主観的な思いに照らして知識をデザインする「コンセプト思考術」(1) |
「方向的イノベーション」と「交差的イノベーション」について
今回の出張の際、「知識デザイン企業」を書店にて購入、第一章「創造経済とアート・カンパニーの台頭」、第二章「モノ<プロダクト>」の概念が変化した」まで移動やプライベートの時間に一気に読んだ。
いつもながら著者、紺野登氏の学者としての能力には感服させられ多くの示唆を頂戴する。
5年前にパイオニアの経営危機の深まりとその現在のような帰結を予測し警鐘をならして本ブログを始めて以来、私は家電や事務機メーカーの内部の構造的な問題を肌身で実感してきた外部ブレインとして、問題をどのように解消していったら良いかを深く考えさせられた。
「新品態(ハードやソフト)、新業態(サービス)、新店態(インターフェース)にしろ、企業ヴィジョンや事業戦略にしろ、その理想的な最終形を示すことは必要条件ではあるが、それだけでは十分条件までは満たさない」
私が勝手連的な働きかけにおいて、孤軍奮闘、悪戦苦闘して身にしみて分かったことはそれだった。クライアントに微塵の貢献もできなかったが、私には貴重な体験だった。
おそらくそういう勝ち目のない挑戦を敢えてした者しか持つ事のできない自信や信念というものがあるのかも知れない。勝ちもしなかったが負けてもいない。むしろ挑戦を回避して5年も過ごしていたらそれこそ負け犬だったと思う。
何も、私はこれこそが最善の事態打開の決定打のアイデアだと提示してきた訳ではない。
社内の人間では言えないような警鐘や提唱をフリーランスの私が代弁し、事業部門の垣根を超えたキーマン有志同士の有意味な対話を触発する叩き台として、粗削りのつっこみ所満載のアイデア提示を繰り返してきただけだ。
結局、事業部門間の垣根をこえた有意味な対話を促進することはできなかった。
これはパイオニアに限ったことではない。
たまたま著者がKM(ナレッジマネジメント)で外部コンサルをしていたゼロックスに、私も、ドキュワークスや光書き込み式電子ペーパー絡みの研究部門と、パロアルト研究所リソースのビジネス化を進めた事業開発部門に関与した。
パイオニアとゼロックスでの私の知識創造活動への関わり方とその限界は酷似していた。
そのことを客観的にうまく説明できないできたのだが、店頭たまたま本書と同じ書架にあってパラパラ頁をくくった本にまさにその説明があって、そうだこれだったのだ、と納得することができた。
その本は、「メディチ・インパクト」(フランス・ヨハンソン著 ランダムハウス講談社刊)である。この内容については別記事で改めて検討するが、本論を進める鍵概念なので、そこだけ触れたい。
その第一章「イノベーションの生まれる場所」で、ヨハンソンは、アイデアには「方向的アイデア」と「交差的アイデア」があると言う。
「前者は向かう方向が決まっているという点にある。つまり方向的アイデアには一定の方向があるのだ。
方向的イノベーションとは、ある製品を明確な次元に沿って、おおむね予測可能な段階を踏んで改良することを指す。イノベーションと呼ばれるものの大部分はこの方向的イノベーションであり、その例は私たちの身の回りにたくさん転がっている。(中略)この場合の目的は、既成のアイデアに改良や調整を加えて発展させることにある。その結果はおおむね予測可能であり、比較的短期間で達成することができる。
人も組織も年がら年中、専門知識や専門化のレベルを上げることによってこの方向的イノベーションを行っている。アイデアの価値を無駄にしたくなかったら、方向的イノベーションを欠かすことは絶対にできない。交差的アイデアもいったん確立してしまえば、特定の方向性に沿って発展することになる」
つまりは、「方向的アイデア」「方向的イノベーション」とは従来の方向性という既存パラダイムの枠組みの中にあるものなのだ。
「コンセプト思考術」で言うところの、<送り手側のモノ提供の論理>にある<品種>(ハードやソフトの商品)、<業種>(サービス)、<店種>(インターフェース)とその開発方向性に他ならない。
