(11)
https://cds190.exblog.jp/33459899/からつづく。
縄文晩期までの時代区分ごとの日本語の各種特徴の発生
日本語の各種特徴の起源は、さまざまな時代に遡る。
それを古い順に上げていこう。
①ホモ・サピエンスは6万年ほど前にアフリカを出て
日本列島に到達したのは4〜3万年前で
その間を起源とする特徴
何らかの自然環境の変化に対峙して、ネアンデルタール人が絶滅した時(約3万年前)、新人をサバイバルさせたのは、単なるいわゆる言語能力の過不足ではなかった。一説には、人類は言葉を持つ前に音楽を持ったという捉え方があり、私もこれをとる。新人をサバイバルさせたのは、
(包み込む)「母性原理」の広義の言語に位置づけられる、集団での踊りや音立ての類による集団コミュニケーションであり、これが集団を共生に導いた。哺乳類が鳴き声で、鳥が囀りで互いに何かを伝え合う、そういう動物的な本能の発露と言えよう。その後、自然の脅威や、人間同士の競合や敵対といった他者の脅威を、人間同士の共生や協働によって乗り越えさせたのは、この集団での踊りや音立ての類による集団コミュニケーションで共生した上での
(分け隔てる)「父性原理」の狭義の言語に位置づけられる、話し言葉による集団コミュニケーションであったと考えられる。この話し言葉も、動物的な本能の情動によるものから、人間ならではの感情そして思考によるものへと発達していった。このような人類普遍の動向をより具体的に説明するとこうだ。
伝達や理解を目的とする「父性原理」の狭義の言語=話し言葉が根源的に必要かつ有効となるのは、競合ないし対峙する他者への直接的対応力が、集団によるサバイバル能力として求められる段階である。たとえば、ある小集団が大型哺乳類を追いつめたり、追いつめているいる時に他の小集団が遭遇して協力したりした際、協働するために発せられた。一方、ある小集団が大型哺乳類を仕留めて、そこに他の小集団が遭遇した際、共に獲物を分け合って共食した。なぜなら、小集団では食べきれなく腐らせてしまうという理由もあるが、それが、偶発的な遭遇で協力することを促し、結果的に種全体の保存につながるからで、そうした全貌が直感的に(つまりは思考を介さずに半ば本能的な情動によって)共感されたと考えられる。この直感的な共感に向かうコミュニケーションが、「母性原理」の広義の言語=集団での踊りや音立ての類による集団コミュニケーションであった。このことは、現代世界の人々の間でもそのように現象している。
(踊りや音立ての類は、仕留めた大型哺乳類を共食する祝宴から生まれた可能性がある。 ちなみに、昭和まで、一般庶民の男性が宴席で合唱しながら茶碗を箸で叩くという光景を見かけた。私は、父親のそういう光景を見たことは無かったが、テレビや映画で見かけたのだろう。大学の同好会の宴席で仲間とそのようにして盛り上がった。酒を飲み始めたばかりの誰もが違和感なくやれたのはその文化的遺伝子を共有するからで、ひょっとするとその起源は旧石器時代の人類にまで遡り、何らかの理由から日本人はその文化的遺伝子を損なわないできたのかも知れない。)
しかし、獲物=食物を保存することができるようになると事情が変わってくる。正確には、ある集団が仕留めた獲物を保存しなくても、獲物が棲息するエリアを縄張りとして排他的に占有するようになった段階で、事情が変わってきた。食物に関して、共同の管理や分配や物物交換をめぐる集団内の人間関係、縄張り、競合、争奪、交易をめぐる集団同士の関係が浮上してくる。そこで、対内的・対外的な伝達や理解を目的とする「父性原理」の狭義の言語=話し言葉が発達してくる。
ここで、ユーラシア大陸からオセアニアや日本列島、同大陸極北や北米大陸に移動した人類と、同大陸の所々に滞留した人類とでは、志向性に違いがあった。人類は時間空間を超えて、以下のように普遍的に大きく2つに分かれた(2つの系統の文化的遺伝子を持った)と言える。同大陸の所々に滞留した人類は①豊かで交通便利な土地での回遊や定住に執着し、同様の者同士で競合し相手を追い出すか取り込むか取り込まれるかしたものであり、
移動し続けた人類は②豊かな土地ではなくても競合のない交通不便な遠隔地に新天地を求めて転住を繰り返したもの(最終的に閉鎖的な最僻地で回遊ないし定住)である。そして、後世を含めた人類全体のおおよその傾向として、
①が(分け隔てる)「父性原理」のサバイバルで、家父長制の「父系社会」を形成
②が(包み込む)「母性原理」のサバイバルで、家母長制の「母系社会」を形成
前者①において、・
伝達や理解を目的とする「父性原理」の狭義の言語=話し言葉が発達
・父系遺伝子であるY染色体の変異との相関の方が密接
後者②において、
・「母性原理」の広義の言語=集団での踊りや音立ての類による集団コミュニケーションを固守
・母系遺伝子であるミトコンドリアDNAの変異との相関の方が密接
と整理できる。
ここで、
ユーラシア大陸からオセアニアや日本列島、同大陸極北や北米大陸に移動した人類
に含まれる
・旧石器時代に極東の日本列島相当地に至っていた「縄文人の前身」
・新石器時代に閉鎖空間化した日本列島に閉じ込められた「縄文人」
は後者②である。
ちなみに、
日本人で2番目に多いミトコンドリアDNAの「ハプログループB」は、約4万年前に中国南部で誕生したと推定され、中国南部から東南アジアにかけて人口に占める割合が多い。また、東アジア以外にも南米の山岳地域や南太平洋といった最僻地にも多く見られる。
・南米の山岳地帯の「ハプログループB」は、15000年以上前に、大陸の沿岸地帯を伝って新大陸に渡ったグループ
・南太平洋の「ハプログループB」は、約6000年ほど前に東南アジアから海洋進出していったグループ
と考えられている。
日本列島への人類到達は南北、複数のルートがあった。
石垣島で見つかった約2万年前の白保人(白保竿根田原洞窟遺跡)は、人骨分析の結果、柳江人(中華人民共和国広西チワン族自治区柳江の通天岩洞窟で発見)・ワジャク人(ジャワ島東部トゥルンガグン近くのワジャクの石灰岩断崖で出土)などの南方の集団と似ていることが明らかになっている。
白保人と縄文人は、ゲノムが6割ほど共通し、縄文人は4割ほどが大陸の北からやってきた人たちのものであるという。
いずれのルートからの日本列島相当地に到達した人類も、
②豊かな土地ではなくても競合のない交通不便な遠隔地に新天地を求めて転住を繰り返したもの
であり、
新石器時代にかけて閉鎖空間化した日本列島相当地において長い年月をかけて混交して縄文人となったとされている。
つまり、
日本列島各地の縄文人が話した縄文語は、
・「母性原理」の広義の言語=集団での踊りや音立ての類による集団コミュニケーションを固守
という大枠の傾向の中でその特徴を形成した。
そして、
私たちが今話している日本語にも同様の特徴があるとすれば、
それは日本列島が閉鎖空間化した当初の、容易に通じ合わない互いに遠隔の縄文人同士が通じ合うために工夫された「交易縄文語①」を起源とする
と考えられる。
(無論、それが具体的にどんな言語だったかは知る由もないが、
言語を成立させたパラダイム(基本的な考え方の枠組み、無自覚的および意識的)はそのようなものだった、ということである。
