江戸時代における「日本型の発想思考」の集団独創化を探る(5) |
(4)
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からのつづき。
江戸時代における全国諸都市の誕生とネットワーク化
前項(4)では、
消費都市の誕生とそのニーズが成熟化するにつれて「商品作物拠点村」が発展し、これと加工食品製造拠点を経由して消費拠点である都市を結ぶ需給チャネルが全国レベルで連携発達していったこと、
その経過において「信長志向」の集団独創の成果として、全国の多様な諸国名産品の分布や、現在私たちが当たり前に思っている生産者の作物構成、加工食品製造者の製品構成、販売者の品揃えといった<コト割り横串し>の商品や店舗の有り方を発生させたこと、
を確認した。
西欧において近代に普及充実した都市型の需給ネットワークが、日本ですでに江戸時代に発生普及していたということ、それも庶民のボトムアップによって成し遂げられたことは、世界的に見て驚くべき事実である。
大著「文明の衝突」でハーバード大学のサミュエル・P・ハチントン教授は、「地球上の主たる文明の中で有史以来『一国家・一文明』を維持してきたのは、日本しかない」と言っている。
以上のことも、この主張の一つの例証と言えよう。
ただ、ほとんどの日本人が、そうした自らの歴史とその成果を踏襲した現在を、そのようには理解していない。空気のように感じるともなくただそれで当たり前とだけ思っている。
よく日本人はもっと自らの歴史を知るべきだと言われるが、重要なことは、過去にどんなことがあったか歴史的知識を詰め込むことではない。私たちが当たり前と思っている現在のあれらこれやや、それを成り立たせている考えの基本的な枠組みであるパラダイムが過去を踏襲している、ということをイマジネーションをもって俯瞰することである。
著者は、「巨大消費都市の誕生」という項目で、全国の消費都市の発展様相の概要を解説している。
以下、主要な論述を抜粋しておこう。
「文化をはぐくむだけでなく、それを伝達する手段をもち、あわせて文化を享受する人々が、同時に存在する空間が都市である。
江戸時代以前に、そのような都市がどれほどあっただろう。
京都、鎌倉、そして堺や博多など、数えるほどしか名前が浮かばない」
「兵と農を分離する政策が断行されるや(中略)、兵を集住させる城下町という消費都市が、雨後の筍のように各地に誕生した。(中略)戦国末期から江戸初期の現象である。(中略)
城下町には、城郭を中心として、武士集団の町、武士の暮らしを維持し領国経営に不可欠な流通機能を担う職人や商人が集まる町人町、そして寺町と呼ばれる宗教施設などが建設された。
城下町はまぎれもなく軍事基地であり、統治機能の中枢が置かれた政治都市であるが、同時に住民の大半が消費者である一大消費都市でもあった。
このような機能をすべて備え、巨大都市化したのが江戸である」
「江戸の周辺は、江戸に集住する膨大な消費人口をまかなえるだけの生産力を持ち合わせていなかった。そのため、中央市場的役割を担っていた大坂の物流力に、依存せざるをえなかった。
この結果、大坂は物資の集散地として巨大化した」
「朝廷が存在する京都もまた、伝統文化をベースに新たな発展をみた」
「江戸、大坂、京都を、当時の人々は三都と呼んだ。
この三都のほかに、仙台、名古屋、金沢、広島、福岡、熊本など、万を超す人口を擁する城下町が、全国各地に誕生した。(中略)
こうした都市は、鎖国後、貿易港が四つの口(長崎・琉球・対馬・蝦夷地)に限定されたため、年貢米の販売などで中央市場の大坂と結びつかざるをえず、諸藩は蔵宿(くらやど)を設けて大坂商人との関係を強めた」
「菱垣(ひがき)廻船や樽廻船が就航して二大都市(筆者注:江戸と大坂)を結んだように、領国経済の中心である城下町と三都は、水運や海運によって結ばれ、陸路を使わざるをえない地域は馬背運送業者を介して結ばれた。
商品の積み下ろしが行われる陸運や水運の接点には、河岸という流通拠点が生まれ、水運と海運の接点には、湊と呼ばれる大きな港湾施設が設けられた。
千石船や地回り船が出入りし、廻船問屋が船荷の差配を任されたが、湊町は流通の拠点としての機能のほかに、集散する商品を加工して付加価値をつける地場産業も持ち合わせるようになった」
「諸国の掃き溜め」と言われた江戸とその現代にいたる文化発信地としての展開
全国の富そして情報が集中するようになった江戸や大坂は、消費文化のるつぼと化し、さまざまな人々が流入してきた。
