「交易する人間」の無意識的な求めとその現れ(2) |
(1)
http://cds190.exblog.jp/8515989/
からのつづき。
本項(2)では、本書第二章「交易の構造」について検討していく。
著者はこれまで社会生活のあり方を相互行為の関係として見てきた。本章では、
「相互行為はなんらかのタイプの『交換』であり、社会関係とは交換の集合である」
と定義するレヴィストロースの「交換一元論」に対抗する論陣をはっていく。
そして、「交換」ではとらえられない「贈与」の相互行為がありその集合による社会関係がある、とする。
バブル崩壊後の空白の10年、平成不況の就職氷河期あたりから、世間では「仕事」について意義や目的、理想的な有り方を論じる意欲的な著作がたくさん登場してきた。
本書でも「労働」について次章「交易としての労働」で論じているが、要は、仕事を単なる「交換」にしようとする、ビジネスを単なる「交換」の集合にしようとする社会動向が顕著化したことに対抗している。
この社会動向は、明らかに利益を中心とする相互行為(『社会』ターム)を偏重する傾向の拡大、相互扶助を中心とする相互行為(『ソシアル』ターム)を重視する傾向の縮小と重なっている。
ただここで注意しなければならないのは、この両者の相互行為どちらにも、「交換」があり「贈与」があることである。
ギブ・アンド・テイクは、利益を中心とする相互行為にも相互扶助を中心とする相互行為にもありえる。
「贈与」はタンジュンに考えれば「返礼を期待しない」のであるから、ギブ・アンド・テイクではないようだが、「交換」で期待されるような返礼を期待しないのであって、何のリアクションも期待しない訳ではないことは、追って著者の論述で触れる。ここには微妙な問題があって、「贈与」の交換ということについても著者は慎重に議論している。
私がこれまで実務経験において「仕事」に関して直観的に思ってきたことは、
「贈与」そして「贈与としての仕事」には、精神的ななにか文化的ななにかを至上とする価値観があり相互行為の一挙手一投足に反映していることである。
そして、相互行為の結果だけでなく経過にこそ価値が見出され、その経過はけっして画一化、合理化、機械化を許さない主体の実存にかかわる、ということである。
ライフワークとか、天命とか、働きがいとか、
何をするか分からないがこの仲間で仕事がしたいといった話題とかは、
結局「贈与としての仕事」その相互行為についての物語だと思う。
「交換」を語るのは因果論(原因A→結果B)で済むが、
「贈与」を語るには目的志向論が必要である。
後者では、
「自分がいま、ここで、たまたま集った他者とこういう機会に遭遇している」共時性(Aがある時Bもある=自分がいる時、他者もいる)と、
そうした「縁起にのっとって何かを選びとることで自己表現したり自己開示する」偶有性(AでもBでもCでもよいがAである)にのっとることになる。
ちなみに「コンセプト思考術」http://cds190.exblog.jp/i12/2/では、
交換一元論を前提とする社会観を
総じて<送り手側のモノ提供の論理>と捉え、
それに対応するライフスタイルを<人種→暮らし種→地域種>、
それに対応するマーケティングを<品種→業種→店種>
として日常会話の言葉で解説している。
一方、
贈与をも前提とする社会観を
総じて<受け手側のコト実現の論理>と捉え、
それに対応するライフスタイルを<人となり→暮らし態→地域態>、
それに対応するマーケティングを<品態→業態→店態>
として専門用語を使わずに解説している。
以上の二項対立からなる思考フォーマットは、15年前にクルマの開発子会社の人材育成プロジェクトに参画した際、私がコンセプトワークの極意のようなものを等身大の生活感や仕事感や人生観の対話内容で検討できるように明示知化したものである。
しかし本書を読んで、それがどういう訳か、著者の「交易する人間」についての社会哲学的な論旨にそっていることを発見した。
特に、
自己を商品として捉える<人種>に対して
「何かをさずかった者」として捉える<人となり>の考えは、
追って触れる「負い目感情」の考え、その有無と重なっている。
著者は、この無意識的な「負い目感情」が「贈与」の動機になっているとするのだが、それは明らかに<受け手側のコト実現の論理>を配慮する人々の「情緒的雰囲気をともなう『心性と態度』」のベースである。
たとえば、私たちは生活者あるいは消費者として、
同じ顧客志向でも、
「送り手側の画一的な量的効率論の枠内の顧客志向」と、
それを度外視した「多種多様な受け手側の質的効率論にそう顧客志向」とを
皮膚感覚で峻別できる。
あるデパートに買いに行って無かった商品を「他のデパートならあるだろう」と教えてくれる店員についてのアメリカの接客逸話は有名だが、それは明らかに後者である。店員は「我がデパートに来て下さったのにお客様のお探しの商品が無かった」という「負い目」を生じ、「他のデパートならあるだろう」と教えられたお客様は「そこまでしてくれた」とデパートに「負い目」を生じる。かかる相互行為がデパートと顧客の相互関係を高次元化する。
