NHK古代史スペシャル「卑弥呼編」についての個人的感想 |
NHK古代史スペシャル卑弥呼編を見る。
なんと、
①ヤマト王権の最初の王が卑弥呼だった
②卑弥呼がその外交手腕で
呉と対立する魏に味方することを条件に魏を後ろ盾とした
という結論で、唖然とした。
一貫して、神武東征譚を捨象し、天孫族=「濊人」が、「テュルク族」の連合政府「邪馬台国」を倒した征服王調説をスルーしている。
で、
①は、先日触れた自民党女性議員の物言いに合致している
ということに気づいた。
番組は、
卑弥呼が率いたのが「テュルク族」の「くに」ぐにであることもスルー。
鳥取県の青谷上地遺跡の鉄製武器で負傷した人骨が縄文人と中国人の混血だったことに触れて、あたかも卑弥呼が率いた「くに」ぐにの人々が同様の混血であったような印象を与えている。
負傷人骨は、「テュルク族」が連合政府「邪馬台国」を建てた後、産鉄地帯の吉備に侵攻して「くに」を建て、さらに島根半島東部の産鉄地帯への侵攻をはかるも「出雲族」に撃退された際、主戦場となった手前の防衛線であり、負傷人骨は共生した「出雲族」と「縄文人」の混血のものと考えられる。
卑弥呼が「テュルク族」であることや、征服王朝を建てたのが朝鮮半島由来の「濊人」であることは、国粋主義からは不都合な真実なのだろう。
纏向は「邪馬台国」の本拠地だったが、神武東征でこれを下した初期ヤマト王権の本拠地にスライドした。箸墓古墳は、埋葬者や副葬品を調査すれば、「邪馬台国」のものか初期ヤマト王権のものか分かるが、宮内庁が調査を許さない。人骨の遺伝子解析ができる今日では、なおさら許さないのではないか。(戦前も、天皇家は朝鮮由来と話した宮様が異端視された。)
②は、中国の学者が出て来て解説していた。
しかし、詳細はすでに論じたので省くが、韓国の学者であればまったく違う説を唱えた筈だ。魏が遼東郡の公孫氏政権を破ったのと、「邪馬台国」の最初の朝貢は、同じ年、238年。つまり、卑弥呼が遣使して朝貢しようと準備していたのは公孫氏帯方郡だったが、実施段階でそれを破った魏になり、まだ魏が楽浪郡・遼東郡を修復中だったので直接の魏朝貢となった。その際、下賜された金印は仮とされ、朝貢の二年後の240年に帯方郡からの使者が来訪して詔書と印綬を拝受させている。
また、
魏と敵対した呉の孫権は、遼東郡や帯方郡の実効支配者公孫氏と連携して挟撃を図った。その際、呉を故地として交易関係のあった「安曇氏」の本拠地北部九州に水軍を送って橋頭堡とするつもりだった。二人の将軍に水軍をまかせて南西諸島から向かわせたが、彼らは途中で航海不能と判断して帰還し死刑に処されている。これはとても不自然な経過で、交易相手の呉や公孫氏帯方郡にもいい顔をしながら、後ろ盾である魏との関係を守ろうとしていた「安曇氏」が水先案内人を買って出ての工作だった可能性がある。
つまり、
呉に敵対する魏に味方することで魏を後ろ盾にしたのは「安曇氏」だった。しかし中国の学者は、倭=卑弥呼という中国史書の設定を単純に踏まえているようだ。
「邪馬台国」と「狗奴国」の対立については、「狗奴国」が東日本の勢力と単純化しているが、そもそもは南九州に上陸(天孫降臨)した「濊(わい)人」が陸戦隊化した山野系縄文人「熊襲」と海戦隊化した海洋系縄文人「隼人」に建てさせた軍事国家で、「邪馬台国」の魏朝貢交易の中継拠点とした宇佐の「女王国」を発着する交易船を襲撃していて、「安曇氏」の軍船が護衛するも被害甚大で、卑弥呼は窮状を魏に訴えている。これがいわば神武東征の前哨戦で、神武東征では最初に宇佐が陥落し、次に筑紫=北部九州の「安曇氏」の本拠地が陥落している。