「とくに江戸は、のちに『諸国の掃き溜め』といわれるほど、全国からの流入民であふれた」
現代世界で言えば、改革開放政策に転じた中国で沿海部の新興都市に内陸部から流入民が押し寄せたのと同じ構図だ。
「膨大な消費人口を抱える都市は、住民のさまざまな願望や欲望を満たすための仕事を成り立たせる。願望と欲望でもっとも人間的なものが、食い気と色気である。次いで衣装に気が向きはじめる。(中略)
この享楽的な風俗文化を支えるさまざまな商人や職人たちが、各地の城下町の消費生活にこたえることになる。その職種のほとんどは、農産物の生産などではなく、第二次産業を営む者ばかりである」
しかし「享楽的な風俗文化」とそれによる都市型消費経済の発展は、幕府の規制の対象になっていく。
「『浮世』の楽しみは官許の廓(くるわ 遊里)のなかに押し込まれた」
いわゆる「悪場所」という異界が設定され体制が支配する日常から排除されたのだ。
「戦乱の終結は、もはや武力のみでは権力を維持できず、法的整備を急ぎ、身分秩序の統制など文治的統治の強化と、宗教的・精神的な権威をもって威圧する必要性に迫られる。
幕府は、徳川家康を神格化し、トップクラスの知識人や芸術家のお抱えによる知的独占を図り、すぐれた技能者には『天下一』のお墨付きを与えて権威を誇示しようとした。
一方、彼らは世襲化によって地位を確固たるものにすると、そこに連なる同門の集団が形成され、それを束ねる家元制が確立した」
日本全体を知識創造組織と見立てた場合、こうしたことが集団を身内で固める「家康志向」に一辺倒化する官僚機構やお上意識が強化されていく土台となったことは間違いない。
たとえば縄張り意識は、<部族人的な心性>であり普遍的ではあるが、<社会人的な心性>としてどこまで社会化されているかとなると文化差が生じる。日本の場合、厳しい「内外意識」をともなって「家康志向」が偏狭かつ一事が万事に発揮されるメンタリティになっていった。
すべてが都市化した現代でも、またアメリカ渡来のSNSの世界でも、日本人同士の間に自然発生的に育まれるコミュニティや人間関係は依然「ムラ社会」であったりする。そうしたことの、ほとんど無自覚的な土台にもなっている。
「世襲制による芸術の独占は、芸術の形式化をもたらしたため、創造性豊かな芸術者は異端視され排除された。
彼らは京都や江戸を離れ、在野に沈潜して活動し、世襲的芸術に飽き足らない人々に歓迎された。こうして、新たな文化が地方にまで拡大していったのである」
著者が具体的にどのようなことを指してこう述べているのか、論述の前後関係から分からない。
幕府から「天下一」のお墨付きをもらった家元制度に収まらなかった江戸前期の芸術者のことなのだろう。
ただ私は庶民芸術を論じるのであれば、都市と地方を直接に対比させるよりも、江戸中期以降の「情報市場社会」化した江戸において、たとえば浮世絵に見る「商業主義よりの芸術性」と「作家主義よりの芸術性」を対比させたい。前者は「情報の編集の演出力」が発揮され、後者は「体験の感動の象徴力」が発揮された。
その典型として前者=歌川広重と後者=葛飾北斎を捉えたい。
著者は第二章「暮らしを潤す」で浮世絵を論じた最後で、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」が歌川広重の「東海道五十三次」のようには人気を得なかったことに触れている。
そこで思い起こすのが、北斎が晩年に地方で旺盛な創作活動をしていることである。
「北斎の『富士画』には、自然のなかでいきいきと働く人々の姿と、点描のようにぽつんと富士の姿とが描かれている。それはこれまでの『富士画』の常識(筆者注:画面の中央に三つの頭をもった山の姿を描くのを常としてきた)を覆しただけでなく、その抽象に近い表現と意表をつく構図は、見る者に驚きと新たな感動を呼び起こすものだった。
そのとき、北斎は七〇歳を超えていた。つまり『冨嶽三十六景』は、北斎が浮世絵だけでなく、大和絵・文人画・洋風画などの異質な画風を貪欲に吸収して初めて成った、彼の画業の集大成といえるだろう。
しかし、こうした北斎の強烈が個性の表出が、当時の人々に広く受け入れられるとは限らない。
風景版画が美人がや役者絵と同じように、広く一般の人々に受け入れられる役割を担ったのが、『冨嶽三十六景』から二年後に刊行されたライバル歌川広重の『東海道五十三次』であった。
これはたいへんな人気を呼んだ」
広重は北斎より十七歳年下だが北斎をライバル視したという。「東海道五十三次」が評判になった後、名所絵のシリーズを次々と発表した。
