現代に重なる中世という時代とその寺社勢力(4) |
有力寺社のそれぞれの台頭と競合が時代を動かした
著者は、北嶺・延暦寺や祇園社を論じた後、南都・東大寺を論じていく。
「一一六一年に、戒壇院の東の小字、上司の宅地が、僧の印厳から俗人の美和気貞に売られた。(中略)売買契約書には『東大寺印』という公印が九つ押してある。
一一六三年には、こことは別の上司の宅地が僧林俊から平姉子という俗人女性に売り渡された。
水門にあった楞伽院(りょうがいん)は、一一四三年以前から油屋・金融などを営んで莫大な収益を挙げ、東大寺の経済を支えた。
寺院境内は聖地であり、私有地などになりえないはずである。中世ではこれが私的所有の対象となり、俗人の手に流出することもあった。(筆者注:神人・行人と俗人の区別がそもそも自己申告的であり不明快であった。)
律令制下では土地売買の承認は国司・郡司の役割である。中世の東大寺はその立場にある。個人所有を否定すべき東大寺自身が、取引の承認者として証拠の印を据え、登記所の役割をしているわけだ」
「寺院境内に、仏教とは関係ない工場を備えた商店がある。当時としては大工場である。
中世、寺社境内は僧侶を職業とする『僧の家』という家族に相伝されていた。現在の僧侶と同じく世襲である。世襲は別に新しいことではなく、平安時代からずっと続く伝統である。
大仏殿や正倉院・戒壇院などを残して、東大寺の境内と門前は、聖地空間ではなくなり、売買されてそこで日常生活が営まれる世俗空間となった。僧侶というよりは生活者である人々が、俗人と入り交じって暮らしていた」
「南都では、十一世紀の中葉から、宅地の売買契約書が増加する。(筆者注:興福寺も同様。)(中略)
南都はこの頃すでに人家密集地であった。一つの宅地や家を団地やアパートのように分割している場合もある。(中略)
都市化と同時に近隣の家同士の連帯も始った。(中略)一一四六年以前に、東大寺境内・門前の町ブロックからなる『東大寺郷』という都市共同体が成立していた。(中略)鎌倉末期以後、東大寺七郷は、領主である東大寺や大和守護職の興福寺に抵抗する自治組織に転化する」
つまり、寺社の長が境内住民を一方的に支配していた訳ではない状態になっていったのだ。無論、新しく流入する難民は受動的かつ依存的立場にあるだろうが、古参の境内住民の発言権が増していった。
そして著者はこう言い切っている。
「大寺社がすべて都市ということになれば、ギリシャの都市国家のように、平安末期の近畿地方は、南都北嶺ほか、東寺・醍醐寺・石清水八幡宮寺・四天王寺など、無数の都市に満ちた都市社会だということになる」
しかもそれは、政治的、経済的に自立した自由都市というところが重大だ。
いま世の中では大不況時代の到来に、ともすると国に依存する心理が個々人にもそして地方にもある。しかし、体制の制度疲労が新しい時代に対応できなかったり、民衆を救済しきれないのだとしたら、個々人と地方がこぞって自立して新たな成長を目指すことこそが必要な筈だ。
有力寺社が個性的な人材と職能と職能社会を育み、有力寺社同士が競争したりネットワークして協調したりして時代の変化に大きく関わったように、個々人からの動き、地方主権からの動きが求められるに違いない。
私たちは時代の大きな転換点にこそ、日々の目前の出来事に一喜一憂せず、歴史に照らして大きな動きを捉える温故知新の姿勢が必要ではないか。
著者は、南都の次に高野山と根来寺を論じていく。
「(筆者注:信長に石山本願寺を追われ一時高野山に身を寄せた一向宗門主の顕如の日記によると)高野山には全部で七千坊の子院があった。(中略)一坊の居住者を十人とすれば人口七万人、二十人なら十四万人である。(中略)
中世でも『人口』の中に参拝者、及び参拝者もどき、を含めないわけにはいかない。中世の賑わいは言語に絶するものがあったであろう。
一五九三年、俗人の住居は一軒もない高野山山上に『間別銭(まべちせん)』が懸けられた。これは建物または敷地の間口に比例して徴収される都市税で、山村や農村にこのようなものはない。高野山という寺院そのものが都市だったことを端的に示す。
この時は秀吉に降伏してから八年しか経っていないので、まだ中世都市の姿を残している」
「大阪府と和歌山県の境界にある根来寺は、(中略)三方を山に囲まれた天然の要害に加えて、さらに砦や城壁となる土塁を人為的に築造した城郭都市である。(中略)
