江戸時代における「日本型の発想思考」の集団独創化を探る(4) |
(3:間章)
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からのつづき。
江戸時代には「租税徴収一般村」と「商品作物拠点村」があった
江戸時代の「無事の世」となり全国の村の様相は一変した。
「戦争だ、地震だ、洪水だ、凶作だ、飢餓だと、そのつど住処を追われ、放浪する。戦乱の終結は、その点で不安定な生活に終わりを告げ、大部分の農民がひとつの村落で生涯暮らせる条件をひとつクリヤした。
そうなれば、開発を進めて耕地を確保し、河川の改修や灌漑施設の充実などで農業生産力を飛躍的に増大させられる。そして、耕作することで、村落での生活がまがりなりにも成り立つ条件を確保することができる。
こうして、夫婦と子ども、そして両親を最小単位とする家族が、なんとか暮らせるだけの田畑を所持する小農民的な経営が可能となり、彼らが共同で農作業にいそしめる村の組織が機能しはじめる。これこそが、農民たちが村落で定住できる最低の条件である」
ここで大切なのは、時に住処を追われて「転住民」になっていた農民が「定住民」化した当初は、みな「小農民的な経営」にたどり着いて、おおざっぱに言えばほぼ平等で格差がなかった、ということである。
それが「城下町」という消費都市の発展とともに、
「農業のかたわら手工業や商売に手を出して収益を上げ、田畑を増やしていく豪農とか有徳人と呼ばれる農民が生まれる。
だが、その一方で、彼らのまわりに田畑を手放した貧農も多数生まれはじめた」
という事態になっていく。
富農候補が新興町人と連携をはじめた際、自分から売り込んだのではなく、現在の外食企業が農家と契約するように一本釣りされたのだろう。一本釣りの対象はすでに村で一番の生産量そして耕地を持っていた者の筈だ。
ではその時点での耕地面積の格差はいかにして生まれたのだろうか。
まず考えられるのは、農民が「定住民」化した当初の「小農民的な経営」に平等性があったとすれば、開墾を個々でやったにせよ共同でやったにせよ、家族の人数に応じた耕作地を獲得し、それに応じた生産量をもったということである。人数に応じた耕作地を持った場合、年貢もそれに応じるが、耕作地が広く働き手が多いことは生産効率を高めて余剰を生んだ。彼らの余剰は、当初は「村」という共同体に還元する方式を取ったのだろう。領主への租税は村単位で徴収されたから、先ず耕地面積に比例して彼らに租税が多く割り振られる。灌漑や治水利水の普請への労務負担も家族が多い分より多く割り振られた筈だ。こうした高負担の村の有力者が村役人になっていったのではないか。
以上は租税品目である米、稲作をめぐる話だ。
村役人クラスの農民は、耕地面積が大きく米以外の農作物=商品作物の生産量も多かった上に、村人を差配する権限をもった。多様な農作物の買い取りの効率化を目論む新興町人が一本釣りしたのは彼らだったとみていい。
村役人クラスの農民は、領主に対する租税徴収の責任者でありその責任を全うする範囲で、年貢米に支障がでない範囲で米以外の商品作物の生産と集荷を調整したのだろう。
徳川幕府は、農本主義で農民の米生産が存立基盤だった訳だが、村役人クラスの農民が新興町人と連携して米以外の商品作物の生産を充実していく方向に舵を切った時点から、存立基盤の弱体化が始まったと言える。
村役人クラスの農民は、米以外の多様な商品作物の「生産地の卸売業者」あるいは「消費地への流通業者」へと商人化した。
そして、彼らの商売は既得権益を利益源泉とする世襲制だから家督である資産は相続によって積み増していき投資資本を蓄積していった。
これが、著者が紹介した、世情のありさまを嘆いた「世事見聞録」の一節、
「当世かくのごとく、貧福かたより勝劣甚だしく出来て、有徳人あればその辺りに困窮の百姓二十人も三十人も出来、たとえば大木のかたわらに草木の生い立ちぬるがごとく、大家のかたわらには百姓も野立ちかね、自然と福有の威に吸い取られ、困窮のものあまた出来るなり・・・」
の様相である。
「村」社会の様相をいま少し詳しくみよう。
「年貢収入は領主財政の大部分を占めたため、年貢を負担できる田畑を所持する農民を高持(たかもち)百姓(あるいは本百姓)という、負担できない農民を無高百姓(あるいは水吞百姓)といって差別するようになる。(中略)
行政単位としての村では、村人からの徴税の役割を領主から委任された有力な百姓が村役人と呼ばれて村政全般に力をもつようになり(筆者注:田舎の農民にとっての利益誘導型代議士の心理的原型はここにあるのかも)、村役人や大高持たちを『大前』、ふつうの高持を『小前』と区別するようになった。
こうなると、生産する百姓の減少は、領主にとっても年貢徴収を請け負った村役人にとっても一大事だった。なぜなら、年貢負担者が減り、さらには年貢量の減収をも意味したからである。そのため、税負担の過重さから逃れる『逃散(ちょうさん)』や、暮らしが立ちゆかず離村する『欠落(かけおち)』に、厳しい目が向けられたのである」
消費都市である城下町の近郊の米以外の多様な商品物の生産基地となった「村」と、そうでない「村」との間に大きな格差が生じた。
「逃散」や「欠落」が発生する「村」は、消費地に遠く商品作物の生産基地にならなかった後者である。
後者は総じて貧しかったため農民間格差も前者と比較して小さかった。映画「郡上一揆」に描かれたような「村」である。(郡上一揆は、宝暦4年1754年、美濃国郡上藩で徴税方式の変更をめぐって起こった江戸時代最大の一揆。)
後者でも米以外の農作物が作られたが、それは前者のように消費都市向けの商品作物ではなくて自給自足や物々交換に当てられた。
