パラダイム成熟志向としての本来の「家康志向」(4) |
江戸社会の文化創造にみる「信長志向」
著者は、「多彩であった江戸の文壇」の例をいくつもあげた後、こう述べます。
「ここで言いたかったことは実に色々な人たちがこの時代の日本の文壇といいますか、文学を支えていたことです。上は徳川御三家や大大名から、下は農民や町人の子供たちまでが夫々(それぞれ)の才能によって大きな拍手をもって社会全体に迎えられ、夫々の時代の寵児として人気を囃されています。
同じことが儒者や医者、博物学や植物学、蘭学の世界、古美術収集や発明の世界にも言うことが出来ます。
また優れた匠たちの技に対しても惜しみない賞賛が与えられ、農業の技術改革や農村を支える思想など、農民の手によって書かれた多くの本が広く読まれるようになっていました」
「『江戸時代は厳しい身分制度、士・農・工・商に縛られ、武士以外の階級、特に農民は(生かさぬよう殺さぬよう)という基本政策の下で呻吟した』という従来からの『公式見解』とはだいぶニュアンスが違います(いまでも学校の教科書はこういう書き方をしているようです)。この新しい時代の寵児たちの才能を持て囃したのは謹厳な武家階級よりは、むしろ自由と平和と経済力を満喫していた武士以外の社会であり、豊かさを肌で感じ始めていた農村でした。
この辺が、(中略)同じ頃の西欧の社会とはまったく違います。国によって多少の差はありますが、西欧の華やかな文化が宮廷と都市のごく一部の富裕層を中心に繰り広げられたのに対して、日本ではいわゆる一般大衆社会が徐々に武家文化を圧倒する勢いで日本中に文化を作り上げていったと言えます」
象徴的な話をすれば、印象派が浮世絵にショックを受け深く影響されたことは周知のことですが、その最大のことは「庶民生活を画題として描く」ことでした。日本人にとって当たり前のことが西欧人の宮廷や富裕層のために絵を描いていた画家には新鮮だったのです。浮世絵の描法や構図はいわば新しい「手段」として着目されたのであって、それは「庶民生活を画題として描く」という彼らにとって新しい「目的」を達するためのものでした。つまり、絵を描くことについてパラダイム転換した訳です。
私は、
武家社会とその支配体制は、パラダイム成熟志向である「家康志向」が色濃い。
これに対抗するように、
武家以外の社会の文化創造は、パラダイム転換志向である「信長志向」が色濃い、
と捉えられると考えます。
「三都があって、人々が往来することで都会の文化は大変な速さで全国に広がっていきました。農民たちも旅や、出稼ぎなどの幅広い経験を持ち、都市近郊の農村は都会と一体化した経営で得た経済力に支えられて活発に文化活動に加わりました。
近郷の大地主として都会の土地を次々と購入して多数の借家を経営する人たち、商人の資本力と組んで広大な新田開発にあたる大農業者など、全国に広がった富裕な農民たちはあらゆる文化の一大スポンサーとなったのです(新田開発の場合、年貢は三十年は免除されるのが通例でしたから、開発へのインセンティブは強烈でした)。
江戸芝居も上方の浄瑠璃も大相撲も、江戸・大坂などの拠点をはなれて行う地方巡業が大きな収入源でした」
著者は好きな付け句をいくつも上げて、こう述べます。
「それにしてもこの十八世紀のまんなかで、世界一の大都会の人々が、挙げて人生の機微とその可能性可笑しさ、哀しさを滑稽詩に活写することに熱中したというのは、まったく驚くべきことだと思います」
喜劇作家がではなくて、一般大衆がよってたかって楽しんだ、というところが世界に類例がありません。
こういう集団独創の交流は、付け句に限らず、川柳、俳諧などの文学系だけでなく、歌舞音曲系にもありました。そしてそれらを横ぐしで連携して鑑賞し味わう受身の大衆という、文化創造の裾野を分厚くしていたのでした。この高感度な大衆の耳目に答えるべく、歌舞伎や浄瑠璃といった綜合芸能、そしてそれぞれの文化分野のプロたちが日々、代々験算を重ねたのでした。
こうした集団独創と文化創造の構造は、たとえば漫画の読者、同人誌投稿者、人気のプロという形で現代日本にも継続されています。
