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<  2012年 02月   >  

  • 「江戸の用語辞典」を読んで気づくこと(備忘録)(10)
    [ 2012-02-26 23:17 ]
  • 「江戸の用語辞典」を読んで気づくこと(備忘録)(9)
    [ 2012-02-25 15:09 ]
  • 「フューチャーセンター」と<信長志向><家康志向>
    [ 2012-02-24 22:24 ]
  • よく「日本人は農耕民族で、欧米人は狩猟民族だから云々」と聞くが
    [ 2012-02-23 18:29 ]
  • 研修の問い合わせへの返事(雛形として備忘録)
    [ 2012-02-22 12:21 ]
  • 私は父の希望を受け継いだのだと思う。
    [ 2012-02-21 10:14 ]
  • 「江戸の用語辞典」を読んで気づくこと(備忘録)(8)
    [ 2012-02-17 12:04 ]
  • 「江戸の用語辞典」を読んで気づくこと(備忘録)(7)
    [ 2012-02-15 22:07 ]
  • 「江戸の用語辞典」を読んで気づくこと(備忘録)(6)
    [ 2012-02-12 18:33 ]
  • 「江戸の用語辞典」を読んで気づくこと(備忘録)(5)
    [ 2012-02-10 19:23 ]

「江戸の用語辞典」を読んで気づくこと(備忘録)(10)   

2012年 02月 26日
「イラスト・図説でよくわかる 江戸の用語辞典 時代小説のお供に」
 江戸人文研究会編 廣済堂出版刊 発

*今回は「[お]から始まる言葉」についてのメモの続きでございます。




[表向き]おもてむき

 武家の政務、業務を行う側のことでございます。
 単に[表]と申します。
 反対を[奥向き]と申します」

[奥向き]おくむき

 城や武家屋敷のプライベート側のことを申します。
 逆は[表向き]でございます」

 ざっくり言って、城は官庁施設であると同時に、君主の居住施設であることは古今東西見られることだ。
 その点、武家屋敷である江戸町奉行所のこんなことはユニークであり注目される。

 1631年に幕府が町奉行所を建てるまで、町奉行所は、町奉行に任ぜられた者がその邸宅に白州を作ってその職務を執り行っていた。そして町奉行所ができた後も、午前中は江戸城に登城して老中などへの報告や打ち合わせを行い、午後は奉行所で決裁や裁判を行ない夜遅くまで執務するため、役宅は奉行所内にあった。
 つまりこれも、官庁施設であると同時にその長の居住施設であった訳だ。

 また、[大店]も商業施設であると同時に住み込み奉公人と主人家族の居住施設でもあった。
 この様相は、師匠を父親とした大家族制の体裁も持つ相撲部屋にもどこか通じる。

 こうした日本ならではのユニークな様相の構造、それがどういうものか明快に指摘できないが、それを背景に、<表向き>と<奥向き>という概念空間が成立していると考えられる。


 ここで、表に対する反対語は裏で、奥に対する反対語は手前ということから考えよう。
 留意したいのは、何かの表も裏も、厳密には何かの<内>ではなく、<外>に属する表面や表面が見えるエリアである。(裏付け、裏をとる、の裏でもある。)
 これに対して、何かの奥は何かの<内>であり、<内>の中のさらに<内>のエリアである、ということである。
 つまり、
 [表向き]は、<外>に属する表面や表面が見えるエリア向き 
 [奥向き]は、<内>の中のさらに<内>のエリア向き
 ということになる。

 表の反対語は裏であり、古代都城の宮城における天皇の私的区域=御所のことである「内裏(だいり)」が想い浮かぶ。これは、禁裏(きんり)、大内(おおうち)とも呼ばれる。つまり、公家文化では内や裏を使って造語されている。
 一方、武家や商家の江戸文化では奥と、それに対する表を使って造語されていて、その<表向き>対<奥向き>の概念空間と造語感覚が奥様、奥方はじめ現代にまで至っていることは重要だ。

 <表向き>対<奥向き>は、たとえば欧米文化のオフィシャル対プライベートにかなり重なるようだが重要なところでズレがある。<奥向き>は、単なるプライベート=非オフィシャルではない、ということだ。大奥を典型にむしろ、超オフィシャルなプライベート、と言うべきニュアンスを含んでいる。それは、外戚が勢力をもった摂関政治が展開した公家文化の内や裏にも言え、その源流は中国古代の王朝文化にまで遡ることができるのだろう。
 次に<表向き>対<奥向き>の中国の王朝文化や日本の公家文化にはないこととして、概念空間と造語感覚が、「お家大事」主義や上下内外を峻別する身分意識と縄張り意識とともに、お上から下々まで一貫していることが上げられる。大奥の奥は庶民の奥さんの奥であり、<表向き>は国や政治のことだけでなく世間体をとりつくろう一般家庭の些事についても言う。また奥さんはただ奥にいるだけの存在ではないらしく、亭主を起点に上さんと言う造語感覚はある種の身分意識を反映している。


 私は、<表向き>対<奥向き>は、
 <明示知化される世間>対<暗黙知にとどめられる世間>であり、
 現実的には組織の<建前>対<本音>と大いに重なるように感じる。
 <表向き>と、<建前>としては、は同義だ。
 <奥向き>の現在の意味は、[1]家の奥の方。居間や台所のある方。[2]家計や家庭生活に関することである。[2]は<建前>ではやっていけない<本音>で対処するしかない領域だ。

 <表向き>対<奥向き>の概念空間は、日本の会社や役所の実態にも反映している。
 それは、
 <表向き>の<建前>の明示知体系 対 <奥向き>の<本音>の暗黙知体系
 これが対立しつつ渾然一体になっている様相である。
 さらに以上の相反補足的対立が会社や役所の<内>で完結しないで、
 お上から下々までのすべての組織や集団そして個人に入れ子構造で一貫している。
 これが日本社会全体の特徴になっている。
 
 たとえばある企業の経営の状況や動向は、<表向き>の<建前>の明示知体系としては日経新聞や会社四季報に載っている。
 しかし、大王製紙やオリンパスは極端な例としても会社の実質は、<奥向き>の<本音>の暗黙知体系で動いていることは、訳知りの社員には明らかだ。
 江戸の[武家屋敷]や[大店]のように、本社ビルに社長とその家族が住んでいる訳ではない。しかし概念空間として「<表向き>の<建前>の明示知体系 対 <奥向き>の<本音>の暗黙知体系」が対立しつつ渾然一体になっている様相が継続している。
 たとえば1990年代までは、銀座の超高級クラブが経営者の大奥みたいな時空になっていて、そこでの接待は政官財の談合の必須アイテムでもあった。2010年代の今は今で別の時空が、<奥向き>の<本音>の暗黙知体系を<内><内>であるいは<内><外>で交換する場となっているのだろう。



[御救小屋]おすくいごや

 庶民救済の仮設住宅でございます。
 生活困窮者や火事などで焼け出された庶民が願い出て入りました。
 『御救長屋』と呼ばれました。簡易で粗末な建物でしたが、食事も支給されました。

 災害時にここを利用するには、住んでいた町の[町役人]による身元の確認が必要でした。
 ですので、地方から流れてきた[無宿者]や罪を犯して[長屋]を追われた者は入れませんでした。管理は町奉行所がいたしました」


[御達]おたっし

 関係者のみに知らせる幕府の通達を申しました。
 庶民にも広く知らせるせるものは[御触]と申します」

 いま言われる「中の人」とは、要は、組織の[御達]を受ける人のことである。
 内部情報に詳しい者と言えば言えなくもないが、知っているのが、組織が通達した<表向き>の<建前>の明示知体系の範疇の[御達]に過ぎない人かも知れない。


[御触]おふれ

 お話ではよく高札場に貼り出されておりますが、あれは演出でございます。
 実際の[触書(ふれがき)]は[老中]や[町奉行]から出され、[町年寄]経由で[町役人]に手渡され、庶民には口頭で伝えられました。
 ですんで、江戸に籍のある者は『知らなかった』といういい逃れは通用いたしません」

 「広場」という言葉があるが、あれは明治になってフランス語のGrand-Placeなどが漢語訳されたものと思われる。
 つまり、「広場」というものは日本には無かった。で、どこで民衆に告知した演出にするかと考えて、奉行所前や人通りが多いところに高札を立てるというフィクションが考案されたのだ。

 地方から流れてきた[無宿者]や罪を犯して[長屋]を追われた者には、[御触]が届かない。
 [御触]が届かない者は、お上の言う事を聞かない者、管理の及ばない「はみ出し者」とされた。
 「はみ出し者」には[御救小屋]のようなセーフティネットはなくお上も世間も冷淡だった。


[御留守居寄合]おるすいよりあい

 諸般の[留守居役]が集まる交流会でございます。公私にわたる情報や根回しなどが行われました。豪華な食事を伴う一種のパーティでして、[御留守居寄合]と呼ばれる専門の高級料亭で毎日のように行われました」

 各藩の江戸事務所としての機能を果たしていた江戸藩邸には、幕府や諸大名との交際を担当する[留守居役]が重要なポストとして設けられていた。留守居役の役目を果たすために、幕府や大名相互の交際における儀礼や前例を熟知することが必要とされ、17世紀中頃に情報交換や相互援助のための留守居役組合が生まれた。その後は留守居役組合は役目を忘れ退廃の一途をたどる。当初は藩邸の長屋などに集まっていたのが、いつしか茶屋に集まってぜいたくな宴を催し遊興にふけるようになった。
 銀座の高級クラブに入り浸った「社用族」に相当。
 彼らを上得意とする「御留守居茶屋」と称する料理屋も多数あったという。
 幕府も放置することはできないと判断し、派手な遊興を天明以前からたびたび禁止するが、実質的には効果なし。そこで寛政の改革においては「これまで十分に前例の調査もできているだろうから、組合を解散しても、各大名家の前例のとおりにしておけば問題はない」として組合解散を命じる。一時的に組合はなくなるが、ほどなく復活してしまった。

 旧大蔵省の官僚の求めで銀行のMOF担がノーパンしゃぶしゃぶで接待したことが問題になったことがあったが、いつの世も懲りない人たちがいるものだ。
 だいたい、ポケットマネーではなく、会社や役所のカネで遊ぼうという魂胆の輩はろくでもない。


[侠気]おとこぎ

 下町の男の鏡となるような[男伊達]のことでございます。
 サバサバしていて、弱きを助け強きを挫く心意気で、[鯔背]な[勇み肌]を申します。
 また、そんな女性は[お侠(きゃん)]と呼びました」

[男伊達]おとこだて

 [仁侠]などと同じでございます。
 武士の理不尽な行動に毅然と立ち向かい、見て見ぬふりをしないという正義の輩でございます」

 今ならさしずめ、官僚の理不尽な行動に毅然と立ち向かい、見て見ぬふりをしない正義の市民、ということになろうか。



*次回は「[か]から始まる言葉」についてのメモでございます。

 



by cds190 | 2012-02-26 23:17 | ■日本語論からの発想

「江戸の用語辞典」を読んで気づくこと(備忘録)(9)  

2012年 02月 25日
「イラスト・図説でよくわかる 江戸の用語辞典 時代小説のお供に」
 江戸人文研究会編 廣済堂出版刊 発

*今回は「[お]から始まる言葉」についてのメモの続きでございます。




[往来切手]おうらいきって

 江戸時代のパスポートでして、自分の国から出るためにはこれが欠かせませんでした。
 [道中手形]『往来手形』は関所ごとに一枚ずつ必要でしたので、諸国を巡る商人は往来切手を使いました。
 切手には何処の国の某であると記されて、管轄役所の判が押されておりました。(中略)
 今日のパスポートは日本国籍を証明し『通行と保護を願う』旨が記されておりますが、往来切手には『行き倒れても、知らせは不要』と書かれておりました。『旅先で死んだら、そこで埋葬してもらってかまわぬ』ってことです」

