Voice8月号「野中郁次郎×遠藤功」対談をブログ記事索引にさせてもらう(3) |
「日本企業よ、モノづくりに”身体性”を取り戻せ
アップルに負けない『日本型イノベーション』を興す方法とは?」 発
プロデューサー型リーダーとその構想力をいかに培うか
野中
「『コト』と『モノ』でいえば、目にみえるのは『モノ』であって、『コト』は『モノ』を媒介にしなければ認識できない。
たとえば音楽配信というビジネスモデルは、それぞれの好みに合わせた音楽を提供し、感動経験を与えるのが価値命題です。しかし、iPodのような『モノ』がなければ、その実現は不可能だし、全体の関係性を認識することもできない。そのような『モノ』を生み出せるということ自体も日本のもつ力といってよいでしょう。
ただ一方で、非常に優れた『モノ』が導入されたとき、その関係性を絶えず認識し、意図的に広げていく、という視点がそこでは必要になってきます。そのためには『これとこれがつながるのでは』という発想をする、いわば『コト』レベルの関係性を読み取れるプロデューサー的な人間が不可欠で、そのような発想を日本は強化していかなければならない」
<送り手側のモノ提供の論理>のために生じている問題性を
<受け手側のコト実現の論理>にたつアイデアによって解消する
そういうパラダイム転換発想を促す「コンセプト思考術」の研修講座とグループ演習は、
まさに「『コト』レベルの関係性を読み取れるプロデューサー的な人材」を育成するカリキュラムとして10年以上行ってきたものです。
(参照:「コンセプト思考術」速習10編」)
野中
「コンセプトづくりという点では若干、弱い面があるでしょう。
技術のコンセプトはありますが、それを大きな社会的コンセプトで括り直す、というところはやや不得手です。
(中略)
最近のアメリカの経営者は、大きなイノベーションを起こそうとするとき、自らプロデューサー的な役割を担うことが増えているように思います。
ミドルや現場の人材をうまく登用して、チームをつくりあげてく」
これは、「個々の独創を放任しておいて、それを適宜に集団に組織する」<信長志向>の知識創造体制に他なりません。
特に、信長が家臣でも武将でもない国際商人を大名に取り立てて新事業に取り組んだような、トップ主導のやり方に相当します。これは、江戸時代の幕藩においても武家でない逸材を取り立てて行われた例外的なやり方です。
武家の主従関係は基本的には、「集団を前提として固定しておいて、その集団が独創する」<家康志向>の知識創造体制です。しかし身内だけでは知的資源と知的恊働のネットワークに限界があります。そこで、組織や専門の部外者つまりは余所者を抜擢するのでした。これはあくまで縦の関係が主軸となるトップダウンのやり方です。
<信長志向>の知識創造体制には、もう一つ横の関係を主軸とするボトムアップのやり方があります。
バブル期に成熟化のピークに達していた「ミドルアップダウン・マネジメント」では、「知識の触発者としてのミドル(ナレッジ・エンジニア)」が個人有志として、自分が所属する事業部門や会社、業種や業界、専門以外の同様ミドルと、アフター5の勉強会や異業種交流会を通じて日常的にネットワークしていて、現実の仕事での具体的な恊働を展開しました。
つまりボトムアップにも、組織内部の身内による<家康志向>のボトムアップだけでなく、組織外部の異なる知識をもった人材を適宜に組織しその成果をもって提案する<信長志向>のボトムアップもあり、両者の合わせ技がバブル期の「日本型経営」の美点長所である企業社会の全体様相となっていました。
これは20年前の、インターネットという言葉すらない、携帯電話すら一般化していない時代の話です。
目前の仕事に関係のない社外の異なる業界の異なる専門のナレッジワーカー同士が、不確定的な可能性を前提に、日常的に夜な夜なリアルな場で飲食を共にするフランクな形で相対し、テーマがあったり無かったり極めて自由なフリーディスカッションやブレインストーミングをしていた。
私が体験した東京都心開催の会合の場合、各種業界大手の経営企画やマーケターや商品開発者、私立大学の経営学者、フリーランス個人事務所のプランナー、デザイナー、建築家、コンサルタント企業のコンサルタント、各種老舗中堅企業の経営者、新進気鋭のレストラン経営者、そして著名な歌舞伎役者など多彩なメンバーでした。
回り持ちで、それぞれの業界や手がけた案件の活字になっていない最新事情を発表し合いました。
これは、現代の企業社会のナレッジワーカーの、デジタルインフラに依存し、専門の知識と資格を偏重し、組織と専門の身内にタコツボ的に閉じこもりがちなコミュニケーション様相とは違う質の動きだったことは確かです。