根来寺境内には、総数約三百の井戸などの生活施設を伴う子院跡が、すきまなく密集している。大門内外すべて、狭い谷筋の最上段に至るまで、階段状に子院の敷地が造成されている。門前にも百五十の子院跡(筆者注:原文のまま)があり、五百以上の子院跡がある。高野山より小さいようだが、ここは平地の街道沿道に位置するから、人口はおそらくずっと多かっただろう」
「発掘調査では、(中略)油屋と推定される埋がめ施設を備えた子院跡が発掘された。ほかにも大人が二・三人中に隠れられる巨大なかめ、それを十個以上並べた遺構が多数ある。油屋・紺屋・酒屋のいずれかである。
また(中略)漆の碗や、武具・鉄砲玉が出土している。根来塗は装飾が少なく、何重にも漆を塗り重ねた堅牢さを特徴とする日用品で、全国的に流通した。(中略)
根来寺境内の家は、ほとんど瓦屋根で仏具も出土しており、明らかに寺院である。
根来寺境内は、その全域が、法体職人が集住する一大工業都市だったのだ」
「宣教師ルイス・フロイスは、根来寺僧について『俗人の兵士の如き服装をなし、絹の着物を着し、富裕である故、剣および短剣には金の飾りを付し、衣服は俗人と異なるところがない。ただし頭髪は背の半ばに達するまで長く延ばして結ぶ』と記す。
俗服で有髪という姿が描かれている。俗人と区別がつかない根来寺僧の姿である」
商工業拠点と金融流通拠点のコンプレックス・シティが経済インフラをおさえた
「金融は経済の重要分野であり、貴族・将軍から下層民まで含む経済活動全体の潤滑油である。寺社勢力がこの事業の最大の担い手であったことの意味は大きい」
「金融活動が活発に行われたのは、東海から九州にかけての西国だが、越後でも日吉神人の金融は行われ、武士が借金をしている」
いつの時代も民間の金融は政府の金融政策と対峙している。中世も例外ではない。
天皇ひきいる公家勢力、幕府ひきいる武家勢力、この二頭政治に決着がついた政治主導権争いの後、武家勢力と寺社勢力との経済主導権争いが展開した。
最終的には信長が武力によって寺社勢力を一掃して、武家勢力の経済主導権を確立する方向に向かう。しかし信長短命のため、商業蔑視・貿易軽視の家康が江戸幕府を開き、その長い支配の中で経済主導権を失ってしまう。
中世、政権の主要な手立ては制度の打ち出しであり、それは金融政策であった。
ここでは、鎌倉幕府、室町幕府による「徳政令」について触れておきたい。
鎌倉時代の徳政令には、貧窮に苦しむ御家人保護の名目が強かった。二頭政治の末期、建武の新政期には後醍醐天皇が徳政令を行っている。
室町時代になると惣の発達により、徳政令を求める土一揆、徳政一揆などが頻発した。また、一揆勢力や在地勢力が独自に行う私徳政なども行われた。これに石山本願寺などの寺社勢力が絡んでくる。これらの一揆は将軍の代替わり期に多く発生し、「代初めの徳政」を要求している。嘉吉の徳政一揆に際しては幕府から正式に徳政令が発布された。
当初は徳政令に慎重だった室町幕府は、1454年の土一揆を機に分一銭徳政令を発布して、債権債務額の1割を手数料として幕府に納めた紛争当事者に当該債権債務の権利を許す命令を出した。これは債務の1割が幕府の収入となったため、後に幕府財政再建のために濫用されることとなった。
貸し手である寺社勢力にとって、徳政令は武士の債権については明らかに武家勢力による対抗であるが、一揆百姓の債権については石山本願寺などいかに捉えたのであろうか。政治対立のように白黒つかないグレーゾーンが経済対立にはつきものだ。
一五〇八年、管領細川高国・大内義興の連立政権が京都を制圧。この時、当時流通していた粗悪銭や偽金の受け取りを人々が拒んでいたことを緩和して通貨供給量を増やす金融政策が打たれた。「撰銭令(えりぜにれい)」である。
著者は、高国・義興はこの金融政策を以下の諸機関に対して発したことに触れている。
それは、当時の貨幣経済拠点、つまりは経済主導権の競合分布を示している。
「①大山崎(自治都市)
②細川高国
③堺(自治都市)
④山門施設
⑤青蓮院
⑥興福寺
⑦比叡山三塔
⑧大内義興」
ちなみに「①〜⑧は高国政権の支持勢力を示す政治地図であり」、非支持勢力は入っていない。
堺に劣らぬ財力をもち、大阪湾に臨む立地を活かし堺の商人とも結んで渡唐船を建造し明国との交易も企てる石山本願寺は入っていない。
②⑧は政権当時者で当然として、
「比叡山関係は④⑤⑦である」
注目されるのは、①②の港湾自治都市である。
もともとは京都山科にあった本拠を石山道場に移した本願寺を例外として、中世経済は、