歌川一門の看板絵師である広重が北斎をライバル視したというのは、あくまで版画絵師としてであり、端的に言って版画の売れ行きを競ったのではなかろうか。
広重の風景画は、
「どれをとっても旅への憧憬や、松尾芭蕉によって芸術的な次元までに高められた俳諧的な四季の情景が、繊細な描写で絵画化されていた。そして、そこに描かれた人々の姿は、(中略)ほとんどは人生の哀歓がにじみ出ているような後ろ姿であり、うつむき加減に歩く姿である」
と著者が論述するように、版画というメディアとしての情報性や感情移入性に富んでいる。つまりは、芭蕉の俳諧を味わいそんな味わいの景色を求めて旅に出ることを憧れる万人をターゲットとしてその心を捉えてヒットした。
これに対して、北斎の風景画は、北斎が面白いと思った景色をその面白さを際立たせるように描いている。それは必ずしも万人が面白いと思い、この景色を見るために旅をしようと思うとは限らない面白さである。
北斎は50代前半で初めて旅に出た際、各地から眺めた霊峰富士に感動し、その後何年も構図を練ってあらゆる角度から富士を描き切った。74歳で「富嶽百景」を完成させた。そのあとがきで、70歳までに描いた絵はろくでもない、絵がうまくなるのはこれからである、といった主旨を記している。北斎にとっては画業は自分を自分たらしめる修行のようなもので、売れ行きなど二の次三の次だったのではなかろうか。
当然の帰結として、「富嶽百景」を刊行した72歳の頃には人気は30代の若い天才絵師、広重の風景画に移っていた。北斎の借金が増えていって天保の大飢饉が起こり世間は浮世絵どころではなくなる。そして妻と長女に先立たれ孫娘と2人で窮乏生活を送る。79歳の時には火災にあい写生帳を焼失し、焼け残った一本の絵筆を握り締め「だが、わたしにはまだこの筆が残っている」と気丈に語ったという。
北斎が90歳で天寿を全うする7年前、信州小布施の豪商高井鴻山の招きに応じている。鴻山は北斎のためにわざわざアトリエを建てて厚遇した。亡くなるまでの数年間に北斎は小布施へ4回来訪し数多の作品を残している。
鴻山は豪商であったほか豪農であり、酒造業も営んだが小布施の村役人をも兼ねるなど幅広く活躍した人物である。佐久間象山も鴻山邸に出入りしていた。
当時小布施は東西交易の一大拠点であり、信州でも屈指の繁栄を誇っていた。鴻山は財力を持つ文化人として、自らも学問・芸術に関わりつつ北斎や象山たちを援助した指導的先駆者だった。
つまり、当時、全国には城下町以外にも交通の要衝が流通拠点となり豪商や豪農が存在した、ということである。
さらに村役人について著者は第一章「ねぐらから住まいへ」でこう述べている。
「村役人などを務めれば、幕府や藩の地方役人、同じ立場の他村の村役人たちとも日常的に交流しないわけにはいかない。世は俳諧ブームである。句のひとつも詠めなければ、対等につき合ってもらえない。花鳥風月に親しむなど、風流を解することを世間が求めたのである。
そこで、そのような身分や格式の客を招くとなれば、それにふさわしい施設が屋敷内に必要となる。特別に別宅をつくったり、茶室を付設したりするが、いずれにしても座敷の間(客間)に通すのが礼儀である。そこには季節の花が生けられ、壁には掛軸が掛けられる。ちょっと風雅で、落ち着きのある空間が必要なのである。」
つまり、天才絵師葛飾北斎を招いた豪商高井鴻山の話を富士山の頂点に位置する別格の話とすれば、富士山の麓のより庶民的な話として、江戸の擬制的な世襲制である◯◯一門のマンネリを嫌ったり、自分が面白いと思う世界を追求するあまり江戸で売れなくなったりした異端の芸術者と、全国の文化的パトロンを自負した富裕層との交流が一般化していたと考えられる。
日本全体を知識創造組織と見立てた場合、こうしたことが、パラダイム転換を求め具現化するカウンターカルチャーの体制とメンタリティである自由に活動する個々が適宜に集団を構成する「信長志向」の土台となったと言えよう。
私たちは約140年、明治以来の中央集権と東京一極集中に慣れ親しんでしまった。
NHK本社や民放キー局のお膝元である東京こそが日本の知識と情報の中心であると疑わないできている。実際、そのことがそういう方向性をさらに強化してきてもいる。
しかし明治以前には、各藩に藩校があり独自の教育があり、地方地域に風土や地勢を活かした産業があり、著者の指摘するような江戸のマンネリを嫌った芸術者との交流によって根付いた独自の芸術文化もあったのだ。そして、人々は地元の生活文化を自分たちらしさを成り立たせるものとして誇り、しかも外界の知識や情報を盛んに取り入れて地場の産業や生活文化を最高のものとするべく切磋琢磨した。
