心理経済学の視点で身の回りと世間を見渡す(2) |
心理経済学からみた現代の人間像
著者は、ここ20年くらいの「子ども・若者変容」論について、大まかに4つの論点があるという。
それは
「(a) モラトリアム、遊び思考、フィーリング重視
(b) メディアとヴァーチャル・リアリティへの傾倒
(c) ナルシズム、人間的接触を回避する傾向
(d) 幼児化」
である。
著者の論述を検討する前に、これに関する私の意見を述べておきたい。
それは、以上の4論点は、特に子供や若者に限ったことではなく、社会人の中高年からいわゆる後期高齢者まで同じであり、必ずしも悪いことではない、ということだ。
まず、中高年以上も同じであることについて述べよう。
(a)については、終身雇用が崩壊して様々な福祉予算が削られたが、だからと言って大人たちの人間性が変わった訳ではない。むしろ生活保護の受給者は増えた。見方によっては「身一つならば飢えずに生きていける」という安心感が増大して結婚しない大人たちが増えたとも言える。昔は、「一人では喰えないが二人なら食べていける」という考え方が一般にあり、結婚することには夫婦での自立を目指すという動機が旺盛だった。
(b)については、メディアやヴァーチャル・リアリティというと現代ではデジタルな世界を思いがちだが、機械論化した企業の組織や制度さらにはマネー資本主義の市場も、私たちの生活世界の現実を認識させるメディアであると同時に、具体的な全貌を捉えにくい観念世界であったりする。
(c)の自己愛の増長、人間的接触の回避に至っては、老若男女を問わずに蔓延している。たとえば、テレビで利他的共生と人間的接触の豊かな村落や下町が紹介されるのは、それがテレビ放映に値する希少価値があるからだ。あるいは、東京のサラリーマンが新橋の卒業高校ごとの連絡ノートがある店に通うことが紹介されるのも、背景には、首都圏の高校生が同じファッションや趣味の者が集う渋谷の特定スポットに通うのと同じ会社や学校の人間関係の希薄化がある。
(d)の幼児化については、すでに中年になったガンダム世代が蘊蓄を語り合うことや、子供時代に叶えられなかった願望を満たす「大人買い」など枚挙に暇がない。心身において良くも悪くも幼児化する高齢者は拡大する。さらに企業社会では、経営者が青年期に見られる「自己不確実感」のもと、経営をたとえば「アメリカ出羽守」という実質(a)のフィーリング重視や(b)の株主資本主義、(c)の人間的接触を無視軽視する機械論的な組織と制度で行っている。
私は以上の事柄を良いとか悪いとか論じたい訳ではない。
子供や若者が「変だ」とする大人の言い分は一見まともそうだが、実は自分のことを棚に上げていてとても偏りがある、と言いたいのだ。
新しい世代の子供や若者に良いことも沢山あることは追って述べたい。
著者も、同じことを別の角度から指摘する。
まず、以上の(a)~(d)の4論点に共通した特徴があるという。
「それは今どきの子どもたちが(筆者注:同時に大人である親や経営者や社員が)自分中心の、他者不在の世界を生きているということです。
ここでいう他者は、実際の現実の他人という意味です。
つまり自分がすべてである世界にいるということでしょう]
そして著者はここで、社会構成主義的な認識論上の注意を促す。
「子どもたちの(筆者注:同時に大人である親や経営者や社員の)変化を語る私たちの言葉も、その変化に連動しているはずです。
言葉にはいつも生産と消費、需要と供給という側面があります。
ですから問題を語る『変』という言葉が『子どもたちが危ない』という危機としてだけのものにならないように注意したい、むしろその言葉のなかに、今の子どもたちの可能性を捉える道を探したい、そう思うのです」
つまり、現状の「支配的な物語」に照らして「変だ」と評価される物事のなかにこそ、イレギュラーなハプニングとして発生する「もう一つの物語」が萌芽がある筈なのだ。
本論では、そこに論点を絞って、第一章「変な子どもたち」の内容を検討したい。