「港湾物流拠点から起った商工業メガロポリス」と
「生産流通拠点から起った商工業メガロポリス」とがあり
競合そして協調していたことが分かる。
前者は港湾都市において交易系の「貿易経済」に強みをもって、
後者は市場都市において工業系の「祝祭経済」に強みをもって出発し、
やがて両者ともに、最先端の成長商品である鉄砲の製造販売という政商的=投機的な「軍需経済」で競合ないし協調するようになった。
「物資交換の場である市場はどうか」
歴史を遡って振り返ってみよう。
「洛中に設けられた平安京の官設の市は衰頽し、商業の中心は、寺社の縁日で開かれる市に移行した。(中略)市は仮設店舗なので、店舗コストはほぼゼロですむ。(筆者注:鴨河原の仮設店舗群は河川による物流と連携していた筈だ。)
常設店舗は南北朝時代ごろから増えてくる。常不動院の財産目録に出てきた町小路の小物座・腰座などの商店を思い出してほしい」
神仏の権威や教義をめぐっての山門・寺門の間の憎悪は深く、源平合戦さながらの堂衆合戦が繰り返された。しかし、
「十五世紀末に、根来寺・高野山・粉河寺の三ヶ寺の行人が集まって、共同経営の金融業を営んでいた。(中略)
院政時代〜南北朝時代、両寺(筆者注:根来寺と高野山)は血で血を洗う抗争をくり広げた。延暦寺・園城寺と同じである。宗教史的な見地から、この共同経営を説明することは無意味である。(中略)もともと雑務である『行』を行う行人に、宗教の『学』をめぐる対立などありっこないのだ。
この三ヶ寺の行人組織は登録名簿を持ち、成文の規約を持ち、規約に違反した場合メンバーから除くという制裁をも準備する恒常的な金融機関の連合組織を形成していた。(中略)
中世寺社勢力は、宗教で説明するよりも経済体として考えるほうが、ずっと明快に解ける。宗派の違いは無意味だから、三ヶ寺行人は均質の経済人である」
「『寺社勢力』という言葉は曖昧な表現だが、個別寺社の枠を飛び出して活動し、利によって結ぶ行人・聖のありようを表現するには、最も適切な言葉なのだ。
寺僧は複数の寺院に属するにとどまらない。(中略)寺を離れるのはよくあることなのだ。有利ならば幕府とも結ぶ。一二三九年の鎌倉幕府法は、山僧を地頭代官にすることを禁じ、任命した地頭は罷免と定める。ただし叡山を離れた後、永年を経た山僧なら、地頭代に任命しても罪に問わないという但書が付いている。
一味の際における寺僧の結束は強固だが、無縁所の住人は、その性格上、寺への忠誠心や帰属意識は本来強くないのだ。寺院と寺僧の関係は決して緊密なものではなく、永年が経つと縁が切れるのだ」
「寺社勢力」の本質は、こうした「組織人であり非組織人でもある境界人」が「組織の周縁において境界人同士で交流する周縁人」の営みにある。
私は、現代日本の企業社会において、異業種・異業界とのコラボレーションが叫ばれるほどには盛んでなく、むしろ同じ社内の事業部門同士も積極的に協力できないことに警鐘を鳴らしてきた。
家電メーカーの場合、モノ割り縦割りの事業部門個々にレッドオーシャン市場に没入させる愚を繰り返してきた。世界で業界優位のメーカーが資本力にものを言わせて市場を席巻しようとすることは合理的だ。しかし、業界劣位のメーカーまでが「選択と集中」を錦の御旗にモノ割りごとの事業部門の孤立化、相互不干渉そして自己責任を正当化してきたことは愚かだ。明らかにそれは、アップル社や任天堂のようなモノを横ぐししてするブルーオーシャン戦略の放棄であり、本来全体最適を目指すべき経営を危機に陥らせ続けたパラダイムである。
まさにこうした既存パラダイムの転換のために、行人・聖のような「組織人であり非組織人でもある境界人」がキーマンとなり、「組織の周縁において境界人同士で交流する周縁人」として活動することが求められたのである。
そしてその求めは、現下の大不況時代の到来においてさらに増している。
社内の事業部間のキーマン恊働はもちろんのこと、異業種・異業界のキーマン恊働を展開していくしか、事業部門内向きの体制で練られる業界横並びの方策を脱するブルーオーシャン戦略を構想実現することはできない。
これと同じ構図のことが、個々の就労者や地方主権にも言える。
会社や国という既存の組織や体制の枠組みへの個別的適応は誰もが考えるし行いやすい。しかしその方策の選択肢は限定されるから均質化し過当競争に陥るしかない。オンリーワンのヴィジョンを掲げ、それに協調しうるパートナーとの恊働を図っていくことでしか、脱競合の成長軌道に乗ることはできない。
