内田樹著「日本辺境論 Ⅳ 辺境人は日本語と共に」を読む(1) |
日本人の言明や対話を方向づけている日本語の諸々
著者の最終章「Ⅳ 辺境人は日本語と共に」をこんな話題で始めている。
「『どうして私が『ぼく』ではなく『私』という一人称を採用しているのか』
これはたぶん世界中のどんな外国語にも翻訳することができません。英語にするとこうなります。The reason why I employ the personal pronoun I in place of I.
意味不明ですね。英語の認証代名詞は単複・男女の区別しかありませんが、日本語は性数のみならず、その言明がどのような『自他の関係』を構築しようとしているかによってほとんど無数の人称代名詞が選択可能だからです(『儂』とか『手前』とか『小職』とか『老生』とか・・・)」
「というような説明は日本語話者にはたぶんすらすらとご理解いただけるはずです。別に高校の国語の時間に習ったとかそういうことではなくて、日本語を使って生きていれば『人称代名詞の選択というのは、そういうものだ』ということが血肉化しているからです」
著者は、ご自身が本書を書いた経過になぞらえて説明しているが、以上のことが書き言葉だけでなく話し言葉でも同じであるのは言うまでもない。
「言明がどのような『自他の関係』を構築しようとしているか」、
それを指し示すものを「メタ・メッセージ」という。
「言語学では、メセージそのものと、そのメッセージをどういう文脈で読むべきかを指示する『メタ・メッセージ』を区別して考えます。
メタ・メッセージはメッセージの読み方について指示するメッセージです」
著者は、「電話口での『もしもし』とか、教師が『後ろの方、聞こえてますか?』と言う例を上げて、
「コミュニケーションが成立しているかどうかを確認したり、コミュニケーションを延長したり、打ち切ったり、あるいはコミュニケーションの解釈について、『これはたとえ話です』とか『これはジョークです』とか『これは引用です』とか、読者に指示を与えるものはすべてメタ・メッセージです」
と説明している。
その通りなのだが、それは日本語だけでなく、外国語でも同じである。
一方、著者が「Ⅳ 辺境人は日本語と共に」冒頭で提示した、人称代名詞の使い方によって「自他の関係」を規定したりされたりするのは、外国語でも尊称程度はあるが、日本語ほど多様な人称が多用される言語はない。
そして日本語のこうした「自他の関係」を精緻に決めるための諸々は、人称に限らず、一事が万事なのである。
もっと言えば、日本人は言明や対話において、何はなくとも「自他の関係」をどう決めるかということに、ほとんどのエネルギーを集中しているかのようなのだ。
これはおそらく多くの日本人が体験的に認めることだろう。
日本人として生まれてから、大人になり、それなりに歳をとって過去の対話や議論を振り返った時に、命題そのものについて深く論じ合ったり煮詰め合ったりする言明や対話がいかに少なかったか、それ以外のつまりそれに至る前、そして至らずに終わった後の「自他の関係」を決める対話がいかに多かったかを思うのではないか。
無論、組織や集団に属する社員にとって、会社の規定路線を守る言明や対話では、その規定路線というものが「自他の関係」の規定をも内包しているから、そうしたことはない。しかし、会社の規定路線という命題そのものに異論を唱えた社員の場合、それが既定路線が内包する組織や集団の序列を揺るがす形で「自他の関係」を改める改めないの対話に終始することになる。
新機軸を打ち出す本人がいくら命題を論じようとしても、既存秩序を揺るがしたくない既定路線派は、命題について直接的に論じるのを回避する、そんな光景を幾度も見聞きしてきた。
