一年度の計は年度末にあり(最近95歳で逝った父を看取った私の思いと備忘録) |
元旦早々、高熱の風邪をひきこみ三が日寝込んだ。
とはいえ地元の鄙びた神社への初詣を6日に終えて、家内安全と交通安全のお札をもらい穏やかな一年が始るつもりでいた。
ところが12日、父をかかりつけの病院に診察に連れて行ってそのまま入院することになり、結局、入院は2月16日までとなった。
その際、入院事由の病状はすぐに回復したのだが、意志ないし意識が鈍化し、拒食したり身体を動かそうとしなくなった。入院する前はふらふらとだが自分で歩いたり階段を一日一回上り下りしていたのだが。このまま入院していても悪化するばかりなので、誤嚥の心配があったが、退院して看護士介護士の支援をうける自宅介護に切り替えることになった。3月下旬に母が熱海の病院に眼の手術入院をする予定があり、伊豆高原の家族三人暮らし、私がその送迎をするためには日程を重ねて父をショートステイさせる必要があった。
退院後、父のケアマネージャーが介護と看護の関係者を招集して家で会議をして、今後の在宅介護を支援する体制を整えた。その時のショートステイ先の担当者が父の見分をして受け入れ可能であると、つまりは医療行為の必要無しと看做したのだった。
ところが2月21日、未明父は亡くなった。
退院予定が決まってから、一階リビングの玄関横部分にベッドをもってきて、空気清浄機とポータブルトイレを購入し、車椅子とスロープをレンタルした(これは退院して帰宅する時一度だけ役立った)。そして前述したように退院直後、今後何年になるか分からぬ在宅介護の体制を関係者と整えた。
さあこれから、と長期戦の構えを整えて2〜3日のことだった。
父の様子がおかしいと朝分かったその時から、時間の流れが一気に変わった。
同居する独り者の一人息子、これが55歳といういい歳なのに世間知らずなのだが、何もかにも初めてのことを遺漏無くやらねばならない。
とは言え先ずは、様子がおかしいと思ったら電話をくださいと婦長さんがケータイ番号を教えてくれていて、その指示にしたがった。救急車を呼び、病院へ運んでもらう。すでに亡くなっていたのだが、掛り付け医の指示で面倒がないようにはかってくれた。運良く、掛り付け医と婦長さんが朝からいらっしゃる日だった。
病院で浄めをし葬儀社を紹介してもらい、家に遺体を運んだ後、業者と最低限の形式ばらずに簡便にできる手順を相談して進めた。父は無神論者で何もするな、と常々言ってたので助かった。何をどうしても手抜きにならない。
翌日が友引で火葬場が休みで翌々日23日、家族だけの密葬とした。四十九日を過ぎてからお骨と位牌をもって鹿児島にある父が建てた墓に納めにいく。その際、近所の宗派の寺に読経してもらって戒名をもらう。そういう手順にした。
病院で葬儀社を待っている時、ケータイにパリ在住の姉のパソコンからのメールが残っていることを思い出し返信で報せた。姉は即座に帰国、翌日夜に伊豆高原につき翌朝の納棺そして火葬に立ち会えた。
姉は明後日3月11日に帰国する。
葬儀を終えると、さまざまな手続きをしなければならないことに気づいた。
ゆっくりやればいいと思ったが、家族の本籍が千代田区であることや、こちらに支店がない金融機関などの関係で、母を一人にしないで上京できる姉がいる間に、あるいは姉本人が東京店頭に行ける間にしないと手続きが面倒なことがあることが判明。
なんと二泊三日の上京を中2日おいて二連ちゃんした。一度目の上京で理解したこともあり、二度目の上京で私が書類をもらってきてさらにその時判明することもあり、上京先から父の千代田区以前の九州の戸籍謄本を速達で取り寄せるなどして、姉が東京に行く7日に必要書類をどうにかそろえて送り出す、そんな綱渡りだった。
(ちなみにこの二月末の一度目の上京で、東京での初詣を済ませた。中野の北野神社で学業成就、神田明神で病気平癒のお札をもらった。)
7日は母の眼の手術の事前診察が熱海であり、それに姉が付き合ってから上京したのだが、伊豆高原から向かう途中、伊東市役所に寄って必要書類の残りを揃えた。
熱海の病院には3時につき、眼以外の診察、眼の診察、家族を含めた手術説明、入院手続きの説明と書類をもらうで、終わったのが6時過ぎだった。この日は、家をみんなで9時に出て、夕食をして熱海駅に姉を送ったのが7時だったから、今回の姉の帰国中で家族三人でずっと一緒にいた最長だったと思う。クルマで、市役所の待ち合いで、レストランで、病院の待ち合いでと妙な間合いだったが三人でゆっくりいろいろな話ができた。それなりに楽しい時間だった。
