素性ははっきりしない。大坂の陣では崇伝とともに力を貸す。家康が没した際、霊位に贈る神号に関して崇伝と天海の間に論争が起きた。伝統にのっとり<大明神>をおす周囲を一蹴、幕府首脳部は家康の神号を<大権現>と決定した。「明神はなりませぬ。豊国大明神をご覧ぜよ」という天海の最後の一言がきいた。
僧形のブレインは、信長のそれもトップへの諌言を躊躇せずにしたが、そういう孤高のところがある。
家康の僧形ではない武士のブレインをチェックしても、三河一向一揆で門徒側について追放されたことのある本多正信をはじめ、何度も家康の下を離れている者が多い。
歴史に名を残すトップが重用した側近ブレインはみな、身分立場に囚われず自分の信じる言動に徹したことが伺える。
「信長は、血縁・門閥にとらわれず、出自・前歴さえこだわらずに仕官を許した」
まるで中国古代の列国王侯のようだ。
「たとえば、中途採用の秀吉や明智光秀が重臣中の代表例である」
これは、自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」である。
それで採用された秀吉も信長家臣である間は「信長志向」を積極的に展開した。(ただし、天下人となった後の親族を高位につけたり、有望な若者を生え抜き的に育てた石田三成らを側近ブレインとして固定的に重用したりにおいて「家康志向」が見られた。)
「秀吉の周囲には、遍歴を繰り返す商人や職人の人脈があったし、蜂須賀正勝のような素性が定かでない川並衆(木曽川の川辺にいた、平生は船頭や水路に荷を運ぶ水運業を営んでいて、戦がはじまると武器、鉄砲を持って形勢のよい方に味方をして戦場稼ぎをした野武士)までたむろしていた」
「光秀は、名門土岐氏の出身ではあったが、信長に敵対した朝倉氏や将軍足利義昭に仕えていた」
光秀は、信長に仕える前から「信長志向」を前提に「二君に仕えて」いた。信長に仕えてその課題である対将軍家の外交政策を尽力した。
江戸の幕藩体制の規範「二君に仕えず」は当時の規範ではなかった。
主従の上下関係は絶対ではあるが、それは配下への出入り自由を前提としていて、自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」が、大名から足軽さらには「兵商未分離の者」にまで一貫していた。今で言えば、経営陣から正社員さらには非正規社員にまで一貫していたのである。
そうした「外向き開放的な実力主義の環境自体」が、多様多彩なナレッジワーカー集団の体制づくりと人材育成に何より貢献した。
それはトップの信長が力強くこの志向性を貫いたために下々にまで及んだということだと思う。
「信長の目は、次世代を担う若い俊英にも向けられていた。
側に仕える青少年の器量を推し量り、これはと思う者をどんどん重用するのである。(中略)
興味深いのは、降伏した大名・領主の人質のなかからも人材を育てたことである。(中略)
信長は、人質として預かった大名・領主の子息を城内で監禁したのではない」
フロイスの日本史によれば「約百名以上の若い貴人」がいたとされる。
前出の利休七哲の筆頭・蒲生氏郷もその一人であったと思われる。
「信長は取り組んでいる改革が、彼一代で完了するなどとは思っていなかっただろう。
自らの思索によって到達した政治理念の実現を、死後も継承してゆく優秀な人脈を育てようとした」
と著者は総括する。
「信長が尾張の小大名から短期間に天下人にまでなれたのは、光秀や秀吉といったすぐれた人材を発掘し登用したからであった。
信長は家臣団を競わせて短期間内に考課した。評価されれば、秀吉のように足軽から城主になれたし、されなければ佐久間信盛や林秀貞のように重臣すら追放に処された。
このような現代ですらありえないような徹底した実力主義は、当然のこと劣勢になった家臣が敵方と通じて裏切りや謀反をおこす土壌を醸成する。それが表面化するたびに、信長はモグラたたきのように、冷徹に粛正していったのだ。信長政権の不安定性は、その構造欠陥に由来するものなのである」
私の日本型の集団独創の2タイプとして想定する、
自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」
集団を身内で固める「家康志向」
とは、
実際の信長や家康のようなカリスマをロールモデルとするものではない。
あくまで、日本型の集団独創の2タイプの対極モデルとして呼称している。
私は、日本企業が中長期的な観点にたって成長戦略や人材育成をとらえるならば、かつての日本型経営の美質である「家康志向」と「信長志向」の合わせ技の知識経営をするのがいいと考えている。
実際、長引く不況期にも世界的に成長したエクセレント企業は、この合わせ技を世界標準において現代化した企業だった。
しかしほとんどの日本企業は、バブル崩壊後、短絡的に日本型経営のすべてを否定し、アメリカ型経営もどきの組織の機械論化と人材の機械部品化を進めて、むしろ日本型経営の汚点ばかりを拡大してしまった。それは、余りにも内向きで閉鎖的な「家康志向」への一辺倒化を進めてしまったためである。
その結果、組織が硬直化し経営を膠着化させてしまった企業の場合、その打開策として「信長志向」の有志精鋭の抜擢登用なり、有志精鋭の別働隊なりによる改革しかない。
それは少ない人材から起業したばかりの過去の柵がない新興企業では、容易というか、当たり前に機動的に行われていることである。しかし、日本型経営の汚点である過去の柵と短絡的な組織の機械論化と人材の機械部品化によって、不確定論的な挑戦課題に機動性を失った企業の多くは、こうした打開策を講じた改革ができないままとなっている。
さらにこうした停滞的な様相はシンプルかつ根源的な集団原理に起因するものであるから、ひとり企業社会だけでなく、官僚社会や学校社会や地域社会などでも同時並行していて、日本社会の全体の組織の硬直化や状況の膠着化として現象している。
(5:結論)
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につづく。