「狗奴国」は東海・関東にも展開し、「テュルク族」の勢力圏の近畿地方を、瀬戸内地方からの東征軍と挟撃する体制をとった。
ただし、この段階で、軍事勢力としての強勢に専念した「狗奴国」が東日本で前方後方墳を造営したとは考えにくい。初期ヤマト王権が成立した後の3世紀後半、九州の「熊襲」「隼人」が中央政権への離反勢力となったように、東海関東の「狗奴国」の残党が蝦夷(えみし)になって、越中や中部内陸部や東北の勢力と同盟して、初期ヤマト王権が標準化した前方後円墳と差別化した前方後方墳を対抗勢力の共通墓制としたと考えられる。
(九州豪族の形成だけでなく、東日本の前方後方墳を共通墓制とした連合の形成も、土着化した「濊(わい)人」首長層が主導した可能性が高い。彼らは騎馬武力に加えて鉄器(武器や開墾具)の調達力を保持したと考えられる。中央政権に対する不満からの離反という観点から、九州豪族には西北部九州の縄文人交易民の「倭人」も参加し、東日本の連合には、東海・関東にとどまった「阿多隼人」や越中に逃れた「出雲族」本流(自由貿易前提のベンチャー型交易者)の残党も参加し、それぞれが活発な対外交易を担ったと考えられる。しかし4世紀、東日本もヤマト王権が統べるようになっていった。東日本の前方後方墳の分布が、前方後円墳に塗り替えられていくのはこの時期である。それは卑弥呼が死んだ248年より、つまりは卑弥呼が「狗奴国」と戦った後、少なくとも半世紀以上、後のことなのである。番組の構成はこの点、誤解を誘っているように感じる。)
番組は、
神武東征、初期ヤマト王権の樹立、その後のヤマトタケルの西討東征譚に暗示される対抗勢力の征伐という時系列的文脈については、敢えて触れない曖昧戦略をとることで、なんとなく筋が通っているように感じる卑弥呼譚、狗奴国譚を構成している。
【その2】
NHK古代史スペシャル卑弥呼編をみた感想を、昨夜、番組を見た直後に日記に書いた。(*後にコピペ掲載)
①ヤマト王権の最初の王が卑弥呼だった
という結論に唖然としたが、
それが最近耳にした自民党女性議員の国粋史観であることに気づいた。
戦前、ある宮様が天皇(大王)の血統について朝鮮から来たと言っていた、
がその言説は異端視されたと言う。
私はこのことをネットで読んだが、今はそのデータに行きつかない。
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/a3bb658b78220158c6c4a0f51003d191dea633e1
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jorient1955/1/1/1_1_1/_pdf/-char/ja
https://www.yomiuri.co.jp/koushitsu/20221215-OYT1T50231/
戦後、東洋史学者の江上波夫が騎馬民族征服王朝説を打ち出している。
考古学的発掘の成果と『古事記』『日本書紀』などに見られる神話や伝承、さらに東アジア史の大勢、この3つを総合的に検証した考古学上の説で、
東北ユーラシア系の騎馬民族が、南朝鮮を支配し、やがて弁韓を基地として日本列島に入り、4世紀後半から5世紀に、大和地方の在来の王朝を支配し、それと合作して征服王朝として大和朝廷を立てたとする。
私個人的には、この説の大枠に賛同し、「濊(わい)人」諸派の首長層の朝鮮半島北半から南半へさらに西日本へという、転住して定着できなかったものがさらに転住したという形で捉えている。