「他方、交差的イノベーションとは世界を新しい方向に向かって変えることだ。そこでは通常、新しい分野を拓く道が築かれるため、イノベーションを行った人びとは自分の創造した分野のリーダーになれる可能性がある。交差的イノベーションはまた、方向的イノベーションほど多くの専門知識を必要としないため、思いもかけない人物によってなし遂げられることもある。
交差的イノベーションはラディカルではあるが、規模の大小は選ばない。(中略)
交差的イノベーションには次のような特徴があるといえる。
・驚きや意外性に満ちている
・これまでにない新しい方向に飛躍する
・まったく新しい分野を拓く
・個人、チーム、あるいは企業にとって自分の自由にできる空間が生まれる
・追随者を生む、すなわちイノベーションを行った人はリーダーになることができる
・その後何年、何十年にわたって方向的イノベーションが生まれる源泉を提供する
・かつてなかった形で世界に影響を及ぼす」
つまりは、「交差的アイデア」「交差的イノベーション」とは異なる知識分野の交差による新規パラダイムの枠組みの中にあるものなのだ。
「コンセプト思考術」で言うところの、<受け手側のコト実現の論理>にある<品態>(ハードやソフトの商品)、<業態>(サービス)、<店態>(インターフェース)とその開発方向性に他ならない。
「メディチ・エフェクト」とヨハンセンが呼称するのは、こちらの交差的イノベーションであり、その理由はメディチ家が交差的イノベーションに満ち溢れたルネッサンスを花開かせたからだ。
「フィレンツェで銀行業を営み繁栄したメディチ家は、幅広い分野の文化人や芸術家を保護した。メディチ家やその他のいくつかの資産家のおかげで、フィレンツェには彫刻家や画家、詩人、哲学者、科学者、金融業者、建築家など多種多様な人々が集結した。彼らはそこで出会って互いに学び合い、互いを隔てる文化や学問の障壁を取り払って交流した。彼らは手を携えて新しいアイデアに基づく新しい世界をつくりあげ、のちの世にいうルネッサンスを花開かせた」
以上はイノベーションのアイデアとは何かについて著者が解説していることであり、それと「コンセプト思考術」や、その<受け手側のコト実現の論理>に立つ以上、事業部門横断はもとより異業種異業界との恊働やまったく縁もゆかりもない異分野の専門家との交流の必要性を提唱したこととの一致点に過ぎない。
無論、「イノベーティブなアイデアとは実現されるアイデアのことである」。
だから、私が提示した叩き台アイデアなどは、あくまでイノベーティブなアイデアを求める社内対話を促進する触発剤であり、それ自体が十分にイノベーティブだったと言うつもりはさらさらない。
ただ、日本のメーカーは、「方向的イノベーション」ばかりに向かい、「交差的イノベーション」に向かおうとしない 。
そのことが、私にとってはパイオニアとゼロックスに共通する壁であった、と言えるのである。
パイオニアに関して、私に揺るぎない自信があったのは以下の3つのことだけである。
(1)
私が提示したアイデアは、すべて「交差的イノベーション」を志向する「交差的アイデア」ばかりであったこと
昨年度初めに提案したアイデアを1つだけ例示しよう。
このアイデアは、現行のカーナビ部門の「方向的イノベーション」志向に対して、パイオニアの現行体質でも受け入れ可能な範囲で「交差的イノベーション」志向を触発する目的があった。
また、パイオニアの<ハードのモノづくり>に終始する開発活動に対して、<品態>(ハードやソフトの商品)、<業態>(サービス)、<店態>(インターフェース)が三位一体の開発方向性を社員たち自らに構想してもらう意図があった。
(参照:「携帯カーナビと眼鏡型テレビでビル内情報を透視する」)
(2)
「交差的アイデア」は、事業部門の垣根や職能専門の分野を超えた対話によって導かれるのだから、「交差点」(異界との重なり領域)という「場」が必要であると主張したこと
