「あまえと義理 ---日本人の心の構造---」小池利正著 鳥影社刊 発
義理という人間関係のポイントまず著者は、井原西鶴が武士の義理を主題として書いた「武家義理物語」を例に、義理のポイントを解説する。
物語の設定は、織田信長が活躍していた安土桃山時代というから、義理は江戸時代以前からあったということは留意しておきたい。
つまり、義理は「家康志向」の世間にも「信長志向」の世間にも同様に一貫していたのである。
著者が指摘する「義理とは何か」の結論はこうだ。
「相手の意向をそのまま自分の意向として受け入れること」ここで、「そのまま自分の意向として」というところが、単なる他者の意向の受け入れではないポイントだ。
よって、
「義理を果たすためには、自分の意向があってはならないし、また自分の意向があったとしたら、それを断念しなくてはならない」
「義理には
”私(わたくし)”がない。つまり、私心、私情や私利・私欲がない」
「義理を考えるうえでは、この”私”がないということが一番大事」
と著者は指摘する。
そして、義理には「正しいすじみち」があるとする。
それは、「
義理は相手本位なものであって、常に相手に自分を接続するというか、合致させる」もので、それはどのようにして可能かというと、
「
自分を相手に合致させてひとつになる」
「
相手と同じものになる」
ことによる。
「武家義理物語」では、主人公は道中で知人にたのまれたその息子を事故死させてしまう。そこで、主人公は同行していた自分の息子に「死んでくれ」と言う。すると、その息子は父の意向を我が意向として応じた。
主人公は、「息子を亡くした知人」と同じものに自分もなろうとしたのだ。
主人公の息子も、「知人への義理を果たそうとしている父」と同じものになろうとした。
著者は、時代が下るにつれて「義理がすたれてしまった」理由をこう述べる。
「それは後世の人たちが、昭和、平成と時代が移り変わるあいだに、しだいに”私”が肥大してきたので、義理を生きることが難しくなってしまったからです」
「しかしながら、義理がすたれたといっても、義理がたい人がいなくなってしまったわけではありません。義理がたい人は、いまも大勢いるんです。
問題になるのは、その義理がたい人たちの”私”も肥大しているということです。
というのは、そうなると
義理の心性と肥大化した”私”のおりあいをつけるのが難しくなるからです」
この真逆の心性が「お互いに他を打ち消そうとするので、どうしようもなくなってしまう」状況の具体例として摂食障害をあげる。
「”私”が肥大化する傾向にあれば過食的になるし、また義理が優勢になれば拒食的になるというように、義理と肥大化した”私”の葛藤が、摂食障害となって現われてきます」
「いい子というのは親に対する義理を生きている子供だ」
「いい子は『したい。ほしい。ヤダ』といえないといいましたけれども、そういえないのは、いい子が親に対する義理を生きていて、その義理には”私”がないから『したい。ほしい。ヤダ』といえないのだ」
前出の摂食障害との絡みで言うと、親に対する義理で生きている子供の抑圧した攻撃性が自分に向かうのが摂食障害であり、同じ攻撃性が他者に向かう場合もある。
また、親に対する義理で生きている子供が、親の言うことをすべてきいている訳ではない。義理の根幹に関わることについて完全に受け入れているために、枝葉末節についてはむしろ我が侭だったり反抗的であったりすることも多い。
私は、このような状態を、現代の一般的な日本人のお上に対する態度と同じ構造のものと捉えている。
政府や自治体のやり方に文句は言い、デモもするが、海外のニュースで見るような暴動や信長時代の一向一揆のような死闘はしない。テロなんて絶対に悪い子がすることだ、という共通感覚がある。
義理が発生する背景と日本人の特殊性「義理は、子供が親に依存している時期でなければ生じないもので、裏返していうなら、子供がひとりだちしてからでは絶対に生じないものなんです。
ですから、できるだけ早い時期に子供を親から独立させようとする国、たとえばアメリカのような国に、義理に相当する言葉はないでしょう。(中略)