具体的には、規定路線派が繰り出す言明は、新機軸提案者との「自他の関係」を決め込もうとする「メタ・メッセージ」ばかりという光景だ。
「日本人の知らない日本語」(蛇蔵&海野凪子 メディアファクトリー)という日本語教師が日本語を学ぶ外国人の珍発話を漫画仕立てで解説した本がある。
とても面白くて腹を抱えて笑ってしまうのだが、同時に、とても重要な日本語の特徴的構造に気づかされる。
その一つに、ヤクザ映画で日本文化が好きになり日本語を独学して来日したフランス人マダムの話がある。彼女は、初対面の挨拶の時に「おひかえなすっておくんなせえ・・・」「手前、生国と発しますところは・・・」と始めたそうだ。
外国人にとっては、マフィアが話す母国語も、一般人が話す母国語も同じだから、当然、日本語もそうだと思っていたのである。
つまり、日本語には「ある社会環境のお約束として意図的に用意された」言葉が多様に存在する。
典型的なのは、前の身分がどうあれ苦界に身を落とした吉原の花魁の「ありんす」言葉である。
「ありんす」は「ある」という命題表現のモダリティ表現(話し手の判断や配慮で色づけする言語的要素)への「言い換え」と言える。
「言い換え」は「役割換え」の表明であり、帰属集団の表明でもある。
このメカニズムの起源は、ある部族の構成員がその部族独特の言葉を部分的にもっていて、帰属を対外的に表明したり対内的に再確認する場合に多用することに求められる。
この部族を特定する言葉は、部族独自の言わば「言葉のトーテム」「言葉の装身具」だと捉えれば分かりやすい。
だからそうした言語活動は、かつての暴走族やチーマー、そしてニューヨークや渋谷のカラーギャングにもある<部族人的な心性>を土台とするものだ。
しかしここで私が着目しているのは、そうした<部族人的な心性>を<社会人的な心性>にまで社会全体レベルで発展させる日本独特の様相なのである。
<部族人的な心性>を土台とする「言い換え」では、名詞(タクシー→オートン)や動詞(喧嘩する→タイマンはる)や副詞(ほんとうに→まじに)や形容詞(すごい→やばい)など命題絡みの必須表現が主役だ。身内同士では通じるが、余所者には分からない分かりずらい、というところがポイントだ。
一方<社会人的な心性>を土台とする「言い換え」では、助動詞(である→でありんす、です→でげす、です→す)など省いて言い切っても意味の通じる表現や、おおよそニュアンスが解説なしに分かる否定の終助詞(ない→ねぇー)などが主役で、それで帰属集団を表明しきれている。帰属集団外の者にも言っていることが通じつつ、他者に帰属集団を分からせ、自己に課せられた役割を果たす意思を伝えている、というところがポイントだ。
言明、つまり「言うという行為」とその「やりとり」において、
前者は、対内的な同質性の表現に焦点を当てていて、
後者は、対外的な異質性の表現に焦点を当てている。
日本人は言明や対話において多くのエネルギーを「自他の関係」を規定するのに使うと述べたが、
それは帰属を問う「内」か「外」かと、力関係を問う「上」か「下」かについてである。
この点、中国人と似ているが、では中国語がそれをきめ細かく反映する言語かというとそうではない。日本語の場合、それをきめ細かく表現しないと日本語として成立しない、そんな言語なのである。
人称代名詞を自分については何にし、相手については何にするか決めないと始まらない。それが決まってはじめて「ですます調」にするか「だである調」にするかなども決まってくる。相手を目上の者やお客様として話すか、目下の者や接客者として話すかで、選ぶ言葉も違ってくる。
