考え方=考えるその仕方を考える(5) |
川崎正敏著 洋泉社刊 発
事物の秩序と包摂文、そして叙述文と推論の関係
「似たものどうしがプロトタイプを真ん中にして集められ、基本的なカテゴリーが設定される。
さらにそれらのカテゴリーをいくつか集めてカテゴリー化すると上位のカテゴリーが形成される。
あるいは基本のカテゴリーがさらに細分化されることで下位のカテゴリーがつくられる。
こうした不断のカテゴリー化のなかから事物の秩序が形成される。
最下位の個体のレヴェルから形而上学的な最上位のレヴェルまで、カテゴリーはさまざまな垂直的な階層をつくりだしている」
「この事物の秩序にしたがって記述された文(命題)が包摂文であり、一般に『S+P』の形式をとる。(中略)
すなわちわれわれは(言語を操るすべての人間)は、『(個あるいは種であるところの)Sは(種あるいは類であるところの)Pである』という言語形式を真とする言語コードを共有している。
論理学の規則もこの言語の規則を整序し純化したところに成立した」
以上が、「事物の秩序」と「包摂文」の関係である。
次に著者は、「叙述文」と「推論」について解説していく。
「『S+P』という言語形式は、当初は『アユはうまい』のように、『(主語あるいは主格としての)Sは(その属性や状態や動作としての)P』と意識され表現されていたにちがいない。
この属性・状態・動作を表示するPという概念からSという主語ないし主格が眺められたときに『外延(extension)』(ある概念に適用される諸事物の集合)に相当するクラスが意識され、Pを類とするSという種が想定されるのである」
「アユはうまい」の場合、「うまいものたち」という「外延」=クラスが意識され、「うまいもの」を類とする「アユ」という種が想定される。
「ちなみに『外延』と一対になった概念である『内包(intension)』とは、ある概念を決定する意味内容を指している」
「うまいもの」の概念を決定するのは、「ものである」と「ものがうまい」という意味内容である。
「『(主語あるいは主格としての)Sは(その属性や状態や動作としての)P』が事態を叙述する叙述文であり(たとえば『アユは川を上る』)、
『(個あるいは種であるところの)Sは(種あるいは類であるところの)P』がカテゴリー間の秩序を明示する包摂文である(たとえば『サケはサカナである』)
そして隠喩的な機能が既知のSP構造を未知の領域に投影することで新たな世界理解を導き出す。
このとき既知の領域のなかのPというカテゴリーが未知の領域のなかにまで意味を拡張し、未知の領域のなかの新たなSというカテゴリーと結合することで、未知の領域のなかに新たな認識構造がつくりだされる。
それが新たな命題(文)として提出される(たとえば『この理論は生煮え』だ)」
「料理する」という既知の領域の「この料理は生煮えだ」という既知のSP構造が、「思考する」という未知の領域に投影されて、「理論」という新たなSカテゴリーと、「生煮え」というPカテゴリーが結合され、新たな「思考する」に関する認識構造がつくりだされる。
「すでに獲得した知識や考え方を前提にして新しい知識や考え方を導き出すこれらの手続きを『推論』という。
この推論のなかでもとくに論証の形式を整理し純化し理論化した方法が『論理学』である。(中略)
(筆者注:命題が真か否かを問うものではなく)どのような論証が正しく、どのような論証が正しくないかについて、明確な基礎づけと規則とをあたえてくれるのが論理学なのである」
推論において、何が日本語の特徴なのか
「推論は一般に『SはPである』というかたちの前提から出発する。
その『SはPである』が成立するためには、『Sがある』、あるいは『Sがあるならば』という前提が成立していなくてはならない。
言葉の観点から見れば、『ある』もひとつのカテゴリーであることに変わりはない。しかし『走る』や『黒い』や『きれいだ』は、その主体がすでに『ある』ことを前提にして言われるカテゴリーだが、『ある』はその存在それ事態についての規定であるからだ」
推論についての解説は、やや難解かつ精緻になっていく。
私の関心は、2点、推論における日本語の発想思考の特徴と、推量(アブダクション)についてである。
この関心事に的を絞って検討していきたい。
著者は西洋哲学の二大テーマ「存在」と「認識」の内、ハイデガーが取り組んだ「存在」、それも「『存在者(存在するもの)』の『存在』の仕方ではなく『存在』それ自体について、検討していく。
「はたしてSeinというドイツ語(筆者注:英語のbe動詞に相当)をそのまま『存在』という日本語に置き換えてよいものか、倫理学者の和辻哲郎はこう問いかけた(中略)。
Seinには『である』と『がある』の両様の意味があるが、
『存在』には『がある』の意味しかない、と和辻はまず指摘する。
すなわち日本語(漢語)の『存在』という言葉とSeinという概念とはおおよそ半分しか重なり合わない。
ところが日本語の『がある』に当たる存在概念と『である』に当たる繋辞(主語と述語とを結びつける言葉)とがおなじSeinという言葉によって担われていることが、西洋哲学史にしばしば混乱をもたらした」