「そもそも『子ども』という概念は、フィリップ・アリエスに言わせると近代の産物で、それ以前は『小さな大人』という程度の意味でしかなかったものが、社会全体が家族を一つのシステムに組み込むときに、創出された特別な概念ということになります。(中略)
『子ども』が今日のように特別に庇護されるものと見なされているのは、資本主義というお金のルールの成立と関わっていることはたしかだろう」
「もちろん私たちの反応にはある程度、生得的に方向づけられている部分があります。例えば、子どもを『かわいい』と思うのは、ある程度、生得的にプログラムされているものでしょう。
ですから、そのプログラムに沿って、大人は幼児を見ると自然と世話をするようになります。(中略)
しかし、子どもが特別視されるかどうかは、その社会経済的な枠組みによってさまざまだということです」
つまり、
「子供論」は、大人たちが彼らを特別視する社会経済的な枠組みによっている、
「若者論」という新世代論は、旧世代が彼らを特別視する社会経済的な枠組みによっている。
さらには、
「大人論」は、子供たちが彼らを特別視する社会経済的な枠組みによっている、
「高齢者論」は、その年齢に満たない大人たちが彼らを特別視する社会経済的な枠組みによっている、
という認識パラダイムが前提にあり、
そこにはそれゆえの認知表現パターンが見出される。
著者は、論じる主体の認識パラダイムにおいて肯定的に評価されたことの欠落ばかりを批判して、その埒外で肯定的に評価できることを見出そうとしない、ということにそのパターンを見ている。
(ちょうど衆院選直前の自民党による民主党批判に、まったく同じパターンが見られる。)
「心理経済学からみれば、『子ども』が特別なのは『社会経済的に自足していない』からです。もし経済的に自立している子どもがいたなら『子ども』視する必要はないでしょうし、その子どもは家族とは別に『居場所』をもっているはずです。
子どもにとって『居場所』は、安心できること、基盤があること、逃げ場があること、味方がいることなど、さまざまな主観的な意味を持ちますが、いずれにしても子どもが特別なのは、不幸にも社会経済的な枠組みをもっていないからなのです。
『かわいい』という生得的なレベルの反応のせいでも、愛という形而上学的な概念のせいでもありません」
著者の論じる原則は、子供に限らず、親、大人、青年、高齢者といった概念にもあてはまる。
「親」が子供ではないと見なされるのは、一般的には血縁確認によるが、社会経済的には「子供を養う責務を担っている」からであことは、養子縁組みのことを思うまでもないことだ。
「大人」が子供ではないと見なされるのは、一般的には成人年齢によるが、社会経済的には「自立している」からである。
著者は、この当たり前のことが常識やイメージのために不鮮明になったり、場合によっては歪められていると主張したいようだ。
なぜなら、ここをハッキリさせておかないと、心理経済学は始らないからだ。
たとえば、ある親が生活保護を受けて子育てをしている場合、それが憲法に保証された正当なる権利であることとは別に、その親が社会経済的には「自立していない」という点では子供と同じであるということが曖昧にされてしまう。しかし、子供と同じ「自立していない」状態だからこそ行政は自立支援をしている筈なのだ。
著者は、こうした社会経済的には明快な事実を曖昧にするのは、私たちが人間の生得的な反応や形而上学的な愛により物事を納得しようとするためと考えているようだ。
誤解を招きやすいので私が弁解しておくが、著者は、生活保護を受ける母子家庭をかわいそうだと想う生得的な反応や、彼らに同情して支援したい気持ちになる形而上学的な愛を否定している訳では決してない。
ただ、事実の本質や、私たちがそれを受け止めている無意識的な認識は、あくまで社会経済的な枠組みに依拠している、と言いたいのだ。
私も、この原則を認めた上でも、私たちの生得的な反応は微動だにしないし、また形而上学的に真なる愛ならばマザー・テレサのようになお盛んになると考える。