前者では、新興商人と富農の間が貨幣経済だが、金の使い道のないエリアほど、また貧困の水吞百姓ほど、富農から小農民への報酬は物で支払った筈で、実態として富農は小農民向けに商売して利益を上げたことになる。
ここで、
前者を「商品作物拠点村」
後者を「租税徴収一般村」
と呼ぶことにしよう。
この両者では、「村」の有り方や営みをより善くするという「目的」の方向性が違う。
集団主義の実質も異なり、集団独創するテーマも機会も著しく異なった。
前者「商品作物拠点村」では、
工夫すればするほど儲かる富農を中心に
新規パラダイムへの転換を求める「革新・応用志向」の集団独創
が展開した。
後者「租税徴収一般村」では、
工夫して少しでも年貢納税の負担を軽減しようとする村全体として
既存パラダイムの枠組みにおける「改善・開発志向」の集団独創
が展開した
と考えられる。
「商品作物拠点村」では、新興商人と連携して「現地卸売業者」化した富農が常に新しい商売のネタを見出すべく「信長志向」の「革新志向」を展開し、商品作物をルーティンでつくる小農民たちが「家康志向」の「改善志向」を展開した。より品質の良い商品作物をより多く出荷すれば身入りが増えるからである。「商品作物拠点村」の全体として両者の合わせ技が展開していった。
小農民たちによる商品作物の品質向上、生産効率向上などの改善。
生産地の富農が消費地の新興商人と恊働しての新商品作物の開拓、新加工食品の創出といった革新。
日本の農村と近郊の全体としては両者の合わせ技が反復して展開していった。
その帰結として、現在に至る全国の多様な諸国名産品の分布となっている。
商品作物は酒、味噌、醤油そして豆腐などの加工食品の原材料となった訳で、農業拠点から加工食品製造拠点を経て消費都市に向かうサプライチェーンが構築されていった。
この経過は、海産物についても蒲鉾などの加工食品をめぐってあり、網元のような有力漁師が富農の位置にあった。
<商品作物の生産→商品作物の販売>という次元では、産業構造は極めて単純な<モノ割り縦割り>で既存パラダイムでの「改善志向」ばかりが重視された。
これは、「家康志向」(「集団を前提として固定しておいて、その集団が独創する」知識創造体制)で対応できた。
一方、<農作物の生産→食品への加工→食品の販売>という次元では、産業構造は<コト割り横串し>で新規パラダイムへの「革新志向」が成功発展の鍵となった。
これは、「家康志向」では対応できず、「信長志向」(「個々の独創を放任しておいて、それを適宜に集団に組織する」知識創造体制)でのみ対応できた。
◯ 生産者たちが都市型商品になる商品作物を横断的に生産する
◯ 加工者たちが都市型商品になる加工食品を横断的に製造する
◯ 販売者たちが以上の都市型商品を消費者に向けて横断的に品揃えて販売する
という今日と同じサプライチェーンの様相が、江戸時代に完成していた。
当初、同じ藩内という定住圏域に限られたサプライチェーンは、やがて消費都市のニーズの成熟化に応じて幕藩の垣根を超えた経済圏域のサプライチェーンに発達していく。幕藩に見返りを差し出し認可を得て河川と海上の定期輸送を展開していく。
以上の経過は、江戸時代の長い年月を掛けて慣行化していく訳だが、その時々の一つ一つのステップが飛躍と言うべき新規パラダイムへの転換であり「革新志向」であった。
これは、従来のパートナーとは異なるパートナーと組んで次元の違うビジネスモデルを開拓するのだから、「信長志向」(「個々の独創を放任しておいて、それを適宜に集団に組織する」知識創造体制)と言える。
私たちが今当たり前のように買ったり利用している商品や店舗の有り様は、それが誕生した逸話のすべてに「信長志向」が介在していた、と言って間違いない。
それが日本の歴史において集中的に現象したのが、欧米のように近代ではなくて、じつは江戸時代という前近代だった。
現在の専門商品分野それぞれの画一的な既存の知識を偏重し、個人主義的に孤立化するか機械論化した組織の中で機械部品化する日本の一般的なビジネスパーソンと、
江戸時代のさまざまな現場と関係性の実際において自分独自の資源とそれを活かす恊働可能性を追求した商人や商人化した富農や網元とを比べたならば、
断然、後者の方が集団独創力が高い。
何しろ、彼らは知識を学んだのではなくて、自分の頭で考えて行動するという考動タイプの試行錯誤によって知恵を絞り仕組みを創り出していったのだから。
専門商品分野それぞれの画一的な既存の知識を偏重し、個人主義的に孤立化するか機械論化した組織の中で機械部品化する現代のビジネスパーソンは、本人は自分の頭で独自のことを考えて自分ならではの行動をしているつもりなのだろう。
しかし、出て来るアウトプットが似たり寄ったりの横並びであることや、既存のスタンダードの差別化バージョンではあっても新規のスタンダードの打ち出しであることが滅多にないことから、それは集団独創とは言えない。
獲得した「定住」から強制される「定住」への変化と日本型の「家」意識
江戸時代の「無事の世」になった当初、全国の小農民たちは「定住生活」を獲得した。「戦乱の世」の過酷を脱して幸せな安穏を感じた。しかし、歴史はそんなただ甘味な状態を長く保つことはなかった。
「領主は、百姓を村に緊縛し、他領への移動や居住の自由を奪った。
その結果、領主的な立場からも農民の定住化が促進され、しだいに数代にもわたって住み着く農民家族の存在が、村のふつうの姿となった。(中略)
こうして江戸時代は、村人の定住が当たり前になり、領外への移動には一定の制約が伴うことになった」
