部族人由来の原初的な「交易」の心性を探る(2) |
本稿(1~2:追記)を加筆修正します。そして改めて(3)以下シリーズを続行します。)
「海と列島の中世」網野善彦著 日本エディタースクール出版部刊 発
国レベルの歴史と畿内起点ルートだけに囚われてはいけない
網野氏は、本書の最初に掲載した論文「海のルート 中国文化と律令制」で、私たちの常識の再点検を促す。
「古代以来、非常に目立っているのは、いうまでもなく中国大陸から北九州・畿内へのルートですが、この時期でも他の地域と中国大陸との独自な交渉が全くなかったのかどうか、今後なお検討する必要が残っていると私は思います。
たとえば山陰と朝鮮半島、中国大陸との関係は古くから注目されていますし、それ以外にも関東の北のルートで独自に中国大陸と交流していたことも十分考えられます」
まず、古代の国レベルあるいは豪族レベルの中国との交流が、畿内に限らず、後に蝦夷とされる関東にもあったことを著者は指摘する。
これは最近、テレビ東京が放映した「新説!?日本ミステリー/世紀の巨大プロジェクト 関東・謎の日本王国を暴く!?」でやっていた内容と重なる。「旧唐書」(中国、945年)に「日本國は倭国の別種なり」とあることで、「日の出るところから日本とした」ということからもそれは東の「関東」の王国のことではないかという説だ。
私もたまたまこの番組で遺物を見かけて、中国大陸との関係があったことは疑いないと思った。さらに、部族の全体が王国をなしていたとすれば、その規模はヤマト王権に勝るとも思った。
「馬具をつけた馬の歯」を提示し、「もともと日本には古来の馬がいなかった」と説明し、魏志倭人伝の「(倭国には) 牛、馬、虎、豹、羊は無し…」という記述を紹介していた。
この番組では、
◯川を利用した水運
◯馬を利用した武具
という倭国とは異なる二つの特徴をもつ民族が関東にいたことを強調していたが、それは魏志倭人伝の倭国とは異なる王国ということになる。
古墳時代は3世紀末から7世紀で、番組で取り上げた埼玉県北部のさきたま古墳群は、一番古いものが5世紀後半だという。
つまり、以上の関東の豪族なり王国は、5世紀後半から7世紀の話ということだ。
邪馬台国は2世紀後半から3世紀前半。
最初の前方後円墳は3世紀前葉~中葉に出現しているため、ヤマト王権の成立をこの時期に求める説が有力。
前方後円墳の分布は4世紀後葉前までで、主に畿内~瀬戸内海沿岸(吉備など)~北九州(筑紫など)に集中していたため、ヤマト王権の支配権もそれらの地域を中心としていたと考えられる。しかし4世紀後葉になると、東北(仙台平野・会津地方など)から南九州(日向・大隅など)まで前方後円墳の分布が急速に拡大しており、ヤマト王権の支配権がそれらの地域へ伸展していったことの表れだとする見方がある。
番組は、「旧唐書」の倭国とは違うという記述をもってヤマト王権とも異なる王国の存在を説明するが、ヤマト王権下の豪族の中国との交流を示すとも解釈できる。
本書で網野氏は、対外的な海路交易を朝廷や幕府が一手に引き受けていた訳ではないことを、平安後期以降の沢山の事例で解説している。
「平安時代の後期以降になると、こうした各地域の中国大陸との独自な交渉をもっとはっきり知ることができます」
として、
南九州の坊津(ぼうのつ)に中国の船が入ったこと、北陸の敦賀や小浜に「唐船」が入港したこと、それ以前にも北陸諸国に渤海の船が入っていたこと。
津軽の十三(じゅうさん)湖が潟であった頃の十三(とさ)湊からは、中世の中国製の白磁青磁が大量に出土していること。
下北半島の川内町という川を海から少し遡ったところで、主として15〜6世紀の中国製の陶磁器が出土していること、北海道は渡島(おしま)半島の勝山館遺跡からも白磁青磁が発掘されていること、函館の知覚の志苔館(しのりだて)遺跡からは13〜4世紀の中国銭が発掘されていること、
などを冒頭論文「海のルート 中国文化と律令制」で紹介している。
さらに、
「さて太平洋に目をむけてみると、十三、四世紀の鎌倉が目に入ってきます。鎌倉は中世の東国にできた『国家』の都と言っても決して言いすぎではない位置を持っていました。これまで中世に入っても畿内、京都のみが中国との交渉の窓口と考えられがちだったのですが、これは決して正確ではありません。