著者は、生得的な反応や形而上学的な愛のせいではなく、なんで私たちが子供をかわいがるかについて以下のように述べる。
おそらく、こう述べられれば身も蓋もないと不愉快になる読者もいるだろう。
しかし私には、著者のいう社会経済的な交流が親子にあっても、なお生得的な反応はあるだろうし、それを昇華するのが形而上学的な愛(人間愛)なのだと考える。
「一つは、ごく早期にも親と子の間で『やりとり』がはじまっていて、子どもは親に、親は子どもにというギブ・アンド・テイクの関係が成立しているからです。
ただ、そこでやりとりされているのが貨幣ではないというだけです。
生物学的なものを『反応』、社会経済的なものを『交流』と呼ぶなら、反応が交流に出会う場面がすでに最早期にあるのです。(筆者注:そしてずうっと続く。)
例えば、赤ちゃんがお腹をすかせて泣いている。これはある意味生体の反応です。そして、赤ちゃんがとても小さい最早期では、母親や養育者は(中略)『母性的没頭』といっている状態にあって、そうした泣き声に完全に夢中になって反応するようになっています。
ここでの母親は『子どもがお腹がすいているのかしら』とか『おむつが気持ち悪いのかしら』とかいろいろ心配しているのです。母親側はこうしていろいろと思い巡らすことで、赤ちゃんが泣き止む対応ができると『お腹』や『おむつ』を介して、交流したことになります。(中略)これを『夢想』と呼んでいますが、ここには単純な反応というよりも母親がいろいろ思い描くことでやりとりが成立しているので、『交流』があると考えられます。お腹がすいて泣くという単なる反応を、交流のための意味に変換しているのです」
一般的には母親が「母性的没頭」する時期は、子供が社会的に自足していない現実が問題にならない。
「問題になるのは、親が子どもの対処に困る時です。
臨床的には登校拒否、家庭内暴力、非行といった子どもの問題群を親が抱えはじめた時です」
著者は、この時、
「親が子どもの主たる経済基盤であることから生じる、こちらが精いっぱいやっているのに『子どもは』という感覚が、そして子どもたちは自足していない、庇護されているはずだ」という感覚をもっていると言う。
ここで著者は、親による「子供の特別視」には、親が「子供との交流に満足したい、満足させられるのが当然だ」という思いを内包していると指摘している。
つまり、親には「社会経済的な枠組み」と「社会経済的な枠組みを踏まえた『交流』によって満足することを当然視する常識」の2つが働いていることを示す。
これは親にとって、前者=「交流」の「外的真実」と、後者=「交流」の「内的真実」の2つを認識させる土壌が、子供の最早期以来生じている、ということである。
そして言うまでもなく、この原則は、親の子供に対する関係に限らず、親、大人、青年、高齢者、さらに社会人、社員、経営者に対するそれぞれの他者の関係にもあてはまる。
だから、以下の引用文の<子ども><大人><親>という人称を適宜に置き換えて、<かわいい><労働準備群以前の、庇護されるべき>という形容句を期待される肯定的内容に置き換えると、そのまま成り立つ。
「ですから<子ども>が『<かわいい>』、あるいは『変だ』という感覚について語る場合には、二つの視点が必要なのです。つまり、
(1) <子ども>と<大人>とのコミュニケーション、つまりやりとり。
そこには、<親>が<子ども>に何をしてあげているかという具体的なもの(筆者注:外的真実)から、<子ども>との交流に満足を得ているかどうかという点(筆者注:内的真実)まで含まれる。
(2) <子ども>を抱える社会経済的枠組み。
今日の私たちは、<子ども>が基本的に<労働準備群以前の、庇護されるべき>存在であるという近代的な感覚を前提にしているのであまり意識していないが、<子ども>と<親>の関係を無意識的に決定しているのは、実はこの社会経済的な枠組みである」
(2)については、