以下、同様の推論を繰り返していくが、それは単なる抽象的な観念論ではない。
たとえば、
「歌垣」や「走婚」「通い婚」「夜這い」の分布は、約4万年前に中国南部で誕生した「ハプログループB」の分布に重なる。
大陸と日本列島はほぼ地続きだった旧石器時代、「縄文人」の前身と彼らが話した「縄文語」の祖語は、この分布に重なる形で移動および伝播をし、人種的および方言的な差異を伴ってグラデーション的に連鎖した可能性がある。
また、
世界の言語で、日本語とポリネシア語だけが母音主義であり、ハワイ語など日本語と同様に述語主義である(ただし、ハワイ語は膠着語ではなく孤立語、SOVではなくVSO)。
約6000年前に東南アジアから海洋進出していった「ハプログループB」のグループの一部が、中国南部沿岸〜南西諸島経由で日本列島に至り、他の一部がフィリピン諸島〜ミクロネシア・メラネシア経由でポリネシアに至ったため、約6000年前以降の縄文人が話した縄文語には、祖語をポリネシア語と共通するものがあった可能性がある。これについては、縄文時代中期に工夫された「交易縄文語②」との関連で検討したい。)
②新石器時代に入った縄文時代草創期・早期
を起源とする特徴
それは、
縄文人と同じく
②豊かな土地ではなくても競合のない交通不便な遠隔地に新天地を求めて転住を繰り返したもの
である北米大陸に至ったインディアンの内の
新石器段階の北西海岸やカリフォルニア地方のインディアンとの異同から明らかになる。
その比較検討の前に、縄文時代草創期・早期とはどのような時代だったのか確認しておこう。
草創期の始まりの16000年前は、最終氷期だった。海面が120〜130メートル低下し大陸棚の多くが陸化していた最終氷期最盛期は遠の昔に過ぎていたが、未だ海面の低下は50メートルほどあったとされる。
土器の出現によって、肉や魚貝を煮たり、クリやドングリをアク抜きするようになっていた。
13500年前に寒の戻りがあり、11500年前の早期から本格的な温暖化が始まる。
食生活や豊かになり竪穴式の定住生活が始まり、そして大型集落での集住も起こる。
狩猟採集民が(農耕段階を経ずに)定住する例は世界では稀とされるが、北米大陸の北西海岸やカリフォルニア地方の新石器段階のインディアンもその点は同じであり、縄文人との共通性が指摘されている。
(ちなみに、
日本列島におけるダイズ・アズキの豆類栽培の始まりは縄文中期以降(5500年前以降)とされ、
北米大陸におけるトウモロコシ栽培は、一説にはメキシコで8700年前に始まり、7000年前に大規模化したとされ、その後にインディアンに北上伝播しているから、
両者はざっくりと同時代の後世のことになる。)


+2度の温暖化をして海面が+2.5メートル上昇し、魚や貝の漁獲が増えて食糧事情が向上して人口が爆発的に拡大、縄文文化が開花した。
台地を居住地として集住し環状集落が出現し、その周辺でウルシ林を植林する。川沿いの低地に水場、作業場、クルミ塚が出現し、漆塗りの土器が製作された。
(日本最古の漆工芸製品は「北海道垣ノ島B遺跡」から出土したおよそ9000年前の装身具だが、漆塗りの普及は前期から中期にかけてと言える。)
三内丸山遺跡は、縄文時代前期中頃から中期末葉の大規模集落跡だが、その拠点集落が出現し大規模化したのは縄文時代中期の5000年前〜4200年前である。
私個人的には、
三内丸山の大規模拠点集落は、遼河流域から渡来した新石器時代人の遠隔地交易民が形成した遠隔地交易のハブ拠点だった
ほぼ同時代のイネの痕跡を残す天草の大矢遺跡、岡山の朝寝鼻遺跡も、長江流域から渡来した新石器時代人の遠隔地交易民が形成した遠隔地交易拠点だった
彼らは、交易拠点で縄文人と、そして列島東西の遠隔地交易民同士でコミュニケーションするに際して「交易縄文語②」を工夫した。
と捉えている。
東北北部の三内丸山を拠点集落として大規模化した縄文時代中期の(一般的にそう呼ばれる)縄文人について、
新石器段階の北西海岸のインディアンとの異同がその特徴として指摘できる。
ともに海産資源と森林資源が豊かで、狩猟採集段階で(農耕段階を経ずに)定住拠点を形成し大規模化している。
ちなみに、
三内丸山遺跡は、東京ドーム約9個分であり、大型掘立柱建物がある。直径1メートルのクリの木を育てるには200年以上かかり、計画的な植林が推察されている。このような状況は、文明文化が先進した大陸由来の遠隔地交易民が海産と森林の原材料資源が豊かな地に渡来したことで可能になったと考えられる。
そして、東日本では下図に示すような交易が発展した。

北西海岸も海産と森林の原材料資源が豊かな地で、その地を交易拠点としたインディアン部族が、遠隔地交易民になっている。
(詳しくはすでに
どのような「縄文語」が「和語→日本語」の土台となったのか?(7)
で検討したので、そちらを参照していただきたいが)
ポイントは、原材料資源が豊かな地の遠隔地交易民は、自らが産品を求めて遠隔地に出向くのではなくて、遠隔地の交易民の方が各地からやってくるということである。
この点が、北西海岸の特に資源豊かな地のインディアン部族と、東北北部に大規模な交易ハブ拠点を成した三内丸山の(一般的にそう呼ばれる)縄文人とで共通している。
両者ともに、ハブ拠点の部族の方が文明文化が先進し、そこにやってくる各地の部族の方が文明文化が後進している。
北西海岸の特に資源豊かな地のインディアン部族は、そもそもそこに到達して滞留した部族(先住民の縄文人に相当)ではなく、後から渡来した遠隔地交易民(遼河流域由来の遠隔地交易民に相当)だった可能性もある。北米インディアンの全体の部族群の中で、北西海岸の部族の文明文化は際立った様相を示している(日本列島全体の縄文人の中の三内丸山の縄文人と重なる)。
ただし、両者には大きな違いがある。
両者ともに、交易を「贈与」経済で行なっていて、共通語としての交易語をそのパラダイムで形成したと考えられる一方、
その「贈与」経済の発展方向が大きく違った。
「贈与」経済は「負い目感情」の経済であり、その交易は、ある産品を持ってくるのにどれだけ苦労したか、その産品をもらってどれだけ有難いかを感情として吐露し合い、互いの「負い目感情」を相殺する方向に向かう。送り手側と受け手側による共食や饗宴がそのようなコミュニケーションの儀礼や祝祭の場となった。
時代が降ると、「贈与」経済の交易が交易関係を締結したり維持するための祝祭的な儀礼となり、その後に「交換」経済の交易がルーティンの活動として続くようになるが、ポトラッチやクラなど両者は峻別され続けた。
新石器時代ないし新石器段階の「贈与」経済の交易は、大枠としてこのような枠組みにあるのだが、
大規模な交易ハブ拠点を展開した三内丸山の縄文人と、北西海岸のインディアンでは対照的な方向に向かっていく。
北西海岸のインディアンでは、
部族間・部族内部で入れ子構造で展開したポトラッチという「贈与」競争が示すように、「贈与」経済が競争的な形で発達し、富によって地位が決まる階層社会化が進んでいく。
そしてそれは金属器時代段階にも継承され継続し、結果的にインディアン部族は近代にまで存続した。
一方、
三内丸山は、4200年前(縄文中期末葉)に消滅している。一般的には、(縄文後期の)気候変動のためと言われる。
