「日本人を考える」司馬遼太郎対談集を読む(4)陳舜臣との対談 その2 |
陳舜臣対談「日本人は”臨戦体制民族”」(昭和45年/1970年)発
日本人は「騎馬民族」だからつねに「臨戦体制」
陳氏のような外国人からすると、一発で分かる日本人の特徴というものがあります。
そして、それは私たち日本人からすると、空気のように当たり前で当たり前とすら思っていない。つまり無自覚だったりします。
陳氏の指摘する「日本人は”臨戦体制民族”」もこれに他なりません。
一方、日本人は「騎馬民族」であるという捉え方は、歴史を紐解いたり言語を検討すれば出てくるもので、実際、司馬氏と梅棹忠夫氏の対談で「遊牧民族→騎馬民族の文化的遺伝子」である集団における「自己規制の強さ」が話題になりました。
ところが、日本人は常に臨戦体制にある、という感覚は、理屈としては「騎馬民族」から導かれる筈なのに私たちは無自覚であり、外国人に言われて初めて気づくものです。
司馬・陳両氏の対談では、それが江戸時代と明治以後の武断政治によって社会的に定着したと論じられて行きます。
考えてみれば、江戸は「太平の世」とはいえ、武家は毎日「城」という戦闘拠点に出仕したのでした。本屋大賞をとった冲方丁著「天地明察」のはじめにも、江戸城への登城において、身分役割によって様々な規則があり、城内では帯刀と装束が戦闘を回避すべく制限されたことや、城外では通勤ラッシュがあったことが描かれています。
東京の満員電車のラッシュは殺人的ですが、それに通勤通学者が耐えて来たのは戦前からです。
現在は、人身事故によるストップが多発したり、キレる大人が駅員に暴行したりと殺伐たる状況になっています。
よくぞこんな状態に耐えていると思いますが、これが「臨戦体制」であり、それを日本人は無自覚的に当然視しているからだと言われれば、そうかも知れません。
女性の社会参加が当たり前になった現在、殺人的ラッシュや限界的な運行状況に女性も当たり前のように参戦し甘受できていることは、やはり民族性をもって説明するしかない、世界に類例のない事態ではあります。
陳
「私が最初に申しあげた僧兵の存在ですね(筆者注:前項「その1」で触れた、仏教国で僧侶が武装するのは日本だけという話)。
一つグループを作って、それを守るのは武力しかないとする考えは、日本人の根本的な思考方法だと思います」
これは、<戦争←→武力>という枠組みでは合理的でかつ科学的と言えます。
しかし、この臨戦体制の認知表現パターンがそれ以外の生活や社会にも反映されるとなるとどうでしょうか。
たとえば、生きて行くこと仕事していくことにおいても<競争←→競争力>という枠組みが無自覚的に強化されます。それを意識化しないで何もしなければそれ一辺倒になってしまいます。
つまり、生きて行くためにも仕事していくためにも「一つグループを作って、それを守るのは競争力しかない」というメンタルモデルの蔓延浸透です。
<競争>に対して<共生>という工夫もされ慣習化もされます。
しかし、それは「一つグループ」の身内に限られてしまい、「他のグループ」との<競争>に備えるためのものでしかありません。
きっと、それで何が悪い?世の中そんなもんだ、という意見があると思います。
しかし、それこそが日本人が無自覚的に当たり前と思い身に染み付いてしまった「無意識のパラダイム」なのかも知れません。
たとえば、日本では少子化が問題になっています。しかしそれは少子化してはやっていけないやり方を国と官僚が前提にしている、から問題になっている。少子化してもやっていけるやり方を国と官僚が具現化する、という課題を設定するそんな選択肢も可能性としてはある訳です。
実際、世界の人口爆発や資源食糧不足を考えれば、世界に先駆けて日本が「人口減少省資源社会モデル」を実践的に提示する方が、より広い公を建設的に捉えることになりますまいか。
そういう発想を無意識的に捨象しているのが<戦争←→武力>=<競争←→競争力>という枠組みです。
司馬
「中国にしてもインドにしても、武力に頼らずして自己を守る方法をいっぱい持っておったわけですね。人文で守ろうとする」
この「人文で守ろうとする」、つまり<平和維持←→人文>という枠組みは、生きて行くこと仕事していくことにおいてはどのような展開をするのでしょうか。