定住化は、農民に日本型の「家」という意識を形成させていく。
この日本型の「家」意識は日本人の根深いメンタリティとなり現在にまで至っている。
「家」意識がたとえば国民国家のことを「拡大家族」として認識させるメンタリティは、洋の東西を問わず同じメカニズムだ。
しかし日本の場合、その「家」意識が日本型であり、それが江戸時代において庶民感覚として「村」で農民たちにより、「町」で商人たちにより形成された、ということである。為政者の感覚としては「武家」社会において武士たちにより形成された。
日本人の「家」意識は、近代にはいって天皇を親、国民を赤子とする「国家」に反映された。敗戦で「国家」観念と家父長制がゆらぐと同時に核家族化が進展し、家族の拠り所であるホームについて「家」意識は希薄化していく。その分、「会社」や「業界」、「学校」や「商店街」や「地域社会」などの「組織」や「集団」に投影されて、それぞれに求められた共同体性がそれぞれの日本型を特徴づけた。
そして、さらにバブル崩壊とその後の中間層の崩壊を経て、大きく変わった。
たとえば「会社」は、終身雇用と年功序列が一般的であった頃は、ほとんどの就労者にとって「家」意識の投影対象であったが、今はそうではなくなっている。
人々は、自分の拠り所なり居場所に対して「家」意識を投影するが、それは人それぞれに多様化したり喪失化したりしている。
極端な話、行きつけの飲み屋や、カキコミ常連になっているmixiコミュニティに、矮小化した「家」意識を投影している人々も多いだろう。
いずれにせよ、日本人は実感として日本型の「家」意識しか持ち合わせていないのだから、それを投影するとすれば、それが受け入れられる日本型の「組織」や「集団」しかないのである。
それは「世間」と呼ばれる人間関係の総体であり、日本人は複数の「世間」に属してそこでの位置づけという複数の「分際」の複合体として自らのアイデンティティを確保している。
そして、そのような「世間」は人それぞれに多様だが、おおよそ江戸時代に雛形があり常にその現代型として展開してきている。たとえば、若衆宿の先輩と後輩、一門の師匠と弟子、家元と門弟、寄り合いの仲間、井戸端のご近所同士などである。
こうした「世間」と「分際」のコミュニケーション構造が、アメリカ人のSNS使いの人間関係と日本人のSNS使いの人間関係との違いに反映している。
著者は、江戸時代の日本型の「家」意識の形成過程をこう解説している。
「自分の田畑を所持し、安定的に耕作することが保証されれば、当然、家族が暮らす家屋へと目が移る。経済的に少しゆとりができれば、雨風を防ぎ体を休めるだけのねぐらから、少しはましな暮らしができて、代々住めるような家屋を建てる。
こうして所持する田畑と屋敷地とを合わせて、それらが家の財産として認識され、子どもたちへ相続させたいという『家』意識が芽生える。
個人や家族を超えて、『お家』が大事という自覚が、身分の差なく定着するのである」
日本型の「家」意識とは、まず定住社会を前提にするものである。
このことは日本人には当たり前に過ぎてわざわざ意識したことがない人がほとんどではないか。
しかし、中国型の「家」意識はそうではなく、明らかに転住社会を前提にしている。
たとえば、日本人は家父長制で家督を長男が一括相続するが、中国人は家父長制であっても家督を兄弟が分割相続する。それは、中国の国土が広く田畑を開墾する余地があったことと、苛烈な「戦乱の世」が長かったため難民になって転住民化することが前提であったことが影響している。転住民は中国国内に留まらず東南アジアの華僑となった。近代でも清末の政情不安を逃れてゴールドラッシュのアメリカ西海岸で華僑となった人々も多い。
明日は自分たちにとってどんな価値があるか分からない家督は、長男一括相続による定住家業の継承ではなく、兄弟分割相続によって多様な転住という可能性の広がりに期待する未来志向に中国人を向かわせた。
そして中国人の「家」意識は、親族が国際的にも助け合う「親族」意識に内包されるものとなっている。さらに同姓の者同士が国際的にも助け合う擬制的な「親族」意識もある。すべて「転住社会」を前提にしている。
一方、日本人の「家」意識も「親族」意識も「定住社会」を前提にしている。定住の地を離れて異国に暮らして、中国人のように親戚同士や同姓の者同士がより密接に連携するということは日本人ではない。(日本人の場合、同郷の者同士や同窓の者同士が、たとえば海外現地で県人会や同窓会支部を結成したりする。これが中国人にはない。)
思うに、日本人も古代、たとえば中国や朝鮮からの渡来人が朝廷の中枢で活躍しはじめた時期までは、あるいは渡来民が国内の海上交易民として活躍しはじめた時期までは、中国人と同じような「転住社会」を前提にした「親族」意識をもちそれに内包された「家」意識をもっていたと考えられる。
しかし、朝廷中枢の役職や海上交易の役割が既得権益化し一族の長がそれを独占して拠点において「定住民」化する。それにつれて「定住社会」を前提にした「家」意識が支配階層の上層から普及していった。そのはじまりが天皇家であり、その帰結として摂関家の藤原氏が一族で有職故実の継承者となったことが位置づけられる。
そして「定住社会」前提の「家」意識や擬制的な「家」意識を、「五等」そして士農工商のすべての職分に普く普及させたのが江戸時代の幕藩体制ということである。
このように長いタイムスパンで歴史を振り返れば、日本列島が極東のどん詰まりの島国であったために、海外の「転住社会」出身の「転住民」がやってきて支配階層の上層から徐々に「定住民」化してきたという大筋の経過を捉えることができる。