しかし、「空白の◯◯年」を境に企業社会で増殖してしまった機械論化した組織では、機械部品化した人材がパーツとしての偏狭な縄張り意識や分担意識とそれを前提とした保身から、自分たちだけで完結する慣れ親しんだやり方だけですべてをこなそうとする。
そこには「送り手側の画一的な量的効率論」が色濃くあって、顧客志向はその枠組みで許される範囲に限られる。
そんな送り手側の手前勝手な顧客志向を受け手側の顧客は一瞬にして感じとってしまう。
人間の五感、皮膚感覚、身体感覚などを総動員している直感というものは、私たちが想像している以上に鋭敏である。
商品やサービスに反映してしまう微妙な送り手側の「情緒的雰囲気をともなう『心性と態度』」など即座に感じ取られてしまうのだ。
それはつまるところ、人類が古から繰り返し働かせてきた「交換」なのか「贈与」なのかを一瞬で判別する直感のなせる技である。
「交換一元主義」に対抗する「贈与」の相互行為を重視する「社会」観
「彼(筆者注:レヴィ・ストロース)の場合、社会的行為は例外なく交換的行為であり、交換される物は『女性』であり(親族の形成)、『財』であり(経済の形成)、『記号あるいは象徴』である(文化の形成)。
アルカイックな社会ではそれらの交換物は同時的に移動するが、他の社会類型ではそれぞれが自立的に運動する」
著者は、こうした交換一元論に疑問を呈しては贈与論を展開していく。
「交換一元論は、もっぱら人と人との関係だけ注目しているにすぎない。
相互行為はけっして人間と人間の関係だけに還元されるのではない。たとえば人間は、神々とも相互行為をおこなうし、この種の相互行為は歴史的現象としては圧倒的に多いのである。
記号やシンボルの交換はたしかに人間と人間(個人であれ集団であれ)の間で起きる。しかし人間は記号とシンボルだけで生きるのではなくて、神々や自然との相互行為を想像的に生き抜いてきたし、いまもなおそうしている。この論点は決定的に重要である」
「人間と自然の関係もまた独自の相互行為ではないだろうか。(中略)
人間はなんらかの仕方で(しばしば想像的に)自然と対話してきたし、近代の理性主義時代になってもまだ、人間はどこかで擬人法的な仕方で対話している。
交換主義は、こうした人間と自然の相互行為を排除してしまう。ここで言っているのは自然についての神話的表象のことではない。
人間と自然との相互行為は、普通は労働ないし生産という名前をもっている。この労働や生産の行為が、単に自然から材料を採取して、それを技術的に加工するだけを言っているのでもない。人間は自然を交渉相手として待遇して生きている。(中略)
人間は自然と関係するとき、肉体を動かすだけではなく、呪術・宗教・『理論的』表象のなかで観念的に交流し交通しながら、その観念的表象に合わせて自然から材料を切り取り(『略奪』『搾取』とも言えるが)、切り取られた材料を、一つの空間から他方の空間に移動させるし、特定の時間から他の時間へと移動させながら、一方では材料の観念のなかで加工し、他方では物質的・身体的な行動のなかで変形する。
人間が生産し労働することも、十全なる権利をもって、交易とみなすことができる」
私はこの夏、家のペンキの塗り替えを予定していたのを中止した。
太いハゼの木の葉のおいしげった枝が屋根にかかっていて、それをペンキ屋さんが切ろうとしたのをたまたま居合わせた植木屋さんがかぶれるからやめろと制したのだった。木に勢いがなくなる秋以降にするのがよいと教えてくれた。
その際、植木屋の老人から、この辺り(伊豆東海岸)では、ハゼの木を切る時には木と盃を交えて許し乞うものじゃよと教わった。
私は一瞬庭先で、自分がフィールドワークをしている民俗学者になったような気持ちになった。今でもそんなことをやっているのか!と感慨を深めた次第だ。
ハゼの木と盃を交わすことに科学的な合理性はない。
しかしだからと言って役に立たない迷信という訳ではない。
そこには表象と行為をつなぐ関係性という意味があり、それが儀礼を成立させている。こうした儀礼の連鎖が、表象を体系立てて行為を秩序立てて、「混成態」としての「全体的社会的事実」が立ち現れている。
「労働をさえ交易のなかに組み込むならば、その他の社会的行為はすべて交易とみなせる。(中略)
贈与行為のなかに潜在していて、そしてわれわれの社会において相対的に自立して顕在化する相互行為を一つ一つ取り上げてみよう。
第一に、威信と器量(マキャヴェリ的意味でのヴィルトゥ)と権力をめぐる相互の競り合いと競争がある。
それは、あるときは相手に負債(精神的と物質的)を負わせ、あるときはそれを通じて優位と劣位の序列を作りだし、ついには支配と従属の関係を制作する。これはふつう政治とよばれるが、そうだとすれば政治はまさに交易そのものである。(中略)
第二に、法/権利の理念がある。