パイオニアの場合、事業部門分断経営が敷かれていて、各事業部門も相互不干渉のスタンドアローン状態を守ろうとする体質があった。これは「方向的イノベーション」志向の「方向的アイデア」だけを尊重し求めるものであり、社外の異業界異業種とのコラボレーションへの消極性にも結びついていた。
「交差的アイデア」は、頭だけで考える理屈=可能性としてはそうした事業部門状況とは無関係に、たとえば新規事業開拓を担うタスクフォースで先鋭的なナレッジワーカーたちが「知の組み替え」によって達成できる筈だ。しかし、パイオニアの場合、すでに何年も前にそういう組織が立ち上がって成果もあったのだが、全社的に影響力を持つような展開にはならず昨年度ついに解消されてしまった。
外部ブレインとしては、そうしたクライアントのスターティング・ポイントを常に弁えて相手が受け入れ可能でそこが事態打開の突破口になりうる具体的な叩き台アイデアを構想しては提案していく。そこが学者とはそもそもの立場と役割の違うところだ。
私はここ5年、パイオニアの刻々と変わるスターティング・ポイントを確認しながら、当初は起死回生させる、最終的には延命させることばかりを目的に活動してきた。
それは、学術的に理想的な知識経営の有り方という最終ゴールの提唱とは、内容に当然距離があった。パイオニアの場合、なにせ目の前で企業リソースという持ち駒がどんどん減衰していこうとしていた。その減衰を食い止めつつ起死回生なり延命を図るには、経営が錦の御旗とする<モノ割り縦割り>の「選択と集中」論の不合理とその「方向的イノベーション」の限界性を突いて、経営が短絡的に推し進めようとする不採算部門の順次切り捨てに対抗して、<コト割り横ぐし>の「選択と集中」論を具現化する某かの「交差的イノベーション」を志向するしかなかった。
知識デザインの範として、アップル社や任天堂を捉えたが、<モノ割り縦割り>の組織や制度を<コト割り横ぐし>にしろというような乱暴な主張ではない。
アップル社や任天堂を、<品態>(ハードやソフトの商品)、<業態>(サービス)、<店態>(インターフェース)が三位一体の開発方向性において、<コト割り横ぐし>の「選択と集中」論を具現化した知識デザインのエクセレント企業として捉えたのだ。
パイオニアにおいてそのような開発方向性を具体的に実践して起死回生なり延命なりを短時日の内にするにはどうしたらいいか、私はそればかりを考えた。
そして、機械論的な<モノ割り縦割り>の組織や制度そのままにおいても、人間論的に「知の組み替え」をして社内の関係各部門、関係専門職のナレッジワーカーと、社外の異業界異業種の開発キーマンやまったく自分たちとは無縁だった分野の専門家をネットワーキングする「ミニ・ダヴィンチ」と呼称する知識創造キーマンが動き、それを社長直轄で、本来全社横断的であるべき部門(人材育成、知財、デザイン)がバックアップすれば、「交差的アイデア」を具現化していけると主張した。
(参照:「企業ヴィジョンを体現する「ミニ・ダヴィンチ」を育成せよ!」)
この「ダヴィンチ」という命名には、ヨハンセンの「メディチ・エフェクト」や紺野氏の「アート・カンパニー」の考えと重なるところが無意識的にあったのかも知れない。
(3)
もしそうした「場」が社内に設けられるのであれば、知的整合性を支援するだけの社内ファシリテーターにはできない、社内や業界の事情に囚われないいわば文化論的な物語づくりが必要不可欠であり、私はそれをバックアップする外部ブレインとして協力できること
ある会社とその業界の経験しかない社内ファシリテーターが、必ずしも「方向的イノベーション」志向で「方向的アイデア」ばかりを尊重するとは限らない。私はそのような決めつけをするつもりはなかった。
しかしパイオニアの場合、一番発言力のあるカーナビ部門を筆頭にそうした傾向が強いことを、私はさまざまな場面で嫌というほど確認してきている。