私は、<戦争←→競争力>という枠組みは、戦争はする以上勝たねばならない、というところから出発するので、<手段>ばかりが問われて<手段>ばかりを高度化することが展開すると捉えています。
一方、<平和維持←→人文>という枠組みは、何のために生きることが最善なのだろうか、何を大切にしたり育む社会が最善なのだろうか、と<目的>を問い<目的>を高度化することを起点にする、そしてそれを達成するための新しい<手段>を創造したり高度化していく、そういう展開をすると捉えます。
この二つの捉え方は、結局はパラダイム(考え方の基本的枠組み)の異なりであり、個人→集団→組織→社会→国家→世界→人類といった各レイヤーで常に対峙して議論が交わされるものです。
陳
「日本人は、頭から、武力(筆者注:=競争力)が一番てってり早いという考え方ですね。つまり、いつでも臨戦体制なんだ。
戦争になっても敵に滅ぼされないような体制を常時とっている。だから、お花とか茶の湯とか、口伝秘訣で口から口への神秘めかして伝えるもの(筆者中:≒職人の身体知によるモノづくり)、それと、さっきいった空海の完璧さ(筆者注:規模は小さいが精緻な完成度がある≒日本人の集団志向に適した日本型経営)。
規模は小さくても完璧なものにするというのは、敵に知られちゃいかん、いつでも戦争なんだという意識が、ひそんでいるからじゃないでしょうか」
私は、陳氏のおっしゃる「小規模完全主義」「小集団活動主義」に同意する者ですが、それを閉鎖系にしているのは「家康志向」なのであって、「信長志向」は開放系にしてきたことを指摘したいと思います。
(筆者注:
「家康志向」
=集団を前提として固定しておいてその集団が独創する知識創造体制
「信長志向」
=個々の独創を放任しておいてそれを適宜に集団に組織する知識創造体制)
自分に有利な情報や技術を独占したいとは誰もが考えることです。
しかし、実際に独占できると考えるかどうか、実際に独占するために閉鎖系で労力を使うよりも、より有利な情報や技術を導入できるように開放系で労力を使った方がいいと考えるかどうか、
両者はそこが決定的に違い、そのパラダイムやメンタルモデルの違いが、個人→集団→組織→社会→国家→世界についての人間関係としての考え方・感じ方を真逆に形成していきます。
陳
「臨戦体制となれば、損か得かは、非常に端的な選択法ですからね。捨てるものはあっさり捨てなければ、先へ進めない。物ないしは思想を簡単に捨てるというのは、やはり、常時戦いに臨んでいる姿勢とつながるんではないか」
民族性という日本人全体を捉えれば、陳氏の言う通りです。
しかし、閉鎖系の「家康志向」と開放系の「信長志向」に照らすと、
固定化した身内を重視する「家康志向」が、身内の身につけた知識や技術を尊重して「捨てるものをあっさり捨てられず、先へ進めない」事態を招いているのが実際です。
身内を固定化せずどんどん異分野から抜擢する「信長志向」が「捨てるものをあっさり捨てて、先へ進む」を効率的かつ効果的にできているのが実際です。
陳氏は、日本では武家政治が長く続いたが、その体制は歴史的にみて普通ではなく、そもそも日本人にそれを受け入れる体質があり、それが一番いい社会スタイルだったのではないかと指摘します。
私たちは、江戸時代が長かったから明治時代以降も武断政治となったり、「家康志向」が蔓延したと考えがちですが、陳氏のような中国人からすれば、そもそもそれを受け入れる体質があったと言う訳です。
「騎馬民族」の文化的遺伝子とはそういうことです。
(詳細は割愛しますが、懐徳堂記念会編「世界史を書き直す 日本史を書き直す 阪大史学の朝鮮」和泉書院刊の杉山清彦述「第五章 大清帝国と江戸幕府」によると、モンゴル同様の騎馬民族であった満州族の群雄割拠とその統一そして対明戦争に突入した過程は信長〜秀吉の動きと時代的にも重なります。また、家康のつくった幕藩体制は、満州人王朝である清の政治組織・支配機構・身分秩序とかなり重なります。つまり、江戸時代に入る前に日本人は騎馬民族としての特徴をすでに社会的に色濃く反映していた、ということになります。)
司馬
「武家政治は徳川期いっぱいでおわったわけではない。明治期も多分に武断的だった。
大正と昭和初年だけがすこし毛色がちがっていて、満州事変前後からふたたび武家政治待望の世論が出てくる。
その世論へ軍閥が乗っかった。もっともこの昭和軍閥は馬上天下をとったわけではないから、かえって始末がわるくて、この大戦末期にはもう、日本を支配しているのではなく、日本と日本人を占領してしまっているかっこうだった。
