ANA国内線【PR】

カテゴリ:私たちが無自覚でいる「日本型」  

  • 私たちが無自覚でいる『日本型』の構造 その12=日本語の母音主義がもたらす特徴的な発想思考 part3
    [ 2010-07-01 20:36 ]
  • 私たちが無自覚でいる『日本型』の構造 その12=日本語の母音主義がもたらす特徴的な発想思考 part2
    [ 2010-06-28 23:06 ]
  • 私たちが無自覚でいる「日本型」の構造 その12=日本語の母音主義がもたらす特徴的な発想思考 part1
    [ 2010-06-26 21:31 ]
  • 私たちが無自覚でいる「日本型」の構造 その11=「信長志向」は生活文化系において息づいている part3
    [ 2010-05-15 22:19 ]
  • 私たちが無自覚でいる「日本型」の構造 その11=「信長志向」は生活文化系において息づいている part2
    [ 2010-05-15 13:55 ]
  • 私たちが無自覚でいる「日本型」の構造 その11=「信長志向」は生活文化系において息づいている part1
    [ 2010-05-15 11:33 ]
  • 私たちが無自覚でいる「日本型」の構造 その10=「類感呪術」が日本型集団独創を促進する
    [ 2010-05-10 12:53 ]
  • 私たちが無自覚でいる「日本型」の構造 その9=「モノカテゴリーより関係性重視の東洋人と漢字の特性」
    [ 2010-02-09 00:29 ]
  • 私たちが無自覚でいる「日本型」の構造 その8=視覚的には効率的に、聴覚的には繊細に受発信する日本語
    [ 2010-02-08 23:32 ]
  • 私たちが無自覚でいる「日本型」の構造 その7=「ミドルアップダウン・マネジメント」の組織知識創造
    [ 2010-02-06 15:36 ]

私たちが無自覚でいる『日本型』の構造 その12=日本語の母音主義がもたらす特徴的な発想思考 part3   

2010年 07月 01日

前項(part2)で、万葉仮名の内の『正音文字』(当時のオリジナルな中国音をそのまま発音したもの=今でいうカタカタ英語に相当)と『正訓文字』(大和言葉に同じ意味の漢字を当てるもの=おおよそ「訓読み」)を検討しました。
注目すべきは、万葉集における前者「正音文字」の登場は僅か16で、うち15は仏教用語で、ある巻に集中した例外であることでした。
本項(part3)では、残りの万葉仮名を検討して本論シリーズを終えます。


『音仮名』

「表音文字」の「音仮名」は、いわば中国音を使った一字一音のローマ字書きです。平仮名、片仮名の原形と言えるでしょう。

<伎弥乎麻都(きみをまつ)>
<加奈之可利家理(かなしかりけり)>
<加>は平仮名の「か」の字母だそうです。
「一字一音で書いてあるだけではなくて、その字が、『き』なら<伎>、『み』なら<弥>というように固定しつつあるのです。それがもうすべて固定してしまったのが『片仮名』や『平仮名』です」

最近「ギャル文字」なる、10代女子の間で、ケータイの記号を使って作った平仮名や片仮名が流行しているそうです。
さ: 廾・±・(十・L+
し: ι・∪・U
す: £
せ: 世
そ: ξ・ζ・`ノ・丶/・ヽ丿
これを見て私たち大人は、何やってんだと思ってしまいます。
しかし冷静に考えてみると、そもそも仮名は発音を一字一音で特定できればいいという発想から、最初は中国音に依拠したものの最終的には<加>の一部の<カ>だけが記号化されました。つまり、見た目だけで記号を創出するという発想思考であり、そんな万葉人の文化的遺伝子をいまのギャルもちゃんと受け継いでいると言えるのです。


More

by cds190 | 2010-07-01 20:36 | 私たちが無自覚でいる「日本型」

私たちが無自覚でいる『日本型』の構造 その12=日本語の母音主義がもたらす特徴的な発想思考 part2   

2010年 06月 28日



母音主義の大和言葉の成り立ち


私は、日本語の「カタ(型)」の本質とは、単なるモデルやスタイルではなく、
「モノ割りを越えてホロニックに調和的な<モノの感覚><コトの感覚>の一体性の内にすべてを捉え直そうとする認知表現のパターン」ではないか、
と直観しています。

草柳大蔵さんはその著「花のある人 花になる人」で、
「かたち=型(カタ)+血(チ)」ですと述べています。

「『かた』は、お化粧や服装でつくることができます。
 しかし、『かた』には『ち』が入らないと『かたち』にならないのです。
 『ち』は血、乳、霊です。『水霊』と書いて『みずち』と読むでしょう。そのように『かた』には人間の意識が加わって、はじめて『かたち』になるのです」

この人間の意識には「情緒」も含まれます。日本人の場合、特にその含有率が高い。
これは、伝統文化のことだけではなくて、現代組織の制度やシステムや知識体系の導入においても同じです。単に新しい「かた」が導入されても、そこに人間の意識や精神という「ち」が加わらなければ、仏つくって魂いれずの状態になる。
「かた」を媒介に「かたち」に達するかどうか、それは日本人が物事のリアリティを見極めようとする際の万事に通じる評価尺度ではないでしょうか。

「ち」=人間の意識や精神が先行すればそれでいいか?というとそうではありません。
やはり「かた」という共有フレームが前提として提示されることが必要で、草柳さんは同著で「形振り(なりふり)」についてこう述べています。

「形振。なりふり、と読む。
 『形』は平俗にいえば『サマになっている』ということです。
 『振』は目立ちもしなければ卑屈でもない、つまり『過不足のない動作』ということなのです。(中略)
 仕事は、もともと、そのような作為を嫌うものです。作為がつよすぎると作為のための仕事になってしまう。
 仕事から美意識が生まれ、美意識から形振のよい人をつくるのは、仕事が形から入るからです。 
 人間の動作には『かた』が必要です。『かた』を無視した動作をするとエネルギーのロスが起こります」

思考において、この「かた」に相当するのがスキーマであり、パラダイムです。
日本人にとって「パラダイム転換を具現化する極意は、新しい形振りを構って型破りをすること」かも知れません。

私は、この「新しい形振りを構って型破りをすること」の源泉として、万葉集の万葉仮名の展開が位置づけられのではないかと考えました。


縄文時代の原日本語は、弥生時代には東南アジア起源の南方系モンゴロイドと、中国大陸および朝鮮半島起源の北方系モノゴロイドとが混血していた日本人により、さらには朝鮮半島から絶え間なくやってきた渡来人により、古代朝鮮語の影響を強く受けた古代日本語である大和言葉になっていました。
母音主義もこの経緯を踏まえて少しく精緻に検討する必要があります。

万葉仮名では、現在の発音からすると同じ母音が異なる漢字で表現されています。じつは音韻学では当時の中国語の発音の違いに照らして漢字が当てられた、異なる発音の母音であったことが判明しています。
現在の韓国語には10種類の単母音と11種類の複合母音があり、古代朝鮮語では、さらにもう数個の母音があったと言われていて、その影響を受けた古代日本語にも現在よりも多くの母音があった。
「アイウエオ」以外に、ウに近い「イ」、アに近い「エ」、アに近い「オ」の3つの中間音的な母音、つまり乙類の母音があったと考えられ、これらの母音は韓国語には現在も存在するそうです。
私の関心は、日本語において8母音が5母音に収斂していった経過とその理由です。
それが、現在、日本語とポリネシア語の2言語だけが母音主義であることを説明すると思うからです。

私は、
当時の日本列島の日本人が複数民族の交流を基盤にして栄えていて、その繁栄を統合する形でヤマト王権が成立し言語秩序を形成したことと、
ポリネシア語が、サモア語、ツバル語、タヒチ語、ハワイ語、マオリ語、トンガ語など、太平洋中部から東部にかけての主要な言語の大半を含み、そのエリアの活発な海洋交流を可能にしていた共有言語であることに
着目します。
2つのエリアともに、異民族の交流コミュニケーションを効率的かつ効果的にしたいというニーズがあった筈です。
その際、共通性を土台にするしかありませんが、何が異民族間の共通性かというと、人類普遍の「部族人の心性」だった訳です。

もともと部族人はアニミズムの価値観と身体性に裏打ちされた母音主義であったが、気候風土の違いにより母音の発声(口腔の使い方)に地域差を生み、地域同士の交流が使用母音を多様化したのだと思います。
日本列島とポリネシア諸島を除く世界では、ひょっとすると部族間の戦闘と民族的吸収が常態としてあり、それを逃れて日本列島に住み着いた逃げ場のない異民族同士は平和と民族的共生を常態として求めたのかも知れません。
ポリネシア諸島の互いに遠く隔たった各島の異民族同士も、戦闘をしてまで他を侵略する理由も動機もなく、むしろ平和的な交易によって部族長が得る祝祭上のメリットを優先したのかも知れません。
それで「部族人の心性」が「社会人の心性」に展開する段階で、日本列島とポリネシア諸島では、それを除く世界のように多数の母音が温存されかつ子音の有意味音化が進んでいったのとは逆の展開となったのではないでしょうか。
つまり、「部族人の心性」の内の平和的で共生的な部分を集中的に「社会人の心性」として温存する方向で共有言語化を進めた。それが母音主義であり最小公倍数の母音への収斂だったのではないでしょうか。


ここで、なぜ日本列島とポリネシア諸島を除く世界では子音主義、子音の有意味音化が進んでいったのかを検討しなくてはなりません。
こんな考え方があります。

母音は<ア→エ→イ→ウ→オ>と連続して発声でき境目があいまいです。
5つ以上の多数の母音はこの境目にあるもの、あるいは五角形で囲い込まれた空間に内包されるものと言えます。
これは、微妙な<身体反応><情動><感情>の変化に即応するものだったり、即応して認知表現できる構造にあると言えます。

一方、子音は、意図的に唇や下など身体を動かして発声するので、母音のように滑らかに連続変化させることはできません。
現代的に表現すれば、母音主義はアナログで、子音主義はデジタルと言えるでしょう。
子音は、意識的な複雑な概念表現には適していて<思考>の展開に即応するものだったり、即応して認知表現できる構造にあると言えます。

しかし今申し上げた<思考>とは、論理的で分析的な思考、それも因果律共時性にのっとった極めて意識的な思考のことに過ぎません。
そうでないと、母音主義の日本人やポリネシア人は<思考>しないことになってしまいます。
当然、<部族人の心性>も<思考>していた訳です。
ただ、それは縁起因果律共時性の渾然一体の森羅万象の現象原理)にのっとった極めて情緒的な思考です。無意識が浮上させる発想や洞察、身体反応が感受させる直観といったものの働きが色濃い、非論理的で非分析的なものでした。

大雑把に言うと、<社会人の心性>が中国古代で共時性主軸で形成され、キリスト教ヨーロッパで因果律主軸で形成され、日本人がそれと遭遇していくと、縁起主軸の<部族人の心性>を中核として温存した日本の<社会人の心性>は、前2者と対比して劣った<思考>と受け止められるようになりました。
ヤマト王権が仏教や律令体制を導入するに至る時代や、明治の近代国家設立において欧米の文化文明を導入する時代、戦後のアメリカ礼賛の時代です。
そうした時代を通じて<思考>において、教義や論理に基づいて「考える」ことばかりが偏重され、本来場に身をおいて身体が感じてはじめて可能な心で「思う」ことが徐々に軽視され、長い年月の間に軽視の度合いを深めていった。

ところが、
そもそも日本語とポリネシア語は、後者の心で「思う」を重視し、意識的に尊重したり無意識的に集中させるメカニズムを内包していた、
と私は捉えています。
この点で私は、女子高生が発して一般社会人も使うようになった「チョー〜」を日本語の乱れと位置づけ「正しい日本語を使いましょう」と言う人々とは異なる立場に立ちます。
「チョー〜」は、日本人が多用する擬態語、その外国語の擬態語と比較しての特徴である「身体感覚を伴う情緒性を表現する」という特性を持った、まさに大和言葉の文化的遺伝子を受け継ぐ自然発生と捉えます。

