内田樹著「日本辺境論 Ⅳ 辺境人は日本語と共に」を読む(2) |
脳内2カ所の並行処理で言語操作する日本語の特殊性
著者は、「日本語の特殊性はどこにあるか」という項目で、
「言語を脳内の二箇所で並行処理している言語操作の特殊性はおそらくさまざまなかたちで私たちの日本語の思考と行動を規定しているのではないか」
という指摘をしている。
これに関して、私が着目してきた二つの事柄が関係する。
一つは、世界で日本語とポリネシア語だけである「母音主義」に連なる事柄だ。母音主義とは、母音を有意味音とすることである。
私たちがカタカナ英語をつくったり、「ネオコンサバリズム」を「ネオコン」と略したり、女子高生が「チョー」という擬態語的な副詞を「超」の音感から派生させたりするのも、母音主義が土台にあって可能になっている。無論、俳句短歌の七五調も母音を単位とすることで成立している。
ちなみに、「マーケティング」は「マーケ」と略すのに対して、英語は表記で「marketing→mktg」と略して読みは略さない。英語が子音を有意味音とする「子音主義」であることが分かる。
この「母音主義」と脳の働きの関係に最初に着眼したのが角田忠信氏(薬学博士)だった。
その著「日本人の脳」によると、日本人は自然の音や母音を言語脳(左脳)優位の状態で聴いており、欧米人などはそれを非言語脳(右脳)優位の状態で聴いていることが、実験的に確認されている。
つまり、日本人の言語脳は、欧米人が非言語脳で雑音と同じに捉えてしまう虫の音やせせらぎの音などの自然の音を、日本語と日本文化の鍵と鍵穴の関係を背景に、それをも言語脳で捉えるというのだ。
どう捉えるか、というと「志向的クオリア」として言葉化して捉える訳だが、日本文化の文脈を踏まえて母音主義の日本語化して捉えることになる。
具体的なその認知表現の展開が、「古池や 蛙飛び込む 水の音」のような俳句であり、ポトンとかピッチャンといった擬音語であり、すっぽりといった擬態語である。
擬音語も擬態語も世界の言語にあり短詩も世界の文化にある。しかしそれが母音主義をベースに意味と感覚と機能の表現内容のネットワークを形成しているとなると、日本語の希少性が指摘できる。
では、母音主義をベースとすると実際どのような質的な差異が生じるのだろうか。
本書「日本辺境論」の著者が指摘している「脳内二箇所の並行処理」は、言語脳の中だけの話であり、角田氏の主張とは直接の重なりはない。
しかし、著者の論述を私なりに検討していくと大いに重なってくる可能性が推察される。
これは私にとっては大きな発見だった。
私は、母音主義が土台となる日本語ならではの擬態語や身体語の特徴を検討してきて、そこに日本人ならではの「縁起にのっとった<情>起点の発想思考」の活躍領域を見出してきた。
そのことに大いに関係してくるのだ。
詳しくは追って検討したい。
いま一つは、戦後日本語では、漢字(漢語)・カタカナ(カタカナ英語)・ひらがな(和語)の混合使いが、戦後日本人の発想思考の特徴を助長してきた、との考えに連なる事柄だ。
私は抽象論としては、この考えを掘り下げて、
中国人に特徴的な「共時性にのっとった<意>起点の発想思考」と
アメリカ人に特徴的な「因果律にのっとった<知>起点の発想思考」とを、
戦後日本人は
自らの特徴である「縁起にのっとった<情>起点の発想思考」によって
調和的に統合してきた、
とする持論を展開してきた。
私の持ち場であるマーケティング&マネジメントの知識創造の領域で象徴的に言えば、
戦前の澁澤栄一の「論語と算盤」のような考え方が、戦後の「日本型経営」では、経営者の<意>の知識創造と現場専門家の<知>の知識創造とを「縁起にのっとった<情>起点の発想思考」で調和的に統合する集団志向をミドルが推進していく、いわば「論語と科学技術」や「論語と係数管理」になった、と大づかみに解釈することができる。
科学技術や計数管理は戦前から経営や事業において尊重されていたことは言うまでもない。
しかし戦後の「日本型経営」では、終身雇用と年功序列*をベースとする長期的成果を期待する集団志向において、経営者の<意>と現場専門家の<知>とを、人本主義的な<情>を媒介に集団や組織の合意にしていった、前述の知識創造の触発者としてのミドルの役割が不可欠だった。
(*いわゆる「日本型経営」における「年功序列」だが、それは単なる年の功ではない。
前述のようなミドルを、全社最適を想定し事業部門同士や社内外の連携も図れる人材として育成するキャリアアップ過程を踏んだ功というのが実際だった。ただ同じ職場で十年一日同じことを機械的にしていての年功序列などではそもそもない。