しかし私個人的には、
際立って大規模な三内丸山の交易ハブ拠点は、遼河流域由来の新石器時代人の遠隔地交易民が展開したものであり、
遼河流域の一連の新石器文化を「遼河文明」と総称するが、その変容によって遠隔地交易の対象が東方から西方に転じたためではないか
と考えている。
具体的には、
西遼河上流の支流、潢水および土河の流域に紀元前4700年頃〜紀元前2900年頃(6700年前〜4900年前)に存在した紅山文化の段階で、農業が主で、家畜を飼育しての畜産も発達しておりブタやヒツジが飼われ、一方で狩猟や採集などで野生動物を狩ったり野草を採ったりする社会となっていた。記念碑的な建築物の存在、また様々な土地との交易の証拠から、この時期には先史時代の「首長国」「王国」があったと考えられていて、後期の遺跡からは青銅の環も発見されている。国家形成のために必要とされる遠隔地交易は、文明文化が先行する西方に向かった筈である。
さらに、
「遼河文明」は、紅山文化の後は、900年ほど間が空いて、夏家店下層文化(4000年前〜3500年前)・同上層文化(3100年前〜250年前)になる。
この900年ほどの間に何があったか。
遼河流域は、12000年前頃から4000年前頃までは豊かな水資源に恵まれており、深い湖沼群や森林が存在したが、約4200年前頃から始まった気候変動により砂漠化した。このために約4000年前頃から紅山文化の人々が南方へ移住し、後の中国文化へと発達した可能性が指摘されている。
つまり、
三内丸山に大規模交易ハブ拠点を成した遼河流域由来の遠隔地交易民がその周縁を担った極東交易連鎖の中心が解消してしまった、そのための三内丸山の撤退がその消滅だったと考えられる。
長い歴史スパンから俯瞰すれば、
三内丸山の大規模拠点集落を形成した縄文人は、容易に拠点を転じることができる「新拠点開拓型の転住民」の遠隔地交易民だった
のに対して
北西海岸の特に海産資源・森林資源が豊かな地のインディアン部族は、「本拠地高度化型の定住民」の遠隔地交易民だった
と言える。
後者が、部族間・部族内部で階層化を厳格化していったことの端緒は、先住民を労働力として後から渡来した遠隔地交易民が支配したことだったのかも知れない。
それに対して
前者は、大規模な交易ハブ拠点では多角的な専門分化とその統合的な運営のために、専門職化する先住民と管理職化する渡来民との共生による共栄が展開した。それは、支配被支配関係ではなく、協働する役割としての指導被指導関係だった。
三内丸山という中心拠点のこのような社会関係は各地の周縁拠点にも伝播していて、交易を介した対外的な部族間関係が対等な協働者同士の水平的な社会を形成した。そしてその文化的遺伝子は、次の縄文後期・晩期の社会にも継承されたものと考えられる。
翻って、
北西海岸の「本拠地高度化型の定住民」の遠隔地交易民だったインディアン部族は、交易を介した対外的な部族間関係が、希少な原材料資源を占有する自分たち上位部族、それを必要として何らかの産品をもたらす中位部族、奴隷しかもたらすものがない下位部族といった階層化=序列化をする垂直的な社会を形成した。
これは、
戦争そして軍事力によって排他的な支配領域を拡大していく「大が小を取り込んでより大となる」累層的構造ではないが
構造的な力学としては全く同じ
交易そして経済力によって自己中心的な経済圏を拡大していく「強が弱を取り込んでより強となる」累層的構造だった
部族間・部族内部で入れ子構造で行われた「贈与」競争であるポトラッチは、こうした社会構造を維持発展させるエンジンだった
と言えよう。
縄文晩期に、日本列島に至った殷遺民の遠隔地交易民を始まりとする「出雲族」が、縄文人と混交しつつ各地の縄文社会をその地域的個性とともに温存して協働するべく工夫した「交易縄文語②」については、追って詳しく検討するが、
ここでは、
「出雲族」の日本列島内交易ネットワークは、三内丸山の交易ハブ拠点とそれを中心とした各地の周縁拠点の社会構造の文化的遺伝子を継承していて、
そこで共通語として工夫された「交易縄文語②」は、共生的な「贈与」経済において形成されたという特徴を持つことだけ指摘しておきたい。
つまり、
縄文前期・中期の縄文人と新石器段階の北西海岸のインディアン部族を比較すると、
・②豊かな土地ではなくても競合のない交通不便な遠隔地に新天地を求めて転住を繰り返したもの
・「母性原理」の広義の言語=集団での踊りや音立ての類による集団コミュニケーションを固守
・②が(包み込む)「母性原理」のサバイバルで、家母長制の「母系社会」を形成
(豊かな海産資源や森林資源に絡む利権の継承は、出自を母系でたどれる家母長の方が安定化する。能力主義・実力主義に向かいがちな出自を父系で辿れる家父長制の方が不安定化しやすい。
インディアン部族でも、原材料資源が乏しかったり、サバイバルのために侵攻略奪を生業とするものは、家父長制の「父系社会」を形成。)
・「贈与」経済の遠隔地交易の大規模ハブ拠点を展開
という多くの共通点を持ちながら、
・北西海岸のインディアン部族が
「本拠地高度化型の定住民」の遠隔地交易民として
競争的な「贈与」経済を発達させて
自己中心的な経済圏を拡大していく「強が弱を取り込んでより強となる」累層的構造を働かせた
のに対して、
三内丸山の縄文人(と呼ばれる遼河流域由来の新石器時代人)は
「新拠点開拓型の転住民」の遠隔地交易民として
共生的な「贈与」経済を発達させて
対等協働的な経済圏を拡大していき水平的な交易ネットワークを充実させていった
以上の経過は、
後の「出雲族」が工夫した「交易縄文語②」の前提パラダイムでありそれを特徴づける土壌となった。
具体的には、
競争的な「贈与」経済の交易では、勝者と敗者が前提となるから、
言語の体系化においてどうしても(分け隔てる)「父性原理」が(包み込む)「母性原理」よりも優勢になる
のに対して、
共生的な「贈与」経済の交易では、対等と誠実が前提となるから、
言語の体系化においてどうしても(包み込む)「母性原理」が(分け隔てる)「父性原理」よりも優勢になる。
これは、<部族人的な心性>の原初的な特徴である◯自他の未分化性が対話構造において展開する日本語の特徴でもある。に求められる。
それは、◯人間と自然の未分化性などとともにそもそもは人類普遍の原初言語の特徴であり、そもそもの列島各地の縄文語、「交易縄文語①」も共有していたが、
金属器時代人で大陸との交易で「交換」経済を知る「出雲族」が工夫した「交易縄文語②」において、客観的な認識をもって選択的な要素を縄文語から抽出して体系的に整理した可能性がある。
先端のものを「花」「鼻」「端」すベて「はな」と呼ぶ和語の「仲間言葉」という明快な体系化などは「交易縄文語②」を起源とするのではないか。
そうであれば、
その言語体系化の土壌となるパラダイムは、拠点集落が出現し大規模化した縄文時代中期の5000年前〜4200年前の三内丸山と、それを遠隔地交易の中心拠点とした列島各地の周縁拠点とで構成した社会に求められる
ということになる。
補足すると、