私は、何よりそうした営みを象徴するのは方言の質感だと思う。それは発想の質感でもあるからだ。
そして地元の産物を活かした料理や風土を背景に成熟化した食習慣である。
江戸時代を通じて、地方地域の定住圏域の空間的な限定の中で、それぞれの風土や地勢を揺籃として方言を発想の土台として独自の生活世界が育まれてきた。
しかし、全国津々浦々の明治の近代化、戦後の都市化、現代のグローバル化という文脈において、実態という具体性においても、情報や知識という抽象性においても均質化されてきてしまった。
そして、このように集団の構成員の情報や知識が均質化することほど、集団独創の妨げになるものはない。
経済支配体制としての武家政権の弱体化を宿命づけた「家康志向」
どうして江戸時代、支配階層である武士階層が、経済力としては大名貸しなどの商人階層より劣ったのか。
権力があれば、ロシアのプーチン大統領が民間石油企業を国営化したような強引なことがいくらでもできた筈で、そこのところが欧米人には理解できない。
そして一般的な日本人の理解も、武家による金銭や商業の賤視があったというくらいのものである。しかし実際は、そうした賤視を踏まえたり乗り越えたりしたやり方を幕府も御家人もやっている。
ここはもう少し精緻に検討していく必要があるだろう。
確かに商人から直接税金をとるという政策は江戸中期の老中田沼意次まではなかった。そんな悠長でいられたのは、江戸初期までは日本は世界有数の金銀銅の産出国で天領でそれを独占した幕府はその収入だけで財政を賄えていたことと、貨幣経済がまだ発展途上にあったためと考えられる。
この間に、幕閣の朱子学による商業軽視が建前だけでなく本音でもあったのだろう。しかし、全国の豪商や豪農がその経済的基盤をがっちり固めてしまった。
しかし、それとてもプーチン的な強引さで改革して重税を課すことができた筈で、逆にそうしなかった理由がある筈なのである。
それをじっくり考えていこう。
まず、幕藩体制とは、鎌倉幕府にはじまる「御恩と奉公」の関係である。本領を安堵する代わりにいざ鎌倉という時の軍務を負うという形式である。要は、各藩主は将軍に対する御家人の位置にあり、藩=本領を自治する、そして「無事の世」になったので軍務の代わりに参勤交代や公共工事(お手伝い普請)を担うというものである。年貢米の上前をはねることもなければ税金をとることもなかったのは形式を厳守したからと言える。
(この例外となったのは2つだけである。
一つは、宝永四年(1707)の富士山大噴火で大被害を受けた小笠原藩救済を目的とした「宝永の国役金」である。高百石につき二石(税率2%)の税を天領旗本領大名領に関係なく日本国中の百姓に課した。
いま一つは、享保の改革で行った「上米制」である。これは全ての藩を対象に徴収した。享保七年(1722)から享保十五年(1730)に実施され一万石あたり百石(税率1%)を課したが、一方で参勤交代で在府する期間を半減させて藩の負担を和らげた。税ではなく幕府財政再建のための臨時的な措置だった。)
ちなみに、寛永13年(1636年)の朝鮮通信使についてさまざまな変更がなされた中に、国書における徳川将軍の呼称があった。
朝鮮側の国書では、日本国王から日本国大君に、将軍側の国書では「日本国源家光」にしている。源姓をとったのは源氏の末裔ということだけでなく政権体制の形式の継承を意味するとも考えられる。
幕府に商人から直接税金をとる発想がなかったのは、直接税金をとるとすれば各藩の自治の頭越しにするか、各藩に商人から税金をとらせてその上前をはねるしかないが、それが鎌倉幕府以来の「御恩と奉公」の形式厳守を損なうものだったからではなかろうか。
以上が基本的な幕藩体制という前提の話である。
次に各藩レベルの話を検討する。
各藩は江戸中期には財政難が深刻になる。
その原因は、幕府から義務づけられた参勤交代やお手伝い普請による多額な支出だった。これは江戸城下の江戸屋敷に各藩主の妻子を人質を住まわせることと合わせて幕府による支配政策だから、そこまでは幕府の想定内だった。
幕府が想定していなかった財政難の原因は、貨幣経済の浸透によって米価が下落し年貢米を主体とする藩の実収入の減少だった。これは幕府の天領旗本領も同じだった。
これに2つのことが関係してくる。