徳川幕府のほうがずっと治者的で、同国人を大事にしていますよ。
たしかに昭和16、7年ぐらいから20年まで、かれらはもうそれこそ武家政治を通り越して、どう考えても、日本と日本人を占領している感じだった。そう考えたほうが、あのころの日本の姿がよくわかるようなふしぶしがあります。
たとえば、日本と日本人は軍閥に占領されていたものだから、敗戦でパッとそういう連中がいなくなって、アメリカ軍がくると、おなじ占領だから、それも陸軍軍閥よりは紳士的だから、すっとうまく行った。一つの占領グループに代って、別の占領グループが来ただけのことですからね、日本国民にとっては」
同じ「家康志向」(=集団を前提として固定しておいてその集団が独創する知識創造体制)でも、江戸時代の治者的なそれと、昭和の陸軍軍閥による占領的なそれとの違いとは、具体的にどのようなものだったのでしょうか。
私は日本人が一番感じ取ったのは<情>の違いだったと思います。
今年95の父も徴兵されて軍隊に行きました。そして毎日、若い職業軍人(官僚)が年長の新参兵(民間人)に文句をつけては殴るのを見て、「敵と戦う前に味方にやられてしまう」と感じたそうです。
武断的と言っても、こんな強きを助け弱きを挫く実態を江戸時代の武士が聞けば「一緒にしないでくれ、勘弁してくれ」と言うでしょう。
しかし、この単なる軍隊イジメを正当化しているだけの「本質卑しい武断性」ですが、今日の私たちの社会にも引き継がれています。
軍隊的な会社組織での職場イジメは、「畏れ多くも天皇陛下」と言わず、「歯を食いしばれ」と直立させて殴る訳ではありません。しかし、リストラ圧力を背景とした陰湿執拗さ、そのリストラされたら再就職先がない極限状況での意味合いは大して変らない。
そして、そんなリスクがともすると誰にも降り掛かりうる恐怖感、セーフティネットという逃げ場の欠如が、就労者に慢性的ストレスと心理的疾患を蔓延させていると言えましょう。
徴兵された一平卒も現代の就労者も、使い捨ての駒であり、代わりはいくらでもいる、という言わずもがなの圧力に晒されていますし、実際にそれを管理職が口にする職場もあります。
そして私たち日本人と日本という社会は、「空白の10年、15年」の間にこうした殺伐とした人間関係を常態化してしまう、閉鎖系の「家康志向」一辺倒の「臨戦体制」を容認するようになりました。
バブル期までは、社会にも開放系の「信長志向」の「臨戦体制」があり、自ら起業してその開放系ネットワークに参加しようという者も多かった。
しかしいまやそうした動きは著しく減衰してしまった。
これは直接的には不況のためではありません。
直接的には人間同士の信頼関係が希薄化して、「信長志向」の動きをしても孤立化するだけに終わる、そういう状況に至ったためです。
だから、閉鎖系の「家康志向」の「臨戦体制」において「本質卑しい武断性」に出会っても、かつてのように「バカらしい、やってられない」と開放系の「信長志向」の「臨戦体制」という離脱先が無いため、いきなり落伍者の烙印を押されてしまう。
これは当事者の心理としては、軍国主義の時代に軍隊から脱走すれば非国民になることに相当します。逃げ場がなければ、ストレスに耐えるしかなく、ストレスが過剰で持続すれば心理的疾患を発生して当たり前です。
たとえば大手企業で、社員も組合も一般的にリストラには応じるが、雇用を維持するためのワークシェアリングを論議しません。
役人社会でも、一般的に公務員削減は叫ばれるが、雇用を維持するための一律給与カットは議論されません。
つまり、「運のよい人の待遇は変えないで、運の悪い人を選び出し追い出そう」というのが今の日本人の一般的な考え方・感じ方なのです。
このことは、形式的には本人の自由意志を前提にした「希望退職者募集」の場合も同じです。
このパラダイムを擁護しているのは、雇用者側だけではなく、就労者側でもあるということが重大です。
(私には、「家康志向」の農村の江戸時代まであったような呪術性を感じます。豊作を与えてくれる土地の神に生贄を奉げる心理、生贄として奉げられる心理が、リストラを巡る事態を推し進めている、そう感じます。なぜなら、経営手法として決して合理的ではないことは明らかで、残ってもらう人と辞めてもらう人を経営が取捨選択せずにあくまで本人希望が優先されます。また、リストラされる社員の対応としても政治的ではないことは明らかで、組合を通じて経営改革策や法的手段を訴えることはとても稀です。そんなことをしても経営に無視され職場で村八分にされます。)
