日本語の形成を探るための言語学以外の知見の整理(4) |
日本人にパラダイム転換発想あり
カテゴリ
全体 コンセプト思考術速習10編 コ思考術を中国語で伝える! ☟大巾改訂を進行中☟ ★日本型の発想思考の特徴論 ☆発想を個性化する日本語論 ☆発想のリソース 日本文化論 ☆発想を促進する集団志向論 ☝大巾改訂を進行中☝ 「江戸の用語辞典」を読んで ◎発想ファシリテーション論 ☆日本型集団独創とパターン認識 私たちが無自覚でいる「日本型」 ■日本語論からの発想 ■日本文化論からの発想 ■コミュニケーション論発想 ■洞察論・発想論からの発想 ■脳科学からの発想 ■知識創造論からの発想 ■ユング系心理学から発想 ■交流分析心理学から発想 ■マズロー心理学からの発想 ■マーケティング論から発想 文化力発想な世間話 ■■ 文化力発想なコンセプト ■■ こんな商品をコラボしてほしい! (研修テキスト改訂関係他) 以前の記事
2024年 03月 2024年 02月 2024年 01月 2023年 12月 2023年 09月 2023年 07月 2023年 04月 2023年 02月 2022年 12月 2022年 11月 2022年 10月 2022年 09月 2022年 08月 2022年 07月 2022年 06月 2022年 04月 2022年 03月 2021年 11月 2021年 07月 2021年 06月 2021年 03月 2020年 07月 2020年 06月 2020年 03月 2020年 01月 2019年 12月 2019年 11月 2019年 10月 2019年 08月 2019年 07月 2019年 06月 2019年 05月 2019年 04月 2019年 03月 2019年 02月 2019年 01月 2018年 10月 2018年 05月 2018年 03月 2018年 02月 2018年 01月 2017年 12月 2017年 11月 2017年 10月 2017年 07月 2017年 06月 2017年 05月 2017年 04月 2017年 03月 2017年 02月 2017年 01月 2016年 12月 2016年 11月 2016年 09月 2016年 08月 2016年 07月 2016年 06月 2016年 05月 2016年 04月 2016年 03月 2016年 02月 2016年 01月 2015年 12月 2015年 11月 2015年 10月 2015年 09月 2015年 08月 2015年 07月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 04月 2015年 03月 2015年 02月 2015年 01月 2014年 12月 2014年 11月 2014年 10月 2014年 09月 2014年 08月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 05月 2014年 04月 2014年 03月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 12月 2013年 11月 2013年 10月 2013年 09月 2013年 08月 2013年 07月 2013年 06月 2013年 05月 2013年 04月 2013年 03月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 12月 2012年 11月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 2006年 01月 2005年 12月 2005年 11月 2005年 10月 2005年 09月 2005年 08月 2005年 07月 ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
2024年 01月 24日
(3)https://cds190.exblog.jp/30552287/ からつづく。
その5 ◯❺「濊(わい)人」が渡来した段階 日本列島の歴史との関連で「濊(わい)人」と称される人々は、朝鮮半島北半で「くに」ぐにを建てた扶余系の騎馬民族である。 それは歴史的に「転住民」性を顕著に示した部族群であって、そもそもは「濊(わい)」および「貊(はく、ばく)」とされる「定住民」の部族群に含まれた。 「濊(わい)」は、『三国志』や『後漢書』などに記された古代民族で、紀元前2世紀以来、約10世紀にわたり、朝鮮半島北半の東岸から沿海地方地帯およびその内陸部に実在し、漁労と狩猟を主たる生業としながら、海産物を中国内陸へもたらすなど遠隔地交易にも従事していた。また、麻を植えて麻布を織る他、桑を植えて蚕を育て、真綿の布を織っていたという。 「濊(わい)」と「貊(はく、ばく)」(朝鮮半島北東部から東北地方)は近縁の2種族であり、周代以降の記載は「濊」「貊」だが、漢代以降の記載で「濊貊」の記載が増える。 私個人的には、そのような特に「濊(わい)」の内の騎馬武力をもって護衛や防衛をする専従民から「濊(わい)人」が派生したと考える。 ちなみに、 紀元前2世紀の「衛氏朝鮮」時代と 紀元前1世紀頃の「濊」と「貊」の位置が以下である。 (衛氏朝鮮は先行する檀君朝鮮、箕子朝鮮とともに「古朝鮮」とされる) 2世紀頃の「濊貊」の位置が以下である。 ツングース系の騎馬民族である「扶余」「濊」「貊」が、おおよそモンゴル系の騎馬民族である匈奴や鮮卑に圧迫されて民族移動し南下したことが見て取れる。 紀元前108年に、前漢武帝が「漢四郡」を設置して朝鮮半島の直接経営に乗り出すと、朝鮮半島北半にいた扶余系の騎馬民族はそれに対応して「くに」ぐにを建てていった。その建て方は、中央集権的な軍事国家、つまりは排他的な領域を主張する「領域国家」を志向するタイプと、前漢の外臣化し楽浪郡の出先機関として「くに」を建てる、つまりは中国の巨大「領域国家」を後ろ盾にその傘下に入るタイプがあった。 それまでは部族が構成する小国群が縄張りごとに割拠する状態だったが、前漢武帝による「領域国家」化の波が及んで、小国群が連合して統一軍を構成して対抗ないし対峙するようになった。 (「高句麗」は、3世紀に、中国東北部(満州)から朝鮮半島北部にかけて活動していたツングース系の半農半狩猟の「貊(はく)人」が鴨緑江流域に建国したとされるが、朝鮮最古の歴史書『三国史記』にある建国神話(扶余の王族朱蒙が前37年に建国)を暗示として踏まえると、前1世紀の中頃、漢の置いた四郡の一つ玄菟郡が衰えたことによって中央集権的な軍事国家として自立したと考えられる。) このような動きにおいて、統一軍の構成から漏れる部族が生じる。 彼らは、統一軍の統率者となろうとしたがなれなかった部族や、統一軍への編入を拒んだ騎馬武力を誇る部族であり、朝鮮半島南半に南下した。 彼らは、朝鮮半島北半にいた段階から、被支配民として農耕民化していた新石器時代人(朝鮮半島版の縄文人)である先住民の集落や中国由来の亡命商人が展開した交易拠点や生産拠点からみかじめ料を取って回る二重支配者となっていて、それを朝鮮半島南半でも展開した。 しかし、 「領域国家」化の波とそれに対応する動きは朝鮮半島南半にも及ぶ。 北半から南下した騎馬武力を誇る「濊(わい)人」部族には、また、小国群が連合して構成する「くに」である「馬韓」「辰韓」の統一軍になれた部族と、なれなかった部族が生じる。 「馬韓」「辰韓」は「領域国家」化して「百済」「新羅」という「国」に向かっていく。その際、前者は支配層の一角を占めるが、後者はみかじめ料を取って回ることができなくなり、食いっぱぐれてしまう。 こうした朝鮮半島南半の「領域国家」化の動きにおいて食いっぱぐれたのは、朝鮮半島南端と北九州沿岸を拠点として行き来した縄文人交易民の「倭人」、その朝鮮半島側の部族も同じだった。 排他的領域を領土として主張する「領域国家」は、対外交易を「管理貿易」として支配し、それを特権的な政商型交易者に独占させた。この独占的な政商型交易者に中国由来の亡命商人がなった(「新羅」では支配層の一角を構成)ために、半島側の「倭人」は、縄文時代からやってきた自然発生的な「自由貿易」ができなくなって食いっぱぐれた(正確には、「管理貿易」の傘下に入っての下働きしかできなくなった)。 これを良しとしない半島側の「倭人」はサバイバル策として、同じく食いっぱぐれた扶余系の騎馬民族の「濊(わい)人」部族に、西日本に侵攻して小国群を平定して「領域国家」を樹立し、その「管理貿易」を「倭人」に政商型交易者として独占させてくれれば、従来のみかじめ料に匹敵する上納をする、約束してくれれば全面的かつ継続的にバックアップするという提案をして受け入れられた。 そして、この半島側の「倭人」の「濊(わい)人」への協力者は九州側の「倭人」と連携して、後に初期ヤマト王権を樹立する「濊(わい)人」首長層に常に同行して全面的なバックアップをしていくことになる。 具体的には、 九州側の「倭人」と連携して 弁辰人の国「末露国」を橋頭堡および後方支援基地として建てた上で、 日本の神話が暗示する 「天孫降臨」→「濊(わい)人」の南九州上陸 「日向三代」→協力的な山野系縄文人である「熊襲」の陸戦隊化 協力的な海洋系縄文人である「隼人」の海戦隊化 「神武東征」→宇佐の地の「女王国」、「安曇氏」の本拠地である博多湾地方の「伊都国」「奴国」「一大国」への侵攻と占拠 長い年月をかけての瀬戸内地方の勢力圏の東方拡大 と展開していった。 神話の暗示を踏まえると、 「濊(わい)人」首長層は、 協力的な山野系縄文人の族長(山神=オオヤマツミ)の娘を娶って取り込み 協力的な海洋系縄文人の族長(海神=オオワタツミ)の娘を娶って取り込んでいる。 では、「濊(わい)人」全体として縄文人との混交が進んだかというと、そうとは考えにくい。 縄文人交易民である「倭人」、特に半島側の「倭人」との関係性は初期ヤマト王権樹立後まで続くが、「濊(わい)人」首長層が姻戚関係を結んだ形跡がないからだ。朝鮮半島時代から最も信頼を置いた彼らとさえ姻戚関係を結ばなかったということは、「濊(わい)人」が他民族との混交を、政略的に必要な最小限にとどめたと考えられる。 ちなみに、 「テュルク族」と同盟関係にあり「濊(わい)人」の敵側だった「安曇氏」は「神武東征」の終盤に寝返った以降、初期ヤマト王権の樹立とともに重用されていくが、 「濊(わい)人」首長層が政略結婚を進めて外戚勢力としたのは、いわゆる「国譲り」に積極的に応じた転向「出雲族」であるコトシロヌシ(神武天皇の岳父)一派と、「テュルク族」を裏切って東征軍を大和地方に導き入れた転向「テュルク族」である弟磯城一派だった。前者は、同盟「出雲族」の日本列島内の交易ネットワークを活用するのに必要とし、後者は、「テュルク族」の「くに」ぐにを「邪馬台国」で率いた連合政府体制を継承するのに必要とした。 「濊(わい)人」首長層は、歴史の表舞台には出ずに、自分たちの男子を2つの外戚勢力の女子と結婚させて天皇(大王)として擁立する黒幕的二重支配体制をとった。 彼らは、中央政権に近侍した「安曇氏」=「物部氏」と半島側の「倭人」=「大伴氏」に国内外交易を独占させて、その上納によって天皇(大王)の私経済(当時は朝廷の公経済と未分化で渾然一体)を潤させてそれを利益源泉とした。朝鮮半島以来の信頼と実績のあった半島側の「倭人」、神武東征終盤以来の信頼と実績のあった「安曇氏」だが、「濊(わい)人」首長層にとっては、利益を分け合う対象ではなく、利益をもたらさせる対象であり、混交=同化の対象とはならなかった。 しかし、 やがて「濊(わい)人」首長の黒幕的二重支配体制は綻びを見せていく。 騎馬武力を誇る者たちが地の利や人の利がある故地朝鮮に出兵し戦果をあげて中央政権で地位を得て表舞台に出てくる(武内宿禰とその後裔が暗示)。 そして、軍需装備品の製造や調達を独占していた「倭人」=「大伴氏」と「安曇氏」=「物部氏」に降下し、前者は親衛隊的な、後者は国軍的な軍事豪族となった。 ただ、これとても、「濊(わい)人」全体の混交による人口増にはならず、混交をあくまで政略的に必要な最小限にとどめる少数精鋭主義が続いたと捉えるべきだろう。 総じて、 「濊(わい)人」が日本人形成の全体に大きく影響するほどの人口増があったとすれば、それは他民族との混交ではなく、故地からの同族の入植によったと考えられる。 「濊(わい)人」首長層は、大和地方で中央政権を樹立したものの他に、吉備地方でとどまってこれと対峙したもの、九州にとどまって「熊襲」「隼人」と九州豪族を形成してこれに離反したものがいた。さらに朝鮮半島には、「新羅」の支配層の一角を明示的に構成した「濊(わい)人」首長層、「百済」で初期ヤマト王権と同じ王を擁立する黒幕的二重支配体制をしいた「濊(わい)人」首長層がいた。彼らは、みな他民族との混交を最小限にとどめる少数精鋭主義で、他民族を操作しつつお互いに連携したり対峙することに専念した。日本各地に展開した 「濊(わい)人」首長層は、それぞれの故地から同族を入植させたりそれぞれの故地と交易することでそれぞれに富国強兵を図ったと考えられる。 よって、 「濊(わい)人」自身の言語状況は、日本語形成に大きく影響することはなかったと考えられる。 むしろ、 初期ヤマト王権の表舞台で政権実務を担った外戚勢力の転向「出雲族」であるコトシロヌシ一派と転向「テュルク族」である弟磯城一派、そして独占的な政商型交易者の「安曇氏」=「物部氏」と半島側の「倭人」=「大伴氏」、それらが対話する共通語として、政権中央における日本語形成の動きが始まったと考えられる。 一方、 最近の地方(金沢市岩出町)の庶民の墓の遺伝子分析調査の成果として、 「さまざまな地域の集団が古墳時代に 日本列島に入ってきて混血した」 可能性が急浮上してきている。 この渡来は、東アジアの広範な各地に遺伝的ルーツをもつ民族で、かつかなりの人口増を伴った。 これは、神武<東征>と表現されるような一時的な戦闘や、初期ヤマト王権の草創記の政略的な婚姻だけでは説明できない話である。 初期ヤマト王権の樹立の前夜から、大陸各地からの西日本各地への大規模の入植があったものと考えられる。 その6 ◯❻いわゆる「古墳時代」の段階 ところが、古墳時代の庶民の人骨において、謎の「第三の遺伝的な特徴」が非常に大きな割合で入っていることが確認され、割合からするとかなりの数の渡来があったと考えざるを得なくなった。 非常に広い地域の大陸集団と遺伝的に類似しているので、東アジアのさまざまな地域の集団が古墳時代に、日本列島に入ってきたとする「三重構造モデル」が提唱されるようになった。 日本人の成り立ちは、これまで単純に捉えられてきたが、古墳時代は東アジアでは激動の時代だったことをも踏まえて、もっと複雑なもので多様性の高いものとしてもっと細かく見ていく必要があるとされるようになった。 「準構造船」が鉄製部材が使われなかった*のに対して 後世の「和船」は鉄製部材が多用されている。 前者から後者への変化の最初が、 軟鉄製の部材の製造能力とそれを使った造船能力を持った「阿多隼人」による 鉄製部材を使っていなかった「準構造船」への技術移転**だったと考えられる。 「阿多隼人」の後裔が、 活動海域の異なる海上輸送者を取りまとめる組織力や組織運営力をヤマト王権のニーズに対応するコアコンピタンスとするには、 ヒト・モノ・カネの流れとして多様な活動海域に適した官船の造船体制と各地の官船展開拠点での操船体制を構築することが必要だった。 そのために重要な働きをしたのが、 官船の造船体制を権威化して広報する戦略コンテンツであり、 具体的には、記紀に歌謡が記され、万葉集の歌に引用された「枯野(からの)」伝承であった。 この伝承には、 木材の調達(巨木伐採輸送) 廃材の利用(塩づくり) 造船仕事のない時の船大工の木工副業(琴づくり) が盛り込まれている。 それをヒントに各地の官船展開拠点におけるそれぞれの風土を生かした応用を誘導したものと考えられる。 新羅王から贈られた船大工たちは猪名川の下流域に入植され、彼らが「猪名部」の始まりとなった と考えられている。 「猪名部」は、「イナ」の地名を伴って摂津国のほかに伊勢・越前・出雲などにも分布している。 各地の「猪名部」を中央で管理したのが「猪名部造」で、新撰姓氏録では「物部氏」(「安曇氏」の後裔。