「小家族の村人たちは、家族だけで農業経営を維持することはできなかった。田畑を耕すにも、家畜を飼うにも燃料を確保するにも、水を利用し山の資源を活用する。これらは村人が共同で管理し運用する。
個々の村人は、共同組織に依存して生産し生活する。こうした集住形態を村社会という。
そして村には、この共同組織の構成員の安全と五穀豊穣を祈願する産土神(うぶすながみ)が祀られた」
「村に異変が起こったとき、あるいは他村との訴訟などで自分の村の立場を証明せねばならなくなったときなど、村の存立にかかわるような事態に立ち至ると、村人たちは自分の村の歴史を掘り起こす。由緒を調べ直し、そこから自村の優位性を主張しはじめる。村人たちが、『わが里』という地域意識を共有しはじめるのである。
また、時には村の今昔を調べ上げ、時代の大きな変容に驚きつつ、その変容にかかわった自己や仲間たちを顕彰するに至る」
「村の由緒」「村の今昔」とは、全国一般に農民の「定住民」化が進んだ江戸当初からの来歴である。
ということは、日本の「村」が事有るごとに戻ろうとする原点は、人間的な暮らしができるようになった江戸当初のスタートラインだったことになる。
日本人の「家」意識は、何より「わが里」とそこでの自然と調和した人々の営みに投影されてきた。
そして明治以降、国家を「拡大家族」として認識させた「家」意識にもこの回路が働いている。ただし日本人全体に一律に作用する回路であるために万葉集など和歌のボキャブラリーが活用された。
その分かりやすい象徴的な例として、昭和12年にラジオの国民歌謡として作られ13年にレコード化された当時流行した「軍事歌謡」をあげよう。
「愛国の花
1 真白き富士のけだかさを
こころの強い楯として
御国につくす女等は
輝く御代の山ざくら
地に咲く匂い国の花
2 勇士の後をあとを雄々しくも
家をば子をば守りゆく
優しい母や、また妻は
まごころ燃える 紅桜
うれしく匂う国の花
3 御稜威のしるし菊の花
ゆたかに香る日の本の
女といえど生命がけ
こぞりて咲いて美しく
光りて匂う国の花」
日本型の「家」意識、それを投影した日本型の「拡大家族」である「国家」意識、それらを結ぶ発想思考の回路が、いわば自然主義的で情緒性に富んでいることが見てとれる。
軍事歌謡の多くが、万葉集の「国褒め歌」と同じ構造にあったりそうした表現を多用している。
ちなみに万葉集の冒頭を飾るのも、雄略天皇の作とされる「国褒め歌」である。
「籠(こ)もよ み籠持ち 堀串(ふくし)もよ み堀串持ち
この丘に 菜摘ます子 家告(の)らせ 名のらさね
そらみつ 大和の国は
おしなべて 吾こそ居れ しきなべて 吾こそ座せ
吾をこそ 夫とは告らめ 家をも名をも
おお、籠よ、良い籠を持ち、おお堀串も、良い堀串を持って、
この丘で若菜を摘んでいる娘さん、家はどこか言いなさい、何という名前か言いなさいな、
神の霊に満ちた大和の国は、すべて私が従えている、
すべて私が治めているのだが、私のほうから告げようか、家も名をも」
これは、野に菜を摘む乙女に向けて求愛するとともに、大和の国こそは自分が統治するよき国だと歌っている。そこから国褒めの歌でもあるとされてきた。
ここで注目すべきは、とても微妙なことだが、統治する国への「家」意識の拡大投影が天皇にも庶民にもまったく感じられないことである。
天皇は大和の国を自分が統治する良い国だとは歌うが、それを「わが家」とはしていない。娘の方もそうは思っていない。
「大和の国」の統治者と民が共有していたのは、私たちが知っているような国家意識とは脈絡のない、もっと緩やかな風土をイメージさせる「わが里」意識だったと確認できる。
国際型の「転住民」としてのレバノン人と堺の国際商人そして信長
幕藩体制の所領の「内外意識」は、大和の国を「わが里」とする「内外意識」とは比べ物にならないくらい、為政者にとっても庶民にとっても厳格だった。
著者はこんなことを述べて「定住社会」という項目を終えている。
「村を離れる異郷への旅は、大きな解放感をもたらした。
それが伊勢講で選ばれた代参であれ、訴訟で出府する旅であれ、初めて江戸を見る、京へ上る。この異郷での経験は、村人に大きな変化をもたらした。
また、異郷への移り住んでみてわかるのが、父母や兄弟が暮らす『わが里』への望郷という愛着である。このような心境も、村人たちが定住社会を形成して初めて起きえた現象といってよいだろう」
私たちは「わが里」への「愛着」というものを当たり前の人類普遍のものとして捉えがちだ。
しかし日本人の場合、それはまず庶民が定住できる社会が実現して、その上で庶民が定住社会に縛り付けられ、さらに例外的に外界に移動することを許されるという経験を踏まえた江戸時代、初めて一般庶民の感情になった、と著者は指摘している。
私たちは、異郷に移り住み故郷を懐かしむ「愛着」「憧憬」の感情は普遍的であるように思う。
しかし、それにも日本人ならではの特徴を示す日本型がある。
それは、特に日本人が外国という異郷に移り住むことの特徴に由来する。
私は、日本人の海外移住者の内訳として、
日本に戻って来ることを前提にしたタイプと、渡航先の外国に定住してしまうタイプとが圧倒的に多い
ということに注目する。
たとえば、
前者の夫婦は、子供を現地の日本人学校に通わせ日本国籍をとりいずれ帰国する前提である。
後者の夫婦は、子供を現地人の学校に通わせその国の国籍をとらせその国の国民にしその国に永住することを望む。
どちらも「定住社会」を前提とする「定住民」志向という点は同じである。
一方、在日韓国人は、このどちらのタイプでもない。
