「利休にたずねよ」に「信長志向」の光景を望む |
この第140回 直木賞受賞作はとても面白かった。
小説としてもそうだが、私の関心事である「信長志向」、
新秩序導入型=新知識発見導入型の「祭り」である交易
を下敷きにした
「個々の独創を放任しておいて、それを適宜に集団に組織する」知識創造体制
そのライブな感覚をイメージすることができたからだ。
小説の仕立ては、利休が切腹を強いられたことを、その理由を求めていろいろな歴史上の人物の物語が時間軸を逆に展開していく。
本論では、これから読む人のために著者の創造したフィクションについて種明かしはせずに、登場してくる歴史上の事実やそれをもとにした想像において、「信長志向」が当たり前のように展開していたと納得できる内容をひろっていきたい。
それは現代の企業社会を生きる私たちにも多くの示唆を与えてくれる。
◯「茶の湯」というコミュニケーション媒介の効果
作者は秀吉にこんなことを上杉景勝に対して言わせている。
「たとえばの話、おぬしに五人の郎党がいるとせよ。五人のなかの二人だけ、狭い茶室に召して馳走し、上杉家伝来の名宝などを見せたとせよ-----。召されなんだ三人は、なんと思う」
景勝はこう答える。
「召された二人はまことに誉れを感じ、召されなかった三人はそねみましょう。狭い茶室でなにを密談したかが気になりましょう」
「さよう。人とは、そうしたものよ」
と秀吉は答える。
信長から名物を賜ることは、こうした茶会を主催する資格を得ることであったとする説がある。
作者の想定はこれに合致する。
合議制を基調とする「家康志向」でも、密室的なコミュニケーションはあったと思うが、あからさまに人事をコントロールするためのものではなく、どちらかと言えば内密に行う例外的なものとして機能した。人材抜擢とトップダウンを基調とする「信長志向」では、それが表立った主要な手立てであった。
(「家康志向」=
共同体内部で身内同士で展開した
秩序維持型=知識記憶継承型の「祭り」である農耕儀礼
を下敷きにした
「集団を前提として固定しておいて、その集団が独創する」知識創造体制)
◯「名物」という象徴経済の仕掛け その利休の場合
作者は堺の納屋衆(海沿いの倉庫業者であり特定品目の卸売り業者)にして茶頭の今井宗薫にこう言わせている。
「利休殿は、われらと同じ堺の商人でも、商いのしかたがまったく別ものゆえ、いつかはこんなような御譴責があるだろうと囁いておりました」
「われら堺商人は、汗をながして物を運び、わずかな利を懸命に積み重ねております。しかるに利休殿の商いはまるで別のもの。
ながいあいだ世に伝わった伝来の名物が高値なのは当然といたしましても、利休殿は、新しい茶碗でも竹筒でも、無理に名物といいくるめ、同じ重さの金より、はるかに高い値をつけまする」
以上は、利休をとりまく世間の物言いであるが、そうしたことがなぜ利休やその師武野紹鴎ができ、余人が軽々しくできなかったか、ということに注目すべきだ。
大名という権力者がバックにあったことと、茶室のしつらえと茶の湯の手前が秀でていたこと、そして自ら名物を多く所有していたこと、少なくともこの3条件をもつ者が限られていたことを見ない訳にはいかない。
◯さまざまな茶頭や政商という戦国大名側近の有り方
作者は秀吉にへつらう今井宗久の様子をこう表現している。
「このことろ、秀吉は、宗久をいささか遠ざけている。宗久としては、なんとかまた、大量の軍需物資をあつかわせてもらい、ひと儲けしたいところであろう」
唐攻めを狙ってのことだ。
「硝石は鉛、木綿など、軍需物資の調達は、ちかごろ、博多の商人たちにまかせることが多いと聴いている。神屋宗湛ら、博多商人は、堺商人にくらべて一本気で駆け引きが少なく、あつかいやすいのかもしれない。
利休は、もともと、茶道具以外の商いのことで秀吉になにかを命じられることは少なかったから、その点では気が楽だった」