文化的に成熟した大衆において、送り手と受け手が常に共同学習をし、受け手が競い合い送り手に育っていく、そんな知識創造組織が自然発生するということは、マスメディアが発達した現代以降、世界の都市部で一般的な現象です。
しかしそれが17世紀、18世紀のこととなると、江戸時代の日本以外にないのです。
そして、こうした自由参加型の文化創造社会では、文化はけっして誰かが独占したり固定して済まされるものではありません。常に新機軸が求められ、 必然的に才能あるクリエイターはより高次元の創造活動を目指して行きます。
たとえば松尾芭蕉が、伊賀上野から江戸に下り職業的な俳諧師となった時は、王朝文学などを引用した語呂合わせや冗談を展開する上方の流派を標榜したが、その後思想性を重視し荘子を引用するようになり、やがて旅に出て芭風と呼ばれる芸術性の高い句風を確立したことは有名です。創造活動を捉える枠組みを常にパラダイム転換することでそこに至ったことは確かです。
こうしたクリエイターの克己心によるパラダイム転換志向が、文化分野を超えて江戸時代の様々なトップランナーたちに共通していたことは、NHKの「その時、歴史は動いた」の視聴者ならばみな了解していることでしょう。
著者は、「この奇跡のような天下太平の時代を支えた仕組み」について解説していきます。
小さな政府が大きな民間の力を活かす「家康志向」
「江戸時代の政府(幕府)は近代の政府に比べると小さな政府でした。武家階級の人口は、江戸時代を通じて総人口の大体五%から七%で推移していますが、幕府も各大名も多くの武士を役職から外して俸給を三割から五割削減する人件費圧縮の政策を採っていましたから、実際に行政・司法・警備などで働いていた武士階級は人口の二%から四%だったと思われます(幕府でいえばいわゆる『寄合』『小普請組』配属で、ここに配属されると何も仕事はない代わりに、俸禄の何割かをお上にお返しすることになります。軍人が予備役に編入されて俸給が半分になるのと同じことです)」
最近、終身雇用が企業社会だけでなく政府においても見直されてきました。
「終身雇用を温存し、実力主義は国際基準で厳しくする」というのが終身雇用解体以前からの私の持論でした。
たとえば、物価の安い外国の現地法人に赴任してその国に骨を埋めるつもりの社員には、そこで退職後も仕事ができる現地報酬や豊かな余生を送れる現地物価に応じた企業年金を用意する。これは企業単位で移民するような話で、仕事と仲間がいれば楽しくやっていける仕事好きの日本人の国民性にそったアイデアだと自分では思っています。
長年勤めた会社をクビになって再就職の口がなく物価が高く公的年金をあてにできない国内に留まるよりも、こうした方途に働きがいや生き甲斐を見出す人々は多いのではないでしょうか。
若い人は誤解しているようですが、企業社会における「終身雇用」は戦後一般化したものです。戦前は雇用者の被雇用者に対する権利が圧倒的に強く、炭坑や工場で一方的な解雇に対する労働争議が起こったりしていた訳です。終身雇用を約束できたのは、財閥系の銀行や重化学工業や商社など大手企業だけで、ほとんどをしめる中堅以下の企業は、経営が安定している限りはなるべく終身雇用しましょう、というのが実際でした。それでも、現在のなるべく正社員は採らずに派遣社員で済ませましょう、というのとは大違いです。企業は公器という意識が中小零細企業にもあったのです。
あと官僚と役人が終身雇用が約束されていました。天下りは、出世競争に破れた官僚のための終身雇用の代替策でした。
ここで気がつくのは、財閥系の大手企業も省庁役所も、明治維新以前の江戸時代の組織や制度を踏襲していたことです。つまり、日本的経営の特徴とされる「終身雇用」は、もともとは江戸時代の幕府や藩や大店の人事政策を雛形としていたということです。
ただ、江戸時代の武家社会の終身雇用は、ワークシェアをして、かつ農・工・商の自分より下の身分の民とも競って自活せよということで、身分を超越した実力主義と自己責任を条件づけていた。そのことを本書を読んで知りました。
前述した私の「実力主義を国際基準で厳しくする終身雇用」というアイデアは、むしろ江戸時代の武家社会に近しいものでした。
