私たちが無自覚でいる「日本型」の構造 その11=「信長志向」は生活文化系において息づいている part1 |
まず、日本型の集団独創2タイプを復習します。
「家康志向」
(徳川幕府の支配パラダイムは、
共同体内部で身内同士で展開した
秩序維持型=知識記憶継承型の「祭り」である農耕儀礼
を下敷きにした
「集団を前提として固定しておいて、その集団が独創する」知識創造体制
にあった)
「信長志向」
(信長が描いた支配パラダイムは、
新秩序導入型=新知識発見導入型の「祭り」である交易
を下敷きにした
「個々の独創を放任しておいて、それを適宜に集団に組織する」知識創造体制
にあった)
信長短命に終わり、徳川幕府の一般大衆レベルで国を閉じた太平の世が260年に及んだことで、「家康志向」は私たち日本人の血肉となりました。
「暗黙知=身体知」的にも隅々まで、「明示知」の体系としても全国津々浦々において成熟しました。それは当然、慣習的な生活文化と仕事文化においてもそうです。
その弊害を江戸時代の人は「杓子定規」と言いました。
話が飛びますが、寿司屋で海苔巻きのことを「機械巻き」と呼びます。手で握るのではなく「巻き簀」を使うからです。江戸の感性では、簀のような竹の道具でも人間的ではない「機械」なのでしょう。
「家康志向」の弊害である「杓子定規」のルーティンワークは、官僚主義にそして組織や制度の「機械論化」に通じます。
そして今の日本も、企業社会、学校社会、官僚社会ともに、「家康志向」一辺倒となり、かつ組織や制度が「機械論化」し人材の「機械の部品化」が極まってしまった、と説明できます。
政権交替した民主党がやろうと頑張っていることも、これまで自民党がやってきたのと同じ、「組織や制度を機械と捉えた機械の改良」に見えます。すでに企業社会でも、同様の組織開発や、「人材を機械の部品と捉えた人材の改良」が行われてきて、それによる実質的な成果はさほど上がっていません。
こうした事態を打開するには、個々人の人間性と多様な可能性を重視する「信長志向」しかない。
それは歴史を振り返っても言えることです。
そこで「信長志向」の、「家康志向」と同様の「明示知体系化」を探求し、それを集団独創にそして組織開発や制度開発に役立てよう、というのが私の立場です。
この課題意識を共有してくださる方々のために、まずは2つの側面から本質的な現状認識を共有しておきたいと思います。
1つは、
現代の「家康志向」が「集団を前提として固定しておく」その仕方は、今の社会全体で俯瞰するとどのような大枠にあるのか?
これを明らかにするには、社会全体の「価値形成のダイナミズム」が情報の4領域の合わせ技であることを説明しなければなりません。
いま1つは、
「信長志向」は生活文化系において息づいてきたし今も息づいているが、それといわゆる「Web.2.0」の現代はどのように関わっているのか?
世界的な「Web.2.0」への動向は、知識創造組織の革新可能性としては、このように図式化できます。
ただ日本の場合、
「旧来→集団志向×物理空間を前提」の「家康志向」だけが、「今後→個人志向×情報空間」に展開していて、それがITコミュニケーションの飛躍的な高度化と重なって極端な「組織と制度の機械論化」「人材の機械の部品化」に帰結している。
個人、集団、組織レベルの「信長志向」が抑圧されてしまっている。
ところがみなさんご存知のように東京かわいいファッションやジャパンアニメはじめ「生活文化系」の領域では、そういう大勢の動向の不自由さから、むしろ反比例するように「信長志向」がより自由に展開しているのです。
江戸時代も、武家社会の「家康志向」に、町人社会の商業が対抗するものの武家に管理されていたのに対して、「生活文化系」の対抗は武家の個々人を魅了するほどに完勝していました。
注意深く振り返ると、江戸商業が実質、「家康志向」と「信長志向」の合わせ技で発展していたのに対して、江戸文化は浮世絵にしても俳句にしても算学にしても実質、「信長志向」で発展していました。
その同じダイナミズムを現代の「生活文化系」も、それに参加する個々人の「暗黙知=身体知」として、独創集団の中核的な「暗黙知体系」として連綿と踏襲しています。
順次、検討していきたいと思います。