<経営者>と<社員>の関係の場合、それを決定しているのは意識的にも社会経済的な枠組みである。
しかし(1)については、
経営者と社員の交流には、
<経営者>が<社員>に何をしてあげているかという具体的なもの(筆者注:外的真実)から、<社員>との交流に満足を得ているかどうかという点(筆者注:内的真実)まで含まれる。
同時に、
<社員>が<経営者>に何をしてあげているか、という具体的なもの(筆者注:外的真実)から、<経営者>との交流に満足を得ているかどうかという点(筆者注:内的真実)まで含まれる。
私は、企業社会において、会社の「メンタルモデル」とか「体質」とか「文化」とか「風土」とかが云々されたり実際あったりすることを思うと、またそれらの違いによって、組織や制度がほとんど同じでもまったく異なる経営や事業が展開されることを思うと、
(2)の「社会経済的な枠組み」は、
(1)の「社会経済的な枠組みを踏まえた『交流』によって満足することを当然視する常識」、つまりはパラダイム(考え方の基本的な枠組み)も含むものと考える。
それは、(1)と(2)がコミュニケーションによって通じているからであって、
コミュニケーションによって「満足することを当然視する常識」が共有されるかどうかで、
(1)を含む(2)の全体が安定したり変容を迫られたりする。
「健康な育児や健康な発達においては(筆者注:健全な人材の育成と成長においては)、この二つが別々の問題になることはありません。
子どもにお金を使うこと(筆者注:人材育成に注力すること)と、子どもとのやりとりが基本的に楽しい(筆者注:経営者と人材のやりとりが有意義である)ことは一緒です。
ここにはループがあります。
つまりよいコミュニケーションはよい枠組みを、よい枠組みはよいコミュニケーションを相互に入れ子的に作りだします」
「問題は、軋みが生じたときなのです。
つまりお金を使うこと(筆者注:人材育成に注力すること)と関係を維持すること(筆者注:経営者と人材のやりとりが有意義である状態を維持すること)との間に軋みが生じるときには、子ども(筆者注:人材)に過度の期待をしたり、過度の叱責をしたりしますし、あるいは反対のケースでは過度に拝金主義的であったり、お金に対して潔癖主義的であったりするのです」
ここで私は、親ないし経営者による「過度の期待」や「過度の叱責」というものが、彼らの「社会経済的な枠組みを踏まえた『交流』によって満足することを当然視する常識」ばかりを踏まえていることを問題視する。
つまり、「昔はあったが今は『ない』、『失っている』部分がある」、それは事実だ。
しかしそれを、過去の常識で問題視するばかりでは、それこそが問題になってしまう。
「ない」もの「失った」ものを現代的に再生する場合、それには今「ある」もの「手に入れたもの」との合わせ技を工夫するしかない。
「最近の大学生に関するいくつかの調査が明らかにしているように、彼らが苦手にしているのは、小学校から大学までの教育システムには登場しないような、人間関係の基本的なやりとりの部分なのです。そして私の臨床的な印象ですが、たいてい、頭のよい子どもたちほど、一般に人間関係に悩んでいることが多いのです。この点は中学生から大学生まで一貫していることだろうと思います。(筆者注:これは日本に限ったことではない。)
心の経済の発想から見るなら、これは当たり前です。何かを得ることは、機会費用として基本的に何かを失っていることです。(中略)
ですから、頭のよい子どもたちが、人間関係の基本的な部分に対処できないことは、彼らが使ってきたエネルギーの配分上、仕方のないことだといえます。(中略)
もちろん『何かをすることで、別の何かを得ている」という交換の感覚、あるいは『何かをしていれば、何かを失っている』という機会費用の発想は、もちやすい人とそうでない人がいますし、交換はそのほとんどが自分の他者への印象ということまで含めると無意識的に行われていますから、本人の計算の届かないものも多い」