精神的な権利/法の観念と一緒に、物質的な物が人間と人間の間を、さらに人間と神々の間を移転するだろう。
第三に、言語的交渉がある。
言葉をもって意志疎通することは対話的相互行為であり、そこでは意志・意図・言語記号・物的象徴が人間の間を流通する。
その他にも、あれやこれやと細かい行為があるが、仔細に分析するなら、すべては交易であると言っても言い過ぎではない」
「交易行動のなかには、いくつかの構成契機が関与している。人間たちが同じ人間と交渉したり、人間でない他の存在と交渉するときには、交渉する意図と意志があるのだから、それぞれの交易的行動は意志や意図を、そこから生じる想念や表象を前提する。想念や表象は対象をもっているし、対象をもつことのなかにはすでに、対象についての理解と解釈を与えられている。
さらに理解や解釈には種々の情緒・感情がしばしばともなう」
「ここで重視したい事実は、交易という相互行為においては、事物のやりとりだけでなく、感情や観念のやりとりもあるということである。
例として労働を取り上げよう。物質的労働は必ず観念的理解をともなうからである。(中略)
自然と人間が交易する(筆者注=労働)ためには、自然が交易の相手であること、人間と同格の当事者であることが必要である。そのとき、人間は自然の人間と同格の当事者『として』解釈し、その理解のもとでそれにかかわらなくてはならない(筆者注:まさに植木屋の老人のハゼの木伐採話)。
相互行為の当事者として解釈され、そのような存在者について言語をもって語られつつ理解される自然は、もはや物的自然ではなく、人間と同様の『人格』をもつ存在として待遇されるだろう。
そうしてはじめて自然と人間の間で交易が生まれる。
人間は、自然にむかって話しかけ、自分の意志と意図を伝達し、ときには懇願し、ときには脅迫する。
自然はそれに対して反応し、恵みを与えたり、害悪を与えたりするのだと人間の側から解釈されるし、またそのように受けとめられる。この場合は、精神的なものの相互移転、想像的な想念のやりとりがある。
他方で、人間の側からは、自然の意志と意図をおしはかるために、供物あるいは供犠が提供され、あるいは伝統的に固定された呪文(祈りの『公式』)が義務として差し出されるが、自然の側からも特定の返礼がなされるとみなされる。
たとえば、森の狩りにおいて獲物が得られたとすれば(中略)、それは人間の労働によるのではなく、自然が提供してくれた物である。このケースでは自然と人間の間では事物のやりとりが起きている。
このように自然と人間の間では、同時に(同じときに、同じ場所で)、精神的なもの(想像的なもの)と事物の二重の場所移転、すなわち交易が成り立つ」
ここで、アルカイックな社会では、人間と自然の相互行為の有り方を人間の全体がそういうものとして受容していたことが重大である。
なぜなら、個別具体的に多様な人間同士の相互行為をどう捉えるかにおいて、人間の全体が一致して受容していた人間と自然の相互行為の有り方に照らし合わせた、と考えられるからだ。
そうした自然と人間の相互行為への照らし合わせの<部族人的な心性>は、日本人の<社会人的な心性>には馴染み深い。
たとえば、「お天道様に顔向けできない」という慣用句がある。その内容は、お天道様が偉いとか神(太陽神)であるとかいった抽象的な観念を含まない。むしろ太陽が普く照らす様が公明正大な感覚や感情に重なるという子供でも分かる具体的な類似性を想起させる。「お天道様に顔向けできない」ことをすれば罰が当たるという、身体を萎縮させるような情動の暗示も含んでもいることも合わせて、アルカイックな社会の類感呪術に由来すると考えられる。
アルカイックな社会では、精神的なもの(想像的なもの)とは、祈りや呪いであり、その場所移転とは呪術に他ならない。
一方、現代社会でも事物は事物であり、事物の場所移転は事物の場所移転であり、そこは変わりない。
そして、
アルカイックな社会から現代社会まで、
支配と従属という「権力」絡みの相互行為は事物の場所移転であり、その原理は「力学」と言える。
一方、
某かの理想や献身などの「権威」絡みの相互行為は精神的なもの(想像的なもの)の場所移転であり、その原理は言わば「化学反応」と言える。
もちろん、両者は越境し合い「混成態」をなすのではあるが原理は峻別される。
「権力」は、あくまで人間同士の相互行為において人間が人間を「力」で従わせるものである。
一方、
「権威」は、根源的には神と人間の相互行為において人間が自らの「想い」で崇めるものである。
もちろん、両者は越境し合い「混成態」をなすのではあるが原理は峻別される。
何が言いたいかというと、
精神的なもの(想像的なもの)は、原理的には「力学」ではなくて「化学反応」であり、
その場所移転とは、「化学反応」の転移や連鎖である
ということである。
タンジュンな話、人間は一度知ったり分かったことは知らなくなったり分からなくなることができない(忘れることはできるが)。そして、あることを知らなかったり分からなかった人間同士の相互行為は、それを知ったり分かった人間同士の相互行為とは当然異なり、前者から後者に移行したならば二度と元には戻れない、
