今問われる日本人の「甘えと義理」(4) |
「今問われる日本人の『甘えと義理』(1)」
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「今問われる日本人の『甘えと義理』(2:間章)」
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「今問われる日本人の『甘えと義理』(3:その1)」
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「今問われる日本人の『甘えと義理』(3:その2)」
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からののつづき。
「経由すべき他者」を保とうする欲求と、生存を直接保とうとする「本能」
本項(4)では、社会学の分類「経済的自立」「生活的自立」「精神的自立」の内の、主に「精神的自立」の有り方に焦点を当てて検討していきたい。
大手企業を退職した元エリート・サラリーマンが、精彩を欠いた「濡れ落葉」と言われるような状態になってしまうことがある。
それは、著者のこういう論述によって説明できる。
「日本人が他者を経由して自己をもっているということですが、その他者は、別に人間でなくてもいいんです。
これは、リストラばやりの昨今では違ってまいりましたけれども、終身雇用を原則としていた旧来の日本型経営では、やはり会社は社員を受容していたと考えていいと思います。
こうした会社員が、樹木についている一枚の葉っぱのようなものだとしますと、定年になって会社を離れた人間が、『ぬれ落葉』になってしまうのも、無理からぬことだといえます。
彼は会社を経由して自己をもっていたのに、いまやその経由するものがなくなってしまったからです」
いま、若年層の失業者が拡大しているが、彼らは「雇用先を経由して自己をもち損ねている」「社会を経由して自己をもち損ねている」とも言える。
いろいろなケースがあるが、「経由すべき対象に欠ける」「経由すべき対象を失う」ということは、日本人にとって自己を安定的に保てない状態であることは共通している。
また、東京の未来はキエフを見れば分かるという専門家たちの意見があるが、それをtwitterなどで知った東京人でも積極的にか消極的にか東京に留まろうとする人がほとんどだである。これも「東京を経由して自己をもっている」、そしてそんな自己を保つことを優先していると捉えられる。
つまり彼らの場合、「経由すべき対象に欠ける」「経由すべき対象を失う」ということは、ともすると自己を保つことを危うくするという意識なり無意識なりが生存を直接的に保とうとする本能以上に強く働いている、と言える。
日本人にとって「過労死」は、過酷に過ぎるという認識はあっても一般的に異常とまでは言われない。環境によってはあり得る事態だろうという認識が一般的であることも、同じように説明できる。
「被愛感情」と、それが「被害感情」に容易に変わること
さて、甘えの場合の、自己とそれが経由する他者の関係を振り返ろう。
「まず要求的な<われ>が『・・・してちょうだい』とおねだりします。これに『・・・してあげる』と応じる人は受容者であり、いっぽう彼の労務の受益者となる人間は、『・・・してもらう』者で、受容対象であり、被愛者ということになります。
このような一連の過程がとどこおりなく成立すれば、被愛感情は満足されますが、受容者が『・・・してあげない』といって受容対象への還路を断ち切ってしまうと、受容対象は益を受けとれなくなるので、『・・・してくれない』といってすね、被害感情をいだくのです」
「被愛という言葉を直訳すると、『愛されること』となりますが、そんな風に考えてもらっては困ります。被愛は『愛されること』じゃないんです。(中略)
被愛をイメージする際には、<汝の汝における汝>というように、受容者と受容対象が入れ子になっている状態を思い浮かべてもらえればいいのです。
この被愛感情は、簡単に被害感情に転化してしまうという、不安定な性質をもっています」
たとえば、
「被害感情は具体的な加害者なしにも発生する(中略)。
心理学的に被害と対になるのは何かといいますと、それは被愛です。
そのわけは、被愛感情と被害感情はその面をたがえているだけのことで、基体は共有しているからです。(中略)
被愛感情は自分が受容されているときの感情で、被害感情は受容は拒否されたときの感情です。(中略)被害感情はただ陰性を帯びた被愛感情にすぎず、いつも陽性に戻りたいと願っていますし、また戻ろうと運動し続けているからです。(中略)
被愛感情はそんなにも容易に被害感情に転化してしまうのかといいますと、被愛者は、自分の害になるものを自分で取り除いて自活していくのではなく、その害を取り除く作業を、受容者に依託しているからです」
