考え方=考えるその仕方を考える(3) |
川崎正敏著 洋泉社刊 発
隠喩の見取り図
「隠喩(メタファー)は類似関係にもとづく比喩表現であると言われている。(中略)
しかしこの類似性もひとつの必要条件にすぎないことがすぐに分かる。(中略)
柏餅、草餅、たこ焼き、サバラン(美食家サバランに由来)は換喩であり、
もみじ饅頭、鯛焼き、人形焼き、モンブラン(アルプスの最高峰モンブランに由来)隠喩である。(中略)
隠喩の『類似関係』は類似しているものをただ結びつけるのではなく、その領域にほんらいなかった新たなイメージを他の領域から導入することに要点があった」
「しかし隠喩の効果は『見立て』の効果にとどまらない。
隠喩(メタファー)の本質とはある種類の事がらを別の種類の事がらの見地から理解し経験することである。(中略)
人間の思考そのものに構造をあたえている方法だ(中略)。
なぜある事がらを理解するのに、わざわざ異なる領域の事がらをもちだしてこなければならないのか。(中略)
ひとことで答えれば、他の事がらを引き合いに出さなければ理解できない、あるいはイメージできない事がらがこの世の中にはたくさんあるということだ。
もっと言えば、人類史のなかで人間の前に立ちはだかった大半の問題はそういう事がらばかりだったのではないだろうか」
「人間の前に立ちはだかった大半の問題」とは、構造的な問題性であり、それは既存のパラダイム(考え方の基本的な枠組み)を原因とする、ないしはそれに制約されたものだと思う。
パラダイムには「意識のパラダイム」と「無意識のパラダイム」があり、根源的な問題性は後者である。
たとえば、現行体制に問題があるがこれを改革できないとすれば、それは問題を意識しているということだ。しかし、なぜ改革できないと思うのか?なぜ改革しようとは思わないのか?その構造的な問題性については無自覚的であったりする。
この時、問題性は「無意識のパラダイム」にある。
慣性の法則が働いているから、多くの場合、人々は自覚している「意識のパラダイム」、つまりは既存パラダイムの枠組みで問題解決を図ろうとする。そこに限界がある。
なぜ既存パラダイムに止まろうとするのか?
既存パラダイムそれ自体とその構造的な問題性については、無自覚的つまりは「無意識のパラダイム」にあるからだ。
問題を解消してしまう新規パラダイムの可能性について発想したり思考する人は異端に属する。
つまり多くの人々にとって、新規パラダイムのもつ構造的な理想性は夢物語であって「無意識のパラダイム」にある。つまり、現実の構造的な問題性も改革の構造的な理想性も、誰かに言われるまでは無自覚的で意識の対象にない。
「構造的な」問題性というところがポイントである。
構造こそが領域を越えて通底している。
今日は衆院選前日だが、たとえば「役人天国」という構造的な問題性は、省庁を越えて、現役OB天下りの垣根を越えて通底し、国家予算の組み立てや日本経済や国民の社会保障にまでその構造的体制を強いてきた。
評論家や学者が論じ始めて20年以上、マスコミが取り上げるようになって10年以上はたっている。今回の選挙では、民主におされた形で自民も「役人天国」の解消をうたうようになったが、国民的論題になるまで余りにも長い年月がかかっている。情報統制がしかれた北朝鮮ではないのにである。
「役人天国」にまつわる現実も理屈も変わっていないのに、どうして当初から今のようなコミュニケーション状況に至らなかったのだろうか。
当初は、問題性が局所的にしか論じられず理解されなかった、つまり構造的な問題性が「無意識のパラダイム」にあった。その状態が続く限り、意識される既存パラダイムでの対症療法でお茶を濁ごすことが繰り返されたのである。それが現在は、構造的な問題性の全体が意識化され、それを意識的に解消する新規パラダイムへの転換が当然視され、そのやり方が論題となっている。
当初から長い間、「役人天国」の構造的な問題性は、「他の事がらを引き合いに出さなければ理解できない、あるいはイメージできない事がら」であった。
しかし、異端や反主流によるそうした問題視と追及の継続が、現在のようなマジョリティによる問題視の常識化につながったのである。
著者の言うように、「人類史のなかで人間の前に立ちはだかった大半の問題はそういう事がらばかりだった」。
こうしたことは、マーケティングの世界でも同じだ。
「コンセプト思考術」の思考フォーマットは、領域を越えて通底する構造を予め想定したものである。
これにより「無意識のパラダイム」にある現状の問題性を意識化し、それを解消するための新規パラダイムの理想性を導くことを容易にする。
一つ、1980年代に領域を越えて通底して現象したパラダイム転換の事例をあげよう。
「トヨタか日産か一目で分からない日本車」という製品開発
「ビクターかサンスイか一目で分からない日本製オーディオ」という製品開発
これらを成立させていた既存パラダイムは同じだった。
それが、
「ロードスターが人気を博したこと」という人気現象
「ウォークマンが人気を博したこと」という人気現象