<部族人の心性>は、アニミズムの特性である<自他の未分化性><人間と自然の未分化性><人工と自然の未分化性>を前提とします。
だから当然、主語が不明快で、<なる>型の表現を可能にする意味フレームがあって、場において身体が感じて心で「思う」ことを重視する。
それは当然、<身体反応→情動→感情→思考>の認知表現回路において、個人が<感情→思考>という時にエゴイスティックな意識に囚われるよりも、集団や組織が儀礼を通じて<身体反応→情動>を起点にほぼ無意識的に共同幻想化しているお天道様や八百万の神、さらには場にやどる気=空気などの非人間的な主体を仮想することにもなります。
個人の主体性の希薄さという短所は確かに指摘できますが、他者や公や自然環境を自然体で、つまりほぼ無意識的に身体感覚の延長で配慮できるという長所を指摘できます。
以上、説明すると抽象的ですが、具体的にはたとえば「日本人が電話でも目の前にいない相手にお辞儀してしまうこと」など誰もが身に覚えがあることです。


「集団や組織が儀礼を通じて<身体反応→情動>を起点にほぼ無意識的に共同幻想化している」ということは、それこそすべての物事に「暗黙知=身体知」を成立させているメカニズムです。
お天道様や八百万の神、場の空気などは、祝祭儀礼や交流儀礼がメカニズムになりますが、すべての物事について、それに対応する一挙手一投足や眼差しや形振りがメカニズムとなります。
それは日本人が自然体でやっていることですが、外国人からみれば意外な文脈性をもっています。
たとえば一人暮らしで誰も見聞きする人がいなくても、靴を脱いで家に上がる時に靴を揃えないとしっくりこない人は多いでしょうし(これは几帳面な人ほどすることだが、「敷居を跨ぐ」「敷居が高い」という言葉が精神的ないし情緒的な意味を表すように玄関が家の内外を分ける「結界」になっていることがベースにある)、食事をする前に「いただきます」と言う人は多く、人によっては合掌して言わないとしっくりこない。するしないの個人差はありますが、する人の形振りとしっくり感が共通していることから共有儀礼ではある訳です。

文化人類学では、
民族舞踊の<手振り→身振り→立ち居振る舞い>は、
話し言葉の<単語→文→物語>と同じ関係性にあると言われます。
これは、ハワイあたりから日本そして東南アジアに至る諸島エリアの民族舞踊で最も明快です。
言葉が、動物の擬声や擬態から生まれ、歌謡によって発達したとすれば、歌謡とそれに密着した舞踊とがその構造において相似的関係があるのは必然です。
特に、母音主義の歌謡的な言語である日本語とポリネシア語が、日本舞踊とハワイアンダンスと構造的相似性を最も明快に示すのも自然な成り行きです。


万葉集の和歌群をモチーフに、<歌謡=舞踊=形振り>のこうした意味フレームの全体を書き言葉化して再現し再構築しようとする気宇壮大な作業、それはこう私が分析するように意識して行われた訳ではなかったが、結果的にその中で編み出されたのが万葉仮名でした。



More

by cds190 | 2010-06-28 23:06 | 私たちが無自覚でいる「日本型」

私たちが無自覚でいる「日本型」の構造 その12=日本語の母音主義がもたらす特徴的な発想思考 part1  

2010年 06月 26日



母音主義と子音主義


母音主義とは、母音を有意味音とすることで、
子音主義とは、子音を有意味音とすることです。

たとえば、英語の「marketing」は「mktg」と子音で略して英米人はそれで意味を解します。
一方日本人はカタカナ英語の「マーケティング」を「マーケ」と母音で略して意味を解します。
これは、母音主義と子音主義の一側面の説明にしか過ぎませんが、現代人の認知表現をも方向づけている特徴的な側面と言えましょう。

さて、とっかかりとして興味深いのは、母音主義の言語は世界に「日本語」と「ポリネシア語」だけで、他はみな子音主義だということです。
つまり、朝鮮半島と日本列島の間が境となっていて、太平洋側が母音主義、朝鮮半島から先の世界全部が子音主義なのです。

人間は母国語で物事を考えますから、母国語の特性は発想思考を制約したり個性づけます。
日本人の独創も日本語の特徴に由来すると考えてしかるべきで、このような母音主義はその根底および源流をなすものと考えられます。



More

by cds190 | 2010-06-26 21:31 | 私たちが無自覚でいる「日本型」

私たちが無自覚でいる「日本型」の構造 その11=「信長志向」は生活文化系において息づいている part3  

2010年 05月 15日


「PCの側かWebの側か」の対立を超えて「個脳とネットワーク脳」の循環へ


私は5年前に「ウェブ進化論」を読んだ時、「PCの側かWebの側か」と対立図式で考えることに抵抗がありました。
なぜなら、シンプルに「PCの側=個脳」、「Webの側=ネットワーク脳」と捉えると両者は対立ではなく補完の関係にあり、循環図式で考えた方がいいと思ったからです。
ちょうど私が研修テキスト改訂中で、たまたまユングが主張した「4つの意識状態の循環図式」を以下のように整理していたことも重なりました。


twitterやUstでは、たとえば時事問題ならば特に著名人の、前項「part2」で解説した情報対応特性による階層分類で言うと、「コト実践層」の政治家や活動家、「コト知り層」のジャーナリストや専門家や評論家の受発信や対話が注目されています。
そしてそのテーマに関して「コト実践層」「コト知り層」「モノ好き層」「買い物好き層」のいずれかである一般の個々人が、それぞれの判断基準に立って様々なコメントを発してリアルタイムに絡んだりROMしてたりします。
そして、みながそうした全体の様相をそれぞれの感受性で俯瞰することになります。

(時事問題の場合、
 「モノ好き層」はたとえば新幹線やダムや箱物などを地元に求める
 「買い物好き層」はたとえば自分の支払った分ちゃんと年金をもらえるかにこだわる
 「コト知り層」はあくまで一般論としての知識の整合性にこだわる
 「コト実践層」は自分の主体的な活動の遂行に役立つ情報だけを求める
 といったように情報対応の動機と関心により質的に分類できる。)

この様相には、コメントの行間や、コメントが発せられる人数の多少や勢いや間、相互の刺激や触発のしあいが協調的なのか攻撃防衛的なのかといった「暗黙知=身体知」も、それが当たっているか当たっていないにかかわらず主観的な形で多く含まれます。
また、意識的に受発信するだけでなく、無意識的に受発信される内容も多く含まれます。それは、主観とは言えない無自覚的な形です。
つまり、上記のユングの指摘した「4つの意識状態の循環図式」がそのままタイムラインや同時中継の映像音声によって感受されることになります。


注意を要するのは、私たちが、「意識」と「無意識」が、そして「個人的な認知」と「集合的な認知」が、概念ポートフォリオの4象限のように画然と区別して存在しているかのように誤解しがちであることです。
あくまでコト分けによる言葉がそうなっているだけで、現実は、私たちがつねに多様に不分明な「意識無意識混在状態」にあるだけです。
(あえて概念ポートフォリオ上で図示するならば、縦軸や横軸を股がって浮遊している円になる。)

じつは、このことは認識において原理的にとても重大です。
なぜなら、私たちは「意識無意識混在状態」において<知><情><意>の一体化した認知をしているのですが、それを言葉化して自己認識した時、これは自分が意識しているコト(個人的意識)、これは世間が意識しているコト(集合的意識)、と割り切ってしまう。ところが、それは言わば便宜的な割り切りに過ぎないからです。

(<知><情><意>の一体化した認知は、人と人がリアルに相対して場を共有している時、お互いに感受しあうノンバーバルな意識的無意識的なコミュニケーションを含む形で広く深く展開します。それに比較して、ネット上のテクストだけの受発信は、明示知としての<知>のコミュニケーションに大幅に偏ります。そのことは追って検討しますが、いまは割愛して論を進めます。)

たとえば、「世間が許さない」という言い方には、それが「世間が意識しているコト」という割り切りがありますが、多くの場合「許さない」のは本人であって、本人の「自分が意識しているコト」が、圧倒的多数の他者を含む世間に投影されています。
交流分析心理学では、自己と他者について肯定的か否定的かで4タイプの自我状態があるとします。
他者の集合を世間とすれば、人は無自覚的に慣れ親しんだ自我状態を保つ相互関係をもった形で、「これは自分が意識しているコト」と「これは世間が意識しているコト」の割り切りをしがちです。自己欺瞞や疑心暗鬼はその一例です。
自分に対する思い癖を「人生脚本」と言いますが、それを際立たせ安定させる言わば「世間脚本」というものもある筈なのです。

交流分析心理学はフロイト系であり、ユングの理解とは一線を画します。ユングは、世界の神話や人々の夢などの共通性から客観的に「集合的無意識」というものがあるとしました。
私がいま論じているのは、まず「集合的意識」です。
さらに、実際に「これが世間が意識しているコト」かどうか以前に、個人が、このような「世間が意識しているコト」があると、「自分が意識しているコト」との相互関係において思い込んでいる、そういう「集合的意識」です。
つまりは、主観的な「集合的意識」であり、厳密には「個人的意識」に含まれるとも言えます。しかしその認識過程については無自覚だからという理由で「無意識」ではないかとも言える、じつに微妙な領域。まさに「意識無意識混在状態」の一例です。


ここで重大なのは、
客観的に「これが世間が意識しているコト」と言えるような統一的な認識を導く「集合的意識」というものは、通常は存在していない
ということです。
このことを私たちは忘れがちです。

たとえば、新聞やテレビというみんなが見たり読んだりするマスメディアが発信していることが、客観的な「集合的意識」でしょうか?
マスコミが事実を伝えているかどうかは問題ではありません。
問題は、マスコミが伝えている内容を手掛かりに私たちが、客観的に「集合的意識」が導いたと言えるような、統一的な認識を抱くかどうかです。
これは経験的に誰もが否と言うでしょう。時事問題など百家争鳴状態ですが、価値観や利害関係の影響をともなう判断とはすべからくそういうものです。

不思議なことに、テレビのニュースキャスターは視聴者が「統一的な認識を導いて当然」かのような口ぶりで発話します。
しかし、実際に国民の判断が統一的であることは稀です。そういう論題もありますが、そもそも判断の対象にならないような自明素朴な事柄でしょう。このことは、マスコミが事実を伝えようが伝えまいがそうなのです。

以上、
客観的に「これが世間が意識しているコト」と言えるような統一的な認識を導く「集合的意識」というものは、通常は存在していない
あるのは、主観的に「これが自分が意識しているコト」とする内容との相関関係において、慣れ親しんだ「人生脚本」と「世間脚本」を維持する形で、無自覚的に「これが世間が意識しているコト」とする思い込みに過ぎない、
ということを確認しました。


そして厳密に言えば、
実際私たちが感じ取っている「世間」とはほぼ自分の生活圏なのであって、
「これが世間が意識しているコト」とするのは、実際に自分が帰属する集団の「集団的意識」が導く認識である
ということが重要です。
たとえば、サッカーチームのメンバーは、チーム全員が試合に勝ちたい思いという「集団的意識」を主観的に実感し客観的にも確認できます。
つまり、

主観的にも客観的にも<知><情><意>の共通性を実感確認できるのは、
リアルに相対して場と経験を共有する「集団」である


ということです。
そして、
「日本型」とされる特徴のほとんどが、構成員の個々人がリアルに相対して場と経験を共有する「集団」が具現化するもの
と言えます。
またこの点で、ネット上のやり取りだけでは「仮想的な集団」は形成されるとしても、それは非相対でリアルな場と経験を共有しないことをもってあくまで「仮想」に過ぎない、という当然のことも再確認しておきましょう。
ネット上で知り合った者同士が、リアルに相対してリアルな場と経験を共有して「現実的な集団」が形成され、「日本型の集団独創」の本領もはじめて発揮されます。