また、企業社会という捉えでなくて都市や都会という捉えをしても、様相はずいぶんと変ったように思います。たとえば、東京の青山〜赤坂〜麻布といった界隈で飲んでいれば、なぜかマーケティングやクリエイティブ関連の同業者に出会い、そこから仕事の恊働に発展するということもありました。
都で人と人が出会うから「都会」という訳ですが、現在の都心は、通勤者が集合しては離散するだけの「都市」ばかりになっている感じがします。
いずれにせよ、現代のコミュニケーション様相は、想定した関心テーマについての確定的な可能性を確保した上で人と人がはじめてリアルな場で相対するのに対して、かつてのコミュニケーション様相は、意図的に不確定的な可能性において人と人がリアルな場で相対する。そこから自分の直感と人を媒介に場を精錬したり場と場をネットワークすることで、最初には予測しなかった想定外の関心テーマの広がりや恊働関係の拡張が担保された、という事実が注目されます。
知識創造やナレッジマネジメントの世界でも「偶有性」ということが重視されます。
しかしそれは実験室で起こるセレンディピティに留まるものではありません。最大の「偶有性」をもたらすのは人と人の遭遇であることが、現代の企業社会では忘れられているか、機械論化した組織や制度があえて捨象していると思われます。
物事が総じてアメリカ化した現在よりもバブル期にいたるかつての方が、雇用の流動性が高く、中途採用者の採用と活用が大胆であり、フリーランスへの独立や起業の動きが活発だったことは事実です。
それは単に経済が成長フェースにあったということでは説明できません。
以上のような知識創造の企業社会全体における恊働性の文脈によってのみ説明できます。
たとえば若年層には、やりたい仕事でフリーランスになるために、他の仕事でアルバイトをしてでも独立するケースが多々あり、そうした熱意ある者の動きはいつの時代も経済的な環境だけでは説明できないからです。
バブル崩壊後、「日本型経営」が短絡的に全否定され、「ミドルアップダウン・マネジメント」はかつての有り様に比べれば見る影もないくらいに減衰していきました。
アメリカ化にITインフラ依存が重なって組織と制度が、良く言えばフラット化、悪く言えば機械論化するとともに、経済環境の悪化に対して合理化という美名のもと、何の知恵もない算盤勘定だけの事業部門と雇用の切り捨てが横行します。これはメーカーの場合、モノ割り縦割りの事業部門分断経営を前提とし、デバイスごとの「レッドオーシャン市場」に自らを陥れていくことになりました。
人材の方もサバイバルしていくために、どこの会社どこの業種でも通用する専門知識や資格を重視するようになり、ある意味、自らを交換可能な機械部品と化していきました。
ほんとうは事業部切り捨てではなく、特徴ある事業部門横断の連携事業*によって「ブルーオーシャン戦略」を進めて、収益減を甘受しても脱競合による収益安定化を図る。その際組合は、社員の給料水準を落としても全体雇用を確保する方策を押し進め、同様の「ブルーオーシャン戦略」の新事業を多発させていくことで給料水準の回復を狙う、という経営方策もあったのです。
短絡的な首切りをせずに、有志社員集団に会社の共同出資で自社ブランド子会社を起業させるというやり方もありました。この場合、彼らの食い扶持が稼げれば彼らは雇用を確保し会社もリストラコストを抑制でき、子会社事業の成果をグループの総合力として確保し活用できたのです。このやり方はレアケースですが実際に実施されましたが、それができたのはリタイア間近の経営幹部実力者だけでした。
(*具体的には、カーナビどETCやドライブレコーダーを連動する、車載セキュリティ監視カメラとケータイや自宅テレビを連動する、などの事業部門恊働で可能となる新商品・新サービスは枚挙に暇がない。)
じつはナレッジワーカーとしても、特徴ある事業部門横断の連携事業で他社の誰もしない知識創造を経験しその成功ノウハウを実力とした方が、いずれ転職する際に希少価値ある人材として評価されるのです。
「どこの会社どこの業種でも通用するような専門知識や資格」というのは一見、自己商品化をより有利にするようですが、同じことを考えてする競合が多くかつどんどん新知識を携えた新世代が参入してくるのです。
結局、日本の企業社会は
「集団を前提として固定しておいて、その集団が独創する」<家康志向>一辺倒となり、
正社員としてサバイバルできていいることは既得権益のようになってしまいました。
そして<家康志向>一辺倒は、単なる「排他的保身主義」に堕してしまったのです。
このことが、日本の企業社会の硬直化と膠着状況をもたらしていて、その解決を妨げています。
つまりは「人災」なのです。
こうした現象は、マクロな市場環境や業界状況をみる経済学的な視点からは見えません。
あくまで、ミクロな知識創造現場の人間力学なり人間関係を見て、その集合体である企業社会全体の変容として観ることができるのです。