ちなみに江戸時代、幕藩の経済事情が切迫した際、旗本や藩士はワークシェアリングをされて俸碌を半減させられました。そして、増えた自分の時間で自分で工夫して稼ぎなさいという政策がとられました。
NHK大河ドラマ「天地人」の上杉景勝が、家康に破れて米沢に移封された際、家臣の首切りを一切しないでその代わり俸碌カットを行い、家臣もこれに従ったことは有名です。
江戸時代の「家康志向」、そしてバブル期までの「日本型経営」における「家康志向」には、共生や助け合いを善しとする<情>が確かにありました。
「日本型経営」において、閉鎖系の「家康志向」と開放系の「信長志向」との合わせ技経営が行われたのも、人間関係における信頼と理想を求める<情>が当たり前に人々にあったからだと思います。
もとより「騎馬民族性」や「遊牧民族性」においては、困窮しても仲間を置き去りにしない、また人々は置き去りにされないことで安堵して仲間として従った、というのが人間論的な原理でした。
残念ながら、現在の「家康志向」は、組織や制度が機械論化し、人材も自らを機械の部品として商品化することばかりに心を砕いてしまった<情>の無いものです。あるいはあっても、サディスティックな<情>が横行する軍隊イジメと同じ「本質卑しい武断性」のものです。
司馬
「日本人の祖先は騎馬民族だというのは、江上波夫氏の説だけれども、騎馬民族という概念で日本人の一つの輪郭が描けそうですね。
日本語は単純にいって北方のウラル・アルタイ語であることは、モンゴル語を一年やれば感覚として判りますからね。なんといっても騎馬民族は強い。
ジンギス汗はどういう英雄であるかは別そして、あれだけの組織があれば、戦に勝てます。老人は一番殿(しんがり)で、若者が先登に立つ。システムそのものが草原を前へ前へと進軍してゆく。その中の個は、そのシステムの中にいることでやっと成立しているわけで、そこから外れたら、これは、えらいことになる。自分だけ草原に置き去りにされたら、という恐怖心があるから、システムと一緒に進まざるを得ません。
システムが進んで、町を吞みこんでしまう。住民を虐殺し、また進軍する。別に虐殺するのが楽しみなのではなく、そのグループから蹴落とされるのが恐ろしいからついていくだけの作業なんです。騎馬民族というのは、そういうものでしょうな」
本書の他の対談で、対談相手の富士正晴氏が自らの戦争体験に触れてこう述べ、司馬氏も「うん」と頷いています。
「アメリカの軍隊みたいに、パーッと食料落としてくれたらいいねん。そんなものなしや。喰うもんくれず、着るもんくれず『行けッ』やろ。しゃあない。食わな死ぬから、米とって食って、せっかく中国人が大きくしたニワトリとって食って、ブタとって食って、何でもみんな食うてしもうた。
薪がないときは家をこわして焼くやろ。早う飯炊かんならんときは、薪で炊いておったら遅いから、箪笥で炊く。よう乾燥しとるからな。それから、来年に蒔こう思うとるモミまで取って、馬に食わせてしもうた。それはえらい被害やで。そのために、日本兵が直接殺さんでも、餓死しとるのがようけあるわ」
「戦争は人を狂気にする」という言い方は、多分に観念的でロマンチックだと思います。。
実際は、国の政策、軍人官僚の命令で、以上のような盗賊にならねばならないのが日本なのでした。ジュネーブ協定も何もあったものではありません。
私は自虐史観反対派ですが、こうした日本人の現代に通じる有り方は直視すべきと考えます。
私は、軍隊が盗賊になるのは古今東西同じだという大雑把な言い訳をするよりも、近代国家を標榜し大東亜共栄圏を目指した理念という建前に対して、実際の戦闘で日本国民に盗賊行為をさせる本音がいかに乖離したものであったかを直視し、この建前と本音の乖離が現在の私たち日本人そして私たちの日本社会に今でもまかり通っている、それを注視することの方が大切だと思うのですが、いかがでしょうか。
次項「その3」では、こうした自己批判をした上で、いかにしたら私たち日本人は自己改革をしていくことができるか、その一つの可能性を司馬・陳両氏の対話をヒントに検討して行きたいと思います。