一つは、大規模な検地を「慶長検地」一回しただけで、その後70年から80年間にわたり新田開発を推奨して日本の農地面積が2倍になり、日本の人口は1,600万人から3,200万人に倍増したにもかかわらず最初の石高を基準とし続けたこと。よって、「五公五民」の税率50%の実質は半分の25%であったこと。
今一つは、藩の経済は表向きは兵農分離と石高制の原則に基づいた自給自足的な体制だったが、実態的には全ての物資を自給自足可能な藩は存在せず、参勤交代や御用普請などで全国的な貨幣である幕府発行正貨の調達と中央市場への依存が不可欠であったこと。また藩内の武家の暮らしも自給自足では成り立たず現金を必要としたことである。江戸当初、「戦乱の世」から「無事の世」になって、大名以下の家中の奢侈な生活が普及したということもあった。
貨幣の需要は右肩上がりで、米の使い勝手は食用に限定されるから、米の対貨幣価値である米価が下落するのは必然だったが、この構造的な問題の重大さを幕府は江戸当初の高度成長期に顧みなかった。
江戸中期から各藩はさまざまな藩政改革や産業政策をしていくが総じてうまく行かず、注目されるのはうまく対応して雄藩となった長州藩と薩摩藩である。
長州藩は、藩による専売制を緩和し商人たちに開放して運上銀を課した(自由化と民活)。貨物の流通拠点である下関に「越荷方」という藩営商社を展開、越荷を大坂の相場に応じて安値で留め置き高値で売って利益を得た(成長事業の国営)。こうした経済政策を重視して下級藩士を積極的に登用する実力主義の人事を展開した(世襲役職の「家康志向」に対して下級抜擢の「信長志向」)。
薩摩藩は、藩が豪商から借りた500万両を250年という長期間返済として実質的に藩の負債を帳消しにした(プーチン的な強引なやり方)。奄美群島で採れる砂糖を専売したり琉球貿易を盛んにしたりした。10年間は幕府の許可を得ない密貿易だった(事業の国際化)。
以上のことは何を意味するかというと、財政状況を回復した雄藩以外の大方の藩は、大胆な経済政策をとることができず幕藩体制の大枠と、武士の商人に対する面目や上級藩士の下級藩士に対する面目といったメンタルモデルに従ったまま財政難を深刻化させていったということである。
以上が各藩レベルの話である。
幕府レベルの話に戻そう。
幕府も財政が悪化し、支出を抑える政策と収入を増やす政策が繰り返された。倹約に重点をおく縮小均衡政策と、税収増を狙う成長拡大政策とに振り子のように振れたのは各藩と同じである。しかし幕府と各藩では前提条件に決定的な違いがある。
まず、幕府には正貨発行権があり金銀銅山を天領にもっていたことと、外貨を稼ぐ管理貿易を独占していたことである。また当然、幕府自体には参勤交代や御用普請の出費がない。
ということで、税収を上回る支出をして財政赤字を累積させる、現在の日本政府のようなことにはなりそうもない。しかし実際は似たような財政難に陥っていった。
米価が下落し、慶長検地を基準とした石高制で実質的な減税を恒常化させる一方で、幕府がその威信を保つためのコストが高止まりしたということが大きい。
その筆頭が幕府の祝祭コストで、朝鮮通信使の受け入れ経費や江戸城下の御用祭りである日枝神社の山王祭の援助資金などである。
武士階級全体の経済的地位の低下はそのままその威信の低下となった。
これは幕藩体制の根幹である武家支配を揺るがす問題であるから、幕府はたとえ財政を悪化させても解消しなければならない問題だった。
一番の根本的な問題解消は、幕府は旗本・御家人の生活を経済的水準を確保することである。しかしこれについては構造的に限界があった。給料に相当する俸禄を上げることは個別にはできても全体を上げることは石高制度と各藩自治の縛りがあってできない。
そして幕府が実際にしたのは、逆に俸禄を半分にする代わりに出仕も半分にして足らない分は自分で稼げという政策だった。これは現代で言えば、ワークシェアリングによってリストラを回避したということで、世襲役職を温存して政権体制を守ったのだった。
百石以下の下級武士たちは内職をすることを許され、御家人のほとんどは内職をしたという。金魚や鈴虫、コオロギの養殖、傘張りや提灯、凧を作る仕事、朝顔やツツジの栽培などで、農地を所有することが許されなかったため屋敷の敷地内で栽培できる都市型の商品作物が工夫された。ちなみに張りおえた傘を商家に届けることは武士の面目にかかわるとして代行させた。また、下級旗本には、三味線や踊りなどの腕を磨いて高給旗本などが催す宴会で披露して「おひねり」を頂戴する者もいた。どうも武士の面目は自分より上級の武士に対しては問題にならず、もっぱら自分より身分の下の商人に対するものだったようだ。