そして最後に、
そうしたことの全体で何が、私たちが無自覚でいる「日本型」の構造なのか
を確認したいと思います。
情報の4領域の合わせ技である「価値形成のダイナミズム」について
(以下の基礎概念の説明は、 「コンセプト思考術速習10編」からの引用です。
「コンセプト思考術」研修の二日目午前の講義で、若い世代の受講者に、戦後の市場とマーケティングの変容のポイントを伝えている内容です。)
情報の4領域
「情報」とは、一般に知識を蓄積したり伝達したり、加工したり編集したりできるような形にしたものと説明されます。これは「情報」を{モノとして機能論で捉える}一つの捉え方です。たとえばコピー紙の消費量の推移とかインターネット上のトラフィックの状況といった「情報」現象の定量的な実態を知るにはこの捉え方で構いません。
しかし、「情報」作用や「情報」効果という定性的な実態を分析するためには、{コトとして意味論で捉える}ことが必要です。
具体的に「情報」の領域を分析しながら解説していきましょう。
まず「情報」は、その伝達の目的(what for)によって2つに分類されます。
それは、「知識啓蒙情報」と「行動誘導情報」です。
前者は、知識を啓蒙することを目的とした{静態的}な、つまり止っている情報であります。
後者は、行動を誘導することを目的とした{動態的}な、つまり動きのある情報であります。
もちろん前者の知識を啓蒙する情報も、最終的には対象の行動を誘導する目的をもっていることが多い。しかし厳密に分析すると、ある段階まではもっぱら知識を啓蒙する静態的情報であって、ある段階から、その知識をベースにした行動を誘導する動態的情報に引き継がれています。
たとえば、店員は客にまず商品を解説し(知識啓蒙情報)、その後「今だとお買い得ですよ」と購入をすすめる(行動誘導情報)という展開です。
さらに「情報」は、何についての情報なのか(what about)によって2つに分類されます。
それは、モノについてを内容とする「モノの情報」と、コトについてを内容とする「コトの情報」です。
もちろん後者の場合、生活や仕事といったコトのテーマのもとでモノが語られることがあります。しかし、内容の重点がモノそのものではなくて、モノによって可能となる生活や仕事である場合、それはコトを内容とする情報と考えるべきです。
以上の事実から、以下の概念図に示すように、
(クリックしてポップアップしてください。)
「情報」にはその性質や作用によって、
A =「モノについての知識啓蒙」の情報
B =「モノについての行動誘導」の情報
C =「コトについての知識啓蒙」の情報
D =「コトについての行動誘導」の情報
の4つの「情報の領域」があることが確認されます。
A =「モノについての知識啓蒙」の情報は、
商品そのモノやパンフレットにある商品解説の情報です。
モノを作るメーカーが主導権を握る領域です。
ここでは、いわゆるハードばかりでなく、パソコンのソフトウエアの
ようなソフトも生活や仕事の道具としてモノと捉えます。
よってメーカーにはソフトメーカーも含まれます。
B =「モノについての行動誘導」の情報は、
商品購入という行動を誘導する販売促進情報です。
モノを売る小売りが主導権を握る領域です。
自動車メーカーの販売部門やディーラーは小売りに準ずるものと捉え
ます。
C =「コトについての知識啓蒙」の情報は、
いま流行っている生活や儲かっているビジネスの内容を報告する情
報です。
テレビや新聞、生活情報誌やビジネス情報誌といったコンテンツメ
ディアが主導権を握る領域です。
ここで「コンテンツメディア」とは、取材して編集した内容の対価
としてもらう情報料と掲載する広告の広告料によって成立する媒体の
ことです。
D =「コトについての行動誘導」の情報は、
受信者が生活やビジネスを創造していくための機会の情報です。
雑誌で言えば就職情報誌やアルバイトマガジン、アパートマンション
情報誌、ぴあやケイコとまなぶ、じゃまーるに掲載されている情報で
す。そしてテレビや新聞におけるイベントや展示会などの開催情報で
す。
特定テーマにおいて、人を求める発信者(たとえば求人企業)と機会
を求める受信者(たとえば求職者)を繋ぐ情報交流の媒体のことを