二重国籍を認めない日本で親子代々、韓国籍を維持しながら暮らすということは、じつは日本国内において自分たちの「転住社会」を前提とした「転住民」であるということである。
外国において親子代々日本国籍を維持しながら暮らし続ける、在日韓国人のような階層=「転住社会」を構成する日本人はいない。日系移民という階層はありその社会はあっても、二世三世はその国の国籍をとってその国の国民として「定住社会」の一員であり「転住社会」を構成していない。
ちなみに、戦前は、国の公募に応えて満州に移住した開拓民や商機を見出して移住した軍属がいた。彼らは、日本の占領地という言わば国内に転住した国内型の「転住民」だった。当時の台湾や朝鮮になんらかの仕事をしに移住した日本人も同じである。
彼らは、戦後の大使館職員や商社マンとその家族など組織的な後ろ盾があって海外移住した人々と同じタイプである。職務が終われば帰国し、後ろ盾がなくなれば帰国するしかない内向きの集団志向の「転住民」である。母国韓国の後ろ盾がなくかつそれを期待もせずに日本で暮らし続ける在日韓国人のような国際型の「転住民」ではない。
以上の日本人移民の話から漏れているのは、個人の資格で国や企業の後ろ盾なく外国に移住した人々の話である。個性的で面白いからテレビなどで話題としてよく採り上げられるのはこれだ。しかし、それはマイナーなケースだからである。さらに話題にならない挫折して帰国した人々の方が多く、踏みとどまってそれなりの生活と人生の安定を獲得した人しか話題にならない。それはマイナー中のさらにレアーなケースである。
その内訳としてはまず国際結婚した女性が多い。
離婚しなければ現地人の夫とともに「定住民」化していく。
離婚者には子供を連れて帰国する人と子供とともに現地に留まる人がいる。前者がテレビで話題にならないが後者より多い。
そして後者が、国際型の「転住民」のニュアンスが濃厚である。現地に暮らし続けて日本人ならではできる来訪してくる日本人相手の仕事をしている人が多い。ただそれを親子代々するかというと、まず子供が日本語を話さなければできないし、日本人客相手の宿泊施設や飲食店舗など家督のある場合以外は家業として継承されない。よって、国際型の「転住民」とまでは言えない。移住者一代の個人的なライフスタイルで終わるケースは、国際型の転住<者>ではあっても転住<民>とは言い難い。
ちょうど先ほどある民放番組でレバノンという国を紹介していた。
中東には珍しい砂漠がなく雪山があってスキーができる日本ほどの大きさの国土に、人口3〜400万人が住んでいる。
驚きなのは、その3倍の人口が海外にいるということだ。
ちなみに日本には97人が住んでいる。
あの日産社長からルノー会長になったカルロス・ゴーン氏は、レバノン生まれでレバノン、ブラジル、フランスの多重国籍を有している。まさに国際型の「転住民」の現代的典型と言えよう。
レバノン人は海洋交易民族であるフェニキア人の末裔だというから、そもそも国の「内外意識」が極めて希薄だった。
日本人も古代、たとえば中国や朝鮮からの渡来人が朝廷の中枢で活躍しはじめた時期までは、あるいは渡来民が国内の海上交易民として活躍しはじめた時期までは、中国人と同じような「転住社会」を前提にした「親族」意識をもちそれに内包された「家」意識をもっていたと考えられる
と前述した。
当時の国の「内外意識」は今よりもずっと希薄だったと考えられる。
まず庶民において国の民であるという意識がどれほどあったか。否応無く徴税されはしても徴税するのが国なのか地元の豪族なのかの違いにどれほどの意識があったか疑問である。
また国を支配する朝廷中枢も百済や新羅と密接な関係にあって、それぞれの出身実力者によって派閥争いがあった。また、国内の言わゆる内戦と朝鮮半島の外国間の戦争が密接に繋がっていた。よって、支配階層における日本と外国についての「内外意識」も、元寇があった鎌倉時代以降のように、内に対する外を攻め来る敵とするような厳格なものではなかったと考えられる。
古事記は朝廷中枢の人々だけが読んだ万葉仮名のもので、日本書紀のように漢字で書かれた外国の高官が読むことを前提にした正史ではない。だから、そもそも古事記の目的というものがハッキリしていない。
一般的には、天皇家の正統化が、内向きになされた古事記に対して、外向きになされた日本書紀という解釈である。
私もそうは思うが、重視すべきは正統化の方法が古事記と日本書紀では違うことだと思う。
私は、古事記の神話の部分が、実際の歴史の解釈論になっていると考える。日本人は、神話の部分をそのまま神話時代と呼びならわすが、中国では文字による記録が残った歴史時代なのである。つまり時の朝廷中枢は意図的に、史実として明示的な記録として残さずに、神話として暗示的な記憶として伝えるという方法を選んだ。そして外向きに正史を発する事前に内向きにその土台となる解釈論を示して根回しをしたのではないか。
では、どのような歴史の解釈論だったか。
端的に言って、それはヤマト王権の初期勢力がいかに征服王朝を樹立したか、という歴史を神話になぞらえて暗示的な記憶として合意するものだった。
そこで一貫して繰り返し暗示されているのは、
◯天孫降臨=日本列島への上陸した征服民族は、転戦する「転住民」だったこと
◯その前に国内外ネットワーク型の国づくりを果たしていた交易する「転住民」=大国主命たちがいたこと
◯征服民族である転戦「転住民」が、交易「転住民」に国を譲らせてその勢いを削いで、「定住民」による国内ピラミッド型の「定住社会」をヤマト王権として樹立したこと
という解釈論である。
