ジェームズ・ヤング著「アイデアのつくり方」を再読する(3) |
アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせに過ぎない、だからこそ
著者は、
「どんな技術を習得する場合にも、学ぶべき大切なことはまず第一に原理であり第二に方法である。これはアイデアを作りだす技術についても同じことである」
として、まず原理について述べていく。
「アイデア作成の基礎となる一般的原理については大切なことが二つある」として、
一つは、
「アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもない」
ということ、
いま一つは、
「既存の要素の新しい一つの組み合わせに導く才能は、事物の関連性をみつけ出す才能に依存するところが大きい」
ということとする。
以上のことは、発想思考に関心をもつ人々にとってもはや常識に属する定説である。
そして、あ、それなら私も同じ原理を発想に一貫させているという人は多い。
しかし、だからこそ、私は自分なりの原理の展開をメタ思考することの重要性を指摘したい。
「コンセプト思考術」は、言葉使いの概念要素が<コトの意味><コトの感覚><モノの感覚><モノの機能>の4つあることを土台としている。
世の中のほとんどの専門知識は、「既存の要素の新しい一つの組み合わせ」が同じ概念要素同士の組み合わせで展開している。哲学者は<コトの意味>同士の、俳人は<コトの感覚>同士の、デザイナーは<モノの感覚>同士の、科学技術者は<モノの機能>同士の組み合わせを展開している。そのことが専門家の証であると自負する人たちも多い。無論、そうした専門の世界にも、「理想」の追求があり「新型の目的」づくりがある。
しかし、グレートアマチュアリズムを社会的に役立てることを理想とする立場からは、そうした同じ概念要素同士の組み合わせだけでは、受け手側の生活者が生活という文脈において理解して求める「理想」なり「新型の目的」とはなり得ないことを指摘しなくてはならない。
「専門知識」は専門家の専門用語によって考えられ理解されるが、「生活知識」は生活者の日常用語によって考えられ理解される。
そして「生活知識」の大きな枠組みは、4概念要素の全てで紡がれる物語である。
ここで、
「専門知識」が歴史時代を通じて4概念要素のそれぞれの中でつねに分化緻密化している動向と、それが理系にしろ文系美系にしろ送り手側の主に頭による思考の成果であることに留意すべきである。
「生活知識」が先史時代においてたとえば宗教と芸術と技術が一体であったように、4概念要素が渾然一体であった由来と、それが自然や神を送り手として対応する受け手側人間の心身の認知表現の成果であることに留意すべきである。
つまり、
前者は「社会人的な心性」の「心理過程」が「思考過程」に展開した成果(意識の感情起点)であり、
後者は「部族人的な心性」の「心理過程」が「思考過程」に展開した成果(無意識の情動起点)である。
たとえば、化粧品メーカーがつくる口紅は、
送り手側の商品づくりとしては多様な「専門知識」の統合的産物であるが、
受け手側の生活づくりとしては多様な「生活知識」の統合的産物である。
企業のマーケティング&マネジメントの知識創造とはさらに両者を調和的統合するものである。
こうした地平において、同じ概念要素同士の組み合わせしか射程に入れない「専門知識」へのこだわりは、どうみても知識創造活動を限界づける。
それでももし経営が「世の中の物事はすべて『専門知識』によって解決する」と無自覚的に捉えていれば企業の組織と制度は機械論化し、就労者は機械の部品化することは間違いない。
本書「アイデアのつくり方」が名著であるのは、言葉使いの4概念要素を組み合わせることで物語が語られる、という現実を常に念頭においていることである。
だから、たとえば<モノの機能>一本槍の科学者や技術者に、自分も同じ原理にのっとって発想していると言われても著者は訝しがる筈なのだ。
その証拠に著者はこんなことも述べている。
「広告と精神病理学との関連性からもこの事情についての一つの例証を引き出すことができそうである。
この二つ-----広告と精神病理学-----の間には一見、何の関連性もない!と考えたければ考えられないことはない。しかし精神病理学者は言葉-----情動的経験のシンボルとしての言葉-----が患者の生涯に及ぼす深い影響を発見している。
ハロルド・ラスウェル博士によってなされたこの言語=シンボルの研究を政治活動の分野に適用して、この言語シンボルがいかに同じような情動的威力をもってプロパガンダに活用されているかを証明した」
この博士は、主要な概念要素の<政治的・外交的再構成>が、いかに心理学的威力をもつ形で人々に対して表現されているかを研究した。
一方著者は、人々自身がある心理学的傾向のもとに主要な概念要素を<政治的・外交的再構成>して物事を認知したりアイデアをつくるとしている。
「事物の関連性をすばやく見つけ出す人々の心には、このシンボルとしての言葉の使用に関して広告に役立つ幾つかのアイデアが生まれてくる。
例えば、見出しの中のたった一つの言葉を変更することによって、その広告の反響を五十パーセントも変えてしまうことがありうるのもこういう理由によるのではないか。