江戸城下の旗本・御家人でこうなのだから、各藩の国許の下級武士の貧困化は顕著だった。
ここで町人や農民が怖れたとされるいわゆる「無礼打ち」が注目される。
これは「御定書百箇条」の「斬り捨て御免」なのだが、幕府がこの法令を発したのは寛保2年(1742)だった。武士の経済的地位の低下による威信低下の時期と重なるのは偶然ではないだろう。
その大意は、「度は外れた雑言を浴び、あるいは不届きな仕打ちをされて、やむを得ず斬り殺した場合、裁定のうえ、相手に非があることが間違いないと判断されれば無罪放免とする」というもので、そのような事案が発生するようになったという時代背景が感じられる。そして、そもそも武士側にとってかなり厳格な法律で、実際には武士が「斬り捨て御免」を行使しないで済ますケースが多く、斬りつけても致命傷を負わせないという慣行もあった。そのため時代が経るにつれて町人や農民そして無頼の徒までが武士を欺き陥れることが珍しくなかったという。
武士の威信低下は、武士階級を経済的にだけでなく生活的にも精神的にも圧迫していたようだ。
このような背景で、幕府が武家の頂点である将軍家の威光を世に知らしめるニーズが拡大していった。
江戸初期からの町人の経済的新興はめざましく、江戸中期には将軍家の威光が相対的に地味に感じられるようになっていった。このことには江戸が「情報消費市場」化していったことが密接に関係している。
つまり、吉原で豪商や豪農が武家より羽振り良く遊んでいるとしても、それは限られた超富裕層の話でしかもその実態が全国に知れ渡らなければ、武家支配体制の全体としてはさしたる問題ではない。しかし、化成期のように地方からの流入民である分厚い下層が「情報消費市場」化し、しかもその情報や知識が全国ネットワーク的に発信されるようになれば由々しき問題となった。
この時点で、問題は誰が一番贅沢をしているかといったことではなく、「情報発信力」において町人が圧倒的優位に立ったこととなっていた。
山王祭(日枝神社)は江戸三大祭りの一つで、神田祭(神田神社)と深川祭(富岡八幡宮)とは異なる御用祭ならではの威光が演出された。
江戸城下には各藩の江戸屋敷に藩主の妻子や江戸詰めの上級武士がいて、彼ら印象が国許に伝わるという全国ネットワークがありそれを前提とした「情報発信力」が期待されたのだと思う。
朝鮮通信使の行列は、遠来の外国特使が江戸城を表敬訪問するのだから、町人と競うことなく将軍家の威光を行列の往復路で示すことができる。行列自体が全国ネットワーク型の「情報発信力」となるのである。しかしいかんせん国家的威信を示すものであり、日本側朝鮮側ともに莫大な経費がかかった。
新しい将軍が襲職すると、対馬藩が使いを送って朝鮮に知らせ、さらに使いを送って通信使を要請した。通信使の行列には、大名行列には許されない、関ヶ原の戦いで勝利した家康が通った街道の通行が許された。将軍家の天下統一の軌跡をたどらせてその武威を示したのである。
ちなみに、一度の通信使の待遇の経費は約100万両で、18世紀初頭、新井白石が対外的な将軍家の認識はすでに満たされているという理由から廃止を主張し、最終的に60万両への削減策に決着している。これは宴席を設ける中継地を限定して他は通過する各藩の藩主の応接を省くものであった。
そして18世紀終盤、老中松平定信がいったん来日を要請しておいて延期し、年来の凶作を理由に、江戸にかえて対馬での僻地聘令を打診、朝鮮側も経費削減を望んでいて合意する。この時、幕府の経費節減はなったが、国内的な将軍権威の発揚という意義は損なわれた。
19世紀半ばには、老中水野忠邦が江戸ではなく大坂招聘への変更を打ち出す。西国大名を接待に動員しての勢力削減と、大坂江戸間の行程圧縮による幕府の経費削減と、国内的な将軍権威の発揚とを一石三鳥で狙うもので、朝鮮側に招聘は行ったものの実現はしなかった。
このような朝鮮通信使の待遇問題の経緯からも、幕府が財政難と威信低下の両方に悩んでいた実態が見てとれる。
貨幣経済の浸透と拡大にからむ新しい動向も、町人主導の「情報発信力」の全国ネットワークにおいて発生していった。
最終的に、各藩が年貢米を収集して分配する「租税の収集分配」のネットワークを飲み込んでしまった。