「被愛者の心的世界は、自分に肯定的な成分から成る受容世界と、その世界から排除された否定的成分から成る非受容世界という、ふたつの世界に分離しています。(中略)
受容世界というのは温室のなかのようなもので、自分に都合のよいものだけで構成されていますから、自分に都合の悪いものに対しては抵抗力がない」
「うらみと被害感情の違いがどこにあるのかといいますと、
被害感情は被愛感情が傷つくことによって生じるもので、受動的要素が強いのに対し、
うらみには被愛感情のほかに自己愛が関係しているので、被害感情よりも攻撃的になります。
それではその被愛心と自己愛はどこが違うのかということになりますが、(中略)
『他者を経由した自己』の前半過程、つまり自分から他者に向かう過程が自己愛に関係しており、
後半過程、つまり他者から自分自身に再帰する過程が被愛心に関係しているということができます」
〜してあげたのに〜してくれない、
という
被愛感情が傷ついたことによる受動的な「被害感情」である「つらみ(相手の仕打ちをつらいと思う気持)」は、日本人の特徴的な気持ちの持ち方と言えよう。
一方、
〜された、〜させたい、
という
自己愛に基づく能動的かつ攻撃的な「恨(はん)」が韓国人の特徴的な気持ちの持ち方であり、
両者は好対照をなしていると言えよう。
本項(4)から「義理の構造」を検討していく。
著者は、義理は「受容世界と非受容世界が複合してできたもので、半受容、半非受容の世界」である、ということの解説から論を起していく。
甘えが受容される世界と拒まれる世界を繋いだりバランスさせる働きが義理にはある、ということを見ていこう。
受容と非受容の二つの世界をどう生きていくか、その手段としての義理
「(筆者注:他者を経由して自己を保つ)日本人にとっては、(中略)誰にも受容されていないというのもつらいことですから、なんとかして世の中に自分を受け容れてもらわなくてはなりません。
そのためにはまず、受容世界と非受容世界を完全に遮断して、受容世界のうちに安住していたいと思う気持ちを断念しなくてはなりません。そうしないとひきこもりになってしまいますからね。
次に(中略)受容世界のうちに非受容世界が侵入してくるのを、あまんじて許さなくてはならないのです。(中略)
このように、受容世界の表面に非受容世界が入り込んでくるのを容認するかわりに、残りの受容世界を保存するのであり、こうした犠牲をはらった見返りとして、世のなかに自分を受容してもらうのです。
これは要するに、受容世界と非受容世界のあいだに半分受容、半分非受容の中間世界を形成することによって、非受容的な世界に落ちないように防衛しながら、社会に自分を適応させているということです」
この中間世界こそが「義理」である、と著者は解説していく。
受容世界を<内>、非受容世界を<外>とすると、こうも言える。
「義理というのは<うち>に入った<そと>であり、また<そと>へ出た<うち>なのだ」
「<うち>に入った<そと>というのは、たとえばわたしの兄が結婚したとしますと、兄嫁は義理の姉ということになりますが、この義理は、<そと>の人が<うち>へ入ってきたことを意味します。それゆえ義理は<うち>へ入った<そと>なのです」
(注意:これは先住民=定住民からみた、<そと>から<うち>に入ってきた「転住民」の位置づけでもある。)
「<そと>へ出た<うち>について説明しますと、(中略)あまえの世界から半歩<そと>へ、いい換えると非受容世界の側へ半歩出されたことを意味します。したがって義理の世界では、もうそれまでのようにあまえることはできないのです」
著者は、その具体的な事例として、人間の自立過程について解説する。
これは前項(3:その1)で日本人の親子の場合とドイツ人の親子の場合を比較検討したことに重なる。
孵化した後も巣にいて親に給餌してもらう鳥類を「坐巣性」、
孵化後すぐに歩き出して自力で採食する鳥類は「離巣性」、
とした上で、
「西洋社会は離巣性社会と呼ぶことができ、
日本社会は坐巣性社会と呼ぶことができます」
と著者は述べる。
(注意:前者は「早くて完全な<世間>的自立」に重なり、
後者は「遅くて不完全な<世間>的自立」に重なる。)
「坐巣的ということは親に依存的ということで、これを時間的に位置づけると、誕生してから離乳するまでの乳児期を精神的基盤においているということになります。(中略)
離巣的ということは、自立的ということで、これは離乳し、自立歩行できるようになってからの時期が精神的基盤になっているということです。(中略)
あまえの半歩<そと>を時間的にみると、坐巣期から半歩<あと>の時期ということになります。
離巣性社会の住人、つまり西洋の人たちは、この半歩<あと>の時期に停滞することなく、一足飛びに離巣期に移行してしまいますが、