商家社会の「のれん分け」も、ブランド力という信用を供与した上で、番頭や修行を終えた職人に自分のリスクで起業させた訳で、実力主義と自己責任を条件づけた終身雇用だったと言えます。そういえば現代でも企業規模に関わらず、これと同様の人事政策や起業促進策をやっているところもありますね。
いずれにせよ、ただクビを斬る、ただ早期退職希望者を募るという現在の企業社会の一般的やり方は、いかにも知恵がないことだけは明白です。
どうも戦後、企業社会に一般化した「終身雇用」は、いわゆる55年体制下の官民一体の護送船団方式において、実力主義を排した年功序列を前提にとても歪んだ形で形成されたものだったようです。
だから、日本的経営の美点である「終身雇用」が江戸由来の厳しい実力主義と自己責任を前提とするものだったことが忘れ去られたままできて、バブル崩壊以降、すべてを短絡的かつなしくずし的に崩壊させてしまったのでした。
いまの政府を含めた「終身雇用」の見直しの動きは、是非、江戸時代の知恵である深い人間理解と国民性理解にのっとってほしいと期待します。
「百万都市の江戸を治める江戸町奉行所の定員は三百名弱で、この人数で現在の都庁と各区役所の業務、警視庁、消防庁、東京地裁や高裁の仕事までをこなしました(中略)。もっともこの人数で細かい行政事務が出来るはずはありませんので、実務部分の多くは民間に委託されました。
日本各地にある幕府天領からの年貢収入は中央政府である幕府の最大の収入源です。各天領に散った代官はだいたい一つの代官所で五万石から十万石の土地の行政と税務を担当しましたが、その代官所の定員はわずかに三十名と一寸でした。実際の仕事はやはり民間である村役人にお任せでした(中略)」
「江戸時代二百六十五年間を通じ大名たちは一切幕府に上納する税はありません。その代わり幕府から各大名に対する援助も原則ナシです。原則と言いましたのは、飢饉や大凶作の時には幕府は援助金を貸し付けたり、参勤交代の義務の免除などの救済措置を取っているのです(中略)。
定期的に中央政府に税金を納めるシステムはありませんでしたが、大名は『役』を行わなければなりませんでした。譜代であれば色々な幕府の要職に就くことが多々あり(老中、若年寄、大目付、寺社奉行などなどです)、一方、外様大名には河川の改修や橋の架け替え、城郭の修理などがあります。これらの経費は命令された各大名持ちです。江戸の後半期に入りますと諸外国の圧力が高まり、蝦夷地や樺太、各地の海岸を防備する『海防』の大仕事が出てきましたが、これも原則命令された各藩(外様大名も含みます)の負担です」
現在の中央集権のように、国税を全国から集めて地方交付金でコントロールする体制ではなかったのでした。
そして幕府も各藩も、基本的に米の年貢に頼る収入で、巨大化する経済社会に対応することが難しくなり、財政困難を深めていきました。
しかし著者は、「高い民間委託と幕府・藩の財政悪化」の効用をこう述べます。
「一つは村や街の自治能力の向上と子弟に対する教育の強化です。
農村の年貢徴収は村単位で行われ、実務は村役人である名主・庄屋層がすべて代行しました(筆者注:年貢の村での割り振りは委任された)。(中略)
農村の年貢はすべて米生産量に換算して行われましたから、季節の出稼ぎや、野菜栽培や販売による現金収入などは原則的に年貢の対象外でした。農村の経済力が徐々に向上していった背景にはこの徴税方式がありました。
町の行政も同じことで、実質すべてのことは町役人が行いました(『ちょうやくにん』と読みます。これは名主たに町民の役人です。一方これを『まちやくにん』と読みますと町奉行所の武士の役人のことになります)。
江戸と大坂という二つの幕府直轄都市は年貢が免除されていました。税金ナシの都会です。ただし町を維持する直接費用は町に住む全員で負担しました。(中略)(筆者注:この経費)『町入用』は原則的にそれぞれの町屋が面している『通り』の質と長さによって課徴されていました。(中略)現在の路線価格による固定資産税のやり方に一寸似ています。しかし額的には当然ながら今日の税金とは比べ物にならないほど小額なものでした。