「濊(わい)人」首長層には、百済を建てたもの、新羅を他民族勢力と支配層を構成して建てたものがいて、西日本では大和地方で初期ヤマト王権を建てた「濊(わい)人」首長層以外にも、吉備地方、西北部九州に定着した「濊(わい)人」首長層がいて、朝鮮半島の「濊(わい)人」首長層と連携したと捉えている。そうすると、大和と吉備の対立、九州豪族の新羅との連携、天智天皇が百済復興を助けて白村江の戦いをしたことなどが符号してくる。
初期ヤマト王権は、最大の豪族に過ぎず、実質的には地方分権の縄張り体制だったが、雄略天皇が中央集権化したとされる。こうした経緯の背景にも、西日本の「濊(わい)人」首長層同士の競合や対立があったと捉えている。
戦前の宮様の発言、戦後の朝鮮由来の騎馬民族征服王朝説、ともに国粋史観から全否定されるものだった。
手塚治虫が『火の鳥 黎明編』でモチーフにし、一般の人々や一部のマスメディアなどで広く支持を集めたが、学会では多くの疑問も出され支持する専門家は少数派にとどまっている。
しかし、「邪馬台国」の本拠地でありそれを下した初期ヤマト王権の本拠地にスライドした纏向の箸墓古墳を調査すれば、それがどちらの政権下の誰の古墳かがハッキリするのだが、宮内庁はずっと拒んて来ている。遺伝子調査の発達した現在では、人骨から民族が明らかになる。だから余計に拒み続けるのだろう。
学会は、戦前戦後を通じて、国の意向を忖度しているように感じる。
次回のNHK古代史スペシャルは、倭の五王編だという。
典型的な国粋史観の内容は、例示すると、以下のような天皇朝鮮由来説を全否定するものとして構成されている。
>『日本書紀』や『古事記』には九州出身の神武天皇が大和の国で建てた小国が発展したと書いている。
>中国の正史にも「畿内から出て東国・西国・半島南部を征服した」とする雄略天皇とみられる倭王武の手紙が紹介されている。
つまり、
南九州に上陸したのではなく、天から降ってきたかのように「南九州に発した」とする。
考古学的に実在が確定している第21代の天皇をもって「畿内から出た」とする。
おそらく、次回のNHK古代史スペシャルの倭の五王編も、この文脈にそうものなのだろう。
卑弥呼編では、「邪馬台国」の所在地について九州説(吉野ヶ里)と近畿説を両論併記していた。これも、天皇九州発生説を擁護しているとも言える。
ちなみに私個人的には、「邪馬台国」の魏朝貢交易を補佐する立場になった「安曇氏」(魏の外臣化して出先機関として「伊都国」「奴国」「一大国」を営む)が、その勢力圏である東北部九州の宇佐の地を割譲し、連合国の貢納品(輸出品)の集荷と下賜品(輸入品)の分配をする交易中継拠点となる「女王国」を建てさせたものと捉えている。つまり、「女王国」が九州に、「邪馬台国」が近畿にあったという説である。
(吉野ヶ里は、呉越同舟の呉の遺臣が五島列島に逃れて海洋交易民となり北部九州に渡来した遠隔地交易民の「安曇氏」と別れた、稲作定住民化した人々が大規模稲作拠点を群展開した地と捉える。元同族の「安曇氏」とは内陸平野部で隣接するが、異なる職能民と体制で一線を画し、遠隔地交易民としては「出雲族」と交易し、領内に仮設工房を設けて青銅器生産をさせ、その九州拠点となった。駆逐した縄文人との紛争があり専守防衛の自衛力を持ったが、軍事力は中国の巨大「領域国家」を後ろ盾に水軍を持った「安曇氏」よりも劣ったと考えられる。おそらく、「濊(わい)人」の有明海からの南九州上陸(天孫降臨)の時点で、それに支配されたと考えられる。「濊(わい)人」を一貫してバックアップした、朝鮮半島南端と西北部九州沿岸を拠点として行き来した縄文人交易民の「倭人」、その後者の本拠地が松浦地方であり、弁辰人に建てた「末盧国」が、「濊(わい)人」の南九州上陸の橋頭堡ないし兵站となった筈で、それに隣接する吉野ヶ里の地はすぐに支配下に収められたと考えられる。)
