NHK「一週間de資本論/第2回『労働力という商品』」を見て 補記 |
昨夜、未明にかけて前記事を書いた。
そして今日起きると、ある気づきを得ていた。
それは、NHK「一週間de資本論」の番組内容に触発された、日本型経営ないし日本型雇用についての考えに、尖閣諸島をめぐる日中の揉め事にちょうど「中世の惣村の境相論」の経緯が重なり参考になるとして書いた記事と、「江戸時代の徳川幕府体制下のムラ社会」がきっちりと支配されながらもじつは日本の農民ないし百姓は豊かな生活を送っていたことの、重なりとして浮かんできたものだ。
さわやかな日光が自室の障子を照らして昼近くに起きた時のこの気づきは、考えたというよりも、夢の延長で浮かんできたというしかない。
土曜の快晴の秋空のもと、写真撮影散歩に出かけたい。
しかし、その前にこの気づきについて、精緻な検討はできないが書き留めておく必要がある。
そこで、前記事の「補記」という形で記事にすることにした。
よって、取り急ぎの箇条書き的な体裁の備忘録となることをお許し戴きたい。
日本型経営、日本型雇用とは、
包括的な社会形態の部分ユニットであり
かつ全体を安定させまた成熟させるメカニズムになっていた
その雛形はどこから来たか
古来、日本人のほとんどは農民、百姓であり、村落共同体の定住者だった。
よって、その有り方が日本人のメンタリティの基層を形成していると考えて間違いない。
その有り方をざっくり振り返るとこうなる。
①もともと日本の農民は、荘園の領主の支配下で働き暮らしていた。
領主がその所有する土地での耕作を領民にさせ収穫を納めさせていた。
領主には公家、武家、寺社があり、その現地代理人が管理にあたった。
②中世に登場した「惣村」は、これから自立した共同体だった。
当然、領主から派遣される現地代理人はいない、管理されないところが自治だった。
境相論など「惣村」同士の係争が起ると、それは自分たちで解決しなければならない。
領主に対する年貢は貨幣による場合もあったようだ(要確認)。
③江戸幕府は、宗門人別帳、五人組、村請け負いによる年貢の取立てなどによって、
全国のムラと村人を再編成しきっちり管理する枠組みを構築した。
村人が土地に縛り付けられ、同時にムラ同士の係争が抑えられた。
一方、幕藩はムラ単位で所定の年貢さえ納めれば、基本的に後はお構いなしだった。
以上、村落共同体の定住と定住民の有り方には、それに必要とされ受け入れられる移動民の有り方が対応した。
①では、領主から派遣された現地代理人が定住している場合と定期的に訪問する場合があり、後者がその移動民の位置づけになる。係争は領主間で発生し、そのノウハウに長けた寺社勢力が所領を拡大していく。
領民にモノをもたらす商人がいたが、貨幣の流通が乏しい共同体の場合、実質、物々交換になったと思われる。
②では、①の領主から派遣された現地代理人が居なくなる。係争などに際しては、惣村が自治主体として係争コンサルを雇った公算が高い。それは、おそらく寺社の末端僧であり移動民であった「聖」の内の係争ノウハウに長けた者だったのではないか。
モノをもたらす商人は、貨幣の流通量が増えるとともに、ほとんど金銭による商売をするようになっていった筈だ。
③では、ムラ同士の係争はなくなり、村人は土地に縛り付けられ勝手気ままな移動が許されなくなる。逆に、移動して来る人々が情報源や娯楽の提供者として期待される度合いが増すことになる。
さまざまな行商人が通行手形のもとお上に広域移動を管理され、定期的な行商が商売として利権化し安定化していく。
こうした3ステップにおいて、
日本型経営、日本型雇用との関係で注目されるのは、③の江戸時代のムラと村人の有り方だ。
村請け負いで所定の年貢さえ払えば、基本、お構いなしということで、
たとえば、村人に商品作物を生産させそれを一手に買い受けて都市商人に卸売りする富農が生まれてくる。
富農は、資本論的に言えば村人たちに商品作物を生産するためのさらなる労働を促して「絶対的剰余価値」を生ませた、ということになる。
一方、村人たちは個々の努力や恊働によって、年貢を納めるための労働を短縮して「相対的剰余価値」を生んでいった、ということになる。
これが、富農の支配・強制、村人の被支配・奴隷状態ということではない、ことが重大だ。