「マッチングメディア」と呼ぶことにします。「コンテンツ
メディア」と峻別するためです。
「マッチングメディア」は、マッチングの対価として求人主や売り主
貸主からもらう情報掲載料と、読者からもらう情報提供料とによって
成立する媒体のことです。
情報を媒介するだけであって、「コンテンツメディア」のように情報
的に主導権をもつわけではありません。
新しい生活や仕事を実践した「一次情報源」である生活者や
ビジネスマン(これを「生活創造者」「ビジネス創造者」と呼んで追っ
て解説します)が、情報的に主導権を握る領域です。
各種テーマの個人やサークルの活動についてのいわゆる「口コミ情
報」も、たいていの場合、聞き手が新しい生活やビジネスを創造する
機会の情報として伝達しています。
バブル崩壊後、雑誌の売上不振が言われますが、コンテンツメディア
系の雑誌の競争とはやり廃りの激しさに比べて、あるテーマ分野で優
位を築いたマッチングメディア系の雑誌は安定しています。リクルー
トの出版事業そして情報事業はこのマッチングメディア系に重心を置
く戦略で成功してきたと言えます。
価値形成ダイナミズムの変遷
(クリックしてポップアップしてください。)
「高度成長期」の価値形成ダイナミズム
昭和20年代の戦後復興期を終えた昭和30年からオイルショックまでの「高度成長期」は、現在と比較して、社会にはまだまだモノが乏しかった。電気洗濯機、電気掃除機、電気冷蔵庫が「三種の神器」と呼ばれた。またカラーテレビ、クーラー、カーが「3C (新三種の神器)」と呼ばれた。こうしたことに象徴されるように、人々はモノを買い揃えることで、{人並み}の生活を確保しようとしました。
製品そのモノが新しい電化生活の情報であり、購入を促進する情報でした。そしてモノを買うことが、イコール新しい電化生活をはじめる機会となりました。
つまり、以上の概念図に示すように、
A =「モノについての知識啓蒙」の情報である商品解説情報がそのまま、
B =「モノについての行動誘導」の情報である販売促進情報、
そしてC =「コトについての知識啓蒙」の情報である生活報告情報、
さらにはD =「コトについての行動誘導」の情報である生活創造情報に
直結していた訳です。
モノを作るメーカーが、社会における価値形成の主導権をもった時期でありました。
(「マズローの欲求の発展段階説」に従えば、
戦後復興期に第一段階「生存の欲求」と第二段階「安全の欲求」
を満たした日本人が、高度成長期に第三段階「親和(帰属)
の欲求」を抱くにいたったと解釈できる。
みんと同じ家電製品を買い揃えることで{人並み}の中流に帰属
することに、日本人全体が躍起になっていたからです。)
「豊熟消費期」の価値形成ダイナミズム
オイルショック(1973年)を境に、人々の価値観には、モノそのものの価値ではなくて、モノに付加されたソフトな価値を求めるという変化が生じてきます。
「アンアン」(1970年)「ノンノ」(1971年)といった生活情報誌が創刊され定着していく。やがて舶来高級品ブーム、DCブランドブーム、高級レストランを食べ歩くグルメブームなどが定着していく。それはバブル期における海外買い物ツアーや高級外車のブームにまで行き着きます。
バブル崩壊までの「豊熟消費期」は、商品が消費されたと言うよりも、商品に付加された社会的評価という情報性や記号性が消費されたと言えます。
消費生活の情報性や記号性を広告や店舗開発に巧みに取り入れた西武百貨店や丸井などや、テレビCMや店鋪演出を不可欠の販促媒体とする製造直売である資生堂やDCアパレル等の小売り系セクターと、それら商品を買って使う生活の素晴らしさを魅力的に報告する生活情報誌やモノ雑誌を筆頭とするコンテンツメディア系セクターとが、相互に連携しながら、社会における価値形成の主導権をもちました。
両者の連携は、小売りが記号を陳列し、コンテンツメディアがその意味づけをする、というものです。
マンションやリゾートなどの不動産の製造直売にあたるディベロッパーやそれに準じた活動を自ら行ったゼネコン等のセクターが、金融緩和や民活やリゾート法といういわば国による販売促進情報を背景に、バブル期に向けて活発な事業展開をしました。ここでも情報的に、住宅やリゾートに関する生活情報誌等のコンテンツメディア系セクターとの相互連携があり、それは基本的に前述した一般消費財と同じダイナミズムでありました。