「そもそも、
 個々の独創を放任しておいてそれを適宜に集団に組織する「信長志向」は、
 偶有性の活用が大前提です。
 しかし、
 日本の大勢が一辺倒になってしまった「家康志向」は、
 確定性を大前提に偶有性を「杓子定規」に排除するものです。
 前例がないことはやらない。新しいことは前例がないからやれない」

と前項「part2」で述べました。

そしてWeb.2.0時代、「個脳とネットワーク脳」が循環するコミュニケーション状況があります。
それは、明らかに、
偶有性の活用が大前提である「信長志向」に有利に働く
一方、
確定性を大前提に偶有性を「杓子定規」に排除する「家康志向」にとっては雑音以外の何物でもない

「信長志向」は、偶有性の活用を大前提とします。
そして、twitterの24時間ひっきりなしに流れるタイムラインで誰かのあるコメントにリアルタイムで出会うこと自体が、偶有性です。
コメントの行間やリンクされた動画に反映する場のニュアンスから何らかの暗黙知に思い至ることがあるのも、偶有性です。
これは、暗黙知や偶有性を排除した杓子定規なNHKニュースと対極にあります。
また、ニュースキャスターが大根役者のような訳知り顔で「統一的な認識を導いて当然」と言わんがばかりに視聴者に語りかける民放ニュースとも次元を異にします。

こうした「個脳とネットワーク脳」が循環するコミュニケーション状況は、すでに洋の東西を問わぬグローバルな現実です。
そして、
集団志向ではなくカリスマ主導の欧米版の「信長志向」(たとえばジョブス率いるアップル社)や、
国家主義的ニュアンスの強い集団志向の中国版、韓国版の「信長志向」が台頭している(たとえばブランド買収する中国企業、サムソン)、その背景です。
同時に、
日本の経済つまりは企業社会の全体が大勢として「家康志向」であることが、世界から技術力や国家の安定性やポテンシャルを評価されながらも、不振であったり存在感を薄れさせている、その背景です。




「家康志向」に固執し「信長志向」を排除する体制が日本全体の大きなエネルギーロス


たとえば、民主党が政権交替して半年、クロスメディア規制を唱えたあたりからマスコミの遮断報道や偏向報道が顕著化しました。それが、時事問題に関心あるtwitter利用者を中心にネット上で不公正であると問題視されるようになりました。
一方、マスコミの側はtwitterやネットを十把一絡げにしてその情報が玉石混淆でデマ風評の類いが多いと批判するようになりました。
この対立も、
ネット上で情報を能動的に取得する「コト実践層」「信長志向」と、
既得権益を後ろ盾に情報発信し国民視聴者は受信者として受け身であれば良いとする権威集団の「コト知り層」「家康志向」
の対立である
と説明できます。

精緻に検討すべきは、この対立の全体における「集団的意識」と「集合的意識」の有り方です。

まず、マスコミ大手の報道部門の社員、記者クラブの広報窓口となる官僚など、情報の送り手側の特定多数は「集団的意識」を共有している集団です。
そして、彼らが提供するテレビ新聞の報道からそのまま統一的な認識を導くような「集合的意識」は、通常は存在しない。
一方、情報の送り手である体制とその発信する情報を監視し、報道の偏向や遮断を批判し、国民に知らされるべきなのに知らされない事実を報じるフリージャーナリストや作家がいる。なぜか一匹狼がほとんどで、リアルな集団を結成していない。
国民は、ほとんどがテレビ新聞の報道だけを頼りにし、若い世代ほど多い特定多数がtwitterはじめネット上から多様な情報を取得して、それぞれに多様な認識を導いている。そして、似通った問題意識と認識を抱く者たちがリアルに集団を結成したり、リアルな行動は一切しないでネット上で何らかの通称を自称する仮想的な集団を形成したりしています。
後者は、特定の主義主張の系統に属することを自負するだけの個人であり、その意識はほとんど「個人的意識」と言えます。
この他に、意見はあっても特定の主義主張の系統に属さない個人(たとえば、私)と、取り立てて明快な自分の意見を持たない個人がいて、それらの意識は「個人的意識」と言えます。


さらに多様な「意識無意識混在状態」に注目すると、
まず通常は「集合的意識」が存在しないから、その根底となる「集合的無意識」も存在しない。
「集団的意識」は、体制中枢集団、体制批判集団、体制支援集団のそれぞれに存在し、その根底となる「集団的無意識」もリアル集団、仮想集団ともに存在します。
リアル集団の「集団的無意識」は具体的な人間関係を踏まえて身内と余所者の差別に作用する「暗黙知=身体知」が色濃い。
一方、ネット上のみの仮想集団の「集団的無意識」は抽象的でかえって民族主義的ないしは祝祭的なイメージが色濃く、むしろユング的な「集合的無意識」に近しいのかも知れない。

ここで、ナチスドイツが政権をとってラジオやオリンピックなどプロパガンダを駆使して台頭した過程をざっと振り返ってみましょう。

まずヒトラーが主導的な中核集団を組織し、その強固な「集団的意識」と強い感情を喚起する「集団的無意識」を体制中枢集団そして体制支援集団に共有させていきます。
その過程でアーリア人種の優位性やユダヤ人の蔑視を浸透させ、その根底となる民族的な「集合的無意識」を一般国民に喚起させて行きます。
同時に国民を老若男女すべて総力戦に駆り出して極限状況に追いつめ、従順な者にアメを、反抗する者にムチを与える相互監視状況をつくります。
そして最終的に、前述の民族的な「集合的無意識」を受け皿にして、「ヒトラー万歳」を叫ぶ統一的な認識しか導き得ない「集合的意識」を受容させた。

敗戦までの軍国主義の日本では、ヒトラーのようなカリスマは存在しませんでした。
しかし、軍部官僚という体制中枢集団が、もともと日本人に根強くあった、天皇=神とする民族的な「集合的無意識」と神国日本天皇陛下万歳という統一的な認識を導く「集合的意識」を活用して、容易に国民を老若男女すべて総力戦に駆り出し極限状況に追いつめます。
隣組という連帯責任の近隣集団を組織して相互監視状況をつくったことは、江戸時代の村単位の年貢徴収体制を思い起こさせます。

軍国主義下のドイツと日本、両国の全体主義化の動きには、為政者が国民の「4つの意識状態の循環図式」上の「意識無意識混在状態」を巧みにコントロールしたことがともに確認できます。


今や様々なデバイスを様々なTPOで活用して個人、集団、組織レベルで、「個脳とネットワーク脳」の循環としての知識創造活動が一般化しつつあります。
長い目で見ればこのグローバルなうねりから、これまでの延長で「情報の送り手」としての既得権益にしがみつく者や、「情報の受け手」としてそればかりに依存する者が、脱落していくのでしょう。
そうでなければ、日本は内側から腐っていってしまいます。

すでに「個脳とネットワーク脳」の循環の内に暮らし始めた人々は、主体的にある時は「情報の送り手」となりある時は「情報の受け手」となる、情報生活における「コト実践層」になっています。
そして彼ら同士の融通無碍なネットワーキングは、文字通り「個々の独創を放任しておいて、それを適宜に集団に組織する」知識創造体制である「信長志向」です。

(無論、「ネットワーキング」と言っても、すでに述べたように、
 ネット上で知り合った者同士が、リアルに相対してリアルな場と経験を共有して「現実的な集団」を形成してはじめて、「日本型の集団独創」が展開します。
 「信長志向」の本領も、彼らがリアルに相対して「リアルな集団」を形成してからしか発揮されません。
 そのことは追って検討します。)


ネット上には、世の中の現実を縮図化した混沌がそのままあります。
これをマスコミ側は「玉石混淆」と批判しますが、彼らが主観的に「玉」とするのは自分たちが権威づけたい解釈や提供したい情報のことを言うに過ぎません。

ネット上で時に「情報の受け手」となり時に「情報の送り手」となり互いに繋がり合い、同時に自分たちと異なる意見の人々の繋がりを含めた全体様相、つまり「世間の実相」を俯瞰する、そんな人々は着実に拡大しています。
今後は、さらにこれはと思った人同士がリアルな場で実際に相対するケースが拡大していくでしょう。
日本型の集団独創の2タイプの内の1つである「信長志向」の本領は、そうした意欲的な集団活動において発揮されると思います。

(日本人の発想思考の特徴は、「縁起にのっとった<情>起点の発想思考」なのですが、因果律と共時性が渾然一体となった縁起にのっとることも、その場そこで居合せた者同士だから生じる<情>も、リアルな相対場でしか発生しません。それこそが、偶有性の醍醐味です。)


いくら日本の大勢として、企業社会や学校社会や官僚社会の知識創造体制が「集団を前提として固定しておいて、その集団が独創する」「家康志向」であり続けようとしても、
すでに個々人の情報生活の知識創造体制はどんどん、「個々の独創を放任しておいて、それを適宜に集団に組織する」「信長志向」になっていきます。
捻れ状況は、おそらく一過的なものでしょう。

しかし、既得権益を後ろ盾にした権威集団であるマスコミによる遮断報道や偏向報道は、この捻れの解消を阻む力強い勢力であることは指摘しなければなりません。
twitter利用者の時事問題に関心のある人々の間では、官僚と報道の共同体という意味で「官報共同体」と批判されています。この共同体自体も、そしてそれが守ろうとしている既得権益集団の官僚体制も、「集団を前提として固定しておいて、その集団が独創する」「家康志向」しか認めようとしない勢力です。
コミュニケーションの歴史の流れと世界の動向に対抗するだけでなく、権力を監視し権力から距離をおくべき報道やマスメディアが、実際は癒着しむしろ情報権力となっている。報道の公正さという観点からも、「官報共同体」に不都合な政権の追い落とすための遮断報道や偏向報道を続けていることが民主主義を歪めているという観点からも、反動であると言えましょう。

そして何より、反動的なマスコミュニケーション状況が続くことは、日本社会の全体の健全な発展を疎外する足かせとなり、日本人全体の知的創造性の十全なる発揮を阻む膨大なエネルギーロスを生むこと明らかです。



More

by cds190 | 2010-05-15 22:19 | 私たちが無自覚でいる「日本型」

私たちが無自覚でいる「日本型」の構造 その11=「信長志向」は生活文化系において息づいている part2  

2010年 05月 15日

「家康志向」の限界と「信長志向」の可能性を理解するための情報概念



「生活創造情報」と「ビジネス創造情報」

「生活創造情報」とは、生活者が自分の求める生活を創造していく上で必要となる{機会の情報}のことです。
同様に「ビジネス創造情報」とは、ビジネスマンが自分の求めるビジネスを創造していく上で必要となる{機会の情報}のことです。

テレビの情報番組や一般的な生活情報誌やビジネス情報誌の伝える情報は、今こんな生活が流行っていますよ、いまこんなビジネスが儲かっていますよ、ということを報告する「生活報告情報」「ビジネス報告情報」です。
一方、イベントの開催情報や映画の放映情報を伝える「ピア」やパック旅行や航空チケットの情報を伝える「abロード」、求人情報を伝える「ガテン」、賃貸マンションやアパートの情報を伝える「アパマン」、競馬の情報を伝える「競馬新聞」などは、生活者の特定テーマの生活を実現するための{機会の情報}、つまり「生活創造情報」を掲載しています。

「生活創造情報」の特徴を、「生活報告情報」との関係で解説するならば、特定テーマの生活についての「生活報告情報」をすでに知っている生活者に対して、その生活に参加する{機会の情報}を伝えることにあります。
同様に「ビジネス創造情報」の特徴も、「ビジネス報告情報」との関係で解説するならば、特定テーマのビジネスについての「ビジネス報告情報」をすでに知っているビジネスマンに対して、そのビジネスに参加する{機会の情報}を伝えることにあります。

「生活創造情報」や「ビジネス創造情報」を掲載する「マッチングメディア」は、{機会の提供者}と{機会の需要者}とをそれぞれのニーズに基づいてマッチングすることで成立しています。
一方、「生活報告情報」や「ビジネス報告情報」を掲載する「コンテンツメディア」は、取材編集したコンテンツを発信し、視聴者や読者に受信してもらうことで成立しています。