富農は納める年貢の足らない村人分を補填する村役人でもあった筈で、その意向に従わねばならないムラの空気全体主義という側面はあったにしろ、村人個々それぞれに、そして共同体としても利益を享受するべく自由意志で行われたことに着目すべきだ。
富農=村役人は、商品作物の元請けとしての立場で富を蓄積する一方で、村人に対して公的な教育や娯楽を提供したと考えられる。それは社会還元でもあり、自らの運営する生産流通体制を安定化させることでもあった。公的な教育や娯楽の提供とは、若衆宿や村祭りの設備や経費などだ。
この江戸時代の村落共同体における<富農=村役人と村人>の人間関係や心理関係が、
日本型経営、日本型雇用の基層構造としてあるのではなかろうか。
端的に言えば、お上に請け負わされた自治的共同体が年貢さえ払えば、後はその枠組みに抵触しない範囲で自主努力によるカイゼンや革新も許される。
そして、
(A)村人による徴税作物の生産のカイゼンによって「相対的剰余価値」を増しながら、
(B)富農による商品作物の生産販売を導入するという革新によって「絶対的剰余価値」を増やしていった。
ここで、
(A)において、
「家康志向」
=「集団を前提として固定しておいて、その集団が独創する」知識創造体制
(B)において、
「信長志向」
=「個々の独創を放任しておいて、それを適宜に集団に組織する」知識創造体制
が働いている。
「(B)富農による商品作物の生産販売を導入するという革新」は、江戸、大阪、京都をはじめとする商品作物を購入する消費都市の商人の介在なしには始らず継続することはできなかった。
ただ、日本人の集団独創の2タイプの内の1つ、「信長志向」の源泉はもっと前の時代のもっと大きな動きに求められるべきだと考えられる。
たとえば、
「①もともと日本の農民は、荘園の領主の支配下で働き暮らしていた」時代の農民の土地からの離脱。
「②中世に登場した惣村」や一揆に見られる支配者への対峙と自治。
であり、
そこには士農工商の世襲的身分が固定化される以前の、職能選択と職場移動の自由があった。
つまり、百姓という概念の大本には、村落共同体を形成する多様な職能が前提されていて、漁民や狩猟民もいて、個人の人生というタイムスパンでも、何世代というもっと長いタイムスパンでも、職能選択と職場移動の自由があった。
その象徴が、農民から武士になり天下人になった秀吉であり、彼自身がみずからの遍歴回路を刀狩りによって絶ってしまった。
中世以前は、たとえば航行技術をもっていて大型船を共同操縦できる海民は、輸送業者でもあり、海戦軍団ともなった。
平清盛や織田信長が、武人として彼らを組織する場合は海戦軍団となるが、貿易推進者として彼らを組織する場合は海上交易の担い手となった。
これは、「個々の独創を放任しておいて、それを適宜に集団に組織する」「信長志向」に他ならない。
総じて、
「信長志向」の対象となる人材は、「職能選択と職場移動の自由がある者」である
ということに気づかされる。
このことは、富農や都市商人についても言える。
「(B)富農による商品作物の生産販売を導入するという革新」は、江戸、大阪、京都をはじめとする商品作物を購入する消費都市の商人の介在なしには始らず継続することはできなかった、とした。
ここで、
富農を「信長志向」の主体と捉えれば、
対象の人材である都市商人は、ムラで買い付けをするだけでなく先行投資に必要な金融もした筈で、都市ではもっといろいろな役割をこなしていると想定された、つまり「職能選択と職場移動の自由がある者」と看做された。
一方、都市商人を「信長志向」の主体と捉えれば、
対象の人材である富農は、村人の生産物を一手に買い取るだけでなく、村役人として幕藩体制の管理に応じる一方で、新たな商品作物の生産のための開発事業を展開するべくいろいろな役割をこなしていると想定された、つまり「職能選択と職場移動の自由がある者」と看做された。
最期にマルクスの資本論の文章を引用して備忘録を終えて、
高い秋空のもと写真撮影散歩にでかけることにする。
「商品交換は、共同体の果てるところで、
共同体が他の共同体またはその成員と接触する点で、始る」
これは、
「信長志向」
=「個々の独創を放任しておいて、それを適宜に集団に組織する」知識創造体制
の基本原理に他ならない。
このことは、対極にある
「家康志向」
=「集団を前提として固定しておいて、その集団が独創する」知識創造体制
が「共同体が他の共同体またはその成員と接触しない点」からも明快だ。