こういった行政実務、町入用の計算・徴収業務。土地の売買の立会いや売買の正当性の確認、戸籍や地権の整理、確認などに加えて、幕府の出すお触れやお達しなどの伝達、その実施の手順の策定、またそういった末端の行政のすべてのことの記録の作成と保管などは町役人の仕事でした。
いろいろな争いごとも町奉行所に出る前に、まず町役人による調停が先で、これがどうにも駄目な場合に初めて奉行所が受け付けるシステムでしたから、町の名主の仕事も膨大なものであったことになります。
つまり町・村いずれにしても、江戸時代の最初から実質的な行政役はほとんど全部民間が行ったことになります。(中略)
このため実質的行政を任された村役人、町役人の事務所では高い計算能力と書類作成能力をもつ有能な人材が多数必要でその育成が不可欠でした。このことは都会だけでなく、全国の村々でも武士以外の人材の教育の必要性と教育への熱意を向上させたものと見られます」
つまり、「家康志向」は、中枢においては「ミドル・アップ&ダウン」で、末端においては「徹底的な権限委譲」で、ともに「人材を生かす組織づくり」「人材を育てる制度づくり」を志向したと言えます。
「もう一つの(筆者注:「高い民間委託と幕府・藩の財政悪化」の)の効果は、各藩が藩内の殖産に必死の力を注いだことです。田畑の拡大が頭打ちになると、領内を富ませるためには他の領国や江戸・大坂などの巨大消費地に『輸出』できる産品の開発しか道はありませんでした。(中略)
漆器、織物、蠟燭、塩、酒、染料、陶器、手工業品、干物、果物、菓子などなど、現在の日本で有名な名産品はだいたい江戸時代の先人たちが知恵を絞って開発したり、他国から技術を盗んだりして出来たものです」
「田畑の拡大が頭打ちになる」そして「巨大消費地に『輸出』できる産品の開発」の道に進んだ。
このことは、領国経営においてもその空間軸志向が限界にきて、巨大消費地という市場に対応する時間軸志向に対応せざるを得なくなったと捉えられます。
ただし、
「ここで気をつけないといけないのは、幕府・各藩の経済と、武士個々人の経済の違いです。藩は特産品の開発が出来れば、それに携わる商人から一定の上納金を得たり、時によってはその特産品を藩が全部買い上げて、他国への販売は藩が独占して、いわば『商社』として販売して利潤を上げる専売制などで経済を維持しようとしました。しかし、武士個人の収入源は先祖伝来の知行であることは最後まで変わりませんでした。
五百石取りの武士というのは、五百石の米を生産する自分の知行(土地)から得る年貢で生活する武士ということですから、実際は自分の知行地から五百石の三十五%か四十%の米を年貢として得て、そこから自分の家で消費する分を差し引いた残りを市場で売却して現金収入を得て生活するということです。『知行取り』の武士は比較的高禄の武士たちです。
一方下級武士たちは自分の支配地は持たず、幕府・藩から直接米の支給を受けました。これを『蔵米取り』の武士と呼びます。(中略)
米の現物支給は浅草にある幕府の米蔵で支給されました(蔵前の国技館があったところがその場所です)。
支給日に多数の武士たちが殺到することになりますが、実際には『札差』と呼ばれる代行業者がいました。彼らが各武家の現物で必要な分を除いて米問屋に売却し、現金で武士たちに手渡す方が一般的でした。
この札差しは金融業も兼ねており、生活の苦しくなった武士たちに米の支給を担保に融資しましたから、武士たちは数年先の支給米まで担保にして借金を重なることになります。確かな担保物件でしたから、ほとんどリスクのない商売で、札差たちは大きな利益をあげていきました」
貧窮した武家では奥方が手内職をしたそうですが、札差からの借金生活といい、武士個々人の生活も時間軸志向になっていったということです。
著者はこう総括します。
「江戸時代の初期には『米』は生活と経済の中心的なものでしたが、貨幣経済が急激に発展していけば、米以外の数多くの商品や奢侈品の生産・消費が経済の中心となりますから、GDPに占める米の比率は急激に小さくなります。
武士は最後までそのパイの縮小する『米』に収入源を頼りましたから、時代を経るにしたがって相対的に貧乏になることは避けられません。(中略)