坐巣性社会の住人は坐巣期に愛着しているので、そういうことはできません。しかし、だからといって、いつまでも親に依存していることもできないので、離乳はします。離乳はするんですが、離巣するのもイヤなものですから、離巣と坐巣のあいだの半依存、半自立の時期に腰をおちつけてしまう」
(注意:日本の定住民の「早くて完全な<世間>的自立」は、地縁血縁に根ざした<家>を媒介とした世襲を前提に「離巣と坐巣のあいだの半依存、半自立の時期」が長く想定されている。
一方、そうした体制からこぼれ落ちながらも定住民に留まる者と、敢えて離脱して転住民となる者がいて、ともに「遅くて不完全な<世間>的自立」の者となりうるが、前者は坐巣性、後者は離巣性という違いがある。)
この「依存期の半歩<あと>」の躾の時期が、日本人の「他者を経由する自己」の再生産の場になっている。
具体的にどのような時期が、この「依存と自立のあいだ」に相当するのか。
著者はそれを「しつけ期」と言う。
そして、「しつけはたいてい親がしますから、義理はまず親子のあいだに生まれる」とする。
「それでは坐巣性的人間の場合には、どのようなメカニズムによって、しつけから義理が芽生えてくるのかといいますと、(中略)
坐巣期に愛着している人間は、自立するためでなく、受容世界にふみとどまるために、しつけという非受容を受け入れるのです」
つまり、坐巣期に愛着する子供にとって、親の躾は、建前は非受容世界の受け入れであり、本音は受容世界の温存である、ということが「依存と自立のあいだ」を形成しているのだ。
「しつけの受けとり方にはふた通りあります。
ひとつは離巣的人間がするように、その内容を受け入れるというもの。
もうひとつは坐巣的人間がするように、しつける人間との関係を断ち切らないために受け入れるというもので、この場合内容は二の次になります。
それでこの後のほうは、(中略)『自立するためでない』」
(企業がする「しつけ」=「人材育成」とは言い切れないが、仮にそのような捉え方をすると、
集団を身内で固める「家康志向」では、
社員は人材育成を「坐巣的人間がするように、しつける人間との関係を断ち切らないために受け入れる」傾向が強い。受験勉強が会社に入るために必須とするように、研修受講は会社で出世したりクビにならないために必須とされる。
一方、自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」では、
社員は人材育成を「離巣的人間がするように、その内容を受け入れる」傾向が強い。たとえ会社をやめても自分の職能を向上させたり自らに課す生涯教育の一貫で本人が必要とあれば必須とする。
ちなみに私は「コンセプト思考術」講座だけ依頼に応じて研修をしてきた。
その内容は後者であり、しかも仕事を離れた生活や人生においても有効なパラダイム転換発想を誘い深める内容としてきた。。)
以上を著者はこのように整理する。
「依存期は要求的な<われ>から発して(筆者注:<われ>の甘えを受容する)<汝の汝>を経由し、再び<われ>に還ってきて、<汝の汝における汝>になるという構造をもっていますが、この際の基準は<われ>にあり、要求するのも<われ>です。
しかし、しつけにおいては基準は親にあって、要求も親から子に向かってくるわけですから、義理においても、<汝>として存在する親から、---このとき親はもう(筆者注:<われ>の甘えを受容する)<汝の汝>ではありません---<汝の汝>である子へと向かう一方的な過程だけが機能することになります。
で、いまもうしましたように、義理においては、親は(筆者注:<われ>の甘えを受容する)<汝の汝>ではなく(筆者注:親自身の<われ>をもち子供に非受容的な)<汝>になっているわけですが、(筆者注:そんな)<汝>でもいいから誰かを必要とする点においては依存期の面影を残しているので、依存期の半歩<あと>ということになります」
具体的なイメージが湧くように整理するとこうなる。
日本人の場合、この「しつけ期」の「依存と自立のあいだ」の関係パターンが何度も繰り返される。
たとえば、教育ママの子供は、いい点をとると親が喜ぶ、すると嬉しい、安心するので勉強に励む。その延長でやがて、いい学校を出ていい会社に入ることが、自分の目標になっていく。なるべく、自分の好きな学問を学んだり業界で仕事をしようと意識はするが、無意識的に「しつけ期」の「依存と自立のあいだ」の関係パターンを反復強化していることが多い。
さらにその延長で、親の評価の代わりに社会的評価を捉えて、会社での活躍や出世に意欲をもち続けるケースもあり、そうした人ほど会社をやめ仕事をやめた後に「濡れ落葉」の心理状態になりやすい。