ほぼ同時代の、大規模交易ハブ拠点となった三内丸山遺跡、資源探索拠点となったと思しき天草の大矢遺跡、岡山の朝寝鼻遺跡、それらを成した大陸由来の新石器時代人の遠隔地交易民が共有した「交易縄文語①」は、工夫した自分たちも金属器時代人ではなく「交換」経済を知らずその点で先住縄文人と同等だったゆえに、客観的な認識をもって選択的な要素を縄文語から抽出して体系的に整理するという認知と表現はできなかった
と考えられる。
以上、縄文前期・中期の主に東日本について検討した。
以下、主に西日本について検討する。
(詳しくはすでに
どのような「縄文語」が「和語→日本語」の土台となったのか?(9)
で検討したので、そちらを参照していただきたいが)
縄文前期直前の7300年前に「鬼界カルデラ」が爆発し、日本列島の旧石器文化の先進地とされる南九州が壊滅。
その被害が落ち着いた前期半ばの6000年前は、海進のピーク「縄文海進」(6500年前〜6000年前)に達していた。
現在に比べて海面が2~3メートル高くなり、 日本列島の各地で海水が陸地奥深くへ浸入し、この時代に各地に複雑な入り江をもつ海岸線が作られた。その後、海面は現在の高さまで低下し、かつての入り江は堆積物で埋積されて比較的広く低平な沖積平野が作られた。
ところが、
約7000年前以降に、海面を数メートルも低下させるような氷床の再拡大を示す地形の証拠は確認されていないことから、
この海退の原因は、氷床が再拡大したためではなく、氷床融解による海水量が増大したことによって海水の重みで海洋底が遅れてゆっくりと沈降した結果、海洋底のマントルが陸側に移動し、陸域が隆起することによって 見かけ上、海面が下がって見えたことによるという。
つまり、
環太平洋の火山帯で連なる日本列島〜南西諸島からフィリピン諸島にかけて、同様に海進ピークとその後の海退が起こった
ということがポイントである。
海進がピークに達した後に海退が起こって、
河川が多い九州、四国、本州、北海道では、海退によってかつての入り江が比較的広く低平な沖積平野になった。
この段階で、遼河流域由来の遠隔地交易民による三内丸山の大規模拠点集落、長江流域由来の遠隔地交易民による大矢遺跡、朝寝鼻遺跡の交易拠点が成立している。
つまり、
海進によってそれまで内陸部だった奥地にまで海から探索できるようになったのに加えて、海退によって平野ができたことで食糧確保が容易化し交易や探索の拠点を拡大したり充実することができるようになった
と考えられる(三内丸山と朝寝鼻)。
九州では九州西岸から南岸は、そのような地域が顕著に少なく、
「鬼界カルデラ」が爆発後、その被害が回復するまでの間、食糧確保が容易な避難拠点は少なく、陸の孤島化した遠隔の希少な避難拠点同士が海上交易によって共生サバイバルし、それを担った先住縄文人の遠隔地交易民が海上移動性を発揮していた筈で、
そこに被害が回復した後、長江流域由来の遠隔地交易民が渡来したが、それは火山性の鉱物資源を求めてのことだったと考えられる(大矢)。長江流域由来の遠隔地交易民は朝鮮半島の西岸・南岸にも展開し、彼らと先住縄文人の遠隔地交易民が協働し混交した結果、朝鮮半島南端と北九州沿岸を拠点を行き来する縄文人交易民の「倭人」が形成されたと考えられる。
つまり、
「交易縄文語①」は、
三内丸山の大規模拠点集落とそれを中心とした周縁拠点の東日本の交易関係者の共通語
↓
大矢遺跡、朝寝鼻遺跡の交易拠点の西日本の交易関係者を含んだ日本列島の共通語
↓
朝鮮半島南端と北九州沿岸を拠点を行き来する縄文人交易民の「倭人」の母語
と
言語体系を進化させながら推移した
と考えられる。
(三内丸山が交易ハブ拠点として大規模化したのは、5000年前〜4200年前で、遼河文明由来の遠隔地交易民による。当時の遼河文明は、紅山文化の終わりから夏家店下層文化の初めにかけての時代。
紅山文化は、農業を主とした文化で、竜などをかたどったヒスイなどの玉から、現在の中国につながる文化や宗教の存在の可能性が考えられている。
夏家店下層文化は、生活の中心は雑穀栽培で牧畜、狩猟、漁労も行われた。多数の大規模集落が発見されていて、北東アジアの乾燥、寒冷化が進行した紀元前2千年紀後半以降も、戦国時代や前後漢の時期よりも人口密度が高かったと推定されている。土器・陶器や青銅器の様式などは殷(商)の物とよく似ており、殷文化に属する人々が北東へ移住した、或は逆に遼河文化に属する人々が気候変動によって中原へ南下し殷文化を形成したと考えられている。
つまり、
当時の遼河文明はすでに階層化が進み「くに」の形成に向かっていて、必要とされる威儀財や威信財の原材料となる希少資源を求める遠隔地交易が、大陸と日本列島の間で行われた。特に、青銅器が登場した後は加工が容易化した玉石の需要が高まったと考えられる。
一方、
三内丸山とほぼ同時期の天草の大矢や岡山の朝寝鼻(ともに最古のコメの痕跡がある)の交易拠点(探索拠点)は、長江流域由来の遠隔地交易民による。長江流域では、紀元前6000年〜紀元前5000年と推定される河姆渡遺跡の段階から稲作が行われ、畑作中心の黄河文明との違いを示している。大矢や朝寝鼻の当時は、中流域の屈家嶺文化(紀元前3000年頃〜紀元前2600年頃)・下流域の良渚文化(紀元前3500年頃〜紀元前2200年頃)である。長江流域の文化はそれらを最盛期としてその後は衰退し、中流域では黄河流域の二里頭文化が移植されている。北方の畑作牧畜民が南下し、流域の稲作漁撈民が中国南部や日本列島に流出したと考えられている(始まりは中流域の稲作と雑穀栽培の網羅型農耕民が、終わりは下流域の稲作特化の選別型農耕民が)。
長江中流域の屈家嶺文化も、すでに階層化が進んでいて、墳墓の副葬品として出土する陶器の黒陶や灰陶は黄河流域の龍山文化(紀元前3000年頃〜紀元前2000年頃)で発達した陶器の影響を受けたものとされる。逆に、屈家嶺文化で発達した稲作や紡織が龍山文化に影響を与えている。龍山文化の特徴は黒陶文化と(私有財産と社会の階層化を前提とする)都市の出現で、両文化間で遠隔地交易が盛んになっていたことを窺わせる。大矢遺跡のある天草地方は、後世、粘土を混ぜなくてもそのまま焼き上げるだけで美しい白磁に生まれる、砕きやすく形成しやすい天草陶石の産地になっている。屈家嶺文化由来の遠隔地交易民が、陶器の原材料となる火山性の鉱物資源を探索しにきた可能性がある。
長江下流域の良渚文化は、さらに分業や階層化が進んでいて、宮殿とそれを取り巻く城郭都市、墓地、工房などの中国最古級の都市遺跡が出現させていて、「稲作都市文明」とも称される。近年の長江文明研究の進展により、良渚文化は夏や殷王朝に比定されている。祭祀用の玉器(玉璧や玉琮)が出土していて、威儀財や威信財の原材料となる希少資源を求める遠隔地交易が盛んに行われた筈で、良渚文化由来の遠隔地交易民が、玉器の原材料(玉石)となる火山性の鉱物資源を探索しにきた可能性がある。
ちなみに岡山の朝寝鼻の対岸の四国の香川県坂出はサヌカイト(讃岐石)の産地で、それも大昔に瀬戸内周辺の火山から噴出した溶岩からなる火山性の鉱物資源である。瀬戸内地方は、愛知から九州に至る瀬戸内火山帯(二上火山帯)にあり、サヌカイトや柘榴石を含む流紋岩を特徴とする。柘榴石は、宝石のガーネットである。
岡山や香川には火山はないが、岡山理科大前の朝寝鼻の周辺から瀬戸内沿岸にかけては温泉地帯であり、湯煙が視認されたと考えられる。
