日本語の擬態語と身体語の特徴についての要点復習(1) |
「メタファー思考-----意味と認識のしくみ」瀬戸賢一著 講談社現代新書刊 発 より
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◯日本語に特徴的な擬態語や身体語は、「身体感覚をともなった情緒性」を表現する。
それは、方位方角時間など数値化できる量的概念の対極にある、数値化できない質的概念である。
たとえば、「ぼちぼち行く」の「ぼちぼち」は、速度に数値化できる副詞「ゆっくり(slowly)」とは違う。「ぼちぼち」には「身体感覚をともなった情緒性」が含まれている。
そのクオリアはある範囲にある共通感覚を想定してはいるが、厳密にはそれぞれの主体がその時その場の自分の感性で感じ取るしかないし、それが許されている前提がある。私たちは前後の文脈から、うなだれた様子、手持ち無沙汰な様子、リラックスした様子などをイメージする。
◯日本語は文脈依存的であると言われるが、擬態語や身体語もそれに大きく貢献している。
ラテン系 respect despect 漢語
(堅い響き) (尊敬する) (軽蔑する) (堅い響き)
アングロ
・サクソン系 look up to look down on やまとことば
(柔らかな響き) (見上げる) (見下げる) (柔らかな響き)
日本語の身体語と擬態語は下段の仲間である。
「柔らかな響き」とは、たとえば「見上げたものだ」と言った時に、尊敬の有り方が悪く言えば曖昧、よく言えば広がりをもっていることでもある。
その見上げ方のニュアンスは、発話者が誰で誰を見上げるのかという主体と対象の関係という文脈から読み取られる。
◯日本語における身体語と擬態語の多用は、大和言葉=和語の流れにあるものだが、「ことばに感じることのできる<感じ>」や「具象の種から育った抽象であるメタファーの<土の香り>」を、つねに身体感覚や音感において保全し活性化する働きをもってきた、あるいはその回路となってきた。
たとえば、「うやまう」という抽象は「上を見る」という具象の種から育った。その状態を意味する形容詞「うやうやしい」「うやうやしく」は擬態語的だ。
英語で言えば「look up to」のupが展開している訳で、そんな擬態語の造語回路にも日本語の擬態語の特徴がみてとれる。
「丸谷才一対談集 日本語そして言葉」では、
「日本語を三階層にわけていて、一番下に和語があり、これが一番大事。その上に漢語があり、さらにその上に片仮名の層が浅くのっている」
という丸谷氏に、
「その三階層というのは、深層意識から表層意識へというぼくらの意識の層とぴったりあう」
と前田愛氏が応じている。
この「深層意識」が、具体的にはユングのいう「集合的無意識」であり、「具象の種から育った抽象であるメタファーの<土の香り>」の源泉だと思う。
なお、漢語の階層が英語の「堅い響き」のラテン系に相当し、片仮名の階層が英語のkaizenのような外来語に相当する。
つまり、「深層意識から表層意識への三階層」自体とその発音が三様に聞き分けられることは各国語に共通なのであって、日本語の特徴は、異なる文字によって視覚的な差異が表現されることに限られる。しかし、書き言葉と話し言葉の相関は密接であるため、この特徴は文章を書く場合に限らず日本人の発想思考や対話の有り方を大いに特徴づけている。
たとえば、大和言葉には大和言葉で対応したり、漢語には漢語で対応したり、カタカナにはカタカナで対応することが暗黙の約束となっている場が、特定の専門分野ばかりでなくごく一般的な日常会話においても存在する(ex.やどでめしをたべる→旅館で食事をする→ホテルでディナーをとる)。
◯そもそも文字を持たなかった大和言葉のメタファーは<具象の種の感じ>を聴き取れるようにできている。日本語の擬態語の最大の特徴がここにある。
中国語のメタファーのもつ<具象の種の感じ>は書き言葉の文字を通して感じられる。
つまり、話し言葉の音声で感じ取られるのではない、ということだ。
そこに中国語の擬態語と日本語の擬態語との有りようの著しい違いがある。
◯大和言葉を使った古代人が「明るいこと」と「あらわ、むき出しであること」、あるいは「空、何もないこと」に同じ状態の質を見出していた、というところに日本人に特徴的な<人間的意味の形成>がある。
このことの前提には、日本語の述語主義ということがある。述語主義とは、述語になる内容こそが実体であるという捉え方である。
西欧語や中国語(両者は文法的に似通っている)は主語主義であり、主語になる内容こそが実体であるという捉え方である。
何が本質的な違いかというと、主語になる内容は文脈に依存しない低コンテクストな内容であるのに対して、述語になる内容は文脈に依存する高コンテクストな内容であり、なかんづく発話者がどのように感じたか思ったかということが反映する。日本人は古来、それこそが実体であると捉え、それを伝え合って共感することで実体性がより深まると捉えてきた。日本語に特徴的な「身体感覚をともなった情緒性」を表現する擬態語や身体語を用いた慣用句の多様さと多用が、それを最も象徴的に物語っている。
「あか」という大和言葉が、明の意味と赤の意味をともに担いうる同じ状態を意味していた。
どのような回路を通れば、明と赤に同じ状態の質を見出すことができるのだろうか。
それが和語の造語回路なのだが、私は、身体感覚ないしフェルトセンスとそれに同期する情緒が介在していた、と考える。
それは大和言葉=和語において、身体知あるいは、身体感覚でのみ感じ取り共感することができる暗黙知を体系化する回路として日本人に無意識的かつ意識的に共有されてきた、と考える。
(2)
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につづく