しかもそこに、吉原や賭場、ヤンチャな不良同士か普通の学生同士か、といった場のお約束が加味されなくてはならない。「部族人的な心性」が発露するような場ばかりを例示したが、◯◯業界の専門家として専門用語を駆使して話すビジネスパーソンも、日本語の中にカタカナ英語を混ぜて言明や対話をする場合、同じような事態が生じている。同じカタカナ英語でも業界によって意味や使い方が違ったり、同じ意味の事柄を言うのに業界によって違うカタカナ英語を使ったりする。
(同じカタカナ英語の「クラブ」で、年輩は「銀座のクラブ↓」と言い、若者は「渋谷のクラブ↑」と言うなどは、イントネーションで世代の差異やリーマンとリーマン以外の区別を表現している訳だが、世界に類例を見ない言語現象だろう。)
老若男女、どんな世代のどんな立場の人間だろうと、そういうことが全て表現されるように話して「自他の関係」の「内外上下」をきめ細かく規定して、はじめて日本人同士の対話の成立する「正調日本語」となるのだ。
さらに、同じ組織や集団に帰属する「内」の者同士でも、また力関係においてほぼ対等としても、「自他の関係」を良好に維持しようとするニュアンスが表現される。
その典型が「言い換え」と呼ばれるものだ。
たとえば、
「くい止められないんじゃないかという気がしているんです」
と言った私たちが日常的に使っている表現だ。
「同じことを言うにも、疑問形にしてみる。(中略)『か』を使って疑問形にして断言を避け、判断をあいまいにすることもある。
文を否定文にして、断言を弱めることもすくなくない(中略)。
次に『ないんじゃ』の『ん』を考えてみよう。『ん』は『の』がつまった言い方で、『の』はその前に言ったことを物のように捉えてくるんで名詞化するものである。『ないのでは』が『ないんじゃ』になっている。ここでは(中略)『くい止められない』という命題をまず『ん』で名詞化している。その後に『では』の縮約形『じゃ』が続き、『ん(の)』でくるまれた内容を主題化している。次に『くい止められないんじゃない か』と否定の『ない』を付加し、次に疑問の『か』が続く。その次に、『という』という前のことをくるんで名詞化する表現をし、その後に『気がしている』と言う。『気がする』ということは気持ちの上で感じていることで、認識しているわけではないことを暗示する。そして『気がします』の代わりに『気がしている』と『ている』形を使い、その気持ちの状態の持続を示し、話し手の責任において判断した、ということを避けている。そしてさらに『ん』で言ったことをさらに名詞化してくるみ、その上ではじめて話の場面を意識して、丁寧語の『です』を付けて締めくくり、話し手の場面へのあらたまった心的態度を示している」
仮に私が、以上のモダリティ表現をすべて直訳して英語や中国語にして言ったら、欧米人や中国人は「いったいこいつは何を言いたいのだろう」と思うに違いない。
命題を簡潔に言えば、「くい止められないと思う」であり、英語や中国語でモダリティ表現を加えても「I am afraid we can't stop it」「恐怕我们不能阻止它」でしかない。
まず私たちが問うべき大きな疑問は、
どうして日本人はこうまでまどろっこしいモダリティ表現(話し手の判断や配慮で色づけるす言語的要素)を多様に多用するのだろうか?
ということである。
このような表現を可能にしているのは日本語の特徴的な構造による。
「日本語の文が入れ子構造のようになっていることは、時枝(1941)によって『入れ子構造形式』として知られているところだが、これは膠着語という言語の類型的特徴をもっているからこそ、いくつもの層を成すモダリティ表現が可能になっている」
私たちが問うべき大きな疑問は、
どうして日本人はこうまでまどろっこしいモダリティ表現の多様な多用を可能にする文法を維持してきたのか?
ということである。
もともと「膠着語」は大和言葉の文法の枠組みとしてあった。
日本人が大切にしてきた「言うという行為」とその「やりとり」の本質とはいったい何なのか?