 江戸城下町や各藩の支配下にあった身内の者が縄張りの<内>から<外>へ出たとたんに、彼らは「はみ出し者」という扱いになった。
 それが「お家大事」主義と同じく統一的な価値観だったために、江戸時代を通じて「流れ者」=「はみ出し者」という捉え方が一般的に定着したと考えられる。

 特にそうした捉え方は、農本主義の定住民を前提とする士農身分において厳しかった。
 工商身分およびそれ以下の芸人などの身分では、幕藩の御用や認可を受けた多様な移動民・転住民が厳しい監視下において例外的に容認された。
 それ以外の管理から漏れる者は、「はみ出し者」の「流れ者」であって「関所破り」をしたり「裏街道」を行かなければ移動できない。そして「関所破り」は大罪だった。

 じつは、こうした交流の構造が、現代の日本人の知識創造の構造にも当てはまる。

 たとえば産学共同とは、お上の御用や会社の認可を得ているもので、このタイプの恊働に参加するナレッジワーカーは、江戸時代で言えば権力なり権威の管理下にある「表通り」を行く移動民に相当する。
 このタイプの移動民はベースとなる定住拠点をもっていてそこから反復的な往復運動をしている。現代のナレッジワーカーで言えば、あくまで帰属組織と固定的な専門分野をベースに同様のタイプと、帰属組織やそれが属する業界や学界の用意するパラダイムで交流する。
 よって彼らは「はみ出し者」でも「流れ者」でもないし、「関所破り」に相当する、想定外の異分野との交流をともなった用意されないパラダイムへの逸脱は決してしない。

 私は、以上のタイプとその有りようが良いとか悪いとかいうつもりはまったくない。
 支配的なタイプはそういうタイプだという事実を指摘して、もう一つのタイプもあるという事実を指摘したいだけだ。

 現下の現実を指摘すれば、今、話題のフューチャーセンターのほとんどはこのタイプのものである。
 その参加者の大方は、企業や役所や大学やNPOといった組織の一員として参加している。組織を辞めたとしても参加する者、参加させてもらえる者はきわめて少ないだろう。ここが、かつてバブル期をピークとした、あくまで有志個人をベースに草の根的に自然発生した勉強会や異業種交流会との大きな違いなのだ。
 若い世代ほどそれに関わった経験がないため、この本質的な違いとその意義に思い当たらない。大した違いはないと思っているようだが、実際、かつての勉強会や異業種交流会で培われた恊働関係は個人同士がベースであり、属した組織を辞めても何ら関係なく継続した。今自分が組織の看板を掲げて参加しているフューチャーセンターで、無条件にそのような展開が許されるかどうか、一度自問してみてほしい。

 以上、組織や権威の看板で「表街道」を行くタイプについて触れたが、それとは違うもう一つのタイプもいるし、あたなも成りたければ成れる。
 それは江戸時代で言えば、「関所破り」をしたり「裏街道」を行って移動していた幕藩の管理下から漏れる「はみ出し者」の「流れ者」である。
 現代の知識創造の構造におきかえれば、世間一般では想定外の異分野との交流への逸脱をする者、典型的には「異端」と言われる者に相当する。

 世の中、逸脱の仕方ほど多様なものはない。
 逸脱してまで達成しようとする課題は、逸脱者の数だけあると言える。
 そうした者の活動こそが、真の多様性を育んでいく。
 極めて少数派である逸脱者の課題は、そもそも担い続けることのリスクが大きく、未達成になりがちだ。しかし逸脱者は逸脱者に学ぶため、未達成の課題と成果を積極的に引き継ぎ孤軍奮闘する者が必ず現れてくる。課題未達成で行き倒れになった骨を拾う者はいなくとも、課題と成果の一部を引き継ぐ者が一人でもいるならばそれでいい、というのが「はみ出し者」の「流れ者」や「異端」の心構えなのだろう。


[大店]おおだな

 大きな店の意味でございます。大店が並んだ最大の通りは日本橋通りで、その中で最も大きかったのは三井越後屋(現・三越)でした。従業員が千人いたそうですから、一国のお城なみのスタッフでございます。
 ちなみに三井越後屋に遅れること179年、西暦1852年に世界初のデパートといわれます『ボン・マルシェ』がパリにオープンいたしましたが、従業員は三百人ほどでございました」

 ボン・マルシェは、バーゲンセール、ショーケースによる商品の展示、値札をつけ定価販売を始めるなどの百貨店としてのシステムを確立したと言われる。
 ところが正札販売については、三井越後屋の方が先で世界で初めてだそうだ。
 
 ボン・マルシェは、現代にまで継承されている「ショーケースによる商品展示」の対面販売をフロアー展開したのだが、これと三井越後屋の販売方式の違いが、従業員の人数の多寡に反映していると考えられる。

 三井越後屋の場合は、売り手と買い手の1対1の対応が時空を問わず継続するのが基本である。持ち場のショーケース周りとか百貨店店内といった特定の場所やそこが運営される時間に限定されない。
 具体的には買い手が得意客か一見客かや、身分の高低で売り手も相対する場所も異なった。
 つまり、経営者がいてマネージャーがいて売り子がいるという欧米的マネジメントではなくて、売り手一人一人が「個人商店」であるような人間関係を買い手ないし得意客との間に形成して維持していったのだ。
 たとえば、身分の極端に高い買い手であれば経営者自らが相手先に商品ラインアップをもって出向くトップセールスした。上得意であれば幹部マネージャーが店の座敷で応対した。ごく平凡な一見客であれば平社員クラスの売り子が店先で対応した。
 ボン・マルシェと三井越後屋の従業員の多寡は、小売店規模の大小よりも、こうした販売体制としての人的組織の構造的な差異の方が反映していると考えられる。

 そして、まったく同様の事柄が現代の企業社会にまで持ち越されている。

 いろんな業界の大手から零細までの会社で、営業マンやクリエイターが、組織の制度の範疇でその管理と支援を受けながらも、まるで「個人商店」のように振る舞っているケースが多々ある。
 バブル崩壊以降の日本型経営の全否定において組織のフラット化が図られた筈の会社でも、「個人商店」的に振る舞って顧客の期待に応え続ける実力派は多くその存在感も大きい。
 業界によっては、彼らの部下を育成し管理する能力よりも、個人プレイの営業開拓能力や新機軸創出能力に期待して、彼ら向けのキャリアステップを用意している大手も多い。
 大手広告代理店の場合は、人気実力派の「個人商店」的なクリエイターが独立した後も緊密な関係を保つことでお互いのメリットを交換していたりする。

 こうした社員の「個人商店」的な有りようとそれへの会社の対処は、今も日本の<世間>ならではの微妙な暗黙の了解によって成り立っている。
 このことは、村社会の農耕における共同作業の人間関係から出て来る類ではないなので、私は以前からその起源について興味をもってきた。
 
 ひょっとすると、三井越後屋以前の小売りの有りようが起源なのかも知れない。

 三井越後屋が世間に先駆けて「店先売り」を始めた訳だが、それは、文字どおり来店した客に商品を売るというものだ。つまりそれまでの大店の商売は、セールスマンが商品を包んだ風呂敷をかつぎ顧客を訪問するのが一般的だった。そのため大店ほど多くのセールスマンを抱えていた。
 そこに三井越後屋が大都市江戸の中心地で、通行人が気楽に立ち寄れる店構えにして「店先売り」を始めて大成功する。たくさんの商品をその場で見ることができるのも人気の要素だったという。

 つまり、「店先売り」がその後の小売りの趨勢となったものの、人材体制は従来の「訪問販売」のそれが残存した(三井越後屋の場合、上得意の大名武家屋敷への「訪問販売」が継続された筈で、それが現代の「百貨店外商」に繋がっている)。それが、現代に至る社員の「個人商店」的有りように繋がっているのではなかろうか。

 そして「訪問販売」=「行商」の原型は、「旅行商」であって移動民である。
 会社の「個人商店」的な実力派の中には、割り当てられた業容をどんどん顧客の期待に応じて変容させていく者や、条件さえ整えば容易に独立する者が多い。
 どちらかというと組織より自分個人に依拠するメンタリティの持ち主が「個人商店」的=「行商」的な能力を発揮するのは、古来からの人材の様相なのかも知れない。



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by cds190 | 2012-02-25 15:09 | ■日本語論からの発想

「フューチャーセンター」と<信長志向><家康志向>  

2012年 02月 24日
異なる立場の異なる知識分野の人々が横断的に対話する場、
そういう場ならば古今東西の各方面でいろいろに展開してきた。
「フューチャーセンター」もそういう場ではあるが、
その本質は間違いなく「未来志向」にある。
これにU理論の「未来から学ぶプロセス」を掛け合わせることで、
その創造的でかつ人間の内面が深く関わった実践が可能となるのではなかろうか。

勝海舟の海軍操練所や坂本龍馬の亀山社中(自由に活動する個人を集団に構成する<信長志向>)は実質、当事者たち等身大の「フューチャーセンター」だったと思う。
対照的なのが出島で、出島は幕府なりの目論みの「未来志向の知識交流拠点」だったが、集団を身内で固定する<家康志向>が一貫していた。そもそも江戸初期、ポルトガル人を管理する目的で、幕府が長崎の有力者に命じて作らせたもので、その後ずっと空間も交流も<内>と<外>の峻別を基調とした。

ある企業において「フューチャーセンター」の成果が経営にどのように活かされているか、を見た場合、
◯全く活かされていないなら
「離れ小島」レベル
◯都合のいいとこだけ取られているなら
「出島」レベル
◯経営を多分野統合型で人間の内面にも照らす未来志向にしているなら
「海援隊レベル」
と言えよう。




by cds190 | 2012-02-24 22:24 | 文化力発想な世間話 ■■

よく「日本人は農耕民族で、欧米人は狩猟民族だから云々」と聞くが  

2012年 02月 23日
よく「日本人は農耕民族で、欧米人は狩猟民族だから云々」と聞く。
一方、人類全体が狩猟採集の移動生活から農耕の定住生活に進化したことも周知だ。
この辺りのことが昔からずうっと気に掛かっていた。

日本人の場合、肉食がハレでもケでも普及せず、肉の生産流通が明治になるまで一般化しなかったことが特徴で、農耕社会や農耕集団そしてそれを雛形とした組織や人間関係ばかりが成熟してきた。漁民や士工商の非農耕社会や非農耕集団との社会関係も独特なものに。その純粋培養的な集大成が江戸時代。
そのことをざっくりと「農耕民族」と表現してきたのではないか。
しかしそんな「農耕民族」は「長江文明を生み出した稲作漁労民」くらいで、梅原猛氏は彼らが「北方の畑作牧畜民の南下に押し出され、雲南省などの南方の山岳少数民族になり、一部がボートピープルとなって東シナ海を渡り南九州に漂着し初期の稲作を伝え弥生時代が始まった」としている。
参照:「宇陀、飛鳥の棚田と中国苗族の棚田比較」http://www.geocities.jp/tyuou59/tanada.html

同じ江戸時代をみても、
故・司馬遼太郎氏は、常時臨戦態勢にある「日本人は騎馬民族的である」と主張している。
故・網野善彦氏は、「海民」に着目し非農業民の視点から新しい日本の歴史像を構築した。
そんな江戸260年に日本人の血肉となった感受性や認知表現パターンを、私たちは無自覚的に強固な前提として明治以降の社会で発想したり思考したりしている。
今もその延長にある以上、現在についての主観を、過去についての客観に照らして検証することができる。


(補記)

梅原猛・哲学者——原発事故は「文明災」、復興を通じて新文明を築き世界の模範に|東洋経済オンライン
http://www.toyokeizai.net/business/interview/detail/AC/14e6e18a6d22fe5395a8e2fb0784fdcd/




by cds190 | 2012-02-23 18:29 | 文化力発想な世間話 ■■

研修の問い合わせへの返事(雛形として備忘録)  

2012年 02月 22日

*ネット上で「コンセプト思考術」を知りメールで研修参加を打診してくる方が時々いらっしゃって、相手のご関心に応じた返信メールをしてきた。
 その都度、参照記事のURLを調べて掲載してきたのだが、それがけっこう手間なので、今回の●●様への返信を雛形としてノートしました。





●●さま


(御礼)


>初めてメールさせていただきます。
>たまたま、戦略的思考に関する研修を探しておりましたところ、
>貴ホームページを拝見し、興味を持ってメールさせていただきました。


ご興味をもって戴き、そしてご丁寧なメールを頂戴し、ありがとうございました。


(お尋ねの件についてお答えします)


>現在、静岡にいらっしゃるとのことでしたので、もし、通常、コンセプト思考術の研修会等を
>開催されていらっしゃるのなら、日程と詳細を教えていただけないでしょうか?