そもそもは、大名や藩士が年貢米や俸禄米を換金する「物流と商流」のネットワークをとり込んだだけだったが、米という実体の経済を超えて、米を担保にした投機や高利貸しという非実体の経済が巨大化した。それは、すでに町人主導で構築されていた「情報発信力」の全国ネットワークに武家向けの金融情報もとり込まれたという展開だった。
具体的には、米の受け取り・運搬・売却を代行して手数料を稼ぐ札差(ふださし)が、安い時に買い高い時に売るという投機によって台頭してくる。
札差とは、幕府から旗本・御家人に支給される米の仲介人であり、幕藩体制の中核においてこうした事態が展開したことは大きい。
札差は、浅草の蔵前に店を出し蔵米を担保に高利貸しを行い大きな利益を得た。旗本・御家人に金融し多額の利潤を得た札差は、次第に武士に対し無礼な態度をとるようになっていった。
札差仲間の結成後、月番で行事の役が回ってきた時、札差自身がすべき業務を手代に任せ、儲けた金銀を使い捨てるを常とすると言われた。寛政の改革で札差自らが出仕することが決められたが、詰め所において業務は手代に任せ自身は弁当代に月100両使い江戸中の有名店の珍味を取り寄せ遊里で遊ぶことを語り合ったり小判を並べて賭博をすることもあったという。
当時、芝居小屋や吉原に出入りして粋(いき)を競って豪遊した町人を通人(つうじん)と呼んだが、主流の多くを札差が占めた。歌舞伎の「助六」のモデルと言われる大口屋暁雨などが有名である。
窮乏していった下級旗本や御家人にとって武士の面目くらいがアイデンティティの拠り所であり、札差の無礼な態度やお上の決め事を蔑ろにする不届きは許されざることだった。
一方、逆に江戸城下の町人は、困窮の鬱憤を晴らすかのように威張っていた武士に反感を募らせていて、歌舞伎で札差が格好よく振る舞うのを見て溜飲を下げた。幕府はこうしたことの行き過ぎを放置する訳にはいかず監視の目を光らせた。
寛政の改革の一環で棄捐令(きえんれい)が出された。これは、財政難に陥った旗本・御家人の救済策であり、債権者である札差に債権放棄や再建繰延べをさせた。資金不足に陥る札差もでてくるため、これに資金を貸し下げる札差御改正会所が設置された。
これにより当時、96軒の札差たちは、平均1万両以上の債権放棄を強いられ、中には経営できず閉店同様になるものもあった。また、当初は借金を棒引きしてもらった武士は老中松平定信に感謝したが、札差たちの一斉締め貸し(金融拒否)により生活が困窮し政策を恨むようになったという。
現代でも、超大手企業が経営破綻すると、政府がつくった機構が債権者の大手銀行に債権放棄をさせ、その銀行が経営悪化すると政府が救済策を講じる。こうした財務省と大手銀行とのもちつもたれつの密接な関係性の淵源も江戸時代にあるのかも知れない。
戦後の日本では、「政官財の鉄の三角形」と呼ばれる三者の癒着が問題視されてきた。
その前身は戦前の官僚と財閥の癒着であり、さらにその前身は江戸時代の幕府と様々な株仲間の相互依存なのだろう。
たとえば、中国人にとって官僚(イコール、上級共産党員である)は政治家である。このこと(政=官)は古代からそうで人治が法治より勝る傾向が強かった。
江戸時代の日本では、幕臣や藩士(武士)は役職世襲の官僚であるが政治家とは言い難い。自由裁量が限定されていて基本的に法治が人治より勝る傾向が強かった。限定された自由裁量をおかして私腹を肥やす者はお上に露見すれば基本的に罰せられた。中国の場合、官僚の政治家としての大きな自由裁量と私腹肥やしは前提であって、親類縁者の中から科挙合格者を出して官僚として一族を盛り上げてもらおうというのが常識だった。
結果的に言えるのは、日本では、役人の一人ひとりが細分化した分担領域において、限界づけられた自由裁量で精緻かつ緊密に農民や町人ともちつもたれつの折り合いをつけた、ということである。
その際の折り合いのつけ方として鍵になるのが、町役人や村役人や株仲間といった主導層の集団に特権を与えて取りまとめ役としての責務を与えると同時に自由裁量を与える、ということだった。
幕府なり担当役人は、この主導層集団を監督し折り合いをつけることで、その下部構造の全体を間接支配した訳である。
徴税に話を限ると、町役人は町内の町民の税金をとりまとめて納める、村役人は村内の農民の年貢をとりまとめて納める、株仲間は現代の業界団体が政治献金を企業規模に応じて集めて政治献金するのと同じようなやり方で上納金(独占的な営業許可の見返りとしての税)をとりまとめて納めた。
これにより、担当役人は庶民の上層部集団を監督するだけで済み袖の下も貰ったろう。庶民の上層部集団の方も自由裁量においてさまざまな利権を手にした。