は日本語の原初に戻って最初に問われなければならない。
本論でその答えを探ることは控えるが、古今東西の言語にある二重否定の比ではなくまどろっこしい「入れ子構造形式」の多様な多用が最初からなされた訳ではない、という事実に着目したい。
大和言葉は言わば歌でありもっとシンプルだった。
ということは、日本語が大枠として大切にしてきた「言うという行為」の「やりとり」の本質、つまりはその目的と手段が系統的に変容し派生してきたと考えられる。
タンジュンに言えば、以上のような「まどろっこしい系」と、軍令、諺や四文字熟語、和歌や俳句などの「言葉少ない言い切り系」とが、いつの時代も二項対立を構成してきている。
たとえば利害関係が激しく対立する個人と個人の対話でも、当初冷静な段階では「まどろっこしい系」で双方言いたいことをオブラートに包んだような言い方をしていて、だんだん対立軸を明快にしてヒートアップし「言葉少ない言い切り系」になる、ということもよく見受ける。
(日本語の人称が「自他の関係」を規定することの内、私が気に入っている話を挿入しておきたい。
それは、たとえば家族3世帯が居合わせた場において、孫という一番目下の者が起点になった表現が人称として用いられることだ。たとえば、孫の母は「おかあさん」と母が自身を指して言うだけでなく、孫が母を呼び、祖母も「おかあさん(自分の娘)の言う事きいていい子にしてね」と孫に言う。祖父は「おじいちゃん」と祖父が自身を指して言うだけでなく、孫もその父母も、祖母も祖父を「おじいちゃん」と呼ぶ。
日本人にしてみれば当たり前とも感じないことではあるが、これは一番目下の者を無自覚的に起点にして家族という共同体が心理的に形成されていることを示す。
私はこれは「部族人的な心性」であって、長幼の序といった「社会人的な心性」と相反補足的な関係にあって、集団や組織の構成員の全体の意識と無意識をバランスさせているように感じる。
このような家族的な集団心理の二重構造は、かつての「日本型経営」の新入の若手社員から経営トップに至る序列においても働いていたように感じる。)
日本人のコミュニケーションは陣取り合戦=メタ・メッセージ合戦
著者は、本書で「国家国民の物語」を政治論の立場から論じることに重点を置いている。
そこで、日本語についても、「民族の物語」を文化論の立場から論じることに関心がある私が以上論じてきたようなことは割愛して、一気にご自身の関心事に向かう。
「日本語ではメタ・メッセージの支配力が非常に強いということです」
著者の言う「メタ・メッセージ」=メッセージをどういう文脈で読むべきかを指示するものの内、日本語だけに特徴的なものを取り出すと、日本人の世界に類例のないほどに精緻だったりまどろっこしかったりする「モダリティ表現」=話し手の判断や配慮で色づけする言語的要素となる。
そのことを、以上の私の論述で補足したかった。
「日本人はコミュニケーションにおいて、メッセージの真偽や当否よりも、相手がそれを信じるかどうか、相手がそれを『丸呑み』するかどうかを優先的に配慮する。
もちろん、どんな言語でも、メッセージの発信者と受信者の関係がどういうものか(二人は仲がいいのか悪いのか、それは上位者からの命令なのか、下位者からの懇願なのか、などなど)はコミュニケーションのあり方を決定する重要な条件です。
けれども、それにしても、コミュニケーションの最初から最後までそのことばかり考えている国語は稀有でしょう」
「私たちの国の政治家や評論家たちは政策論争において、対立者に対して『情理を尽くして、自分の政策や政治理念を理解してもらおう」ということにはあまり(ほとんど)努力を向けません。それよりはまず相手を小馬鹿にしたような態度を取ろうとする。
テレビの政策論議番組を見ていると、どちらかが『上位者』であるかの『組み手争い』がしばしば実質的な政策論議よりも先行する。うっかりすると当該論件について、より『事情通』であるか、そのポジション取り争いだけで議論が終わってしまうことさえあります」