インターネットは、すべての「情報の領域」の情報、つまり「商品解説情報」「販売促進情報」「生活(ビジネス)報告情報」「生活(ビジネス)創造情報」の伝達手段となる情報インフラです。
しかし、はじめてインターネットによって世界の個人や企業が自由に情報の受発信をできるようになったのは、特に「生活創造情報」と「ビジネス創造情報」です。
つまり、eマーケットやオークションサイト、出会い系サイトに象徴される「マッチングメディア」としての側面を重視すべきでしょう。
インターネットは、従来の{受動的な受け手}を対象としてきた情報メディアにはない展開と発展をしている。すでに多様な個人や企業が発信する「生活創造情報」と「ビジネス創造情報」が、{能動的な受け手}が主体的に{機会の情報}を相互交流するマッチングをともなう形で、加速度的に拡大しかつ進化しています。

じつは、<受け手側のコト実現の論理>にある品態/業態/店態とは、単純に言って新しい生活を創造する{機会の情報}がある商品/商売/店舗のことです。
最初は品態/業態/店態として登場してもやがて競合横並び状態になり、生活革新性が無くなった時に品種/業種/店種になります。つまり、送り手側企業の「うちは顧客志向だ」という意気込みの問題ではなくて、あくまで受け手側生活者にとって生活革新の手だてになっているかどうか、なりうるかどうかが問われます。


「生活創造者」と「ビジネス創造者」

「生活創造者」とは、自分の価値観で、自分流の生活を実現していく生活者のことです。オリジナルでユニークな何かについての一次情報源となる人です。
生活のテーマやその生活を採用する人口の多寡を問わない。但し、単なる人真似ではなく、自分なりのやり方で新しい生活を実現することが条件です。何かについてのそんな最初の実践者のことを「元祖の○○生活創造者」と呼びましょう。
海外では多くの人が当たり前にやっている生活を日本で初めて実践した人も、「日本での元祖の○○生活創造者」と捉えて良いでしょう。

そして原理的には、「元祖の○○生活創造者」のことを口コミで知るなどして現場に行き生のリアル情報に触れて、自分なりに○○生活を始めていく人々が「一般の○○生活創造者」になっていく、ということです。
こうした新しい生活機会を自分なりに開発する{機会開発者}である両者をまとめて「生活創造者」と呼んでいます。

「ビジネス創造者」とは、自分の発想と考え方によって独自の仕事を実践していくビジネスマンのことです。オリジナルでユニークな何かについての一次情報源となる人です。 
ビジネスのテーマやその市場規模の大小を問わない。但し、単なる人真似ではなく、自分なりのやり方で新しい仕事を実践することが条件です。何かについてのそんな最初の実践者のことを「元祖の○○ビジネス創造者」と呼びましょう。
海外では多くの人が当たり前にやっているビジネスを日本で初めて実践した人も、「日本での元祖の○○ビジネス創造者」と捉えて良いでしょう。
 
そして原理的には、「元祖の○○ビジネス創造者」のことを口コミで知るなどして直接交流し生のリアル情報に触れて、自分なりに○○ビジネスを始めていく人々が「一般の○○ビジネス創造者」になっていく、ということです。
こうした新しいビジネス機会を自分なりに開発する{機会開発者}である両者をまとめて「ビジネス創造者」と呼んでいます。

「生活創造者」は、単にモノを真似て買い揃えていく消費者(=顔のない人種)ではありません。
独自の嗅覚から自分らしい生活創造の{機会の情報}を求めて思考し行動する機会開発者です。自らの実践を通じて得た独自の「生活創造情報」を発信する主体性ある生活者(=顔のある人となり)であります。

同様に「ビジネス創造者」も、単にモノを真似て作ったり売ったりするだけのビジネスマン(=顔のない人種)ではありません。独自の嗅覚から自分らしいビジネス創造の{機会の情報}を求めて思考し行動する機会開発者です。自らの実践を通じて得た独自の「ビジネス創造情報」を発信する主体性をもつ企業家(=顔のある人となり)であります。
「ビジネス創造者」とモノ真似ビジネスマン、人真似ビジネスマンとの大きな違いは、彼らが{他の人では替えが利かない}ことです。彼らは、その会社でなくてもやっていける独自性という名の本物の個性をもっています。常に独自性を伸ばし発揮したいという熱意をもっています。つまり、何らかの専門分野の単なる知的能力の持ち主(=人種)ではなく、{個人的なリスクを背負ってでも自分独自の可能性に賭けたい}態度能力の持ち主(=顔のある人となり)です。


ここで、本論の論題である、
「信長志向」は生活文化系において息づいてきたし今も息づいているが、それといわゆる「Web.2.0」の現代はどのように関わっているのか?
についての私の現状認識を先に述べます。

「個々の独創を放任しておいて、それを適宜に集団に組織する」知識創造体制である「信長志向」は、まず原理的に、
「生活創造者」なり「ビジネス創造者」が、新しい目的を創出しその達成の手段として適宜な集団を組織することからしか始まりません。
そして、組織される「独創している個々」もまた「生活創造者」なり「ビジネス創造者」でなければなりません。でなければ、そうならなければなりません。

「信長志向」は生活文化系において息づいてきたし今も息づいている背景には、ファッションやアニメなどのクリエイティブな生活文化系において、そうした「人間論的な組織や制度」と「人間論的な人材観」の現場主義が厳然とあることが指摘できます。
日本の特徴的な様相としては、「集団志向の長期的観点に立った人本主義」と言っても良いでしょう。

注意深く見つめるべきは、以下のような世界的な「Web.2.0」の知識創造組織の革新可能性との関わりです。

日本の場合、大勢としては、
「旧来→集団志向×物理空間を前提」「家康志向」だけが、「今後→個人志向×情報空間」に展開していて、それがITコミュニケーションの飛躍的な高度化と重なって極端な「組織と制度の機械論化」「人材の機械の部品化」に帰結している。

ほっておいても「信長志向」がうまく行っていて、今後もうまくやっていくには「信長志向」を尊重するしかない業界企業やその部門はいいでしょう。
「信長志向」の文脈で、場と人とシステムのイノベーションを展開していくだけです。

一方、「家康志向」を脱却できないまま、表層的にはITと組織とコミュニケーションの変革をして、単に極端な「組織と制度の機械論化」「人材の機械の部品化」に帰結している大勢が問題です。

「Web.2.0」の現代はどのように関わっているのか?
以上の両者の組織と制度と人材が、真逆な方向に向かい溝を大きく広げつつある、
というのが私の現状認識です。


そのようになった経緯を振り返ることで、事態の打開策を見出すことができるかも知れません。

バブル期までの日本型経営一般と、トヨタやセブンイレブンそしてユニクロなど不況期にむしろ国際的に成長した企業は、「家康志向」「信長志向」を並行させ連携させる「合わせ技経営」をしてきました。
ところがバブル崩壊後の「空白の◯年」の間に、大勢としては短絡的に日本型経営の全てが否定され、ミドルマネジメントを無意味化する「組織と制度の機械論化」が進みました。
人材は、長期雇用を前提しない「交換可能な機械部品化」されます。

このことは、国際的な超先端、超エリートを除いて、専門分化の細密化を知識創造のタコツボ化に繋げています。
しかし、戦後復興期のホンダやソニーの創業や、オイルショックを乗り切った日本メーカーは、タコツボの新技術開発ではなく、世界を見据えて何をしたらいいかを戦略的に判断し実行するジェネラリスト、つまりはミドルマネジメントによって支えられました。
彼らの主導で現場レベルで「家康志向」「信長志向」の「合わせ技」が発揮されたのです。

バブル崩壊後の「空白の◯年」、一般企業のマインドは縮小均衡に、一般就労者のマインドは保身サバイバルに向かいました。
個々の独創を放任しておいてそれを適宜に集団に組織する「信長志向」は、組織と個人の両方で排除され減衰していった。
大勢としては、特に大手メーカーとその下請けの業界でひどく、大手出版やテレビや大手広告代理店など否応無く顧客の反応に直接的に触れ、作家やタレントやプロダクションなど生活起点のクリエイティブな外部協力者との恊働を必要とする業界ではさほどではありませんでした。大手小売りでは、百貨店が沈滞しコンビニが革新を重ねるなど、業態により差が出ました。

個々の企業について言えるのは、現場レベルでの「信長志向」の減衰は、必ずミドルマネジメントの崩壊を伴っていることです。
その背景には、リスクがあり、成果が利益に結びつくまでに時間と手間がかかり、調査から開発、起業まで事業部門の横断や異業種異業界他社との恊働が必要なチャレンジ、要は創造的なミドルマネジメントの活躍を必要とするような新機軸への挑戦を嫌うようになった経営がありました。

じつはバブル崩壊までは、そのような新機軸への挑戦が、商品やサービスが重複した非効率な事業部制やカンパニー制において雨後の筍のごとく行われていたのでした。
確かにそこには多大な「無理、無駄、むら」がありました。
これを経営が合理化として一掃してしまった訳ですが、合理的にすべきだったのは、重複を整理し一本化することだったことは明らかです。
しかし、結果や経過が数字的に不確定な新機軸への挑戦をさせない体制にしてしまったのです。
これは行き過ぎであり、業界経営者たちの情緒的な右へならえだったと言えます。

要は、結果と経過が数字的に決定しているかに見える事だけを「機械論化した組織と制度」で展開することにしてしまったのです。(実際には競合横並びで過当競争となり捕らぬ狸の皮算用に終わる事の方が多かったが。)
この時、錦の御旗にされたのが「選択と集中」論でした。これにより合理的主張と看做されたのですが、本質的には情緒的主張でした。なぜなら、それは経営実権を握る好採算部門があくまで<モノ割り縦割り>を前提に不採算部門を整理することを正当化するばかりだったからです。
ちなみに、周知のようにアップル社も任天堂も「選択と集中」を論ではなく実践していますが、デバイスを、ハード〜ソフト〜オンウェブ・サービス三位一体で連携する<コト割横ぐし>です。


組織と制度の機械論化と人材の機械部品化、そしてITインフラの普及と高度化が重なり、人と人がリアルに相対して対話する仕事局面への軽視や消極性が浸透します。
そして、「暗黙知=身体知」の組織や集団における重要性や活用法を伝授すべきミドルマネジメントが崩壊していることが、その回復の可能性を無くしています。
こうした「家康志向かつ機械論的経営」企業は、中抜きによって組織がフラット化したと説明されます。しかし実態としては、トップと直接ラインの機械論的組織と機械部品化した人材でできる仕事だけをするようになり、それでも成立するところだけが生き残る、そんな事態になったと言うべきでしょう。

「家康志向かつ機械論的経営」企業では、気がつけばすべての業務がルーティーンワーク化したために、{個人的なリスクを背負ってでも自分独自の可能性に賭けたい}態度能力の持ち主(=顔のある人となり)は、むしろ邪魔な、うっとうしい存在に看做される組織知識創造の体制となってしまいました。
しかし世界の大勢としては、アップルもサムソンも向こう版の「信長志向」であり、独自性の主張とリスクテーキングな態度能力の人材こそが必要とされ役立てられる、日本とは真逆の体制で次元の違う闘いをしていること周知です。

こうした「家康志向かつ機械論的経営」企業では、知識創造の組織と制度にまったく「Web.2.0」の革新可能性が活かされようがありません。
活かされていると関連責任者が主張するのは、「情報処理」であって、「情報創造」ではないのです。
それは、人的関係においてなされている土壌があってはじめてITにより高度化される。
ところが、新人編集者と新人作家の恊働を長期的観点に立って促すような広く深い経験や社内外の人間関係に裏打ちされた出版社の編集長のようなミドルマネジメントが、「家康志向かつ機械論的経営」企業では崩壊しているのです。