株のいわば小売りのセクターである証券会社と、バブル当時主婦までがみたという財テクのテレビ番組や雑誌のコンテンツメディアとの情報的な相互連携も、同様です。
つまり以上の概念図に示すように、
B =「モノについての行動誘導」の情報である販売促進情報と、
C =「コトについての知識啓蒙」の情報である生活報告情報との相互連携が社会における価値形成の主導権をもって、
A =「モノについての知識啓蒙」の情報のメーカーのセクターと
D =「コトについての行動誘導」の情報の生活創造者やビジネス創造者をコントロールしたのでした。
(新しい情報にアンテナをはっていてすぐに飛びつく人のことが
「高感度人間」と呼ばれ、「買物リーダー」「蘊蓄リーダー」
として評価された。
メーカーの商品やコンテンツメディアの情報誌の多くは、この
「高感度人間」をターゲットに発売され発刊された。
マズローの欲求の発展段階説に従えば、
豊熟消費期は、日本人全体が第四段階「自我(承認)の欲求」を
抱くに至った時期と解釈できます。)
「堅実生活期」の価値形成ダイナミズム
バブルの崩壊とそれに続く平成不況を境に、人々は自分の生活の足下を堅実に見据える視点をもつようになった。「堅実生活期」の始まりです。
自分らしい生活を見極めて、そのために必要なモノは買うが、そうでないモノには見向きもしない。借りて済ませられるモノは買わない。モノに付加されるソフトな価値も冷静に見抜き、情報コンテンツを含めて自己実現に無関係なモノや、自己実現を妨げるような買い方を避けるようになりました。
典型的には、若年層における持ち家志向の後退、そして中古品敬遠の減少が注目されます。いまや家を持つことは夢ではなく、リサイクル商品を活用するのはむしろ賢く、楽しいあるいはカッコイイことになりました。
日本人のマイホームの夢が住宅価格が下がっても後退するということは、日本人が家という{モノの人並み}ではなく、暮らしという{コトの自分らしさ}に、こだわりの重点を移行させたことを意味しています。(これには「空白の10年」以降顕著になった所得格差と資産格差も影響している。)
車や家電製品において、自分の生活にとって過剰な機能や性能は敬遠される。これまで画一的な高級化と高性能化を追求してきたメーカーの商品開発姿勢は転換を求められました。
さらに、中古品を敬遠する傾向の減少は、レンタルを歓迎する傾向の拡大につながる。子供の世代は、バブルにかけて家をはじめモノを買い込んできた親の世代の空しさを見抜き、それが長引く不況において大きな足枷になる現実を冷静にみたのでしょう。結果、本格的なモノ離れの価値観をもつに至っています。彼らは、ビデオから車、アパートに至るすべてのレンタルを、自分らしい生活を自由に維持するコトとして、肯定的に受け止めている。つまり、親の世代のように、家や車に代表される{人並み}のモノを自分もいずれ買って所有することを、必ずしも目標にしなくなりました。
人々は、メーカーや小売りによる販売促進情報、つまり購買誘導に乗せられない。もはや自分が{消費者}であることに喜びを見い出すよりも、自分らしい暮らしを実現する{生活者}であることに喜びを見い出す傾向を強めています。それは、精神的な満足や安定を消費に頼らない生活、そして生活の中心に消費を置かない人生観につながっている。この価値観は、21世紀により深化し、社会の基調となっていくでしょう。
(平成不況においてバブル期よりも拡大したブランド高級品消費は、勝ち組においてはバブル期の自己顕示欲求の延長と捉えていいが、大方は負け組と人から馬鹿にされなくて済む安堵を求める、いわば歪んだ自己実現欲求のように思われる。よってバブル期の一品豪華主義の所有志向ではなく、流行追随の買い換え志向となり、コメ兵のようなリレーユース市場に対応する全国ネットワーク業態が成立している。しかし、拡大した格差の定着した2010年代には、世間の標準に依存するブランド志向から、個々人が個性を演出するブランド志向に展開し、安価で更新性の速い東京カワイイ系や欧米ブランドの「ファストファッション」の隆盛へと至っている。)