また、最近は「即戦力」の新入社員を求めるケースが増えてきたが、それは「離巣性社会」のやり方だ。
「坐巣性社会」を前提にしてきた日本型経営においては、新入社員は周囲に依存して当たり前の半人前で、社内研修や仕事を通じて自立した一人前になる、あるいはそうさせるという考え方だ。今日、日本型経営を全否定した筈の会社でも、そうした人材育成の前提がOJT(オン・ジョブ・トレイニング)の常識としてあり、それを担う先輩後輩の人間関係が一般的である。
この「半人前から一人前になる時期」が「しつけ期」に相当する訳だが、
新入社員には、
自立するために人材育成として先輩の指導や研修を受け入れているケースと、
会社をクビにならないために受け入れているケースがあり、
それは一人の社員の中で建前と本音であったり、場面によって交代したりしている。
まさに「依存と自立のあいだ」に相当する。
さらに、
「坐巣期に愛着している人間」の場合、
会社で出世するために頑張っているケースにも、じつは心理的には自分自身で「しつけ期」を拡大反復している場合が含まれる。
とりたてて業界や仕事内容が好きな訳ではないが、売上げ競争や資格取得競争や派閥争いなどを勝ち抜いて出世すること自体が目標になっていて、そこにこの上ない達成感を感じその高揚を求めてやまないタイプはけっこう多い。
そういうタイプの猛烈さを見ていると、日本もアメリカ的な競争社会になってきたと勘違いしてしまいがちだが、社会心理的な展開はまったく違う。その違いの象徴が退職後の「濡れ落葉」化なのである。彼らにとっては、会社がずっと「巣」であったということである。
私は、だから日本の企業社会は悪い、と言うつもりはない。
もっと事態は多様なタイプの人々が人間関係を形成していて複雑なのであって、精緻に部分と全体そして両者の相関を見て様々な側面で様々な好悪得失があるのが実態である。
私たちがすべきは、十分に交通整理をして短所欠点を小さくし長所美点を大きくする、ということだと思う。
日本型経営の最大の特徴は、社会学的には「共同体」性である。
それは心理学的には、社員にとって会社が「家」、同僚が「家族」の心理的代替になってきた、ということである。
会社が「家」であり同僚が「家族」である限り、退職した社員は会社のOBや<世間>の先輩として多様に尊重されていたので、「濡れ落葉」化という問題はあまり深刻ではなかった。
この問題の深刻化は、日本型経営が短絡的に全否定されて、<世間>の様変わりに遭遇した端境期の世代ゆえのことだと考えられる。
「共同体」性が解消された会社に十二分に馴染んだ世代であれば、退職してもショックは受けない。むしろ「追い出し部屋」などでリストラ圧力を受けて意図的に「濡れ落葉」化される事態に悩んでいる社員がいることの方が問題となっている。
かつては会社が「共同体」性をもち企業社会の全体の包摂的なあり方が、転職や退職後の再就職など雇用の流動性を活発化させ、じつは社会全体にも貢献しいい作用をしていた。
ここ20年間で日本型経営の全否定とともに、企業社会の競争性が著しく強化され、包摂性が著しく消滅させられた。アメリカ型グローバリズムが短絡的に導入された訳だが、結果的にそれが企業社会そして社会全体を合理化し効率化した訳では決してない。
競争性を疎外する「甘え」が否定されると同時に、包摂性を促進する「義理」も否定されてしまった。
今や「ブラック企業」「ブラック就労」が蔓延し、業界大手の一流企業でも「追い出し部屋」など合法的なブラックなハラスメントが容認されている。
これは、
「甘え」を排除し「義理」が廃れても、
日本人の人間関係原理や人間と組織の関係性は、
欧米のような<社会>と<個人>にはなりえず、
<世間>と<自分(分際)>のままで、
ただ包摂的な前向き・外向き・下向きの恊働性が解消され、
排他的な後ろ向き・内向き・上向きの競争性が蔓延するだけの結果になっている、
ということである。
この
包摂性と恊働性、「甘え」と「義理」
排他性と競争性、「孤立化」と「ブラック化」
といったことの相関については、
会社を固定的な「家」、社員を固定的な「家族」と捉えそれのみを<正規>雇用、<正>社員とする定住社会を前提とした定住民の発想思考、
つまりは、集団を身内で固める「家康志向」だけでなく、
多様な就労機会と流動的な恊働をも<正しい>有り方として積極的に活用する転住社会を前提とした転住民の発想思考、
つまりは、自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」も
考え合わせなければならない。
項を改めて、本論シリーズの結論部で総合的に論じてみたい。
そのためには、さらに本書にそって「義理の構造」を検討していかねばならない。
(5:間章)
http://cds190.exblog.jp/15542138/
へつづく。