さらに日本の場合、既得権益化した大手メディアは政策論争のアジェンダをセッティングしながら、対立者のどちらかが有利になるようにお膳立てすることに終始するから、話が致命的におかしくなる。民放の報道バラエティでは出演者が、「組み手争い」の胴元たる大手メディアを後ろ盾に「上位者」然と言明して、捏造報道、偏向報道で世論誘導をしている。
そんなことは時事問題に関心があってtwitterをしている人々にはもはや常識だ。
著者もこう述べている。
「私たちの政治風土で(筆者注:そして会社によっては経営風土でも)用いられているのは説得の言語ではありません。
もっとも広範に用いられているのは、『私はあなたより多くの情報を有しており、あなたよりも合理的に推論することができるのであるから、あなたがどのような結論に達しようと、私の結論の方がつねに正しい』という恫喝の語法です。
自分の方が立場が上であるということを相手にまず認めさせさえすれば、メッセージの真偽や当否はもう問われない(筆者注:自分自身のメッセージの正しさの印象が揺らぐことをおそれて、自分の方が立場が上であるという誇示ばかりに終始する)」
「日本的コミュニケーションの特徴は、メッセージのコンテンツの当否よりも、発信者受信者のどちらが『上位者』かの決定をあらゆる場合に優先させる(場合によってはそれだけで話が終わることさえある)点にあります。
そして、私はこれが日本語という言語の特殊性に由来するものではないかと思っているのです」
私もまったく同意見だ。
以下、著者の論述の文脈にそう重要事項を、井出祥子著 大修館書店刊「わきまえの語用論」から引用紹介して本項(1)を終えたい。
これは、以上検討してきたことの締め括りとなる。
日本人の「言うという行為」における話し手の視点
「『言うという行為』は、コンテクスト(筆者注:発話の場の情報として存在するもの)に合致するようにモダリティ表現(筆者注:話し手の判断や配慮で色づけする言語的要素)で包んで命題を言う、という構造で成り立っている」
まず著者は、この構造が文化によって異なることを下図で明示する。
「英語では、相対的にみて命題が大きく、モダリティとコンテクストの領域は小さい。
それに反して日本語ではモダリティとコンテクストの比重が大きい。」
「命題、モダリティ、コンテクストの境界線を日本語の場合は点線でしめしたことに注意してもらいたい(筆者注:*上図ではスクリーントーン面が実線なしで隣接と表現)。
渡辺(1988)は日本語の文法は『文の内容作り』と、内容と話し手自身との関係をのべる『文作り』の二つから成り立つと捉えているが、命題内容だけでなく、話し手がその命題内容をどう捉えているか、態度を表明するモダリティが必要不可欠である。
そのことを、命題とモダリティの境界が弱いということを表わすという意味で点線で表わしてある。
渡辺(1988)による『文作り』とは、コンテクストの状況に応じて、モダリティ表現を選択して、話し手の発話に対する態度表明をすることである。このように、モダリティとコンテクストの
密接な関係を示すため、ここの境界も点線で表わしてある(筆者注:*)。
さらに、コンテクストとその外側の境界線も、点線となっている(筆者注:*)。
これは、手紙のはじめに季節の移り変わりを適切に述べる時候の挨拶や俳句の季語にみられるように、コンテクストが自然にまで広がって外界とつながっていて、それがモダリティ表現となっていることを表わすためである」
「話し手の視点がコンテクストの中にあることにより、話し手がコンテクストの一部となっていることにも注目してもらいたい。
つまり、話し手がコンテクストの中で自分がどのような存在であるかを自ら認識して、それにふさわしいモダリティを使い分けている。(中略)
世代、役割あるいはジェンダーをどのように認識するか、そのアイデンティティに応じた言語形式の選択をしている。話し手はこうしてコンテクストの一部として話しているということをこの図に示している」
日本語における、命題に関するモダリティと「情報の縄張り理論」
「話の情報内容が話し手と聞き手のどちらに所属するか、その帰属領域に応じた言語形式の選択のルールを明らかにした」のが「情報の縄張り理論」(神尾1990)だ。
