日本人にとっての当たり前こそ私たちの資源であり出発点だ |
(twitterより)
シュンペーターは、基本的には『イノベーションとはさまざまなものの組み合わせである』といった。しかし、それは「革新」「開発」「応用」「改善」のすべての新アイデアというものがそうなのだ。 http://twitpic.com/2c9jxt
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http://twitpic.com/2c9jxt「革新」「応用」といった新しい目的づくりを伴う発想にフォーカスすると、日本人に特徴的な「縁起にのっとった<情>起点の発想思考」による飛躍が見受けられる。要は、知識豊富(意)で頑張り屋(意)でなくても心優しいから取り組むことがある。
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http://twitpic.com/2c9jxt日本人には当たり前の「目的」が西欧人にとって新しい時それは彼らにとって「革新」「応用」。典型は印象派にとっての、絵画の題材として庶民を描き量産品化してた浮世絵。しかしその創造体制こそが彼らが真似しないプロセスイノベーションだった。
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(つづき)日本人は集団志向というが、ただ人が集まって恊働するなら古今東西の人間がやってきたことだ。重要なのは、浮世絵で言えば版元の蔦屋→絵師→彫り師→刷り師の全体プロセスの集団の連携と共生。漫画の編集者と作家とスタッフが、アニメの作家とスタッフがともにキャリアを積む現代も同じだ。
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(むすび)誰もが仕事において収斂を積んでプロになっていく。ただこの収斂が、公的教育機関と個人の努力と競争にばかり委ねられる文化と、集団における恊働学習が育むことが前提の文化がある。野中郁次郎先生の指摘した日本型経営の知識創造体制「ミドルアップダウン・マネジメント」は後者であった。
「日本人にとっての当たり前こそ私たちの資源であり出発点だ」
ということを「天地明察」http://www.amazon.co.jp/天地明察-冲方-丁/dp/404874013Xを読み終えてしみじみと感じた。
この小説を読むと、「家康志向」の本来の美点と、それが維持されるために「信長志向」との合わせ技が適宜にかつ大胆に用いられた江戸初期の幕政に気づかされる。
そのことは追ってブログで整理検討したい。