誰もちゃんと説明する者がいないため、短絡的な年功序列の全否定ばかりがまるで絶対正しいかのようになされている。)
たとえば、敗戦前夜の陸海軍の自滅的な状況を反省すれば、天皇の<意>と、現場兵士の<知>は分断されていて、本来それを創造的につなぐべき軍部官僚という中間層全体が、まったく自己破壊的な「縁起にのっとった<情>起点の発想思考」に偏っていった。
戦後、企業社会の全体がその反省から、ミドルが経営者の<意>と現場専門家の<知>を、人本主義を民主的にとらまえ直して、前向きで創造的な<情>を媒介に集団や組織の合意を形成していった、として不思議はない。
戦後の企業社会の思潮と、戦後日本人の発想思考とは相乗関係をもって再出発した筈である。
中国人に特徴的な「共時性にのっとった<意>起点の発想思考」と
アメリカ人に特徴的な「因果律にのっとった<知>起点の発想思考」とを
戦後日本人は
自らの特徴である「縁起にのっとった<情>起点の発想思考」によって
調和的に統合してきた、
という私の鼎立論は、少なくともバブル崩壊までの日本の企業社会全体の様相であった。
しかし、崩壊後の「空白の10年、15年」で、「日本型経営」の全体が短絡的に全否定されてしまった。日本人に適した良いところも創造的なところも、現代化の改善が試みられることはなかった。
(じつは例外的にその試みを地道に続けた企業が、終身雇用を温存して、実力主義を個人単位ではなく集団単位で、その成果を短期ではなく中長期で評価する方向で展開した、トヨタやキャノンやセブンイレブンなどのエクセレント企業だった。)
またインターネット絡みの新興企業の成長や、最先端技術のグローバルなデファクト取得を目指す開発競争の激化などで、私の鼎立論が成立せず、むしろ外国人と英語を共通語として対話して「因果律にのっとった<知>起点の発想思考」だけに集中すべき企業や事業が拡大してきたのも事実である。
しかし、今でも主に内需の産業で、外国人が喜ぶような「もてなし」の国内観光ビジネスから、日本人顧客との密接な関係を重視した「ふれあい」の農業ビジネスまで、「縁起にのっとった<情>起点の発想思考」で<知><情><意>を一体化する鼎立論的発想思考が求められ役立つ分野は多い。
この鼎立論が、イコール「戦後日本語では、漢字(漢語)・カタカナ(カタカナ英語)・ひらがな(和語)の混合使いが、戦後日本人の発想思考の特徴を助長してきた」との考えである。
私は、文章化された文言が、漢字・カタカナ・ひらがなの混合使いであることが、概念要素とその組み立てについての視認性を効率的にしていることに着目してきた。
それは、わざわざ言うまでもなく日本人なら誰もが実感していること過ぎない。
しかし、本書の著者の論述は、さらに視認性の先にある「脳内2カ所の並行処理」にまで奥深く踏み込んでいるのだ。
以下詳しく、検討していきたい。
(なお、検討の途中で適宜に関係する本ブログ記事も、参照として紹介していきたい。)
著者は「難読症」から語り始めている。
「難読症」は言語脳の障害だが原因は突き止められていない。
「特に英語圏では症例が多く、アメリカでは人口の十%がディスレクシア問題を抱えているともいわれます。
興味深いことに、文字がほぼ発音通りに表記されるイタリア語話者では少なく、綴り通りに発音されない英語やフランス語では発症し易い。
日本ではまだ症例が少ない」
「『難読症』そのものは図形の認知にかかわる脳の器質疾患であって、知的活動には支障がありません。音読してもらえばテクストはよく理解できる」
つまり、言語脳の中に字の形を視覚的に認知する部位があり、形が示す音を認知する部位への連絡回路と、音が示す意味を認知する部位への連絡回路と、形が示す意味を認知する部位への連絡回路があり、「難読症」患者の場合、それらの一部か全部が働いていない、と考えられる。
ところが耳から聴覚的に発話を認知する部位と、発話の音が示す意味を認知する部位への連絡回路は正常に働くので、「音読してもらえばテクストはよく理解できる」ということなのだろう。
ここで、そもそも文字を持たなかった和語をベースとする日本語の話者が、独特に自然音をも言語脳で捉えるのは、「耳から聴覚的に発話を認知する部位と、発話の音が示す意味を認知する部位への連絡回路」と言える。
つまり、「難読症」患者でも支障なく対話したり学習したりできている、言語操作上、最もプリミティブなこの回路なのだと考えられる。
「それにしても、非識字は欧米ではどこでも重大な社会問題です。
フランスでは非識字率が十%を超えており、『速読』ができない(一語ずつ読み上げることはできるけれど、読み終えたあとに何が書いてあったかを言うことができない)子どもが三十五%という統計が何年か前に『フィガロ』に公表されたことがありました。(中略)