新世代に「ある」ことや新世代が「手に入れたこと」で良いことは沢山ある。
そして、それは何かというと、
「(a) モラトリアム、遊び思考、フィーリング重視
(b) メディアとヴァーチャル・リアリティへの傾倒
(c) ナルシズム、人間的接触を回避する傾向
(d) 幼児化」
これも以上4論点に関わることなのだ。
たとえば、
(a)の「モラトリアム」は、人類全体が地球環境の破壊というデッドエンドの前の執行猶予者であり、その自負からの意志と行動はエコ志向に向かうものである。
そして今の若者ほど、エコ志向を大上段に構えずに等身大の日常生活レベルの営みを「遊び思考」「フィーリング重視」で行っている。中央で制御されたマスが一斉に画一的行動を起こす量的効率性は期待できないが、一人一人が個性を活かして無理無く無駄無く営む多様性があり、それこそが心理的に持続可能な社会なのではないか。
(b)の「メディアとヴァーチャル・リアリティへの傾倒」は、これによって国籍と言語を超えて同じ問題意識で同じ課題の解決を目指す有志たちが、グローカルにネットワークして、オンウェブで知識を共有し人材の交流を図っている。
(c)の「ナルシズム、人間的接触を回避する傾向」は、こと日本のことを私の関心事で述べるとこうなる。
「徳川志向」の定住民を前提として既存パラダイムの成熟と伝承を目的とする組織や社会においては、「ナルシズム、人間的接触を回避する傾向」と非難される物事は、
「信長志向」の移動民を前提として新規パラダイムの発見と創発を目的とする組織や社会においては、むしろ好ましくまた必要不可欠なことだったりする。「人間的接触の回避」は、既存パラダイムの高度化した管理を免れる手段でもあり、自分の関心事に埋没する「オタク」もある種の「ナルシズム」である。しかし、それは知識と感性を共通するナルシスト同士のグローバルなネットワークに参加する資格でもあるのだ。
日常の中にヴァーチャルな非日常を持ち込む彼らは、それを「異界との重なり領域」としてグローバルな「異界」ともリアルにそしてヴァーチャルに行き来している。たとえば熱烈なサッカー・ファンがふだんは深夜BSで外国リーグを見ていて、時には現地に観戦しに行くこともあるように。
(d)の「幼児化」は、著者は「今の子どもたちはみな『子ども返り』を起こしているようにみえる」と述べている。つまり、社会化ステップの踏み直しをしているというのだ。
この幼児化が、老若男女を問わないということは、社会人の全体が歪められた社会化ステップの経験を振り返りそれを多様な方法で踏み直そうとしている、ということだ。
それが、悪いことに見えるのは、これまでの歪んだ社会化ステップを維持することで得をする人たちばかりではないか。
私は、会社を「社会化ステップを踏み直す場」とするに際して、著者の言う以下のことを肝に銘じたい。
「子ども(筆者注:人材)の現在を考える上でもっとも大きな障害は、それを分析して論じようとする人たちが、子ども(筆者注:人材)の変化について把握する場合に、『欠如している』=『本質(根性や本性)を損なっている』という発想に依拠しやすいという点にあると思います。
『ない』『だめ』『いけない』という言葉によって立ち直った人は、少なくとも私の心理療法やカウンセリングのクライエントにはいません。
そこでしばしば『欠如を埋めるもの=愛や人間性』という安易な妥協形成がしばしば行われますが、これも『ないもの』という発想が出発点になっている限りは五十歩百歩という感じがします」
私が考える、会社を「社会化ステップを踏み直す場」とする、ということは、何も会社が社員の親代わりになって発達を促進したり退行を受け止める、なんてことではない。
あくまで、企業社会の<知的攻撃的関係>に偏重した人間関係において、<エロス的情緒的関係>を促進しそれを起点にするように促すことである。
それは、生得的な情緒や形而上学的な観念を出発点にするものでは決してない。
では、いったいどのようなことが心理経済的な出発点になるのか?