あの聰明なルース・ベネディクト(筆者注:『菊と刀』の著者)でさえ、義理については、『人類学者が世界の文化のうちに見いだす、あらゆる風変わりな道徳的義務の範疇の中でも、最も珍しいものの一つである。それは特に日本的なものである』としかいえなかった」
ここで留意しておきたいことが2つある。
1つは、たとえば前の大戦の敗戦前夜、終戦直後の一般的日本人の義理的な心性や人間関係と、いま現在のそれは同じ構造にはあっても質は変容している、ということ。
かつては”私”が希薄だったが、いまは”私”が肥大化しきっている。
いま1つは、義理というと対人関係と考えがちだが、役所や会社など組織間関係にも成立し、根源的には神=自然と人間との関係にも遡れたり深層心理として潜在している、ということだ。
エネルギーの過食症とも言える過剰な原発推進は、神=自然への義理を欠いたという意識を、原発事故以後の反原発への揺り戻しには、神=自然への義理を全うすべきという意識を潜在させていて、その中には一部、エネルギーの拒食症とも言える社会の現実性からすれば自閉的とも言える発想も含まれているのかも知れない。
著者は、「甘えの構造」を書いた土居建郎氏も「あまえと義理をまぜこぜにしていながら、それに気づかなかった」としてこう述べる。
「『「甘え」の構造』のなかで、『すまない』という気持ちを考察しているからです。でも、この『すまない』という気持ちは、あまえと関係しているのではなく、義理と関係しているのです」
しかし、「区別がつかなかったのも無理はない」とし、その理由を
「
あまえと義理は半分重なっているからです。
違うのはただ、
あまえる人には”私”があるのに対し、義理には”私”がないという点だけです」

ここで著者が重要なことを指摘する。
「
あまえる人も、義理がたい人も、ともに自分を『他者の対象』として意識している」
「
『汝の汝』といってもいいんですけれども、西洋人はこんな風に自分を意識しません(中略)。彼らは個人として生きています」
「これは日本人以外の東洋人も同じだと思います。(中略)
『他者の対象』として自分を意識しながら暮らしているのは、世界広しといえども日本人だけだ」
「それは、(筆者注:あくまで一般的な)
日本人が、他者を経由して自己をもつという、世にも珍しい心性を有しているからなんです」
これは、日本人と日本文化の特徴である「自他の未分化性」ひいては「人間と自然の未分化性」や「人工と自然の未分化性」にまで関係してくる。
だから、これは古今東西、外国人でもある「人目を気にする」「面子や外聞を気にする」「偽善的である」といったエゴとは次元の違う話なのだ。日本人のエゴ=自我の成り立ちそのものが、外国人とは違う。
義理という言葉が、中国の儒教の義理からの引用のために、中国人の義理と日本人の義理を同じと短絡しがちである。
中国人にとって義の大本は天意であって、義理とは「天意の道理」と言ってもいいだろう。
中国人はまず個人としてこの「天意の道理」に向き合っている。その上でそれを大切にするべく親への孝があり主君への忠がある。
そういう点では、欧米人の、神にだけ誡告する個人が、神と契約して成立する社会を形成している構造と、中国人とその社会は似ている。
一方、日本人は人間関係の総体という<世間>おいて自分を位置づけるしかなく、個人もそれが形成する社会もない。あるのは<世間>であり、その構成員として位置づけられる自分なのである。
自分とは、<世間>における「自らの分」に他ならない。「分」は分相応でなければならないが、それは個人や社会が決めるのではなくて、あくまで<世間>が決める。
「他者を経由して自己をもつ」、それを別の角度から言うと
「自らの分を<世間>が決める」ということになる。
では、「他者を経由して自己をもつ」とは、具体的にどういうことだろうか。
著者は「させていただく」という言葉で例解する。
「なにごとであれ、うしろに『させていただく』をくっつけて表現する(中略)。そうすれば(筆者注:たとえ形式的に過ぎなくても)、相手の意向をあおぎ、その承諾のもとに自分が行動するというかたちになって、他者を経由して自己をもっている日本人の精神構造にかなうようになる」