番組を見て、昨夜から考えたことを振り返ると、
やはり「安曇氏」というキー・ファクターについての理解が普及していないことが問題だと改めて思った。
57年に、倭奴国が金印を授与されている。これは後漢(25年〜220年)の成立に対応した「安曇氏」のそれを後ろ盾にしようとする動きの帰結だった。
「安曇氏」は、同様の対応を魏(220年〜265年)の成立に対してもした筈である。
ただ、事情を複雑化しているのが、黄巾の乱(184年〜)を契機に遼東郡太守の公孫氏(度)が独立政権を打ち立て帯方郡(204年〜313年)を設置していることだ。そして238年に魏が遼東政権を破っている。この同じ年に、卑弥呼が魏に使者(難升米)を遣わして最初の朝貢をして親魏倭王の仮の金印をもらっている。その2年後の240年に、楽浪郡・帯方郡の修復を終えた魏が、帯方郡から使者を送って詔書と印綬を倭王に拝受させている。卑弥呼は、朝貢(朝謁)を公孫氏帯方郡を前提に準備していたが、実施の段階でそれが混乱消滅しかかっていて相手を魏直接に切り替えたものと考えられる。
重要なのは、それに先立って帯方郡設置以前から魏楽浪郡を「安曇氏」が後ろ盾にしていたことである。
私個人的には、
「安曇氏」が北部九州に渡来したのは紀元前400年前後で、元々いた先住民の「倭人」と先行した「出雲族」と共生し、温帯ジャポニカ米の乾田稲作をする大規模稲作拠点の群展開が制限された。そこで、越(〜紀元前334年/306年)の宰相を辞した范蠡の稲作民を率いた山東半島南西での稲作拠点開拓の成功を受けて、紀元前300年前後、その北限北上のノウハウを持つ越遺民の稲作民を(「出雲族」の勢力圏の向こうの)越中に入植させている。
つまり、「安曇氏」は北部九州に渡来したものの、そこを本拠地として占有するには至っていなかった。
それが、北部九州(博多湾地方〜筑紫平野〜宇佐)を占有し、「倭人」を西北部九州へ、「出雲族」を関門海峡の向こうの本州西端に追いやる。
このような大転換の契機となったのは、紀元前108年に前漢武帝が朝鮮の直接経営に乗り出した「漢四郡」の設置に呼応して、「安曇氏」が勝手連的に楽浪郡の外臣化しその出先機関として「伊都国(行政交易拠点)」「奴国(大規模稲作拠点)」「一大国(軍事拠点)」を建てたこと以外にありえない。
つまり、紀元前の段階で、「安曇氏」は前漢楽浪郡を後ろ盾にしていた
と考えている。
前漢が、重臣王莽により簒奪され一旦、滅亡したのが紀元後8年。後漢(25年〜220年)として復興したのが25年。これへの対応は、前体制の復興だからスムーズにいき、57年の倭奴国への金印授与は、楽浪郡への勝手連的な外臣化と出先機関化ではなく、後漢直接の正式承認への昇格だったと言えよう。
後漢が滅んで魏呉蜀の三国時代(220年〜280年)となるが、この時の「安曇氏」は、故地である呉との交易を継続しつつ、後漢楽浪郡との関係性を魏楽浪郡にシフトさせて対応した。後者は、後漢の体制の三分割への対応だったから、これもスムーズに行ったと考えられる。
つまり、「安曇氏」が魏ないし魏楽浪郡に後ろ盾を鞍替えすることは、220年代、遅くとも230年には完了していたと考えられる。
このため、238年、卑弥呼が「邪馬台国」の最初の魏朝貢を行った時点で、すでに「安曇氏」は魏の外臣であり出先機関として「伊都国」「奴国」「一大国」を営んでいた。