経済力は低いけれど教育水準が高い知識階級で、武士のモラルという特殊な道徳観念に従う武士階級が社会の上部構造を作り、その下には洗練された経済社会・市民社会がある、という江戸時代の日本の社会構造は本当にユニークなものです。
この構造が江戸社会を単なる拝金主義的な、経済一本の社会とは一味も二味も違った独特な社会にしました」
このような事態になった根本には、支配階層である武士が土地を所有しなかった、という特殊事情がありました。
「武士が住むのは幕府や殿様から拝借している土地・屋敷であり個人が所有しているものではありません(この拝借している土地の一部を町人に貸すことは『お目こぼし』で黙認されました)。
武士が知行地としている農村の土地は村人たちが所有権を持っている土地で、武士の持っているのは年貢の徴税権だけです。
では大名はどうだったのでしょうか。
大名の配置替えは江戸時代を通じて頻繁に行われました。国持ち大名、または国主と呼ばれた外様大名たち、加賀の前田家、薩摩の島津家、陸奥の伊達家、肥後の細川家などは動きませんが、譜代の大名たちは頻繁に動きます。老中に就任するのに遠地では不便である、とか仕置き(政治)が良くないから石高を減らして転封する、とか理由は色々ありました。そのたびに家臣団は殿様と一緒に移転します。これを『譜代の悲しみ』と書いたものもあります。当然のことながら民間人は一人も動きません。農民はその土地に残るものでした。(中略)
『土地は公儀のもの。百姓は公儀の百姓』という概念は戦国時代からあったものです」
日本人にとっての「公」の概念
私は、日本人が素朴に抱いてきた「公」の概念は、「公儀」なのではないかと感じています。
「公儀」について著者はこう解説します。
「『公儀』という概念は抽象的な意味での国家そのもの、国家としての政治機構を漠然と意味するものであって、どの個人をも指すものではありません。ですから幕府という国家機構は『公儀』ですが、将軍個人は『公方』ではあっても『公儀』ではありません。
『公儀』というものは長い歴史の中で日本人全体に含意された『国家』『公のもの』という概念でした(中略)。
日本人は、武家であろうと農民であろうと、すべてその『公儀』の一員として『役』を平等に果たす義務がある、その意味ではまったく平等である、という概念は、長いあいだ日本社会の基本的な合意事項でした。それぞれの『役』とは次のようなものだったと思われます。
◯ 天皇は国と統治する君主として高い道徳と教育を持ち、最も大切な『善』と『仁』の心を象徴するという『役』を持つ。
◯ 将軍は国内の平和維持と、外国に対して国家防衛の『役』を果たす。
◯ 大名は夫々の領地の平和を維持し、要請に応じて幕府に軍役、その他の役を提供するという役をもつ。
◯ 武士は幕府・大名に仕え石高に応じて軍事力を提供し、与えられた役職を果たす役を持つ。また武士階級は全体として社会の師表としての役を果たす。
◯ 百姓は全国の民を養う食糧を生産し、定められた年貢を納め、村落共同体を維持するための行政職を提供する役を負う。
◯ 町人(商・工)は国民の生活に必要な品をつくり流通させると共に、町の運営に必要な行政職を提供する役を負う」
著者は、江戸時代のことを、「平和を維持する、国を豊かにして人々が毎日幸せに暮らせる世を作るという社会全体の基本合意の下で、当たり前のことが当たり前に行われた時代」としていますが、具体的にはこうした「公儀」概念を具現化した時代だったということです。
現代世界と江戸社会は大きく異なります。
しかし、社会の一員として義務と権利をもつ市民や企業や公僕が、高い志をもって自らを律し異なる立場の者と恊働することの必要性は変わりません。
私たちには、「公儀」概念をいまの自分たちにひきつけて学んだり、現代的に応用すべきことがたくさんあると思います。
著者は、こうして出来上がった江戸社会についての幕末に来日した外国人たちの言葉を紹介しています。
現代の日本人が失っている、本来の日本人らしさとは何か、考えさせられます。
「日本には貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」
「金持ちは高ぶらず、貧乏人も卑下しない。
本物の平等精神、我々は皆同じ人間だと心底から信じる心が、社会の隅々にまで浸透しているのである」