さらに呉善花氏の指摘で例解する。
「日本人は『負けるな』といって応援するのに対し、韓国人は『勝て(イギョラ)』といって応援する(中略)。
この『負かす』という言葉を原辞に分解すると、『負か』つまり『負く』と『す』すなわち『する』に分かれますが、このふたつの原辞のうち、『負か』つまり『負く』の部分は相手のことをいっています。(中略)これに対して、『す』すなわち『する』のほうは自分のことをいっており、全体としては、己の行為によって相手かたの『負け』をつくり出すことを『負かす』というんです。
したがって、この『負かす』という一語のうちには、勝者である自分と敗者である相手の双方が含まれていることになります。
しかるに、『勝つ』という言葉には相手の人は含まれておりません」

「『勝て』と応援する韓国人の意識は、自分から他者のほうに向かっていて能動的であり、『負けるな』といって声援を送る日本人の意識は、他者から自分に向かって受動的だということになります。
このように日本人と韓国人の意識は、反対方向に向いているのです。(中略)
自分から他者へと向かう往過程を重要視する韓国人は、『・・・してもらう』という還過程を軟弱に感じて、意識から切り捨ててしまう(中略)。
これに対して、『負けるな』といって声援を送る日本人にとって重要なのは、他者から自分自身へと還ってくる還過程のほうですから、韓国人とは逆に、往過程のほうを抑圧する(中略)。
そのわけをいいますと、おそらく『勝て』と応援すると、エゴがむきだしになって、対戦相手の存在意義を消し去ってしまうからでしょう。他者から自分に戻ってくる過程を重要視するものにとって、他者は自己存在の前提になっていますから、その存在意義を抹殺するような言動は、つつしまなくてはならないのです」
ここには、以下のような往還過程があると、著者は指摘する。

韓国人や欧米人は、他者を経由せずに自己をもっている個人同士として「我と汝」の関係をもつから、対人関係は往過程のやりとりとなる。
これが如実に出るのが、人との別れ際や電話の切り際だ。外国人同士は、グッバイでおしまい、電話なら要件を言い終えたらおしまいでいい。日本人同士は、さようならと言った後のおじぎの仕合いや見送り合いがないと落ち着かない。電話でも同じで、余韻のようなものの確認しあいがあり、それを体感するためにおじぎまでする。
日本人は、他者を経由して自己をもつ自分同士として「我と汝」の関係をもつから、対人関係は、自分の内側で起こる往還過程のやりとりとなる。
正確に言うと、「我の『汝における我』」と「汝の『汝における我』」との関係という微妙かつ厄介なものだが、日本語と日本文化がこれを私たちにすんなり無自覚的に行わせている。
義理が発生する背景には、日本人の特殊性、<世間>とそれに位置づけられる自分がある。
義理のポイントであった「相手と同じものになる」とは、日本人の場合、「他者を経由して自己をもつ」の典型、「<世間>に位置づけられる自分」の一つのあり方として成立している。
また、自分の抱く義理をこうと掲げ全うすることは、自分の生きる<世間>を自他に明示しそこで自分を位置づけることともなる。実際、義理がたい人は、そういう生き方をしている。
「日本人は個人として自己をもっているのではありません。(中略)日本人は、『他者を経由してきたところの自己』(筆者注:世間に位置づけられた自分)をもっていますから、(中略)日本人が(筆者注:日本人らしく)生きていくには、社会が同質的、単一的でないと困るんです。(中略)
他者を経由するためには、その他者が、わたしという人間の経由を許してくれるのでなければ、成り立たないからです。
しかし外国の人たち、とりわけ西洋の人たちは、自己のうちに他者が経由することを許さない」
こうした関係は親子関係をはじめとする対人関係だけではない。
店子と大家、社員と会社、企業と政府など、個人レベル〜集団レベル〜組織レベル〜社会レベル〜国家レベルすべてが入れ子構造になっている。