そうしたことの根底には、こんなすごくタンジュンな本質的な原理があります。

そもそも、
個々の独創を放任しておいてそれを適宜に集団に組織する「信長志向」は、偶有性の活用が大前提です。
しかし、
日本の大勢が一辺倒になってしまった「家康志向」は、確定性を大前提に偶有性を「杓子定規」に排除するものです。前例がないことはやらない。新しいことは前例がないからやれない。

哺乳類は安全基地を確保して初めて危険な補食行動(自分も補食されうる)という冒険に出られる。そして成功確率50%の時、補食を目指してから補食してみんなで食べるまでの脳内快楽物質の分泌量が最大になる、と言います。
ところが日本企業は、日本型経営の短絡的全否定によって安全基地ではなくなってしまったのです。
「家康志向かつ機械論的経営」企業では「冒険ができない」というより、「冒険をしたい」という素振りを見せただけで、職場の空気が読めない波風を立てるお騒がせ人間として、リストラ圧力の対象に成りかねません。
もはや、誰もパラダイム転換発想などおくびにも出さなくなります。
あくまで、会社の従前路線という既存パラダイムの枠組みで、改善やヴァージョンアップの主張がなされるばかりです。
こうした事態は、コミュニケーション・インフラに過ぎないITCではどうしようもありません。
また、ワールドカフェなどをいくら社内の人間同士でやっても、異なる知識や経験や発想をもった社外の人間を排除していては、会社の従前路線の既存パラダイムを大きく脱する実践に着地させていくことは困難でしょう。

このことは、以下の現代のITCにも応用できる「オピニオンリーダー」論からも具体的に言えます。



More

by cds190 | 2010-05-15 13:55 | 私たちが無自覚でいる「日本型」

私たちが無自覚でいる「日本型」の構造 その11=「信長志向」は生活文化系において息づいている part1  

2010年 05月 15日

まず、日本型の集団独創2タイプを復習します。

「家康志向」
(徳川幕府の支配パラダイムは、
 共同体内部で身内同士で展開した
 秩序維持型=知識記憶継承型の「祭り」である農耕儀礼
  を下敷きにした
 「集団を前提として固定しておいて、その集団が独創する」知識創造体制
 にあった)

「信長志向」
(信長が描いた支配パラダイムは、
 新秩序導入型=新知識発見導入型の「祭り」である交易
  を下敷きにした
 「個々の独創を放任しておいて、それを適宜に集団に組織する」知識創造体制
 にあった)

信長短命に終わり、徳川幕府の一般大衆レベルで国を閉じた太平の世が260年に及んだことで、「家康志向」は私たち日本人の血肉となりました。
「暗黙知=身体知」的にも隅々まで、「明示知」の体系としても全国津々浦々において成熟しました。それは当然、慣習的な生活文化と仕事文化においてもそうです。

その弊害を江戸時代の人は「杓子定規」と言いました。
話が飛びますが、寿司屋で海苔巻きのことを「機械巻き」と呼びます。手で握るのではなく「巻き簀」を使うからです。江戸の感性では、簀のような竹の道具でも人間的ではない「機械」なのでしょう。
「家康志向」の弊害である「杓子定規」のルーティンワークは、官僚主義にそして組織や制度の「機械論化」に通じます。
そして今の日本も、企業社会、学校社会、官僚社会ともに、「家康志向」一辺倒となり、かつ組織や制度が「機械論化」し人材の「機械の部品化」が極まってしまった、と説明できます。
政権交替した民主党がやろうと頑張っていることも、これまで自民党がやってきたのと同じ、「組織や制度を機械と捉えた機械の改良」に見えます。すでに企業社会でも、同様の組織開発や、「人材を機械の部品と捉えた人材の改良」が行われてきて、それによる実質的な成果はさほど上がっていません。

こうした事態を打開するには、個々人の人間性と多様な可能性を重視する「信長志向」しかない。
それは歴史を振り返っても言えることです。
そこで「信長志向」の、「家康志向」と同様の「明示知体系化」を探求し、それを集団独創にそして組織開発や制度開発に役立てよう、というのが私の立場です。


この課題意識を共有してくださる方々のために、まずは2つの側面から本質的な現状認識を共有しておきたいと思います。

1つは、
現代の「家康志向」が「集団を前提として固定しておく」その仕方は、今の社会全体で俯瞰するとどのような大枠にあるのか?
これを明らかにするには、社会全体の「価値形成のダイナミズム」が情報の4領域の合わせ技であることを説明しなければなりません。

いま1つは、
「信長志向」は生活文化系において息づいてきたし今も息づいているが、それといわゆる「Web.2.0」の現代はどのように関わっているのか?


世界的な「Web.2.0」への動向は、知識創造組織の革新可能性としては、このように図式化できます。
ただ日本の場合、
「旧来→集団志向×物理空間を前提」「家康志向」だけが、「今後→個人志向×情報空間」に展開していて、それがITコミュニケーションの飛躍的な高度化と重なって極端な「組織と制度の機械論化」「人材の機械の部品化」に帰結している。
個人、集団、組織レベルの「信長志向」が抑圧されてしまっている。

ところがみなさんご存知のように東京かわいいファッションやジャパンアニメはじめ「生活文化系」の領域では、そういう大勢の動向の不自由さから、むしろ反比例するように「信長志向」がより自由に展開しているのです。
江戸時代も、武家社会の「家康志向」に、町人社会の商業が対抗するものの武家に管理されていたのに対して、「生活文化系」の対抗は武家の個々人を魅了するほどに完勝していました。
注意深く振り返ると、江戸商業が実質、「家康志向」「信長志向」の合わせ技で発展していたのに対して、江戸文化は浮世絵にしても俳句にしても算学にしても実質、「信長志向」で発展していました。
その同じダイナミズムを現代の「生活文化系」も、それに参加する個々人の「暗黙知=身体知」として、独創集団の中核的な「暗黙知体系」として連綿と踏襲しています。


順次、検討していきたいと思います。
そして最後に、
そうしたことの全体で何が、私たちが無自覚でいる「日本型」の構造なのか
を確認したいと思います。



情報の4領域の合わせ技である「価値形成のダイナミズム」について



(以下の基礎概念の説明は、 「コンセプト思考術速習10編」からの引用です。
 「コンセプト思考術」研修の二日目午前の講義で、若い世代の受講者に、戦後の市場とマーケティングの変容のポイントを伝えている内容です。)


情報の4領域

「情報」とは、一般に知識を蓄積したり伝達したり、加工したり編集したりできるような形にしたものと説明されます。これは「情報」を{モノとして機能論で捉える}一つの捉え方です。たとえばコピー紙の消費量の推移とかインターネット上のトラフィックの状況といった「情報」現象の定量的な実態を知るにはこの捉え方で構いません。
しかし、「情報」作用や「情報」効果という定性的な実態を分析するためには、{コトとして意味論で捉える}ことが必要です。
具体的に「情報」の領域を分析しながら解説していきましょう。

まず「情報」は、その伝達の目的(what for)によって2つに分類されます。
それは、「知識啓蒙情報」「行動誘導情報」です。
前者は、知識を啓蒙することを目的とした{静態的}な、つまり止っている情報であります。
後者は、行動を誘導することを目的とした{動態的}な、つまり動きのある情報であります。
もちろん前者の知識を啓蒙する情報も、最終的には対象の行動を誘導する目的をもっていることが多い。しかし厳密に分析すると、ある段階まではもっぱら知識を啓蒙する静態的情報であって、ある段階から、その知識をベースにした行動を誘導する動態的情報に引き継がれています。
たとえば、店員は客にまず商品を解説し(知識啓蒙情報)、その後「今だとお買い得ですよ」と購入をすすめる(行動誘導情報)という展開です。

さらに「情報」は、何についての情報なのか(what about)によって2つに分類されます。
それは、モノについてを内容とする「モノの情報」と、コトについてを内容とする「コトの情報」です。
もちろん後者の場合、生活や仕事といったコトのテーマのもとでモノが語られることがあります。しかし、内容の重点がモノそのものではなくて、モノによって可能となる生活や仕事である場合、それはコトを内容とする情報と考えるべきです。

以上の事実から、以下の概念図に示すように、
(クリックしてポップアップしてください。)

「情報」にはその性質や作用によって、
A =「モノについての知識啓蒙」の情報
B =「モノについての行動誘導」の情報
C =「コトについての知識啓蒙」の情報
D =「コトについての行動誘導」の情報

の4つの「情報の領域」があることが確認されます。

A =「モノについての知識啓蒙」の情報は、
 商品そのモノやパンフレットにある商品解説の情報です。
 モノを作るメーカーが主導権を握る領域です。
 ここでは、いわゆるハードばかりでなく、パソコンのソフトウエアの
 ようなソフトも生活や仕事の道具としてモノと捉えます。
 よってメーカーにはソフトメーカーも含まれます。
B =「モノについての行動誘導」の情報は、
 商品購入という行動を誘導する販売促進情報です。
 モノを売る小売りが主導権を握る領域です。
 自動車メーカーの販売部門やディーラーは小売りに準ずるものと捉え
 ます。
C =「コトについての知識啓蒙」の情報は、
 いま流行っている生活や儲かっているビジネスの内容を報告する情
 報
です。
 テレビや新聞、生活情報誌やビジネス情報誌といったコンテンツメ
 ディアが主導権を握る領域です。
 ここで「コンテンツメディア」とは、取材して編集した内容の対価
 としてもらう情報料と掲載する広告の広告料によって成立する媒体の
 ことです。
D =「コトについての行動誘導」の情報は、
 受信者が生活やビジネスを創造していくための機会の情報です。
 雑誌で言えば就職情報誌やアルバイトマガジン、アパートマンション
 情報誌、ぴあやケイコとまなぶ、じゃまーるに掲載されている情報で
 す。そしてテレビや新聞におけるイベントや展示会などの開催情報で
 す。
 特定テーマにおいて、人を求める発信者(たとえば求人企業)と機会
 を求める受信者(たとえば求職者)を繋ぐ情報交流の媒体のことを
 「マッチングメディア」と呼ぶことにします。「コンテンツ
 メディア」と峻別するためです。
 「マッチングメディア」は、マッチングの対価として求人主や売り主
 貸主からもらう情報掲載料と、読者からもらう情報提供料とによって
 成立する媒体のことです。
 情報を媒介するだけであって、「コンテンツメディア」のように情報
 的に主導権をもつわけではありません。
 新しい生活や仕事を実践した「一次情報源」である生活者や
 ビジネスマン(これを「生活創造者」「ビジネス創造者」と呼んで追っ
 て解説します)が、情報的に主導権を握る領域です。
 各種テーマの個人やサークルの活動についてのいわゆる「口コミ情
 報」
も、たいていの場合、聞き手が新しい生活やビジネスを創造する
 機会の情報として伝達しています。
 バブル崩壊後、雑誌の売上不振が言われますが、コンテンツメディア
 系の雑誌の競争とはやり廃りの激しさに比べて、あるテーマ分野で優
 位を築いたマッチングメディア系の雑誌は安定しています。リクルー
 トの出版事業そして情報事業はこのマッチングメディア系に重心を置
 く戦略で成功してきたと言えます。

 
価値形成ダイナミズムの変遷

(クリックしてポップアップしてください。)

「高度成長期」の価値形成ダイナミズム
 昭和20年代の戦後復興期を終えた昭和30年からオイルショックまでの「高度成長期」は、現在と比較して、社会にはまだまだモノが乏しかった。電気洗濯機、電気掃除機、電気冷蔵庫が「三種の神器」と呼ばれた。またカラーテレビ、クーラー、カーが「3C (新三種の神器)」と呼ばれた。こうしたことに象徴されるように、人々はモノを買い揃えることで、{人並み}の生活を確保しようとしました。
 製品そのモノが新しい電化生活の情報であり、購入を促進する情報でした。そしてモノを買うことが、イコール新しい電化生活をはじめる機会となりました。