「交野物部氏」は産鉄拠点を展開)の同族とされている。また、新撰姓氏録の他の項では、「猪名部」を管理する伴造と思われる百済国の人、中津波手の子孫の為奈部首(いなべのおびと)の記載もある。さらに旧辞本紀に、「饒速日尊(伊都国長官)供奉五部人中、為奈部等祖、天津赤占」とあり、天津赤占(あまつあかうら)もあがる。 「五部人(いつとものひと)」とは、ニギハヤヒの天降り(神話では、伊都国長官の「邪馬台国」との同盟化を隠蔽した上で天孫降臨とは異なるそれより前の降臨をしていたと脚色)に従った従者のことである。他の「五部人」として、「天津麻羅(あまつまら)」が旧辞本紀に物部造等祖天津麻良、倭鍛師(やまとのかぬち)天津真浦、笠縫等天津麻占(「阿多隼人」は竹製の帆を用いたためか竹細工を得意とされる)が見える。「天津赤星(あまつあかほし)」が旧辞本紀に筑紫弦田(つるた)物部等祖とある。 すべて、初期ヤマト王権の政商型交易者として重用された「安曇氏」の内の筆頭、軍需装備品調達を独占した「物部氏」が軍事豪族化し、その諸派が記紀のニギハヤヒ譚に自らを権威の厳選を求めそれが公認されたことを示している。 以上から分かることは、 各地の「猪名部」は、 色々な中央氏族に政治的・利権的に管理された 一方で、 技術的・研修的には 各地の官船展開拠点に官船の維持と操船の指導者として転住した「阿多隼人」の後裔によって オン・ジョブ・トレイニングされた ということである。 「阿多隼人」は、神武東征での南九州沖合から紀伊半島南端への一気の海上東征を成功させた功と、初期ヤマト王権成立後に離反勢力となった東海・関東の「狗奴国」の九州からの大量輸送に加担した罪とから、天孫族ではあっても山幸彦に抗って下ったという微妙な立ち位置の海幸彦が祖とされている。 天皇に近侍して、皇族指揮官が陣頭指揮をとる旗艦(フラッグシップ)の造船と操船を任されるも、その外洋高速航海船はヤマト王権の需要に対してオーバースペックであり予算を食うために作られなくなる。 結果、「阿多隼人」の後裔は、鉄製部材を使わないできた「準構造船」に鉄製部材を使う技術移転と、各地の官船展開拠点に転住しての維持と操船のオン・ジョブ・トレイニングをする「雑戸」としてサバイバルしていったと考えられる。 (「雑戸」とは、 一般的には朝鮮半島からの渡来人技術者に由来すると考えられ、大化の改新以後の部民制再編によって成立し、主として軍事的技術面で朝廷に奉仕したとされる。 唐のように賎民身分ではないが、公民や品部のように一般の戸籍には編入されず、「雑戸籍」という特殊な戸籍が作成されてその身分は技術とともに世襲化されて官司に直接付属されるなど、賎民に準じた扱いを受けていたと考えられている。ただし、一部には功労によって位階を授かる者もいた。 「雑戸」は、主に都に近い畿内及びその周辺諸国に居住し、その形態には様々な形態があり、 百済手部・百済戸・飼戸のように一定期間ごとの交替制あるいは臨時に召役されるもの 雑工戸・鍛戸(たんこ:宮内省の鍛冶司に属し、調庸徭を免じられるかわりに毎年一〇月から翌年三月まで朝廷に出仕して銅鉄器=兵器・鍋釜・銭貨等の製造に従事)のように農閑期に官司において労役させられるもの 筥戸(はこべ:大化前代の職業部の内、その技術の軍事的重要性のために解放されず、令制諸官司に強力に掌握された集団)のように毎年一定の製品を貢納したものなどの形式があった。その代替として調及び雑徭などの課役の一部が免除され兵役も免除されたが、品部と比較すると、内容・待遇の両面において重労働に従事したと考えられている。 「阿多隼人」の後裔の場合、 中央の官船集結拠点を本拠地としながら、地方各地の官船展開拠点に「転住」することを伴った待遇が 「定住」を前提とする品部にはない過酷さだった。 そして根無し草的な「転住民」性が賎民とされた一因だったと考えられる。) すでに、 「弥生人」の二重構造から「古墳人」の三重構造へ 最近の庶民の人骨の遺伝子調査の結果、「弥生人」と「古墳人」の遺伝子様相と渡来ルーツについて、様々な新発見がなされていることはすでに触れた。 ここでは、 新発見の事実が、以上検討してきた<主要民族>および<主要渡来系勢力>の動向を反映していることを、以下の概念整理で示して、本論シリーズの結論としたい。 #
by cds190
| 2024-01-24 15:29
2023年 12月 31日
(2)https://cds190.exblog.jp/30504935/からつづく。
日本の墓制について基礎事項を確認する 日本の墓制について基礎事項を確認しておこう。 ・縄文時代は、各住居のそばに埋葬することが一般的だったが、 弥生時代になると集落の近隣に共同墓地を営むことが一般的になった。 ・縄文期には、地面に穴を掘り遺体を埋葬する「土壙墓(どこうぼ)」が中心だったが、 弥生期は「甕棺墓」「石棺」「木棺」などが埋葬用の棺の中心となっていった。 ・弥生時代の墓制は、大きく三段階に分けられる。 第一段階は集団墓・共同墓地 →首長が固定化されず、支配層と被支配層が未分化① 第二段階は集団墓の中に不均等が出てくる →②=①と③の中間段階 第三段階は集団内の特定の人物あるいは特定のグループの墓地あるいは墓域が区画される →首長や首長層の権威が象徴化され、支配層が世襲制で固定化されて被支配層と分化③ * 以上三者は段階であって、時期ではないので、段階が同時に現れることが起きる →稲作を伝授した金属器時代人の渡来民と、先住民である新石器時代人の縄文人との関係性 次に、日本の「支石墓」の出現当初の様相について基礎事項を確認しておこう。 ・日本の「支石墓」は、数個の支石の上に長方形に近い天井石を載せる「碁盤式」である ・極東に限ると、 浙江省温州市で30を超える「石棚墓」が発掘さている。「石棚墓」とは日本でいう「支石墓」のことである。この墓制は、紀元前1700年~紀元前256年頃にかけて江南地方で営まれ、「石棚墓」の下には甕棺も埋葬されている。 長崎県には、縄文時代終末期(<❷「出雲族」が渡来した段階>の初め)に築造が始まる下部に箱式石棺を伴う「支石墓群」が複数あり、浙江省との類似が指摘されている。 ▽雲仙岳の南(南島原市北有馬町)の原山支石墓群=★8 ▽江迎湾に注ぐ鹿町川の南岸丘陵地上(佐世保市鹿町町深江)の大野台支石墓群=★3 ▽諫早市と大村市の市境・風観岳(諫早市下大渡野町)の風観岳支石墓群=★5 (同時期に、長江下流域の稲作漁労民が東シナ海を渡り九州に渡来し、菜畑遺跡の紀元前935年頃の直播と思しき水田跡を展開していること 長江下流域を脱出した稲作漁労民の渡来は、九州西岸だけでなく朝鮮半島西岸南部にも至ったこと との関連が推察される。) 佐賀県にも、縄文時代終末期(<❷「出雲族」が渡来した段階>の初め)に築造が始まる「支石墓群」がある。 ▽吉野ヶ里遺跡近くの背振山地際(金立町大字金立)の久保泉丸山遺跡の下層の金立支石墓群 上石を失った支石墓の下部構造だけが19基分残っていた。 ということは、 五島列島に逃れた呉遺臣の後裔の内、海上移動性を活かして「転住民」化を望むものが遠隔地交易を志向して博多湾地方に渡来して「安曇氏」となったのに対して 故地の長江河口域でしていた稲作を志向して「定住民」化を望むものが吉野ヶ里の地に渡来した とする私の仮説に関連して、 そもそも呉の滅亡が紀元前473年だから、その500年ほど前の紀元前1000年前後には、すでに有明海北部地方に金山支石墓群をはじめた人々がいたことになる。 私個人的には、 同時期の長崎県沿岸部の支石墓分布と異なり、有明海北部内陸部に立地し、博多湾地方から平野部が連絡することから それは「出雲族」の当初の、朝鮮半島東岸経由で九州に渡来した前身一派だった と考える。 同時期に「支石墓」が長崎県沿岸部と有明海北部内陸部に分布することから、両者の関係性が推察される。 長崎県沿岸部を含む松浦地方では、その津々浦々を母港とした縄文人交易民「倭人」が展開していた。「出雲族」は、縄文人を対等な交易相手として協働し、縄文人の部族社会を温存しつつ、首長と族長が「交易ビッグマン」同士として姻戚関係を結んだと考えられる。その結果として彼らは「支石墓」を共通墓制としたのではないか。 (「出雲族」の前身諸派には、 渡来当初からある時期までは諸派同士で連鎖して、大陸の都市市場を最終消費地とする遠隔地交易を展開していたが、最終的に同盟「出雲族」という対大陸交易の枠組みには参加しなかったものが含まれる。 その経過のさまざまで、本拠地に「安曇氏」が参入してきてそれに取り込まれたり、同盟せずに自己完結する遠隔地交易にこだわったり、「テュルク族」が侵攻占拠してきてその政商型交易者に転じたりした可能性が考えられる。 典型的には、 産鉄拠点でありかつ海上交通の要衝である吉備や丹後を本拠地とした遠隔地交易民である。 吉備や丹後は、「濊(わい)人」が「テュルク族」を下して初期ヤマト王権を樹立した後も特異な立ち位置と動向を示した。そこを支配した「濊(わい)人」首長層が、大和地方の王権中枢の「濊(わい)人」首長層と対峙した。それには、朝鮮半島の百済や新羅の支配層を構成した「濊(わい)人」首長層や、北九州に留まってその支配者となった「濊(わい)人」首長層との連携という政治的背景があった。 そして、吉備や丹後では、初期ヤマト王権の政商型交易者となった「安曇氏」や「倭人」とは異なる遠隔地交易民、つまりは元「出雲族」前身一派が独自の交易活動を展開した。 彼らは、同盟「出雲族」には参加しなかった元「出雲族」前身一派であり、いわゆる「国譲り」で初期ヤマト王権に取り込まれずに、独自の対外交易を継承発展させたと考えられる。 墓制との関わりでは、 吉備には全国で4例しかない「双方中円墳」である楯築墳丘墓があることが注目される。 瀬戸内海の対岸(香川県高松市)に石清尾山(いわせおやま)古墳群(猫塚古墳、鏡塚古墳、稲荷山北端1号墳の3基)がある。残る2例は、櫛山古墳(奈良県天理市)と明合(あけあい)古墳(三重県津市)である。 丹後半島は、竹野川流域に日本海側ベスト3の大型前方後円墳が集中している(網野銚子山古墳、新明山古墳、蛭子山古墳)。弥生時代以来、ガラス細工や製鉄などの高度な技術集団がいて、4世紀から5世紀にかけてを最盛期として初期ヤマト王権に対抗した。日本で一番古い(2世紀後半)の水晶玉作り工房跡(京丹後市の奈具岡遺跡)や、(5世紀後半~6世紀後半の)製鉄所遺跡(京丹後市の遠所遺跡)が確認されている。 それぞれの時代に新たな技術を携えた渡来民がやってきたとしても、吉備と丹後半島が海上交通の要衝だったことを踏まえれば、その招聘や入植も含めて従来からの遠隔地交易民が政治的な環境変化に対応しながら、自分たちの対外交易を継続的に発展させてきたと考えるのが自然である。) 支石墓の分布・非分布から「出雲族」「倭人」「安曇氏」の動向を探る 「支石墓」は、 縄文時代末期に(長崎県の)松浦地方と(佐賀県の)有明海北部内陸部に出現していることはすでに述べた。 弥生時代中期以降は、「安曇氏」の本拠地となった博多湾地方(「伊都国」)にほとんど分布せず、糸島半島から西の唐津湾地方を含む松浦地方(「末盧国」)に集中していく。(「末盧国」は「倭人」が弁辰人に建てた「くに」とされるが、鉄器製造職人を入植させたということではないか。「濊(わい)人」の南九州上陸(天孫降臨)の橋頭堡となったと考えられる。) 注目されているのは、 九州の「支石墓」が朝鮮半島と同系統であるにも関わらず、対島と壱岐には分布しないことである。 「支石墓」伝播の中継地になっていないとも考えられているが、長江下流域からの「石棚墓」伝播が朝鮮半島西岸と九州西岸に直接的に至った可能性を指摘できる。 また、 「支石墓」は南九州になく、本州四国の展開はほとんどない。 こうした「支石墓」の分布と非分布から、有明海北部地方に展開した「出雲族」の前身一派の交易活動における、縄文人交易民「倭人」との関係性と、海洋系縄文人「隼人」との関係性の違いが推察される。 (「出雲族」は、縄文人を対等な交易相手として縄文社会を温存して協働した。ただし、それまで固定化されていなかった縄文人部族の族長を、諸派の「交易ビッグマン」がその娘を娶って世襲制化した。姻戚関係を結ぶことで協働関係及び交易関係を維持安定化するためだった。その際、彼らを権威づけるべく青銅器の威信財を贈与したり「支石墓」のような新たな墓制を伝授したと考えられる。 ではなぜ、南西諸島から南九州にかけての各海域で島嶼交易や沿岸交易をしていた縄文人「隼人」に対しては、「支石墓」の共通墓制を伝授しなかったのか。考えられる可能性は2つある。 (a)各海域の縄文人「隼人」との協働関係及び交易関係の質量ともに小さく、対応した「出雲族」前身一派の「交易ビッグマン」が「隼人」の族長たちと姻戚関係を結ぶに至らなかった (b)すでに各海域の縄文人「隼人」の族長たちを束ねる主体がいて、「出雲族」前身一派の「交易ビッグマン」はこの主体と連携した。具体的には、マレー系の中国南部沿岸由来の産鉄能力と向かい風を進める外洋航海船の造船操舵能力がある「阿多隼人」(と後世に呼ばれる遠隔地交易民)である。縄文人「隼人」の族長は、彼らとの関係性を反映した墓制をとった 私個人的には、「阿多隼人」が南西諸島に展開し始めたのは、前漢武帝が南越を滅ぼしてその地と周辺の異民族の地に郡を設けた時代だったと捉える。 南越は、秦崩壊時に漢人が建てた国で、前漢に外藩国として服属していたが、武帝は内藩国になるように圧力を掛けたが従わなかったために滅ぼされた。つまりは、武帝は朝鮮半島の直接経営に乗り出して「漢四郡」を設置した東夷政策と同じことを西南夷政策として行った。夜郎(貴州省もしくは雲南省あたり)と滇(てん、雲南省東部)だけは残して王に封じた。 野郎は『史記』によると当時、西南エリアの最大国家で、南越国討伐の際に蜀郡(四川省)で産出され枸醤こうしょう(果物の調味料)が野郎からもたらされた。現地に郡県を設置し夜郎王族を県令に任じることとした使者との面会の場で「夜郎事大(夜郎自らを大なりとす)の故事成語が誕生したという。 滇(てん)の遺跡からはこの時代のものと思われる青銅器とともに「滇王之印」と書かれた印鑑が発掘されている。この印と日本の福岡県で出土した「漢委奴国王印」とが形式的に同一であることが指摘されている 対外的に拡張政策をとり対内的には鉄官政策をとる前漢武帝は、インドシナ半島と行き来したマレー系の遠隔地交易民の求めた中国南部への上陸(交易拠点をもつこと)を拒絶した。それが契機となって「阿多隼人」は西南諸島に展開していった。とすればそれは、紀元前108年の「漢四郡」設置と同時代ということになる。 前漢武帝は、対外的には交易機会を求める拡張政策を展開したが、産鉄能力のある異民族の国内受け入れには慎重で、特に鉄官政策で管理できない遠隔地交易民が国内に交易拠点を設けることは拒絶したと考えられる。 話を戻すと、 有明海北部地方に展開した「出雲族」の前身一派の交易活動において 彼らが海洋系縄文人「隼人」と「支石墓」のような共通の墓制を伝授しなかった理由は 紀元前2世紀初めまでは(a)、それ以降は(b)という経緯だった と考えられる。 紀元前1000年前後には、すでに有明海北部地方に金山支石墓群をはじめた人々がいた それは「出雲族」の当初の、朝鮮半島東岸経由で九州に渡来した前身一派だった ということはすでに述べた。 彼らは当初、(開墾地稲作として)菜畑遺跡の縄文時代終末の水田跡で行われた熱帯ジャポニカの水陸両用に近い原初的な水稲作をして、米を交易活動を支える食糧として、かつ縄文人交易民「倭人」との交換財として確保したと考えられる。 そしてずっと時代は下って、 紀元前400年前後、「安曇氏」が、「倭人」と「出雲族」前身一派が共生していた博多湾地方に五島列島から渡来。 紀元前300年前後、その「安曇氏」が、越遺民の稲作民を越中に入植させ、対朝鮮半島交易の基軸通貨ともなる温帯ジャポニカ米の乾田稲作をする大規模稲作拠点の群展開を始めた。(それは排他的領域を必要とするものだったため、博多湾地方では先住民「倭人」と先行者「出雲族」と共生していてできなかった。) 「安曇氏」に先行して、博多湾地方と有明海北部地方に展開していた「出雲族」の前身諸派は、縄文人を対等な交易相手として、縄文社会を温存し支配層から混交して連携した。「出雲族」は、北九州沿岸と朝鮮半島南端を本拠地として行き来した縄文人交易民の「倭人」と共生し協働した。