この理屈は明快だが、実行する個々人という主体の思考形式と行動スタイルの変革なくして実現しない。
私は、そこが唯一の課題だと捉えている。
そこさえ乗り越えれば、行人的な思考形式と行動スタイルの者同士が、堰をきったように活発に交流し恊働していけるのだ。
寺社勢力の金融と寺社領の運営は密接に関係している。
寺社領の多くが金融活動の成果として取得されたものだ。
そして寺社領の運営とは、寺社が利回りを稼ぐ金融活動に他ならず、政府の寺社領対策との対立は、すなわち政府の金融政策との直接対決であった。
「高野山領紀伊国神野(こうの)荘の代々の荘官だったある武士は、百姓に対する非法を理由に、高野山によって荘内追放の処罰を受けた。その子の高野山僧性実は、一二六三年、自分は父とは無関係な『住山者』、高野山に住む修行者であるから、他の一般の高野山僧と変らず、離山して神野荘に行って荘民に横やりを入れたりはせず、高野山への年貢をきちんと納入しながら正直に荘官の任務を果たします、と宣言した。もし万一混乱が起るようなことになったら、神野荘に対する先祖相伝の権利を放棄し、神野荘と本当に無関係な、他の住山者に荘官職を譲るとも言っている。
紛争当事者の子であっても、住山者になれば、紛争とは無縁の立場に身を置くことができるという観念が存在したのだ。
『無縁の人』の一つの理想像である」
武士や農民の「家」の世襲と行人の「僧の家」の世襲との大きな違いがここに見て取れる。
前者は血縁による家督の相続を最優先するが、後者はそれ以上に優先すべき公的規範がある。それは聖も共有するアジール由来の、自他の自然権(人間が社会の仕組みにたよることなく本来的に保持している権利)を尊重する理想主義と言ってもいいかも知れない。これを優先する限りにおいて「組織人であり非組織人でもある境界人」としてのプレゼンスを確保できた。
現代日本のメーカーで言えば、「血縁」は、事業部門の縄張り意識や正社員の対非正規差別的な身内意識に置き換えられる。
そして、たとえばソニーのスピリット、パイオニアのスピリットの体現者であることを規範とする社員有志や協力者有志に着目したい。
経営危機では、往々にして創業スピリットを蔑ろにする体制になっていく。しかし、そんな体制に囚われない創造的スピリットを発揮して自由闊達な思考と行動をとろうとする彼らのような有志が、必ず「境界人」「周縁人」として存在するものだ。
彼らこそ、「紛争当事者の子であっても、住山者になれば、紛争とは無縁の立場に身を置くことができる」、象徴的に言えば坂本龍馬のようなパラダイム転換型の人材たちに他ならない。
前出の神野荘の件では、代官武士の息子の高野山僧の申請は受け入れられなかった。
「これ以後神野荘では、不特定の寺僧が荘官に任命されている。本当に武士は一掃され無縁化が実現されたのだ。
ともあれ、こういう中立の立場の表明は時代を越えてよく理解できる。似たような主張は現在でもよく耳にするからだ。無縁の立場に立って、平和領域を作ろうとするわけだ」
神野荘の件における「武威で他者を従わせる武士」とは、現代の企業社会では何に相当するのだろうか。
私は、社内の「ポリティクス強者」「派閥の領袖」ではないかと思う。
縄張りのボスとしてパワーポリティクスで他者を従わせる経営幹部である。
マーケティング&マネジメントについて戦略的なヴィジョンも構想も持ち合わせず、ただただこれまでのパワーポリティクスの延長上の優位を維持して、多くのつき従う配下をもつ実力者だ。典型的には、業績優位の事業部門のトップだったり、その地位に過去の営業成績によっておさまった者だ。
彼らは保身と捕らぬ狸の金勘定しかできないし、それしかしようとない。
経営危機に際してもただただ人数人件費減らしのリストラを繰り返し、「選択と集中」と称して各事業部門を分断孤立化し、今のところ社内業績優位の出身事業部門に経営資源を偏重させる。そんな内向き後ろ向きな経営では、「モノ割り縦割りのレッドオーシャン市場」の深みにただただ嵌って行くだけなのは自明であるのにだ。
けっきょく、こうした偏ったしがらみと思惑に囚われない経営者がいなければ、経営危機も大不況時代も乗り越えられる筈がない。
「内向き後ろ向きなしがらみと思惑に囚われない企業人」
それこそが現代の企業社会がその真のサバイバルのために不可欠の「無縁の人」なのだと思う。
以上、全体社会の経済に大きく影響する金融活動の検討をした。
同様の貿易活動については次項(4)で検討したい。