それについてヒントがあった。
それは、母親が子供の排泄物を最初に汚いと思っていないのが、離乳期から汚いと思うようになるということだ。
「この頃の母親は大部分が自分のおっぱいを赤ちゃんに与えています。
ということは自分の中から生産された一部を赤ちゃんにあげているわけです。
身体の分泌液のなかにはメアリー・ダグラスのいうようにおしっこ、便、鼻水、そして涙がありますが、そうした排泄物はていてい周りの人からは排泄物として嫌われるようになるものです(涙は特別な視覚的意味を文化によって担わされているようです)。
そのなかで母乳は時期的に限られていることもあるのですが、赤ちゃんとのあいだで使われる限定販売品であって、母親にとっては、自分の生産したものを摂取して、それを排出している赤ちゃんのうんちは汚くないのです。母親からみれば、これは一種の循環で、閉じた輪だからです。
でも離乳期には、赤ちゃんは母乳以外のものを積極的に摂取して、排出します。今度は自分の一部ではない別物を赤ちゃんが取り入れて、それを排出します。
すると母親は子どものうんちを汚いと思うわけです。
外部と内部の接点(筆者注:「異界との重なり領域」)が汚いというダグラスの公式を証明しています」
旧世代が、自分たちの与えたものではない物事を表出する新世代を何か「変だ」「欠けている」と感じるのも、基本的には同じ図式だ。
たとえば、同じ機械論的な組織や制度を採用する企業でも、経営者の先鋭的IT知識の創造性を社員が吸収して展開している、いわば「授乳期状態の会社」は、経営者と社員の関係に軋みが生じにくい。
その一方、経営者が旧来の会社のオールドエコノミーの枠組みしか持たずにいて、社員にはニューエコノミ化したIT市場への対応を迫る、いわば「離乳期状態の会社」がある。社員は自前で勉強したり外部との恊働に頼って、母乳以外を雑食するようになる。また会社もそうした新しい分野の専門家を雇う。しかし経営者は離乳期の母親が母乳以外の食べ物とった幼児のうんちを汚いと感じるように、社員の表出した新しい考え方や発想をうさんくさく感じてしまう。
現実の事態としては、このことと旧世代が新世代に対して、旧世代の常識に照らして「昔はあったが今は『ない』、『失っている』部分」ばかりを批判することが重なる。
新世代の人材はどんどん増えて行くから、こうした組織図式がそのまま放置されると、「悪いコミュニケーションが悪い枠組みを、悪い枠組みは悪いコミュニケーションを相互に入れ子的に作りだす」という悪循環のループになっていく。
結局、そんな会社の場合、経営者の推し進める機械論的な組織や制度が、ひどく短絡的でフィーリング的な「アメリカ出羽守」の本質を見失った経営となる。中には経営トップが自前で経営戦略を創意工夫するのを放棄して、マネー資本主義の水先案内人のような部外者に一任してしまう、そんな結末になるところも出てくる。
経営において、社員不在どころか経営者までが不在というのは、機械論的な組織のもっとも極端な結末である。
私は、機械論的な組織や制度においてマネー資本主義に振り回される経営が問題だと考えている。
マネー資本主義自体が最大の機械論的な組織や制度であるから、それでは企業社会や企業が自立性を損なうと言わねばならない。
しかし厳密にはマネー資本主義が悪い訳ではない。
その運用を過つと悪い結果になる、という事実が余りにも見過ごされていることを問題視している。
だから、マネー資本主義に振り回されるのではなく、マネー資本主義を利用するために機械論的な組織や制度を適宜に利用活用するのであれば問題はないと思っている。
しかし、それには当然、経営者にそれだけの見識と創意と辣腕が求められる。
「アメリカ出羽守」経営者ではそこが無理というか、そもそも最初からそのような問題意識や課題意識を持っていない。
著者は「お金の原理」と「愛の原理」が別々にあり、前者を否定、後者を肯定するような考え方は間違いだとする。
私も同感だ。
企業社会において「資本の原理」を否定することは自滅を意味する。
どのような考え方で「資本の原理」を活用するかが論点なのだ。
その活用の仕方に目的レベルや手段レベルで「愛の原理」があってもいい。