日本では非識字率が話題になることはほとんどない(中略)。
江戸時代の日本の識字率は世界一であったとよく言われます。
私はこの高識字率は教育制度よりもむしろ日本語の特殊性に由来するものではないかと思っています」
そして著者はこう総括する。
「日本語はどこが特殊か。
それは表意文字と表音文字を併用する言語だということです。
かつては中華の辺境はどこもそのようなハイブリッド言語を用いていました。(中国)
その中で、日本はとりあえず例外的に漢字と自国で工夫した表音文字の交ぜ書きをいまだにとどめている。
漢字は表意文字(ideogram)です。かな(ひらがな、かたかな)は表音文字(phono-gram)です。表意文字は図像で、表音文字は音声です。私たちは図像と音声の二つを並行処理しながら言語活動を行っている。でも、これはきわめて例外的な言語状況なのです」
「欧米語圏では失読症の病態は一つのしかない。文字が読めなくなる。それだけです。
ところが、日本人の場合は病態が二つある。
『漢字だけが読めない』場合と『かなだけが読めない』場合の二つ。(中略)
漢字とかなは日本人の脳内の違う部位で処理されているということです。だから、片方だけ損傷を受けても、片方だけ損傷を受けても、片方は機能している。
日本人の脳は文字を視覚的に入力しながら、
漢字を図像対応部位で、
かなを音声対応部位でそれぞれ処理している。
記号入力を二箇所に振り分けて並行処理している。だから、失読症の病態が二種類ある」
以上、養老孟司氏の受け売りとして解説した上で著者は、
「言語を脳内の二箇所で並行処理している言語操作の特殊性はおそらくさまざまなかたちで私たちの日本語の思考と行動を規定しているのではないか」
と結論する。
ここで、「かなを音声対応部位でそれぞれ処理している」というその回路が、「日本語話者が、独特に自然音をも言語脳で捉える」回路と重なるか近い関係にある、と言えそうだ。
かなを見て母音発音を認知する回路と、虫の音や川のせせらぎの音をきいて母音発音を認知する回路、ともに母音を有意味音とする母音主義の「志向性」が働いていることは確かだからだ。
日本語のあまりにも当たり前のことについて改めて振り返ってもらいたい。
それは、擬音語や擬態語がかなで表記されて和語として扱われ、かなで表記される和語として新しい擬音語や擬態語が生まれて来ていることだ。
漢語の擬音語や擬態語もあるが、それが漢字表記で一般庶民の日常会話に普及することはなく、高学歴社会の現代でもない。
しかし、漢語としては品詞が何に当たるのか分からないが、「超」から「チョー」という擬態語的な音感の副詞が生まれている、そういう展開は多数ある。その際の表記はかなだ。
たとえば「汲々とする」「徐々に」といった重ね型の漢語の音感は擬態語的であり、「チョー」を生んだり自然と馴染んで使っている回路が働いて、日常会話では漢字を知らない人も「キュウキュウとする」「ジョジョに」とかなで表記する和語的に発話している感じがする。
そして、「キュウキュウとする」「ジョジョに」という発話を聞いた相手は、「汲々とする」「徐々に」という漢字=形を想起するのではなく、音感を起点に擬態語を認知する時のようにイメージを喚起する。
はじめて聞いた言葉で漢字が想い浮かばない場合は実際そうして類推するしかない。「キュウキュウとする」はなんか不自由に締め付けられる感じがするなとか、「ジョジョに」はちょっとづつの感じがするなとか、の類推である。
これは、蝉の声や川のせせらぎを聞いて母音主義の「志向性」で「みーみー」とか「さらさら」と擬音語や擬態語を認知表現するに至る回路と、ほぼ重なる回路ではなかろうか。
この回路はカタカナ英語にも、英語の品詞が何かに関わりなく、音感を起点に擬態語を認知する時のようにイメージを喚起する形で働いていると考えられる。
たとえば、「ストレートに」「スムーズに」という場合、スペルが書けたりスペルを想起する人はほとんどいない。音感に直線的な勢いや緩慢さが感じられることで、発話者の意図するニュアンスを受話者が汲み取り、また発話者は受話者が汲み取るように語感をつけて発話する。
私は本ブログで、日本語ならではの擬態語の特徴を中国語と英語と比較検討した。
その結果、「身体感覚をともなった情緒性の表現する擬態語」が多様に存在し多用されていることが特徴であると判明した。
情緒性とは日本人の特徴的な発想思考が起点とする<情>に他ならない。
詳しくは、
「日本語の擬態語と身体語の特徴についての要点復習(1) 」
http://cds190.exblog.jp/9977676/
「同(2)」http://cds190.exblog.jp/9978451/