私は、大国主は朝鮮半島の交易ビッグマンと同盟関係にある日本代表の交易ビッグマンであり、日本全国から参集する八百万の神は日本国内の代表的な交易ビッグマンだったと比定している。縁結びとは、そもそもは男女関係の話ではなく、各地の産物同士を結びつける交易の話だったと考える。
整理すると、
環日本海交易ネットワークのハブ拠点である出雲の大国主が主導した
交易主義の
自由に活動する個々が適宜に集団を構成する「信長志向」の
交易「転住民」による交易「転住社会」としての国づくり
と
日本列島の稲作を収奪対象とした征服王朝が主導した
農本主義の
集団を身内で固める「家康志向」の
転戦「転住民」が支配する稲作「定住社会」としての国づくり
とが
対立して、後者が前者を下した
というのが古事記の神話が示した歴史の解釈論である。
もちろん、古事記においてこのような直接的で明示的な話が語られている訳ではない。
あくまで物語が一貫して反復して暗示していて、その中に登場する神が現実の有力氏族の祖先とされることで、編纂当時の支配階層の主力メンバーの正統化をも盛り込んでいる。
これにより、朝廷中枢の内々で過去の歴史の解釈論としての合意と現在の各位の立場の正統化が果たされた。
こうした土台となる環境づくりを踏まえて、国際型つまりは外向きの正史である日本書紀が編纂されていった。
歴史にもしは禁句だが、私は、もし信長短命なかりせば、という思考実験を繰り返してきた。
信長短命によって辿れなかった歴史を可能性として知ることで、日本のその後辿った方向性が対照的に明らかになるからである。
たとえば、朝鮮出兵を信長自身が陣頭指揮をとって勝利し、朝鮮半島南端と九州北部を国際交易拠点とするような占領政策を展開していたのならば、国際的には日本人は今のような幕藩体制と鎖国を経た「定住社会」前提の「定住民」ではなくて、レバノン人のような「転住社会」前提の「転住民」になっていた可能性が高い。
織豊時代までは、国内転住と海外転住がゆるやかにリンクしていて、国内の交易商人や海民が国際的な遠隔地貿易や海賊行為にリンクしていた。そういう意味で国の「内外意識」は鎖国体制の江戸時代に比べてかなり希薄だったからだ。
堺の国際商人、 納屋才助 の子として産まれた呂宋助左衛門は、織田信長や豊臣秀吉の御用商人だった。
秀吉が朝鮮出兵をしていた当時、呂宋助左衛門は浪人を100人ほど雇ってフィリピンに出兵する。
16世紀初頭に勘合貿易が途絶えて後期倭冦による密貿易が盛んになる。その中心は私貿易を行う中国人だったが、少ない日本人が「戦国の世」の実戦経験豊富な者で武力向上を果たした。そして、後期倭冦にはポルトガル人やスペイン人や日本の博多商人も関わっていた。
16世紀半ば、中国人の頭目が従える倭冦の大規模な活動が始まり明で問題が深刻化。頭目が処刑されて弱体化して討伐された。以後、明は海禁を緩和する宥和策に転じ東南アジア諸国やポルトガル等との貿易を認めるが、日本に対しては倭冦への不信感から貿易を認めなかった。結果的に密貿易をする後期倭冦が、16世紀終盤に秀吉が倭冦取締令を発するまで台頭し続けた。これが秀吉が朝鮮出兵する伏線にもなったという。
呂宋助左衛門が雇った浪人とは倭冦取締令で行き場を失った残党ではないかと想像されている。
大航海時代の当時、日本人の国際商人もホイアン (ベトナム)、マニラ (フィリピン)、プノンペン (カンボジア)、アユタヤ (タイ)に日本人町をつくり活動していた。その活動は、日本人の凶暴性が怖れられる暴動をも含み、海上の半商半海賊の倭冦の陸上版のようなものと言えようか。
呂宋助左衛門は、ルソン島のスペイン領フィリピンのボスに圧力をかけて交易関係を結び、さまざまなものを日本にもたらした。
その中で、「ルソン壺」と呼ばれた二束三文の壷を利休に侘び寂びの極みと評させ茶器として大名たちに売りさばいた、という逸話がある。
利休が切腹を命じられた後、呂宋助左衛門はプノンペンに逃げ、その日本人町のボスになり、カンボジア国王に気に入られてその地で一生を終えている。
呂宋助左衛門のような破天荒な国際商人がいて、日本人町を拠点とした多様な日本人がいた。彼らを、「転住民」を自ら体現して重視し、交易主義の「転住社会」の国づくりを目指していた信長が、構想する朝鮮政策で重用しない訳はなかった。
もし信長短命なかりせば、そして信長自身が朝鮮出兵の陣頭指揮をとっていたならば、呂宋助左衛門がフィリピンに出兵しつつ交易拠点と交易利権を獲得したように、朝鮮半島南端の釜山を兵站拠点でもある交易拠点として確保し、海峡と対馬を挟んだ北部九州と一体で極東アジアの交易利権を独占することを優先したと考えられる。
もしそのような歴史を辿っていたら、私たち日本人の国民性は、米づくりとモノづくりに勤しむ「定住民」を典型とするものではなく、交易ネットワークづくりとそれを活かしたビジネスモデルづくりに長けた「転住民」を典型とするものとなっていただろう。そして、伊勢神宮の天照大神よりも、出雲大社の大国主命が信奉されていただろう。
レバノン人は、周辺諸国との政情不安や人口増加というリスクをチャンスに変えて、伝統的に海外に出かけては海外の良いところを母国に持ち帰るという行動スタイルを一般化したという。
これがレバノン型の、異郷の地から故郷に抱く「愛着」「憧憬」の感情という。
それは、日本人のように過去志向で懐かしんで早い帰国を望んだり、逆に異国の地に骨を埋める覚悟で遠くから想うのみとする「定住民」のものではなく、海外に出かけては海外の良いところを持ち帰ることを思い浮かべる未来志向の「転住民」のものなのである。
日本人の海外移住者は、日本に戻って来ることを前提にしたタイプと、渡航先の外国に定住してしまうタイプが圧倒的に多い。