利休は、干し魚を扱う納屋衆だった。
作者は、茶頭の一人、津田宗及についてこう触れている。
「九州との結びつきが深い宗及は、商売のことで秀吉からしばしば注文を受けている。神屋宗湛はもとより、大友宗麟と秀吉を結びつけたのは、この天王寺屋津田宗及であった」
津田宗及は、千利休、今井宗久とともに「茶湯の三大宗匠」と称せられた。堺の豪商・天王寺屋の子として生まれる。
永禄年間には石山本願寺の下間丹後の一族と通じ、次いで堺に勢力を張った三好政康を頼みとしていたが、やがて伸長してきた織田信長に接近。岐阜城で信長の名器の拝見を特に許され歓待されるまでになった。後に実権を握った豊臣秀吉にも信頼を得て茶湯者八人衆の一人として数えられ、今井宗久、千利休とともに3,000石の知行を与えられた。
作者は、神屋宗湛についてこう触れている。
「この小柄な商人は、肥後の八代まで秀吉の陣中見舞いにやってきた(筆者注:島津攻めの際)。石見銀山を開発からずっと手がけ、いまは唐津から船を出して朝鮮に銀を輸出している。資金力が潤沢で、半島各地に知己が多い。唐入りの水先案内人として宗湛ほど役立つ男はおるまい」
国際的な政商ともなれば、貴重な情報源であったと考えれる。
◯天下統一をほぼ手中として後、知識と諜報が戦いの決め手になったこと
作者は、秀吉にこんな想いをさせている。
「秀吉の軍団が小さければ、手柄は武功を立てた者に与えることになる。
しかし、ここまで所帯が大きくなると、合戦は軍事力の戦いであるより、もはや政治力のせめぎあいだ。
頭をはたらかせて、やすやすと勝ちを得させてくれた者にこそ、褒美をあたえたい」
細川幽斎と共に島津氏に帰順を勧めた千利休のことだ。
秀吉は島津攻略の第一の功労者を前述の政商、神屋宗湛ではなく利休と内心では捉えていて、逆にその能力を警戒したのではないか、との疑問を作者は読者に起こさせる。
◯「信長志向」の個性的人材の発掘と抜擢の方策
秀吉は九州平定と聚楽第の竣工を祝って北野天満宮境内で大茶会を催す。1000人以上の参会者で賑わい、諸家の茶席に秘蔵の名物茶器・道具が展観されたという。
作者はその様子を活き活きと表現している。
「今日の大茶会のことは、七月の終わりに、京、奈良、堺の辻に高札を立てて触れさせた。(中略)
茶の湯に熱心な者ならあ、だれが来てもよい。茶がなければ、米を焦がしたものに、湯をかけて飲ませてもよい-----、というのである。さらに松原のことだから、座敷は、継ぎを当てたぼろの畳でも、筵でもかまわない。日本人ばかりでなく、数奇心のある者ならば、唐国からもやって来い。来ない者は、今後、茶を点てることまかりならぬ-----と、続けて触れさせた」
茶の湯は、狭い茶室で秘めやかにすることもできれば、このようにオープンな大茶会の祭りとすることのできた訳だ。
作者は利休にこんな想いを独白させている。
「ただ茶を喫するだけのために人が集い、同じ美を賞玩する。その場に居合わせることのしあわせ。一座をつくることのこころよさ。
こんなおもしろい人と人との楽しみが、ほかにあるとは思えない。
そんな輪が、北野の松原に、千も二千もできている。まさに前代未聞の茶会である」
茶の湯の一味同心、一期一会の楽しさは、アイデアの創発をするだけの気のおけないブレインストーミングの楽しさに通じる。
グループによるブレストも、今ここに、こういう機会において居合わせた者同士だからこそ浮かぶ発想や洞察にあふれてとてもユニークな成果をもたらすからだ。
作者は、秀吉が利休はじめ茶頭たちを引き連れ参加者の茶席を見て回り、これと思うものに褒美を取らせるところを描いている。
トップダウンと抜擢人事を基調とする「信長志向」において、広く人材とアイデアを求めるべくオープンでフェアな交流機会が重要であることは論を待たない。
私は、「信長志向」の精神が秀吉の大茶会にも流れているように思う。