伊豆に移転してからは、情報家電や事務機のメーカーの企業研修でご依頼された際に
東京や名古屋に出張して講師をしております。
ただここの所、事務局窓口だった方の退社や経営不振の影響でご依頼が滞っております。
研修の開催予定があれば、●●さまにもそれをオブザーブして戴けるのですが、残念ながら
当面予定が入っておりません。
もともと私はプランナーないしコンサルタントで、クライアント企業に研修を頼まれた際に
「コンセプト思考術」1講座だけをお引き受けしてきました。
私自身が研修を企画し開催したことはありませんし、今後もまずしないと思います。
ということで伊豆で私が開催している、という訳ではございません。
弊社ホームページで伊豆高原の研修施設を紹介してるのは、地元開催を企画する事務局の方の
便宜を図ったまでで、誤解を誘ってしまい済みませんでした。


>通常なら、東京での講習会を受けるのですが、HPに書かれていた内容に興味をもちまして
>メールさせていただいた次第です。もし、条件が合えば川原さまのところにも行ってみたいと
>思っております。お忙しい中恐縮ですが、お返事をいただければ幸いです。


従来の「コンセプト思考術」研修は、
2日コースで、午前に講義、午後にグループ演習。
1日目は基礎テクニックを習得するための課題演習、
2日目はパラダイム転換テーマをグループで掲げる自由課題、
発表をグループ相互審査、
という形です。
グループによる演習や発表や相互審査は現場をみなければ実感をつかめませんが、
午前の講義内容については、ブログの方に掲載してありますのでご参照ください。

コンセプト思考術速習10編 ( 12 ) http://cds190.exblog.jp/i12/
1)「コンセプト」という言葉、あなたはどのように使ってますか?  〜
 http://cds190.exblog.jp/615582/




(「コンセプト思考術」の今後の抱負と現在の準備作業について)


>田坂広志さんの「目に見えない資本主義」を読んで、かつて日本に古くから根ざしていた
>「社会に役立ってこその企業」という発想こそが今、求められていると書かれておりました。

>そういうパラダイムシフトが起こっている最中、私の勤める●●も、お金を配るだけでなく、
>企業様の賛同を得て、お金を集め、NPOと共に社会を変えていく、、、現在はそういう仕事を
しております。


私は学者ではありませんが、
田坂先生とまったく同じ理念を信条として自分の課題に取り組んでおります。
「コンセプト思考術」の絡みで申しますと、
日本人ならではの特徴的な発想思考というものがあり、
そこでは、世界共通の話し言葉の4つの基本概念要素
「コトの意味」「コトの感覚」「モノの感覚」「モノの機能」の内の、
「コトの感覚」「モノの感覚」の相関が重要な鍵となります。
それは、暗黙知や身体知というものと重なるのですが、
日本語ならではの擬態語や身体語の特徴が、
日本人にそうした思考を自然体でさせるように働いています。

日本人ならではの特徴的な発想思考とは、結論的に言うと、
a.「縁起」にのっとった<情>起点の発想思考
であり、
欧米人ならではの特徴的な発想思考である
b.「因果律」にのっとった<知>起点の発想思考
中国人ならではの特徴的な発想思考である
c.「共時性」にのっとった<意>起点の発想思考
と鼎立的な関係にあります。
歴史を遡れば、日本民族は、
大和言葉によるa.をベースにしてそれをずっと温存したまま、
漢語と中国文明によるc.を導入し
欧米文明とカタカナ英語によるb.を導入し
すべてを調和的に統合する和漢洋混合の言葉遣いをする現代に至っております。

ちなみに、
c.は天意という「コトの意味」を重視し、
b.は科学や金融という記号や数字で表せる「モノの機能」を重視、
a.は自然や縁(b.c.の決定論に対して不確定性・偶有性)を重視。

*2006年度末の研究総括記事*
『日本型の集団独創のポイントは、肌で感じ取る日本語と現場相対の触れ合い』
 http://cds190.exblog.jp/5262315/

「中国人の「共時性にのっとった<意>起点の発想思考」を探る(1)」(対比的日本理解)
        http://cds190.exblog.jp/14747299/
「(2)」   http://cds190.exblog.jp/14758727/
「(3)」   http://cds190.exblog.jp/14764425/
「(4:間章)」http://cds190.exblog.jp/14781761/
「(5:間章)」http://cds190.exblog.jp/14792574/


「コンセプト思考術」研修では、以上のような小難しいことは一切触れないできました。
要は、
マーケティング用語を使わないでマーケティングの大局をつかむ、
パラダイム転換を狙うコンセプトワークの極意をつかむ、
といったビジネスパーソンのコンセプチュアルスキル取得が目的に設定されてきたからです。

現在、私は一身上の都合から一過的なリタイア状態にあるのですが、
そこに昨年の東日本大震災が起きました。
自分の今の時間的余裕と差し迫った国難とに鑑み、まったく非力ではありますが、
日本人ならではの、日本語ならではの発想思考やパラダイム転換を促進する
そういう「コンセプト思考術」講座ないしはそれを踏まえた研修カリキュラムにしていこうと
いろいろ検討を続けその成果をブログに備忘しております。

☆日本型集団独創とパターン認識 ( 100 )
 http://cds190.exblog.jp/i22
■日本語論からの発想 ( 52 )
 http://cds190.exblog.jp/i10/

「江戸の用語辞典」を読んで気づくこと(備忘録)(1)〜
 http://cds190.exblog.jp/17306461/



(お詫びと補足)

●●さまには、せっかく「コンセプト思考術」研修にご興味をもって戴いたにも関わらず、
開催予定がなくご案内することができず、誠に申し訳ございません。

以上の説明や記事が何かのご参考になれば幸いです。


●●さまの、
「企業様の賛同を得て、お金を集め、NPOと共に社会を変えていく」
という課題は今の日本にとってとても大切なことだと思います。
その際、
x.先ず組織と組織が繋がって、それから代表者の個人と個人が繋がるというアプローチなのか、
y.自由に活動している個人(多様な組織の人、組織に属さないフリーランスも含む)同士が
あるテーマなり志で繋がって各位が関係する組織を動かして繋げていくアプローチなのか、
方向性は大きく分けて2つあります。

私個人はフリーランスとしてy.をやってきましたし、これからもやっていこうと思っています。
私流のネーミングでx.を「家康志向」
y.を「信長志向」としています。
もしご関心ございましたら、以下のシリーズをご高覧いただければ幸いです。

「日本型集団独創2タイプの内の1つ『信長志向』、その現代世界における活性化を目指して(1) 」
         http://cds190.exblog.jp/14649518/
「(間章:2) 」http://cds190.exblog.jp/14656214/
「(3) 」 http://cds190.exblog.jp/14661618/
「(4) 」 http://cds190.exblog.jp/14672646/
「(5:間章) 」http://cds190.exblog.jp/14679557/
「(6:間章) 」http://cds190.exblog.jp/14969613/



by cds190 | 2012-02-22 12:21 | (研修テキスト改訂関係他)

私は父の希望を受け継いだのだと思う。  

2012年 02月 21日
一年前の今日、朝起きたら父が逝っていた。
今朝の伊豆はぽかぽか天気だ。
今にして思えば、肝心なことは父に見習っていた。

60才で老人運動に参加した父は若手行動隊の隊長だった。
渋谷のハチ公前で街宣してたら、本格派の街宣車がきて右翼が飛び乗ってきたという。するとそれまで無視して通行していた公衆が声を上げて右翼を追い返してくれた、そんな話をしてくれたことがある。
バラマキと言われた都政の福祉に、それが当たり前のレベルなのだと主張し、美濃部都知事が辞める際に花を贈ろうとキャンペーンを展開これを新聞が取り上げたため、沢山の年寄りが主旨への賛同と美濃部さんへの感謝の電話を自宅に掛けてきて私も駆り出されて応対、なんてこともあった。
私が出た沖縄のおばあさんは、東京の福祉行政のお陰で一人暮らしでも死なずに済んだと涙ながらに語った。
この前、遺品を整理してたら、その花を贈っている父の写真の掲載された新聞記事の切り抜きが出て来た。

おそらく父が信じていた人々の何かを、私も信じているのだと思う。


(補記)

1979年(昭和54年)4月15日朝日新聞より:
投書(「声」欄掲載は3月10日)が、都知事選前だったため、賛同者の中には「美濃部さんへの感謝」を具体的に候補者支持に結びつけようとした人もいた。しかし川原さん(父)は「これは政治運動ではない」と反対、美濃部さんも、花束を贈りたいという申し入れに「選挙(美濃部さんは不出馬)が終わってから」と答えた。 川原さんはこうも言っている。「私たちが感謝するのは、美濃部さん個人より、その福祉行政に対して。鈴木さんが、さらに福祉を拡充してくれたら、もちろん彼が辞める時にも花束を贈りたい。」

1979年(昭和54年)4月18日朝日新聞より:
「12年間の福祉向上ありがとう」−−−お年寄り、婦人、身障者の人たち約150人が17日午後、東京都庁に美濃部都知事を訪ね、苦労をねぎらって花束を贈った。(中略)共鳴したのは、秋田、宮城県など他県の人を含めて約300人。現金約35万円が寄せられた。同日昼過ぎ、都庁前に集まった人たちは、ほとんどお互いに初対面。車イスの人、ツエが頼りのお年寄り、赤ちゃんを背負った若い主婦、ロマンス・グレー・・・。知事室には入りきれず、対面には広い庁議室が使われた。

*美濃部亮吉氏は都知事就任時、「東京に憲法を実現する」と宣言し、老人医療無料化、保育所増設など福祉の向上に尽力した。バラマキ行政との批判があったが、3期12年続いたことはそれなりの都民の支持があったと考えられる。氏の父・達吉は天皇機関説で知られる憲法学者。



by cds190 | 2012-02-21 10:14 | 文化力発想な世間話 ■■

「江戸の用語辞典」を読んで気づくこと(備忘録)(8)  

2012年 02月 17日
「イラスト・図説でよくわかる 江戸の用語辞典 時代小説のお供に」
 江戸人文研究会編 廣済堂出版刊 発

*今回は「[お]から始まる言葉」についてのメモでございます。




[御家物]おいえもの

 歌舞伎の演目で[大名]や[旗本]の御家騒動を扱ったものを申します。
 お芝居は庶民にとても人気のあった娯楽で、中でも御家物は特にお客を集めました」

 江戸時代に日本人の「お家」至上主義のメンタリティが確立した。
 それは、主従関係が、社会全体の上から下までにおいて入れ子構造で連鎖するものであり、[大名]や[旗本]の御家騒動を庶民も自分の「お家」事情に構造的に重ね合わせて理解し共感することができた。
 