前者の「日本に戻って来ることを前提にしたタイプ」とは、海外勤務がとかれ国内に異動したら、海外留学の予定が終了したら、国際結婚が破綻したら帰国するという人々であって、レバノン人のように海外の良いところを持ち帰るといった積極的かつ持続的な動機を前面に押し出す者は少ない。
明治政府から国家近代化の課題を託された国費留学生や、ウイスキーづくりをイギリスに学びにいって持ち帰った竹鶴政孝のような日本人もいた。しかしそれは近代国家草創期の例外的なケースであり、レバノン人のように一般的な国民の国民性ではない。
国際型の「転住民」であるレバノン人が転住を繰り返し多様な活躍をして最終的に母国に帰るなどして「定住民」化するのに対して、日本人の積極的な動機をもった海外移住者は、若い時に海外留学をして「定住社会」の日本に一日も早く留学成果を持ち帰って活かし「定住民」として復帰することを望み復帰後それとして一生を全うする。
一方、一般的な帰ってきた海外移住者に対する「定住社会」「定住民」ゆえの日本人の偏狭さも指摘しておかねばならない。
それは、帰ってくる海外移住者を期待し歓迎する「転住民」のレバノン人にはないことである。そんな偏狭さがあったらレバノンのような海外人口が国内人口の三倍ある「転住社会」は成立しない。
バブル期に商社などの大手企業が幹部候補生社員を積極的にMBA留学させた。しかし彼らが帰国すると、大方の職場は彼らを使い物にならないと排除するのだった。社員がたった二年程、アメリカの経営大学院に通って帰ってきてこうなのだった。
いつから日本人はそんな偏狭になったのだろうか。
バブル期は好況期でありビジネスパーソンは今よりもずっと寛容だったのにである。
土佐の漂流漁師、ジョン万次郎こと中浜万次郎は、アメリカと世界で学問と経験を積んで帰郷後、すぐに土佐藩の士分に取り立てられ、藩校「教授館」の教授に任命された。この際、後藤象二郎、岩崎弥太郎などを教えている。黒船来航の際は幕府に召聘され江戸へ行き、直参旗本の身分を与えられた。
集団を身内で固める「家康志向」に一辺倒化していた幕藩体制においてさえ、希少な知識と経験と能力を備えた海外帰りの他所者が歓待され重用されたのである。
どうもこういうことらしい。
日本人は「定住社会」の「世間」とそこでの位置づけである「分際」に固執する。(実際は本人がいわゆる東京人のような「定住社会」に根ざさない根無し草の国内型の「転住民」であったとしてもである。アイデンティティを「分際」に求めるからだろう。)
自分の帰属する「定住社会」の「世間」が何より大切だから、黒船来航でそれが脅かされると背に腹は代えられず海外帰りを重用した。(日本人の場合、「転住社会」にもその「世間」があるが、「定住社会」の「世間」のように人間関係が固定的な「家康志向」ではなくて流動的な「信長志向」である。)
しかし、バブル期の大企業は世界から「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と褒めそやされた日本型経営というものに、その本質を理解していないにもかかわらず根拠のない自信をもち、その限界や短所を補う知識やノウハウを学んだMBA帰りを疎んじた。MBA帰りを重用することは、自分たちのやり方や人間関係の総体を否定することになる。自分たちの「世間」と「分際」を守るためにMBA帰りにその能力を活かす仕事をさせなかった。自分たちの旧来の枠組みの中で働かせて役立たずのレッテルを貼って済ませたのだった。
日本および日本人における国際型の「転住民」「転住社会」の発展可能性
このように日本人の「定住社会」の「世間」にはちょっと海外に行ってた同朋に対してさえ偏狭さがある中で、私は、日本の相撲界がもっとも現代的な国際型の「転住社会」になっているという事実に注目する。
まず、外国人力士たちは海外から来た「転住民」である。彼らは衆目観戦のもと実力を公明正大に競い合い、国籍を維持しながら日本に暮らしている。しかもなまじの日本人よりも伝統的な日本文化の中枢に暮らしている。そして在日韓国人に対するような日本人からの排他も差別もない。
日本人が自分たちの「世間」を象徴的に高めるものとして外国人力士とその活躍を認めているということなのだろう。
しかし、ここで留意すべきは、
偏狭な日本人の「世間」とは、集団を身内で固める「家康志向」の「世間」であること、
外国人力士を受け入れる相撲界の「世間」とは、自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」の「世間」であること
である。
江戸時代の前夜まで歴史を遡れば、
信長とその家臣、石山本願寺に結集した一向一揆、軍需装備品を製造して聖をセールスマンとして大名に販売した境内都市、自由都市堺を構成した商人、東南アジアの日本人町を拠点に活動した国際商人など、
信長と秀吉の時代は明らかに「信長志向」の「世間」が国内的にも国際的にも巾をきかせていた。
武闘派の日本人を含んだ半商半海賊の後期倭冦も、スペインやポルトガルのキリスト教伝道師が日本人指導者を組織するのも、日本人的な「世間」と「分際」を差し引いた、自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」だったと言える。
つまりこの時代、外国人の「社会」観と日本人の「信長志向」「世間」観にはさほどの開きがなかった。
テレビで茨城県のタイ人夫とラオス人妻の夫婦のタイ野菜を作っている農家を紹介していた(2016年改訂時点)。