 つまり、以上の概念図に示すように、
 A =「モノについての知識啓蒙」の情報である商品解説情報がそのまま、
 B =「モノについての行動誘導」の情報である販売促進情報、
 そしてC =「コトについての知識啓蒙」の情報である生活報告情報、
 さらにはD =「コトについての行動誘導」の情報である生活創造情報に
 直結していた訳です。
 モノを作るメーカーが、社会における価値形成の主導権をもった時期でありました。
 (「マズローの欲求の発展段階説」に従えば、
   戦後復興期に第一段階「生存の欲求」と第二段階「安全の欲求」
   を満たした日本人が、高度成長期に第三段階「親和(帰属)
   の欲求」
を抱くにいたったと解釈できる。
   みんと同じ家電製品を買い揃えることで{人並み}の中流に帰属
   することに、日本人全体が躍起になっていたからです。)

「豊熟消費期」の価値形成ダイナミズム
 オイルショック(1973年)を境に、人々の価値観には、モノそのものの価値ではなくて、モノに付加されたソフトな価値を求めるという変化が生じてきます。
 「アンアン」(1970年)「ノンノ」(1971年)といった生活情報誌が創刊され定着していく。やがて舶来高級品ブーム、DCブランドブーム、高級レストランを食べ歩くグルメブームなどが定着していく。それはバブル期における海外買い物ツアーや高級外車のブームにまで行き着きます。
 バブル崩壊までの「豊熟消費期」は、商品が消費されたと言うよりも、商品に付加された社会的評価という情報性や記号性が消費されたと言えます。
 消費生活の情報性や記号性を広告や店舗開発に巧みに取り入れた西武百貨店や丸井などや、テレビCMや店鋪演出を不可欠の販促媒体とする製造直売である資生堂やDCアパレル等の小売り系セクターと、それら商品を買って使う生活の素晴らしさを魅力的に報告する生活情報誌やモノ雑誌を筆頭とするコンテンツメディア系セクターとが、相互に連携しながら、社会における価値形成の主導権をもちました。
 両者の連携は、小売りが記号を陳列し、コンテンツメディアがその意味づけをする、というものです。
 マンションやリゾートなどの不動産の製造直売にあたるディベロッパーやそれに準じた活動を自ら行ったゼネコン等のセクターが、金融緩和や民活やリゾート法といういわば国による販売促進情報を背景に、バブル期に向けて活発な事業展開をしました。ここでも情報的に、住宅やリゾートに関する生活情報誌等のコンテンツメディア系セクターとの相互連携があり、それは基本的に前述した一般消費財と同じダイナミズムでありました。
 株のいわば小売りのセクターである証券会社と、バブル当時主婦までがみたという財テクのテレビ番組や雑誌のコンテンツメディアとの情報的な相互連携も、同様です。

 つまり以上の概念図に示すように、
 B =「モノについての行動誘導」の情報である販売促進情報と、
 C =「コトについての知識啓蒙」の情報である生活報告情報との相互連携が社会における価値形成の主導権をもって、
 A =「モノについての知識啓蒙」の情報のメーカーのセクターと
 D =「コトについての行動誘導」の情報の生活創造者やビジネス創造者をコントロールしたのでした。
 (新しい情報にアンテナをはっていてすぐに飛びつく人のことが
  「高感度人間」と呼ばれ、「買物リーダー」「蘊蓄リーダー」
  
として評価された。
  メーカーの商品やコンテンツメディアの情報誌の多くは、この
  「高感度人間」をターゲットに発売され発刊された。
  マズローの欲求の発展段階説に従えば、
  豊熟消費期は、日本人全体が第四段階「自我(承認)の欲求」
  抱くに至った時期と解釈できます。)

「堅実生活期」の価値形成ダイナミズム
 バブルの崩壊とそれに続く平成不況を境に、人々は自分の生活の足下を堅実に見据える視点をもつようになった。「堅実生活期」の始まりです。
 自分らしい生活を見極めて、そのために必要なモノは買うが、そうでないモノには見向きもしない。借りて済ませられるモノは買わない。モノに付加されるソフトな価値も冷静に見抜き、情報コンテンツを含めて自己実現に無関係なモノや、自己実現を妨げるような買い方を避けるようになりました。
 典型的には、若年層における持ち家志向の後退、そして中古品敬遠の減少が注目されます。いまや家を持つことは夢ではなく、リサイクル商品を活用するのはむしろ賢く、楽しいあるいはカッコイイことになりました。
 日本人のマイホームの夢が住宅価格が下がっても後退するということは、日本人が家という{モノの人並み}ではなく、暮らしという{コトの自分らしさ}に、こだわりの重点を移行させたことを意味しています。(これには「空白の10年」以降顕著になった所得格差と資産格差も影響している。)
 車や家電製品において、自分の生活にとって過剰な機能や性能は敬遠される。これまで画一的な高級化と高性能化を追求してきたメーカーの商品開発姿勢は転換を求められました。
 さらに、中古品を敬遠する傾向の減少は、レンタルを歓迎する傾向の拡大につながる。子供の世代は、バブルにかけて家をはじめモノを買い込んできた親の世代の空しさを見抜き、それが長引く不況において大きな足枷になる現実を冷静にみたのでしょう。結果、本格的なモノ離れの価値観をもつに至っています。彼らは、ビデオから車、アパートに至るすべてのレンタルを、自分らしい生活を自由に維持するコトとして、肯定的に受け止めている。つまり、親の世代のように、家や車に代表される{人並み}のモノを自分もいずれ買って所有することを、必ずしも目標にしなくなりました。

 人々は、メーカーや小売りによる販売促進情報、つまり購買誘導に乗せられない。もはや自分が{消費者}であることに喜びを見い出すよりも、自分らしい暮らしを実現する{生活者}であることに喜びを見い出す傾向を強めています。それは、精神的な満足や安定を消費に頼らない生活、そして生活の中心に消費を置かない人生観につながっている。この価値観は、21世紀により深化し、社会の基調となっていくでしょう。
(平成不況においてバブル期よりも拡大したブランド高級品消費は、勝ち組においてはバブル期の自己顕示欲求の延長と捉えていいが、大方は負け組と人から馬鹿にされなくて済む安堵を求める、いわば歪んだ自己実現欲求のように思われる。よってバブル期の一品豪華主義の所有志向ではなく、流行追随の買い換え志向となり、コメ兵のようなリレーユース市場に対応する全国ネットワーク業態が成立している。しかし、拡大した格差の定着した2010年代には、世間の標準に依存するブランド志向から、個々人が個性を演出するブランド志向に展開し、安価で更新性の速い東京カワイイ系や欧米ブランドの「ファストファッション」の隆盛へと至っている。)
 「堅実生活期」の当初、90年代前半のバブル崩壊直後の不況突入期、各種のディスカウンターが刺激的な低価格政策を推し進め「価格破壊」が声高に叫ばれました。しかし、21世紀初頭の現在、生活者は当時を振り返って、日本の価格水準が正常化しただけのことだと冷静に受けとめています。人々はこの「空白の10年」を経て、いくら安くてもムダなモノは一切買わないという姿勢をもちました。逆に、自分らしい毎日をおくるために必要と感じるモノはいくら高くても買うという現象が見られます。当初は、一品豪華主義的な買い回り品においてあったその傾向は、2010年代にはたとえばコンビニで買う弁当やスイートなど最寄り品でも見られるようになりました。

 「堅実生活期」では、社会における価値形成の主導権は、特定の生活テーマで主体的な生活実現を図る「生活創造者」(追って解説します)が握るものとなりました。
 たとえば、1990年代、スノーボードが若者にブームとなり定着していきましたが、それはスノーボードをメーカーが作ったからでもなければ小売りが売ったからでもありません。事の始まりは生活情報誌が掲載したからでもありません。
 まず主体性のある創造的な生活者がいて、彼らがスノーボードを自分らしい暮らしを実現する自分流のスポーツライフとして実践したのです。それが{機会の情報}として口コミで広がり同好の士が集まっていった。スケートボードの場合、さらにスポーツ系のコンテンツメディアや小売りやメーカーの方がそうした動向を後追いして、雑誌取材したり、店頭品揃えしたり、自社ブランド生産をするようになったのです。

 つまり以上の概念図に示すように、
 D =「コトについての行動誘導」の情報の生活創造者やビジネス創造者の一次情報が、
 C =「コトについての知識啓蒙」の情報である生活報告情報としてコンテンツメディアに取り上げられる。
 B =「モノについての行動誘導」の情報である販売促進情報を、話題や人気の拡大をみてとった小売りが品揃えをして発信する。
 A =「モノについての知識啓蒙」の情報である商品そのモノと商品解説情報は、メーカーが以上の動向からマーケットの拡大を予測してはじめて生産して発信する。
情報的にはこうしたダイナミズムが働くようになりました。
 (マズローの欲求の発展段階説に従えば、
  堅実生活期は、日本人全体が第五段階「自己実現の欲求」を抱く
  に至った時期と解釈できます。)


ここで、本論の論題である、
現代の「家康志向」が「集団を前提として固定しておく」その仕方は、今の社会全体で俯瞰するとどのような大枠にあるのか?
についての私の現状認識を先に述べます。

現代の「家康志向」が「集団を前提として固定しておく」その仕方は、
情報の4領域ごとに閉じている。


そうなった原因は大きくは2つです。

1つは、情報の4領域の1つを得意とし起点とする過去の成功体験パターンに囚われた経営幹部によって短絡的に組織と制度が機械論化されたことです。

いま1つは、このことが影響して企業社会の全体として、「異なる業種間、異なる業界間の人材の流動性」が損なわれてしまったことです。



More

by cds190 | 2010-05-15 11:33 | 私たちが無自覚でいる「日本型」

私たちが無自覚でいる「日本型」の構造 その10=「類感呪術」が日本型集団独創を促進する  

2010年 05月 10日
「和人文化論」川元祥一/お茶の水書房刊 発



「日本型の集団独創」の特徴を考える基礎概念の振り返り


先ず、本シリーズの前項「その9=『モノカテゴリーより関係性重視の東洋人と漢字の特性』」の内容の一部を振り返りたいと思います。

欧米人が
 <モノクロニック>に<メッセージング>に着目する
 低コンテクストな物の見方をしてそれに依存しがちであるのに対して、
 日本人は
 <ポリクロニック>に<ルーミング>に着目する
 高コンテクストな物と物の関係の見方をしてそれに依存しがちである


という持論を踏まえて、
(参照:「<モノクロニック>と<ポリクロニック>
     「<メッセージング>と<ルーミング>」)

さらに、

日本人の場依存および文脈依存は、
 物どうしの関係というよりも、それに如実に反映する人どうしの関係に重点
がある
 たとえば、「棒---枠組み検査(RFT)」の実験の結果である、視覚的認知の場依存は、
 日本人の場合、障子の桟や畳の縁の秩序からの逸脱が物や人の関係の逸脱として目に
 入りやすいといった注意に繋がる端緒となるという意味で重大で、
 「そのような注意が向くから場や文脈に依存するのではなくて、
  場や文脈に依存しているからそのように注意が向く」
 と考えるべきである

としました。

人間どうしの関係、たとえば支配被支配や序列や差別を重視するのは何も日本人に限ったことではありません。
しかし、同じ議院内閣制のイギリスの総理大臣が王から任命される儀式が、接見室という個室で二人っきりになりソファーで膝を交えて対話することで行われる様相と、皇居に参内して晴れがましい場でモーニングを着て天皇陛下から詔勅の書を賜る様相とでは、明らかに大きな違いがあります。
(参照:映画「クイーン」のトニー・ブレア接見しシーン)

そこでは、「制度という形式知の違い」よりも、その前提となる「暗黙知の体系としての空間感覚と身体感覚の違い」の大きさがあります。
(なんとトニー・ブレアは、前室で婦人と一緒に待機した際、侍従長から女王にお尻を見せないようにすることだけを注意された後、彼一人だけで接見室に入りました。
 つまり、女王の視線が基軸なのであって、段があったり御簾があったりする空間的結界が基軸である東洋とまったく異なる訳です。また儀礼が書面の受け渡しではなく、言葉の取り交わしによって構成されるという違いも重大です。)