江戸中期からは商人や商人化した富農からも税金をとる取り方が制度化していき、税目的には漏れがなくなっていった。
しかし、それはすべて町役人や村役人や株仲間の自主管理と自己申請に丸投げするというやり方だった。
それにより、幕府は世襲役人の少ない人員で遂行できる形に行政実務を省けた一方、庶民の主導層集団が自由裁量において既得権益を見出し蓄財することを許した。
(この丸投げ方式の間接支配と逆のやり方が、天領への代官の派遣や長崎奉行の派遣である。よく時代劇で悪代官が越後屋と結託して悪さをしているが、それは集団合議的な主導層集団としての町役人が機能せずに越後屋が抜け駆けしているということである。
そして、代官が商人や商人化した富農から貨幣経済上の利益に見合った税金を取れたかというとそれは無理だった。目に見える田んぼを検地すれば算出できる石高のように売上げが分かる訳ではないし、まして安値で買った物を高値で売りさばく投機の利益は帳簿を子細に点検しなければ判明しない。経済的な実力者である彼らはいかようにもごまかせた。長崎などは相手が外国の貿易だからなおさらである。)
経済支配体制としての武家政権の弱体化を宿命づけたのは、
町役人や村役人や株仲間といった庶民の経済的な主導層の集団を介した間接支配しか幕府ができなかった、
ということだと思う。
これは、基本的には数少ない世襲役人だけで行政実務をこなそうとする(それでこなせるやり方しかしない)ことから、町役人や村役人や株仲間を特権集団として限定することまで、身内で集団を固める「家康志向」が一貫していると言える。
株仲間はその業界での実力者という主導層が選ばれるから、自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」の側面がその創設においてないではない。しかし、主導層集団がその自由裁量を既得権益化してその独占に執着したり、人数制限を設けて入れ替わりだけを許したりしていく。それは排他的な「家康志向」と言える。
自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」の徴税方式は、実際にはなかったが、江戸時代、武士人口が少ないという同じ前提でどんなものがあり得ただろうか。
いな、信長の短命なかりせば、信長はどのような徴税方式をとっていただろうか。
まず、信長がやっていた楽市楽座のような市場の自由化を全体パラダイムとしただろう。
そして、誰でも市場に参入できる代わりに市場への入場料を広く浅くとる、という考え方を基本に徴税手段を工夫しただろう。
基本的にはすべての市場参加者による自己申告、自己納税とし、ただし査察集団が抜き打ちで監査し脱税や不正あらば重い罰金や刑事罰を課する。
査察集団は、調査権と逮捕権をもち、業界業種ごとに多様な集団を秘密裏に「信長志向」で結成する。査察集団は潜入捜査もするから武家には武士が、商家には商人が、農家には農民があたる、といったところだろうか。
そもそも江戸幕府は、軍事官僚だった武士を経済官僚にするところに限界があった。
信長はその限界を当初から洞察していて、堺の国際商人を大名に取り立てている。
当初は貿易の振興役を担わせたが、民間貿易が振興した暁には商人に対する徴税役を担わせたと考えられる。税を逃れようとする立場にあった者だから逃れにくい徴税方式を工夫できた筈だ。
江戸幕府は農本主義と同時に常に臨戦体制にある武家政権体制を基本とした。そのため、各藩を支配するのに軍事力を温存しなければならなかった。
また幕藩ともに、武家のアイデンティティの土台が主君のために忠義を尽くす武士ということにあった。これに撫民が加わっていったが、それはどこまでも精神論であって、経済官僚化を公然とかつ合理的に促すものではなかった。
そしてこのような武家の職能上の限界と武士の身分意識の限界を、町人や農民の主導層は自分たちの経済的な既得権益と自由裁量の源泉として歓迎し確保し続けたのである。
私には、
こうした江戸時代に培われたお上と民間の経済的な主導層とのもちつもたれつの相互依存性や、魚心あれば水心ありという身分の上下を前提とするメンタルモデルが、
明治時代の官僚と財閥、役人と業者(軍人と軍属)に継承され、戦後昭和から今日に至る「政官財の鉄の三角形」と言われる三者の癒着構造にまで、綿々と繋がっているように思えてならない。
(6:間章 前半)
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へつづく。