 現代でも、ある企業の動向の根っこには、日経新聞や会社四季報に掲載される明示知よりも、それらに載らない「お家」事情の暗黙知があることを、社員ならみんな知っている。
 最近であれば、オリンパスや大王製紙が話題になっているが、明るみになった事実に対して大方の反応は驚きではなく「御家騒動」さもありなんという冷静なものだ。私がむしろ驚くのは、内部通報制度が機能しないばかりか内部告発者が報復される、江戸時代となんら変わらない、また変わろうとしない日本人のメンタリティの方である。
 (参照:「勇気ある告発者に“報復”例も オリンパス、大王製紙…機能しない『内部通報』」http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/111225/crm11122521130006-n1.htm
 

[御家流]おいえりゅう

 当時の『標準書体』でございまして、幕府の[祐筆]の松花堂昭乗が公文書のためのデザインした書体でございます。
 武家社会の公文書は全てこの書体で統一されまして、武士はもちろんのこと、庶民もこの文字を学びました。
 
 当時は、薩摩や会津など、地方によって強烈な方言がありまして、会話が通じないこともしばしばでしたが、手紙ならば同じように理解できました」

 中国人同士が北京語、上海語、広東語で対話すると通じないが、書けば通じるのと同じ構造だ。

 松花堂昭乗は、江戸初期の真言宗の僧侶、文化人。堺の出身。特に能書家として高名であり、書を近衛前久に学び、大師流や定家流も学び,独自の松花堂流(滝本流ともいう)という書風を編み出し、近衛信尹、本阿弥光悦とともに「寛永の三筆」と称せられた。
 ちなみにあの松花堂弁当は、石清水八幡宮の社僧であった昭乗に因むものだそうだ。
 昭乗は、農家が種入れとして使っていた器をヒントにこの形の器を作り、絵具箱や煙草盆として使用していた。この懐石料理(茶料理)の流れを汲むものが、昭和になってから弁当の様式に展開された。幕の内弁当に似ているが、幕の内弁当は武家の礼法の本膳料理の流れを組むまったくの別物。

「御家流からさらに変化して歌舞伎の『勘亭流』、[火消]の半纏などに使われる『力文字』、相撲の番付の『相撲文字』、寄席で使われる『寄席文字』、他に『鬚文字』などが生まれまして、日本独自の書体が作られたのでございます」

 この「書体の階層化」とも言える動きは、「言葉の階層化」とも言える動きと重なる。
 「言葉の階層化」とはこういうことだ。
 外国の場合、マフィアが使う言葉と一般人が使う言葉は、スラングや訛りを除けば一緒だ。
 しかし日本の場合、ヤクザの言葉遣いと堅気の言葉遣いは違った。ごめんなさい、ではなく、ごめんなすって、だったりする。フランス人のマダムがヤクザ映画で日本語を勉強して、来日してヤクザ言葉を使って日本人がびっくりした、という話がある。そのくらい外国人にとっては「言葉の階層化」は想像を絶する事柄なのだ。「書体の階層化」もそれに準じるのだろう。
 日本人にとって、コミュニケーションとは命題の伝達や話し合いのためだけでなく、相互の身分や属する<世間>の精緻な表明と了解という側面が今でも強い。
 これは実は石器時代由来の<部族人的な心性>であり、幼児やティーンエイジャーの間では万国共通して相互に自分の属する<部族>の精緻な表明と了解が行われている。幼児が人気のヒーローの口ぶりや身振りや衣装を真似ることから、ティーンエイジャーがある種のカテゴリーのファッションを身にまとい(これには地元限定の学生服の着こなしなども含む)そうする者ならではの口ぶりや身振りをすることまで、深層心理的には同じ構造にある。

 日本人の社会を構造的に特徴づける<世間>も、この精緻な<部族>化の延長にある。
 日本人は、こうした<部族人的な心性>を<社会人的な心性>に色濃く温存してきたために、社会全体でコミュニケーションの全てのレイヤーにおいて精緻な<部族>化=「階層化」をしてきたと言える。
 身分の上下や役割によって「階層化」があるのは普遍的だ。さらに同じ身分の一般庶民が職能によって特有の衣装を纏うことも、その職能らしい用語選択や言動選択をすることも古今東西あることだ。
 だが、言葉遣いや文字までを儀礼化し様式化し職能特有なものにする、というのは日本人ならではの特徴である。

 石器時代には人類普遍であった<部族>化のメンタリティとそれによるコミュニケーションが、日本人の場合、有史後の<社会>でも温存され、細かく「階層化」された<世間>を精緻に印付きにする傾向が息づいて絶えることなく今日に至っている。
 たとえば、女子高生の間で自然発生した「丸文字」や「省略言葉」なども同じ<部族>化であるが、それが、チョーやKYなどの「省略言葉」を大人も使い一般社会でも通用するようになってしまった、つまり<社会>化にシフトしたことは、民族的な造字・造語の傾向の特徴と言える。
 

[花魁]おいらん

 [吉原]で最高位の[遊女]、[太夫]を申します。(中略)
 万治元年(1658年)の吉原細見によりますと、二千人の吉原遊女の中で、花魁は僅か三名でした。
 有名な『高尾太夫]は、ひとりではありませんで、代々吉原一番人気の遊女が襲名する名です」

 花魁も、実力者が襲名する習いがあったのか。

「花魁は江戸中のアイドルでしたので、吉原に通う男性だけでなく、彼女たちの豪華な衣装や髪飾りは、いつも町の娘たちの憧れでした」

 キャバクラ嬢をファッションリーダーとみなす若い女性たちが存在して、彼女たちが読む雑誌が登場した時、私は花魁がファッションリーダーだったことを思い出した。
 文化的に洗練された超アイドルの花魁とキャバクラ嬢では月とスッポンだと言われるかも知れないが、花魁のファッションが平安貴族のパロディであることと同じく、いわゆるアゲ嬢ファッションにもパロディ性がある。ロリータやゴスロリは原点になるファッションがありその範疇を守っているが、アゲ嬢ファッションには何を本歌としてどのような本歌取りをするかについて自由で、むしろその奇抜さを競っているの感がある。それはパロディの楽しみに他ならない。


 私たちは知識偏重の教育、正確には体系化された明示知を偏重する教育を受けたために、言語というと言葉と限定しがちだ。
 しかし現実には、ファッションも化粧も、踊りの身振り手振りもみな言語活動である。それらは感性で認知され表現される。それは暗黙知であり、必ずしも社会的に体系として共有されていない。

 花魁のファッションに憧れた江戸の町娘の感性と、キャバクラ嬢のファションに憧れる現代の若い女性の感性との暗黙知同士の距離は、江戸言葉と現代の日本語との明示知同士の距離に比べれば無いに等しい一致があると考えられる。

 たとえば、パラパラという日本オリジナルの踊りが日本中の特に女子の間で流行ったことがあった。最近はディズニーランドでもやってるらしいが、発生の地は神楽坂のディスコだそうだ。
 そう言われてみると、お座敷で芸者がお客に舞を披露するのと同じように、正対を崩さず無表情に真正面を向いて踊る。手振りが重要で、日本舞踊のそれを早回しすれば似て見えるかも知れない。
 私なぞは、お座敷の金屏風の前のパラパラ嬢を眺めながら一杯やりたいとさえ思ったくらいだが、言語体系として踊りを見た場合、日本舞踊ならではの特徴的な構造との一致があったからではないか。その一致は民族的な暗黙知、感性の一貫性と言っていいだろう。




 

[逢瀬]おうせ

 愛する男女が逢うことを申します。
 当時は男女が堂々とデートできませんので、寺社や茶屋、馴染みの商家で密会をいたしました」

 ここで、逢うは分るが、瀬とは何だろう。

 本来「瀬」とは、「淵」の対義語。
 水が深くてよどんでいるところを「淵」と呼び、歩いて渡れるほど浅いところを「瀬」と呼ぶ。また、川は岸が近くて浅いところほど流れが急なので、急流の意味もある。浅瀬、早瀬はその例。そこから転じて「立つ瀬がない」「浮かぶ瀬」「逢瀬」などと、場所、立場、拠り所、場合、機会の意味で「瀬」という言葉が使われるようにもなった、という。
 さらに、最後の拠り所ということを指す意味の「瀬」から、一年の最後を「年の瀬」と呼ぶようになったと言われている。

 つまり、逢瀬とは逢う機会のことだが、私には「最後の拠り所」というニュアンスが反映しているように感じられる。
 なぜ周囲の目を憚ってまで男女が会ったのか、それは気持ちとしては「拠り所」だったからだ。
 「お家」同士が婚姻を決める時代、恋が実らないことは多く、例外的ではあろうが駆け落ちや心中という事態にも展開した。そんな男女にとってはなおさら「最後の拠り所」だった筈だ。
 江戸言葉に限らず、微妙な情緒性を精緻に反映させる造語法は日本語の特徴である。
 男女の逢う機会は、英語の「DATE」も中国語の「約会yue1hui4」も、機能的にそのままを表現する造語法だが、瀬というアニミズムとも繋がる自然要素を介在させて情緒性を含意させる逢瀬は、これらとは著しく異なる造語法と言える。
 

[逢魔時]おうまがとき

 日没から暮れにかけての時間でございます。
 [魑魅魍魎]が活動を始める時間で、人はそれらとすれ違わないうちに家に帰り、寝支度を始めます・・・と、ちょっと恐い当時の絵本『今昔画図続百鬼』に描かれております。
 英語でいいますと『トワイライト・ゾーン』でしょうか」

 中国語も「黄昏huang2hun1」で、黄色に色あせて気を失う、という機能的にそのままを表現する造語法だ。
 日本人はこの漢字で「たそかれ」と読ませた訳だが、大和言葉の「たそかれ」は、薄暗くなった夕暮れ、人の顔が見えにくく「誰はあれは」という意味で「誰そ彼(たそかれ)」と言ったことに因むという。ちなみに、「彼は誰(かわたれ)」に因んで明け方を意味する「かわたれ時」という言葉もある。
 前項(3)でふれた[立待月(たちまちづき)][居待月(いまちづき)][臥待月(ふしまちづき)]もそうだが、こうしたある時間や日にちをその場での人間の物言いや行いをメタファーとする造語法は、人の物言いや行いが連想させる情緒性を含意する余地をもつと言える。
 その発展形として、「何、黄昏れているの?」などと言われる場合、それは時間に関係なく情緒性だけを表現している。
 



*次回も「[お]から始まる言葉」についてのメモを続けます。

 





by cds190 | 2012-02-17 12:04 | ■日本語論からの発想

「江戸の用語辞典」を読んで気づくこと(備忘録)(7)   

2012年 02月 15日
「イラスト・図説でよくわかる 江戸の用語辞典 時代小説のお供に」
 江戸人文研究会編 廣済堂出版刊 発

*今回は「[え]から始まる言葉」についてのメモでございます。




[永楽通宝]えいらくつうほう

 室町時代に明国から輸入されたコインでございます。[寛永通宝]が国内で造られる江戸初期まで使われました。
 できの悪いものも多くあり、それを[鐚銭(びたせん)]と呼びました」

 「びた一文払わない」の「びた」とはこの[鐚銭]のことだったのか。


[絵看板]えかんばん

 文字ではなく絵や形で示した看板を申します。
 商い物の姿を看板にしたものや、弓と矢を掲げて[湯屋]とするなど駄洒落系のものまで色々ございました」

 弓と矢の絵で[湯屋]を表す、こういう洒落を「判じ絵」という。

 歌舞伎役者の三代目尾上菊五郎の「良き事聞く」格子柄の模様が有名だ。斧(よき)と琴(琴柱)と菊とを組み合わせている。これが元ネタで、横溝正史の「犬神家の一族」で相続権を示す犬神家の3つの家宝になっている。

 じつは、江戸の庶民が旺盛だったのは遊び心だけではない。弱きを助け強きをくじく意気地こそ旺盛だった。
 判じ絵は遊び目的だけでなく字の読めない人のためにも用いられた。判じ絵の絵暦や般若心経である。
 喜多川歌麿の浮世絵にも美人の名を判じ絵にしたものがある。これは寛政の改革で人名を出すことがうるさくなったためである。プライバシー保護法を判じ絵で切り抜けた、といったところだ。