最近のさまざまな研究によって、鎌倉幕府の事実上の指導者であった北条氏が中国との交流に非常に熱心だったことが明らかになってきました。恐らく北条氏は中国、宋、元との公式の貿易ルートをほぼ自分の手に独占していたといってよいので、『唐船』といわれた大型の船を何回も日本列島から中国大陸に向けて発遣しています」
と解説する。
私は、歴史を西国のヤマト王権を中心に教えられたためか、遣唐使船の難航を極めた話(8世紀の遣唐使のうち4艘立ての全ての船が往復できたのは一回だけ)とか、260年計15回続いて菅原道真により894年に廃止されたこととか、室町幕府将軍が明皇帝から「日本国王」として冊封を受け朝貢する形式で行われた勘合貿易(1401年から1549年、計19回)のこととか、豊臣秀吉にはじまり徳川家康の頃最盛期をむかえ鎖国まで続いた朱印船南蛮貿易(東南アジアに移住する者が増えて自治制の日本街を生む)こととか、国レベルのしかもほとんど畿内起点のことしか知らなかった。
しかし本書を読んで、国レベルではないところで、日本各地との対外交易が多様な形でなされていたことが分かった。
長い鎖国時代のためか、歴史を通して、国レベルでは、こちらから出向く対外交易は、必要最低限やむを得ない場合に留める消極的な印象を持ってしまう。
また、近世の金銀を求めてのあちらからの渡来を受け入れることに積極的な印象を持ってしまう。
ところが、国レベルではないところでは、こちらから出向く対外交易が、国内の海路交易の延長で発展していたことを知った。
これに関連して、倭冦などの海賊と海路交易とが異なる生い立ちをもつという先入観や誤解があったことも、本書を読んで反省した。
国レベル、と一言でいっても、体制の変化が国内外の交通や交易の有り方に重大に影響を及ぼしていることが分かった。
特に著者の解説する神社や寺院の推進した交易には、日本型の「交易」の心性の源流を遡ることができるように感じた。
本稿シリーズではそこを集中的に検討していきたい。
特に、交易という営みそれ自体に象徴的価値を見出そうとする「部族人的な心性」こそが、じつは日本人が尊重し温存しようとしてきたもので、それが「日本型の交易」に繋がるのではないかと思い当たった。
たとえば私たちは、空海や最澄のような留学生の気持ちは今も盛んにあるが、フランシスコ・ザビエルのような伝道師の気持ちは希薄だ。
こちらから出向いて行くにしても、それは新たな知識を求めてのことであくまで受信者タイプなのだ。発信者タイプは稀だ。
このことは、「こちらから出向く対外交易は、必要最低限やむを得ない場合に留める消極的な印象をもってしまう」根拠になっている。
そしてここで留意すべきは、安全基地を確保した上で探索活動をするのは哺乳類の本能であって、受信者タイプはこの本能に素直に従い続けている。受信者タイプの出向き方ばかりを、公民問わず執拗に繰り返し切磋琢磨してきた日本人は、それなりの特徴ある意義をもっている筈だ、ということだ。
また、倭国と百済の遺民の連合軍と唐と新羅の連合軍との戦いや、秀吉による朝鮮征伐、日清戦争(1894年)から第二次大戦敗戦(1945年)までの大陸進出期(約半世紀)を例外としての話だが、
日本は、元寇襲来や黒船来航で外国による植民地化を阻む防衛の気持ちはあっても、覇権的な戦争アプローチをとらない国として長い歴史時間を過ごしてきている。
交易においても、前述の例外期を除けば、戦争アプローチに容易にとって変わるような圧力的な交易、遠征的な交易を好んではいない。
こちらから出向くことを必要最小限に留める消極性には、そんな平和を好む意味も含まれるのではないか。
(ただしこれはあくまで、ヤマト王権の日本列島内での制圧行為や圧力交易を内戦や支配とみる見方においてである。この見方は、日本列島が結果的に同じ日本語の書き文字圏になった後からの、それを前提とする見方であることは留意。)
しかし、本書で網野氏の導きによって国レベル以外の海路交易を捉えていくと、日本人が交易に積極的かつ能動的に見言い出した象徴的価値を理解できた。
私の無知蒙昧を改めながら、本書の検討を進めて行くことにしたい。
神聖王が支配した神話的世界とその位置づけ