タイ料理店から直接注文を受けその日収穫したタイ野菜を直売している。昼は農作業で、夜は県下から東京にかけてのタイ料理レストランやタイ人が勤める店に移動販売店に改造したバンで売りに行く。するとその店の近所にすむタイ人もやってくるという。
私は、これは在日タイ人という「転住民」の「転住社会」の萌芽と感じた。それが本格的な「転住社会」となるには、母国の国籍を維持した同国人が親子代々暮し続けて、そのような者同士がネットワークしなければならない。だが、タイ野菜を作る農家夫婦も、タイ料理店を経営するタイ人も家督のある家業で、もし子供が家業をつぐとすればそのまま本格的な「転住社会」にシフトしていく。
これまで、在日外国人の「転住民」の「転住社会」といえば在日韓国人のそれで、ともすると日本人からの排他や差別の対象となった。
しかし気づけば、このようなタイ人のそれや、ブラジル人のそれは排他や差別の対象とならず、むしろ街の活性化につながるとして地元の日本人有志たちが積極的に対話し町づくりの仲間に引き入れていっている。
このように考えてくると際立つ存在が、中華街を形成する華僑という「転住民」の「転住社会」である。国籍という点では、中国、香港、台湾の錯綜があるが、日本人には傍目から彼ら同士の関係性は分からない。そして在日韓国人に対するほどの排他と差別がない。中国脅威論が高まっても中華街の人気は衰える気配はなかった。国家主義を超越しているところが、華僑の側にもそれに対する日本人の側にもある。
どうも朝鮮人に関してはお互いに、古代からの国同士の歴史と実際にあった日本人との人間関係に由来する無意識的な深層心理と、戦前の国同士の歴史と実際にあった日本人との人間関係に由来する意識的な感情とが絡み合って事態をデリケートに複雑化しているようだ。ざっくりと言えば、近親憎悪ということか。また愛憎裏腹というが、日本人の間に韓流ブームが定着していたりもする。日本人と中華街の華僑との間には、日本人と在日韓国人との間よりも距離があり、棲み分けが象徴的に見える化している分、排他と差別がそれほどでもないということか。
それにしても、日本人が海外移住して、日本国籍を維持したまま親子代々その地で暮しつづけ、現地日本人同士が互いにネットワークして一つの階層を形成するという本格的な「転住民」の「転住社会」は見当たらない。
移住者が移住している間だけとか移住一世だけが現地の県人会や同窓会支部に所属するというのは、個人レベルのライフスタイルの話にとどまる。
また、満州などの言わば占領地に国を後ろ盾に行った開拓民や軍属などは、敗戦で一代限りとなったが、仮に現地の家督と家業を親子代々が継承したとしても、それは「転住社会」ではなく征服民族の「定住社会」と言うべきものだった。
日本人が、外国に移住して人種や国籍の葛藤に耐えて親子代々、母国の国籍を保ちつつ、中華街の華僑や在日韓国人のような「転住民」の「転住社会」を形成することは今のところない。日本が二重国籍を認めないことが大きいが、ほとんどの移民二世は現地の国の国籍をとってその国の人間になり「定住民」として「定住社会」の一員になってしまう。
また、大方の日本人は集団志向が強いから、個人志向のレバノン人のように単身で多様な外国を遍歴するというタイプが輩出しにくく、またその子供が親同様の遍歴をするということは稀である。個人としてそういう日本人がいてその子供も同様の国際人になるというケースはあるが、レバノン人のように国内人口の三倍の海外人口を擁して民族性としてそういうケースがあるのとは違う。
しかし、織豊時代(正確には江戸初頭)までは、呂宋助左衛門や山田長政のような日本人の国際商人が個人(頭目)として活躍し現地の王に仕え、台湾や東南アジアの日本人町を形成した日本人が集団としても存在した。無論、国籍概念が希薄な時代の話だから、親子代々、母国の国籍を守ったという意識もなく、現地女性との混血も進み、日本語を使い続けたということではないのだろう。しかし、自他ともに認める日本人ならではの特徴を共有して集団志向を展開したことは確かだ。それは、江戸時代に日本国内で普及したモノづくりの匠とかおもてなしの心といった生産能力ではなくて、実践的かつ集団的な戦闘能力とそれを後ろ盾にした新たなビジネスモデルを構築する交易能力であった。
レバノン出身のゴーン氏は日産社長になった時、日産社員にボトムアップで意見を出させた。彼はこの一事をもっても、トップダウンを当然視するアメリカ型経営者とは違った。
彼は、低コンテクストなグローバリズムと、生産地や消費地ならではの高コンテクストなローカリズムとを合わせ技する「境界人」的な資質を発揮していた。
それはレバノン出身であるためか、ローカリズムの高コンテクストを巧みにグローバリズムの低コンテクストに変換する知恵を持っていた。
私は、呂宋助左衛門が、低コンテクストでは二束三文の一説には便器でしかない「ルソン壷」を、利休の見立てという高コンテクストによって名物の茶器に変換して暴利を貪った逸話を思い出す。
彼も「境界人」として、ローカリズムの高コンテクストを巧みにグローバリズムの低コンテクストに変換する知恵を持っていた。
「転住民」の「転住社会」は、グローバル人材のグローバリズム世界と重なるようでいて微妙に異なるのはここだ。
グローバル人材のグローバリズム世界とは、地球上のどこの誰でも、いつでもどこでも参加できる低コンテクストな市場を前提とする。その典型が、国際金融、エネルギー、食糧、希少金属などの市場である。
インターナショナルとは国と国を結んで「境界的」ということである。
一方、グローバルとは国を超越して「無境界的」ということである。
両者は似て非なるものである。
(5)
http://cds190.exblog.jp/11474534/
へつづく。