よって、「邪馬台国」が魏の冊封国となった時、自動的に「安曇氏」は「テュルク族」と同盟関係になり、「邪馬台国」の朝貢という外交的交易に続くルーティンの管理貿易においてこれを補佐する立場になった。
それまで西日本では、北部九州を中心とする「安曇氏」の勢力と、近畿を中心とする「テュルク族」の勢力が、排他的領域を主張する二大勢力(領域国家の管理貿易前提にそれを固定階層として独占する政商型交易者)として対峙していた。その中間ゾーンに、島根半島西部を環日本海交易ネットワークのハブ拠点として自由貿易前提のベンチャー型交易者(ビジネスモデルを構想しては適宜に環日本海各地の同盟者とネットワークを組む)として遠隔地交易を展開する「出雲族」が、排他的領域を主張しない非政治的・非軍事的勢力として展開していた。
排他的領域を主張する二大勢力の同盟化によって、結果的に、魏志倭人伝が記すような大勢の小国群の連合が成った訳だが、西日本の九州側西半は魏外臣である「安曇氏」配下の「くに」ぐにだった。
NHK古代史スペシャルの卑弥呼編では、
②卑弥呼がその外交手腕で
呉と対立する魏に味方することを条件に魏を後ろ盾とした
という結論だったが、以上のような「安曇氏」の経緯からすれば、それはツッコミ所満載のあり得ない話だった。
特に卑弥呼の外交手腕、というのが問題外で、実際の政治は(「くに」ぐにの兄弟王たちの末子で姉女王共立を打ち出したと思しき)卑弥呼の弟の吉備の王や、魏朝貢に洛陽に向かったり神武東征軍を大阪湾で大敗させた宰相難升米が行っていた。魏が外交手腕を買っていたのは難升米であり、魏は黄幢(王の象徴色の旗指物、正規軍を指揮する証)を難升米に授与している(245年、卑弥呼が死ぬ248年の3年前)。
NHK古代史スペシャルの卑弥呼編は、
①ヤマト王権の最初の王が卑弥呼だった
という結論を含めて、卑弥呼像を極端に誇大化する意図的な脚色が感じられる。/
【その2】
NHK古代史スペシャル卑弥呼編を見る。
なんと、
①ヤマト王権の最初の王が卑弥呼だった
②卑弥呼がその外交手腕で
呉と対立する魏に味方することを条件に魏を後ろ盾とした
という結論で、唖然とした。
一貫して、神武東征譚を捨象し、天孫族=「濊人」が、「テュルク族」の連合政府「邪馬台国」を倒した征服王調説をスルーしている。
で、
①は、先日触れた自民党女性議員の物言いに合致している
ということに気づいた。
番組は、
卑弥呼が率いたのが「テュルク族」の「くに」ぐにであることもスルー。
鳥取県の青谷上地遺跡の鉄製武器で負傷した人骨が縄文人と中国人の混血だったことに触れて、あたかも卑弥呼が率いた「くに」ぐにの人々が同様の混血であったような印象を与えている。
負傷人骨は、「テュルク族」が連合政府「邪馬台国」を建てた後、産鉄地帯の吉備に侵攻して「くに」を建て、さらに島根半島東部の産鉄地帯への侵攻をはかるも「出雲族」に撃退された際、主戦場となった手前の防衛線であり、負傷人骨は共生した「出雲族」と「縄文人」の混血のものと考えられる。
卑弥呼が「テュルク族」であることや、征服王朝を建てたのが朝鮮半島由来の「濊人」であることは、国粋主義からは不都合な真実なのだろう。
纏向は「邪馬台国」の本拠地だったが、神武東征でこれを下した初期ヤマト王権の本拠地にスライドした。箸墓古墳は、埋葬者や副葬品を調査すれば、「邪馬台国」のものか初期ヤマト王権のものか分かるが、宮内庁が調査を許さない。人骨の遺伝子解析ができる今日では、なおさら許さないのではないか。(戦前も、天皇家は朝鮮由来と話した宮様が異端視された。)
②は、中国の学者が出て来て解説していた。