このような膠着状況を打開するには、「個々の独創を放任しておいて、それを適宜に集団に組織する」<信長志向>しかありません。
しかし、<家康志向>一辺倒組織化したトップからロアーまでが、その「排他的保身主義」によって<信長志向>を禁忌している、というのが一般的な企業社会の硬直化の様相なのです。
プロデューサー型のリーダーをいかに培うか。
この課題はとても重要です。
しかし、以上述べてきた知識創造現場の人間力学なり人間関係の現状を直視して真摯に向き合うことなくしては、その課題を捉えることすらできないと思います。
野中
「プロデューサー型のリーダーには、場合によってはマキャベリ的な知性を活用したり、レトリックを巧みに使うなどで周囲をその気にさせるといった、繊細なプロセス・マネージが求められる」
「コンセプト思考術」も、発想を促すものであると同時に、商品サービスの開発恊働者や購入利用者をその気にさせる物語の起承転結を整理するものでもあります。
具体的には、
<送り手側のモノ提供の論理>のために生じている問題の「不快の情動」を想起させ
<受け手側のコト実現の論理>にたつアイデアによって実現する理想の「快の情動」を想起させ
前者から後者への転換に共感してもらう、
という起承転結です。
「情動」とは、無意識による咄嗟の直接的な身体反応をともなうもので、
意識的で思考や経験によって長期的に変容する「感情」とは異なります。
たとえば、びくっとするとか、どきどきするとか、わくわくするとか、ほっとするとか、日本語で表現すると擬態語になりがちです。
あるいは、肝を冷やす、身の毛がよだつ、腑に落ちる、目が三角になる、腹が立つなど、日本語で表現すると身体語になりがちです。
誰だって、以上のような身体反応を直接的に感じますし、不快な感じは快い感じに置き換えたいものです。この心理的回路を使って相手をその気にさせる。
レトリックというにはあまりにもシンプルですが確実な手法です。
ある新商品が登場する前には確かに「不快の情動」があり、誰もが不満を抱いていた。
そこに新商品が登場して不満は解消され「快の情動」とともに新たな期待が増大する。
生活者が新商品に感動するには、この回路を辿ることが不可欠です。
いま、訴求対象を顧客生活者としてお話ししましたが、
経営者が社員を訴求対象とする物語も、プロデューサー型リーダーが恊働者を訴求対象とする物語も同じ回路を辿ることで、現状を改善しよう改革しよう、イノベーションを達成して新規事業を立ち上げようといった動機づけをすることができます。
遠藤
「舞台で演じるのは現場やミドルであって、彼らに必要な役割を演じてもらい、全体を俯瞰しながらマネジメントを行うのが経営者の役割ということですね」
野中
「組織としての持続的イノベーションという伝統は、それこそ本田宗一郎さんや井深大さん、松下幸之助さんにまで遡ります。
彼らが備えていたのは人間的な幅の広い教養で、だからこそグローバルな視点をもち、関係性で物事を認識できた。
しかしいま、そのような教養はきわめて軽視されています。
ピーター・ドラッカーは『マネジメントはリベラルアーツ(教養)である』という名言を残していますが、それがないがしろにされてしまえば『モノ』の背後にある関係性の本質を読み取ることはできない」
<受け手側のコト実現の論理>において、<モノの特徴的な機能>の土台には受け手にとっての<コトの画期的な意味>と<コトの個性的な感覚>があります。
野中先生のおっしゃる「『モノ』の背後にある関係性」とはこの論理をベースとして全貌が把握されるものと言えます。
以上の野中先生の指摘はまさに正論なのですが、むしろ現代において指摘しなければならないことがあります。
本田宗一郎や井深大や松下幸之助といったトップが偉かっただけでない、ということです。
「ミドルアップダウン・マネジメント」において、
「意味の触媒者としてのトップ(セマンティック・カタリスト)」の<意>を受け止めて、
「知識の適用者・開拓者としてのロアー(エキスパート)」の<知>に向かって、
「知識の触発者としてのミドル(ナレッジ・エンジニア)」が
それなりの人間的な幅広い教養で「縁起にのっとった<情>起点の発想思考」を展開していた、
それが知識創造組織の全体を機能させていた現場の実際を忘れてはなりません。
ここで遠藤氏が、ビジネススクールなどで「教養」がますます疎かになっていることを嘆き、「誰がその育成を担えばいいのか」と問い掛けています。
野中先生は企業トップの「意味の触媒者としてのトップ(セマンティック・カタリスト)」としての役割を答えているのですが、私には、それを受け止めてさらに横の関係で発展させる「知識の触発者としてのミドル(ナレッジ・エンジニア)」の現代的再生こそが課題のように思えてなりません。