という当たり前のことである。
しかし、このことが「支配的な物語」に対して「もう一つも物語」が育まれることで、権力とその支配服従の「力学」を正当化してきた「支配的な物語」を解消するという「化学反応」が、原初より人類の営みとしてあったことを物語っている。
とてもシンプルで分かりやすい例を上げよう。
それはアフリカの未開部族が、セスナ機が着陸し飛び立つのを見て驚愕し、セスナ機を模した構造物をつくった崇めるようになってしまった、という実際にあった出来事である。
彼らはそれまで先祖代々崇めてきたトーテムを放棄してしまった。
古代の日本で支配階層が仏教を導入し金色の仏像や大仏をつくった。それをみて圧倒された庶民は仏様を崇めた訳だが、それはセスナを見た未開部族と同じ精神的なもの(想像的なもの)の「化学反応」だった。
そうした大衆の精神的なもの(想像的なもの)の「化学反応」は未開部族や古代人に限らない。
指導者の巨像や指導者の面前で披露されるマスゲームに圧倒される現代の大衆にもある。
ちなみに私は、個々が単独でする発想思考にはほとんど興味がない。特に、どこの国の何人がやっても同じような経過をふみ同じような結論をみちびく、低コンテクストな数学や科学の発想思考にはまったく興味がない。
私が興味があるのは、ある民族ならでは民族性に裏打ちされた、ある国民ならではの国民性に裏打ちされた高コンテクストな発想思考である。
特に日本人の集団独創といった、日本人ならではの、日本の生活文化を踏まえて日本語でする発想思考に興味がある。
それはたとえ机の前で単独でやっても、心身で展開している<知><情><意>の「混成態」としては大なり小なり日本民族の相互行為と言える。自問自答か集団対話かという違いはあっても集団独創と発想思考の回路が重なっている。
さらに、私は特に「パラダイム転換」とその促進方法論というテーマにフォーカスし、「日本型のパラダイム転換」というものがある筈だと考えてきた。
そのポイントが、「支配的な物語」を解消する精神的なもの(想像的なもの)の「化学反応」、ということであった。
それは著者の言う、精神的なもの(想像的なもの)の場所移転、でもある。
旧来のパラダイム(考え方の基本的な枠組み)が新規のパラダイムに変わることで、同じ事物でも位置づけが変わってしまう。たとえば上だったものが下になったり、上下だったものが横並びになったりして、「権力」が発揮したり自己を正当化していた「力学」が働かなくなる。
「力学」に対して「力学」で対抗する、それが人類の歴史において繰り返されてきた。
一方で、「力学」に対して「化学反応」がそれを働かなくさせる、そういう「パラダイム転換」も人類の歴史において繰り返されてきた。
ただ両者が不可分に「混成態」をなしていて明示知である事物の「力学」に目を奪われてしまい、暗黙知ないし身体知である精神的なもの(想像的なもの)の「化学反応」が十分に注視され重視されてこなかった。
すべての交易に働く「負い目感情」そして人間の実存
「自然の人格化は、自然を人間と対等とすることではない。自然の人格的存在は、人間以上の人格としてみなされる。自然の人格は、人間よりも『大きい』人格であり、ひいては超人間的な人格とみなされる。そうであるからこそ自然は人間たちに対して、人間にはどうにもならない『恵み』や厄介を『与える』ことができる。
その恵みのなかでもっとも決定的な恵みは、人間が現世のなかに存在していることである。
自然は、たとえば森での狩猟に見られるように、獲物を贈与してくれるばかりではない。それ以前に、労働以前に、人間の存在(生存の意味での)を与えてくれると、人間たちは感じる。このような事態を存在の贈与と呼ぶならば、生命的存在の自然からの贈与に対して人間は、負い目の感情をいだく。
負い目の感情があるかぎりは、人間はこの負い目にみあうような何かでもって負い目を解消するべく努力するであろう」
「この負い目感情は事物の側にずらされて、神々への供物あるいは動物供犠の形式をまとうだろう。どのような形式をまとっても、負い目感情は人間と自然(神々)との相互行為のなかで、顕在的であれ潜在的であれ、原動力として働いている。そのなかで想念と事物がやりとりされるのだから、これはまぎれもない交易である。
交易にとって負い目感情は欠かせない契機である」
「負い目感情は、人間の実存の基礎的要素である。この負い目感情は、あらゆる相互行為または交易のなかに繰り込まれている。神々にむけての宗教的・儀式的な供犠や供物のなかだけでなく、あらゆる事物のやりとりとしての交換や取引のなかにも負い目感情は働いている。
制度としての贈与行為や経済的交換や取引よりも前(『前』とは人間の現世的存在の事態から見ての『すべての前に』であるが)、しかも想像的な表象を作る以前にすら、感情のなかで、不可視の存在者との相互行為が負い目の供与および負い目の返しという形をとって、相互行為すなわち交易がなされているのである。