稲作は雑穀栽培とともに交易拠点や生産拠点の活動を支える食糧の自給自足を目的とし、土地土地の(遠隔地交易民ではない)一般縄文人が自己完結できる開拓と農耕を展開したと考えられる。 それに対して、 後発した「安曇氏」は、渡来当初から大規模稲作拠点の群展開による商品米の量産を目指していて、越遺民の稲作民の越中への入植を行なった。中国大陸のように大規模稲作拠点群で乾田稲作された温帯ジャポニカ米が基軸通貨的な主要交易産品になることを見越していた。 この段階で、 博多湾地方と有明海北部地方の「出雲族」前身諸派もこれに気づいて「安曇氏」に倣ったのだろう。五島列島の同様の稲作を目指して「定住民」化を望むものを吉野ヶ里の地に入植させた可能性がある。 やがて、 吉野ヶ里への入植者は自立性をもち、大規模稲作拠点群の連合から「くに」を志向していった。 紀元前108年の前漢武帝の「漢四郡」設置に呼応してその外臣化し、楽浪郡の出先機関として「くに」(伊都国)を建て、中国の巨大領域国家を後ろ盾にして博多湾地方を本拠地として占拠、大規模稲作拠点の群展開を瀬戸内から近畿へと進めていった。 「安曇氏」が排他的領土を主張する「くに」を建てて拡張政策をとるようになると、内陸平野部で隣接する吉野ヶ里の人々も統一的な防衛が必要になり、ムラ群が連合して「くに」を建てたということではないか。 ここで、 博多湾地方から「倭人」と同様に排除された「出雲族」の前身一派には、本州西端に逃れたものと、有明海北部地方の「出雲族」前身一派に合流するものがいた。 「出雲族」前身諸派はみな、政治的に中立の立場で平和裡な非軍需の全方位交易を一貫した。ゆえに、「くに」の支配層の威信財となる青銅器の装身具や銅剣などを、相手の領土に仮設工房を設けて製造供給することが許されたり求められたと考える。 国家主義で「領域国家」を志向し富国強兵を優先する「くに」は、鉄資源や鉄器の確保や製造を重視する。「安曇氏」も、主要交易産品として鉄資源や鉄器を重視していった。「出雲族」はこれにバッティングしない青銅器を意図的に重視していった。 (この「出雲族」前身諸派の傾向は、同盟「出雲族」にも引き継がれた。紀元100年前後に渡来した後、鉄器を媒介に「くに」ぐにを建てていった「テュルク族」にも同様の対応をした。「安曇氏」と「テュルク族」は、「倭国大乱」を収束させた卑弥呼共立で同盟関係になるまで、排他的領域を主張する二大勢力として対峙したが、「出雲族」は政治的中立と平和的な非軍需の全方位交易を一貫する。その際、「安曇氏」の勢力圏には銅剣、「テュルク族」の勢力圏には銅鐸を主要交易品目とすることで両者の示威競合を回避している。そして、この時期に同盟「出雲族」は経済的に繁栄し「国譲り」にピークを打つのだった。) 有明海北部地方の「出雲族」前身一派は、 本州の「出雲族」前身諸派との連鎖を媒介していた博多湾地方の「出雲族」前身一派が解消した後、 前漢楽浪郡を後ろ盾にして博多湾地方を占拠して拡張政策を進めた「安曇氏」と内陸平野部で対峙する状況において、 対大陸の環日本海交易の枠組みである同盟「出雲族」には参加せずに、 吉野ヶ里の人々が農本主義でムラ群を連合して建てた「くに」の体裁を整えることを平和裡な非軍需の交易活動によってバックアップした。 ただし、吉野ヶ里の人々に味方して「安曇氏」と敵対した訳ではなく、「安曇氏」や「テュルク族」が鉄素材と鉄器を重視して富国強兵を図ったのに対して、政治的中立を保ち青銅器の威信財を筆頭に非軍需の交易活動に徹することで、「安曇氏」とも交易関係を持ったと考えられる。「安曇氏」の「くに」や飛地的な排他的領域においても、仮設工房における青銅器製造を許されたり求められたと考える。 近年の発掘調査によって、 「安曇氏」の産業拠点の「くに」である「奴国」の王都とされる須玖岡本遺跡周辺部では、弥生時代中期から引き続いて盛んに青銅器やガラス製品、鉄器などを生産していたことが分かってきた。 わが国最大規模を誇る青銅器工房で大量に生産された銅矛などは、西日本各地から朝鮮半島南部にまでもたらされていて、主要な輸出品目だったことが分かる。 私個人的には、このような青銅器工房も、「出雲族」が「安曇氏」からその領域内での青銅器製造を許されたり求められた仮設工房だったと考える。 有明海北部地方の「出雲族」前身一派の対大陸交易にフォーカスすると、 彼らも、九州の青銅器生産のセンターを誇る青銅器工房を展開していて、隣接する松浦地方の「倭人」を介して朝鮮半島南端側の「倭人」と連鎖した。 そして、青銅器製造に必要な鉛などの華北の産品を輸入するには、前漢楽浪郡→後漢帯方郡→魏の出先機関として「くに」を建てていた「安曇氏」を介した。本州の「出雲族」前身諸派や同盟「出雲族」の展開する環日本海交易を介することは、遠回りに過ぎたと考えられる。 以上のような交易活動を有明海北部地方の「出雲族」前身一派がする際、その輸出品は、「安曇氏」のアウトソーシングを含めて青銅器であった。 問題は、 南九州から南西諸島に展開した縄文人交易民「隼人」(またはそれを率いた「阿多隼人」)を介して華南とした交易活動 中国側の遠隔地交易民の直接的な行き来を受け入れて華中とした交易活動 において 有明海北部地方からの輸出品ないしは持ち帰り品は何だったのか である。 必須条件としては、 中国の都市市場を最終消費地とする軽薄短小で希少価値があるモノ 比較格安で反復的な需要があるボリュームゾーンの普及商品(ハイエンドの逸品ではない)であるモノ でなければならない。 思い浮かぶのは、 本州北部の「出雲族」前身諸派からもたらされた昆布やアワビの干物 山陰北陸の同盟「出雲族」からもたらされた薬種(『出雲風土記』にあるような日本独自のもの) といった原材料である。 四隅突出型墳丘墓の分布・非分布から同盟「出雲族」に参加しなかった元「出雲族」前身諸派の動向を探る 紀元前108年の前漢武帝の「漢四郡」設置に呼応してその外臣化し、楽浪郡の出先機関として「くに」(伊都国)を建て、中国の巨大領域国家を後ろ盾にして博多湾地方を本拠地として占拠、大規模稲作拠点の群展開を瀬戸内から近畿へと進めていったことはすでに触れた。 この時期、 民博編年では弥生時代中期後葉、 「安曇氏」の動きに対抗するかのように、 「出雲族」前身諸派は、山陰から(北近畿を除いて)北陸(越中)にかけて「四隅突出型墳丘墓」を共通墓制として同盟「出雲族」を形成していった。 (「四隅突出型墳丘墓」は、 かつては中国山間部で一元的に誕生し日本海沿岸部に伝播したと考えられたが、島根県出雲市「青木遺跡」で出現期の様相をもった四隅突出型墳丘墓(青木4号墓)が発見され、出雲地域にも古い時期から四隅突出型墳丘墓が造られていたことが判明している。 弥生後期後葉から末葉においては、島根半島西部では西谷墳墓群(島根県出雲市、西谷2号墓・3号墓・4号墓・9号墓)、島根半島東部では仲仙寺古墳群(島根県安来市、仲仙寺9号墓・10号墓)、宮山Ⅳ号墓などが代表的な墳丘墓であり、この時期に島根半島の西と東に大きな政治勢力が形成されたものと考えられている。 しかし、私個人的には、 同盟「出雲族」の内部で、島根半島の東西の内海の交易拠点としての利用が分担されたものと考える。 つまり、 西の神戸水海は対大陸交易の拠点であり、環日本海各地の「交易ビッグマン」たちが集合しビジネスメッセをした知識労働が展開し 東の中海は日本列島内交易の拠点であり、日本各地の輸出産品を集荷して外洋航海拠点である隠岐に向けて積み出し、隠岐から輸入産品を荷揚げして日本各地に向けて荷分けする肉体労働が展開した と考える。 また、 西谷3号墓の埋葬施設が、ほぼ同時期の吉備の楯築墳丘墓のそれと同じような構造の「木槨墓」(もっかくぼ)であることが注目される。埋葬後の儀礼に用いた土器の中に、北陸系の器台・高杯や吉備の特殊器台・特殊壺などが大量に混入していた。 吉備の遠隔地交易民は、四隅突出型墳丘墓を共通墓制とする同盟「出雲族」には参加しなかったものの、それは対大陸交易の枠組みの話であって、元「出雲族」前身諸派同士の交易関係は維持発展したことを示している。 また、 側面に貼石を巡らす「四隅突出型墳丘墓」の起源については、朝鮮半島起源説、「方形周溝墓」起源説、「貼石方形墓」起源説があり、最後者が定説となっている。 しかし、私個人的には、 貼石を巡らす墳丘墓の築造法は間違いなく朝鮮半島北部由来であり、一方、形態は造墓主体が意図的に継承したり差別化したりするので、一元的に起源があって進化したり分布したという捉え方にどれほどの信憑性があるのか疑問を抱く。 「貼石方形墓」は、丹後を中心に近畿北部に分布し、四隅に突出しないこと、周囲に溝を巡らせること、中期の段階で大型化(四隅突出型墳丘墓に先行)することを特徴とする。 ここで、丹後の弥生中期の前から後にかけての墓制の推移を見ておこう。 弥生時代前期から中期前半、造墓活動が山の上で開始され、立地が同じでも形態の違う二種類の墳墓が存在。丘陵を削り出して方形のマウンドを作り出した「台状墓」と、丘陵上の平坦地に溝を巡らせた「方形周溝墓」である。この時期の埋葬施設からは玉類や石鏃が出土している。 中期中頃から中期末、墓は山の上から降りて集落に隣接。これは、近畿地方中央部で「方形周溝墓群」が居住域に隣接して築かれたのと同じだが、墓の種類は豊富で、近畿中央部で一般的な「方形周溝墓」以外に、西部瀬戸内に多く見られる「円形周溝墓」、前代から続く「方形台状墓」、そして「方形貼石墓」の4種類が存在している。この内、「方形貼石墓」は山陰地方を中心に分布したもので、島根県や広島北部で中期に発生し、隅部が発達したのが四隅突出墓であり後期に大型化している。 つまり、丹後では、同盟「出雲族」が形成される前に、墓制の異なる数種の遠隔地交易民が集結し協働していた可能性がある。 「テュルク族」の渡来は紀元100年前後とすれば、それは民博編年で後期であるから、中期中頃から中期末の丹後の造墓主体は「出雲族」前身諸派と「安曇氏」ということになる。 よって、 近畿北部の4種類の形態の造墓主体は、 山陰地方に一般的ながら四隅突出には向かわなかった「方形貼石墓」 →元「出雲族」前身一派でありながら同盟「出雲族」に参加しないで 環日本海に限定しない自己完結的な対大陸交易をした遠隔地交易民 (丹後の交易活動の大枠を方向づける主導層) 近畿中央部で一般的な「方形周溝墓」 →近畿中央の「出雲族」前身諸派に由来し同族と交易する中距離交易民 西部瀬戸内に多く見られる「円形周溝墓」 →瀬戸内の「安曇氏」に由来し同族と交易する中距離交易民 前代から続く「方形台状墓」 →山陰北陸の元「出雲族」前身諸派同士の交易を続ける近隣交易交易民 と考えられる。 丹後半島では、平地の「方形周溝墓」は見つかっていないが、丘陵上には「台状墓」と「方形周溝墓」の存在が知られている。加えて、丹後半島を中心に広い範囲で「方形貼石墓」が見られるという。いずれの墓も居住地に隣接して営まれていた。 しかし、後期になると一斉にこれらの墓制は姿を消し、居住域から離れた丘陵上に営まれる「台状墓」の墓制に統一される。遺跡数も中期までに比べてはるかに多くなり、後期に造墓活動が盛んになったことが分かる。 後期は、同盟「出雲族」の共通墓制である四隅突出型墳丘墓が居住域から離れた丘陵上で大型化した時期でもあり、四隅突出型墳丘墓の造墓が加賀北部や越中東部に拡大した時期と重なる。 弥生時代後期、 丹後半島の遠隔地交易民と同盟「出雲族」が、対大陸の遠隔地交易をする勢力として、活動圏域と交易ビジネスモデルを違えて対峙した ということが見てとれる。 丹後半島は、その内部で遠隔地・中距離・近隣交易民の「交易ビッグマン」が集結した のに対して、 四隅突出型墳丘墓を共通墓制とする同盟「出雲族」は遠隔地交易民の「交易ビッグマン」同士がネットワークした それは、それぞれの交易活動のコアコンピタンス(競合の追随を許さない優位性をもつ独自の技術や開発力)となったと考えられる。 弥生時代後期、 ガラス釧が出現する。その出土は、筑前(博多湾地方)の二塚遺跡甕棺墓、出雲の西谷2号墓、丹後の比丘尼屋敷墳墓と大風呂南1号墓の4遺跡である。 注目されるのは、大風呂南1号墓から出土したアクアブルーのガラス釧で、同様のものが後漢代のベトナムに認められるという。また、この時期、大量のガラス製品が流通していたのが北部九州と丹後だけであることから、丹後の遠隔地交易民は、対大陸交易の枠組みとしては同盟「出雲族」ではなく「安曇氏」と連携し、「安曇氏」の対華中交易(渡来以来、続けてきた故地との交易)を介して中国南部産やベトナム北部産のガラス製品を入手したのかも知れない。) 吉野ヶ里遺跡のある有明海北部地方に展開した「出雲族」前身一派も、四隅突出型墳丘墓を共通墓制とする同盟「出雲族」には参加しなかった。彼らも、対大陸交易の枠組みとしては、丹後半島の「出雲族」前身一派と同様に環日本海交易ではなく、環東シナ海交易を志向した。 松浦地方の「倭人」を介して朝鮮半島西岸南部と、南西諸島から南九州にかけての縄文人交易民である「隼人」(あるいは「隼人」を束ねていた「阿多隼人」)を介して華南と連鎖したと考えられる。 環日本海各地の「交易ビッグマン」たちが原材料を持ち寄りそれをアッセンブルした完成品を持ち帰る同盟「出雲族」の交易ビジネスモデルは、彼らだけができる特殊なものだった。丹後半島や有明海北部地方の元「出雲族」前身一派が行った対大陸交易は、他の遠隔地交易民を介した連鎖として行うか、直接に行き来する大陸の遠隔地交易民を受け入れて行うかする、同盟型ではない一般的なものだった。 すると、 同盟「出雲族」の交易ビジネスモデルは、大陸側の環日本海各地の「交易ビッグマン」とも同盟して行うものである。そんな同盟型ならばある交易相手との相互補完的な協力がない。脱国家主義の「自由貿易」前提のベンチャー型交易だけでは安定性に欠ける。 そこで、 丹後半島の「出雲族」前身一派は 近畿で「くに」ぐにを連合政府「邪馬台国」で取りまとめた「テュルク族」の交易を 有明海北部地方の「出雲族」前身一派は 「ムラ」ムラを連合して「くに」を建てた吉野ヶ里の人々の交易を 一手に引き受ける政商型交易者に転じていった と考えられる。 それは、 国家主義の「管理貿易」に降るというものではなく、文明文化的に先行したものが交易活動においてイニシアティブを持って「くに」の体裁を整えるコンサルティング・セールスをしたのであって、そういう意味でのベンチャー型交易であり続けた このような対大陸交易をする遠隔地交易民のあり方は、「安曇氏」も、自動的に同盟関係になった「テュルク族」に対してその魏朝貢交易を補佐した時に始めて、初期ヤマト王権に重用されてその「管理貿易」を独占する政商型交易者となった時に本格化している と言える。 ちなみに、 丹後半島では、そこを中心に近畿に分布する「貼石方形墓」が、同盟「出雲族」の共通墓制である四隅突出型墳丘墓に先んじて弥生時代中期に大型化している。 吉野ヶ里では、華中と華北に起源を求められる吉野ヶ里墳丘墓が、紀元前150年頃、民博編年で中期後葉に出現している。 こうした大型の造墓活動は、副葬品を含めて、遠隔地交易の成果が結集している。 対大陸の遠隔地交易民の政商型交易者が「くに」の体裁を整えるコンサルティング・セールスをした結実であり、 最先端の造墓や石工や鑿製造の技術を持った職人を大陸から招聘してのハイエンド・サンプル作りでもあった。 それが標準化して多数展開する段階では、量産体制が必要になり、大陸職人の入植や必要原材料の大量確保という対大陸の遠隔地交易、その派遣や供給という日本列島内の中距離・近距離交易がルーティン化したと考えられる。 支石墓の分布・非分布から北九州と本州西端エリアの動向を探る そもそも支石墓は、 ここで、 土井ヶ浜遺跡について、少し詳しく触れておこう。 土井ヶ浜遺跡は、山口県下関市豊北町土井ヶ浜にある弥生時代前期から中期の墓地遺跡であることはすでに述べた。 民博編年では、紀元前800年頃から紀元頃までの長い期間である。 それは、 北部九州において ・「出雲族」の初期の前身諸派だけが渡来し、先住した縄文人交易民の「倭人」と共生し、「安曇氏」がまだ渡来していない時期 〜紀元前400年前後(板付式土器) ・「安曇氏」が渡来して先住民「倭人」、先行者「出雲族」と共生した時期 紀元前400年前後〜紀元前108年(城之越式土器) ・「安曇氏」が前漢楽浪郡を後ろ盾に占拠し「倭人」を松浦地方に、「出雲族」を本州西端に追いやりそれぞれと対峙した時期 紀元前108年〜(須玖式土器) に相当する。 