縄文時代中期の人口密度は東日本が1平方キロメートルあたり約3人だったのに対して、西日本、特に近畿地方はわずか0.09人に過ぎなかったという分析結果がある。東日本の西日本に対する人口優位の理由として、東日本、特に北日本の河川にサケが遡上しこれを食料としたことが上がっている。
三内丸山が交易ハブ拠点として大規模化し、大矢や朝寝鼻が交易拠点にとどまった背景には、拠点を支える食料資源と労働力人口の優劣があったと考えられる。
山内丸山、朝寝鼻、大矢の大陸由来の遠隔地交易民は、東西で互いの食料(保存食)や産品(原材料)の過不足を交易によって補い合ったと考えられる。)
「鬼界カルデラ」の被害が落ち着いた前期半ばの6000年前は、旧石器文化の先進地であった南九州は「縄文文化が開花」とはいかず文化的には低迷し、海上移動性を活発化した南九州の縄文人は南西諸島を南下した。
トカラ海峡以南、ケラマ海峡以北の「北琉球文化圏」にまで至った。
ただし、私個人的には、
南九州の縄文人の南下を先導した海上移動性に富んだ遠隔地交易民は、「新拠点開拓型の転住民」であるから、
ケラマ海峡以南、与那国海峡以北の「南琉球文化圏」にまで至った筈であり、少なくとも、南方由来の遠隔地交易民との交易を通じてその文化的遺伝子は南下伝播したと考える。
文化的遺伝子とは具体的には、
火山大噴火の広域被害を遠隔地交易によって遠隔地と共生しつつサバイバルするノウハウ
である。
それが、
南西諸島の遠隔島嶼同士が海上交易によって共生圏を拡大する志向
に繋がった訳だが、
さらに南下して
ピナツボ火山が大噴火した5500年前、3500年前、その広域被害の中心地となったフィリピン諸島に受容され、当該エリアの先史時代人がサバイバルした
という可能性がある。
ここで、前述した
約6000年前に東南アジアから海洋進出していった「ハプログループB」のグループの一部が、中国南部沿岸〜南西諸島経由で日本列島に至り、他の一部がフィリピン諸島〜ミクロネシア・メラネシア経由でポリネシアに至ったため、約6000年前以降の縄文人が話した縄文語には、祖語をポリネシア語と共通するものがあった可能性がある
ということが関わってくる。
南九州の縄文人の南下を先導した海上移動性に富んだ遠隔地交易民は、「南琉球文化圏」にまで至った筈で
そこで、
約6000年前に東南アジアから海洋進出していった「ハプログループB」のグループの、中国南部沿岸〜南西諸島経由で日本列島に至った一部
と遭遇し、海上移動性に富んだ遠隔地交易民同士で協働し混交した
と考えられる。
南琉球圏は、北琉球圏内まで影響を与えた九州本土の縄文・弥生文化は到達した痕跡がない一方で、八重山先史時代後期に特徴的に認められる「シャコガイ製貝斧」は黒潮源流地域のフィリピン先史文化との関連が指摘されている。
つまり、
フィリピン諸島〜ミクロネシア・メラネシア経由でポリネシアに至った一部
もそこまで北上していて、縄文人と混交をしたりそれ以上の北上はしなかったとしても、文化的遺伝子を受容しフィリピン諸島に持ち帰り、ピナツボ火山噴火の際に活性させた可能性がある。
そして、
5500年前、3500年前の大噴火の度に、その時代の最先端の航海技術を持って遠隔の島嶼同士が海上交易によって共生圏を拡大する志向を高度化する新たな遠隔地交易民が発生し、それが人類のミクロネシア・メラネシアへの海上東進を担った
と考えられる。
(そこからポリネシア西端のサモアへ、さらにポリネシア中央部から超遠隔の北端ハワイ、東端イースター島への人類の到達は、異なる「新拠点開拓型の転住民」である遠隔地交易民が、それぞれの時代の最先端の航海技術を持って果たした。)
以上のような経緯から、
「交易縄文語①」は、少なくとも「北琉球文化圏」までは交易関係者の共通語として普及した
と考えられる。
そして、
「交易縄文語①」は、そのように南西諸島を南下しただけではなく、
約6000年前に東南アジアから海洋進出していった「ハプログループB」のグループの、中国南部沿岸〜南西諸島経由で日本列島に至った一部
によって、新たな外来語を追加した形で本土に回帰した
という可能性も指摘できる。
具体的には、超遠隔の島嶼からの渡来者=交易者を訪問神として歓迎する物語や祝祭や歌踊りが創作され、それらに必要とされる新概念が造語された筈で、それらが「北琉球文化圏」からトカラ海峡を渡って屋久島、種子島へ、そして南九州へと伝播したと考えられる。
なぜなら、当時の交易は「贈与」経済にあり、共生的な「贈与」経済の交易において公正と公平を担保するべく同じ神を仰ぐということが前提になり、新たな神概念の物語化と言語化は不可欠だったからである。
(ちなみに、
弥生時代に入って、そもそもはマレー系の海上移動性に富んだ遠隔地交易民だった「阿多隼人」が、南西諸島から南九州までの各海域で島嶼交易や沿岸交易をしていた縄文人交易民である「隼人」を統合再編しつつ北上してくるが、彼らは金属器時代人でありすでに「交換」経済をしていた。
その点では「出雲族」や「安曇氏」と同じだが、「出雲族」が工夫して「安曇氏」も共有した「交易縄文語②」、「安曇氏」が工夫した「稲作縄文語=信仰縄文語」とは関わりは無かったと考えられる。両者は、交易拠点を開拓しそれを維持するべく労働力を縄文人に求めてその自給自足や生産効率の向上を図って共通語を工夫したが、「阿多隼人」は鉄生産と外洋高速航海船の建造操舵の能力をコアコンピタンスとする少数精鋭の特定職能民としての性格を堅持し続け、「隼人」を率いて神武東征に加勢してその勝利に貢献し、初期ヤマト王権であくまで「阿多隼人」単独で天皇の近侍し、その能力を最大限に活かせる機会と立場を巧みに得ていった。
初期ヤマト王権下、「交易縄文語②」と「稲作縄文語=信仰縄文語」を土台に支配層の主要渡来系勢力の共通語として「和語」が工夫され、
ヤマト王権の記紀編纂期、「和語」を土台に、和漢混淆する「日本語」が工夫された。
「阿多隼人」がこれらの言語形成に関係したとすれば、先進的な船やその部材などの外来語に限られる。これについては、日本語の弥生時代を起源とする特徴として追って検討したい。)
日本列島における言語形成過程についての俯瞰的な雑感(上:主要渡来系勢力の動向と相関)
◯歴史的経緯からの雑感
日本列島における言語形成過程についての俯瞰的な雑感(中:朝鮮半島における主要民族の動向と相関)
◯朝鮮半島史における「濊(わい)人」と「濊(わい)語」についての俯瞰的概観 その1
日本列島における言語形成過程についての俯瞰的な雑感(下:ヤマト王権下の日本語形成と成立前に培われていたその土壌)
◯「和漢混合文」に至る「和語」の形成を「韓語」の形成と比較する
私のライフワーク雑学において日本語の「オノマトペ」や「身体語」にこだわる背景と理由
④「日本語の形成」は「日本人の形成」と軌を一にしている)
(補足)
以上の過去記事の内容には、和漢混交段階の『万葉集』の和歌に、双胴船の名称としてポリネシア語との類似音同義語があることは含まれていない。
双胴船は「阿多隼人」が神武東征の大阪湾大敗後、別働隊を南九州沖合から黒潮に乗って一気に紀伊半島南部に輸送した外洋高速航海船と考えられ、「阿多隼人」はその功績とその鉄生産(南九州の産鉄拠点で鉄製の軍需装備品や船部材を供給)と造船操舵の能力から天皇に近侍し、初期ヤマト王権の支配層の一角を占めた。