 判じ物も面白い。
 判じ物は、江戸時代から存在して今でも見かけることがある。
 「十三や」という看板は、九四=櫛屋だ。
 焼き芋屋の看板によくある「十三里半」は、九里(栗)四里(より)うまい(上だ)という洒落である。


[江戸三座]えどさんざ

 幕府は芝居が盛んになると『風紀を乱す』との理由で、強い規制をかけまして、芝居興行を許可制としました。
 『櫓』を上げることのできる『官許』の芝居小屋はどんどんと少なくなり、最後は中村座・市村座・森田座・山村座だけになりました。これを『江戸四座』と申します。
 しかし、山村座は正徳四年(1714年)の[江島生島事件]に巻き込まれて廃座となり、それ以後[江戸三座]となりました。
 
 ただ、官許以外にも[宮地芝居]という寺社境内や火除け地などで興行される芝居がありました。
 こちらは蓆掛けの仮小屋で舞台以外に天井のないものでした」

 旅回りの一座が興行したのは、後者の仮設小屋による[宮地芝居]の方だろう。


[江戸三富]えどさんとみ

 谷中・感応寺(天王寺)、目黒・滝泉寺(目黒不動)、湯島・湯島天神の三箇所で行われます[富くじ]のことでございます」

 そもそも[富くじ]は、瀧安寺(りゅうあんじ)の富会(とみえ)に始まる。当せん者にお守りを授けるだけだったものが、次第に金銭と結びつき[富くじ]として氾濫するようになった。徳川幕府は元禄5年(1692年)禁令を出したが、寺社にだけは修復費用調達の一方法として発売を許し、これを天下御免の富くじ「御免富(ごめんとみ)」と呼んだ。
 (幕府公認の御免富[江戸三富]だが、その後天保13年(1842年)の「天保の改革」によって禁止され、明治になってからも明治元年(1868年)の「太政官布告」によって厳しく禁じられた。昭和20年、敗戦直前、軍事費の調達をはかるため「勝札」を発売するまで(抽せん日を待たず敗戦し「負け札」と呼ばれる)まで、天保の禁令以来、103年もの長い間、日本では[富くじ]は発売されなかった。)

 寺社が行う[富くじ]や[宮地芝居]、そして官許の[江戸三座]、これらを監督したのが寺社奉行だ。勘定奉行・町奉行と並んで評定所を構成した三奉行の一つ。奉行になったのは主に旗本であり、老中所轄に過ぎない勘定奉行・町奉行に対して別格扱いで、寺社奉行は三奉行の筆頭格といわれた。
 主な任務は全国の社寺や僧職・神職の統制だが、門前町民や寺社領民、修験者や陰陽師らの民間宗教者、さらに連歌師などの芸能民らも管轄した。当時の庶民の戸籍は寺社が全て管理していたため、結婚と離婚(今日でいう戸籍に関する訴訟や審判)の管理など現在の法務省が担う行政も担当していた役職だという。

 ここで言う戸籍とは、宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)のことだと思う。
 江戸時代、幕府はキリスト教禁止令を発布し、やがて寺請制度を確立させ、民衆がどのような宗教宗派を信仰しているかを定期的に調査するようになる。これを宗門改と呼び、これによって作成された台帳を宗門改帳と呼ぶ。本来の目的は、信仰宗教を調べることであったが、現在で言う戸籍原簿や租税台帳の側面も持つ。
 18世紀になると宗教調査的な目的も薄れ、人口動態を確認し、徴税などのための基礎資料として活用されるようになった。
 改帳の作成は、町村毎に名主や庄屋、町年寄が行った。改帳には、家族単位の氏名と年齢、檀徒として属する寺院名などが記載されており、事実上の戸籍として機能していた。
 婚姻や丁稚奉公などで土地を離れる際には寺請証文を起こし、移転先で新たな改帳へ記載する。こうした手続きをせずに移動(逃散や逃亡など)すると、改帳の記載から漏れて帳外れ(無宿)扱いになり、居住の制約などを受けるなどの不利益を被る。これらの人間を非人と呼んだ。

 つまり寺社奉行は全国区で、定住社会の定住民と、定住社会に属さない移動民を把捉して管理していた。
 幕藩体制において最重要の機構だったと言える。


[江戸払]えどはらい

 江戸市中から追い払われる刑でございます。
 [町奉行]の管轄内への立ち入りが禁止されますが、それ以外は自由でした。
 また『江戸十里四方御構(おかまい)」はもっと広く、江戸より十里(約40キロメートル)四方への居住や商売などでの立ち入りが禁止されました」

 [江戸払]は、江戸市内に居住を許さず、具体的には品川・板橋・千住・四谷の大木戸、および本所・深川の外に追放するもので、幕府直轄の江戸市内がエリアが特区のような存在だったと分る。
 18世紀初め40万近い人口を抱えていた大阪と京都も、大阪城代や京都所司代が治めた幕府直轄だったが、大阪払や京都払といった言葉は聞かない。それは、幕府が罪人を立ち入り禁止にする必要がなかったり、追放されても罪人にさほどデメリットがなかったからではないか。
 とすれば、幕府お膝元の江戸市内は、幕府が罪人を立ち入り禁止にする必要が大きくあり、追放されると罪人には大きなデメリットになった、ということだ。このこと自体が、全国的な例外である特区性をよく表わしている。


[江戸詰]えどつめ

 江戸の藩邸に勤める武士のことを申します」

 幕臣の屋敷と全国の諸藩の江戸屋敷があって旗本や[江戸詰]が集合して一大消費都市を形成している、ということが江戸の特区性のそもそもの始まりだったことは間違いない。
 幕府としてはそんなお膝元で悪さをさせたくないし、意欲的な庶民は江戸でしか手に入らない商機をつかみたい。
 大阪や京都は同じ幕府直轄地でも武士は少なく、古来、町人は公家と寺社との関係性の中で商工を発展させてきたが、幕藩の上級武士が集中しどんどん商機を拡大した江戸と比べればその商機は相対的に小さかったと言えよう。戦国時代から公家と寺社の勢力は衰頽していったのに対して、幕藩体制で武家が経済官僚化し城下町およびその周辺の公共事業で地域経済を発展させたということがあった。それに伴って民間経済も発展しそこでものを言うのが人口だが、人口は江戸が圧倒的だ。

 さらに日本の江戸時代に独特な事情も配慮すべきだろう。
 それは、支配階級が身分は高いが経済的には疲弊し続けていった、ということだ。

 幕藩のまともな宮仕えの役目のある家臣は長男による世襲で、次男以下は奉禄少なく出仕しなくていいから自分で稼げという身分の者や部屋住みの身の者が多かった。役目のある家臣でも困窮する者は多く、商人からお金を借りたり商人に持ち物を売ってお金を工面したりした。
 身分の高い支配階級が身分の低い被支配階級に経済的に依存する体制、というのは世界にそんなにある訳ではない。大掛かりなものとしては、キリスト教世界において金貸業で栄えた被差別民のユダヤ人くらいではなかろうか。ただそれは体制側が意図した訳ではないが、江戸時代の場合、幕府自らが士農工商の身分制度を定め札差などを公認して金融システムを体制化したのだから事情が違う。

 札差とは、蔵米取りの旗本・御家人に対して、蔵米の受け取りや売却を代行して手数料を得ることを業とする者で、享保九年(1724)に株仲間が認許され、一万数千人の蔵米取りの旗本・御家人を相手に彼らの俸禄米を 担保とした高利金融をわずか109人の札差で独占した。その結果、巨万の富を得たという。
 江戸時代を通じた貨幣経済の進展に伴い、諸物価の基準であった米価は下落を続け(米価安の諸色高)、それを俸禄の単位としていた旗本・御家人の困窮が顕著になっていったのだった。
 (参照:「江戸にもあったサラリーマン金融(消費者金融)。しかもそのサラリーマンとは国家公務員クラスの立場の旗本・御家人限定。」http://www.viva-edo.com/fudasasi.html

 つまり江戸には、単に優良消費者の人口密集地という世界の主要都市と同様の条件に加えて、日本独特な「身分の高い支配階級が身分の低い被支配階級に経済的に依存する体制」の拠点であった、という特区性を指摘できる。
 土地資本を基盤とする年貢由来の俸禄で暮らしながら土地所有者ではない支配者層、という独自な立場に立たされた武士の生活の安定と、安定成長政策とは必ずしも上手く融合できず、江戸中期には金融引き締め的な経済圧迫政策が打ち出されて不況が慢性化した。
 江戸後期には田沼意次が、それまでの農業依存体質を改め、重商主義政策を実行に移した。商品生産・流通を掌握し、物価を引き下げるため手工業者の仲間組織を株仲間として公認、奨励して、そこに運上・冥加などを課税した。銅座・朝鮮人参座・真鍮座などの座を設け、専売制を実施した。町人資本による印旛沼・手賀沼の干拓事業を行った。埋め立てをした町人は、土地の所有権と 名字帯刀などの名誉も受けられたので意欲的に関わった。
 この時期、江戸町民は景気よく文化を盛り上げた。

 ところが田沼政治を批判した松平定信が1787年(天明7年)に登場し寛政の改革を推進。
 田沼時代のインフレを収めるため質素倹約と風紀取り締まりを進めて超緊縮財政で臨んだ。
 抑商政策が採られて株仲間は解散を命じられ、大名に囲米を義務づけて、旧里帰農令によって江戸へ流入した百姓を出身地に帰還させ、棄捐令(きえんれい・債権者である札差に対し債権放棄・債務繰延べをさせた武士救済法令)を発して旗本・御家人らの救済を図った。七分積金や人足寄場の設置など今日でいう社会福祉政策を行ってもいるが、思想や文芸を統制し、全体として町人・百姓に厳しく、旗本・御家人を過剰に保護する政策を採り、民衆の離反を招いた。
 重商主義政策の放棄により、田沼時代に健全化した財政は再び悪化に転じた。
 この時期、江戸町民は景気が落ち込み文化も厳しく統制された。

 以上のように江戸の経済と文化は山有り谷有りだが、商売や文化創造においてチャンスやピンチといった大きな変化が常にあるのが江戸であり、その特区性だったと言えよう。
 

[江戸前]えどまえ

 ①江戸後期に、食文化が華やいで生まれた言葉です。
 西沢一鳳の『皇都午睡(みやこひるね)』によりますと、『[大川]より西手、江戸城より東手、つまり下町の地域を江戸前』とあり、当時、江戸前とは江戸湾ではなく下町を指しました。(中略)
 ②『江戸流』という意味でも使われます」

 実質的にはこの[江戸前]こそが町人の商業が集積した特区であった。
 また、この特区ならではのビジネス・スタイルやカルチャー・スタイルが[江戸前]と言われた。


[衣紋を繕う]えもんをつくろう

 衣紋とは『襟口』のことでございます。体を使う職人でない限り、着物の襟をピチッと着るのがマナーですが、家にいる時は、ゆったりと着るのが[粋]ですな。(中略)
 しかし、お客さんがいらっしゃったり、[棒手振(ぼてふり)]が来て、ちょっと野菜なぞを買おうと外へ出る時は、襟を正します。これを『衣紋を繕う』と申します」
 
 この説明で、マナーと言っているが、お客さんに対してはそうだが、[棒手振]に対しては保つべき体面と言うべきだろう。それも下働きの女中が[棒手振]に対して保つべき体面がどのくらいあったかと言えば、身分の高い武家なり大店でなければ、気やすく受け答えして襟を正すなんて仕草は実際にはしなかったのではないか。
 つまり実際の仕草としては、[衣紋を繕う]とは衣紋掛けに掛けるような着物を着ている人の応対なのであろう。
 で、武家でも商家でも、衣紋掛けに掛けるような着物を着ている人が応対するのは、女中を雇う余裕はないが、さりとて体面は保たねばならないというケースに多い、ということになる。私は、困窮気味の侍屋敷の勝手口などを想像してしまう。
 