網野氏は、天皇には征服王と神聖王の二つの顔があり、律令国家の首長だけでは神聖王の顔が納まりきらない、そこで律令制度の日本ナイズがあった、ということを指摘した上でこう述べる。
「古代についていえば、律令に規定されていない贄(にえ)の制度は、天皇の後者(筆者注:神聖王)の顔に関わります。
これは、生の魚や海藻の初尾(はつお)を天皇の食膳にたてまつる制度ですが、贄は本来、神に捧げられる初尾であり、こういう贄を捧げられる天皇は、律令で規定された官僚組織、律令国家の首長としての顔、つまり中国風の帝王の顔とは別の、いわば未開社会にしばしば見出される、神に準ぜられる王の顔を持って現れてくるわけです。
日本の社会にも大きな意味を持っているさまざまな神の祭祀とも、この天皇の一面は結びついています。
ただ神社もすべてではありませんが、律令制の下に組織されていることは見逃せないことです」
私は、知識やアイデアにも初尾があり、それを贄として神に捧げることに相当するような知識創造活動があると思う。
たとえば、遣唐使が持ち帰った文物が朝廷に献上されたことも、象徴的にはそういう捉え方ができる。
たとえば、近代国家建設の立役者となる留学生やお雇い外国人が天皇の官僚になったことも、同じだ。
他国でも同じような活動はある。しかしそれが天皇制の下で行われれば、天皇制の象徴性を帯びてしまうし、実際にそれにコミットする人々には用意された儀礼に従う義務という具体性も生じる。
こうした構造は、奈良平安の昔から現代まで国レベルで一貫している。
そして国レベルがそうした一貫性をもつということは、国レベル以外の歴史にも日本ならではの展開をもたらし、現代にももたらしている筈なのだ。
歴史古代の古代人はカミへの仲介者たる天皇に贄を捧げた。それは未開社会の部族人がタマに供え物をしたことの為政者による意識的な焼き直しであり、人々の深層心理がそれと受け止めたということだと思う。
カミとは、人智を超越した畏怖すべき存在で、私たちに豊饒をもたらしたり災いをもたらしたりする。
そして、現代人の私たちは意識においてそのような存在を信じていなくとも、無意識的に類化性能を発揮して、構造的に似通った物事をカミという素型(スキーム)で認知したり表現してしまう。つまり、現代の日本人の深層心理が、カミやそれへの媒介者に構造的に似通った物事をしてカミやシャーマンとして受け止めてしまう場合がある筈なのである。
たとえば、こうしてブログを書くという行為は、意識としては日記をつける、備忘録を残すという程度の作業のつもりでいる。しかし私たちの深層心理は、カミへの奉納と感じ取っているのかも知れない。
ブログ記事がグーグルでキーワード検索されて、場合によってはアイデアを採用されたり記事を紹介されたりしてしまう。あるいは批判が集中して炎上する場合もあろう。つまりネットは、「人智を超越した畏怖すべき存在で、私たちに豊饒をもたらしたり災いをもたらしたりする」カミと類似した構造をもっている。
だからブログへの記事投稿は、日本人の場合、深層心理的にカミへの奉納という意味を担っているとしても、間違いではない(絶対にそうだ、というのではない)。なぜ、日本人の場合とするかと言うと、集合的無意識が踏まえる神話的世界でカミが登場するのが日本人だからだ。
実際、日本人のブロガー人口は他国に比べてダントツに多く、人口比率では圧倒的だという。
その原因をこうした日本人の集合的無意識に求めたたとして、それは一つの解釈として成立する。
たとえば、mixiのコミュニティのトピックの書き込みでレスポンスをくれる人の少なくとも数倍のROMの人がいる。
このコミュニケーションの構造は、沈黙貿易にそっくりだ。
書く方もレスポンスの確実性を期待している訳ではないが、まったく期待していない訳でもない、そして予期せぬ収穫があるところが、沈黙貿易の構造に一致する。
ここで、沈黙交易とは何のことかを知らない人でも、そのトピック書き込みに関わる単純素朴な行為や心理が、沈黙貿易に関わったであろう部族人のそれと類似していると考えることは間違いではない。物事によっては推量をして、そうじゃないと考える方が不合理なほどに単純素朴な結論にたどり着くことができるからだ。この場合、日本人の場合と限定しないのは、沈黙貿易が人類普遍の原初的形態だからである。
こういう類の定性的な仮説は、科学的に、あるいは統計的に証明しようがない。