ただ彼らは、その職能に特化した少数精鋭集団(南西諸島から南九州に分布した海洋系縄文人「隼人」を率いたが混交せず)で、縄文人交易民の「倭人」との交易や交流で「交易縄文語②」を使ったが「和語」の形成にはあまり関わっていないと思われる。
彼らが双胴船をどのようなルートで知ったのかの検討は今後の課題だが、外来語として同族内部で造語した船舶用語が「和語」として外部にも一般化したのは、古墳時代、「阿多隼人」が中央集権化したヤマト王権から海事への専従民として期待され、故地からの同職能同族の大規模な入植が各地の海事拠点に展開した段階だったと考えられる。
むしろ、 私の関心は、
そもそもはマレー系の海上移動性に富んだ遠隔地交易民だった「阿多隼人」の故地がインドシナ半島北部(鉄官政策をとった秦漢に中国南部沿岸への上陸を拒まれ南西諸島に展開)であり、
そこが歌垣の地でもあり、
かつそこから古墳時代に各地の海事拠点に大規模に入植された同族が、同族の関係性の維持と繁栄のために、歌垣を常陸筑波山、同童子女松原、肥前杵島岳、摂津歌垣山、大和海石榴市、同軽市など(山頂、海浜、川、そして市など、境界性を帯びた地が多い)で催したと考えられることである。
(参照:
日本語の形成を探るための言語学以外の知見の整理(5:補説)
◯「阿多隼人」と「歌垣」についての仮説)
奈良時代に入ると、歌垣は中国(唐)から伝来した踏歌と合流。踏歌には文字通り足を踏み鳴らす動作があり、誰かの歌に反応して集団で足を踏み鳴らすことで場を盛り上げた。734年には平城京朱雀門で、770年には河内由義宮で歌垣が開催され、それぞれ貴族・帰化氏族が二百数十名参加する大規模なショーであったという。
つまり、
「阿多隼人」に連なる同職能・同族の定期的交流イベントであったものが、貴族・帰化氏族の支配層全体の大規模ショーにまで展開し、その過程で歌垣の歌が「和歌」になっていったと考えられる。
古代の言霊信仰では、ことばうたを掛け合うことにより、呪的言霊の強い側が歌い勝って相手を支配し、歌い負けた側は相手に服従したとされ、歌垣における男女間の求愛関係も、言霊の強弱を通じて決定されたという。古代歌謡としての歌垣は、『古事記』『万葉集』『常陸国風土記』『肥前国風土記』などに見えるという。
(奈良時代には、東国の筑波山の例が知られる程度で、その他の地方ではほとんど行われなくなっていたらしい。)
ここで、
論題となるのは、
狭義の言語である話し言葉・書き言葉の体系化ではなく、
歌踊りや音立ての類を含む広義の言語の体系化である。
特定の印象に誘導する物語、ナラティブを構成しやすい言語体系化、例えば七五調を構成しやすい言語体系化として、母音主義が強化された可能性がある。
七五調は、中国南部の民謡の伝統*でもあり、これも古墳時代の「阿多隼人」の同族の故地からの大規模入植によってもたらされたものである可能性がある。
いわゆる言霊も、そもそもは人類普遍の<部族人的な心性>に認められる呪術性で、<社会人的な心性>としてベーシックに温存される過程が、彼ら入植者から和漢混淆段階のヤマト王権の支配層に展開したとも考えられる。
母音主義は、日本語とポリネシア語だけに残った特徴だが、日本語の特徴としてはオノマトペの多様化と多用があり、それもこのような古墳時代の動向を経て奈良時代の和漢混淆段階で強化された可能性がある。
* 中国雲南省ペー族の歌文化 板垣俊一
日本語の特徴はその特異な形成過程に起因しているということ
人類は、
ざっくり言って、
石器時代人→新石器時代人→金属器時代人と推移するにつれて、
人類普遍の原初的な<部族人的な心性>から
民族がそれぞれに形成した<社会人的な心性>へ
と至っている。
そして、
日本人の発想思考の特徴は、
<部族人的な心性>をベースとして温存する形で<社会人的な心性>を形成してきた
ということにある。
(参照:
日本人の<社会人的な心性>が<部族人的な心性>をベースに形成されたこと(1)
<部族人的な心性>と<社会人的な心性>の概念対照ポイント )
そして、
人は母語で発想思考する以上、
日本人の発想思考の特徴=日本語の特徴である。
結論から言うと、
日本人とポリネシア人は、<社会人的な心性>の形成において<部族人的な心性>をベーシックに温存した
それは
旧石器時代に由来する人類普遍の言語の原初的な要素を、新石器段階、金属器時代段階を通じて母語にベーシックに温存した
ということである。
具体的には、
人間は危険やその回避などに対して無意識的かつ咄嗟の身体的な反応として「情動」を生じる。
これは、日常会話では<感情>とされるが、
心理学では、時間経過にともなって思考によって変容する「感情」と峻別される。
そして、
驚きを意味する「あっ」「哎呀(āiyā )」「Oh!」
痛みを意味する「痛っ」「哎哟 (āiyōu)」「Ouch!」
など
「情動」にともなった咄嗟の身体的な反応として発する感嘆詞は、人類共通に母音主義(母音が有意味音)である。
それは、
旧石器時代に由来する人類普遍の言語の原初的な要素が
中国語や英語にもそのような感嘆詞だけは残った
日本語やポリネシア語には全体的にベーシックに残った
ということである。
(日本語とポリネシア語の大きな違いは、形成過程ではなくその後の変容過程に起因する。
ポリネシアは超辺境の超遠隔島嶼だったために、長く金属器時代人の渡来人の影響を受けなかったが、
中国大陸に一衣帯水で隣り合う日本列島は、早く金属器時代人の渡来人の影響を受け、
彼らによって「交易縄文語②」「稲作縄文語=信仰縄文語」が普及された。)
また、
旧石器時代の人類が話した原初の言語は、普遍的に「膠着語的」だったと考えられる。
てにをはのような接辞はなくて、自立語の語幹だけで話したという点は「孤立語的」だが、
それ以上に「膠着語的」だったと言えるのは、文法がない段階で、頭に浮かんだことからその順番で話したことである。
(例えば、
否定詞は
中国語の「不bu4/2)」「没(mei2)」や英語の「not」「no」「never」は文の始まりに位置する
のに対して
日本語の「〜ません」「〜ないです」は文の終わりに位置する。
最初に否定が頭に浮かび、
「いいえ」「不是」「没有」「No」から発話するのは人類共通だが、
文の構成としての否定詞の位置の違いは、
文法がない段階で、頭に浮かんだことからその順番で話したことがベーシックに温存された
ということではないか。)
「交易縄文語①」の段階では、大陸と日本列島がほぼ陸続きだった旧石器時代の延長で、新石器時代人の言語がグラデーション的な異同をもって連鎖したと考えられ、交易のための共通語は、交易産品の名詞や主要な交易活動の動詞を揃える程度のものだったと考えられる。
それに対して
「交易縄文語②」の段階では、大陸由来の金属器時代人が新石器段階にある縄文人と協働し共生すべく工夫した、つまりは文明文化の先進側が後進側の言語を工夫したピジンもどき(自然に形成された混成語ではない)だった。
古今東西のピジンの発生時の共通性として、その必要条件である