これらを成立させる新規パラダイムに転換した。
同じ思考フォーマットで説明できるパラダイム転換は、商品(ハードやソフト)レベル、商売(サービス)レベル、店舗(インターフェース)レベルでたくさんあり、いまも現象している。
日本では、特に1980年代にさまざまな領域で象徴的なパラダイム転換が多発した。
「コンセプト思考術」では、これを網羅的に解説することで、思考フォーマットがパラダイム転換ルールとして活用できることを帰納法的に納得してもらう。
そして同時に、マーケティングの本質を専門用語を使わずに、話し言葉の4概念要素の組み立てとして理解してもらっている。
「コンセプト思考術」は言わば「構造的な見立て」「構造的な隠喩」をするものである。
それにより、「他の事がらを引き合いに出さなければ理解できない、あるいはイメージできない事がら」を意識化することで、構造的な問題性の理解とその解消手段による改革可能性を導くのである。
(参照:
「3)『パラダイム転換』とは4つの概念要素の組み立て方の転換 」
「4)品種から品態へのパラダイム転換 その1 」
「5)品種から品態へのパラダイム転換 その2 」
「6)業種から業態へのパラダイム転換」
「7)店種から店態へのパラダイム転換」
「8)「種」志向か「態」志向かで企業はまったく違う生き物になる」
「9)「種」志向か「態」志向かで人の生き方と国の形はまったく違う 」)
「理解すべき事がらが属する領域を『目標領域(target domain)』、
理解を助けるための他の事がらが属する領域を『起点領域(source domain)』
と呼んでいる。
たとえば考えるということのメカニズムはなかなかとらえがたい。目には見えないし、筋道もはっきりしない。
そこでなにか他の事がらを引き合いに出して考えてみようと思いつく。この一筋縄ではいかない人間の『考え』が目標領域であり、その理解のために引き合いに出される了解済みの領域が起点領域である。
メタファーの大枠の構造は『A(目標領域)はB(起点領域)である』というかたちで表現される」
「構造的な見立て」「構造的な隠喩」である「コンセプト思考術」では、
思考フォーマットの示すパラダイム転換ルールが「B(起点領域)」であり、
それを引き合いにしてはっきりさせたい想念が「A(目標領域)」である。
一般的な隠喩は、単語レベルや句レベルの修辞的なものである。
たとえば「考え」について、「考えは食物である」(噛み砕く、噛んで含ませる)をはじめ、以下のような例があがる。
「考えは人である(彼は現代生物学の父である)。
考えは植物である(彼の考えはついに実を結んだ)。
考えは製品である(それは粗雑な考えだ。精錬する必要がある)。
考えは商品である(彼はそれを買いたくない[=信じたくない])。
考えは資源である(それは使い道のない考えだ)。
考えはお金である(二セントの価値の考え[=愚考するところ]を述べさせてもらいたい)。
考えは切る道具である(それは鋭い考えだ)。
理解することは見ることである(おっしゃることが見える[=わかる])。
談話は光のフィルターである(議論は不透明だった)」
以上は、英語本の翻訳だが日本語としても理解される。
メタファーには普遍性があるのだ。
それは、「構造的なメタファー」についても同じだ。
「役人天国」を中国語にすれば「官员天堂」、英語にすれば「government official heaven」といったところだろうか。古今東西、役人気質は変わらないから、外国人も同じ構造的な事がらを思い描くに違いない。
隠喩はアナロジー(類比)とマッピング(写像)の合わせ技
「未知の領域に既知の領域の構造を当てはめることで、未知の領域の構造を理解しようとする。
このやり方でわれわれは世界を拡大してきた。
この理解の様式の根底にあるのはアナロジー(類比)の方法である。
ある関係と別の関係とのあいだに一定の比例関係を方法として想定する考え方がアナロジーだ。
この方法によれば、未知の関係に既知の関係を投影することで未知の関係が明らかになる」
まさに「コンセプト思考術」の方法論はこれである。
「数学では厳密に方程式に組み立てられるけれども、もともとのアナロジーの発想はずっとアバウトである。(中略)
食物に材料があるならば、思考にも当然考える素材があるはずだ。料理に生焼けと焼きすぎがあれば、思考にも生焼けと焼きすぎがあって不思議はない。この『当然・・・あるはずだ』とか『不思議はない』というのはたんなる思い込みである。(中略)
しかし1:2がなければ8:Xも解けないように、下敷きがなければ大雑把な輪郭線を引くこともできない。
こうして未知の領域である目標領域に対して、既知の領域である起点領域が下敷きの役割をする」
「換喩はおなじ領域のなかの本体と目印との関係であったが、
隠喩は異なる領域(目標領域と起点領域)のあいだに成立する対等で水平的な写像関係である。
写像(マッピング)とは、現実の地理上の関係を地図の上に縮小して移し変えるように(中略)、起点領域内部のさまざまな事物と事物とのあいだの関係を目標領域に投影してみることである」