合理的精神からみていかにも不合理にみえる人間の種々の行為が人間世界のなかに存在してきたし、いまも存在しているのは、人間が生きていることの根源的なところに負い目感情があるからである」
私が思うに、
「贈与」が神と人間との相互行為に由来して自立的に完結するように、人間同士の「贈与」の相互行為も自立的に完結する。負い目感情を動機として発生しその相殺によって完結する。
これに対して、「交換」はそもそも人間同士の相互行為である。「交換」の集中する場は「市」という互いの縄張りから離れた「無縁の場」でなくてはならず、その場を取り仕切るものとして神が想定される。それは、「贈与」の似絵である「交換」をすること自体に、神に対する負い目感情があるためかも知れない。
「交換」の原初形は、
部族Aがその神Aがくれたものを手放してその神Aがくれないものを部族Bから受け取る、それは部族Bがその神Bからもらったものである
部族Bがその神Bがくれたものを手放してその神Bがくれないものを部族Aから受け取る、それは部族Aがその神Aからもらったものである
というものだ。
つまり「交換」の原初形の前提には、神と人間との相互行為の「贈与」があり、部族の人間と部族の神の相互行為が発生させる負い目感情よりもより複雑で濃縮された負い目感情が介在していると考えて自然である。
私たちは負い目感情というとピンと来ないが、「交換」の集中する場である「市」にそのハレがましさとは裏腹にお祓いが必要になるケガレを感じる。ケガレは、相殺によって払拭されない負い目感情の残滓と言えよう。
株式市場の年始の大発会に、証券会社のOLたちが晴れ着姿で居並らび一堂に会した全員で三本締めする儀礼が現代でもあるのは、日本人の集合的無意識に「交換」の集中について負い目感情がありそれを祓う必要からである。
武力戦争や権力闘争も非日常的な「交換」の集中である。そしてそれを制した者は、天なり神なりから日常的に統べる権利を「贈与」されなくてはならない。
人間同士の決め事なのに、誰もがそれを受け入れるためには最終的に人間を超越した存在によって担保されなくてはならない。
その点は、易姓革命の概念も王権神授説も、三種の神器の継承による天皇即位の儀も共通している。特定の人間が神に代わって人間を支配することへの神に対する負い目感情の普遍性を示している。
尊厳ある存在の客観的証明となる闘争とその神話化による「パラダイム転換」
ここで著者は、時に不条理とも言えるけっして合理的ではない現実を捉える社会哲学的論を展開する。
それは私のような、個人や集団や組織の人間関係や人間の相互行為のあり方が集団独創を活性化したり限界づけることについて実践的研究をしている者にはとても示唆深い。
「交易のなかで人間たちは奇妙な欲望をいだく。
人は他人と出会うとき、他人と競り合い、駆け引きをするのだが、その競り合いのなかで人間は自分の価値(自己尊敬、尊厳、その他)を他人によって認めさせようと欲望する。
自分の身体的存在だけでなく、自分がもっている地位と所有物を含めて、自分の価値を他人によって肯定的に是認されたいと欲望するのである。
人は主観的には自分が『何ものか』であると確信している、つまり自分のなかに他人にはない重要な何かをもっていると主観的に確信しているのだが、それで満足しないで、他人(一人だけでなく、複数の、ひいてはすべての他人)によって『内的な』自己確信を客観化しないでは満足できない。
これを社会的欲望と呼ぶことができる。
社会的欲望は、純粋に観念的な欲望である。嫉妬やねたみの感情の裏側にうごめくのはこうした他人に向かう欲望であり、そうした感情に引き回される人は、他人の視線をこちらにひきつけたいと激烈なまでに願望している。
その欲望の要点は自分を他人の欲望の対象にしたいと欲望することであり、つまりは欲望の交易である。
それは観念の観念に対する欲望であり、欲望が別の欲望を欲望することである。他人との関係で原初的にうごめくのは、他人との相互行為を駆動する観念的な欲望である。
一方の人が他人による自己への評価を求めて相手と相互交渉に入るなら、他方の人も同じ欲望をもって相互交渉にはいる。両者は双子的分身のように同じ行動をする。その内的な心情を分解してみると、二人とも、自分の価値を他方よりも高いもの、優越しているものとして他者に承認させたいと思うのであるから、自分の価値は他方の価値よりも高くなくてはならず、他者の価値は自分よりも低いものでなくてはならない。
二人は同じ行動を取るのであるから、けっして同等性をもとめず、あくまで不平等と格差を要求する」
こうした競り合いが暴力的闘争になることは、日常的な生活圏では非日常に属するが、歴史の長い射程ではむしろそれが常態であったと言える。
「戦士階級を率いる君主ないし領主はつねに征服戦争を継続することがいわば彼らの『職業』(あるいは使命)であり、君主や領主は征服戦争をしないと下臣の戦士から打倒される宿命にある」