 江戸時代の都市には、幕府が直轄する江戸・京都・大阪の三都と大名が支配する 城下町があり、それらの土地は基本的に幕府と大名が所有。つまり侍にとって屋敷は仕える主人から与えられる、言わば借り物だった。出世や降格などにより地位が変われば屋敷も相応のものに替えられ、主人が転封となればその屋敷は明け渡さなければならなかった。
 で、侍の「お家」にとっての体面とは、仕える主人から与えられた役目そして屋敷が保つべき体面に他ならない。たとえいくら困窮しても、この体面をつぶす訳にはいかないから出費が嵩み、それゆえに困窮が深まったと考えられる。
 私は[衣紋を繕う]という言葉はこうした背景から生じていて、「襟を正す」には含まれていない体面を「繕う」ニュアンスが濃厚にあるように感じる。
 
 俸禄だけでは食べていけない侍は内職をした。とは言え、浪人なら傘張りもしようが、宮仕えの身であれば体面を保ちつつそれなりに稼ぎが大きい働き方をしなくてはならない。
 たとえば江戸の朝顔市のルーツは、化政期、御徒町の下級武士、御徒目付の間で朝顔が盛んに栽培されていたことに始まる。侍屋敷の敷地内での栽培なら人目につかず、また侍屋敷が集まってできた侍町で隣近所みんな栽培しているとなれば体面も保たれる。
 朝顔の手入れをしていた奥方が、勝手口に来た棒手振のところへ向かう、そこで[衣紋を繕う]仕草をする、そんな光景が目に浮かぶ。

 
[縁座]えんざ

 御咎めを受ける本人に加え、親類縁者も罰せられることでございます。
 当時は『連帯責任』が普通で、家族の犯罪は監督責任のある親や親族にも及びました。
 ですから、どうしようもない放蕩息子などを放置して犯罪を犯されますと、縁座によって親類まで『財産没収の上[遠島]なんてことになりかねません。
 それゆえ、普段から親類縁者が口うるさくいって来ることになり、改心の見込みがなければ勘当して、相続権の断絶と[人別帳]から籍を削除して[久離(きゅうり)]を切りました。また、そこまでしない場合は『勘当帳』に記載され、同等の扱いを受けます」

 現代でも、甲子園常連の高校が野球部員の非行を理由に参加を辞退するのしないのと揉めることがある。これは[縁座]のメンタリティが綿々と息づいている言えよう。
 
 私は、[縁座]は足を引っ張り合う「負の相互扶助」であり、「正の相互扶助」である助け合いと表裏一体の関係にあると捉えている。
 「普段から親類縁者が口うるさくいって来る」とは、「負の相互扶助」の防止ばかりではない。いい見合い話をもってくるなど「正の相互扶助」の促進もある。

 現代の日本のメーカーでも、稼ぎ頭のA事業部門が、巻き返しを狙うB事業部門の博打とも言える巨額投資に対して口を出さずにカネだして「正の相互扶助」である助け合いをするかと思うと、それが奏功せずに巨額赤字を出すと一転、「負の相互扶助」を防止すべくB事業部門の切り捨て売却を進める。
 合理的に考えて最初から反対して無理な巨額投資をさせないで、人材や特許や生産設備などの資源活用をはかる業務向け事業化といった縮小均衡策路線や事業部門連携策を進める、そんな選択肢も現場からは上がった筈だ。しかし、A事業部門とB事業部門の経営幹部は阿吽の呼吸なのか、以心伝心なのかそうした選択肢の検討は一切無しだった。
 こうした展開がおおよそ同時期に日本のメーカー各社で並行したのだが、そこには「正負の相互扶助」=「助け合い」+「縁座」という日本人独特のメンタリティが働いている。

 
[遠慮]えんりょ

 武士の刑罰のひとつで、[籠居(ろうきょ]のことでございます。
 屋敷の門を閉じ、自室で謹慎して昼間は誰にも会わないように命じられました」

 武士の刑罰には、幕府や領主などから命じられて行う場合と、命じられる前などに自発的に自宅に謹慎する場合もあった。
 [遠慮]は、夜間のひそかな外出は黙認された。他者の出入りを制限しない点で、逼塞などと異なる。自主的に行う意味合いが強く、公に申し付けられる場合は「慎み」となる。

 つまり、自主的に行う謹慎の意味合いが強いのが[遠慮]であり、その自罰的・自責的なニュアンスが私たちが日常的に使う日本語「遠慮する」に繋がっている。
 中国語の熟語、遠慮深謀とは関係なかった。
 



*次回は「[お]から始まる言葉」についてのメモでございます。



 



by cds190 | 2012-02-15 22:07 | ■日本語論からの発想

「江戸の用語辞典」を読んで気づくこと(備忘録)(6)   

2012年 02月 12日
「イラスト・図説でよくわかる 江戸の用語辞典 時代小説のお供に」
 江戸人文研究会編 廣済堂出版刊 発

*今回は「[う]から始まる言葉」についてのメモでございます。




『浮世絵』

 江戸中期に菱川師宣(ひしかわもろのぶ)によって版本の挿絵として作られたのが始まり(中略)。
 浮世絵には『錦絵』[春画]『絵本』の種類がございます。
 色刷りは鈴木春信の頃から始まり、十版以上も重ねられるようになりました。段々派手になり、値段もグンと跳ね上がりましたので、[享保の改革]で規制を受けます。(中略)女性は幼女のみ(中略)に定められました。
 そのため、タイトルは『幼女』になり、女性を以前より小振りに書くことで『大人の女じゃないよ』ってことで描いたりしました。また、[火消]の浮世絵が『子供遊び』などと題されているのも、災害をテーマにした刷物の販売が禁止されていたからでございます。(中略)

 浮世絵は絵師がひとりで作るものではなく、[版元]が企画して、『絵師』が描き、『版木職人』が[版木]を彫り、それを『刷り師』が刷るという何人もの手が必要でした」

 1995年の篠田正浩監督映画『写楽』http://www.youtube.com/watch?v=WGBlbbQjcxcで、その企画総指揮・脚色も務めた故・フランキー堺氏が版元・蔦屋重三郎を好演している。
 「野暮な御法度なんぞはしゃらくせいと江戸の男の心意気の名乗りだ!」と東洲斎写楽の命名をしたのが蔦屋であると映画では演じている。
 蔦屋は、寛政の改革により風紀取締りが厳しくなると、寛政3年(1791年)には山東京伝の洒落本・黄表紙が摘発され重三郎は過料、京伝は手鎖50日という処罰を受けたという。

 「浮世絵」について、私個人的には、前項(4)で触れた、着物が女体にまとわれた時に出現する、直線とも曲線ともつかない、両者が相反補足的に対立した様相を「いきの線分」と名づけて、それが「いき」の価値観が成熟する化政期以降の浮世絵において有意味に多用されることに着目している。
 詳しくは「「浮世絵に見る江戸幻想の諸相」」http://www2.gol.com/users/cds/ukiyoe.pdfをご参照ください。


[浮世双紙]うきよぞうし

 『浮世草紙』とも書きます。[井原西鶴]が開拓した書物のジャンルで、浮世のことを題材にした小説でございます。
 浮世とは、当世風、[好色]の世界のことでして、わかりやすく申しますと、最先端のファッション界です。つまり浮世双紙はファッション雑誌でございます」

[浮名]うきな

 浮いた噂、モテ話のことでございます。特に『[遊女]に本気で惚れられた』などの噂を申します。(中略)
 『浮名を流す』は、遊女との仲や恋愛の噂が世間に広まることを申します」

 浮世双紙も、版木で印刷した本、版本だった訳で、その挿絵から浮世絵が発生した経緯はしごく自然だった。
 浮世双紙は、「浮名を流す」メディアにもなった。
 このように「浮世」や「浮(うき)」が江戸社会の気分を象徴するキーワードとして展開していった。
 今でもこうしたキーワード造語法は、英語のsmart由来の「スマート◯◯」などで健在だ。


[請出]うけだし・うけだす

 ①[遊郭]から[遊女]を引き取ることを申します。(中略)
 ②借りたお金を払って、質草を返してもらうことを申します。[長屋]の庶民は、夏には[夜具]を質に入れ、冬には[蚊帳]を質に入れ、質屋を箪笥代わりに使うこともありました。半年ごとに請け出さなければなりませんので、得にはなりませんが、始終火事でどこかの町が燃えてますから、家に置いておくよりは安心したし、部屋が広く使えます」

 庶民が持ち家をもついわゆる「持ち家志向」は、高度成長期の持ち家政策によって初めて普及した。
 バブル崩壊後の長引く平成不況と雇用就労環境の悪化を経て、親と同居ではない新居をローンで買う人口は若い世代で激減している。逆に、世間体はどうであろうと自分は身の丈にあった借家でいい、という堅実な価値観が普及している。また今後は、福島原発事故の影響による東京一極集中の緩和や、日本全体の人口減少や単身生活者の拡大などから家余り、つまりは賃貸物件の低廉化が予測され、そうした傾向はさらに助長されよう。
 ちなみに非婚化・晩婚化も進む現代の日本は、男性人口過多と貧困とから独身男性が多かった江戸社会と似通った様相が特に都市部で顕著化してきている。それはリアルなライフスタイルとヴァーチャルな夢想生活の両面においてであって、下流社会と言われる階層ほど「モノを所有せず利用して、時間消費型の消費生活を送る」江戸社会的な様相が確実に色濃くなってきている。
(参照:「人口減少社会日本、行動はストレートに脳が最大限に満足する方向に向かっている」http://cds190.exblog.jp/373753

 欧米の高級ブランドのブームは、バブル期よりもバブル崩壊後の長引く平成不況において盛り上がった。直営店が日本の主要都市や主要界隈に林立したのもこの時期である。
 注目すべきは、これも「モノを所有せず利用して、時間消費型の消費生活を送る」江戸社会的な様相と言えることだ。
 ブームがキャバクラ嬢や援助交際する女子高生にまで展開したこと、つまりブランド品の意味が転換したこと。そして、コメ兵やネット・オークションが全国ネットワークで捉えたようなリユース市場=リレー・マーケットが拡大したことを指摘できる。
 バブル期以前は、欧州旅行に行った証でもあったルイビトンやグッチのそれと分る一点を一生物として買った人たちが多かった。つまり、自分が属する、あるいは属すると見せたい経済階層を誇示した訳だ。それが、話題の新作を競って早く買い流行の先端を行っていることを誇りその役目を終えれば売るという人たちが多くなっていく。競い合っている者同士はそれと分るが、関心のない私などには知らないブランドの方が多くなり、私でもルイビトンやグッチと分る印が無くなったり目立たなくなったりした。誇示しているのは自分が属する、あるいは属すると見せたい流行キャッチアップ階層であり、しかもそれはそれを気にして競う者たちだけの話題となっている。これも極めて江戸社会的な様相だ。

 こうしたパラダイム転換は、じつは私のような中高年の世代を含む企業社会の老若男女のビジネスパーソンにも展開している。
 自分が属する、あるいは属すると見せたいのは経済階層ではない。たとえば業界大手に正社員として勤めているとしても、立場は終身雇用の時代のように安定していないし、リストラに応じないことと引換えに安い給料と小さな権限を甘受している人々も多い。勢い自分が属する、あるいは属すると見せたいのは、エキスパートとして評価される先端キャッチアップ階層となる。


[請人]うけにん

 保証人のことを申します。今日では保証人は金銭的な保証だけをしますが、当時は刑罰や命までかけましたので、容易いことではございません」

 現在は、借金の保証人にだけはなるな、とよく言われるように金銭的な保証だけのようだが、よく見るとそうではない。
 たとえば、成人した大学生が不祥事を起こすと大学関係者が記者会見を開いて謝罪したりする。あれは、大学が[請人]になっているということと解釈できる。大学は、学生のプライベートライフまで監督する義務はないしそもそもそんなことは不可能だからだ。