著者の以下の論述は、無自覚的な既存パラダイムとその問題性を意識化したり、その解消策とともに新規パラダイムの理想性を打ち出すことの醍醐味でもある。
「違う領域(世界)を下敷きにしてあらたな未知の領域(世界)を思い描こうというのだから、無理を承知の賭けである。
その無理を承知で断行するのが隠喩という冒険である。類似しているものどうしを結びつけるなどという生易しいことではない。
場合によれば似ても似つかぬものをマッピングして、『どうだ、納得が行ったろう』と大見得を切るのが隠喩という博打である。
換喩は同一領域内のものを結びつけるのだから大外れは少ないが、
隠喩はすってんてんになる惧れ十分だ。
しかし人間はこの博打を繰り返すことで世界を深めてきた。隠喩のはたらきがなければ、世界は混沌としたままでありつづけただろう」
マーケティング論では、
従来の目的をそのままに手段を新しくする「改善」志向は、換喩的である。
一方、目的も手段もともに新しくする「革新」志向は、隠喩的である。
「革新」志向の新しい目的は、他の領域で先行している新規パラダイムにあることが多い。
たとえば、IT化とか、グローバル化という流れに乗る方策にしても、従来の目的をそのままに手段だけをIT化したりグローバル化する「改善」と、目的から刷新する「革新」では天と地ほどの違いがあった。
「改善」の方が短期的に大外れはないが、中長期的には時代の転換に取り残される可能性が高まった。
「革新」の方が大博打であるが、時代の転換を先取りする次なる成長戦略を模索するには、これをしないでは済まされなかった。
現代では、Web1.0パラダイムからWeb2.0パラダイムへの転換が注目されている。
「ネットワーク内で自分からの視点でのみWebを見て、自らを周囲に売り込もうとするのがWeb1.0的サービス。
広くネットワークを見渡し、周囲(集合知)のとの共存共栄をはかる中で自分の価値も高めていこうとするのがWeb2.0的サービス」
と説明される。
私は、生活者やビジネスパーソンという個人の有り方も、Web1.0パラダイムからWeb2.0パラダイムへ転換していると考えている。
当然、次世代の商品やサービスは、Web2.0パラダイムの生活者やビジネスパーソンを前提にするものとなる。
「Netscapeが100の価値がある情報を100人のユーザーに提供していて、ユーザーが10倍の1000人になっても、ひとりひとりが受け取れる価値は100で変わらない。
一方、100のWebページをインデックスしていたGoogleが、1000のWebページをインデックスするよれば、サービスの価値は10倍になった」
後者のような商品やサービスのパラダイムが、オンウェブ・サービスや情報家電に限らず、あらゆる商品分野、あらゆるサービス分野に浸透しはじめている。
ただし、これは全体論・総論として言えることで、個々の商品やサービスの開発戦略としては、そのパラダイム転換の写像をいかに投射させるか、その当たり外れが博打となるのである。
著者はこのことに関連してこう述べている。
「類比(アナロジー)で見つけだされた解はあくまで暫定的である。
(筆者注:仮説、叩き台として)理解に資すればそれでよし、だめならあきらめる、それだけのことだ。
取りあえずのきっかけがあたえられたのならば、十分としなければならない」
「ひとつの目標領域にひとつの起点領域から写像することで、目標領域内のひとつの関係が明らかになる。
しかしそれは目標領域のなかのひとつの側面にすぎない。
したがって異なる起点領域からいくつもの新たな関係が写像されることで、さらに目標領域内の構造が浮き彫りにされていく。このようにしてどの起点領域とも異なる目標領域固有の全体的な構造が明らかになるだろう」
「コンセプト思考術」は、発想思考する主体たちが、仮説を多発させて、それをメタ思考しあう対話を促すためのものである。
つまりは、集団独創の促進ツールとして考案した。
そしてそれが一定の効率と効果を上げることは、長年の受講者グループによる演習によって証明されている。
「いうまでもなく目標領域は起点領域とはまったく異なる事物で満たされている。
だから目標領域のなかでは、隠喩的な写像関係だけではなく換喩的な結びつきによって新たなカテゴリー関係が生み出されていくはずだ。
そのことによって、目標領域にはさらに固有の構造がつくりだされる」
多くの仮説を実験して検証し綜合することが最終的な成果を導く。
以上の論述はこの過程の解説でもある。
「目標領域のなかでは、隠喩的な写像関係だけではなく換喩的な結びつきによって新たなカテゴリー関係が生み出されていく」
そこにこそ、「コンセプトワークという概念要素の分析と構成の作業」が、単なる机上の仮説づくりにとどまらずに、現場観察により暗黙知を得ることや、プロトタイピングにより身体知を得ることも踏まえるべきであり、仮説→実験→検証→綜合に一貫した基軸的発想思考として行われるべき理由がある。