たとえば、信長が構想し、秀吉がその遺志を継いだとされる「唐攻め」「朝鮮出兵」、その背景にもそうした自らが支配した者たちについての理解や危惧があったのだろう。
「古代ギリシアやローマに見られるように都市国家のメンバーが自由人であり戦士でもある国家は、つねに植民地戦争を継続し、共同体とそのメンバーが自由人にして主人であることを、自分にも他者にも承認させるために、他の共同体のメンバーを戦争によって征服し、捕虜を奴隷にする。奴隷は勝者の共同体とそのメンバーのために労働することを強制される。こうしたことは、古代以前にも無数にあり、中世や近世において、そして近代や現代においても、際限なく繰り返されてきた」
信長の短命なかりせば、そして対外的に近畿に都市国家的中枢を構えて貿易立国を樹立していたならば、やはりベニスとジェノバが覇を競ったような戦争に向かったに違いない。
しかしそれは秀吉が朝鮮と中国を相手にしたような国家間の全面戦争ではなくて、マニラの日本人町とか長崎のポルトガル進出地とか後のイギリスの香港割譲のような貿易要衝を獲得するための局地紛争だったのではないかと、個人的には想像する。(秀吉の目指した国家体制は、信長の目指した国際交易主義体制と家康の目指した国内農本主義体制とを繋ぐ中間的な性格のものだった、というのが私の理解である。)
現代の国家間でも同じだが、経済主義に立てば投資回収率の悪い戦争はしかけないし、将来的利益がある程度の大きさで確定したところで戦争を終わらせるのが常道だ。重商主義的な覇権を奪おう守ろうとする国家同士の局地戦の可能性と、一国が全部攻撃されたり支配下に置かれるか否かの全面戦争の可能性とは、確かに繋がっていはいるが、歴史は必ずしも繋がるとは限らないと教えている。
信長は、南蛮との局地的な小競り合いを重商主義的な対外政策には付き物と捉えていて、信長が朝鮮進出をしたとすれば、南蛮ならば朝鮮をこう攻めた筈だというアイデアを実行したと考えられる。
私はそこに、「唐攻め」を構想した信長と、実際に「朝鮮出兵」をした秀吉や「鎖国」をした家康との違いを見てしまう。
戦争も経済も交易であり両者は古来、密接に繋がっている。
現代で言えば、アメリカが超軍事大国であることとドルの基軸通貨性は密接に関係している。
大航海時代以来の欧米そして日本の武力による帝国主義的な海外進出と植民地政策も同じだ。
戦争は相手国および相手国民への「負の贈与」であり、勝利によって「負い目の定着化」を狙うものである。
重商主義の延長にある植民地政策の要諦は、この「負い目の定着化」においてなるべく「負い目」を小さく抑えて現状維持コスト少なく「交換」経済を自由化することである。これを信長は南蛮の手口に学んで自らの「唐攻め」において狙ったと考えられる。
一方、秀吉はこうした国際的な重商主義の思惑に欠けていて、朝鮮の全国制覇という最大の「負の贈与」ばかりを狙ったゆえに明軍とも敵対しなければならなかった。
家康は、管理貿易の拡張を狙ってスペインに国際航路の就航を持ちかけるが断られている。農本主義に徹するが農民がキリスト教徒になることを嫌って管理貿易の最小限化、つまり鎖国に転じた。
なお、テレビの時代劇でイメージが流布している幕藩体制による撫民政策であるが、それは江戸中期からのことである。
江戸初期は、秀吉が刀狩りをして士農工商の身分間の移動や融合を抑制したことを受けて、幕藩体制で農民をあくまで農耕民として土地に縛りつける。支配階層である武士は、農民に対して、戦乱から解放したという「正の贈与」を背景にして、厳格に年貢を徴集するという「交換」経済の国内基盤づくりに専念した。
しかしそれは、信長が近畿地方で統一的に展開していた経済の規制緩和や国際化とは真逆の経済の規制強化や域内化であった。
このようにざっくりと考えても、信長、秀吉、家康で大本に「贈与」と「交換」の狙いが異なりがあってそれが政策に反映したことが分かる。
著者は、ヘーゲルの現象学的人間学を借りてこんな論述をしている。
「戦士による征服は、(中略)主人と奴隷の闘争になる。
最初は自立した主人(自由人)たちの決闘であり、この闘争のなかで両当事者は生命を賭して闘争するが、最後まで生命を危険に晒してたじろがない勇気を示したものは勝者になり、生命(動物的生命)を最後まで危険に晒す勇気を示さなかったものは敗者になる。敗者は、勝者の奴隷になり、勝者としての主人のために奴隷的労働に宿命づけられる」
「しかし労働のなかで自己陶冶した奴隷は、労働によって自然を征服し、自然の主人となり、ついには自分を奴隷にしている世界を変革する行動を起こして、ふたたび主人たちに対して承認のための闘争に挑戦すべく立ち上がる。そして新しい主人階級が生まれ、また同じことが繰り返されて行く」
これは、プロレタリア革命の歴史的推移にも当てはまるし、ユダヤ人の歴史的推移にも当てはまる。さらには、秀吉が農民から身を起こして最終的に天下人になった人生遍歴にも当てはまる。