「『太郎は病気だ』と言えるのは、太郎が病気という命題の情報が話し手のなわばり内にある場合だけであり、そうでない場合、たとえば隣家の太郎君のことを言うならば、『病気だ』の代わりに『病気だって/だそうだ/らしい』などという言い方をしなければならない」
「英語では、隣家の太郎の場合でも自分の子供の太郎の場合と同じように”Taro is ill”と言えるのに、日本語では区別しなければならない(中略)。
日本語では、命題内容を言うにも、その情報内容が自分の領域の内に属するか外にあるのかを区別しないと、正しい日本語の発話ができないのである」
「また、隣家の太郎のことを話すとすると『太郎は病気だって/そうだ/らしい』ではどこかおかしい。(中略)自分の子供の場合は『太郎』と呼び捨てにできるが、隣家の子供には『ちゃん』『君』『さん』などを付けなければならない。
これも英語には必要ないが日本語では注意しなければならない区別である」
こうした命題内容の帰属そして話題の登場人物の帰属について、
内か外かの区別のモダリティ表現が必要となるのは、
日本語の「言うという行為」における話し手の視点がコンテクストの中にあるために他ならない。
つまり、同じコンテクストを共有すべきものとして、命題内容があるのかそうでないか、登場人物がいるのかそうでないか、が最初に問われる最優先事項なのである。
このことは私たち日本人にとって、気に掛けることもない空気のように当たり前の「やりとり」だが、欧米人や中国人にとっては異質な「やりとり」なのである。
「情報の縄張り理論」と同様の解釈ができる命題に関するモダリティ表現には、さらに以下のようなものがある。
「主観述語、感情述語あるいは心理文と言われる問題がある。
たとえば、寂しい時、英語では主語が自分でも第三者でも”I am lonely.””She is lonely.”と言えるが、日本語ではそうはゆかない。
日本語では自分が寂しい時には、ただ『寂しい』とか『私は寂しい』と言えるが、相手や第三者について『あなたは寂しい。』『彼女は寂しい。』とは言えない。(筆者注:言ってそれが自然な場合は、客観的事実を提示する以上に強い主観的決めつけというモダリティ表現になってしまう。)代わりに『彼女は寂しそうだ/寂しいらしい』などと言わなくてはならない」
こうした英語では言えても、日本語では言えない問題について、著者はこう説明する。
「個人の心の状態(中略)は個人に属する情報なのでその人でないとわからないものである。(中略)それを”She is lonely.”というように主語と感情の形容詞をイコールで繋ぐbe動詞で表現することができる英語ほどには日本語の『言うという行為』は、相手に対して無神経ではいられない。
相手の領域に関わることを客観的に捉えて、事実だからとして英語ではそのまま言えることが、日本語ではそうはいかない」
つまりは、いくら客観的な事実であっても他者の感情を決めつけることが憚られている、という訳だ。
しかし私としては、この説明は日本語の語用論的現象の美的側面に偏っていると言わざるを得ない。
なぜなら、語用論的現象の本質は著者も解説している「情報の縄張り理論」に求めるべきで、現実問題としては、命題内容の帰属はもっと複雑にポリティカルだからだ。
対話は個人なり集団が双方向で行うものだが、言明は必ずしもそうではない。
日々そこかしこで一方的な言明が個人からなされ、マスメディアからもなされている。
その中には、他者の感情を決めつけることがむしろメインであり正攻法であるようなテーマも多々ある。
分かりやすい例は、芸能人の恋愛記事だが、政治家の水面下の動きも誰が誰について行こうとしているか、誰と誰がくっつこうとしているかという話で恋愛記事と構造は同じだ。
しかも日本人の大衆的コミュニケーションを捉えた場合、その本音は、政治家の誰がどう動くという話(コンテクスト)が主題なのであって、政治家の動きの理由であるべき政治理念や具体的政策(命題)は副題にすぎないのだから、そう言って差し支えない。
政治家についてちゃんと取材をした上での記事か、それとも事実を捏造した記事や偏向させた記事かなども、じつは私たち日本人のコミュニケーションが「自他の関係」、つまりは「人と人との力関係」という主題を追っているという点では同じなのかも知れない。