「鵜を抱く女」という女性人骨(1号人骨)。 胸部から鳥の骨が検出されたことから鳥を抱いて埋葬されたものとされる。 弥生時代の人々は、鳥を神の国と人の世の仲立ちをする使者と考えていたことが判っていて、この人骨は女性シャーマンと推定されている。 鵜が水田稲作を行う集団にとって特別なトリとみなされたとも推定されている。 水田に合鴨を泳がせて雑草や害虫を食べさせる合鴨農法のような想定だとしたら、鴨は放し飼いができる留鳥の川鵜ということになる。 一方、鵜飼漁で使う鵜は海鵜であり、海鵜は渡り鳥だから放し飼いはできない。 私個人的には、 女性シャーマンが抱いていた鵜は、毎年決まった時期に往還する渡り鳥の海鵜であり 当地の「出雲族」の前身一派が「自分たちの魂を故地に結びつける」特別なトリとみなした それは、稲作民の信仰ではなくて 環日本海交易の連鎖に連なった遠隔地交易民としてのアイデンティティを示す信仰だった と考える。 (土井ヶ浜遺跡の埋葬の様子は、砂地を掘り、その中に遺体を安置し、砂で覆う簡単なものが大半である。 弥生時代の被葬者は一般的に、頭を東に向け、両手を胸で合わせ、足をやや折り曲げて足首を縛った仰臥の姿勢をしている。本遺跡の被葬者も共通しているのだが、響灘沿いの丘陵地にある本遺跡は、頭を少し上げ大陸につづく海を眺めるかのように葬られていることが注目されている。 これも「自分たちの魂を故地に結びつける」墓制とすれば、「鵜を抱く女」と信仰上の一貫した文脈を捉えることができる。 「戦士の墓」という「英雄」とされる男性人骨(124号)の墓。 78人以上の人々と共に海岸の墓地に眠っていた弥生前期(*従来編年では紀元前200年前後)の人骨で、胸から腰にかけて15本の石鏃が(至近距離から)打ち込まれていた。体格がいい成人男性で、右腕に南島産のゴホウラ貝製の腕輪をしていた。ムラを守った「英雄」と想定されている。 「出雲族」は縄文人と敵対せずに共生したと考えられ、また「出雲族」は「転住民」性が強く容易に拠点を転じたからその前身諸派同士で激しい戦争をしたとは考えにくい。 激しい戦争をするとすれば、排他的領域を主張する(中国の巨大領域国家の出先機関として「国」を建てた後の)「安曇氏」の拡張政策に対する専守防衛ということになる(*しかし、それが想定されるのは民博編年では、弥生中期の半ば=紀元前200年前後より後)。 その場合、「英雄」に(至近距離から)15本の石鏃を打ち込んだのは、響灘を渡ってきた「安曇氏」の上陸部隊か、軍船同士の海上戦で船に乗り込んできた敵戦士と考えられる。その酷い様相をそのままに埋葬したのは、葬祭において防衛意識を維持強化するためだったのだろう。 中国語の「英雄」のニュアンスは、日本語の「英雄」のニュアンスと少し違って、必ずしも民や国を救ったヒーローを意味するとは限らない。抜群の戦闘能力を誇った勇者を意味して、その中には結果的に民や国を救った者もいるというニュアンスである。つまり、中国由来の「出雲族」は、最も酷い仕打ちを受けた、体格のいい抜群の戦闘能力を誇った(貝輪のような威信財を装着する身分にあった)勇者を象徴的に埋葬したものと考えられる。前の戦争で言えば、戦功を上げて殉職した者を位を上げて葬って軍神としたような展開である。 この「英雄」人骨については、ゴホウラ貝製の腕輪を装着していたことから南方系の人々との関係が推定されている。 しかし、私個人的には、 青銅器時代人であり、かつ遠隔地交易民である「出雲族」であると前提して 彼らがゴホウラ貝製の腕輪を威信財としたとは考えにくく 当地の「出雲族」前身一派が、運命共同体的に共生した当地の縄文人の協働者(平時は交易拠点で交易活動の一端を担っていて戦時に戦士となった)に対して、彼らの間で威信財とみなされる貝輪を贈与した 弥生時代の貝輪は、縄文時代の貝輪と異なり、遠海産の貝を金属製工具で加工したものであり、当地の縄文人が自作できない貝輪が彼らの間で「出雲族」との関係性を示す威信財となった と考える。 (「出雲族」は縄文人を対等な交易相手や協働者とみなし、「交易ビッグマン」が縄文人部族の族長の娘を娶って交易関係を樹立して混交も進んだから、混血者の可能性もある) 土井ヶ浜人。 頭が丸く、顔は面長で扁平で、四肢骨は長く、男性の平均身長は縄文人より3〜5センチほど高く163センチメートル前後と推定された。 形質が縄文人とは異なっていることから、 ・朝鮮半島(北部)からの渡来者と土着の縄文人との混血 ・中国東北地方あるいは東シベリアに起源地がある渡来人 との説があったが、形質的な根拠は確認できなかった。 最近の調査でよく似た形質を持つ人骨資料が多く見つかったのは、 ・中国山東省の遺跡で発見された漢代の人骨資料 だった。 「出雲族」の前身諸派は、殷遺民以来、繰り返し中国の動乱や戦乱を逃れて朝鮮半島北部東岸の環日本海交易拠点を経て日本列島に来たった遠隔地交易民である。そしてその渡来ルートとして、山東半島から遼東半島に渡り朝鮮半島北部東岸に出るルートが考えられ、漢代までに山東半島で止まった者と日本列島まで到達した「出雲族」の前身諸派とが形質的によく似ているということかも知れない。 ここで重視すべきは、 近世人骨において、本州西端エリア(山口県)と、関門海峡を挟んだ対岸の九州東北部エリア(北九州市)で異なる様相を示していることである。 一方、関門海峡を挟んだ両エリアの異なりは、階層差や都市村落の違いを超えたそれらを含んだ全体の異なりである。そしてそれは、人の移動が許されない江戸時代や、西日本で庶民レベルの大きな民族移動があったとは考えにくい中世そして古代を超えて、弥生時代の民族分布に由来すると考えられる。 #
by cds190
| 2023-12-31 18:15
2023年 12月 23日
(1)https://cds190.exblog.jp/30503891/からつづく。 その2 ◯❷「出雲族」が渡来した段階 <❷「出雲族」が渡来した段階>の初め(3000年前頃、紀元前1000年頃)には、長江下流域で稲作に特化した選別型農耕をしていた稲作漁労民が東シナ海を渡り九州に渡来し、菜畑遺跡の紀元前935年頃の直播と思しき水田跡を展開している。 彼らも⑧のルートで瀬戸内地方を東進したと考えられる。 一方、 「出雲族」の殷遺民の最初の前身一派が東北北部に青銅製刀子をもたらしている(出土地:山形県遊佐町吹浦三崎山出土)。 その刀子は、平成13(2001)年に東京文化財研究所が行った分析の結果、中国商時代の特に殷墟出土の青銅器と同じ鉛の成分率であると報告された。中国の他、シベリアなどでの出土例も報告されている「オルドス型」であり、殷遺民由来の「交易ビッグマン」が環日本海交易の新たな拠点開拓を目指して日本海を渡ってきた可能性を示している。 (細型銅剣について、春秋戦国時代(紀元前770~同221年)の「オルドス式」と似た特徴がある鋳型が、滋賀県高島市の上御殿遺跡で出土している。九州などで出土した細型銅剣は、中国の遼寧式銅剣がモデルで朝鮮半島を通じて伝わったとされ、「オルドス式」は朝鮮半島にも出土例がないため、中国から(朝鮮半島北部東岸以北を経て)日本海ルートで伝わった可能性が指摘されている。上御殿遺跡は日本海まで約30キロと近い。出土した鋳型の石材は九州や朝鮮半島の鋳型用石材と異なり、オルドス式にあるつばも無いため、「近畿の青銅器職人がオルドス式を参考に製造した可能性がある」とされている。 彼らも、本州日本海側に展開した「出雲族」の前身諸派の一つだったと考えられる。) 青銅器文化と稲作文化を携えてやってきた「出雲族」の前身諸派は、刀子を実用するとともに、先住民の縄文人に対して威信財・威儀財として象徴的に示したと考えられる。 そこで、注目されるのが石刀である。 石刀の出土は、東日本がほとんどで、西日本は畿内や南九州に少なくある。 また、石刀の内、刃部と反対の側縁が曲面で結ばれるものは、信濃川から豊川ライン以西の中部地方から近畿地方に濃密に分布し、刃部と反対の側縁を二平面が挟むものは、東北地方から北海道地方にかけて分布する。 そして、後者の内反り石刀について、 青森県津軽半島の宇鉄遺跡(東津軽郡外ヶ浜町三厩下平)から出土した内反りの石刀が、中国の先秦時代に用いられた青銅製刀子を縄文人が模造したものであるとする喜田説が、大正時代に発表され、その約30年後に、鳥海山麓にある三崎山(山形県遊佐町、周辺に三崎山A遺跡)から、石刀と形状が類似する青銅製刀子が発見された。縄文後・晩期に現れる石刀は、大陸からもたらされた青銅製刀子の模倣であり、頭部や体部の意匠からオルドス地方やシベリアで見つかる青銅製の鈴首剣(殷後期〜西周前期に併行)に起源を求め、縄文人が大陸の光り輝く青銅製品を観て模したとみる見解が存在する。 私個人的には、 「出雲族」の前身諸派は、青銅製刀子を縄文人に威信財・威儀財として贈与する際、何らかの使い勝手を示した筈であり、 縄文人は青銅製刀子の見栄えだけでなく、その使い勝手に魅了された ゆえに、見栄えが全く違う石製でも模倣した と考える。 では、 内反りの青銅製刀子そして石刀は、どのような使い勝手だったのだろうか? 稲作との関連では、石包丁が稲穂の摘み取りに使われていた。 石包丁は、中国大陸から日本列島に分布する刃物状の磨製石器で、主に農耕の伝播に従ってその初期に普及したと見られている。 それは、手のひらに収めて使うもので、指に止める紐の穴が空いている。 稲などの穀物の穂を摘む石器としては半月形の石包丁があり、穀物栽培の伝来当初に大陸から伝わった磨製石器とされている。 青銅製刀子とそれを模した石刀の使い勝手は、稲作を想定した場合、形態からして明らかに石包丁とは異なる。 青銅製刀子を模倣した石刀は、稲や麦の刈り取りの際に茎を断つ鎌のように使われたのではなかろうか。 そこで浮上するのが、「火耕水耨(かこうすいどう)」という稲作である。 東北北部(山形県飽海郡)で、周初にもたらされたと思しき殷代の青銅製刀子が見つかっていてる。 これは、殷滅亡の紀元前1046年の次の西周代に渡来した「出雲族」の最初の前身一派がもたらしてものと考えられる。 青森県津軽半島北端の宇鉄遺跡から出土した内反りの石刀について、中国の先秦時代に用いられた青銅製刀子を縄文人が模造したものであるとの推定が、青銅製刀子が宇鉄出土の石刀と形状が類似することから裏付けられたことはすでに触れた。 私個人的には、 金属器時代人の「出雲族」の最初の前身一派が持ち込んだ稲作において青銅製刀子を使用した これに魅せられた縄文人が青銅製刀子を模倣した石刀で同じ稲作と同じ使用を展開した と捉えている。 具体的には、 後世、華北の先進畑作農法に比べて集約化の遅れた江南の農法を包括する名句となった〈火もて耕し,水もて耨(くさき)る〉「火耕水耨(かこうすいどう)」という稲作である。 その農法の実態は明らかになっていないが、一種の焼き畑農耕と思われる。晋の杜預(どよ)は墾地における農法と解釈している。後漢の応劭(おうしょう)は「草を焼き水を入れて稲を種(う)えると、草と稲とがともに成長する。その高さが7、8寸になったところで、ことごとく刈り取ってさらに水を灌(そそ)ぐと、草は死んで稲だけが成長する。いわゆる火耕水耨である」と解釈している。 想像するに、 ・西周代、「火耕水耨」が最先端の開墾地稲作だった ・それを「出雲族」の最初の前身一派が持ち込み、7、8寸に伸びた雑草と稲を刈り取る際に、青銅製刀子を使用した ・その後に水を灌(そそ)ぐと草は死んで稲だけが成長することに、縄文人は呪術性を感じ取って魅せられた ・縄文人は呪術性は青銅製刀子の形に由来すると思い、機能的にも刈り取りに適したその形を真似た石刀を自作して使うようになった という展開である。 私の想像はともかくとして、 青銅製刀子と石刀の類似は、「出雲族」の最初の前身一派と縄文人との共生関係を推測させる。 いずれにせよ、 「出雲族」の最初の前身諸派が穀物栽培をもたらしたとすれば、それも<❷「出雲族」が渡来した段階>の初め、紀元前1000年ころから紀元前900年ころにかけてのことだったということになる。 ただしその稲作は、 ほぼ同時代に北九州に菜畑遺跡に伝来した華中、長江下流域の稲作漁労民がしていた水稲作に特化した選別型農耕ではなく、 そもそもは華北、黄河流域の畑作牧畜民がしていた雑穀栽培に陸稲作を加えた網羅型農耕をベースにして、華中由来の水稲作に特化した選別型農耕の開墾地稲作をとらえた複合型とも言える「火耕水耨」だった可能性がある。 大陸の都市市場を最終消費地として狙う遠隔地交易民である「出雲族」の前身諸派は、(オオクニヌシ譚のように)主要交易産品の生産地の縄文人部族の族長の娘を娶って周り、お互いの交易活動を連鎖させることで日本列島内の生産拠点群を対大陸交易の後背地経済圏とした。 その際、縄文社会を温存して、縄文人が自己完結できる開墾と農耕を伝授して、その自給自足を安定化・効率化した。それが主要交易産品の縄文人による生産力を高めつつ交易活動に専念することを可能にした。 主要交易産品の生産地は必ずしも水利の良いところとは限らないから、渡来当初の「出雲族」の前身諸派が、充実した灌漑土木を要する水稲作に特化した選別型農耕を伝授したとは考えにくい。縄文人では自己完結できない開墾や農耕を伝授指導するようになったのは、自給自足のための穀物食糧の確保ではなく、交換財としての米の量産を目的とするようになった後世、おおよそ<❸「安曇氏」が渡来した段階>と考えられる。 渡来当初の「出雲族」の前身諸派が、開墾地稲作である「火耕水耨」をしたのは開拓の初期段階であり、穀物供給拠点のあり方が仮設的である間は水陸両用の稲作とも言える「火耕水耨」にとどまり、固定化されると灌漑を整えて雑草を抑制した普通の水稲作に転じた。 逆に、穀物の供給先である主要交易産品の生産拠点が解消されれば、「火耕水耨」の段階でも普通の水稲作に転じた段階でも水田は放棄されたと考えられる。 そこで浮上するのが、 縄文時代晩期終末から弥生時代前期にかけての本州最北端最古の水田跡遺跡、砂沢遺跡である。 砂沢遺跡は、発見された水田跡はわずか6面だったが、調査範囲を拡げれば増加すると推定され、75〜200平方メートル強の広さが推計されている。縄文文化の象徴である土偶が見つかり、この遺跡の性格に縄文文化の影響が強いことが確認されている。 津軽半島の根元、岩木山の北東麓に延びた丘陵の突端部、岩木川の左岸に位置し、現状は藩政時代の灌漑用の溜池の中に水没している。開墾の初期段階に開墾地稲作である水陸両用稲作の「火耕水耨」をして、後に穀物供給拠点として固定化されて普通の水稲作の転じた可能性が成立する立地である。 ◯❸「安曇氏」が渡来した段階 呉越同舟の呉(魏呉蜀の呉ではなく)が紀元前473年に滅んで、その遺臣が長江河口域からおそらく軍船で五島列島に逃れた。 私個人的には、 彼らが北部九州(博多湾地方)に渡来したのは紀元前400年前後で、この時に「安曇氏」という括りの勢力となった と捉えている。 遺臣は一族郎党を率いていて、山が海に迫り河口に広がる平野部がない五島列島では漁労によって食糧をえた。やがて軍船を操舵したものたちがその海上移動性を生かして遠隔地交易を志向し、故地で稲作に従事した経験のあるものたちが(五島ではできなかった)大規模稲作を志向する。 前者は博多湾地方に、後者は有明海北部の吉野ヶ里の地に渡来した。 吉野ヶ里の丘陵一帯に分散的に「むら」が誕生したのが弥生時代前期(民博編年では紀元前770年前後〜紀元前400年前後)とされる。よって、あくまで私の仮説において、後者の有明北部沿岸への渡来は、前者の博多湾地方への渡来よりも先行し、紀元前473年と紀元前400年前後の間の早い時期だったということになる。 この時代の北部九州には、そもそも北九州沿岸と朝鮮半島南端を本拠地にした縄文人交易民の「倭人」と、「出雲族」の前身一派が展開していて、両者は遠隔地交易民同士として役割分担して連携し共生していたと考えられる。 博多湾地方に後から参入した「安曇氏」は、遠隔地交易の本拠地として大規模稲作拠点を展開しさらにその後背地に群展開しようとしたが、共生する先行二者の存在がそれを阻んだ。そこで「安曇氏」は、博多湾地方で先行二者と共生することを前提に、呉を滅ぼした越が紀元前306年に滅びたことを受けて、(紀元前300年前後)越遺民の稲作民を越中(越:こし)に入植させて大規模稲作拠点を群展開したと考える。 