ここは、心理経済学では重要な論点だ。
つまり、「お金の原理」と「愛の原理」とを短絡的に対立項として扱う考え方は、社会経済的な枠組みを捉えることを曖昧にしたり、特定の主体の常識を当然視する発想に直結しているからだ。
「例えば、『自分のことは他人には分からない』『家族のことは、第三者からはみえない』(筆者注:『我が社のことは、部外者からは分からない』)とかいった思い込みもそうです。
こうした考え方の基盤には、人の幸不幸は『お金じゃない』『お金では割り切れない』という考え方があるのです。つまり『お金の原理』とは別の『愛の原理』というものがあるのだ、という二元論です」
私が、フィーリングだけでやっている「アメリカ出羽守」経営者と、そのマネー資本主義だけを偏重する機械論的経営を批判するのは、「お金の原理」を否定し、「愛の原理」を実践を説いている訳ではない。
しかし私について、そういう誤解をする人々や、あえてそういう誤解を与える印象を伝える人もいる。「愛の原理」だけで、フリーランスで食べてこれる訳がないのだが。
著者の言うところを正確に読み取ろう。
「ここでいう『お金』は、やや広く資本主義の社会での交換、やりとりの媒体のことをいっているのですが、お金に神座ンできるようなやりとりの原理とは別に『愛の原理』があるかのような考え方は、私からみれば一種の幻想です」
たとえば、私たち日本人は「同じ釜の飯を喰う」という表現をする。
この時点で、その関係は分配の享受という交換の一過程のやりとりを前提としている。
つまり、会社の先輩・同輩・後輩のやりとりに「愛の原理」を見出したとしてもだ、
そもそもその会社の先輩・同輩・後輩であるという前提に「資本主義の社会での交換、やりとりの媒体」が含まれている訳だ。
著者は、「お金の原理」と「愛の原理」を短絡的に対立項とみなす幻想は結構根深い、としてこう述べる。
「法的に家族が不可侵なものであるという原則があるのも一つの原因なのですが、心理学でも、例えば、シュプランガーやフロムといった人が『経済的人格』という考えを使っています。
この場合、お金のやりとりに価値をおく人は、一つの性格類型として特別だ、そう考えているかのようです」
しかし、私は、フロムが一つの性格類型を特別視したとは思えない。
フロムは、集団の構成員が共通する基礎的経験を持ったり共通の生活様式をとる結果,その集団に共通して見い出されるパーソナリティ構造が生まれるとし、それを「社会的性格」と規定した。
フロムは「社会的性格」という概念を提唱して、社会構造の全体がその社会に必要な複数の性格型を決定する、性格形成はその人がどの階級、階層に属するかによって、それにふさわしい要求に基づいて行われるものである、とした。
「経済的人格」もここにおいて解釈すべきだ。
現代の日本では、「その人がどの階級、階層に属するか」ということは、「本人がどのような会社でどのような社員になろうとするか」に相当する。
これには本人の自発性と、会社の誘導性が両方が関与する。
そして会社である以上、「経済的人格」が優先される。損をしてまで「愛の原理」を全うする訳にはいかない。
しかし、「経済的人格」を優先させることと、他の人格を捨象することはイコールではない。
本音イコールで結びたがるのが、行き過ぎた機械論的な組織や制度なのである。
しかし現代世界では、「社会起業家」の存在など、企業がその存在と社員の生活を維持しながら社会に貢献することが可能なのは、すでに人々の知る所となっている。
これまで資本主義を社会貢献に活用する会社が少なかっただけなのだと私は思う。
世の中は、そういう会社があってもいいのではないか、あった方がいいのではないかという方向に変わりつつある。
ただ、従来型の会社にとって、そのように変容することは必ずしも容易ではないし、漠然と思い描くだけで自動的に変容していくものでもない。
そういう時、「経済的人格」にありながらイレギュラーに「愛の原理」にのっとって発生してしまった、先行指標となるハプニングの経緯や結果に注目すべきだ。
そして、そんなことをしでかした人間は、従来の常識からすると「経済的人格」が「欠けている」、「経済的人格」からすれば「変だ」と見えのである。