実際、数年前のカーナビ部門幹部からの依頼で参加した外部スタッフと社内スタッフの混成による調査研究プロジェクト(コーディネーターは元パイオニア・マーケティング部長で、元日本マーケティング協会理事の永田仁先生)でも、当初経営幹部からの依頼主旨であった「交差的イノベーション」志向の調査研究が、社内スタッフの次世代カーナビ開発キーマンにより「方向的イノベーション」志向の調査研究に変更されてしまった、という経緯があった。調査設計から調査対象のスクリーニングまでを大学生インターシップを手がける協力企業と済ませていたので、調査直前に設計意図を失い社内スタッフの改変した調査の成果を踏まえて彼らの期待する「方向的イノベーション」志向の研究結論を導くことは困難となった。結局、歪められた調査内容からそもそもの設計意図の成果を拾い集めてどうにか「交差的イノベーション」志向の、つまりはこれまでパイオニアのカーナビ部門が思いつきもしなかった生活者の新しい目的や新しい手段を想起させる内容を私がレポートすることになった。最終の重役プレゼはイニシアティブをもった社内スタッフでやることになっていたが、結局このレポートは私がプレゼンすることになった。社内スタッフがプレゼンした「方向的イノベーション」志向の研究結論は、半年以上の時間と多額な予算を投じた調査成果をほとんど踏まえていなかったし、何も調査までしなくても出せる結論だったから、私のプレゼンがなければ最終プレゼンが形にならないどころか調査研究プロジェクト自体の意義が問われたと思う。
このような実体験が他にもある私は、パイオニアで社内ファシリテーターを自負する者が、自らを「方向的イノベーション」志向であるとする自己認識や、イノベーションには「交差的イノベーション」志向もあるという具体的理解を持ち合わせていない可能性は今も高いと思う。
一方、「コンセプト思考術」の受講経験者の中には、「交差的イノベーション」志向で「交差的アイデア」を対話によって導く能力のある有志が、事業部門や職能を問わず幾人もいた。
ただ「コンセプト思考術」は、現場で権限をもつ「方向的イノベーション」志向の開発キーマンからは評判が悪く、「そんなものを使っていては現場で使いモノにならなくなる」「パイオニアにはマーケティングは馴染まない」などと公言されていて、「コンセプト思考術」を活用して「交差的イノベーション」志向を志した彼らの評価は芳しくなかった。
そこで、もし「交差的イノベーション」を求めて対話する「場」が持たれて私がそこに参加させてもらえたならば、私は、「場」の参加者に「交差的イノベーション」志向と「交差的アイデア」の知をデザインするツールとしての「コンセプト思考術」を改めて解説し、「交差的イノベーション」志向で「交差的アイデア」を対話によって導く能力のある有志たちの真意や意図が理解される下地づくりをしようと考えたのであった。
その際は、彼らを「ミニ・ダヴィンチ」に見立て活動をバックアップするべく、その「場」を直轄すべき社長や、本来全社横断的であるべき部門(人材育成・知財・デザイン)にも働きかけるつもりでいた。
結局パイオニアにおいては、有意味な形で「交差的イノベーション」について対話する「場」は形成されなかった。
またどのような部門横断的な対話の「場」にも、小生のような「交差的イノベーション」志向の部外者が招かれることはなかった。ヴィジョンづくりや文化風土づくりの「場」のまとめ役や参加者から個人的に意見を求められたり概念図の引用を了解したことはあっても、オフィシャルに参加が求めれたことは長年なかったから意外ではなかった。
パイオニアの場合、事業部門同士の社内力学というポリティクスもあるのだが、いつの頃からか知識のデザインを「方向的イノベーション」志向に限界づける気質なり体質が個人、集団、組織に一貫してしまったことが、私の活動の成果を限界づけたのだと思う。
しかし「交差的イノベーション」志向を提唱すること、それは誰かが繰り返し挑戦すべき課題ではあったのだ。