言葉を修辞の一部として研究するよりも情動的シンボルとして研究する方が一層良い広告教育をもたらすのではなかろうか」
著者のこの提唱は、「広告」を「商品開発」に換えてもそのまま成り立つ。
まさに「コンセプト思考術」は著者と同じ論拠から、無意識が浮かばせる発想の断片や直観がもたらす洞察の切り口を思考フォーマットでメタ思考することによって、「事物の関連性をすばやく見つけ出す」ノウハウに他ならない。
話し言葉の4概念要素として「情動的シンボルとしての言葉」を価値形成的な物語を紡ぎ出す形で抽出するのが、そのノウハウの骨子である。
「いうまでもないが、この種の関連性が見つけられると、そこから一つの総合的原理をひきだすことができるというのがここでの問題の要点なのである。
この総合的原理はそれが把握されると、新しい適用、新しい組み合わせの鍵を暗示する。そしてその成果が一つのアイデアとなるわけである」
「コンセプト思考術」の思考フォーマットは、<送り手側のモノ提供の論理>から<受け手側のコト実現の論理>へのパラダイム転換のルール、つまりは日本の1980年代を中心に現象したシンボリックな物語転換のさまざまな観察事項(*)から帰納法で抽出した「一つの総合的原理」に他ならない。
私たちは、発想の断片や洞察の切り口を、以上の構造をした思考フォーマットに文法的位置づけに従って記入し、未記入の位置にあるべき概念要素を推量することで、パラダイム転換物語の可能的に最善な全体像を構築していくことができる。
それはともすると、
「ああ私たちの集合的無意識は、そういうパラダイム転換の全体を求めていて、そのためにそういう発想の断片や洞察の切り口を思いついたのか」
と自らを納得させ、それを簡明に伝えれば他者もアハ体験的に共感してくれる物語となる。
ちなみにこうした思考は、日本人には大喜利の「・・・とかけて・・・ととくその心は・・・」や俳句や川柳、花札で猪と鹿と蝶のセットを決まりとするような共時的な感覚、などなどで古来慣れ親しんできている。現代でもいろいろな「生活知識」に反映していて、世界的な人気が定着した日本食やジャパンアニメ、秋葉原系アキバ文化や渋谷系東京カワイイファッションも、この種の高度化した「生活知識」への「専門知識」の対応の歴史の成果と言える。
このようなことは、総じて日本語と日本文化の「鍵と鍵穴」の関係の特徴による。
特に身体語と擬態語と尊敬語を多用する日本語は、内蔵感覚や身体知や暗黙知を重視する。特に場依存的な日本文化は、人間と自然との関係や人間同士の関係が重大に介在する状況についての、ポリクロニック(多様な営みの同時複合的展開を特徴とする)な認知表現に集中する傾向がある。これが日本の言語と文化の「鍵と鍵穴」の関係を特徴づけている。
「事実と事実の間の関連性を探ろうとする心の習性がアイデア作成には最も大切なものとなるのである。
ところで、この心の習性は錬磨することが可能であるということは疑いのないところである」
とする著者は、1960年代の新進気鋭のアメリカの社会学著作を学ぶことを薦めている。
私は同じ理由から、本ブログにて現代の社会構成主義や、ナラティブ・アプローチやプロセス指向の心理療法の著作を紹介し、「パラダイム転換物語」の構造を解説してきた。
しかし、日本人である私は日本人である対象に対して、そもそも古来より現代まで高度に培われてきた日本語と日本文化の「鍵と鍵穴」の関係を土台として、日本語で物事を考える者なら誰もが誰に習うわけでもなく自然体でやっている「間の推量フレームワーク」、これを自覚的に活用することを提唱してきた。
この「間の推量フレームワーク」は、個人レベルでもあり、対話する集団レベルでもあるが、例えば秋葉原や歌舞伎町といった世界的人気の街が大衆レベルでその媒体となっているように、知識創造する組織レベルでも応用可能なのである。
著者は、「事物と事物の関連性を見出す心の習性」の錬磨を提唱する。
これは、「アナロジーによる推量」あるいは「メトニミー(換喩)による推量」の認知表現の習性の提唱に他ならない。
因果律にのっとった<知>起点の発想思考を自然体で重視してきた欧米人は、これを習得するには「心の習性」として練習しなければならない。
しかし、因果律と共時性の働きを調和的に統合する縁起にのっとった<情>起点の発想思考を自然体で重視してきた日本人は、すでにその「心の習性」はもっているのである。
大切なのは、欧米的な論理や感性によって自らの資質の特徴について無自覚的になっている現状を反省して自覚的に活用できるようにすることなのだ。
英語が世界共通語となっている。
だから猫も杓子も英語が話せるようにならねばならないと考えるようになっている。
しかし私は、もし日本人としての資質を活用して世界の人々からユニークと認められる発想思考をしていくためには、日本語と日本文化の「鍵と鍵穴」の関係の特徴を踏まえた、「日本型の集団独創」をする言わば「開発言語」として日本語を自覚的かつシンボル形成的に活用すべきと考えるが、みなさんはいかがだろうか。
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