一神教的な峻厳さのない日本人の場合、主人たちに対して闘争して新しい主人になってとって代わるというよりも、主人たちと折り合いをつけて主人たちの仲間入りをするという感じできた。
ただ、自らを神と言ったとされる信長だけが逸脱していた感じがする。信長は、日本の天皇を頂点とする主人階級とは異なる西欧の主人階級の有り方を照らし、また日本の源平時代くらいからの武家支配の変遷を俯瞰して中世を終わらせる心づもりで未来を展望したのだろう。
安土城の天守閣からの信長の一望は、「新しい主人階級」として自らの姿とその国の有り方の展望でもあったと考えられる。
「ヘーゲルは社会関係を駆動する力を『主人と奴隷の承認を求める生命を賭けた闘争』と定式化した」
「ところで、この闘争において、一方の人間が相手に承認させる『価値』、ヘーゲルによれば人間的尊厳はどこから出てくるのだろうか。
ヘーゲルによれば、それは自然的存在すなわち動物存在ではないことを証明することにある。
したがって人間が人間的に『なる』のは、自分のなかの動物性を否定することである。
動物『である』ことを乗り越えるためには、自分の生命を危険に晒すことであり、その勇気と気概を自分にむかっても他者に対しても、つまり客観的に、明示することである。
尊厳や威信の価値とは動物的生命など問題にしていないのだと自分にも他人にも納得させることである。そしてこの尊厳ある存在の客観的(自分にとって、そして他人にとっての)証明は、闘争という形で現れる」
「ヘーゲルの議論の筋立てにおいて注意すべきことは、人間と動物との違いという論点である。
人間は動物とは違うのだという意識が『人間』を本来の社会的人間へと歴史的に形成するというのである。
身体的欲望だけで生きるのは動物的であるが、精神的に生きることこそ人間的であるという考えがここにはある」
さらに著者は、日本人として、こう付け加える。
「それはおそらく西欧的な、つまりはキリスト教的な人間理解から出てきたのであろう。
日常的な競り合いから始まり、決闘的闘争や征服戦争までを社会的欲望がはたして『人間と動物との差異』を自覚し証明する行動であるかどうかは疑わしい」
この著者の疑いを、バブルを謳歌し欧米から「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と褒めそやされ、そのバブルが崩壊した後の現代の日本人はもってしまったのだと思う。
経済的そして物質的に「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と楽しく浮かれはしたが、祭りの後、だからどうした、という思いが浮上してきた。
つまり、他者に勝つことよりも、次元の低い動物的な欲求に囚われぬよう自分に勝つことの方が尊いということへの気づきである。
確かにその方が動物との違いが明快な人間ならではの想念だ。それはバブル崩壊直後に反動として出てきた「清貧の思想」ではない。貧富を含む経済的な価値観に囚われない精神的な価値観を優先するものである。それは富もうが貧そうが克己心が可能とする「人間と動物との差異」を自覚し証明するものである。
「人間たちは複数の他人と生活するとき、種々のレベルで、自分の価値を他人よりも優越することを欲望し、それを自分と他人に明示することで満足する、あるいは他人の価値は自分よりも劣るように策略を弄しても確認するように行動すると見たほうが素直な理解であろう。
各人の価値を測定する基準などはない。
すべては相互行為のなかでの競り合いできまる」
「相互行為は名誉と名声を求める心の交易である。
ここからヒエラルヒーが生まれてくる。
第三者から見れば、たいした違いはないが、当事者にとってはゆるがせにできない地位と席次の上下を争うことがつねにある。それがヒエラルヒーを呼び込むのである」
私見では、名誉や名声の査定は、
「交換」の場合は相互行為の結果(明示知)においてしたりされることが期待され、
「贈与」の場合は相互行為の経過(暗黙知や身体知)においてしたりされることが期待される。
ともに儀礼や制度が、それぞれのポイントにおいて形成されていく。
「贈与形式の相互行為の動力は他者に優越しようとする社会的欲望なのである。
言うまでもなく、この欲望は贈与形式の行為において顕著に観察されるが、それだけに限られるわけではなく、人間が社会のなかで生きるかぎり、どこでもいつでも発現する。」
「相互行為は必ず制度になる。(中略)
相互行為は反復するのだから、遅かれ早かれ、制度になる。
制度は、不文律の慣習であり、習俗などの形式をとるだろう。それらは単なる惰性ではなく、規範と約束を作り出す。(中略)そこには相互行為についての一種の構想力が働いている。構想力は人間関係についての解釈であり、解釈は『理論的』形式にまで上昇し、昇華されていく。
アルカイックな社会では、この理論的形式は、しばしば神話の姿をとる。
神話は、人間と自然、人間と人間、人間と人工物に関する『起源の説明』である。