そして、前述したように、

 「そのような注意が向くから場や文脈に依存するのではなくて、
  場や文脈に依存しているからそのように注意が向く」
 と考えるべきである

つまり、

「暗黙知の体系としての認知表現の方向づけ」が、社会的、文化的にあって、それに応じた場や文脈が構成されていて、それに依存する

ということで、その原理自体は日本も英国も、日本人も英国人も、世界各国も各国人も同じです。
ただ、方向づけの内容が著しく異なる、そんな多様性が存在するということです。
(イギリスは「不文憲法」です。憲法を構成する大部分は成文法で、一部が慣習に基づく権力や国王の権能、貴族の権限や儀礼の様式です。映画「クイーン」の首相任命の対話儀式はこれによります。憲法のような国の根幹をなす明示知の体系が、古来からの「暗黙知の体系としての認知表現の方向づけ」を土台として形成されていることが分かります。)


そして欧米と日本、西洋と東洋との対比において、その方向づけの内容の違いをざっくりと説明すると、

欧米人が
 <モノクロニック>に<メッセージング>に着目する
 低コンテクストな物の見方をしてそれに依存しがちであるのに対して、
 日本人は
 <ポリクロニック>に<ルーミング>に着目する
 高コンテクストな物と物の関係の見方をしてそれに依存しがちである

 
ということになるのです。


さらに同じ東洋でも、日本と中国との間には、「暗黙知の体系としての認知表現の方向づけ」に対照的な違いが存在します。

為政者の儀礼において段があったり御簾があったりする空間的結界が基軸であることは、有史以後に形成された<社会人的な心性>ですが、日本の場合、それは渡来民によってもたらされたものであり、朝廷が中国の王朝にならったものです。
日本にはその前から、<部族人的な心性>を重視した空間的結界の基軸の祖型がありました。それは、山や岩をご神体とし、川を結界としたり張ったしめ縄を結界とする、というアニミズム、シャーマニズム的なやり方です。
こうした<部族人的な心性>は人類普遍のものですが、文化や心理の深層構造として現代的な物事にまで脈々と息づいているのは日本、日本人、日本文化の特徴です。
(参照:「『心性』=部族人的心性+社会人的心性(概念規定メモ)」


それを端的に表すのが言葉です。

前項「その8=視覚的には効率的に、聴覚的には繊細に受発信する日本語」で検討したように、

◯中国語の場合もっぱら漢字、
 そして日本語の場合平仮名、
 漢字、片仮名の場合、概念のヴィジュアル化が
 紙上に出現していて、
 それを読む際の脳内現象は「文=かきことばを読む」ということですが、
 アルファベットの場合、
 音声のヴィジュアル化が紙上に出現していて、
 それを読む際の脳内現象は「言=はなしことばを読む」ということになります。
 そして、このような違いは、文字を書く段階でも、
 表意文字の場合「文=かきことばを書く」に対して
 「言=はなしことばを書く」という違いとしてあります。


本論では、「類感呪術」ということを検討しますが、この構造は様々に各国の言葉に反映しています。
まず書き言葉、それも中国の漢字から検討していきましょう。


「木を見る西洋人 森を見る東洋人」の著者リチャード・E・ニスベットは、
「家族的類似性と規則のどちらにもとづいて類似性が判断されるか」
という実験をしています。

カテゴリーに分類するのが「規則」=ルールであり、
見た印象が似ているというのが「家族的親和性」です。

詳しくは前項「その9」を読んでください。

西洋人と東洋人を被験者としてどのような実験結果が出たかというと、

漢語圏の東洋人のほとんどは、「家族的親和性」にもとづく傾向があり、
英語圏の西洋人は決まって「規則」を発見してそれにもとづく判断をする

ということでした。
著者は、これをもって「西洋人のカテゴリー志向、東洋人の文脈志向」の一つの例証としている訳ですが、
私は、この実験サンプルはまさに漢字であると捉えました。

類似性判断の実験に使った草花の絵の、茎が「漢字の偏」、花弁が「漢字の旁の内の冠」、花心が「漢字の旁の中層にくる何か(魚でいえば田)」、葉が「漢字の旁の内の下層にくる心やれんが(4つの点)」に相当する訳です。

つまり、
漢字は、魚偏とか獣偏で「ルールにもとづいたカテゴリー概念」をヴィジュアル化していて、
そのお陰で私たちは「規則を見つける注意」のエネルギーを節約し、その分「前後の文脈への注意」にエネルギーを回せる
のです。
たとえば「鯛を蒸した」とあれば、どんな魚かはともかく、またどんな調理法かはともかくも、「魚を火をつかって料理した」という文脈が目に飛び込んできます。
魚偏とれんが(4つの点)のお陰で、私たちは文章をヴィジュアルとして見た段階でほとんど無意識的に文脈を把握し、その上で「魚は(鮃ではなく)鯛」で「火を使う料理法は(煮るではなく)蒸す」だと理解している訳です。


著者の行った「家族的類似性と規則のどちらにもとづいて類似性が判断されるか」の実験結果は、

漢語圏の東洋人の漢字を読む際の
 カテゴリー分類ルールへの注意エネルギーを節約する思考が
 感受性の形式(志向性)に結びついている


可能性を示している、と私は捉えました。


そして、ある種の認知表現エネルギーの節約は、他の種の認知表現エネルギーの投入とも考えられます。
つまり、注意を節約する変わりに、信じたり、祈ったりすることに力を入れる。

東洋人にとってアナロジーとは、
 欧米人のように単なる「現実把握の効率化」ではなくて、
 信じ祈ることを踏まえた「未来様相の予兆化」である


という意味合いで「類感呪術」の原理に基づいてきたと考えられます。
これは、「因果論的志向」に対するところの「合目的論的志向」ということでもあります。


それは<部族人的な心性>であり、日本人が文化と心理の基層として温存しつづけたものでもありました。
そして、それは和漢洋の言葉遣いの内の、和語によりました。

和語は、書き言葉ではなく歌い言葉として成熟していて、漢字導入以後もその特性をずっと温存してきています。
そして歌は、古今東西、「類感呪術」の原理に基づいた認知表現の方向づけに満ちています。

さらに歌は舞いと密着していますが、
花道で客席と時空が一体になる歌舞伎や床の間を背にして座敷で披露される日本舞踊など、「身体知の体系」は暗黙知重視の、<ポリクロニック>に<ルーミング>に着目する高コンテクストな物と物の関係の見方を迫ります。
プロセニアムという窓枠で演じられるオペラやバレイの「身体知の体系」が明示知重視の、<モノクロニック>に<メッセージング>に着目する低コンテクストな物の見方を迫るのと対照的です。


こうした空間感覚や身体感覚の歌謡的、舞踊的特性が、日本、日本人の場合、私たちの母語と母語による対話にまで無自覚的に反映しているのです。

具体的には、

「暗黙知=身体知」の体系が基層にあり無自覚的にそれに依存している、
「身体感覚をともなった情緒性」を起点にしている


ということですが、それについては項を改めて整理します。
(参照:「日本語の擬態語と身体語の特徴についての要点復習(1)」
    「(2)」
    「(3)」
    「『わきまえ』の語用論と日本型集団独創の関係を探る(3) 」
    「(4)」


本項「その10」では、日本型の集団独創の2タイプの内の一つ、
農耕の予祝儀礼を雛形とする
「家康志向」
=「集団を前提として固定しておいて、その集団が独創する」知識創造体制

それを方向づける「類感呪術」について検討します。

いま一つ、交易を雛形とする
「信長志向」
=「個々の独創を放任しておいて、それを適宜に集団に組織する」知識創造体制

それを方向づける「類感呪術」については、項を改めます。

(ただここでは、イノベーションとの関係で、
 「家康志向」が「方向的イノベーション」に向かいまた得意とする
 「信長志向」が「交差的イノベーション」に向かいまた得意とする
 ということだけ補足しておきます。

 参照:「ひらがな=和語が発想を促進する回路を求める(3) 」

 「方向的イノベーション」志向は、「現実におもむく前に、あたまで考えてしまう」を組織的に行うことである。ある方向で用意された言葉遣いで説明しうることでアイデアを求める。
 一方、
 「交差的イノベーション」志向は、交差点である「街の雑踏にもてあそばれながら、仮説もなしに歩き回る」ことに似ている。
 偶有性を積極的に取り込み、交差点という「現場でしか経験できない体験」を多発させる。異なる知の体現者同士の交流を身体的に体験すれば、それが身体的な表現を支え、「身ぶりをともなって擬音語・擬態語を発する」ことになる。この表現に、既存の言葉遣いでは表現しきれない身体知や暗黙知が含まれている。

 「現場でしか経験できない体験」によって、個人的、集団的な「暗黙知=身体知」が形成され蓄積されることは、農耕でも、交易でも同じだ。
 しかし同じ集団による恊働作業でも、定住村の農耕と、遠隔地への航海や新たな交易関係の開拓とではまったく異質だ。「類感呪術」のテーマも展開も異なる。
 「家康志向」「信長志向」はそうした雛形の違いをもつ2つのタイプの日本型集団独創なのである。

 ちょうど昨夜、NHKスペシャル「自動車革命 次世代カー 電池をめぐる闘い」という番組をやっていた。自動車用の蓄電池でアメリカと中国がタッグを組むのに対して、日本は自動車と家電のメーカーが共同開発の体制をしいた。
 これは「家康志向」であり、「方向的イノベーション」志向である。
 技術優位に立ってデファクトとろうとする当然の手立てだが、事はどうもそんなタンジュンではない。「熱に強いリン酸鉄」型にこだわる米中は、どうも2国が最大の消費国である軍事用途を狙っている。米中が「リン酸鉄型」を軍事用の膨大な蓄電池需要で比較高値で買い支えれば、その分民生向け同型を言わばダンピングして比較安値で世界に売りさばける。
 いくら日本がリチウムやニッケルなどの「レアメタル型」で技術的に彼らを上回るものを開発しても、VHSに対するところのベータに成りかねない。さらに、レアメタルは中国が抑えている資源でもある。

 こうした状況に対抗していくには、「信長志向」「交差的イノベーション」志向しかないのである。
 一昨日東京で開催された「日本が再び“電子立国”として巻き返すにはどうすればよいかを考えるシンポジウム」では、「様々な分野の人たちと積極的に交流できる人材を育成し、分野垣根を越え客の目線で新サービスを開拓すべし」という、「信長志向」「交差的イノベーション」志向が結論とされている。
 つまりは、社会も組織も様々な方策も、「家康志向」と「信長志向」の合わせ技を並行させ連携させる体制が求められるのだ。)




More

by cds190 | 2010-05-10 12:53 | 私たちが無自覚でいる「日本型」

私たちが無自覚でいる「日本型」の構造 その9=「モノカテゴリーより関係性重視の東洋人と漢字の特性」  

2010年 02月 09日
「木を見る西洋人 森を見る東洋人」リチャード・E・ニスベット著 発



社会心理学者によるこの本の驚くべき主旨は、その表装にある「認知科学の大前提をくつがえす挑戦の書!」と題した文章に集約されています。

「文化によって世界観が変わっても、人間がものを考えるために用いる道具は同じだと誰もが思っている。
 肌の色や国籍、宗教が違っても、ものごとを知覚したり、記憶したり、推論したりするために用いる道具は同じである。論理的に正しい文章は、日本語であれ英語であれヒンズー語であれ、正しいことに変わりはない。同じ絵を見ている中国人とアメリカ人がいれば、彼らの脳裏に映る画像は当然同じものである。
 だが、もし、すべてが間違っているとしたら?