「日本ではヨーロッパよりもなお一層厳しい格式をもって隔てられていはいるが、彼らは同胞として相互の尊厳と好意によって、更に固く結ばれている」
最近、「武士道」に対する関心や人気が高まっていますが、私たち現代の日本人は、武士の何を学び、自身の生活や仕事や人生においてどう活かすべきなのでしょうか。
著者は、江戸初期の儒者であり軍学者であった山鹿素行の言葉を紹介しています。
「彼は『農は耕し、工は造り、商は交易に従事し、夫々額に汗して働く』のに対し、『武士は不耕、不造、不沽の士』であるから、何も自覚しなければ『遊民、賊民』であると断言します。そして武士は自らの職分を自覚することが不可欠であるが、その武士の職分は『人倫の道の保持』であるとして、
『(武士の道は)主人を得て奉公の忠を尽くし、朋友と交わりて信を厚く、身を謹んで義を専らとするにあり。農工商はその職務に暇(いとま)あらざるをもって其の道を尽くし得ず。士は農工商の業を差し置いてこの道を専ら勤め、三民(農工商)の間聊(いささ)かも人倫をみだらん輩を速やかに罰し以って天下に天倫の正しきを待つ(のが武士の役目である)』と結論しています。
彼には若干儒教原理主義のような過激なところがあると思いますが、大筋において武士たちが感覚として持っていたものを表わしていると思います」
私も、エリートを自負する者が人の上に立つのに武士道を役立てるようなニュアンスには閉口します。
現代の企業社会では、さまざまな立場職能の人々が、それぞれの仕事の意義ある可能性を自覚しその価値を向上させるにおいて、武士の役目である「人倫の保持」をまず自らが垂範実践するべしと理解したいところです。
「武士であるということは大変なことでした。しかし(中略)この大変な武士たちがきっちりと社会の上部構造として存在し、利益追求だけが社会のルールではない世界を作っていたことが江戸時代を一つの特異な文明社会として輝くものにしていたのだと思います。
論語に次のような言葉があります。
『君子は義に諭(さと)り、小人は利に諭る』
多くの武士たちはこの言葉に殉じてゆきました。中国・朝鮮国はともに儒教を国教とした国ですが、その実践においては日本の武士が最も忠実に清廉潔白を貫いたと思います。
西洋の貴族たちの土地や資産に対する考えは、これとまったく違いました。彼らは近代へ移行するなかで、あくまで貴族の領地は貴族個人の所有物であると頑張りました」
現代社会において「人倫の保持」は、NPOなどのボランティア活動や市民活動が担っています。しかし私は、「人倫の保持」は公僕たる官僚や役人が垂範実践すべきことは明らかだし、さらに企業社会に参加する一般人こそが、それぞれの立場役割において人倫の保持そして向上を図っていくべきだと思ってきました。私なりに実践もしてきたつもりです。
なぜなら、人々は多くの生活時間を企業社会で過ごし、その有り方は個人と家族の人生を方向づけもする。学校社会は、企業社会の前倒しの縮図として競争社会であったりイジメ社会であったりする。そんな企業社会に参加する父母と、学校社会に参加する子供という家族が暮らす家庭の有り方も、結局は企業社会の動向や将来が色濃く反映せざるを得ない。まず企業社会での自分の思考と行動を、自身を含む人倫を保持し向上るものとしなければ、世の中は決して良くならないだろうと考えるからです。
「このような武士の性格を形作ってきたのが武士の教育システムでした。武士にとっての必須なものは文武両道で、文と武を兼ね備えることが必要でした。(中略)
家康自体は、儒学に深い理解と関心をもっていましたが、儒学一辺倒ではありません。周囲においた知識人は僧が中心であり、特に幕府の学問はかくあるべきと定めていません。
また江戸時代初期の認識としては『学問』は政治の中枢に位置する将軍、大名や、高禄の武士たち、つまり当時のエリートにとっては必須のものでしたが、微禄な下級武士にまで高い水準の教育は求められてはいませんでした。むしろ武人であることの方が重要だった時代です。