なぜ、遠隔地交易を志向する「安曇氏」は、博多湾地方と大規模稲作拠点開拓にこだわったのか。 それは、博多湾地方が対大陸交易の要衝にすでになっていたためであり、故地の長江下流域では温帯ジャポニカの乾田稲作による米が量産商品化していて、それが対朝鮮半島交易で基軸通貨的な主要交易産品になるという確信を持っていたからである。 越王勾践のもとで宰相をしていて辞した范蠡(はんれい)は、中国人には関羽と並ぶ商売の神である。彼は辞職した後、華中の稲作民を率いて山東半島の南の地に転じ大規模稲作拠点を展開して巨富を築いている。商品米の生産拠点が華中、消費拠点が華北という時代に、華北に生産拠点を設けたゆえの成功であった。そして、越遺民の稲作民は、この稲作北限を北上させるノウハウを持っていた。 「安曇氏」は彼らを、「出雲族」の前身諸派が展開していた山陰地方から能登半島西岸を超えた越中に入植させて大規模稲作拠点を群展開したと考える。 富山県=越中は縄文文化が長引き、本格的に稲作が始まったのは弥生時代中期(民博編年では紀元前400年前後〜紀元前後)とされる。 この稲作をもたらしたのが、「安曇氏」が入植させた越遺民の稲作民だったと考えられる。 高岡地区遺跡群は、庄川と小矢部川に挟まれた庄川扇状地先扇端部で、地下水位が高く水利の良い場所で、稲作を行うムラが集中したと考えられている。 (ちなみに、新潟県=越後はさらに縄文文化が富山県=越中より長引き、本格的に稲作が始まったのはさらに遅れた。 その様相を示す弥生時代中期後半の下谷遺跡の集落跡は、海岸から4キロ離れた標高5メートルの微高地にあり、周辺の低湿地で水田耕作が行われた。北陸地方の西部から移住してきた人々によって開始されたと考えられている。周辺の遺跡群ふくめて出土した炭化米は粒の大きさが揃っておらず、新潟県の風土に適合する稲の品種改良や栽培技術がまだ未熟な段階にあったと考えられている。 私個人的には、このことを、「安曇氏」が入植させた越遺民の稲作民による、温帯ジャポニカ米の乾田稲作による商品米量産の北限北上と大規模稲作拠点の群展開が越中でうまく行ったが、越後ではすぐにはうまく行かなかったということを示していると捉える。) 五島列島に逃れた呉遺臣とその一族郎党の後裔には、 A=「転住民」性と交易主義を基本にして 対大陸の交易拠点を開拓すべく博多湾地方に渡来したもの(「安曇氏」) B=「定住性」性と農本主義を基本にして 自給自足するムラを群立させるべく有明海北部地方に渡来したもの(吉野ヶ里の人々) がいて、 両方ともに故地の長江下流域でしていた大規模稲作拠点の群展開をしたが、 両者は、極東情勢の変化に応じて対照的な方向性の動きをしていくことになる。 紀元前108年、 前漢武帝は漢四郡(かんのしぐん)を設置し朝鮮半島の直接経営に乗り出した。 A=「安曇氏」は、 前漢の外臣化し楽浪郡の出先機関として「くに」を建てた。行政拠点の「伊都国」。 これにより前漢楽浪郡を後ろ盾にして排他的領土を主張し、博多湾地方から「倭人」を松浦地方へ、「出雲族」を関門海峡を渡った本州西端へ追いやる。 前漢楽浪郡の「管理貿易」を前提にした政商型交易者として対大陸の交易活動を活発化するとともに 瀬戸内地方から環大阪湾地方に飛地的に交易拠点(主要交易産品の生産拠点、大規模稲作拠点の群展開を含む)を展開して後背地経済圏を形成していった。 (本州西端にいた「出雲族」前身一派(博多湾地方を追われた一派の一部が合流)は、そもそも「自由貿易」前提の脱国家主義であり、「管理貿易」前提の国家主義に舵を切った「安曇氏」のように排他的領土を主張するものではなく専守防衛に徹した。関門海峡を挟んで「安曇氏」と交戦したが、それは関門海峡の自由な航行を死守するためだったと考えられる。) 一方、 B=吉野ヶ里の人々は、 弥生時代中期(民博編年では紀元前400年前後〜紀元前後)、大規模稲作拠点であるムラ、そのムラ群を連合して「くに」を形成。「安曇氏」と同じく呉という領域国家の遺臣を祖とする彼らは、排他的領土を主張する国家主義に向かった点では同じだった。 南の丘陵を一周する大きな外環壕が掘られ、首長を葬る墳丘墓やたくさんの甕棺墓地がつくられる。 外敵の侵攻による争いが起こったのだろう、集落の発展とともに防御が厳重になる。 周辺に追いやった縄文人の襲撃やムラ同士の紛争も起こったのだろうが、最終的に「くに」が形成された後は、他の「くに」の侵攻が前提されたと考えられる。 松浦地方の縄文人交易民「倭人」は、北九州沿岸と朝鮮半島南端の津々浦々を母港とする海上交易民の緩やかな連合に過ぎず、自分たちの「くに」を建てる志向性や、本拠地の縄張り以外に排他的な領域を拡大する志向性を欠いていた。 よって、吉野ヶ里の人々が外敵として警戒した「くに」は、(「濊(わい)」人が南九州に侵攻したり、その橋頭堡となった「末露国」を「倭人」が弁辰人に建てるまでは)「安曇氏」が博多湾地方から内陸の平野部に大規模稲作拠点群を拡大していった「奴国」だった。 つまりは、 五島列島に逃れた呉遺臣の一族郎党という同族だった「安曇氏」と吉野ヶ里の人々は、弥生時代中期には敵対するようになっていたと考えられる。 (博多湾地方に焦点を当てると 1=縄文人交易民の「倭人」だけが交易拠点とした時期 2=そこに「出雲族」前身一派が参入してきて両者が共生 文明文化先進の「出雲族」前身一派が交易の主導性を発揮 そこに「安曇氏」が参入して先行二者と共生 このように交易拠点が推移した時期 3=「安曇氏」が楽浪郡を後ろ盾に「伊都国」を建てて占拠した時期 と推移している。 民博編年に照らすと 1=弥生早期の夜臼(ゆうす)式土器 2=弥生前期の板付式土器〜弥生中期前葉の城之越式土器 3=弥生中期中葉・後葉の須玖(すぐ)式土器 の時代ということになる。) 「安曇氏」は、建前としては前漢楽浪郡の出先機関であり、巨大「領域国家」の末端構成単位として縄文社会を稲作共同体に再編して、「国」の下部構造として「くに」を建てている。しかし、その内部は遠隔地交易民の「安曇氏」ならではの体制にあった。 ポイントは、 首長(「伊都国」長官)の継承形式が実力主義の選任制だったこと、中国の王朝や貴族のような世襲制ではなかったことである。このことについては、同じ中国由来の遠隔地交易民の「出雲族」も同じで、対大陸の遠隔地交易を方向づける首長は、実力主義で能力や実績を誇る者が信任を受ける必要があった。 「出雲族」が縄文人を交易相手として対等に交流し、縄文社会を温存して縄文人部族の族長の娘を娶って混交を進めたのに対して、「安曇氏」は縄文社会を稲作共同体に再編し大規模稲作拠点の集落中心の大型建物に管理指導者を派遣し、縄文人との混交はしなかった。(ちょうど日本の商社マンが海外の赴任先で現地人と結婚することがない単身赴任か家族連れかであるように。) 吉野ヶ里の人々もこの民族的な純潔主義という点では同じで、先住民の縄文人を追いやったか奴隷使いをしたかして、あくまで同族結婚で人口を増やしていったと考えられる。(吉野ヶ里の人々は、当初は周辺に追いやった縄文人の襲撃や略奪を受け、やがてムラ同士の紛争が起こり、最後に排他的領土の拡大圧力のある「安曇氏」=「奴国」の侵攻を想定し、防衛の必要が高まるに応じてムラ同士を連合させ統一軍をもつ「くに」を建てるに至ったのだろう。) また、 吉野ヶ里の人々は、ムラ長という権威者は長老が実力主義の選任制で選ばれた可能性もあるが、ムラ群を連合した「くに」の長という権力者は稲作社会の場合、実力の計り用がないから、実力主義の選任制をとれない。中国の王朝や貴族のように世襲制がとられ、固定的な王と王族の権力権威を象徴化するために首長を葬る墳丘墓やた支配層の墓域がつくられたと考えられる。 つまり、 「安曇氏」と吉野ヶ里の人々は、首長の継承形式の異なる支配体制の「くに」としてもお互いに相容れない対立関係にあった(容易に連携・連合できなかった)と言えよう。 (3=弥生中期中葉・後葉の須玖(すぐ)式土器の時代) 以上のような状況下で、 農本主義で稲作に集中する「定住民」である吉野ヶ里の人々は、量産した商品米を需要する相手で、かつ自給自足できないものを供給してくれる相手、つまりは交易相手が必要となる。そして、自給自足できないものには、支配層にとって必要不可欠な青銅器の威信財も含まれた。 安全保障上の理由から「安曇氏」には頼れず、また文明文化の後進性から隣接する松浦地方の縄文人交易民「倭人」もあてにできなかった。 そこで、 交易相手となったのが、吉野ヶ里の人々が渡来する前から有明海北部地方に展開していた「出雲族」の前身一派(博多湾地方を追われた一派の一部が合流)だった。彼らは、量産する米との交換で、青銅器の威信財をはじめとする文明文化の先進性を誇る主要交易産品を供給した。 有明海北部地方に展開していた「出雲族」前身一派は、同盟「出雲族」には参加しなかったが、日本海沿岸の「出雲族」の前身諸派との連鎖を維持しつつ朝鮮半島南東部と、縄文人交易民「倭人」と連携して朝鮮半島南西部と、長江河口域の遠隔地交易民の渡海を受け入れて華中と、そして南西諸島の縄文人交易民「隼人」と連携して華南*と交易したと考えられる。 (* 有明海沿岸部には、 <❶「出雲族」が渡来する以前のほぼ三内丸山段階>、熊本県天草市(旧本渡市)の下島の大矢遺跡から出土した縄文時代中期(約5000~4000年前、紀元前3000年〜2000年)の土器にも稲もみの圧痕が確認されていることはすでに述べた。長江上中流域の稲作漁労民が渡来し、故地でしていた雑穀栽培に陸稲作を加えた網羅型農耕と大河の漁労ノウハウの援用による自給自足をした上で、「サバイバル商工」を工夫したと考えた。 <❷「出雲族」が渡来した段階>、当初の「出雲族」前身諸派にも有明海沿岸に来ったものがいて、有明海北部地方には吉野ヶ里の人々が渡来するずっと前から展開していた。彼らは、交易資源の探索活動や交易活動を支える自給自足の食糧確保のために、現地に適した雑穀栽培に稲作を加えた「網羅型農耕」をし、その稲作は必ずしも水稲作ではなく陸稲作や水陸両用であった。 有明海沿岸北部地方に、 <❸「安曇氏」が渡来した段階>、正確にはそれより前(紀元前400年前後〜紀元前100年前後)に吉野ヶ里の人々が渡来した。彼らは、故地の長江河口域の稲作漁労民による稲作に特化した「選別型農耕」と大規模稲作拠点を経験していてすぐにムラを形成し、祖先がその遺臣であった故国のように「定住民」として農本主義の「くに」を志向していった。 その「くに」を成立させた最終段階に吉野ヶ里墳丘墓が造られている。 注目すべきは、 (A)吉野ヶ里遺跡や隣接する瀬ノ尾遺跡から検出している炭化米は「長粒系」である 一方、 (B)菜畑遺跡や板付遺跡など玄界灘エリアから出土している炭化米は「短粒系」である ということである。 日本列島には「長粒米」であるインディカが導入されたケースは少ないとされ、遺跡出土の種子がインディカかジャポニカか問題になることは少ないという。一方、縄文稲作がクローズアップされる中で、熱帯ジャポニカの可能性が浮上し、温帯ジャポニカとの絡みが検討されるようになった。 そして、最近の遺伝子分析による研究成果から、以下のような説が提示されている。 ・南から陸稲がやってきて陸稲作として九州北部に定着し、後に中国または朝鮮半島から水稲と水稲作が伝来したとする「南北二元説」 ・その一つの論拠は日本の現生イネタイプの分布 熱帯ジャポニカやその遺伝子の一部を有した温帯ジャポニカの頻度が、沖縄で高く、九州・四国・近畿、関東へと移行するに従い低下していた ・その一つの論拠は弥生早期から中期の遺跡から出土したイネ 温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカに相当するイネが混在していた 特に菜畑遺跡の夜臼式土器が含まれる地層のイネにおいて ・それと同時期と推察される宇木汲田遺跡(唐津平野南部)の出土米は、インディカか熱帯ジャポニカにおいて認められるDNA領域を有していた その後の時代にあたる有田遺跡(早良平野中央部)の出土米は、温帯ジャポニカにおいて主に認められるDNA領域を有していた ・以上から導かれる「2イネタイプの前後導入説」 熱帯ジャポニカに相当するイネが導入されて、後に水稲作に適した温帯ジャポニカに相当するイネが導入されたという仮説 私個人的には、 「南北二元説」と「2イネタイプの前後導入説」を踏まえて、 <❷「出雲族」が渡来した段階>当初における、以下のような「2イネタイプの二拠点導入説」を提示したい。 (A)吉野ヶ里遺跡や隣接する瀬ノ尾遺跡から検出している炭化米は「長粒系」である という状況は、 吉野ヶ里の人々が渡来する以前から有明海北部地方に展開していた「出雲族」の当初の前身一派が、もともと雑穀栽培に陸稲作を加えた「網羅型農耕」を携えていて、南西諸島の縄文人交易民「隼人」と連携して華南*と交易して熱帯ジャポニカに相当するイネを導入したことに始まる (B)菜畑遺跡や板付遺跡など玄界灘エリアから出土している炭化米は「短粒系」である という状況は、 長江下流域で水稲作に特化する「選別型農耕」をしていた稲作漁労民が、北九州沿岸と朝鮮半島西岸に渡来して、彼らが故地でしていた水稲作に適した温帯ジャポニカに相当するイネを導入しようとしたことに始まる 朝鮮半島南西部で適地を開拓できなかったものが、朝鮮半島南端側の縄文人交易民「倭人」によって西北部九州に入植された可能性もある と考える。) 「出雲族」は歴史的に一貫して「安曇氏」と違い、自分たちの本拠地を専守防衛する以外、排他的な領域を主張しないで「転住民」性を発揮し容易に転住した。 つまり、軍事的圧迫を受けても平和裡に対立を回避し、「くに」ぐにの対立や競合においては政治的に中立を保って全方位でビジネスをする遠隔地交易民としての信頼があった。 例えば、吉野ヶ里の地は九州の青銅器の生産基地となったが、 私個人的には、 それは有明海北部地方の「出雲族」前身一派が、吉野ヶ里の人々が建てた「くに」からその領土の内部に仮設工房を設けて鋳造職人と青銅づくりに必要な銅や鉛を持ち込んでの青銅器生産を許されたものと考えらる。 「出雲族」は、言わば脱国家主義の「自由貿易」前提の交易主義で「転住民」性を発揮し、農本主義で「定住民」性を発揮して「くに」を志向した言わば国家主義の吉野ヶ里の人々と、利害の対立しない相反補完の共生関係となり共に発展した。そしてお互いの自立的なあり方を尊重して混交や同化はしなかった。(この辺りの状況は、吉野ヶ里の地の支石墓絡みや墳丘墓絡みの様相から推察することができよう。項を改めて検討したい。) 一方、 有明海北部地方の「出雲族」前身一派は、四隅突出型墳丘墓を共通墓制とする同盟「出雲族」には参加せず、「倭人」や「隼人」と連携しつつ環日本海交易を介さない独自の対大陸の遠隔地交易を継続した。ただしそれは、同盟「出雲族」の環日本海交易に参加しなかったということであり、同盟「出雲族」やそれに参加しなかった他の元「出雲族」前身諸派との交易は盛んに展開したと考えられる。 同盟「出雲族」は、北部九州を中心とした「安曇氏」と近畿地方の「テュルク族」が、排他的領域を主張する二大勢力として対峙した時代にも、両者が富国強兵に貢献する鉄素材や鉄器を重視するのに対して、平和裡な威信財の青銅器を重視し、前者には銅剣を後者には銅鐸を供給して両者の威信競合を回避している。「安曇氏」「テュルク族」の側も、青銅器に専念する「出雲族」に青銅器をアウトソーシングして自らは鉄素材確保と鉄器製造に専念したものと考えられる。 「出雲族」は「安曇氏」の本拠地の博多湾地方にも仮設工房を設けて青銅器を製造することを許されたが、かつてその地から排除された過去があった。排除されたものの一部が参入した有明海北部地方の「出雲族」前身一派は、遠隔地交易民同士の競合なく相互補完の共生関係にある地元吉野ヶ里の地に交易資源を集中しそこを九州の青銅器の生産基地としたと考えられる。 2023年、吉野ヶ里遺跡で、弥生時代中期(民博編年では紀元前400年前後〜紀元前後)の青銅器の製造に使われた鋳型など国内最古級とみられる3点の遺物が見つかった。 3点の遺物は、これまで手つかずだったいわゆる「謎のエリア」から出土し、いずれも青銅器の製造に関連するとみられる ▽剣と矛の鋳造に使われる石の鋳型 ▽剣を鋳造する石の鋳型 ▽高温で溶かした青銅を一時的に入れておく土器 である。 ▽剣と矛の鋳造に使われる石の鋳型 は、当時、青銅器鋳造の先進地だった朝鮮半島で鋳型に使われていた「蛇紋岩」でできていて、この材質の鋳型が吉野ヶ里遺跡で発見されたのは初めてという。 私個人的には、 これらの遺物は当地に展開した「出雲族」前身一派が求めに応じて設けた仮設工房に持ち込んだものと考える。 <❷「出雲族」が渡来した段階>の初め(3000年前頃、紀元前1000年頃)に、 長江下流域で稲作に特化した「選別型農耕」をしていた稲作漁労民が、東シナ海を渡り九州に渡来し(直接にか朝鮮半島南西部を経てか)、菜畑遺跡の紀元前935年頃の直播と思しき水田跡を展開している(小規模な開墾地稲作の可能性あり)。 ここで留意すべきは3点、 ・長江下流域の稲作漁労民の渡海は、寒冷化による北方民の南下に圧迫されたもので 九州だけでなく朝鮮半島にも至った。 ・彼らは開墾候補地を探索し試験的な小規模な稲作を試していった。 先住する縄文人ないし新石器時代人と何らかの共生関係を持てるかどうかも確認したに違いない。 渡来当初の開拓段階の開墾候補地では、小規模な水陸両用の開墾地稲作を繰り返した可能性がある。 ・渡来した時期と場所によっては、渡来先に新石器時代人あるいは金属器時代人の遠隔地交易民がいた。 稲作漁労民は、彼らが交易していた長江河口域の遠隔地交易民が渡来先に送り込み、彼らが渡来先で受け入れた可能性がある。(稲作民が自力でボートピープルのように渡海したとは考えにくい。) 九州には、 北九州沿岸側の縄文人交易民の「倭人」 朝鮮半島東岸経由で北九州沿岸に渡来していた殷由来の「出雲族」前身諸派 朝鮮半島には、 朝鮮半島南端側の縄文人交易民の「倭人」 朝鮮半島西岸に渡来していた殷由来の遠隔地交易民 がいた。 彼らはすでに雑穀栽培に陸稲作や水稲作を加えた網羅型農耕を携えていたが、渡来稲作漁労民がする稲作に特化した「選別型農耕」に交易活動上の価値を見出し、自らもし出してその大型化を図った。 ただしこの段階では、それは交易活動を支える穀物の自給自足の安定化および効率化のためであって、そのためには必ずしも米に限らず雑穀栽培もし、また後に商品米となる乾田水稲作による温帯ジャポニカに拘るものではなく、現地の気候風土に適した穀物生産量の最大化が図られた。 結果、 朝鮮半島では陸稲作に適した熱帯ジャポニカを雑穀に加えた「網羅型農耕」に向かい 北九州では水稲作に適した温帯ジャポニカに特化する「選別型農耕」に向かった と考えられる。 (前者の熱帯ジャポニカを雑穀に加えた「網羅型農耕」については、そもそも華北の畑作牧畜民が寒冷化圧力によって遼東半島を経て朝鮮半島を南下するという長いタイムスパンの動きがあった。 そして、朝鮮半島西岸南半では、それとの兼ね合いで、長江下流域から渡来した稲作に特化した「選別型農耕」を携えた稲作漁労民のどのような動きとなったのか。それは、朝鮮半島における「支石墓」絡みの南北の異なりや、南半における西岸と東岸の異なりから推察することができよう。このことも項を改めて検討したい。) <❸「安曇氏」が渡来した段階>は、 安曇氏の祖である紀元前473年に滅んだ呉の遺臣がおそらく軍船に乗って 先行渡来者の渡来ルートをなぞって五島列島に脱出してサバイバルし 紀元前400年前後、北部九州に渡来したことに始まる。 ここで留意すべきは3点、 ・この時代、日本列島と朝鮮半島にはまだ中国大陸のような都市市場(宮廷や朝廷や城塞都市)が形成されていなかった。 ゆえに、中国由来の遠隔地交易民である「安曇氏」も「出雲族」前身諸派もその交易活動は、 縄文人の部族社会の「贈与」経済を、故地中国の都市市場(宮廷や朝廷や都城)の「交換」経済に接続するべく、最終消費地に繋がる交易連鎖への原材料の輸出を主眼にした。 穀物栽培は、自分たちが進める交易活動や縄文人に託した生産活動を支える食糧の自給自足を目的とする段階から始まり、その余剰が交換財となる段階へと向かう。最終的に大規模稲作拠点を群展開しての温帯ジャポニカの乾田稲作による商品米が基軸通貨的な主要交易産品となる段階に至るが、それは時代が下ったおおよそ紀元前後のことである。 ただし、「安曇氏」はそうした状況をその祖が故地華中で経験していた訳で、その後裔も故地との交易を通じて知っていたから、朝鮮半島や西日本で都市市場が徐々に形成されるにつれて同様の状況になっていくことは予見していたに違いない。 (同じ中国由来の遠隔地交易民でありながら、「出雲族」と「安曇氏」には長い歴史スパンで一貫した対照的な違いがあった。 「出雲族」が一貫して、縄文人を対等な交易相手として縄文社会を温存して共生・混交し、縄文人部族が自己完結できる開墾や稲作や他産業を巡回指導したのに対して、 「安曇氏」は一貫して、縄文人を自分たちに支配ないし管理される階層として混交することはなく、縄文社会を排除したり再編したりしていった。 この両者の違いは、時代時代で、墓制の違いに反映したことは間違いない。このことは項を改めて検討したい。) ・呉遺臣を祖とする「安曇氏」、そして五島列島から博多湾地方ではなく有明海北部地方に渡来した吉野ヶ里の人々は、金属器時代人であり、ともに排他的領土を主張する「くに」そして「領域国家」を志向していく ・海上移動性を活かした「安曇氏」は遠隔地交易民を志向し、縄文社会の「贈与」経済を故地中国の都市市場の「交換」経済に接続するが、当初より故地中国の「領域国家」を前提としつつ、「転住民」性を発揮して拠点をネットワーク的に拡大していく志向性を持った 一方、 吉野ヶ里の人々は、そのような「安曇氏」について行きたくなかった人々である。 五島列島でできなかった稲作をして定住する農本主義の「定住民」性を基本に、大規模稲作拠点の群展開を連合して「くに」を形成する志向性を持った 大規模稲作拠点の構築において、 「安曇氏」が縄文人を稲作民化してその部族社会を稲作共同体に再編し、自分たちは集落中心の大型建物に住んで稲作を指導管理しつつ縄文人と混交しなかったのに対して、 吉野ヶ里の人々は、自分たちで稲作共同体を構成して先住した縄文社会を排除した。縄文人は奴隷使いすることはあったとしても混交はせず、むしろ追いやった縄文人の襲撃・略奪を受けてそれを防衛した。労働人口を増やす必要に迫られた場合、故地の長江河口域から同民族を入植して対応したと考えられる。 そもそも、 吉野ヶ里の人々の五島列島からの有明海北部地方への渡来が、その地で先行展開していた「出雲族」前身一派による入植だった可能性もある。紀元前300年前後に「安曇氏」が越遺民の稲作民を越中に入植させた。これに倣い同様のことを彼らがした可能性である。 ここで、次に検討する弥生時代の「支石墓」の分布変化と関係するため、 時代はかなり降るが、 *「女王国」「邪馬台国」が「魏志倭人伝」に登場するの段階(紀元200年前後) について少し触れておきたい。 紀元前108年の前漢武帝の「漢四郡」設置による朝鮮半島の直接経営を受けて、「安曇氏」は前漢の外臣化し楽浪郡の出先機関として「くに」(伊都国)を建て、その管理貿易を前提とする政商型交易者に転じる。 このスタンスは後世にかけてずっと堅持され、この段階には、後漢帯方郡から魏へと後ろ盾を乗り換えていた。 一方、 匈奴に同行していて離脱した鉄生産専従民の「テュルク族」が、紀元100年前後に越前に渡来する。 碧玉加工する鉄製小型工具の製造を求めた「出雲族」が、北匈奴の瓦解により行き場を失った(後漢の鉄官政策による支配を嫌った)彼らを入植させたが、すぐに鉄器を媒介に縄文人を支配して「くに」を建てて自立する。 鉄資源を求めて版図を拡大して「くに」ぐにを建てていき、琵琶湖地方から大和地方に至って連合政府「邪馬台国」を建てる。慢性的な鉄不足に悩んだ彼らは、連合軍で産鉄拠点の吉備地方に侵攻して「くに」を建てた後、さらに島根半島東部の産鉄地帯に侵攻するも撃退される(八岐大蛇退治が暗示)。その敗戦の責任問題と鉄素材の奪い合いから内紛状態となった(2世紀後半の倭国大乱)。 彼らの首長継承形式は、遊牧民・騎馬民族と同じで首長層による実力主義の選任制だったのだが、首長層=王族兄弟であるどの「くに」の王が連合政府「邪馬台国」の王になっても内紛は収まらなかった。それが、女王卑弥呼の共立によって収束する。 魏との朝貢交易によって鉄素材を下賜してもらう政策に転換したのである。 (彼らの財産継承形式は、遊牧民・騎馬民族と同じで末子相続だった。これは、成人した長男から財産分与されて独立していき、首長が亡くなるのを看取る末子が残る財産を相続するというもので、その財産とはゲルや家畜などの動産であった。日本に渡来した「テュルク族」は、長兄から建てた「くに」ぐにの王にしていくことで、動産を不動産に置き換えた財産分与をしていったと考えられる。最後に建てた吉備地方の「くに」の王が末子であり、彼は自らは連合政府「邪馬台国」の王になろうとせずに、おそらく宰相難升米(なしめ、ナガスネヒコ)の献策に従って、卑弥呼を女王に擁立して魏との朝貢交易によって鉄素材を下賜してもらう政策に転換したのだと思う。卑弥呼は政治権力者ではなく、巫女的な宗教権威者であり、「くに」ぐに=兄弟王たちに対して朝貢交易の貢納品の徴収と下賜品の分配に公正を担保する存在だったのだろう。 連合政府「邪馬台国」が魏の冊封国となった「テュルク族」は、魏の出先機関として「くに」を建てていた「安曇氏」と自動的に同盟関係になった。 「安曇氏」は、勢力圏である宇佐の地に朝貢交易の中継拠点として「女王国」を建てさせて、そこと魏とを結ぶ交易実務を補佐した。 魏志倭人伝に出てくる「女王国」「邪馬台国」へ向かう行程には以上のような背景があった。 「安曇氏」の行政拠点である「伊都国」について、「世に王がいた、みなは女王国に統属していた。(帯方)郡の使者が往来し、常駐する場所である」との記載がある。 通過した諸国について記載された、国名表記(漢字が表意か表音か、表音にはどのような漢字があてられたか)やそれぞれの官名(「末盧国」に官名の記載がないこと含む)は、諸国が誰の支配下にあって、魏そして「安曇氏」とどのような関係性にあったかを推察させる。当然、そのような政治行政の体制はそれぞれの墓制に反映したに違いない。このことも項を改めて検討したい。 #
by cds190
| 2023-12-23 15:58
2023年 12月 02日
その1 ❶「出雲族」が渡来する以前のほぼ三内丸山段階 1990年代以降、「置換説」に近い「混血説」が日本人人類学者の間で優勢になっている。 それが、更新世の終わり頃、約1万年前までに日本列島に到達し(③④)、その子孫が日本列島全体に広がって縄文時代人(日本列島の新石器時代人)となった。 同じく更新世の終わり頃(〜10000年前)、北方からも日本列島へ移住があり(⑤)、それが縄文時代人の形質に地理的勾配を生じさせた可能性がある(日本列島北部の新石器時代人)。 (③④⑤について、 最近の遺伝子調査や徳之島の1万1700年~7400年前に水没した水中遺跡から縄文期の生活跡が見つかったことから、縄文人は最初に日本列島に渡来した人類であり、その渡来は日本列島が大陸と陸続きであった20000年前で、その後の海面上昇でできた日本列島に閉じ込められた人々だったことが判明している。) 他方、後期更新世のいつ頃か、シベリアや北アジアで寒冷地適応した集団が東進南下し、少なくとも6000年前(紀元前4000年)までに中国北東部、朝鮮、中国の黄河流域・江南地域(長江流域)などに分布して、その地の新石器時代人となった(⑥)。 *私個人的には、 縄文時代前期中頃から中期末葉(約5900〜4200年前、紀元前3900年〜2200年)の本州北端の大規模集落「三内丸山遺跡」は、 同様の集落の類例が同時期になく、消滅して他所に転じた形跡もないことから、 平底の円筒土器や玦(けつ)状耳飾りなどの類似性がある中国東北部の遼河文明を構成する興隆窪(こうりゅうわ)文化(紀元前6200年頃〜紀元前5400年頃)の流れをくむ紅山文化(紀元前4700年頃〜紀元前2900年頃)などとの遠隔地交易拠点であり、④⑤が混交した後裔が、中国北東部に止まった⑥の後裔と遠隔地交易をしたと考える。 三内丸山は対大陸の遠隔地交易拠点であり、かつ日本列島内の遠隔地交易のハブ拠点でもあった。 前者は、紅山文化が求めるモノを大陸に向けて送り出し、日本列島の縄文文化が求めるモノを大陸から受け取った。 後者は、紅山文化が求めるモノをその生産拠点の縄文人から受け取って、彼らが求めるモノを送り出した。 前者と後者を連結した交易産品は、北海道産の黒曜石、岩手県久慈産のコハク、秋田県産のアスファルト、新潟県姫川産のヒスイなどの遠隔地との交流を示す遺物である。 ** この段階までの日本列島人の形質的状況と言語的状況は、 大枠で差異に乏しく、差異があってもグラデーションに展開していて、その中で比較的隔たりがあるのは日本列島の中部(④)と北部(⑤)の間であり、 両者を連結する形で、三内丸山のような列島内外の遠隔地交易の連結拠点という特異な時空(④⑤が混交)がスポット的に展開したと考えられる。 縄文時代の終わり頃、中国北東部から江南地域にかけて住んでいた人々の一部が朝鮮半島経由で西日本に渡来し、先住の縄文時代人と一部混血しながら、広く日本列島に拡散した(⑦⑧)。 この渡来民は沖縄の人々にも遺伝的影響を与えたが、アイヌの人々にはあまり影響しなかった。アイヌは縄文時代人(④⑤)が少しずつ変化して生じた人々である。 ↑ *私個人的には、 この瀬戸内地方を東進する⑧の内容は、縄文時代の終わり頃に特化したものだが、 渡来民を分類して時間差・空間差のあるそれぞれの経過(いつどこから来たか)を考え合わせる必要があると考える。 殷遺民の商人が朝鮮半島北部東岸に逃れて環日本海交易拠点を形成、その遠隔地交易民の「交易ビッグマン」が環日本海各地に展開、その一部、東北北部に渡来して周初の青銅製刀子をもたらした。 それが、民博編年が縄文晩期とする紀元前1000年頃で、彼らが、中国の領域国家の戦乱や圧政を逃れてやってきた、言わば脱国家主義の「自由貿易」前提のベンチャー型交易者である「出雲族」の最初の前身一派だった。 時代は前後するが、 中国東北部の遼河文明(紀元前6200年頃〜)を構成しつつ紅山文化に後続する夏下店下層文化(紀元前2000年〜紀元前1500年頃)は、土器・陶器・青銅器の様式などが殷(商)の物とよく似ており、殷文化に属する人々が北東へ移住して、或は逆に遼河文化に属する人々が気候変動によって中原へ南下して、殷文化を形成したと考えられている。 さらにそれに後続する夏下店上層文化(紀元前1100年頃〜紀元前7500年頃)は、青銅器文化であり後期には同時代の西周の影響も受けている。 つまり、 「出雲族」の最初の前身一派である殷遺民を祖とする亡命遠隔地交易民は、文化的には大陸の夏下店上層文化にありながら、周に居られなかった商工民(青銅器職人を含む)であり、周の都市市場(宮廷や朝廷、都城の富裕層)を最終消費地とする遠隔地交易をすることで、渡来先の日本列島でサバイバルした。 その後も、同様の中国からの亡命遠隔地交易民が日本列島への渡来を繰り返し、自立しながら連鎖して「出雲族」の前身諸派を構成した。彼らを各地の交易拠点で率いたのがその地の「交易ビッグマン」であり、大陸側を含めた環日本海各地の「交易ビッグマン」たちの連鎖が環日本海交易に帰結した。 そして最終的に、日本列島側の「交易ビッグマン」たちは、島根半島西部を環日本海交易のハブ拠点として連携し、日本列島内交易のネットワークをその後背地経済圏とする、四隅突出型墳丘墓を共通墓制とする同盟「出雲族」を構成した。彼らは、オオクニヌシが示すように主要交易産品の生産拠点の縄文人部族の族長の娘を娶ってまわって、縄文社会を温存しつつ取り込む形で後背地経済圏を形成した。(ex.ヌナカワヒメはヒスイ産地の縄文人部族の族長の娘で、妻となってもコシの実家にとどまり、息子のタケミナカタがオオクニヌシのもとで暮らして実家と連携した。) こうした「出雲族」の前身から同盟「出雲族」に至る日本列島内の交易ネットワークの形成の動きは、彼らの海路による遠隔地移動を前提とする転住の動きであるが、瀬戸内地方を東進する⑧のルートはその一部だった。 また、 朝鮮半島東岸や北海道東部にも環日本海交易をする「交易ビッグマン」はいて、「出雲族」の前身諸派にも彼らと積極的に交易する者や、逆に日本列島側からその地に転住する者もいた。