「同(3)」http://cds190.exblog.jp/9985124/
「日本語と日本人の思考を特徴づける擬態語について(1) 」
http://cds190.exblog.jp/9509120/
「同(2)」http://cds190.exblog.jp/9990977/
「同(3)」http://cds190.exblog.jp/9992403/
「同(4)」http://cds190.exblog.jp/9997922/
「同(5)」http://cds190.exblog.jp/10006473/
以上を参照してほしい。
(ここでは身体語について詳しくは触れないが、日本語の身体語ならではの特徴を中国語や英語と比較検討した結果、それは擬態語の場合と同様に、外国語では重視されない日本語ならではの感受性と表現性があることが判明した。私はそれは「身体感覚をともなった情緒性」であり、それを「暗黙知」として共有しているとか、共有してほしいという気持ちだと思っている。
参照:「日本語の身体語の特徴を中国語から探る(0) 」
http://cds190.exblog.jp/10157213/
「同 (1) 頭」http://cds190.exblog.jp/10164295/
「同 (2) 耳」http://cds190.exblog.jp/10167872/
「同 (3) 目」http://cds190.exblog.jp/10173932/
「同 (4) 顔」http://cds190.exblog.jp/10183537/
「同 (5) 鼻」http://cds190.exblog.jp/10188477/
「同 (6) 歯」http://cds190.exblog.jp/10238409/
「同 (7)口」http://cds190.exblog.jp/10250321/
「同 (8)首」http://cds190.exblog.jp/10276591/
「同 (9)肩」http://cds190.exblog.jp/10281108/
「同 (10)胸」http://cds190.exblog.jp/10299839/
「同 (11)心臓」http://cds190.exblog.jp/10301839/
「同 (12)腰」http://cds190.exblog.jp/10312630/
「同 (13)腹」http://cds190.exblog.jp/10315319/
「同 (14)尻」http://cds190.exblog.jp/10320277/
「同 (15)手」http://cds190.exblog.jp/10320567/
「同 (16)腕」http://cds190.exblog.jp/10342867/
「同 (17)足」http://cds190.exblog.jp/10343472/
「同 (18)気」http://cds190.exblog.jp/10355772/
「同 (19)その他1/2」http://cds190.exblog.jp/10365804/
「同 (19)その他2/2」http://cds190.exblog.jp/10371937/ )
人類普遍に母音の咄嗟の発声は、即座の無意識的な身体反応を伴う情動の表現、たとえば心臓が止まるかのような驚き、体が凍りつくような怯え、がっくりと肩を落とす落胆などの表現である。
このことを考え合わせると、母音主義が「身体感覚をともなった情緒性」と密接な関係にあるプリミティブな身体反応から生まれていることが推察される。
たとえば、びっくりした時に身体を固く萎縮させながら「わっ」と発声したり、危険な状況が迫った時に泣きながら「きゃーっ」と悲鳴を上げたりである。
子音主義の英語で悲鳴を「eek!」「eeeeeeeeeek!」や「yipe!」「yiiiiiiiiipe!」と表記するが、実際にそのような悲鳴は上げないだろう。アメリカ映画でも「きゃーっ」と叫んでいるように聞こえる。
よって、母音主義が志向する「身体感覚をともなった情緒性」とは、人類普遍の無意識的な情動反応から「部族人的な心性」までに根っこをもつものではないかと推察される。
そして日本語は、こうしてプリミティブな情動から心性までの<情>に認知表現をフォーカスする構造を言語活動と言語操作の全体において一貫している、と言えよう。
母音主義の日本語において、和語が文法的骨格を構成し、情緒性に認知表現をフォーカスする多彩な擬態語や身体語が多用されていることは、アニミズムやシャーマニズムの「部族人的な心性」を基調としてベースに温存している言語メカニズムとも言えよう。