私の言動の細かい言質を捉えて的外れな批判をする者もいたが、すべてそうした挑戦を何もしなかった者の言だから、私は何とも思っていない。批判に同調する者がいても同じ輩であり、恊働して挑戦しようとしなかった自己を合理化しているに過ぎない。こちらははっきり言って、そんな済んだことに付き合っていられないのだ。
私が、「ミニ・ダヴィンチ」に託した社内的な「知の組み替え」とは、広く社会の思潮や価値観の変化や、生活者のライフスタイルや生活文化の変化とも呼応する「知のデザイン」であった。
本書「知識デザイン企業」の主張する知識経営も、ヨハンセンの主張する「交差的イノベーション」を自然体で具現化して行く知識創造の理想的な最終形を「知のデザイン」の方法論として提示している。
私も、パイオニアに著者の提唱するような「知識デザイン企業」に向かっていって欲しいと熱望してきたし、今も熱望している。
そして、もし向かうことができるとすれば、その端緒には、「知のデザイン」を構想しその具現化を図る「ミニ・ダヴィンチ」のような、社内外の有志ナレッジワーカーをネットワーキングするハブ型人材とその活動が不可欠であると考えてきたし、パイオニアの現状から今もそう考えている。
だから、そういう人材になろうとする社員には、是非本書を読んでもらいたいと思う。
そして、では今日から具体的なテーマにおいて「知のデザイン」をしていこうとする時に、「コンセプト思考術」がとても簡潔明瞭なツールであることを思い出してもらいたい。
「場」は必要である、しかし「場」で有意味な「対話」がなされなければ話にならない。
ということは、有意味な「対話」を組織したり自ら触発する「人材」がいなければならない、ということだ。
そして「場」に参加する者、「場」を用意したり「場」の成果を現業に生かす責任者というナレッジワーカーたちに、「知のデザイン」の方法論や方法が共有されねばならない。
著者は「知のデザイン」の方法論こそ最優先事項であると重視している。
しかし、知識創造組織をダイナミックに捉えて行くべき現実によっては、「人材」「対話」「場」を同期させて順次「知のデザイン」の方法論と方法の共有を図って行くことでしかスタートが切れないことが往々にしてある。その場合、ケース・バイ・ケースで有効な「人材」が有意味な「対話」のできる「場」の方が優先されることもあると思う。
というか、日本の会社というのはそういうリアルな現実が足元から変わらないと、絶対に理念だけでみんな納得して変わってくれるような代物ではないと思うのだ。
確かに、そう仕向けるリーダーやキーマンやファシリテーターといった一部の者の知恵として「知のデザイン」の方法論や方法が最優先事項としてあることは必要だ。
しかしそれはどこの世界でも当たり前のことで、一部の者の知恵がブレークダウンして多くの関係者に共有されていく手順を、「人材」「対話」「場」を同期させて工夫しなければならない。
その手順を省いたり軽視すると、追って述べるゼロックスの小林陽太郎元会長(元経済同友会代表幹事)のスローガン「モノからコトへ」の真意が現場に伝わらずに極端な誤解や批判を招いたような結果になる。
「コンセプト思考術」は、無意識が浮かべた発想やリラックスした対話が導いた洞察の欠片を、6つの概念要素からなる思考フォーマットの適正位置に記入して、自分たちの思いに照らして残る空欄を推量によって埋めることで、これまで意識化されなかった新しい目的や新しい手段の方向性を探るものである。
何故そんな発想の欠片が浮かんだのか、何故そんな洞察の切り口が気になったのか、自分のあるいは自分たちの思いをメタ思考するのだから、外的な何かをロジカルに対象とする分析思考とはまったく異質の営みである。
そのことが理由で、パイオニアに限らずいろんな関係各方面の人々から「コンセプト思考術」はまったくロジカルではないからダメだ、と批判されてきた。