今日9日午前中、姉から、店頭に姉が行かねばならなかった手続きがすんなり終わったと電話があった。これで、残りの諸々の手続きはみな私が伊豆高原でできることとなった。もう急ぐことはない。
昨日、先週キャンセルして延期していた歯医者に行く前、時間を気にしながら久々にボーリングしたのだがさんざんだった。
今日は、姉からの電話とその後の用事なしで気持ちと時間に余裕をもって臨んだらハイスコアー204、アベレージ170と復調した。
その後ひとりゆっくりお茶しながら、もう急ぐ用事はないのだ、母の入院手続きの書類はたくさんあるがそれも急ぎじゃない、と自分に言い聞かせた。
改めて父が亡くなった経過とその意味、これから母を世話していく暮らしの意味とその有りようを思った。
◯父を看取ったことで、男として感じ取ったことがいろいろあった。
約40日の入院中の食事介助をしながら、退院後の父の介護を母としながら、そして救急車に同乗したり骨を拾ったり簡単な祭壇に遺影を飾ったりして、感じ取った漠然としたものでいまだ言葉になっていない。
だが、確実に私の根っこになろうとしている。
私は父があまり好きではなかったが、今はそういう好き嫌いの感情は失せてしまった。父の子として生まれたことに感謝している。
父は反面教師という形で、特にその終末は切実なる真理を身を以て教えてくれた。
父の好きではないところは父の弱さから来ている。しかし人間は、私含め誰でも弱さをもっていて、それを克服しようと努めなければ人生において自分も喜ばしくなく、また他者をも楽しくすることはできない。
父が私に残してくれたものは警句以上の圧倒的なものだった。
◯母は悲しんではいない、ほっとしている。
気がかりなのは、朝から晩まで諍いが絶えないような夫婦仲の悪さでも、それが脳や身体を活性させる刺激になっていたのが無くなり、まるで仲良し夫婦のように後を追うことがあるやも知れぬということだ。どこか、気が抜けたような感じになっている。
私が40代半ば、父が入退院を繰り返すようになり、どうせ死ぬなら家で死にたいと言うので自宅療養にしたら病状回復。その後、我が侭勝手を言って母を困らせるようになるとともに斑ボケが進行。今から6年前に母が高血圧で倒れほぼ鬱病に。隣近所のない別荘地での二人暮らしの老老介護の限界だった。5年前、50歳の私は、代々木の生活と仕事のベースを引き払って親との同居を決意、一年かけて個人と会社の移転の準備をして4年前引っ越して来た。
父母の世話をしてその健康と安全を確保するためだが、タンジュンに言えば、母の心身の安寧を守るためだった。
正直、父の死で母は解放された。
しかし、その解放感は母が予想していたものとはどうも違うようだ。
私は、これから母に、なんやかやあったけど良い人生だったと締めくくれるような、そういう心の暮らしをさせたい。
それが、私の伊豆での老親との同居の残る課題だ。
◯私は、定年退職者のように別荘地に引っ込み、その実、親の世話や介護を優先させる生活に入ることで、自分のライフワークからいったん離れるというかそれを疎かにせざるを得ないと思っていた。
しかし、それは違っていた。意外なうれしい誤算だった。
人間、そして人間関係において、<知>と<情>と<意>が三位一体で重大である。すべてを<知>に還元することはできない。
としたら、私は、少なくとも私個人の核心部の<情>について、
実践的な認知と表現を、意識的に無意識的に、また場において身体的に日常的に繰り返してきた。
親を看取るこの暮らしは、確かに個別的な事柄ではあるけれども、誰にとっても大きな意味合いがあり、そこから人間や人間関係の普遍的な事柄への気づきも生まれる。あるいは気づきを受け止める土壌が踏み固められる、と感じている。
私なりの<情>起点で、私ならではの<意>を新たに、私なりの<知>の再構築を求めることになろう。それは私がしたい、ライフワークと呼べる楽しみだ。
親の課題が片付いた暁には、私はとりあえず漂泊の長旅に出たい。
その旅で、<知>と<情>と<意>を三位一体で自由に感応させ、人や物事との出会いの一つひとつが紡ぐ物語をその場その場で読み味わいたい。
自分がそういう時間と空間に生を受けて生きていてやがて死んでいく、ということを確認しておきたい。
以上の思いをじっくり噛み締めながら
ゆっくり生きよう、暮らそう、思いを膨らませよう。
漠然としているが、それが来年度の計です/