[空蝉]うつせみ

 ①この世に生きる人、この世のことを申します。
 ②空蝉という遊女が始めた髪型でございます」

 じつに意味深な言葉だ。
 そんな源氏名の遊女を相手にして楽しかったのだろうか。


[埋もれ木]うもれぎ

 山中に埋まった半化石状の古木のことでございます。珍重されまして高値で取引されました。
 どこに埋もれているかはわかりませんで、これを探す連中を『山師』と呼びます」

 「山師」は、明治初期には鉱脈や油井を掘り当てる者を言っていたが、江戸の埋もれ木探しに由来していたのか。


『裏長屋』

 庶民の住む横町式の[長屋]のことを申します。
 庶民は江戸の人口百万の半分くらいを占めながら、江戸市中の二割程度の狭い土地に暮らしておりましたので、おのずとスペースもコンパクトでございます。(中略)

 壁は五〜六センチの厚みの粗末な土壁でして、すぐに崩れるものですから、住人が紙などを貼って繕うのが一般的です。(中略)
 当然ながらガラスなんてものはありません。入り口は[腰板障子]で、奥は障子戸です。[へっつい]の上の窓は[連子窓]で網戸なぞもありません。ですから、夏は[蚊帳]がないと、おちおち眠れません。
 それでも窓があれば良い方でして、入り口以外に風の通り道のないのもありました。もちろん暑いですし、湿気も料理の煙もこもります」

 長屋は共同トイレなのだが、「中には、二階建て、三間に二畳の台所、専用のトイレ付きなんて豪華な物件もありました」「二階建て、物干付きもあった」とある。

 いつの時代も賃貸住宅はピンからキリまである。
 現代では「ネットカフェ」のような時間貸しの宿泊可能な個室があり、そこにはコイン式シャワーも完備している。パソコンがあって漫画があって趣味的な情報生活は完璧にこなせる。
 そこを根城にする人々を「ネットカフェ難民」と差別的な呼び方をするが、都市部の単身生活者としてはきわめて合理的なライフスタイルの人々である。食べ物はコンビニで買うかファミレスで長居しながら食べればいい。洗濯はコインランドリーを利用する。今は、夏に冬物のコートなどを預かってくれる洗濯屋もある。なんら所帯道具を持たず、掃除も皿洗いもしなくていいというメリットもあり、江戸時代の窓のない長屋に住んだ下流階層に比べればまさに天国だ。
 つまり、いまマスコミから難民と一方的に名づけられた人たちの生活は、江戸社会の下流ライフスタイルを、何も持たない気軽さと気侭な移動性という本質を温存しつつさらに高質化・高付加価値化したものとなっているのだ。
 画一的にワンルームマンションなぞと比べるから表面的に貧しいと感じる。しかし、ライフスタイルの実質的価値は生活者自身のこだわりに照らすべしと本質的に検討するならば、定職を持たない単身生活者ならではの特権を細大漏らさず満喫するモバイル生活を実現しているとも言える。
 江戸社会の様相を、現代社会の様相に照らすことで、現状の構造や可能性をじつに多様な見方で見ることができる。


[裏店]うらだな

 ①『店(たな)』とは借家のことを申します。一般的に[表店]三〜五軒の間に[木戸]がありまして、そこから幅六尺(約1.8メートル)の路地が奥へず〜っと通っております。(中略)
 路地に面して左右に[裏長屋]がなれんでおりまして、これを裏店と申します。

 アパートではありますが、ここで商売する方もおりますので、木戸の周りには看板がびっしり掛けてありました。木戸は夜八ツ(午前二時頃)に施錠しましたが、昼間は誰が入ってもかまいません。トイレ、井戸も自由に使えました。
 
 ②裏長屋での商売を申します。僅かに品物を並べる商売から、[音曲]の師匠、[いちっ子](筆者注:女性占い師)や[居職]などなど、路地裏でも様々な商売が商われておりました」

 現代の共同住宅のビルでも一階の道路に面したところが店舗群、その間にマンションのエレベーターホールへの入り口がある形式をよく見かけるが、そうした垂直軸を水平軸に平面展開したような形式だ。マンション各戸の使い勝手がさまざまでオフィスや各種サービス店舗があることも同じだ。
 ただ大きな相違点がある。
 それは、「昼間は誰が入ってもかまいません。トイレ、井戸も自由に使えました」というオープンなコミュニティ性である。
 この江戸社会の裏長屋の有りようは、全国に蔓延してしまったシャッター商店街を、職住近接集住エリアとして、かつ昼間、アーケードから一般市民が自由に出入りできるコミュニティスペースを含む形式で再開発する、そんなアイデアに繋がると思う。
 

[瓜実顔]うりざねがお

 瓜の種のように、白くて細面の顔形を申します。これに鼻筋が通ってますのが江戸美人の典型ですな」

 フィギアスケートの真央ちゃん、がこれだと思う。
 以前、民放番組で占いの細木数子さんが、どちらかと言えば丸顔にもかかわらず自分が瓜実顔だとドヤ顔で言っているのを見掛けた。細木さんと言えば、あの安岡正篤氏から易を指南された確かな方だから、私は、瓜にもいろいろあって丸い瓜もあるからなあと思ってしまった。
 しかし、瓜ではなくて、細長い瓜の種の形のような顔を言うのだ。
 テレビでそれなりの人に自信をもって言われるとまず疑わない、これは反省しなくてはならぬ。

 
[浮気・艶気]うわき

 江戸時代の浮気とは、ズバリ『恋愛』のことを申します。
 当時、ロマンチックなことは『浮いた気持ち』と考えられ、あまり良しとはされませんでした。では『恋愛は結婚につながらないのか』と、申しますと・・・・武士や中流以上のご家庭では、基本的につながりませんでした。結婚は親などが決めるお見合いが基本でしたから。
 しかし、[長屋]の住人は、恋愛結婚も普通でございました」

 親が決めてしまう見合い結婚は戦前まで多かった。
 現代では、見合いをしての結婚はまだあるが、親の意向に本人が従うというのはほぼ皆無だろう。
 しかし、結婚が成立する大枠が「経済的条件のマッチング」である、と捉えれば江戸の武士や中流以上の家庭と、現代の本人同士、たとえば高給取りだけを集めた会員制お見合いクラブの参加者などとはほとんど同じ精神構造だ。
 江戸社会において恋愛結婚が普通だった[長屋]の住人も、経済的条件を考えなかった訳ではないが、必ずしもその「マッチング」を厳格な必要条件とはしなかった。現代でも、そういう結婚に至る本人同士は数多にいる。
 前者の本人同士とどこで一線が画されるのかというと、
 それは後者の本人同士が、
①経済活動以外の活動を優先していること
②その活動ないし活動の主旨が一致していること
③以上によって生活信条や人生観が重なり共感しうること
 なのだと思い当たる。

 統計がある訳ではないが、このような条件を満たして恋愛関係にある若い男女は増えているのではなかろうか。それが結婚に繋がるかどうか、結婚して子供を作るかどうか、それはいろいろだろう。しかし、このような条件を満たすライフスタイルを温存していく可能性は高い。
 こだわりの活動は、芸能や芸術や各種クリエイティブのような「天職命」かも知れないし、ファンチームのスポーツ観戦やスキューバダイビングやコスプレのような「趣味命」かも知れない。とにかく経済活動以外の自分のこだわりの活動に生活や人生の重心を置く人々の増加はすでに始まっている。
 まず自分のこだわりの活動に邁進する、その上で経済活動との折り合いをどう着けて行くか、そこで結婚するしないや、するならどういう結婚をするかがはじめて問われる、そういう順序になってきているように思う。
 まず横並び画一的な生産消費活動があって、その残りの時間と資源でこだわりの活動をする、という捉え方がずっとメジャーではあろうが、かつてのように庶民なら誰もが絶対にそうだというほど全体的ではなくなってきている。
 これは特にサブカルチャーのメッカの周辺都市部で顕著な傾向であり、そうした傾向が肌に合う若者が全国から集まっていることもあり、そうしたエリアには都市江戸の独身文化の様相が、男女共同参画型で現代的に再生しているように私は感じてしまう。




*次回は「[え]から始まる言葉」についてのメモでございます。




by cds190 | 2012-02-12 18:33 | ■日本語論からの発想

「江戸の用語辞典」を読んで気づくこと(備忘録)(5)  

2012年 02月 10日
「イラスト・図説でよくわかる 江戸の用語辞典 時代小説のお供に」
 江戸人文研究会編 廣済堂出版刊 発

*今回は「[い]から始まる言葉」についてのメモでございます。




[居合]いあい

 早撃ちならぬ、早斬りを申します。[抜刀]せずに相手に対峙し、[間合]に入ったところで抜打ちにいたします」

 もともと居合(居相)とは刀を抜く技術に限らず「座って行う技の事」を指している。
 だから流派によっては、「居」とは「座っている」という意味で、立って行うものは「立合」であると説明している。柳生流などは、居合と抜刀術を異質のものとしている。
 
 「居」を含む熟語は多いが、すべてもともとは「座っている」状態を前提にしていたことに留意すべきだ。
 「立ち居振る舞い」という言葉は、「立つ」「居る」「振る舞う」の合成語ともとれるし、「立ち振る舞い」にあまり言わないが「居振る舞い」を合わせて表現する言葉ともとれる。
 「立つ」には、立ち上がる、離れる、始めるという意味があり、他者や周囲に動きとして働きかける能動的なニュアンスが強い。
 一方、「居る」こと自体には、「座っている」状態だから他者や周囲から見られたり対応されたりする受動的なニュアンスが強い。働きかけるとしても、他者や周囲の反応を誘なったりそれに呼応するのであって、直接的な動きによるのではない。
 こういう捉え方は、「居合」と「立合」を分けて、かつ柳生流のように「居合」と「抜刀術」を異質のものとする考えにそうだろう。

 本書の順序を逸脱して、「居」から始まる言葉を上げてしまおう


[居消]いけし
 
 店の金を使い込んだ[奉公人]を、返済させるために『タダ働き』させることを申します。
 場合によってはいくら働いても返せないこともございましたが、正直者であれば[下男]として一生使いました」

 この場合、店にかけた損害が消えるまで店に居て働かせる、ということで、「座っている」という意味ではなく、「座す」イコール「どこへも行かずに居る」という意味の「居」なのだろう。
 これは「居候」の「居」でもある。
 

[居丈夫]いじょうぶ
 
 体が大きくて逞しい男性のことでございます」

 おそらく、「座っている」だけで存在感がある丈夫=逞しさ、ということなのだろう。
 「立ち丈夫」とは言わないのは、立ち振る舞いは身振り手振りで人は大きく見えたり小さく見えたり、逞しくみえたり貧弱に見えたりするからではないか。その点、「座っている」だけだとそうした演出性が働きにくい。
 いくら即席で「居住まい」を正しても、精神が培って来た身体が語ってしまうものがある。


[居職]いしょく
 
 職人のことで、自分の家を仕事場とする者を申します」

 座って作業する職人が多く、「座職」と同義、反対語は「出職」。
 立ち仕事の職人もいなかった訳ではないから、「どこへも行かずに居る」という意味の「居」ともとれる。


[居丈高]いたけだか
 
 態度のデカイ様を申します。
 『居丈』とは座高のことで、座っているのに上から人を見下すような態度でございます。(中略)
 立ってもそれほど身長がなかったりしますから、芯のところを認められていない方に使う言葉でございます」