「堅実生活期」の当初、90年代前半のバブル崩壊直後の不況突入期、各種のディスカウンターが刺激的な低価格政策を推し進め「価格破壊」が声高に叫ばれました。しかし、21世紀初頭の現在、生活者は当時を振り返って、日本の価格水準が正常化しただけのことだと冷静に受けとめています。人々はこの「空白の10年」を経て、いくら安くてもムダなモノは一切買わないという姿勢をもちました。逆に、自分らしい毎日をおくるために必要と感じるモノはいくら高くても買うという現象が見られます。当初は、一品豪華主義的な買い回り品においてあったその傾向は、2010年代にはたとえばコンビニで買う弁当やスイートなど最寄り品でも見られるようになりました。
「堅実生活期」では、社会における価値形成の主導権は、特定の生活テーマで主体的な生活実現を図る「生活創造者」(追って解説します)が握るものとなりました。
たとえば、1990年代、スノーボードが若者にブームとなり定着していきましたが、それはスノーボードをメーカーが作ったからでもなければ小売りが売ったからでもありません。事の始まりは生活情報誌が掲載したからでもありません。
まず主体性のある創造的な生活者がいて、彼らがスノーボードを自分らしい暮らしを実現する自分流のスポーツライフとして実践したのです。それが{機会の情報}として口コミで広がり同好の士が集まっていった。スケートボードの場合、さらにスポーツ系のコンテンツメディアや小売りやメーカーの方がそうした動向を後追いして、雑誌取材したり、店頭品揃えしたり、自社ブランド生産をするようになったのです。
つまり以上の概念図に示すように、
D =「コトについての行動誘導」の情報の生活創造者やビジネス創造者の一次情報が、
C =「コトについての知識啓蒙」の情報である生活報告情報としてコンテンツメディアに取り上げられる。
B =「モノについての行動誘導」の情報である販売促進情報を、話題や人気の拡大をみてとった小売りが品揃えをして発信する。
A =「モノについての知識啓蒙」の情報である商品そのモノと商品解説情報は、メーカーが以上の動向からマーケットの拡大を予測してはじめて生産して発信する。
情報的にはこうしたダイナミズムが働くようになりました。
(マズローの欲求の発展段階説に従えば、
堅実生活期は、日本人全体が第五段階「自己実現の欲求」を抱く
に至った時期と解釈できます。)
ここで、本論の論題である、
現代の「家康志向」が「集団を前提として固定しておく」その仕方は、今の社会全体で俯瞰するとどのような大枠にあるのか?
についての私の現状認識を先に述べます。
現代の「家康志向」が「集団を前提として固定しておく」その仕方は、
情報の4領域ごとに閉じている。
そうなった原因は大きくは2つです。
1つは、情報の4領域の1つを得意とし起点とする過去の成功体験パターンに囚われた経営幹部によって短絡的に組織と制度が機械論化されたことです。
いま1つは、このことが影響して企業社会の全体として、「異なる業種間、異なる業界間の人材の流動性」が損なわれてしまったことです。
まず前者の、情報の4領域の1つを得意とし起点とする過去の成功体験パターンに囚われた経営幹部によって短絡的に組織と制度が機械論化されたこと、を検討していきましょう。
硬直化したメーカーは、いつまでも
A =「モノについての知識啓蒙」の情報である商品解説情報
これを創出し起点とするパターンに固執しました。
そのパターンを決定づけているのは、多くのメーカーにおいて、マーケティング部門が、作った製品をいかに売るかの単なる販促部門であることです。
生活者の潜在ニーズの塊を見出してそれを掘り起こす商品コンセプトの仮説を立てる、その検証から開発において自社技術では足らない部分は異業種異業界との恊働を図る、といった広義のマーケティング&マネジメントのイニシアティブを発揮するところは稀です。かつてそうした活動を社長直轄組織で商品開発に直結させたシャープの「生活総合研究所」、そんな生活起点部門の活躍話は少なくなりました。
一方、アップル社やWiiの成功パターンが、発想的には、技術起点ではなくて生活起点であることは誰もが認めるでしょう。
硬直化した小売り、その典型が百貨店ですがこれも、いつまでも