しかし、もしブロガーであるあなたが、記事アップについて、おばあちゃんが毎日欠かさず仏壇にお供え物して手を合わせると気分が晴れるようなこだわりがあり、しかもあなたが何かの日課を果たすことにこだわる几帳面な人ではないにも拘らずそうなのであれば、それは深層心理的にはカミへの奉納をしてしまう日本人らしさだと捉えていいと思う。
また、mixiの日記の場合、読んだとおぼしき足跡が残る。足跡がのこりながらコメントがないことを、私は何とも思わないのだが不快を感じて文句を言い立てる人もいるようだ。それは、沈黙貿易で、自分の供え物だけ持って行かれて何も得られなかった部族人の不快であり攻撃性なのかも知れない。
よく、文明は進歩したが人間は変わっていない、という。
それは言葉を換えて言えば、道具立ては変わっても、人の心の認知や表現の深層レベルのパターンに変化も増減もなく、原初の根源的な限られた素型をなぞっている、ということなのだ。
そして、人間の個体なり集団なり人類全体について言えるこうした事柄が、国レベルでもある。
それが日本の場合、天皇制という素型をいろいろになぞってきた歴史なのだ。
網野氏は、律令国家の文書主義に触れ、文字との関わりでその日本での展開をこう解説する。
「この国家に関わりを持とうとすれば、漢字、漢文を知らなくてはならず、否応なしに文字は各地の役人となろうとする有力者の間に普及していきます。
最初は社会の表面への普及だったのですが、日本の社会自体の文字に対する内的要求は、やがて漢字を転形させた平仮名、片仮名を作り出すことによって世界でもまれにみる特異な文字社会を作り出していくことになります。(中略)
ごく簡単に言いますと、
片仮名は口頭の世界を表現する文字、
平仮名は私的な世界で読みかつ書く文字、そして
公的な世界での文字は漢字(筆者注:万葉仮名含む)
ということになっています」
これに関連して、mixiで面白いことを教わった。
朝鮮語でも吏読という、万葉仮名に相当する表音文字として漢字を使う段階があって、それがハングルに展開したという。吏読もハングルも母音と子音を組み立てた文字で、万葉仮名や片仮名や平仮名のような音節単位の文字ではない。それは、母語の発音がそういうものだからそういう違いがあって当然だ。
私が着目したのは、朝鮮も日本も律令国家の官僚制度を中国にならった訳だが、朝鮮が忠実に中国にならったのに対して、日本は網野氏が指摘するように、天皇の神聖王の顔が納まるように律令制度を日本ナイズした。あるいは日本ナイズしきれずに崩れていった。こうした動きに並行して表音文字が形成されその使用が拡大していった。それが片仮名であり平仮名である、ということだ。
「片仮名は口頭の世界を表現する文字」ということだが、
その使用の筆頭は神道の祝詞であり、神聖王としての天皇の詔だろう。これを異国の文字で表現する訳にはいかなかった。また、その発声の歌謡性を音読でも黙読でも再生するためには母音単位の表音文字である必要があった。発声の歌謡性とは、私は昭和天皇のゆったりした口調を思い出すが、要は和歌を歌い上げるあの母音が鍵となる節回しである。ひょっとすると古代の公的儀礼では天皇だけに許された諧調があったのではなかろうか。
「平仮名は私的な世界で読みかつ書く文字」ということだが、
その使用の初めは貴族の女性が私事を記したことだ。これは、母系で相続する平安社会にあって優先順位の高い文字使用だったと考えられる。妻問い婚という、女のところに出入りする男の内の誰かが夫と選定されるルールだから、女の側からはいろいろ記録する必要も多々あったに違いない。そんな背景から世界的な女流文学が誕生したのだろう。ちなみに、中国は家父長制の社会であり、そこで生まれた律令もその前提に立つ制度だった。
こうして、朝鮮語と日本語の表音文字の展開を比較すると、日本において神聖王の影響、そして母系制社会の影響があったことがより際立ってくる。
欧米にも、中国にも公私の区別がある。
日本にもあるが、ことはそんなにタンジュンではなくて白黒と割り切れないところが多々ある。
欧米の場合、キリスト教の儀礼が公と私を秩序づけている。
中国の場合、儒教の儀礼が同様にしている。