それが儒学中心となったきたのは三代家光、四代家綱とその後見の保科正之の時代を経て、五代の綱吉の時代になります。この六、七十年の時期を通じて幕府は『武断政治』から『文治の政治体制』に大きく舵を切り、(中略)武士階級は禄の多寡に拘わらず三民(農・工・商)の師表として立つことが求められるようになりました」
私は、武士の教育を現代に引きつけて捉えるならば、
文武両道の武とは「専門知識」や「技術技能」、つまり「手段」のことだと思います。
文とは、何のために何をするかという「目的」を学ぶ学問のことだと思います。
「家康志向」を換骨奪胎してしまった現代の人格教育の欠如
「武士たちの教育の基本は人格教育でした。現在のような知識教育ではありません。(筆者注:文においても武においても)
のちの人生で必要となる知識は、必要になったときに必死に勉強すれば得ることが出来る(筆者注:仲間と助け合い恊働することも出来る)、しかし立派な人格をつくる(筆者注:これは同じ理想を抱く仲間を得て助け合えるようになることでもある)教育は幼い内から徹底的に教えなければ血肉とならない、と考えられたからです」
最近、家庭に居場所がなく、悩みを打ち明け相談する友達のいない若者が、わざわざ人目の集まる所で無差別殺人という強行に及ぶ事件が相ついで起こっています。
私は、ネットカフェ難民にしても、一部上場企業で働きながら鬱になる正社員にしても、仕事や将来に理想や希望を見出せず、悩む弱い自分を他者に見せることができずにいる点で、とても似通った構造の人間関係と心理状態にあるように感じます。
若い人々は老後の特に経済状況に不安を抱いていますが、じつは今経済的には満たされて老後を暮らしている高齢者の多くが、長生きすることに理想や希望を見出せず、悩む弱い自分を他者に見せることができずにいるのです。彼らのそんな寂しさを一番よく知っているのが、離れて暮らす実の子供たちではなくて、なんとオレオレ詐欺師たちなのです。
いったい日本人は、老若男女どうなってしまったのでしょうか。
私でなくても、戦後、人格教育が後回しにされ続けてきたことが起因してどうにかなっている、そう思い当たる人は多いと思います。これは家庭や学校での躾のような部分的な対応で解決できる問題ではありません。企業社会、学校社会、そして家庭と地域社会の全体の、今と将来に向けてのあり方が問われているのだと思います。
私たちはいつの間にか、仕事というと生活の糧であるお金を稼ぐための「手段」だと矮小化する感性を蔓延させてきてしまいました。しかし、多くの日本人にとって仕事という社会参加自体が「目的」であり生活の糧なのです。それは、江戸時代以来の「公儀における役」でありそれを果たすことなのではないでしょうか。
ボランティア活動をする若者が引きこもらず、NPOに勤める社会人が鬱にならず、家や地域社会で何らかの役割をもつお年寄りが活き活きと暮らしているのはそのためでしょう。
戦前、貧困層の問題はもっと深刻でした。地方の農村というエリア全体の問題で、こぞって海外に移民する人々もいた訳です。
しかし彼らには、家族の絆があり、同郷者のよしみがあり、悩む弱い自分を見せることのできる仲間がいました。そして、移民先でお互いに助け合って苦難を乗り越えたのでした。
私は、日本は核家族化がさらに進んで「核分裂家族」になっているというのが持論でしたが、最近の孤立化した老若男女をめぐるさまざまな事件は、目には見えない「核分裂状況」が目にもの見せるようになった帰結と捉えています。
悩みを打ち明けたり楽しいことを共にできる友達がいる。
さらには同じ理想や希望を抱いた他者と仲間をつくれる。
そういう人格がネットカフェ難民の人たちに多分に備わっていれば、たとえば定住者を招致している過疎村にグループで移住しようとすることも、そこで環境保全の仕事につこうとすることもできる筈です。
現金収入が少なくても、地域の人々から米や野菜のお裾分けを受けて、お返しにお得意のインターネットの使い方を教えたりして共生できるのではとイマジネーションを膨らませることもできる筈です。招致過疎村の家賃はタダでしょうから、たとえば関東中部圏ならば月一で秋葉原に出て来るくらいの余裕はあるでしょう。
なぜ「新貧困層」とされるネットカフェ難民は、東京のような都市部でネットカフェで寝泊まりし日雇い派遣を繰り返さなければならないのか?