そして神話は、社会生活を営むためのルールを比喩言語でもって説明し、文字がなくても記憶できるように一種の詩的文学を作りあげる。(中略)
神話のなかに凝縮されている約束と規範は、日々の語りを通して、また日々のつきあいのなかで、肉体的に刻みこまれていく。
身体は物体ではなくて、習俗規範と神話が集積される媒体であり、それ自体が制度である。」
私は、古事記の主要な神話は、古来から現代まで日本人が堅持してきた集団志向の規範が意図的に一貫して盛り込まれていることを確認した。
神話を聞きかじったり神楽を垣間みたりして部分的にでも幼少期から繰り返し触れた者は、無自覚的に規範を血肉化してきたと考えられる。
詳しくは、
*記事シリーズ索引:「古事記」が記した日本人の<社会人的な心性>のベース=<部族人的な心性>
http://cds190.exblog.jp/22749817/
を参照してほしい。
その規範の具体的な内容は、
①移動民(根無し草の放浪者の意味)の「移動社会」は悪
②転住民の「転住社会」は悪ではないが最善でもない
③定住民の「定住社会」が最善
という日本人の集団志向の「情緒的雰囲気をともなう『心性と態度』」を方向づけるものである。
そのように明示知としての表現がある訳ではないが、物語の展開が暗黙知および身体知として一貫して暗示していることは間違いない。
「制度化の過程と内容は、現代でも同一であろう。
現代社会では、習俗規範と社会的文法は、日常生活のなかで儀式化されている。
規範やルールの理論的語りは学校制度やマスメディアが担当している。(中略)
神話は紋切り型の形式を必ずとる。厳密な意味での科学的思考や哲学はけっして紋切り型ではないが、その上澄みを借用する理論的な語りは神話的である」
私がコンセプトと定義するものも、
「パラダイム」というものを単なる<知>の枠組みではなく、<知><情><意>の「混成態」として捉えた上で、
「パラダイム転換」という「化学反応」を導こうとうする
予祝神話に他ならない。
それが身体性をともなった「贈与」行為として語られることではじめて、「パラダイム転換」への志としての理想を共有し献身を恊働する「志縁」が生まれてくる。
「神話的精神は、いつの時代でもどこの地域でも、どんな社会構成においても、社会的な規範と約束事を制度化するためには不可欠であるという原初的事実こそが重要である。(中略)
そして神話なしには制度は形成されないし、神話なしには習俗規範や行為の文法を肉体のなかに注入することはできない。
いっさいが儀礼化されてはじめて制度は制度として確立するのである。
慣習的な贈与経済であれ、市場的交換であれ、資本主義的生産であれ、肉体のなかに刻まれる社会的文法とそれに基づく儀礼化なしには、そして究極的には『神話的なもの』なしには、動きはじめることはできないのである」
たとえば、チャップリンの映画「モダンタイムズ」は、資本主義的生産の神話が肉体のなかに社会的文法を刻み込むことを象徴的に表現したと言える。
映画「独裁者」は、社会的文法に基づく儀礼化の本質を白日のもとに露呈した。
今見ても新鮮な作品だが、発表当時、後にアメリカを追われることになるだけのインパクトを支配階層に与えるに十分だった。
それは、自分が自分の主人になるための「尊厳ある存在の客観的証明となる闘争」、そのチャップリンの場合の「神話的なもの」による動きはじめであった。
たとえば、モハメド・アリは、白人専用レストランで「うちにはニガー(黒人の蔑称)に出す食べ物はない」と追い出された直後、ローマ五輪で獲得したばかりの金メダルをオハイオ川に投げ捨てた。また、ベトナム戦争の徴兵命令を拒否して「なぜ黒人と呼ばれる俺が1万6000キロも離れた土地に行って罪のない 有色人種の頭上に爆弾を落とす必要がある?」と言った。
これも、自分が自分の主人になるための「尊厳ある存在の客観的証明となる闘争」、そのモハメド・アリの場合の「神話的なもの」による動きはじめであった。
「神話的想像力、それを通しての相互行為の理解は、
二つの負い目感情のなかに、すなわち、
自然(それの想像的昇華である『超自然存在』)に対する負い目感情、
およびそれの現世的形式としての人と人の負い目感情のなかに根ざしている」
私たちもチャップリンやモハメド・アリのように、自分のゆるがせにできない「使命」において、
この二つの負い目感情を、自分の物語あるいは闘争の内に抱くことができる。
そして現実には、そのような有志たちの活動によってこそ、一人自分の暮らしや人生に留まらない、同じ志をもつ人々や社会や世界の「パラダイム転換」が導かれるのある。
神話はその道程において道標のように存在するのである。
ただ日本人ならではの神話づくりは、
欧米人の神話づくりのように個人とそれが発する明示知にフォーカスするものではなく、
集団志向の暗黙知と身体知、身体感覚をともなった情緒性ないし情緒性をともなった身体感覚にフォーカスするものと言えよう。
(3)
http://cds190.exblog.jp/8526465/
につづく。