◯利休にみる専門分野を交差させる「交差性イノベーション」
作者は、利休に瓦職人の長次郎に茶碗をやかせる話を展開している。
利休が、瓦職人だった長次郎に楽茶碗〔らくちゃわん〕を作らせたことで始まった「楽家」は現在、15代吉左衛門〔きちざえもん〕と続いている。
利休の「交差性イノベーション」の発想が単なる思いつきに終わらなかったのはどうしてだろうか。
一般的には利休の洞察や審美眼の確かさのためだと思われている。
たしかにそれも不可欠の理由だが、作者は、利休の創造意欲が長次郎の創造意欲をかきたて共鳴したことだと主張しているようだ。
有意義な恊働、クリエイティブなコラボレーションとはそういうもので、ただ誰かと誰かが何かを一緒にやるということではない、ということは普段意識していないがじつは意識しなければいけない当たり前のことである。
長次郎は聚楽第の飾り瓦を焼くという特命を受けていて、現場に現れた利休のこんな依頼をされる。
「茶碗を焼けという話やが、わしは轆轤をつかわへん。まん丸の茶碗はよう焼かんけど、それでええのか」
利休はこう答える。
「焼いてもらいたいのは、手のすがた、指のかたちにしっくりなじむ茶碗。轆轤をまわしては、とても作れません」
利休は「プロセス・イノベーション」を狙ったのだ。
長次郎は最初片手間にできる気晴らしとして請け負うが、じょじょに利休の美を追求する熱情を共有するようになっていく。そのことが現代にまで続く「楽茶碗」というベーシックを構築したのである。
作者は長次郎にこんな独白をさせている。
「茶の湯の数奇者なら、何人も知っている。みんな、唐渡りの茶碗を自慢する嫌みな男たちだ。
この宗易(筆者注:利休)は、まるで違っている」
◯「名物」という象徴経済の仕掛け その信長の場合
信長の「名物狩り」とはどういうものだったのだろうか。
私は、信長が自分の敵対した三好三人衆を支援した堺の会合衆に巨大な賠償金、矢銭を要求した延長で、没収でもしたのかと思っていた。
しかしそれは間違いのようだ。
作者は信長の命をうけた松井友閑にこう言わせている。
「案ずるな。ただで召し上げはせぬ。相応の金(きん)をあたえるによって安心して持ってくるがよい」
そして「名物狩り」の現場をこう描いている。
「書院にならべてあるのは、その名物道具の数々である。(中略)
畳にならべてある道具をひとつずつ順番に見て、信長は(筆者注:小姓のささげた)三方にのせる金の量を決めた。
びっくりするくらい多いときもあったし、手を払っていらぬというしぐさをすることもあった。ときどきは、所有者に由来をたずねた。
信長は迷うということがなかった。
道具を観る時間は、ひどく短い。
表を見て、裏に返し、それだけでもう値踏みをした。たちまちのうちに、大量の道具を買い取ってゆく」
没収したのでなければ値づけをして金を払った訳だが、信長の目的が、名物を狩ることつまり所有することばかりではなく、むしろ自分がその価値を再編決定することにあったとすれば、作者の描く信長の言動はとても合理的だ。
これによって、信長は堺の目利きの数奇者を支配するだけでなく、彼らの持っていた名物の価格決定権を自分が決定した相場の大枠の中におさめてしまった。なにしろ一番いい名物を買い取ってしまった事実が相場の基軸となったのだから。
これは、秀吉が名物を欲しがった所有欲とは次元が違う。
信長はいたって政策的な「市場管理欲」に従っていたのではないか。
ただ没収という略奪を支配者がしたのでは市場は破綻してしまう。支配下に堺の目利きの数奇者をおく理由も希薄になってしまう。
◯記号を創出し象徴化→権威化→経済化する「茶の湯」市場
記号を創出し象徴化→権威化→経済化する「茶の湯」市場。
それはたまたま堺に自然発生したとは思えない。
堺には同じ構造の市場がすでにあったと考えられる。
それは最新鋭の鉄砲をはじめとする「軍需物資」市場である。