いわゆる5W1H(いつ・誰が・どこに・どうして・どのように)を自立語の語幹だけで話す、ということがある。
「私 明日 これ あそこ 運ぶ」という具合いで、
これが、文法がない段階で、頭に浮かんだことからその順番で話したことがベーシックに温存されたことに繋がったと考えられる。
また、
ピジンの発生時の必要条件として、関係者の全員が話せること、聞き取れることがある。
この条件は、
「交易縄文語①」では、
関係者の言語の近親性から最初からほぼ達成されていたと考えられる。各地地元の日本人が他所の各地の方言をおおよそ聞き取れたり真似て話したりできるようにである。一部にとても聞き取れない強い訛りがある方言もあるが、それが共通語になることはなく、誰もが聞き取れるようなメジャーな方言が共通語になったに違いない。
「交易縄文語②」では、
文明文化に先進と後進というギャップが生じていて、渡来人側が先住民側と平和裡に協働し共生しようとする場合、先住民側の言語を重視するのは当然で、後世のキリスト教宣教師などもそうしている。
課題となるのは大きくは2点で、
1つは、
新来の概念については渡来人側が造語しなければならないことで、これは古今東西に一般的だった。
(この点は、「稲作縄文語」も同じだった。)
いま1つは、
渡来人側の関係者に、異なる母語を話す民族が複数いる場合、誰もが発音しやすく覚えやすく習得しやすい言語を工夫しなければならなかったことで、
最初は「出雲族」だけで各地の縄文語に対応したり、北部九州で縄文人交易民の「倭人」が話した「交易縄文語①」に対応するだけの「交易縄文語②」だったが、
やがて「安曇氏」が参入してきて、台頭して「稲作縄文語=信仰縄文語」をその勢力圏で普及させる。そして長い歴史スパンで、両者は役割分担したり勢力圏を棲み分けたりして交渉・交易をしていった。
「出雲族」も「安曇氏」も「領域国家」が展開した中国由来の遠隔地交易民だったが、話す中国語は華北系と華中系で異なり、話し言葉は容易に通じ合わず、正確を記する場合は書き言葉によった。中国語は「子音主義」で、両者にとっても「母音主義」の「交易縄文語②」を共通語とする方が発音しやすく覚えやすく習得しやすかったと考えられる。
結果的に、長い歴史スパンを経て、
「出雲族」「安曇氏」「縄文人」の交易関係者だけでなく、交易に直接従事しない一般的な庶民や家族も日常語として「交易縄文語②」そして「稲作縄文語=信仰縄文語」を話すようになっていった。
「稲作縄文語=信仰縄文語」は、「安曇氏」が商品米として乾田稲作による温帯ジャポニカ米を量産すべく大規模稲作拠点で、稲作共同体の構成員として稲作民化した縄文人の支配管理のために工夫したものだったが、この商品米が朝鮮半島南部と西日本の基軸通貨化するにともない、環日本海交易ネットワークを主導した同盟「出雲族」も、縄文人の自給自足力を向上させた陸稲作含む稲作と雑穀栽培をする「網羅型農耕」を稲作特化の「選別型農耕」に再編し、大規模稲作拠点の運営のために「稲作縄文語=信仰縄文語」を取り入れた。
こうして、
「交易縄文語②」+「稲作縄文語=信仰縄文語」が、
日本列島の主要な経済圏を構成した地域の交易関係者から一般庶民や家族までの共通語となった
と考えられる。
これが実質的には「和語」の土台になったが、それを「和語」と捉える主体が出揃うのはその後のこととなる。
紀元後100年前後に「テュルク族」が越前に渡来し近畿地方に「くに」ぐにを建てていき、その連合政府「邪馬台国」を大和地方に建てた。
紀元前100年前後から「安曇氏」は北部九州に前漢楽浪郡〜後漢帯方郡〜魏を後ろ盾にした「くに」ぐにを建て、交易拠点・産業拠点を飛地的に瀬戸内地方から大和地方にかけて展開していった。
両者は、ともに排他的領域を主張する二大勢力として、西日本の東西で対峙した。
この間、
同盟「出雲族」は、
そもそも環日本海交易を主眼とする遠隔地交易民として交易活動の専守防衛はするが、排他的領域を主張して「くに」を建てることなく交易ネットワークによって経済圏を形成するだけであり、
両勢力の間で、地理的にも中国地方という緩衝地帯を本拠地とし、政治的中立を堅持し全方位で交易した。
具体的には、
富国強兵に資する鉄絡みを戦略的に主要交易産品として扱わず、金属器は威信財となる青銅器を主要交易産品とした。それも、両勢力の威信競争を招かぬように、近畿地方中心の「テュルク族」には銅鐸をメインに、北部九州中心の「安曇氏」には銅剣をメインに供給した。(その際、重くて嵩張る青銅器を製造地から遠距離輸送したとは考えにくく、平和的中立を信頼された両勢力の領内に工房を仮設することを許されて、そこに職人を動員し原材料を持ち込んで製造したと考えられる。)
さらに、
2世紀後半の「倭国大乱」の後の3世紀前葉、それを収束する形で女王卑弥呼が共立されるが、これは慢性的な鉄素材不足で内紛が絶えなかった「テュルク族」が、魏を宗主国として朝貢し鉄素材を下賜してもらう政策への転換であった(外交儀礼的な朝貢の後に、ルーティンとしての交易が継続する)。この時、それまで西日本で対峙していた排他的領域を主張する二大勢力が、ともに同じく魏を仰ぐ国として自動的に同盟関係になった。
「安曇氏」は、歴史の荒波を乗り越えてきたいわば「国家主義」の管理貿易前提の政商型交易者であり、そもそもは匈奴に同行した鉄生産専従民である「テュルク族」は、その交易関連の活動全般を「安曇氏」に依存するようになる。その最初が、提供された宇佐の地に魏朝貢交易の中継拠点(瀬戸内側と日本海側の「くに」ぐにからの集荷拠点、への分配拠点)として「女王国」を建て、交易船の護衛に「一大国」の軍船を当たらせることだった。
この段階で、(言語的状況については)
新たな交易関係者である主要渡来系勢力として「テュルク族」が登場している訳だが、
彼らが近畿地方で「くに」ぐにを建てたとは、そこにあった「安曇氏」「出雲族」の交易拠点・産業拠点を支配したということであり、そこに暮らした縄文人の混交ないし稲作民化した後裔は「交易縄文語②」を話していた。
彼らを「テュルク族」が直接支配した際も、母語の「テュルク語」ではなく「交易縄文語②」を使ったと考えられる。
「テュルク族」と「安曇氏」が同盟関係になり、前者の交易活動の現場を後者が補佐するようになって、「交易縄文語②」の共通語化はさらに進んだと言えよう。
しかし、このとても平和な状況は長続きしなかった。
「女王国」の宇佐を発着する「テュルク族」の交易船が、「狗奴国」によって襲撃されるようになり、「安曇氏」の軍船による護衛も役立たない事態になり、卑弥呼は魏に窮状を訴えるようになった。
朝鮮半島由来の「濊(わい)人」が、朝鮮半島南端と西北部九州の松浦地方を行き来した縄文人交易民「倭人」のバックアップを受けて、南九州に上陸し(天孫降臨)、山野系縄文人の「熊襲」を陸戦隊化し海洋系縄文人の「隼人」を海戦隊化し(日向三代)、両者で構成される軍事国家「狗奴国」を建てていた。
つまり、「テュルク族」「安曇氏」連合vs「濊(わい)人」「倭人」連合の軍事対立が口火を切っていたのである。
後者は、宇佐の地を皮切りに、次に「安曇氏」の本拠地である筑紫を制圧し、さらに長い年月をかけて瀬戸内地方を勢力圏としていった(神武東征)。
この段階で、(言語的状況については)