ところが、古代日本の場合、律令仏教の儀礼が公と私を秩序づけるだけでは納まらなかった。なぜなら、日本の場合、公と私の二元論ではなかったからだ。
まさに神聖王がそこに君臨しようとしたタマやカミの神話的世界というのが、公と私を従え融合する形であったのだ。征服王が神聖王ともなろうとした時、彼はこの神話的世界を操作して全体を秩序づける必要があった。
律令国家の公的世界は、父性原理の世界であり、合理的なコンテンツによって「社会人的な心性」を捉えなければならない。
これを漢字で行う。
一方、
母系相続の私的世界は、母性原理の世界であり、現実的なコンテンツによって「社会人的な心性」を捉えなければならない。
これを平仮名(女手)で行う。
以上両者の対峙は、基本的には現代でも洋の東西であると思う。
書店にいって、女性向けの雑誌や本の表紙と、政治、社会、ビジネスの本の表紙を比較すれば、その言葉使いや色彩において皮膚感覚で感じ取れる筈だ。
しかし日本の場合、以上を深層心理的に従えている
タマやカミの神話的世界という人間を超越した世界があり、象徴的なコンテンツによって「部族人的な心性」を捉えなければならない。
これを、片仮名で行う、つまり口頭で発声することで行う。
現代社会でも、芸術性の高いとされる音楽や映画が、言葉の壁を乗り越えて展開している世界が、この最後者に相当する。古今東西、それぞれの文化において宗教や祝祭が歌舞音曲をともなって担って来た世界もこれに相当する。
何が日本の場合の特異性かというと、非日常的で専門家なり権威者による芸術や祝祭という社会装置を経ずとも、一人一人が自他に対する何気ない発話や対話において日常的にその世界に無意識的に暮らして来た、ということなのである。
日本人が古来感じて来た言霊とは、文字にした書き言葉ではなくて、その起点にある誰かが何処かである思いをもって発話した発声に他ならない。これを日本人はほとんど無意識的に感じ取り重視していて、書き言葉にしても著者の肉声が伝わって来るような文章が好まれる。公的場においてもたとえば大臣が役人の作文を棒読みするのは、いくら理屈があっていても嫌われるのである。
公と私だけでなく、タマやカミの世界があってその元締めとして神聖王がいた、というのは人類普遍の部族の様相だ。
日本の場合、支配を拡大した最強の征服王が、その版図において機能する天皇という名の神聖王となろうとした。こうした経緯で歴史が始まっていく。
当然、歴史をしるし公務をすすめコミュニケーションを方向づける文字については、ヤマト王権の主要戦略事項の適宜な日本ナイズが図れるよう厳密な政策が企図され実施されていった筈だ。
交易に話を戻そう。
「日本型の交易」は、タマやカミの神話的世界において「部族人的な心性」を捉える象徴的価値をもつ、という特徴をして「日本型」とすべきである。
以上述べてきた日本という国の成り立ち以来の大枠の特殊性を含まない「日本型」には、他国と比較して客観的な意味がないからだ。
タマやカミの神話的世界において「部族人的な心性」を捉える象徴的価値をもつ交易は、もとより「はじまりの交易」として始ったものであった。
ヤマト王権が成立するはるか以前からあった。
ヤマト王権は、征服王が稲作の徴税システムを完成し神聖王として君臨して成立する。
神聖王は神社を農民管理システムとして再編する。
そして「交易ふくむ非農業」については、稲作とは異なる、「象徴交換システム」とでも言うべき徴税システムと職能管理システムを構築する。
これは「部族人的な心性」を象徴的に捉える神話的世界を前提とするものであり、律令体制の限界を補完したりその崩壊と並行したりしていろいろに展開していく。
その過程を克明に調査し解明したのが、網野善彦氏のライフワークであり、偉業であった。
その全体と展望については、本稿シリーズとは別途、中沢新一著「僕の叔父さん 網野善彦」(集英社新書)で検討し、私の発想ファシリテーションとの関連で整理したい。
本項(2)では、
骨太な日本の空間軸である3世界「公的世界・私的世界・神話的世界」を、
文字表記の3体「漢字・ひらがな・カタカナ」に関連づけて象徴的に提示するに留めたい。
本稿シリーズで、交易をする都市や海路や陸上という空間を、この3世界を重ね合わせて捉えていくことで、交易という営みについてより本質的な検討ができると思う。