「茶の湯」の美は厳しい審美眼で完璧を求められ、完璧なものだけが名物という価値をもつ。
それとまったく同じように戦国大名は敵と比べてより強力な兵器や装備だけを厳しく求めた。敵に勝てる軍需物資でなければ意味がないからだ。
それは基本的に売り手市場であり、価格決定圏は商人の側にあった筈である。
新兵器を開発する、それを「象徴化→権威化」するのは実際の戦場である。その検証成果が情報として流布して大名による新兵器の奪い合いになる時「→経済化」の過程を終える。
名物がお披露目されたり権威的茶人によって使われる「茶会」と「戦」は同じ位置にある。
なんで堺の富豪商人が大名に使える茶頭となり、その一部は政商だったり時には大名の参謀となったかと考えると、それは決して芸術的視点からだけで説明できるものではない。
それだけは明らかだ。
「千の家は、与四郎(筆者注:利休)の父与兵衛の代から、湊のそばに、何棟もの納屋を所有している。
琉球船やら九州の船やらが運んできた明や高麗、あるいは南蛮の品々は、いっときその納屋に収蔵される。納屋貸しは、千家にとって、魚屋(ととや)とともに大切な収入源である」
「与兵衛の父千阿弥は、足利将軍家に使える同朋衆(筆者注:雑務や芸能にあたった人々)だった。
謀反の事件に連座して堺に逃げ落ちてきたが、働きもせず不遇を嘆いているばかりであった。
父千阿弥に代わって、与兵衛が干し魚の商売をはじめ、地道に稼いでなんとかここまでやってきた。
ところが、せがれの与四郎(筆者注:利休)は、与兵衛が苦労して築いた身代を、すべて蕩尽しかねないほどの放蕩者だ。若いころからさんざん白拍子と遊びほうけ、ちかごろは、勝手に銀を持ちだして茶の湯の道具を買ってしまう」
◯「名物」という象徴経済の仕掛け その利休の師武野紹鴎の場合
「武野の家は、もともと若狭武田氏の出で、応仁の乱のころに困窮して、紹鴎の父親の代に堺に移り住んだ。この町で軍需用の皮革と武具を商って大きな財をなした。(中略)
若いころから、紹鴎は働いたことがない。
武野家の京屋敷に住み、公家の師匠について連歌の道に精進していた。
そのころは連歌師として立つつもりだったが、三十になって諦めた。どうにも詩歌や分筆の才はなさそうだった。
それからは、茶の湯に精を出している」
利休の祖父と父にしろ紹鴎の父にしろ、困窮した難民が自由都市化しネットワークしていた港湾都市や境内都市に流入して商工を発展させたという史実は、現代的にもとても意味深い。
そこは、その他の農本主義の空間とは違って、定住性よりもネットワーク交流性の方が強い「異界との重なり領域」だったのではないか。
ここで「異界」とは、遠隔の交易相手でもあり、不確定な今日の出会いや自分の未来でもあったのだろう。
定住性とネットワーク交流性が相反するものだと感じていない向きもあろう。
ネットワーク交流性は都会の特徴である。しかし、それが帰属している会社や定住している生活圏が保証しているものであれば、ネットワーク交流性はかなり制限されたものなのである。
ネットワーク交流性とは、基本的に個人と個人の結びつきで、テーマとそれへのこだわりの信条のような形而上的なものが一致してはじめて成立するものなのである。
この小説では、利休とその師紹鴎との関係性において描かれている。これから読む人のために詳しくは説明しない。
無論、この二人のように芸術的なテーマとそれへの信条ばかりではない。
個人の機転と創意で大名との関係をつくり取引をしていく才覚、つまりは個人のもつビジネスセンス同士の関わりという形もある。
しかし、それは会社と会社がひいたレールの上での、誰と誰が関わっても大して変わりのない誤差の範囲の話ではないのだ。たまたま、同じ生活圏にいた同じ趣味の人だからという付き合いの話ではないのだ。