(ex.出雲神話のスサノオの根の堅洲国行き譚は朝鮮半島への転住を示している。)しかしそこでは、日本列島の「出雲族」のように現地の先住新石器時代人と混血してネットワークする動きには至らなかった。それは、その地にすでに強力な「交易ビッグマン」が存在していたからだろう。(ex.日本書紀のスサノオの新羅降臨と日本植樹譚は、根の堅洲国の実態が飛地的な交易拠点だったことを示している。) 西日本に渡来した「出雲族」の前身諸派には、朝鮮半島東岸の環日本海交易拠点を経由して渡来したものが多く、それも「一部が朝鮮半島経由で西日本に渡来し、先住の縄文時代人と一部混血しながら、広く日本列島に拡散した」⑦のルートを辿ったものである。しかし無論、⑦のルートを辿ったもの彼らだけではなかった。 瀬戸内地方を東進する⑧のルートを辿った渡来についても、同様のことが言え、縄文時代の早い段階から時間差・空間差のあるそれぞれの経過(いつどこから来たか)をもって繰り返されてきた。 >この渡来民は沖縄の人々にも遺伝的影響を与えた という内容についても、 ❶「出雲族」が渡来する以前のほぼ三内丸山段階 ❷「出雲族」が渡来した段階 ❸「安曇氏」が渡来した段階 と時代を分けて捉えるべきである。 ❶「出雲族」が渡来する以前のほぼ三内丸山段階 この段階の、稲作ないし米食の痕跡が確認された集落が3つあり、1つを除いて三内丸山と同様に海上交通の要衝にある。 そもそもは長江上中流域で雑穀栽培に陸稲作を加えた網羅型農耕をしていた稲作漁労民が、畑作牧畜民である北方民の南下に追われて長江下流域を抜けて東シナ海を渡り九州に渡来して形成したものと考えられる。 (先に触れておくと、 ❷「出雲族」が渡来した段階の初め(3000年前頃、紀元前1000年頃)には、長江下流域で稲作に特化した選別型農耕をしていた稲作漁労民が東シナ海を渡り九州に渡来し、菜畑遺跡の紀元前935年頃の直播と思しき水田跡を展開している。 ❸「安曇氏」が渡来した段階は、安曇氏の祖である紀元前473年に滅んだ呉の遺臣が先行者の渡来ルートをなぞって五島列島経由で北部九州に渡来したことに始まる。) 例えば、 岡山県灘崎町の彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から、イネのプラントオパール(イネ科植物の葉などの細胞成分)が大量に見つかっている。イネの他にキビ、ヒエ、小麦など雑穀類のプラントオパールも検出されている。当時、貝塚は海岸部にあり、イネは近隣から貝塚に持ち込んだとみられ、貝塚には墳墓があることやイネのもみ殻のプラントオパールも見つかっていることから、祭祀の宴会や脱穀などの共同作業で持ち込んだと推定されている。 イネは中国南部原産の可能性があり、大陸から伝わったイネと推察されている。同じく岡山県の岡山市の6000年前の朝寝鼻貝塚や、美甘(みかも)村の4500年前(縄文後期)の姫笹原遺跡でも微量のラントオパールを検出している。 児島湾は、古代・中世においては「穴の海」「中つ海」と呼ばれ、閉ざされた湾ではなかった。 長江上中流域由来の渡来民は海上移動に長けていて、その沿岸を海上交通の要衝と捉え瀬戸内地方〜北九州沿岸の遠隔地交易をする本拠地とした。彼らは、本拠地に先住した縄文人部族と同じ定住生活や近隣交易をすることでは、彼らと共生してサバイバルすることはできなかった。「転住民」性と「移動民」性を発揮して、遠隔地の先住民が必要とするモノを量産する拠点を開拓して彼らに供給し、本拠地の地元・近隣の先住民が必要とするモノをもらってくる商工民となることで共生的にサバイバルすることができた。 故地でしていた雑穀栽培に陸稲作を加えた網羅型農耕による自給自足をした上で、言わば「サバイバル商工」を工夫したのである。 その鍵となる交易産品は、具体的には、瀬戸内海対岸の四国の金山遺跡をサヌカイトの石器・石材の生産拠点とし、中海沿岸を本拠地をその遠隔地交易拠点として連動させた。 重要なサバイバル条件として忘れてはならないのは、豊富な海産物だった。 瀬戸内海は大小約3000の島からなり、潮の流れが緩い灘と速い瀬戸が存在し、起伏に富んだ海底地形を有している。そのため、紀伊水道、豊後水道から瀬戸内海に流入した外洋水は複雑な潮流や渦流が生じて表層水と底層水が上下混合。海底に堆積した栄養物は上下混合により有光層で基礎生産者である植物プランクトンに利用される。このようにして瀬戸内海における漁業生産力(漁獲量/面積/年)は世界の閉鎖性海域と比べると非常に高いという。生物多様性も豊かで、動物は魚類約600種、軟体動物約1000種、甲殻類約400種、環形動物約150種、動物プランクトン約300種、植物では植物プランクトン約200種と海藻約300種が生息。 そんな瀬戸内地方の中でも、岡山県の海は瀬戸内海の中央部に位置し、東は播磨灘から備讃瀬戸を経て西の備後灘に至っている。大小80の島があり、海域面積は約800k㎡と狭く、水深10m以浅の海域が50%以上、20m以浅の海が約85%を占めている。東西から流入する二つの水塊が接触、混合し、瀬戸と灘が連なる複雑な地形であり、水塊が上下混合することにより高い生産力を有している。また、三大河川が流入しており降雨や陸水流入の影響を受け、塩分や水温の変動幅が大きいが、豊富な栄養塩に恵まれているなど多様で豊かな水産環境が造り出されているという。 長江上中流域の稲作漁労民だった彼らが、かつての自分たちの大河での漁労ノウハウを日本列島で最も援用することができたのは、瀬戸内海のような陸地に挟まれた穏やかな海域の、しかもその内海であったことは間違いない。 食糧確保の観点からその沿岸が本拠地とされたと考えられる。 例えば、 五島列島の東南にあたる、熊本県天草市(旧本渡市)の下島の大矢遺跡から出土した縄文時代中期(約5000~4000年前、紀元前3000年〜2000年)の土器にも稲もみの圧痕が確認されている。5000年前に海水面が上昇して有明海と八代海ができて、それまで内陸部だった大矢遺跡、曽畑貝塚、轟貝塚の地に海からアプローチできるようになった。 大矢遺跡も、長江上中流域の稲作漁労民が渡来し、故地でしていた雑穀栽培に陸稲作を加えた網羅型農耕と大河の漁労ノウハウの援用による自給自足をした上で、「サバイバル商工」を工夫したと考えられる。 だが、天草地方と瀬戸内地方では大きな違いがあった。 それは、北九州沿岸〜南西諸島といった隣接エリアとの遠隔地交易に加えて、東シナ海を渡って直接にか、南西諸島を経由してか大陸の長江河口域と遠隔地交易ができたことである。 よって、「サバイバル商工」の鍵となる交易産品は、先ず大陸遠隔地のニーズに応えるモノでなければならず、それを確保するためには日本列島遠隔地のニーズに応えるモノも必要だった。 それは具体的には何なのか。 そこで浮上するのが、天草下島で採掘される粘土の鉱石(陶石)「天草陶石」である。 「天草陶石」は陶磁器の原料として広く利用されており、日本で産出される陶石(磁器原料)の8割を占める。天草陶土、天草石とも呼ばれる。 18世紀初期から陶磁器の原料としても使われるようになったが、17世紀後半に発見され、当初は砥石として利用されていた、ということに注目したい。 粉砕して加水すると可塑性の高い粘土になり、他に添加物がなくても均一に焼結して磁器となるが、当初は切り出して砥石としていたのである。今日でも「天草砥石」は、(金属の刃を研ぐ前提で)中研として品質日本一とされ、大矢遺跡のある大矢町の特産品である。 江樋戸(エビト)の海岸から谷(タニ)・上新田(カミシンデン)地区へと連なる丘そのものが砥石山で、埋蔵量は無尽蔵という。 私個人的には、 縄文時代中期(約5000~4000年前)に長江上中流域から稲作漁労民から転じた海上輸送民=遠隔地交易民が 砥石に適した「天草陶石」を発見し 小さく砕いたものを、ツルツルにして光沢を出す必要のある石製装身具や精製土器の磨き上げ用の砥石として 日本列島と大陸に向けて遠隔地交易をした (長江河口域には自ら直接に、朝鮮半島と中国地方には朝鮮半島南端と北九州沿岸を行き来した縄文人交易民を介して、南西諸島には南九州から南西諸島に連鎖した縄文人交易民を介して) と考える。 しかし、 敲(たた)く、研ぐ、磨り潰すといった作業で使われる磨石・石皿・敲石・凹石・砥石には、砂岩が利用された傾向が認められ、その理由は原石のサイズが大型で、 重く、粗粒であることとされる。 つまり、 縄文時代に一般的に製作・流通した砥石は、ツルツルにして光沢を出す必要のある石製装身具や精製土器の磨き上げ用に特化した小型の砥石ではなかった。 そして、 日本列島は、複雑な造山活動により地底奥深くにあることで地圧により固められた良質な砥石となる堆積物の地層が、採掘可能な深さまで隆起している事が多いために、採掘される砥石は良質であるのに対して、 大陸、造山活動が少なく深部の地層が隆起することはあまりないために、日本ほど良質の砥石が採掘されない。 ちなみに、 刃物を鋭利に研ぐには、きめ細かな砥石が必要で珪質頁岩や泥岩、凝灰岩が最適だが、大陸は、地質学的には片麻岩などからなる安定陸塊cratonか、それらを石灰岩等がほぼ水平に覆った卓状地platformがほとんどで、砥石にはあまり向かない石ばかりで、良質な砥石は日本のような変動帯にしか産出しないという。 そのため、 一説によれば、日本では引き切るタイプの鋭利な日本刀が生まれ、中国ではたたき切る青竜刀falchionが、ヨーロッパでは騎士の持つ両刃の剣swordのような刺突を主とする武器が使われたとする。つまり、日本と中国の天然砥石のレベルの違いは、金属刀剣のあり方を異ならせるほどに大きかったのである。 一方、 石製装身具や精製土器をなるべくツルツルにして光沢を出すニーズは普遍的である。 最高品質を求めるハイエンド・ニーズは僅かであっても必ずあり、希少価値を追求した筈である。 米食ないし稲作をもたらした大矢遺跡の中国由来の遠隔地交易民は、優れた砥石がない大陸のこのニーズを捉えたと考える。 ここで、 日本列島の石製装身具の変遷を概観しておこう。 縄文後期中葉まで大型で単体使用の傾向があり、玉髄や石英など美しい石のほか砂岩や頁岩など一般の石材も多用されていて、特定の石材への固執はみられない。(この段階では、一般的には「天草砥石」のような高い研磨性能は求められていなかったことになる。) それが、縄文後期後葉に小型化し幾つも連鎖させる傾向へと変化し、クロム白雲母が圧倒的多数を占め、それと滑石のほぼ2種に限定されてしまう。(一般的に「天草砥石」のような高い研磨性能が求められたとしたらこの時代以降ということこなる。) さらに、縄文時代後期末葉に、日本列島で利用されていなかった碧玉やアマゾナイト製品がクロム白雲母製品にとって代わり、外来の玉類が登場して主流になっていく。 小型化し幾つも連鎖させる傾向へと変化した縄文後期後葉と、縄文後期末葉および晩期とでは、石材と玉類(品種)の傾向が違っている。 石材については、 前者では、クロム白雲母製が、 後者ではヒスイ製が主流である。 玉類(品種)については、 前者では、縄文文化を主導してきた東日本の玉文化が九州へもたらされ、九州の人々は東日本の玉文化の影響を受けてその丸玉を模倣し、かつ加工容易な白雲母に恵まれたことによりより小さくスマートな管玉や小玉を展開し、勾玉も生み出した。 後者では、九州の人々が作り出した九州型玉類が盛行し、各地に拡散した。 私個人的には、 縄文時代中期の、米食ないし稲作をもって渡来した中国由来の遠隔地交易民は、 玉類の発達を先行させつつも優れた砥石のない中国の局所的な先鋭的ニーズを捉える「サバイバル商工」の鍵として 希少品の「天草砥石」を捉えた そして、 以上述べた日本列島の一般的な縄文後期中葉から縄文晩期に至る石製装身具の変遷の動向の大枠は、 むしろこの動きを先駆けとしてなぞるものとして位置づけることができる と考える。 クロム白雲母製の玉類の製作と流通に関しては、 縄文後期後葉の始めには、大分県周防灘沿岸部・熊本平野・宮崎平野に出土例が集中し、クロム白雲母原石をもつ遺跡と玉類の分布状況からみると、熊本平野、周防灘(瀬戸内海北西端の海域)沿岸地域、宮崎平野に石製装身具を集中的に生産する集落があり、そこから周囲の遺跡へと石製玉類がもたらされていたことが推測されている。 こうした帰結を生む動きの先駆けを、縄文中期の米食ないし稲作の痕跡ある遠隔地交易拠点を展開した岡山、天草の中国大陸由来の遠隔地交易民が果たした。最初は精製土器の研磨用として普及させ、徐々にハイエンドな威信財の石製装身具に展開したのではなかろうか。 彼らは、 決してゼロから出発した訳ではない。 そもそも遠隔地交易の拠点エリア同士が、海上交易を連鎖させていて、そこに新たな文化文明のリソースを持って参入して「サバイバル商工」を工夫したと考えられる。 例えば、 縄文時代前期前半の轟 B 式土器群の分布をみると、すでに有明海沿岸、小島湾沿岸、島根半島沿岸、朝鮮半島南端と北九州沿岸、南九州と南西諸島にエリア性おおび拠点性がみて取れる。 そうした先住の縄文人や大陸の新石器時代人の海上交易の連鎖が、遠隔地交易がネットワークする土壌としてあったことは間違いない。 例えば、 土器を作るために先ず粘土を採取する。 #
by cds190
| 2023-12-02 19:22
| ☆発想を個性化する日本語論
2023年 09月 22日
2020年9月22日 <過去記事の加筆修正部分> 私個人的には、 「出雲族」の繁栄はあくまで環日本海交易ネットワークを活用した遠隔地交易によった 日本列島内の対内交易は対外的に輸出する交易産品を入手するためのものだった と考える。 具体的には、 縄文時代は、縄文人の部族社会を交易相手として相手の土俵で①贈与経済の交易を行い(オオクニヌシが各地の主要交易産品の生産拠点の族長の娘を娶って回って産業指導)、それによって得た交易産品を環日本海交易ネットワークを介して大陸の都市市場(宮廷、朝廷、城市)を最終消費地として接続する②交換経済の交易をした。日本列島の①贈与経済と大陸の②交換経済との交換価値の不均等により利益を最大化して「出雲族」は繁栄した。 弥生時代は、日本列島内では「安曇氏」「倭人」「テュルク族」が建てた「くに」ぐにを交易相手として、①贈与経済の交易と②交換経済の交易を並行させた。 大陸から渡来したあるいは大陸と行き来してきた彼らは、すでに②交換経済の交易をしていたから、交易活動の大方はこれであった。しかし、その前提となる交易関係を締結したり維持するための、言わばメタ交易活動は①贈与経済の交易だった。 例えば、「くに」ぐにの為政者が稲作民を支配管理するのに役立つ銅鐸のような容易に入手できない威信財は、「出雲族」が「くに」ぐにの為政者に贈与する、すると彼らはそれに酬いて「出雲族」との交易関係を締結する。私個人的には、一部のタイプの銅剣は、交易活動の代表責任者が交易現場で帯びることでその身分を証しする威儀財だったと考える。これも「出雲族」が「くに」ぐにに贈与し、互いの全権代表者が帯刀して示し合うことによって交易現場を成立させたと考える。(出雲荒神谷から出土した多数の中細形銅剣や加茂岩倉遺跡から出土した多数の高さ20センチの銅鐸も、環日本海交易ネットワークのハブ拠点での交易活動において、参加の許されたバイヤーや出展者に貸与されたそれを証するものだったと考える。) このように①贈与経済の交易が交易関係と交易現場を成立させることで、はじめて多種多彩な交易産品をやり取りする②交換経済の交易が展開したのである。 「出雲族」にしてみれば、すでに大陸で利器としては鉄器におされて時代遅れとなった青銅器とその鋳造工人を活用して、日本列島の「くに」ぐにと有利な立場の交易関係と交易現場を確保したのだった。その上で、他の弥生人が縄文人を稲作民として支配管理する拠点が収穫した米、縄文人の狩猟民や漁労民や採掘民を支配管理する拠点が産出した毛皮、アワビ、玉石、薬種などを、大陸の都市市場向けの交易産品ないしその原材料として調達した。 日本列島に「領域国家」化の波が及ぶと、「くに」ぐには競合して富国強兵を競うようになる。彼らは富国強兵に資する利器である鉄素材の入手と鉄器の調達に専念する。すると、青銅器の威信財や威儀財という希少財を自ら生産する内生体制を構築して維持するよりも、軍事的に競合しない脱国家主義の自由貿易者である「出雲族」に、アウトソーシング=外生化するようになったと考えられる。 