新たな侵攻支配者として主要渡来系勢力として「濊(わい)人」が登場している訳だが、
バックアップして同行した縄文人交易民「倭人」は「出雲族」「安曇氏」との交易で「交易縄文語②」を話していた
海戦隊化した「隼人」はもとは「阿多隼人」に率いられた縄文人交易民であり「倭人」との交易で「交易縄文語②」を話していた
よって、「濊(わい)人」は、
海洋系縄文人の「隼人」と「倭人」を介して「交易縄文語②」で通じ合い
山野系縄文人の「熊襲」とは「倭人」を介して「交易縄文語①」で通じ合った
のではなかろうか。
(私個人的には、
「阿多隼人」の神武東征軍への取り込みとその神武東征勝利への貢献はかなり戦略的で、その産鉄能力と造船・操船能力を知る朝鮮半島南端側の「倭人」が鍵を握った
と考える。
一方、
山野系縄文人の「熊襲」とは、有明海東岸の熊本から高千穂峡を経て日向に至る山間地の縄文人で、狩猟採集民であり、交易に従事していたとは考えられない。しかし、その方言的な縄文語にも、有明海を介して隣接する西北部九州側の「倭人」の方言的な縄文語にも「交易縄文語①」の名残があり、互いに通じ合うことができた
と考える。)
結果的に、
「テュルク族」「安曇氏」連合vs「濊(わい)人」「倭人」連合の軍事対立で、
両陣営のそれぞれで、「交易縄文語②」の共通語化はさらに進んだと言えよう。
「神武東征」の紆余曲折を割愛するとして、
その勝利によって樹立した初期ヤマト王権の支配層を構成した主要渡来系勢力の共通語が「和語」となった。
大和地方に侵攻して「邪馬台国」を制圧した「濊(わい)人」首長層が黒幕的な二重支配者となり
「出雲族」のコトシロヌシ一派と「テュルク族」の弟磯城一派を外戚勢力とし天皇(大王)を公的な支配者(傀儡政権)とし
百戦錬磨の政商型交易者である「安曇氏」を最も有能な支配協力者として重用し
南九州上陸以来、一貫して同行して最大のバックアップをしてきた朝鮮半島南端側の「倭人」を最も信頼のおける支配協力者として重用した。
このような主要渡来系勢力が構成する支配層において、
遠隔地交易民の3勢力が母語としていて
「くに」として民を直接支配し「くに」ぐにを連合政府で率いた「テュルク族」が民の支配管理で使っていた
「交易縄文語②」+「稲作縄文語+信仰縄文語」が共通語とされそれが「和語」となった。
ここで、
実質的な支配者である「濊(わい)人」首長層が、母語の「濊(わい)語」を共通語にしなかった、公用語にすらしなかった
という経過が、その後の日本語の方向性を決定づけた。
一般的には、占領者が、被占領民の言語を排除して、占領者の母語を公用語や共通語にする。
ただ、文明文化において占領者が後進し、被占領民族の方が遥かに先進している場合、先進した制度を継承するべく敢えて占領者の母語を公用語や共通語にしない(ex.北方民族による中華民族の支配)。
じつは、
「濊(わい)人」の実態は、「領域国家」化の波が及んでいない段階の朝鮮半島の南半で、小国群からみかじめ料をとったり、陸路の交易者から安全保障という建前で通行料として上前を跳ねたりする集団だった。
「騎馬民族」とする説があったが、実態は「濊(わい)人」はそもそも朝鮮半島北方の農耕民で、北方民の南下に押されて朝鮮半島北部(日本海と黄海に挟まれたクビレ地帯に逃れて交易民化し、その過程で騎馬能力を持ったと考えられる。しかし実入の少ないものは騎馬武力にものを言わせる前述のような今で言う反社集団になった。
「領域国家」化の波を受けて朝鮮半島の北から「くに」が「国」になっていく際、騎馬武力によって統一軍の地位を得たものがいた一方、それから漏れた反社集団は南下し、南半の「国」の立ち上がりでも地位を得られなかったものは食いっぱぐれた。この時、同様に食いっぱぐれていたのが、自然発生的な自由貿易をしてきた朝鮮半島南端側の縄文人交易民の「倭人」だった。彼らは、「国」の立ち上がりに際して管理貿易を独占する政商型交易者になれなかった。それになったのは、中国由来の亡命商人たち(朝鮮半島版の「出雲族」や「安曇氏」)だった。そこで、彼らは騎馬武力をもちながら食いっぱぐれている「濊(わい)人」に、西日本に侵攻して小国群を制圧して統一的な「領域国家」を樹立して、自分たちが独占的な政商型交易者になってサバイバルすると同時に、上納によって「濊(わい)人」はサバイバルするどころか、小国群からとって回っていたみかじめ料以上の利益を得る、そういう構想を持ちかけた。「濊(わい)人」はこれに乗って、朝鮮半島南端側の「倭人」は南九州上陸から神武東征の勝利まで同行してバックアップした。
(西北部九州側の「倭人」は、「濊(わい)人」が北部九州の「安曇氏」を制圧した後、長い年月をかけて瀬戸内地方を東進する「濊(わい)人」首長層に同行したが、大阪湾の大敗で大方は九州に戻ったと思われる。大敗した「濊(わい)人」首長層は吉備にとどまりそこを本拠地として、大和地方で「邪馬台国」を制圧した「濊(わい)人」首長層と対立、後に初期ヤマト王権に反乱している。
初期ヤマト王権を樹立したのは、神武東征の別働隊として「阿多隼人」により南九州の沖合から黒潮に乗って一気に紀伊半島南部に海上輸送されて、大和地方への奇襲を成功させた「濊(わい)人」首長層である。 彼らの政権樹立後の最強の敵はじつは吉備の同族だった訳で、両者の優勝劣敗は単に軍事力によらず、政権を主要渡来系勢力の協力を得て維持する政権担当能力によった。支配層の共通語・公用語の設定では、政権と主要渡来系勢力との関係性、および主要渡来系勢力同士の関係性が十二分に配慮されたに違いない。)
つまり、
初期ヤマト王権を樹立した「濊(わい)人」首長層は、
文明文化の後進性があり、統一的な「領域国家」の支配者として表舞台に立てなかった
そもそもの動機が、小国群からとって回っていたみかじめ料がとれなくなっての新たな利益源泉の確保で、自らが民を直接的に支配する意欲と能力を欠いた
最初の喫緊の課題が「邪馬台国」の魏朝貢交易の継承で、これを神武東征終盤、「テュルク族」側から寝返って勝利に貢献した(「伊都国」長官=ニギハヤヒが「邪馬台国」の宰相難升米=ナガスネヒコを暴殺した)「安曇氏」に成し遂げてもらうしかなかった
などの背景から、
母語である「濊(わい)語」を支配層の共通語や公用語にする意向は全くなかった。
結果的に、
こうした初期ヤマト王権の樹立前後の複雑な経過は、
文明文化後進の占領者が自らの母語ではなく、文明文化先進の被占領民族の言語をあえて共通語や公用語にする
という古今東西に一般的なケースとも大きく隔たっている。
初期ヤマト王権の樹立前後の特異な経過が、
金属器時代人の渡来人が介在する「交易縄文語②」+「稲作縄文語=信仰縄文語」を
統一的な「領域国家」を目指した初期ヤマト王権の支配層の共通語=「和語」とした
と言える。
日本語の形成過程は、総じて世界に珍しい特異なものであるが、
多くの日本人が抱く短絡的な印象のように
海進によって閉鎖空間化した日本列島の旧石器時代人の言語に由来する縄文語が単にそのまま継続したものではない。
特に、
初期ヤマト王権の樹立前後の特異な経過は、
その後のヤマト王権が律令神道体制を確立していく和漢混交段階の「日本語」への変容過程をも特異なものとする土壌となった
と言える。
(完)