 本書は、
 東洋人と西洋人の心や思考のかたちが文化によっていかに違うか、
 その違いはなぜ生じるのか
 を科学的に解明
する。
 『世界についての考え方は根本的にひとつである』とする認知科学の大前提に挑戦した知的興奮の書である。」

脳科学の知見では、<感覚的クオリア>と<志向的クオリア>そして前者から後者を映しとる<志向性>ということが言われます。
(参照:「脳科学において『閃き』そして『気づき』とは何か? 」
本書の主旨は、脳内現象において、
意識そして無意識が受動的に生じさせる<感覚的クオリア>は人類普遍であるが、
<志向性>とそれによって映しとられる<志向的クオリア>は文化によって異なる

ということです。
本書はこのことを、科学的な実験によって証明してしまいました。

本論では、まず著者たちが行った注目すべき実験とその成果を解説して、これと表音文字と表意文字の文化の違い、それからくる「話し聞く」という行為における脳内現象の違いとの関連を検討し、両者の符合を明らかにしたいと思います。
(参照:「私たちが無自覚でいる『日本型』の構造 その8=視覚的には効率的に、聴覚的には繊細に受発信する日本語」

さて、著者はどのような実験を行ったのでしょうか?



More

by cds190 | 2010-02-09 00:29 | 私たちが無自覚でいる「日本型」

私たちが無自覚でいる「日本型」の構造 その8=視覚的には効率的に、聴覚的には繊細に受発信する日本語  

2010年 02月 08日
「NHK人間講座『日本語を問いなおす』」石川九楊 発


「『日本語を問いなおす』出発点、それは、『日本語は漢字と平仮名と片仮名という三つの文字を使う、世界に特異な言語である』という一言に始まり、またその一言に終わります。」
という言葉ではじまる本テキスト(本講座)は、著者(講師)の石川九楊氏が書家であり、書家ならではの卓見に満ちています。

たとえば、著者はこう述べます。
「文字を獲得する以前の人類は、(中略)一般には音声言語(音声によって表される言語)はあったが、文字言語(文字によって表される言語)はなかったとされています。(中略)
 しかし私は、この音声言語と文字言語を、『話す(はなす)言葉」』と『書く(かく)言葉』と置き換えてみたいのです」

これは大胆なパラダイム転換発想です。
著者はこう述べます。

「まず、『はなす』とはどういう行為でしょうか。
 これは人間が身振りや手振りなど自分の身体や、あるいは口から発する音声を用いて、一つの表現をすること。
 身体や音声を通じて『放す』ことであり、『離す』ことであり、そして『話す』ことです。(中略)

 次に、『かく』はどうでしょうか。
 たとえば、石や木を『引っ掻く』と、そこには何らかの図形が生まれたり、あるいは模様ができます。あるいは、同じく石や木を『欠く(欠かす)』とき、石や木の彫刻ができあがります。また、『描く』ことによって絵画のような表現も生まれます。
 そういった『掻く』『欠く』『描く』のすべてが『かく』ことに含まれると考えれば、これもまた人類の誕生とともにあったはずです。」




以上のことを脳科学の知見に照らすとこうなります。

「はなす」ことは、感覚的クオリアからある志向性に基づいて志向的クオリア①をメタ認知する過程であり、

「かく」ことは、外部を媒介に表現しつつ得られる志向的クオリア②をメタ思考する過程である。


(参照:「脳科学において『閃き』そして『気づき』とは何か? 」


本論では、本書の内容にそって日本語における文字のもつ働きに着目しつつ、発想という知識創造の重要なヒントになり、かつ脳科学の知見に裏づけられるポイントだけを解説したいと思います。



日本語において文字はいかなる特徴的な働きをしてきたのでしょうか?

More

by cds190 | 2010-02-08 23:32 | 私たちが無自覚でいる「日本型」

私たちが無自覚でいる「日本型」の構造 その7=「ミドルアップダウン・マネジメント」の組織知識創造  

2010年 02月 06日
「知識創造の経営」野中郁次郎著 日本経済新聞社刊 発


この本が出版されたのは1990年末、まさにバブル崩壊前夜であった。
つまり、日本型経営に誰もが自信をもっていた時期に多くの協力者を得て著述されたものです。

いま、日本型経営というと即、終身雇用と年功序列とされるが、私は「知識経営」に関して言えば、それらは日本型の本質とは言えないと思ってきました。
実際に、私が社会人に成りたての本書の出版された20年前には、業種に限らず大手においても中途採用や転職は多かったし、独立した30歳前後の若造の小生に中高年の上司や経営幹部が機会と権限を与えてくれたりもして、そういう抜擢という名の実力主義は同世代でもよく見受けられたことでした。そして実際、様々な業界大手で抜擢された30歳前後同士が仕事や勉強会や年輩者の伝手で知り合い、個人的にネットワーキングしたことが、私の事務所の当初のコラボレーションに展開しました。
そういう外部ブレインとしての実務経験において、日本型の集団知識創造があり、その成果がクライアント企業のやはり日本型の組織知識創造に組み込まれていた訳ですから、「知識経営」についてはどう考えても終身雇用と年功序列が日本型の本質だったとは思えないのです。


もちろんこの時点で、当時の日本型の知識経営が万全だった訳ではありません。
著者を筆頭にするいわば<知識創造論の識者たち>は、はしがき冒頭にあるように、
「最近の急速な情報化・国際化の進展は、これまでの日本企業の行動のあり方の再検討を迫っている。日本企業が真に世界の発展に寄与するためには、改めて日本的経営を見直し、その普遍の可能性と限界を明らかにする必要がある
という認識を持ち合わせていました。

しかし、その後のバブルの熱狂と、バブル崩壊後の短絡的な「日本型経営の全否定」において、結局この「日本型の知識経営の見直しと現代的な普遍化」という課題が積極的に取り組まれることはほとんどありませんでした。

バブル崩壊後の「空白の10年」と言われた1990年代、ほとんどの日本企業は、デフレ経済下の高効率化とリストラの圧力、そしてインターネットやケータイの急速普及への対応において、自分たちの長所についても自信を喪失し、自分たちの短所を一掃すべく、アメリカ流の付け焼き刃の対症療法を不用意に徹底するの観がありました。
しかし本来は、自分たちの長所を伸ばして、現代化、グローバル化するという課題に取り組まねばならなかった。
この間にむしろ世界的に成長した企業もあった訳ですが、私はそれはみな、この本来的な意味で前向きな課題に真摯の取り組み続けたところだったと捉えています。
具体的には、トヨタ、セブイレブンを擁するIYグループ、キャノンなどで、安易に終身雇用を否定せず、国際標準で実力主義を立て直しつつ、基本的には日本型の「知識経営」を現代化してきた企業です。

それは、どこの経営幹部にもいる「アメリカ出羽守」があたかもグローバル・スタンダードかのごとく吹聴した「フラットな組織でフラットな末端それぞれに権限委譲をする」そんなタンジュンなやり方ではありませんでした。
確かに新興成長したIT企業などでは、フラット組織で中間管理職を可能な限り省いた機構が効率的かつ効果的に機能しますが、いわゆる「オールドエコノミー」と言われた従来産業の企業までにその理屈がそのまま通ると考えた当時の風潮は明らかに短絡であり、そして致命的な誤りでした。

たとえばテレビやDVDレコーダー、カーナビやオーディオ、さらにはパソコンなどを基幹事業とする情報家電のメーカーでも、組織のフラット化が進みましたが、それはイコール、組織の機械論化であり、人材の機械の部品化でした。
「知識経営」として致命的だったのは、組織による知識の創造性が酷く損なわれてしまったことです。
たとえば、おおよそ<モノ割り縦割り>の事業部門で構成されているメーカーの場合、部門横断的な事業連携や、部門と部門の業際的領域における事業創造が、組織の機械論的フラット化と、部門間を連携するキーマンを筆頭とする、機械の部品におさまらない中間管理職の一掃によって実行不可能になってしまったのです。
結果メーカーは、モノ割りのデバイスごとに、業界横並びの高性能化と低価格化を抱き合わせで競うしかないレッドオーシャン市場の消耗戦に自ら埋没していきました。そしてたとえばテレビなどが典型ですが、消耗戦を有利に勝ち抜ける中国企業に圧迫されっぱなしとなりました。


ちなみに、最近になってやっとテレビ関連でも、ユニークな優位性によって脱競合するブルーオーシャン戦略を展開するメーカーが出てきました。それは、そのような事業創造ができる知識創造体制がやっと確保されてきた、ということです。
たとえば、NHK番組「メイド・イン・ジャパンの命運」で、東芝のスーパー半導体セルプロセッサーが組み込まれたテレビと、JVCケンウッドの「自社生産にこだわらず、技術を中国メーカーに譲って製品を作らせ、そのライセンス料を企業収入にしていく」テレビ連携するパーツ(独立デバイスの核ともなる)を紹介していました。
後者の50代の開発キーマンのようなタイプのミドルがかつては沢山いたのです。

前者は100人のプログラマーを雇ってスーパー半導体を活用するテレビ用プログラムを開発し、その40代の統括技術者が、「日本は手間暇かかることをこつこつやっていくしかない」という主旨の発言をしていました。これは、開発目標が決まれば後はプログラマーを延べ人数で沢山つかって開発できる、という体制でフラットな組織的で機械論的です。なぜなら、臨時雇いのプログラマーはもとより、統括技術者も代わりがいくらでも利くからです。代わりが利かないのは、「スーパー半導体セルプロセッサーを組み込んだテレビを開発しよう」と決断した経営幹部だけです。
登場した統括技術者の「日本は手間暇かかることをこつこつやっていくしかない」の発言ですが、それで中国に勝てるのは、典型的には京セラのセラミックのような現場技術者の暗黙知の練り上げが必要な開発テーマであることに注意しなければなりません。これは一朝一夕に中国が真似して人海戦術で対応できない公算が高い。しかし、プログラマーを延べ人数で沢山使うということでは中国も同様にできる訳です。東芝のセルテレビの場合、アナログテレビ時代からの老練な50代の技術者が登場し最終的なテレビの映りのチェックをしていました。そこには練り上げられた暗黙知が必要です。しかし、これはすでに中国に技術移転されたアナログテレビのチェック知識であり、同様のチェックができる中高年技術者はいる筈です。
つまり、正確に言うと、「日本は、先行して、手間暇かかる新技術開発をこつこつやって、特許を取っていくしかない」ということです。ブラックボックス・パーツ化は当然ですが、それだけではリバースエンジニアリングによる開発キャッチアップを防止するに過ぎません。

その点では、ケンウッドJCVも同じなのですが、こちらの新型パーツは、中国のEMS企業に圧倒的な低価格で作らせてデファクトスタダードを先行取得、類似パーツが出てくる余地を最初から潰してしまうものです。
つまり、中国と競合するのではなく、生産を得意とする中国と役割分担して戦略的にコラボレーションしていくということです。
そして、これを展開できるのは、中国のEMS企業との交渉に自ら当たっていた50代の開発キーマンのようなミドルがいて活躍できる環境のある知識経営体制なのです。
経営者が戦略目標を打つ出すだけでは何もできません。
こうすればできるという開発構想を進言し自ら試行錯誤しながら具現化を模索していく開発キーマンが不可欠です。
そんな事業課題をどんどん創出して達成していく体制、
それこそが「本来の日本型の知識経営の本質」に他なりませんでした。


こうした「本来の日本型の知識経営の本質」を、本書の著者は、日本型の「知識経営」の中核である<ミドル・アップダウン・マネジメント>の知識創造のメカニズムが達成しているとします。
本論では、それがどのようなものか全貌を具体的に把握できるように、「コンセプト思考術」がベースとする言葉使いの4つの概念要素を踏まえて明らかにしたいと思います。

<ミドル・アップダウン・マネジメント>の知識創造のメカニズムには、
「その2」で論じたエドワード・T・ホールが提唱した<モノクロニック>と<ポリクロニック>と、
「その3」でとりあげた<メッセージング>と<ルーミング>
が重要に関わっています。
まずは、
<ポリクロニック>な知識創造体制
<ルーミング>な知識創造環境
が不可欠であることから説き起こしていきたいと思います。


More

by cds190 | 2010-02-06 15:36 | 私たちが無自覚でいる「日本型」