しかし、詳細はすでに論じたので省くが、韓国の学者であればまったく違う説を唱えた筈だ。魏が遼東郡の公孫氏政権を破ったのと、「邪馬台国」の最初の朝貢は、同じ年、238年。つまり、卑弥呼が遣使して朝貢しようと準備していたのは公孫氏帯方郡だったが、実施段階でそれを破った魏になり、まだ魏が楽浪郡・遼東郡を修復中だったので直接の魏朝貢となった。その際、下賜された金印は仮とされ、朝貢の二年後の240年に帯方郡からの使者が来訪して詔書と印綬を拝受させている。
また、
魏と敵対した呉の孫権は、遼東郡や帯方郡の実効支配者公孫氏と連携して挟撃を図った。その際、呉を故地として交易関係のあった「安曇氏」の本拠地北部九州に水軍を送って橋頭堡とするつもりだった。二人の将軍に水軍をまかせて南西諸島から向かわせたが、彼らは途中で航海不能と判断して帰還し死刑に処されている。これはとても不自然な経過で、交易相手の呉や公孫氏帯方郡にもいい顔をしながら、後ろ盾である魏との関係を守ろうとしていた「安曇氏」が水先案内人を買って出ての工作だった可能性がある。
つまり、
呉に敵対する魏に味方することで魏を後ろ盾にしたのは「安曇氏」だった。しかし中国の学者は、倭=卑弥呼という中国史書の設定を単純に踏まえているようだ。
「邪馬台国」と「狗奴国」の対立については、「狗奴国」が東日本の勢力と単純化しているが、そもそもは南九州に上陸(天孫降臨)した「濊(わい)人」が陸戦隊化した山野系縄文人「熊襲」と海戦隊化した海洋系縄文人「隼人」に建てさせた軍事国家で、「邪馬台国」の魏朝貢交易の中継拠点とした宇佐の「女王国」を発着する交易船を襲撃していて、「安曇氏」の軍船が護衛するも被害甚大で、卑弥呼は窮状を魏に訴えている。これがいわば神武東征の前哨戦で、神武東征では最初に宇佐が陥落し、次に筑紫=北部九州の「安曇氏」の本拠地が陥落している。
「狗奴国」は東海・関東にも展開し、「テュルク族」の勢力圏の近畿地方を、瀬戸内地方からの東征軍と挟撃する体制をとった。
ただし、この段階で、軍事勢力としての強勢に専念した「狗奴国」が東日本で前方後方墳を造営したとは考えにくい。初期ヤマト王権が成立した後の3世紀後半、九州の「熊襲」「隼人」が中央政権への離反勢力となったように、東海関東の「狗奴国」の残党が蝦夷(えみし)になって、越中や中部内陸部や東北の勢力と同盟して、初期ヤマト王権が標準化した前方後円墳と差別化した前方後方墳を対抗勢力の共通墓制としたと考えられる。
(九州豪族の形成だけでなく、東日本の前方後方墳を共通墓制とした連合の形成も、土着化した「濊(わい)人」首長層が主導した可能性が高い。彼らは騎馬武力に加えて鉄器(武器や開墾具)の調達力を保持したと考えられる。中央政権に対する不満からの離反という観点から、九州豪族には西北部九州の縄文人交易民の「倭人」も参加し、東日本の連合には、東海・関東にとどまった「阿多隼人」や越中に逃れた「出雲族」本流(自由貿易前提のベンチャー型交易者)の残党も参加し、それぞれが活発な対外交易を担ったと考えられる。しかし4世紀、東日本もヤマト王権が統べるようになっていった。東日本の前方後方墳の分布が、前方後円墳に塗り替えられていくのはこの時期である。それは卑弥呼が死んだ248年より、つまりは卑弥呼が「狗奴国」と戦った後、少なくとも半世紀以上、後のことなのである。番組の構成はこの点、誤解を誘っているように感じる。)
番組は、
神武東征、初期ヤマト王権の樹立、その後のヤマトタケルの西討東征譚に暗示される対抗勢力の征伐という時系列的文脈については、敢えて触れない曖昧戦略をとることで、なんとなく筋が通っているように感じる卑弥呼譚、狗奴国譚を構成している。/