たとえば、企業は業界団体を組織し政府の行政指導に従ったり保護されたり既得権益を与えられたりして、お互いが安定している。お互いが「他者を経由して自己をもっている」ということだ。
この場合、往還過程のやりとりは対人関係のように言葉や行いの交流だけではなく、人、モノ、カネ、情報の交流として総合的に例外的な遺漏なきように展開する。
ところが、これは外国の政府や企業からすれば、市場への参入障壁以外の何者でもない。その交流の蓄積の根幹が明示的ではなく暗黙的であることで余計に排他的である。
敗戦後、アメリカが親(分)、日本が子(分)という社会心理が定着した。
親(分)子(分)ともに経済そして気持ちに余裕ある時代は、政府も企業も、アメリカは日本国内で「郷に入っては郷に従え」で折り合いをつけ、日本はアメリカの要望を日本の<世間>に一体化する形に変容して丸呑みしてきた(原子力村が典型)。
しかし、日米双方の政府と業界に余裕がなくなってきた今や、そうしたこれまでの展開ができなくなり、アメリカが日本国内での「ルールの共通化」を迫ってきている。TPPの眼目はそこにある。
著者は、哲学者の森有正氏が、フランスの大学で教鞭をとっている時代に、隣家に娘とともに食事に招かれ、粗相をした娘を叱ったところ、フランス人の隣家の主から、森氏と娘はともに個人として同じゲストであり、ゲストと叱るのはホストの主だとたしなめられた話をしている。
ここで、森氏と娘の関係が、日本政府とその行政指導を受ける自国企業との関係と重なる。隣家の主と森氏の娘の関係が、アメリカ政府と自由市場における自国企業ふくむ各国企業との関係と重なる。
政府が、国内市場において企業を監督するのはどこも同じようでいて、日本の場合は非グローバルなのである。ここで「非グローバル」とは、一般的な「ローカル」とも言えないほどに特殊、異質な例外という意味だ。
日本人の特殊性、<世間>と自分の関係は、発達社会心理学的にも形成され強化される。
なんとなく私たちは想像できるが、外国人の社会と自己の関係の形成過程を知ると、その特殊性が想像をはるかに超えて大きいと理解する。
著者は、西尾幹事氏がドイツ留学中に遭遇した光景で例解する。
よくファミレスなどで幼児がうるさく泣き叫んでいると、親御さんが一生懸命、静かにしなさいと叱っていて、周囲のお客も、ファミレスだから仕方ないし子供はそういうものだしと特段の反応を示さない。
これがドイツ人の母親であれば、「いきなり子供の口を乱暴に抑えて、子供の泣き声をとめようとした」といった形になる。
著者によると、そうする一番の理由は、「ドイツの母親は、子供の口をふさぐことによって、子供が自己のうちを経由することを拒否した」ということなのだ。
どこの国の子供でも子供はそうするが、「母親のうちを経由することを求めてくる子供を、厳しくはねつけなくてはなりません。それでドイツ人のしつけは厳しくなるんです」。
日本人の母親であれば、泣いている子供をあやしたり叱ったりする訳だが、そこでは「他者を経由して自己をもつ」が自分として存在させる前提になっている。
それは、人間関係の総体であるその時々の<世間>において自分を位置づける、という構造の原型である。
ファミレスで泣き叫ぶ子供も、どこまでうるさくしていいのかを、周囲を気にした母親に戸外に連れ出すなどされて、その時々の<世間>との絡みで体験的にわきまえて行く。結果的にそれが日本人の子供のしつけになっている。しつけの内容は時代や環境とともに変化してきたが、しつけの構造自体は変わっていない。
「日本の母親は、その自己のうちに子供を経由させている」
こうした日本の親子関係について森有正はこう述べているという。
「親子の場合をとってみると、親を『汝』として取ると、子が『我』であるのは自明のことのように思われる。しかしそれはそうではない。
子は自分の中に存在の根拠をもつ『我』ではなく、当面『汝』である親の『汝』として自分を経験しているのである」
この構造は現在最大の日本の社会問題にも当てはまる。