B =「モノについての行動誘導」の情報である販売促進情報
これを創出し起点とするパターンに固執しました。
その典型は、多くの百貨店において、複合商業施設の全体の「コミュニティとしての質」を生活者にとってどのような意味あるものにするかという発想を欠いてきたことです。
詳細は省きますが、「集客装置としての量」が施設規模や施設複合性によって狙われてきただけです。それでは「消費装置」になるだけで、「生産装置」や「文化創造装置」にはならない。人間が暮らす「コミュニティとしての質」を十全にはできません。
その点、独自の成熟化によって堅調を維持する伊勢丹は、国際的なバイヤー活動を充実して展開してその成果を店舗において生活提案し、カスタマーの反応をまたバイヤーにフィードバックする、C =「コトについての知識啓蒙」の情報である生活報告情報を創出する出版社やテレビの知識創造パターンであることが注目されます。そういう意味で伊勢丹は「生産装置」や「文化創造装置」になっている。
たとえばコンビニは、多様な階層が多様な使い勝手をする日々の情報を収集し、商品の仕入れ陳列に役立てるにとどまらず、そこから新商品や新サービスを開発する知恵を創出しています。そういう意味で「生産装置」や「文化創造装置」になっています。
むしろ現代の私たちは、ユニクロやニトリや無印良品のような「メーカーと小売りの複合ビジネスモデル」が、着実に「生産装置」や「文化創造装置」になっていて、想定カストマーにとって意味ある「コミュニティとしての質」を十全にしていることに着目すべきでしょう。
スーパーのプライベートブランド開発にも、生活者の側からすれば同様のことが期待されている筈です。
スーパーがこの課題に十全に対応できるかどうかは、経営幹部が情報の4領域の内の自分たちが得意としてきたのとは異なる領域の課題と認識して、社内外の「個々の独創を放任しておいて、それを適宜に集団に組織する」「信長志向」を大胆に導入できるかどうかにかかっています。大胆な導入ができなければユニクロには敵いません。
本離れ、雑誌不況と言われた出版業界でも、硬直化した出版社や部門と、むしろ発展した出版社や部門があります。
硬直化した出版社や部門は、
C =「コトについての知識啓蒙」の情報である生活報告情報
これを創出し起点とするパターンに固執しました。
平成不況にむしろ成長したのは、この後説明するリクルートが先鞭をつけた「マッチングメディア」としての雑誌でした。
また00年代には、ファッション雑誌において、「読者モデル」や雑誌で人気のモデルやタレントが登場する「ファッション・イベント」が雑誌と読者を繋ぐ媒体として存在感を増してきました。これは、ファッション雑誌のもつ「マッチングメディア」性が、人間を媒介に、人間の集う場を媒介に拡張したと解釈できます。そのダイナミズムは、10年代にはすでに中国語翻訳された提携出版によって東アジアにまで展開しています。
ケータイ小説という新市場が立ち現われたり、「電車男」のやり取りが小説になったり、他媒体との連携によって「マッチングメディア」性を担う小説も登場しています。
そうした動向は、今後の電子出版の台頭によってさらに多様化していくのでしょう。
以上、大勢の硬直化は、各セクターが、過去の成功パターンを踏まえた「家康志向」一辺倒となり、得意の情報領域に固執して従来からの身内集団を前提として固定していることが原因であることは明らかです。
一方、そんな彼らを尻目に自由に飛翔している勢力は、共通して「個々の独創を放任しておいてそれを適宜に集団に組織する」「信長志向」を原理原則として尊重しています。
漫画やアニメ、ファッションの世界は、そもそも編集や制作の過程が「信長志向」であり、発想としては作家やデザイナーを通じた生活起点にあることも土壌となっているのだと思います。
ただその土壌も、欧米と比べる日本独特の様相が確認できます。新人作家と新人編集者がともに刺激しあって長期的に成長していくことや、読者モデルやプロモデルがファッションのプロデュースをしてその過程全体をファンが見守りトレースするなどです。
こうしたことをさらに詳しく検討するため、項を「part2」に改めて、追加の基礎概念から説明していきたいと思います。