テーマとそれへのこだわりの信条のような形而上的なものが一致している個人と個人が、どこを探しても他にいないような相手をわざわざ求めて出会おうとする、それがネットワーク交流性の本質である。(これを「志縁」と呼びならわす人がいた。)
人材を求める、求めた人材に存分に働いてもらう、求められた人材として存分に働こうとする、そういう動機の連鎖なのだ。それは、劉備玄徳が諸葛亮孔明を三顧の礼で求めた、あの時代からの普遍的な原理原則だ。
東京のインテリジェントビルに入居した企業に勤めていれば、自動的にネットワーク交流性を発揮する人材なんていないのだが、そのように本人が勘違いしていることが多くなってきている。
作者は紹鴎の独白のごとくこう述べている。
「茶の湯はおもしろい。
名物道具を所持している者こそが名人である。
世に名物と名高い道具を、紹鴎は、六十も秘蔵している。いずれも、二千貫、三千貫の高値で売れる立派な財産だ。
唐物ばかりではない。
そこいらの竹を引き切りにした蓋置きさえ、紹鴎が持って銘をつければ名物になる。どこにでもある釣瓶や面桶でも、それらしい由来を語り、水指やこぼしとすれば、それもまた名物となって驚くほどの高値を呼ぶ。
侘び茶は、ほんのひとかけらの銀を、千両にも万両にも増やしてくれる摩訶不思議な妖術だ。こんな面白い商いはほかにない」
紹鴎は面白いことを求め、その中の最高のものとして「茶の湯」を捉えている一方、利休は「茶の湯」に魅入られそれがすべてで、世の中のすべてをその中に捉えようとしていたのか。
この小説は私にそんな整理をさせてしまう。
そんな二人の接点にこそ、この小説の絶頂があるからだ。
経済学ではバブルの典型例として、オランダのチューリップの球根バブルがよく例示される。
きれいな花の咲く希少な球根が高騰した制御不能市場だった訳だが、名物の場合、高値の着いたものが高止まりして、値崩れを起こさない範囲で増産された訳で完全制御市場であった。
それは支配者が管理したハイソサエティだけが参加できるクローズドな市場だったということもあるが、私は、経済や産業だけでなく、政治や軍事、芸術や文化のいろいろな要素が有機的に絡んでいることが大きな理由だと思う。
おそらくクローズドな市場でも投入できる資金が豊富で、参加者の動機が投機だけであればバブルになるが、参加者の動機が多様かつ錯綜していることがむしろ安定をもたらすのかも知れない。
以上のような史実や史実から想像される光景は、
堺の商人や数奇者そして信長が「とても流動的な時空に生きていた」「さまざまな垣根を乗りこえて交流していた」
ということを教えてくれると思う。
果たして現代日本の私たちは「とても流動的な時空に生きようとしている」「さまざまな垣根を乗りこえて交流しようとしている」
と言えるだろうか。
世の中はほっておいてもとても流動的である。
問われるべきはそれにどう対峙しているかだ。
流されまいとばかりしたり、ただ流されるばかりでは、
自己の意志としてあるいは創意工夫の主体性として
「とても流動的な時空に生きようとしている」とは言えまい。
世の中はどんどん専門分化し垣根が増えていく。
問われるべきはそれにどう対峙しているかだ。
「さまざまな垣根を乗りこえて交流しようとしている」か、
それともむしろ特定の垣根の中で安住しようと競争したり、垣根を高くして縄張りを守ろうとしてはいまいか。
私は、「とても流動的な時空に生きようとする」「さまざまな垣根を乗りこえて交流しようとする」には、
「海という場」というメタファーを意識的にパラダイムとする志向性、
網野氏流に言えば「無主なる本来の公」を生きようとすることが必要だと思う。
定住に固執し、それのみが心を安堵させ人を幸福にするという偏見に囚われては、けっして自由な心では生きられない。
「陸という場」というメタファーを無意識的にパラダイムとしている志向性を意識的に客観視して、その囚われから自らを自由にする試みを自分なりにしてみる価値は高まっている。