「繋辞」は、日本語では、例えば、「だ」「です」「(で)ある」「(で)ない」「らしい」「ようだ」「ちがいない」「しれない」「そうだ」「になる」などだ。但し、学校文法では「だ」「です」「らしい」「ようだ」「そうだ」は助動詞 の一部として扱われている。方言では「や」「じゃ」なども使われる。また名詞と名詞の関係を表す「の」のうち「である」で置き換えられ、同格を表すものを入れる場合もある。
これらのうち、「です」「である」「になる」などは存在を表す「ある」という語から派生してできたものとされる。
中国語では「是」で、やはり存在を表す「がある」の意味をもたない。
「和辻はSeinの概念を『がある』と『である』という日本語の問題として提起しなおした。
『がある』という和語に当てられている漢語は『有』であった。
その『有』が『がある』ことであると同時に、『我が有に帰す』という表現に見られるように『持つこと』を意味していることに和辻は着目する(筆者注:日本語で金が有るとも金を持つとも言い、中国語では我有銭と言う)。
そこから和辻は、一切の『がある』は『人間が有つこと』を根底とし、『かく物を有つ人間があることは人間が己自身を有つことに他ならない』という方向へ議論を展開する。この『人間が己れ自身を有つこと』を言い表す言葉こそ『存在』であった。
さらに和辻は『存』と『在』という漢語を古典の用法のなかに探り、『存』の時間的意味と『在』の場所的意味に着目したうえで、『存在』とは『人間の行為的連関』であると結論する」
「人間が己れ自身を有つこと」を言い表す言葉こそ「存在」であれば、それは時間と場所において「人間の行為的連関」となる。
この「行為的連関」ということが出てきて、「因果律」「共時性」、そして両者渾然一体の「縁起」を検討する地平を得る。
「和辻はこの『がある』と『である』の問題を人間の存在内容と存在の仕方というかたちで整理した。
『ものがある』ということは『人間が有つ』ということであった。その『がある』が限定されて『である』になる。
それは、『人間がその有ち方を限定することにほかならない』。
すなわち存在の了解が存在内容のほうへ向かえばそこに『がある』が展示され、
存在の仕方に向かえば『である』が展示されると了解された」
「因果律」「共時性」、そして両者渾然一体の「縁起」について精緻に考えるとこうなる。
「因果律」とは、
A「である」が原因になって、
B「である」という結果となること。
(時間的意味の「存」という「人間の行為的連関」)
「共時性」とは、
A「がある」時、
B「がある」こと。
(場所的意味の「在」という「人間の行為的連関」)
「縁起」とは、
両者が渾然一体であること。
(時間と場所の意味を併せ持つ「存在」という「人間の行為的連関」)
人と人が相対することを基本とする「場」は、「縁起」が働く時空である。
それは何故か。
「場」において人と人が出会い言葉を交わし何らかの自己表現をしあうからである。
「和辻は、『言語表現』を人間の『実践的行為的連関としての人間存在の表現』であるととらえたうえで、つぎのようにつづける。
言語的表現とは『言い現わし』すなわち『陳述』であり、それは人間存在を言葉において『のべひろげて言い現わす』ことだ。
すなわち『現わすべきことをさまざまなこと(言)に分け、その分けられたことを結合する』ことである」
「人間存在」は、「因果律」「共時性」が渾然一体の「縁起」にのっとっている。
ところがそれを「言葉において『のべひろげて言い現わす』」において、
現わすべきことを
「因果律」にのっとる「時間的意味の『存』」
と
「共時性」にのっとる「場所的意味の『在』」
とに分け、
その分けられたことを
「縁起」にのっとる『実践的行為的連関としての人間存在の表現』
に改めて結合してみせなくてはならない。
なぜなら、それが自他にとって「分かる」ということだからだ。
「この陳述の形式はふつう『SはPである』というように、SとPとを『である』によって結合すると考えられている。しかしSとPとがもともと独立のものであるならば、『である』によっても両者は結びつかないだろう。結びつくのは両者が本来ひとつであったからであり、SとPとが結びつけられる以前にSとPとに分裂したのでなければならない。
ここに『分かる』という言葉の根源的な意味がある。
ひとつの志向対象がいくつかのことに分けられることが『分かった』という意味なのだ」
「陳述においては結合よりも分離が重大である。
『分かる』ことにおいてほんらいの統一が自覚されるからだ。
分かるとともにその分けられたものが『である』によって結合される。
すなわち『である』は『分離において自覚せられた統一の表示』にほかならない。
したがって陳述とは、『統一・分離・結合の連関において人間存在の自覚を現わしたもの』である。
ところが人間存在そのものが『統一・分離・結合の連関において本来の統一を実現する運動』であるのだから、陳述とはまさしく人間存在の表現以外のなにものでもなかった」
ここでは、言葉や思考や陳述の本質について、形而上学的に「人間存在」との関わりで検討している。
しかし、私たちが生活者として存在し、ビジネスパーソンとして存在するにおいても、各個人のさまざまな陳述が「人間存在」の表現であってこそ「人間論的な有りよう」を保っていられる。