「経産省とほぼ親方日の丸の東電の場合をとってみると、経産省を『汝』として取ると、東電が『我』であるのは自明のことのように思われる。しかしそれはそうではない。
東電は自分の中に存在の根拠をもつ『我』ではなく、当面『汝』である経産省の『汝』として自分を経験しているのである」
「かくして日本の子供は<汝の汝>として自己をもっているわけですが、いっぽうまた子供が親に『・・・してちょうだい』と要求するという意味では、子供もまた<われ>に相違ないわけですから、この意味で、日本の子供は<汝の汝>であると同時に、要求的、あるいは自己主張的な<われ>でもあるということになります」
「かくして東電は<汝の汝>としての自己をもっているわけですが、いっぽうまた東電が経産省に『・・・してちょうだい』と要求するという意味では、東電もまた<われ>に相違ないわけですから、この意味で、東電は<汝の汝>であると同時に、要求的、あるいは自己主張的な<われ>でもあるということになります」
時事問題としては、政界財の談合体制をマスコミが核心部分を隠蔽しつつ経産省と東電が相互に利益供与をし合っているということだが、そうした現象が誰がイニシアティブをとるでもなく、言わば集合無意識的に折り合っていく背景には、日本人の親子関係と<世間>と自分の関係において個別的にかつ総体的に再生産されてきた、日本の特殊性を認めない訳にはいかない。
他者を経由する自己による「あまえの二面性」土居建郎氏の「あまえには受動的な面と能動的な面の両面がある」という主張について、著者はこう整理する。
「あまえに受動的な面と能動的な面の二面性があるのは、
あまえる人間が受動的な<汝の汝>と、
要求的、自己主張的な<われ>
というふたつの性格を有しているからです」

対人関係において、主体はこの「あまえの二面性」を相互に受発信する。
それを称して「魚心あれば水心」という。
政官財の談合体制のように、集団間や組織間の関係においても同様に展開する。
そして著者は、「あまえの二面性」を「いったん他者を経由してから再び自分に還ってくるという、再帰型の自己」が形成している構造を、以下のように「してもらいたい」という言葉の構造で解説する。

この図で、
<われ>から<汝>に向かう矢印が能動性であり、
<汝>から<汝の汝>に向かう矢印が受動性であり、
<汝の汝>から<われ>に向かう矢印が両者の統合化
と理解できる。
私たちは、このような言葉の構造をもつ「〜してもらいたい」を相互に発し合って、対人関係から集団間関係、組織間関係にいたる<世間>を安定化させ、そこで位置づけられる自分を維持している、と言えよう。
日本語による私たちの日常会話の中にも「あまえの二面性」が立ち現われている訳だが、私たちは慣れ親しんだ言葉遣いの内にこれを無自覚的に発揮している、ということになる。
著者は、こう締めくくっている。
「日本人の心的構造においては、<汝の汝>でいることがもっとも大切なので、日本人のあまえは、<汝>を経由していることを享受するあまえになります。
もちろん、あまえる子供はどこまでも<われ>を押し通そうとするものですが、(中略)かえって相手に嫌われることになってしまいます。
それゆえ
日本では、<汝の汝>でいるために、要求的な<われ>を押し殺さなくてはならない場合が出てきます。
そしてそのことから、いい子たちのさまざまな問題もでてくるのです」
著者の言う「いい子」は、交流分析心理学の「順応する子供Adupted Child」と重なる。
「順応する子供Adupted Child」が順応するのは「批判的な親Critical Parent」で、その典型は親子関係で言えば権威的な父親であり、社会関係で言えば権威や権力である。
東日本大震災や原発事故の被災者がいちように我慢強いと国際的に評価されることの中には、多分に、お上に対して「いい子」である部分が下支えしているところがあるように思う。
つまり、「<汝の汝>でいるために、要求的な<われ>を押し殺さなくてはならない場合」が発生しているとも考えられる。
本シリーズでは、そういう観点をもって現在最大の社会問題にも触れつつ、「甘えと義理」について検討を進めていきたい。