実際、「出雲族」の交易活動は、富国強兵に直結する鉄製の武器や農具に力点をおかず、利器にはならず威信財・威儀財や祭具や宝飾品にしかならない青銅器に力点をおいた。 しかも、「くに」ぐにを二分する二大勢力、「安曇氏」と「テュルク族」に対して公平中立を保ち軍事対立に巻き込まれずに自由貿易を貫徹する工夫として、二大勢力それぞれの標準祭器と標準祭祀の様式を意図的に異なるものに設定した(西日本の西が銅戈、東が銅鐸)。 「出雲族」はそのような交易枠組みを構築した上で、威信財・威儀財の青銅器のプロトタイプの提供と、大陸由来の青銅器鋳造工人の派遣、融点を低くするのに必要な日本で量産されない大陸産の鉛の供給とをパッケージにして、クライアントの「くに」ぐにが用意した拠点に仮設工房を設けて展開したと考えられる。 環日本海各地から島根半島西部のハブ拠点に様々な玉石を持ち込ませ(原材料を投資)、それを青銅のベースにあしらった宝飾品を持ち帰らせる(完成品をリターン)交易活動は、「出雲族」にしてみれば、原材料の輸入と完成品の輸出という遠隔地航海を交易相手にやってもらうことから、リスク低く差益確実な交易ビジネスモデルだった。 「出雲族」は、ベースとなる青銅の生産と、玉石を加工して青銅ベースへのアッセンブルを担ったが、銅は島根半島西部の産銅地帯で確保し、日本列島で量産されない鉛は大陸から輸入した。(「出雲族」自身が調達した本州日本海側の玉石は、島根半島東部の青瑪瑙、ヌナカワヒメの実家がある越中の翡翠、越前の碧玉などだった。) 輸入鉛については、いろいろな議論がある。 弥生時代前半は朝鮮半島産、弥生時代後半は華北地方産という説が一般的に流布していたが、近年、異議が唱えられている。 古代中国では二里頭から漢の時代まで、南方の雲南省系の鉛と、北方の山東省・河北省・遼寧省型の鉛が共用されてきたという。そして、弥生時代前半に用いられていた鉛は、朝鮮半島産の鉛鉱石の同位体比の分布とは全く一致しない。むしろ、古代中国の青銅器の鉛同位体比の分布と極めてよく一致している。よって中国からもたらされたものと修正されるべきという。 さらに弥生時代前半の青銅器には、三星堆や殷墟でも用いられた中国雲南省の鉛が一部混入していた可能性が指摘されている。これに関して私個人的には、殷由来の「出雲族」が持ち込んだ青銅器を鋳直した可能性を指摘したい。 弥生時代後半の青銅器に用いられた鉛は、華北の陝西省産というよりはむしろ中国東部の山東省産や東北部の遼寧省産の鉛であった可能性が高いという。 弥生時代後半、威信財・威儀財の青銅器鋳造を「出雲族」が独占した説をとる私としては、環日本海交易ネットワークを中国都市市場と接続した朝鮮半島北部東岸の遠隔地交易拠点に、燕の青銅器の鋳造工人が逃れてきたこととの関係性を指摘したい。燕の東半が遼寧省の西半であり、遼寧省産の鉛の可能性を指摘したい。 出雲荒神谷出土の中細形銅剣の鉛同位体比の分布は、弥生時代後半青銅器の鉛を主として、そこに古代中国の青銅器系スクラップが混入したと説明できるという。 「出雲族」が輸入した遼寧省産の鉛を使いつつ、持っていた殷周代の青銅器を鋳直した可能性を指摘したい。 日本の大量の銅器の鉛同位体比の測定によって、弥生期の鉛(銅の産地と一致すると仮定)の素材供給地の変遷が調べられた。 その結果、 弥生初期では朝鮮半島から供給され(←この点に異議が唱えられている) 紀元前108年の前漢武帝による楽浪郡設置を境に、中国・華北地方から供給されるようになり(←この点にも異議が唱えられている) 古墳時代(3世紀中頃〜)から華中・華南地方から供給されるようになった(←この点について、中国東北部産も考え合わせるべき、三角縁神獣鏡の祖型を中国東北部に求める説とも符合する) とされた。 また韓国の同様の測定によって、 弥生前期末から中期初めのものとされる青銅器は、中国最古の王朝とされる殷や西周の時代に多く見られる青銅器と鉛同位体が一致することが判明し、極めて特殊な種類の鉛が含まれていた(←殷由来の「出雲族」が持ち込んだ殷・西周代の青銅器を鋳直した可能性) とされた。 一般論として、日本には青銅器と鉄器がほぼ同時にもたらされたとされる。 それは正確には、製造技術が伝来して現地生産によって社会に定着したのがほぼ同時期だったということで、青銅器と鉄器を携えた「安曇氏」が北部九州に渡来し、遠隔地交易拠点とその活動を支える稲作拠点を構築した後のある時点を指しているようだ。「安曇氏」の渡来は、呉越同舟の呉が越に滅ぼされた後、越が楚に滅ぼされる前の時代である。楚は製銅技術に優れ、まだ鉄器は総じて脆く、武器としては鉄剣ではなく銅剣が用いられていた時代である。よって、青銅器と鉄器の両方が現地生産されて社会的に定着したのはこの時代ではない。紀元前108年、朝鮮の直接経営(漢四郡)に乗り出した前漢武帝にアプローチして、「安曇氏」が楽浪郡の出先機関として「くに」を立てた紀元前1世紀、つまりは前漢代の後半だったと考えられる。 一方、周に滅ぼされた殷の遺民に由来する「出雲族」ないしその前身が、そのはるか昔の西周代に、青銅器を携えて少なくとも東北地方日本海沿岸部に持ち込んでいる(青銅刀子)。その後に中国から逃れて参入した「出雲族」が、いつ青銅器と鉄器を現地生産によってその社会に定着させたのか、正確なところは分からない。ただ、「出雲族」はその祖である殷遺民の時代から脱国家主義の自由貿易者で、新石器時代人の部族社会をも交易相手としたから、前漢による朝鮮の直接経営を待つ理由はないから、紀元前2世紀以前だろう。 紀元前306年、越が楚に滅ぼされ、「安曇氏」は越遺民を越=古志(こし)に入植させている。これは越の稲作民の乾田稲作の北限北上ノウハウを期待して大規模稲作拠点を開拓したものと考えられ、ということはこの時点で、山陰地方が「出雲族」の勢力圏となっていてそれを飛び越えての展開と考えられる。であるならば、紀元前4世紀(春秋時代末期、弥生前期後葉)には「出雲族」は青銅器と鉄器を社会的に定着させた経済圏を山陰地方に形成していたと考えられる。 このことを中国の歴史と照らして順序立てておこう。 「安曇氏」が渡来する前に「出雲族」ないしはその前身の朝鮮半島北部東岸由来の遠隔地交易民が、環日本海の日本列島沿岸および朝鮮半島東岸に渡来していた。この時期は、朝鮮半島に青銅器や鉄器の製造が伝来する(中国人工人が渡来する)はるか前である。 この最初の最初の「出雲族」ないしはその前身による、製造技術の移入を伴わない青銅器の伝来が、縄文晩期から弥生早期(中国の西周代)で、それは朝鮮半島から供給されたのではなく、中国からもたらされたということとなる。 この段階の青銅器は、殷由来の「出雲族」、その後に渡来した西周由来の「出雲族」が持ち込んだ殷や西周で作られたものだった。 その後の、中国の春秋戦国時代に当たる弥生前期から中期初めのものとされる青銅器は、中国最古の王朝とされる殷や西周の時代に多く見られる青銅器と鉛同位体が一致するが、それは、中国人工人による青銅器鋳造が伝来しての現地生産によるということである。 秦の台頭がインパクトとなっていて、秦および前漢の鉄官による鉄生産独占政策から燕の鉄器工人が朝鮮半島へ逃れたが、威信財・威儀財の青銅器工人も流出した。彼らを当時の「出雲族」が日本列島入植させたのである。戦国末期〜秦代〜前漢(紀元前206年〜)初めの時代、前漢武帝が朝鮮経営に乗り出すより100年以上前の話である。 紀元前108年、前漢武帝が朝鮮の直接経営に乗り出したために、朝鮮半島では北から南へ「領域国家」化の波が及んでいく。西日本でこれを先取りする動きをしたのが「安曇氏」だった。彼らは前漢楽浪郡、後漢帯方郡、そして魏の出先機関として「くに」を建てた。彼らが支配者になったのではなく、建前的には中国の外臣化して、その管理貿易を政商型交易者として独占したのである。実質的には中国を後ろ盾として交易活動に役立てたと言えよう。 一方、前漢代末期、弥生時代中期後葉、東西分裂した匈奴から離脱した鉄生産専従民である「テュルク族」が越前に渡来し、鉄器を媒介に縄文人を支配して「くに」ぐにを建てていく。それは鉄資源を求めての拡張であり、琵琶湖地方を経て大和地方そして吉備地方に展開した。やがて「くに」ぐにの連合政府「邪馬台国」を建て、最終的に魏に朝貢してその冊封国となった。これも「領域国家」化と位置づけられる。 さらに、朝鮮半島南半で「領域国家」化が先行すると、それによって食いはぐれた「濊人」(小国群から未勝目料をとって回っていたが統一軍ができるとそれができなくなったない)と「倭人」(縄文時代以来の自然発生的な自由貿易をしていたが管理貿易で締め出された)が協働してサバイバルするべく西日本に進出し、自分たちの「領域国家」の樹立を目指して「くに」ぐにを立てるようになる。これも「領域国家」化と位置づけられる。 こうして「領域国家」を志向する「くに」ぐにが軍事的に競合するようになり、富国強兵に直結する鉄製の武器と農具の需要供給が拡大していった。為政者の支配管理や全権代表者の外交交易に不可欠である威信財・威儀財としての青銅器も重要性を飛躍させた。 ざっくり言えば、弥生時代中期後葉は、「くに」ぐにが支配地を拡大すべく他の「くに」と戦争する弥生時代後期に向かう前段として、それぞれの「くに」が先住民の縄文人を支配管理して「くに」の体制を整える段階であった。この段階では、鉄製の武器や農具や工具だけでなく、農耕祭祀のための祭器と、祭祀を執り行う支配者であることを権威づける威信財としての青銅器が不可欠だった。そのために、威信財としての青銅器の需要も拡大したのである。 ここで、 鉄と鉄器の生産供給を優先した「安曇氏」「倭人」そして「テュルク族」は、自分たちで青銅器を製造する内生体制から、「出雲族」によるプロトタイプの供給と青銅器をつくる工人の派遣に頼る外生化に転じたと考えられる。 このような経緯を仮説すると、 青銅器鋳造に必要な鉛についての 紀元前108年の前漢武帝による楽浪郡設置を境に、中国・華北地方から供給 という一般論に対する、むしろ中国東北部産という異議申し立ては、 弥生時代中期後葉以降、つまりは弥生時代後半、 「安曇氏」が楽浪郡を介して山東半島経由で華北産(ないしは山東省産)を入手 「出雲族」が朝鮮半島北部東岸の遠隔地交易拠点を介して遼寧省産を入手 両者の可能性を示していると捉えることができる。 「安曇氏」が青銅器を当初は内生していて、追って「出雲族」に外生化したとすれば、西日本では当初から華北産と東北部産があり、追って重心が東北部産となったという可能性が導かれる。 弥生中期後葉、西日本の東西で「くに」ぐにの二大勢力圏が形成されていく。 「テュルク族」が「くに」ぐにを立てた東の近畿地方を中心とした勢力圏 「安曇氏」が「くに」ぐにを立て交易拠点群を展開した西の北部九州を中心とした勢力圏 である。 富国強兵を競った両勢力の最大の課題は、大量の鉄素材の取得と鉄器の生産だった。 それに対して、 両勢力に挟まれる中間エリア=中国地方の「出雲族」は、あくまで交易民という経済勢力だった。どちらか一方に加担することなく、またどちらに攻められても専守防衛に徹した。 「出雲族」にとって、両勢力の「くに」ぐにに対する交易において、威信財や祭器としての青銅器を重視したのは、安全保障上の対策であると同時に老獪なビジネス戦略でもあったのかも知れない。「くに」への貢納という建前をとれば、「くに」からの下賜という建前で貢納より価値の上回る下賜を受けとることができたからである。 古墳時代には、征服者(天孫族)である「濊(わい)人」が、「倭人」と「安曇氏」を征服協力者として「テュルク族」を降伏させ(神武東征)ヤマト王権を樹立する。 「出雲族」はいわゆる「国譲り」に応じて、「出雲族」による環日本海交易ネットワークによる自由貿易は表向きには途絶えた。 一方、「安曇氏」は政商型交易者としてヤマト王権の交易利権を「倭人」とシェアした。「安曇氏」は、呉の遺臣を祖とする彼らの故地を中心に華中・華南地方との直接交易もしてきていて、青銅器製造に必要な鉛も華中・華南地方から入手した可能性(および青銅器を入手して鋳直した可能性)がある。 それは、 古墳時代(3世紀中頃〜)から華中・華南地方から供給 に符号する。 しかし、三角縁神獣鏡の祖型が中国東北部に求めれることと相まって、東北部産もあったとされる。 これは、 ヤマト王権樹立の過程で、西日本の東西の二大勢力(銅戈圏と銅鐸圏)ともにその傘下となり、西に分布した銅鐸において二大勢力を反映した近畿式と東海式も統合され、最終的に威信財としての銅鐸が姿を消して、代わりに標準化された前方後円墳とともに銅鏡が全国に普及した経緯に関係する と私個人的には考えている。詳しくは以下である。 ヤマト王権の樹立期のいわゆる「国譲り」で、オオクニヌシが象徴する脱国家主義の自由貿易者である本来の「出雲族」はあっさりと日本列島内外の交易ネットワークを手放した。「領域国家」化の波が西日本に及び、ヤマト王権という統一的な「領域国家」の樹立に、脱国家主義の自由貿易に限界を感じていたと考えられる。そこで、初期ヤマト王権の「管理貿易」に下るのではなく、ヤマト王権の初期勢力が「領域国家」体制を経済的に構築する国内外交易ビジネスモデルを構想し推進する立場に転じたと考える。ベンチャー型交易者がサバイバルし更なる進化に向かうにはそれしかなく、またそれが最高の方策だった。 「神武東征」で「テュルク族」が「濊人」に降るまで、「安曇氏」は「テュルク族」の「くに」ぐにの連合政府である邪馬台国の魏朝貢交易を補佐していた。この段階で、「安曇氏」は青銅器の威信財の国内外交易ビジネスモデルについて「出雲族」と協働を構想していた可能性がある。魏から下賜された銅鏡を「くに」ぐにに分配することで卑弥呼の連合国家体制を維持した経過を見た「安曇氏」は、「出雲族」にその模造品を量産させて全国の豪族に分配することで初期ヤマト王権の「領域国家」体制を構築できると考えた筈である。 私個人的には、「国譲り」は「神武東征」の後であり、後者の終盤で「安曇氏」の長である伊都国長官=ニギハヤヒが、邪馬台国の宰相である難升米=ナガスネヒコを忙殺することで「濊人」の勝利を導いた、以後「安曇氏」は「倭人」とともに征服協力者となり、ヤマト王権樹立後はその管理貿易のシェアする政商型交易者の立場を得たと考える。 そんな「安曇氏」が、「テュルク族」の魏朝貢交易を補佐しつつ考えていた「濊人」の連合国家体制を維持する国内外交易体制の発想を、初期ヤマト王権の「領域国家」体制を維持する国内外交易体制に焼き直したのである。 そして、オオクニヌシが象徴する出雲を去ったベンチャー型交易者である本来の「出雲族」を、表向きにはその名を伏せて宗像の地に受け入れた。そこを拠点にした大陸との対外交易を彼らに任せ、それに、北九州の「安曇氏」と中央の「安曇氏」が連携してする国内交易を接続した。 この国内交易とはヤマト王権による管理貿易であり、王権が標準化した前方後円墳の全国建設と三角縁神獣鏡の全国配布という公共事業に直結してそれを経済的にかつ物理的に支えるものだった。 古墳建設には大量の石工と鑿が必要とされ、鑿は最先端の鋼を用いて鍛造された。また、三角縁神獣鏡をはじめとする高度な鋳造技術を用いた青銅器が副葬される。青銅器の鋳造工人を「出雲族」が派遣し銅錫鉛を供給し、鉄器とその鍛造工人を「安曇氏」が派遣し鉄素材を供給し、彼らが働く仮設工房を古墳建設現場に付設したと考える。 ヤマト王権は全国の豪族にその地位や勢力に見合った規模の前方後円墳の建設を許したが、同時に仮設工房で相応の量の武器武具や道具工具の主要鉄器と、威信財・威儀財の主要青銅器を製造供給したと考える。これは天皇による下賜であり、全国の豪族は下賜を受けるべく各地の主要交易産品を貢納する、結果的に対外交易と接続する国内交易ネットワークが展開したと考える。 記紀神話における「国譲り」前夜のアマテラスからの使者たちがオオクニヌシに敬服して籠絡される物語や、オオクニヌシの嫡子コトシロヌシが、宗像三女神の一柱、タギツヒメとの間にもうけた子とされることは、初期ヤマト王権における「安曇氏」「出雲族」協働による国内外交易ビジネスモデルの構想が、ヤマト王権樹立以前に、邪馬台国が魏朝貢交易をした段階ですでに練られていたという「実際に起こったこと」を暗示していると考えられる。 #
by cds190
| 2023-09-22 10:14
|
ファン申請 |
||