つまり、この検討はきわめて日常的であり具体的な事柄なのである。
それどころか、企業としての陳述は、「企業存在」「事業存在」「商品存在」の自覚を現わしたものであるべきだ。その着実な表現たりえていることは、常に経営とマーケティングの課題である。
理想的な知識デザイン企業の姿として提唱されている「アート・カンパニー」では、こうした人間論的な陳述が意図的に社内外で交わされる。
「和辻は言語表現とは表現対象を言葉によって分節したうえで再結合することだと言っている」
ここで、私たち日本人にとっては、その「言葉」が日本語であるという当たり前のことが重要だ。
日本語の特徴によって、表現対象の選び方、分節と再結合の仕方が制約されたり、個性化されたりするからだ。
「即自的に『有る』ものを対自的に分節し分析しければ、人間存在にとっての事の本質(『である』)は明らかにならない。
まず人間的欲望によって環境を分節し、分節化されたモノやコトをそれぞれのまなざしにしたがって再結合することで、世界の意味は編成される」
こうした論述を、形而上的だと決めつける必要はない。
社会構成主義によれば、表現対象の選び方、分節と再結合の仕方は、それによって紡がれる「物語」同様、多様に存在する。
無論、社会や世界において共有される「物語」もあるが、それは暫定的であり変容可能性があるものの方がコミュニケーションの大方を占めている。(最先端の科学や数学でさえ暫定的であり変容可能性がある。)
そして実際、あなたと家族の誰かとの間で、共有する「物語」もあれば、まったく異なる「物語」を以て異なるものを「真実」と認識していもいる。
著者もこう述べている。
「統一は人間的欲望によって構築される。それが(筆者注:全人類が共有すべき「物語」があるとして、それを含めて)いかに客観的に見えようと、相互主観的に(筆者注:その「物語」を是とする主観の相互関係によって)保証されている以上のものではない。
分けられたものを結合することによってはじめて統一が実現されるのであって、人間の分節作用とは独立に統一が存在していたわけではないのだ」
たとえば、科学や数学ですべてが説明できるとしても、すべてが科学や数学で分節され統一される訳ではない。
即自的に『有る』ものを対自的に分節し再結合しなければ、世界についての「意味」を担った統一は編成されない。科学や数学による分節と再結合の仕方が限りなく普遍的で論理的だとしても、それですべてが片づく訳ではない。
「『がある』が存在規定であり、『である』が本質規定である(中略)。
ではこの両者は日本語の問題としてはどのように位置づけられるのだろうか。
『Sがある』は主格あるいは主語によって表象された『未知』のものの存在を確定する表現であるのに対して、
『SはPである』は存在が確定された『既知』のものを主題化して、それがいかなるものであるかを説明する表現である。
すなわち『である』は『がある』を前提にした表現である(中略)。
日本語では存在命題は端的に『Sがある』と言明する(筆者注:中国語でも『有S』)。『there is』、『es gibt』(中略)のように、背後になにものかを予感させるものではなく、ものやことは『おのずから』出現する。
ある個体を分節したときに、その認識主体にとってその個体はすでに『ある』のであった。さらにそれらの同種の個体をグルーピングしたときに、Sに該当する任意のカテゴリーが成立する。これが『Sがある』という言葉の使用法にほかならない。
そのように析出されたSに対して、異なるカテゴリーPを結合したときに『S+P』という命題が成立する」
この命題が、つまりは言葉遣いとしては、前項(4)までで見てきたように、
「カテゴリー間の垂直的な結合であれば包摂文になり、
カテゴリー間の放射状の結合であれば叙述文になり、
カテゴリー間の水平的な結合であれば隠喩を形成する」
のだが、
それは各国語に共通する普遍的な話である。
そこで、日本語(そして中国語)ならではの特徴は、何なのか?
「S+P」という命題の前提である「Sがある」において、
欧米語のように「背後になにものかを予感させるものではなく、ものやことは『おのずから』出現」している、ということに他ならない。
著者は、この先の検討を本書でしていない。
そこで私が拙速に仮説してしまうと、こうなる。
中国語と日本語の特徴は、
「ものやことは『おのずから』出現」している」
その何にスポットライトをあてて如何なる対自的な認識と表現をするか、である。
中国語では、そして中国文化では、
陰がある時陽がある的に、「共時性」で分節されるカテゴリーが結合されて統一が編成されることが大枠の秩序としてある。
日本語では、そして日本文化では、
明るいの「アカ」と赤いの「アカ」にアニミズム的および身体感覚的な類似性を見出すような、「縁起」で分節されるカテゴリーが結合されて統一が編成されることが大枠の秩序としてある。
欧米語では、そして欧米文化では、
「Sがある」において「背後になにものかを予感させるものがある」ということが、そもそも「なにものか」に端を発する「因果律」を土台にしている。
それが大枠の秩序になって、分節されるカテゴリーが結合されて統一が編成されている。
次項(6)では、「演繹」について検討したい。