そこでしか暮らせないから、そこでしか仕事がないから、というのが一般的な答えです。
これは空間軸志向ですが、私は本質的な原因は時間軸志向にあると考えています。
私は、彼らが東京のような都市部のネットカフェと日雇い派遣で暮らさざるを得ないのは、家庭に居場所がなく、地元の友達や同じ関心事で集い恊働できる仲間がいないから、さらに本質的には、友達や仲間をつくる人格を弱めてしまったからだと思えてなりません。
このことは別の角度からみると、「時間を構造化できない」ということです。
家庭に居場所があり、地元に友達がいて、集って何かをしたい同じ関心事の仲間がいると何ができるかというと、時間を質的に構造化できるのです。彼らはこれができない。
ネットカフェやマクドナルド、そして始発で動きだし終電で止まる都市部は、時間を量的に構造化しています。そこに身を委ねることでぎりぎりの心の安定を確保している、そんな彼らの追いつめられた側面があると思います。
これは時間軸志向であり、明らかに従来型のホームレスが公園などに小屋を作ったりビルのどこかに段ボールで寝床を確保したりする空間軸志向とは異なります。
私は、バブル期に日本人全体の空間軸志向はピークとなり、その崩壊後、どんどん時間軸志向を若い人と高齢者が先行して強めていったと観察しています。
いま現在、空間軸志向が強い、ないしは強めている日本人のほとんどは、いま現在の自分の状況に満足していてその状況を空間的に拡張したいと望んでいる人々です。つまり、いわゆる経済上流のわずかな「勝ち組」の人々、ないしはそれになろうとしている人々です。
私は、今少ないですがすでに「新しいタイプの空間軸志向の人々」が現れ始めていると思います。
彼らは、自分の関心事において理想的な状況の時間を仮想したり、すでにある動向がグローカルに展開しているココにはないイマの時間を固定したりして、自分の暮らし生きる空間を変えていく日本人たちです。
彼らは具体的行動としては転住や移住、移民や放浪、あるいは転職やクビになるリスクを追っての正社員としての言動をする訳ですが、それは時間軸志向の強い経験を経た者がする訳で、いまここの自分の状況がいいから他にもそれを拡張するといった空間軸志向の上塗りとは次元が異なります。
自分の外側の価値観で心や精神という内側を規定する「外向的な空間軸志向」に飽き足らない者がめざす、
心や精神という内側の価値観で外側を規定する「内向的な時間軸志向」、
これを経験したものがその理想時間を心において止めての空間軸志向です。
ローカルな戦国時代に終止符を打ち大航海時代に時間をセットしてグローバル空間に日本を位置づけなおそうとした信長、過去を捨てさって旅を住処とした松尾芭蕉、などと同じ構造の思考と行動をする者たちです。
私の持ち場でありライフワークという「役」があると自負する企業社会においては、かつて「家」や「家族」とみなされた「会社」や「仲間」が、「機械」や「機械の部品」のようになってしまいました。
そこでは正社員も派遣社員もすでに心理的には「ホームレス」であり「ネットカフェ難民」なのです。
こうした企業社会のいわば「核分裂家族」状況を打開するのは、彼ら「新しいタイプの空間軸志向の人々」なのではないか。
私はそういう直観から、「パラダイム転換志向としての信長志向」とその担い手に期待し、その育成と活躍の促進を図ってきました。
そして、彼らが具体的にどのような人間であり、いかなる発想や挑戦をするのか推量するために、歴史において「家康志向」と「信長志向」を確認しています。