一方、著者が第一章「創造経済とアート・カンパニー」の「創造経済の3つの側面」で提示している「創造パラダイムの経営への転換」という概念図と、次項の「分析パラダイムはなぜうまく機能しかいのか」で展開している分析思考批判は、ロジカルシンキング隆盛の時代に敢えて主観的な思いに照らす「コンセプト思考術」を提唱してきた前提であった。
もちろん、浅学非才な私はロジカルシンキングの否定や限界までを意識していた訳ではない。ただ現場でパラダイム転換発想してきた者として、それではできないところにパラダイム転換可能性があるのだ、という信念があった。だからこそ、様々な批判を意に介さず受け流せてこれたのだ。
受講経験者なら分かっているが、「コンセプト思考術」は自分たちの思いからパラダイム転換の物語づくりをするツールなのである。
この点では、現在のように「物語」が重視される以前はマーケティングの専門家からも、新品態(ハードやソフト)、新業態(サービス)、新店態(インターフェース)を顧客の声を聴かずに主観的な思いで構想するのはマーケティングの動向に逆行しているとも批判された。
関西の某鉄工メーカーに旧パイオニアHRD社長の林義男先生と行った時には、ロジカルシンキングではなく主観的な思いを深めて整理するだけの思考術など不要、何の役に立たないと講座の最後に受講者から言われ、以後呼ばれなくなったなんてこともあった。おそらく私にとって研修講師という仕事が本業ではなくて、「コンセプト思考術」という講座だけ依頼に応えてする余技だったから気楽に続けてこれたのだろう。これを本業にして食べていかねばならなければ挫けていたのではないか。
しかし、そうした批判がまったく的外れだったことを、本書「知識デザイン企業」は創造経営の観点から解説してくれている。
主観的な思いから知をデザインすること、そしてパラダイム転換の物語を形成し新しい社会現象を喚起することを構想するコンセプトワークは、創造経営に不可欠の知識創造活動なのだ。
私がこれまで数々の批判にめげずにやってこれたのは数少ない理解者の方々のお陰である。
ナレッジマネジメントと知識創造の権威である著者の解説は、今後、方々のご支援についての周囲への裏付けとなるだろう。
主観的な思いに照らして知識をデザインする、シンプルな共通原理に基づいたツールは有効だと思うが、間違いなく「コンセプト思考術」は数少ないそのようなツールの一つだと思う。
本論シリーズでは、本書の内容にそって、改めて「コンセプト思考術」のポイントを分かりやすく、思考フォーマットの概念図やテキストの概念図を用いて整理してみたいと思う。
そもそも物事には<モノの価値>と<コトの価値>が不即不離にある
パイオニアでの「コンセプト思考術」講座には、ゼロックスや富士フィルム、リコーなど他社の受講者もきている。
それが切っ掛けで他社でも研修することになったり、さらにそれが切っ掛けとなって他社からのコンサル依頼がくるようになった。
ゼロックスでの「コンセプト思考術」講座は、当時小林陽太郎会長が「モノからコトへ」というスローガンを打ち出し、社員がそのことの真意をはかりかねている状況にあって、「コンセプト思考術」の講座内容が会長の真意の理解を促すのではないかという人材育成部門の企図によるものだった。
事務機メーカーのトップがモノづくりを軽視して、サービス化やアウトソーシング化というコトを偏重するという訳はないのだが、いつの世も創造的ではない不満分子はそういう極端な受け止め方と短絡的な批判をするものである。そうした弊害がゼロックスの現場にもあったようだ。
本書「知識デザイン企業」でも、著者は短絡的な「モノからコトへ」発想を批判している。
著者も同社のKM部門のコンサルタントをしていた当時、私と同様の問題意識を持っていたのかも知れない。
「コンセプト思考術」は、言葉遣いの万国共通の4概念要素に基礎を置いている。
なぜ言葉遣いに基礎を置くかと言えば、人間だれでも物事を思い考えるのは母語によってだからだ。無論、数学の数式や化学式など数や記号の式だけで考える機械論的な世界もあるが、目的を論じたり手段を選択するために評価したりといった物事の全体を人間論的に捉える場合は、母語による。