 [居丈高]と「高飛車」(頭ごなしに相手を威圧するさま)は、上から人を見下すような態度、ということでは類似している。しかし、「座っている」ことが前提の[居丈高]はより静態的、「高飛車」は飛車という言葉が連想させるようにより動態的なニュアンスがある。
 ちなみに「高飛車」は、将棋用語で飛車を自陣の前方に高く進める戦法のこと。威圧する攻撃的な陣形のため、江戸末期から将棋以外でも「高圧的」の意味として使われるようになったという。
 [居丈高]の方が態度そのものに重点があり、「高飛車」の方が言動に重点があるともとれる。
 身体をメタファーとする身体語の微妙なニュアンスを、身体以外の何かをメタファーとする類似語との相対的な違いや位置関係で、私たちは認識してきたのかも知れない。
 無論、これは江戸社会に限ったことではない。
 現代でも、[居丈高]と「高飛車」との相対的な違いや位置関係が、「上から目線」(身体語)と「タカビー」のそれに相当しそうだ。



[粋]いき
 
 ①センスがよく、サッパリと[垢抜けした]、それでいて、人の気持ちもよく察し、人としての魅力が備わった者でございます。簡単に申しますと、しみったれでも[野暮]でもない人で、気の利いた人ですな。
 ②[遊里]や文化に精通していて、遊び上手の人を申します」

 本書の説明は、「粋人(すいじん)」についてばかりで、少し皮相的な感じがする。
 ちなみにウィキペディアでは、
 冒頭、「粋を『いき』と読むのは誤用・誤読である」と断じて、以下の記述がある。

「いきまたは意気とは、江戸における美意識(美的観念)のひとつであった。
 江戸時代後期に、江戸深川の芸者(辰巳芸者)についていったのがはじまりとされる。身なりや振る舞いが洗練されていて、格好よいと感じられること。
 また、人情に通じていること、遊び方を知っていることなどの意味も含む。
 反対語は野暮または無粋である」

 まず、いき=意気であれば、身体語ということになる。
 で、しかも美意識という抽象性を表現する言葉である訳だから、ある種の奥深さを感じざるを得ない。

「九鬼周造『「いき」の構造』(1930)では、『いき』という江戸特有の美意識が初めて哲学的に考察された。
 九鬼周造は『「いき」の構造』において、いきを『他の言語に全く同義の語句が見られない』ことから日本独自の美意識として位置付けた。
 外国語で意味が近いものに『coquetterie』『esprit』などを挙げたが、形式を抽象化することによって導き出される類似・共通点をもって文化の理解としてはならないとし、経験的具体的に意識できることをもっていきという文化を理解するべきであると唱えた」

 この「経験的具体的に意識できることをもって文化を理解するべきである」という見識は、こと「いき」に限らず重要である。
 そして、九鬼は自分の体験した「いき」の暗黙知を、構造化して明示知にしようと試みた。
 「いき」に限らず、こうした文化理解と文化説明の試みは、日本人の自己理解や異文化交流においても大切だと思う。

「同書中で九鬼周造はいきには必ず異性に対する『媚態』が根本にあり、異性間の緊張がつねに存在している状態がいきの構成要素である『つやっぽさ』や『色気』を作り出すとしている」

 そういう状態を、「深川の芸者(辰巳芸者)についていったのがはじまりとされる」語源からして、江戸以来、日本人は自覚的か無自覚的か「いき」と言い習わしてきたのだろう。

「また、別の面として、いきの要諦には江戸の人々の道徳的理想が色濃く反映されており、それは『いき』のうちの『意気地』に集約される。
 いわゆるやせ我慢と反骨精神にそれが表れており、『宵越しの金を持たぬ』と言う気風と誇りが『いき』であるとされた。
 九鬼周造はその著書において端的に『理想主義の生んだ「意気地」によって媚態が霊化されていることが『いき』の特色である』と述べている」

 「いき」は、本書「江戸の用語辞典」の「粋人」についての解説にはない、美意識としての内容がむしろその確固たる土台としてあったことは確かだ。

 じつは九鬼周造は、「『いき』の構造」を書くに至る草稿ノートで、着物の縦縞について検討していたが最終的に割愛している。
 私は「『いき』の構造」で九鬼が「肉体への通路開放と通路封鎖」という二元性が相反補足的に対立していることを、一つの「いき」の様相として説明していることに着目している。具体的には、女性の透ける縮緬の襦袢を例にしているのだが、それが開放=招いているようでいて、封鎖=拒んでいるようでもある様相を言っている。思うに、着物の縦縞は、模様としては平行する直線群だが、女体にまとわれると一部は無機的な直線のまま、一部は女体を反映した有機的な曲線になる。この直線対曲線が、「肉体への通路開放と通路封鎖」という二元性の相反補足的な対立として認知される。
 現代のアキバのオタクも、「ツンでれ」に同じ構造を認知している。ツン=拒絶のようでいて、でれ=受容である展開は時間軸だが、これが空間軸で同時にあるのが透ける襦袢や女体にまとわれた着物の縦縞なのである。
 「いき」の美意識とその認知表現パターンは、現代の若者にも息づいている、というのが私の構造的理解だ。
(参照:「私たちが無自覚でいる『日本型』の構造 その1=『いき』」
     http://cds190.exblog.jp/11717362/
(縦縞について補足すると、江戸時代中期より木綿の流通とともに縦縞が流行、庶民の服装に大いに取り入れられ「縞のお召し(縦縞模様のお召し縮緬の着物)」が粋の象徴とされるまでになった。
 細い木綿糸で独特の細かい縦縞を織り出した布のことを、唐桟縞(とうざんじま)、桟留縞(さんとめじま)などと呼ぶ。サントメ(桟留)は西インドの東岸にあるセント・トーマス島で、原産地がインドのサントメ地方だったので江戸時代には「サントメ縞」と呼ばれていたが、それに「舶来物」を意味する「唐」が付いて「唐サントメ」と呼ばれるようになり、濁音便化して「とうざん」になったともいわれている。こうした生き生きとした江戸言葉の形成過程は、江戸庶民が着物の縦縞に深く魅了されたことを示すと思われる。)

 また、浮き世=憂き世に浮かれ漂いつつも、理想主義や反骨精神をもつ、というのも、二元性が相反補足的に対立している意気地と言える。
 反骨とは、 不当な権力や世俗的風習に反抗する気概のことだが、町人文化の理想をもって、武家社会の不条理・不合理に対抗した意気地。これ無くして、ただのいい人、遊び上手では「いき」ではない。それはただの「粋人」に過ぎない。
 憂き世に義憤を感じながら、二本ざしが恐くておでんが喰えるか、と息まく。ただ怒ってばかりならば「野暮」だが、憂き世を浮き世と見立てて、宵越しの銭はもたねえ、と気風よく遊んで消尽もする。
 大店の倅でなくても普通の庶民がそのように遊べたのは、相互扶助の<世間>が幾重にもあってそれに属していたからで、みんながお金をため込まずに使うことが多様な<世間>を経済的にも文化的にも維持発展させることに繋がったからだ。
 気風よく消尽する遊び心と、理想を掲げた反骨精神、この両立は現代でも難しいが、それを理想とする価値観はいまも健在ではなかろうか(たとえば福祉を充実して安心によって消費を促進する社会観もその延長にある)。



[勇み肌]いさみはだ
 
 鉄火肌とも申しまして[仁侠]気質(筆者注:かたぎ)のことでございます。
 [男伊達]で、弱気を助ける!といった感じですが、単なるチンピラを指すこともございます」

 「肌」を用いた身体語、◯◯肌、にはいろいろある。◯◯気質(きしつ)、というのはだいたい◯◯肌と言い換えられる。職人肌、芸術家肌など。また、肌が合う、肌が合わない、と気質の相性を表現したりもする。
 気になるのは、職人気質(職人に特有の気質。自分の技能を信じて誇りとし、納得できるまで念入りに仕事をする実直な性質)、商人気質(利益に敏感な、また、信用を大切にするなど、 商人らしい気性)という対立はよく語られるのだが、職人肌とは言っても、商人肌とは余り言わない。言って言えないこともないが、なにかピンとこない。
 気質(きしつ、かたぎ)は前述()内の説明ができるように明示知に重点があるのに対して、◯◯肌は言葉に尽くせないがみな感じ取っている暗黙知に重点がある、ないしは暗黙知を当然のごとく含んだ表現なのではないか。だから、言葉巧みでない職人ほど、その肌は暗黙知として知るしかないが、言葉巧みでない商人は商人とは言えず、商人の本性は一般的に気質=明示知として知れる、ということではなかろうか。
 確定的な明示知を漢語で、不確定的な暗黙知を和語で表現する傾向は古くからあり、身体語においても同じ傾向をもってきたのではなかろうか。無論、この例だけで言い切ることはできないから、今後も同様の例があれば続けて検証していきたい。



[石出帯刀]いしでたてわき
 
 小伝馬町の[牢屋敷]の奉行が世襲する名前でございます。
 [旗本]・石出家が代々この役職に就きまして、家長になりますと『帯刀』を襲名いたしました」

 幕藩の家臣は役職を代々世襲したが、特定の役職はバトンタッチの際に襲名した。

[今大路家]いまおおじけ
 
 代々[典薬頭(てんやくのかみ)]を務める医師・薬剤師の二家系のひとつでございます。もう一家は半井家(なからいけ)でございます」

 江戸時代の武家社会の世襲は公家社会の伝統にならっている。
 お茶やお花の家元制度もこれに並行している。
 おそらく徳川幕府が上方から江戸に文化を空間軸でシフトさせるに際して、時間軸で正統性を確保し明快化するという意図が大きく働いたのだろう。

 冲方丁作「天地明察」では、江戸初期に改暦事業をなしとげた主人公、渋川春海が、幕府の保護のもと四つの家元(本因坊、安井、井上、林)が競いながら発展した囲碁の、安井家の一世算哲の実子(同名)として登場している。
 公家社会の世襲の伝統はどこから始まったかというと、この絡みで言えば、古くは暦博士(れきはかせ)という陰陽寮の教官(定員一名、従七位上相当、後五位。毎年の暦を作り、歴生に暦道を教えた)という役職において、十世紀後半、陰陽、天文、暦の三博士を兼ねていた賀茂保憲が、暦道をその子光栄に伝授して以来、賀茂氏の家職となった辺りに求められる。
 天文博士(てんもんはかせ)という陰陽寮の天文道の教官(定員一名、正七位上相当。天文生の教授の他、天体を監視し、異変があればその吉凶を占い、天文密奏と言って、密封した書を天皇に奏聞した)という役職も、十世紀後半、賀茂保憲が安倍晴明に天文道を伝えてより安倍氏の世襲となった。
 そして、世襲が弓や蹴鞠など武芸その他の一事が万事に拡大していったのは、保元の乱(1156年)でお家存続の危機に瀕した藤原忠実が、摂関家として培った知的財産=有職故実を武器に存続に成功する、その辺りからではかなろうか。
 
 ここで留意すべきは、公家社会の世襲は、官位という役職であったことと、かつ主だった分野は、たとえば書物や道具など物品を伴う知的財産の相続をベースとしたこと。つまり、明示知の継承をベースとしていることだ。
 一方、江戸の町人文化の主だった分野は、弟子が師匠を見習ったり師匠が弟子に稽古をつけることによる身体知や暗黙知の継承をベースとしている。それは室町時代に観阿弥・世阿弥親子によって一つの芸能「猿楽能」に確立された能、狂言、それ以前の原初からのプリミティブな継承方法だったのだろう。
 室町由来の芸能や茶道においては、家元制度において一子相伝の口伝が世襲の権威を保ったが、やがて奥義が記された口伝書に明示知化されるようになる。しかし口伝書は、その明示知の中身よりも、門外不出の口伝書を所有する者が家督相続者であることの象徴という側面が強い。これは、「お家」至上主義の幕藩体制に呼応した動向と言えよう。

 では、江戸に発生する歌舞伎や浮世絵その他の町人文化において、世襲や襲名はいかなる展開をしたのだろうか。
 


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by cds190 | 2012-02-10 19:23 | ■日本語論からの発想