「縁起=因果律+共時性」と大和言葉から戦後日本語までの経緯 |
(twitterより)
Aが原因になりBが起きる原理を「因果律」。Aがある時Bがある原理を「共時性」。この両者が渾然一体で森羅万象が現象している原理が「縁起」。有史以前の部族人の心性は「縁起」を認知表現していた。原日本語が誕生したのはこの時期。占いから漢字を生んだ中国文明は「共時性」の認知表現を主軸にし
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(つづき)社会人の心性を発展させてきた。ずっと後にキリスト教世界で生まれた西欧文明は「因果律」の認知表現を主軸にし社会人の心性を発展させてきた。一神教自体が神という第一原因を想定して審判という最終的結果に至る「因果律」なのだ。中国で漢方が、西欧で科学が生まれたことはこの結果だ。
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(つづき)「共時性」を現象させるのは「天意」とされる。「天意」を担う者が天下を統べるというのが易性革命の考え方で、共産党中国もこれにより大衆に支持され成立した。知情意の<意>起点の発想思考だ。毛沢東による文化大革命を若者が支持したのもこれによる。一方アメリカは「因果律」の権化だ。
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(つづき)悪い物事には必ず悪い原因があり、将来の悪い物事を生む悪い原因が必ず今ある筈だという認知表現枠組みが、ベトナム戦争、イラク戦争、現在のアフガン侵攻を正当化してきた。敗戦がすでに決定的だった日本に2タイプの原爆を落としたのも、対ソ軍事バランスを考えてのことだった。象徴的分野
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(つづき)として軍事、科学技術、国際金融資本主義の3つ上げれば、アメリカの「因果律」の権化ぶりは明らかだ。さて日本人はどうしてきたか。大和言葉段階まで、人類普遍の部族人の心性で「縁起」を認知表現していたが、中国王朝が「共時性」を重視して形成していた社会人の心性を漢字とともに導入。
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(つづき)明治の近代国家設立時に、西欧の「因果律」を重視して形成していた文明を(社会人の心性はほぼ江戸時代のままに)導入。この段階では西欧新概念は漢語化(そのほとんどを中国人も採用)。戦後のアメリカ化において、前述の権化的「因果律」を導入。この段階ではカタカナ英語化。欧米由来の
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(つづき)「因果律」重視の認知表現とは、知情意の<知>起点であり、ともすると<知>のみを偏重して<情>を捨象し<意>を問わないで、<知>の枠組みのみで自己完結するものである。(ナレッジマネジメントや知識創造という専門分野もそういう嫌いを否めない。)以上の日本人の経緯には正に日本的
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(つづき)な特徴がある。それは、人類普遍の部族人の心性、これは現代でも世界の人々の深層心理に潜在しているのだが、それによる<情>起点の「縁起」の認知表現をベースとして、中国由来の<意>起点の「共時性」の認知表現と、欧米由来の<知>起点の「因果律」の認知表現とを、調和的に統合して
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(つづき)きたことだ。それを日本人の一般庶民も含めた全体に可能にしたのは「日本語」である。日本語は、あくまで大和言葉の文法的・語用論的枠組みと、日本語に特徴的な<情>起点の身体知=暗黙知を認知表現する擬態語や身体語などの言葉遣いをベースとして、中国由来の漢語と新作漢語、欧米由来の
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(つづき)カタカナ言葉と新作カタカナ英語を混交させてきた。戦後日本語はその完成期に当たる。高度成長期からバブル崩壊までの「日本型経営」の堅調期は、「日本型の集団独創」が現在のように知識分野的にも身内にこもり排他的な家康志向一辺倒ではなく、様々な異分野が交流する「異界との重なり領域」
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(むすび)を縫って信長志向のキーマンや創造集団が活動し、学際・業際から新知識分野・新事業分野が生まれた。この時遭遇する身内と部外者の用語のギャップを埋め、既存の言葉で説明できない新事態に共感させたのが、<情>起点の身体知=暗黙知の認知表現と、それに注力させる日本語の枠組みだった。