そしてなぜ4概念要素に基礎を置くかと言えば、母語によって物事を思い考えるとは、4概念要素を組み立てる、ということに他ならないからだ。
順序立てた説明は、本ブログの「コンセプト思考速習10編」の「3)「パラダイム転換」とは4つの概念要素の組み立て方の転換 」を読んでもらいたいが、結論として言葉遣いの4概念要素とは、
<コトの意味>
<コトの感覚>
<モノの感覚>
<モノの機能>
である。
そして物事を思ったり考えることは、意識的であろうと無意識的であろうと、この4概念要素の組み立てであるというのは余りにタンジュンな事実なので、受講者は一度聴いて忘れることができないと言う。
ここにおいて、物事(英語のthing/stuff、中国語の事物、ドイツ語のdas Dingなどなど)は、モノの価値とコトの価値を不即不離にもっていることは明白である。
どんな物事についても、「モノからコトへ」というスローガンを文字通りに受け取ることはできない。
ただ、私たちが物事を思いついたり、ちょっとした感情や感覚を抱いたり、ロジカルに因果関係を検討したりする際には、4つの概念要素のどれかが起点になって他の概念要素を連想したり、どれか1つの概念要素の世界だけに終始したりする。
たとえば、前出の数式や化学式は、物事を機械論的に捉える世界観において<モノの機能>に終始していると言える。原子爆弾や遺伝子操作はここで考えるが、その倫理的な意味合いは<コトの意味>を含めた他の概念要素の応援を得なければできない、といった具合だ。
たとえば、著者は「デザイン」というものをモノの色や形の問題とするのは短絡であって、本来は新しい世界や観念や生活などなどを知識として創造する行為であるとしている。それは<モノの感覚>の概念要素で自己完結する「デザイン」を否定し、同じモノでも4概念要素の全体によるコミュニケーション現象を象徴するアイコンなりトリガーにしたり、シークエンスを伴った経験価値というコトを習慣的に提供するプラットフォームやその魅力を増進する物語を用意形成することも含んで「デザイン」なのだという主張である。
このように4概念要素の組み立てとして、あるいは一部の偏重として、いろいろな考え方の基本的な枠組み(パラダイム)を指し示すことができるのが「コンセプト思考術」のポイントの一つである。
私は「コンセプト思考術」において、パラダイム(考え方の基本的な枠組み)という一般的に抽象論として文章で語られる内容を、4概念要素の具体的な組み立て方として構造を明示することが、ナレッジワーカーによる知のデザインとそのコミュニケーションにおいて有効であると捉えた。
そして、小林陽太郎会長がスローガンとした「モノからコトへ」の真意を、以下の「コンセプト思考術のパラダイム転換ルール」として提示することが有効であると考えた。
以上の4概念要素の組み立てを、「編集のコンセプト」と言ってもらってもいいし、「物語の起承転結」と言ってもらってもいいし、「知のデザイン」と言ってもらってもいい。
要は、典型的なパラダイム転換物語を前提に、物事を思い考えた全体を、無自覚的な部分や未完の部分も含めてメタ思考するとこうなるという事なのだ。
いずれにせよ、小林会長の「モノからコトへ」に浴びせられた「モノづくりを軽視して、サービス化やアウトソーシング化というコトを偏重する」という誤解はまったくもって論拠のないことだと分かる。
なぜなら、おおよそ物事には<モノの価値>と<コトの価値>が不即不離にあること、問題は両者の概念要素をどのように関係づけるかという構造なのだということ、この2つが一目瞭然となるからだ。
ちなみに、この<送り手側のモノ提供の論理>から<受け手側のコト実現の論理>へのパラダイム転換の内容は、著者が第二章「『モノ<プロダクト>』の概念が変化した」の「日本企業の知を解放するデザイン」で提示している概念図「製品提供論理から需要創造論理へ」にほぼ重なる。
さらに本書の内容に照らした詳しい検討を次項(2)からしていきたい。