発想ファシリテーション論において折口信夫を継ぐ(3:間章) |
自然体で人間性を発揮し何事にも囚われない根源的に自由な発想
人は誰でも自由な発想をすることができる。
なぜなら、発想は無意識が浮上させるものだからだ。
ただ、人によっては自らを自由にすることができない。
自らを自由にすることができなければ、発想の無意識による浮上を抑圧してしまう。
だから、自由な発想ができない人が世の中にはいる。
また逆に、本人の意識は自由な発想ができているつもりでも、じつは発想の無意識による浮上を抑圧している場合もある。
自由な行動を抑圧しておいて、自分は自由に選択した行動をしていると胸をはる人がいる。たとえばそんな人が、私は自由な発想をしている、と言うのを聞いて、あなたはどう思うだろうか。彼は自分に許した行動を正当化できる範囲において、自由な発想をしていると思うだろう。そして、そんな不自由を正当化する自由など、あまり喜ばしい自由ではないのだ。
いずれにせよ、
発想を促進するとは、発想の無意識による浮上を意識的にか無意識的にか抑圧している状態から、発想主体を自由に解放させること
でしかない。
そしてそのためには、
発想主体に主体性を意識から放棄させて、発想内容そのものに主体性を想定させることが有効
だ。
そうすることで、発想主体は発想行為を無意識に委ねることになるからだ。
実際に発想内容そのものに主体性がオカルティックに宿る訳ではない。
それは私たちが「言霊」という比喩を使って物語を形成したり、物語になぞらえることが可能な現象を喚起させることと同じ理屈なのだ。
たとえば、個人が単独で発想する場合、発想主体と発想内容の間の関係性に主体性を想定しうる。間主体性、という考え方だ。発想主体と発想内容は循環論的な関係にある。
私がAを発想したならば、私はAを発想した私’になった訳で、それはAを発想する前の私ではない。また逆に、私によって発想されたAは、そのままであることはなく、Aを発想した私’にとっては新たな意味をもつA’となっていく。このような循環論的な存在は、間主体性によってしかリアリティを持ち得ない。
このようなことが、言葉においてもある。言葉は、その意味と用法とを集団によって共有されて成り立つ。
つまり、集団がある言葉を発想する場合、発想主体である集団と発想内容である言葉の間の関係性に主体性を想定しうる。これも間主体性、という考え方で、言葉と集団は循環論的な関係にある。
ある集団がaという言葉を発想したならば、その集団はaという言葉を発想した集団’になった訳で、それはaという言葉を発想する前の集団ではない。また逆に、ある集団によって発想されたaという言葉は、そのままであることはなく、aという言葉を発想した集団’にとっては新たな意味をもつa’という言葉となっていく。このような循環論的な存在は、間主体性によってしかリアリティを持ち得ない。
言葉は発想内容を意味するが、この記号表現と意味内容を合わせて「言霊」として、それ自体に主体性があるように古代人が捉えたことは、認知論的には間主体性の想定という仕掛けを内包していたと考えていい。
古代人の<自他の未分化性><人間と自然の未分化性>において個人や集団の概念が曖昧であったことを踏まえれば、個人や集団という発想主体の主体性が捨象されて、発想内容そのものやそれを表現した言葉だけに主体性があるかの如くに言い習わしたことは、いたって自然であった。
自然体で人間性を発揮し何事にも囚われない根源的に自由な発想、
そういうものがあったとすれば、
それは「部族人的な心性」のみによって暮らしていた古代人の発想だった
と考えられる。
そしてそれは、「社会人的な心性」を伴って暮らすようになって着実に疎外され抑圧されていく。「祭り」とは、集団的に「部族人的な心性」の疎外と抑圧を解いて記憶を呼び覚ます仕掛けでもあったと思う。
間主体性が、個人と集団そして組織、自我と他我そして超我といった社会性の観念に覆われて行くに従って、古代人の<自他の未分化性><人間と自然の未分化性>は希薄化していき、様々に囚われた発想を余儀なくされていった。それは操作された無自覚的な思考というべきものだった。
無意識が浮上させる発想は、あくまで「部族人的な心性」が起点となっている。
一方、操作された無自覚的な思考は、「部族人的な心性」が喚起され利用されはしても、やはり「社会人的な心性」が起点となっている。
ここでいま一度、私の整理した「部族人的な心性」と「社会人的な心性」とを対照する概念規定メモを参照してほしい。
折口信夫が言う「古代人」は、私の規定した「部族人的な心性」をさらに厳格に捉えている。
具体的には、
垂直方向から来る「カミ」という超越者を想定する以前の、
水平方向から来る「タマ」という来訪者を想定する心性をもった人々のことを言うのだ。
間主体性が超越者「カミ」との関係性に想定されるのと、来訪者「タマ」との関係性に想定されるのでは、人々自身の存在性、つまりは死生観や宇宙観も大いに異なった筈だ。
私は、「日本型の集団独創」の雛形を求めて、原初的な「祭り」の2系統に行き着いた。
その内の1系統、
共同体内部で身内同士で展開した
秩序維持型=知識記憶継承型の「祭り」から、
予祝儀礼の「御田の田舞い」に
「集団を前提として固定しておいて、その集団が独創する」知識創造体制
における「日本型の集団独創」の雛形を見出した。
これは、「日本型の集団独創」の実績を上げてきた確かな雛形である。
(参照:「コンセプト思考術のテキスト改訂の主旨と経過(12)」)
しかしこれは、折口の言う、垂直方向から来る「カミ」という超越者を想定する、弥生人以降のものであった。
間主体性が超越者「カミ」との関係性に想定される訳で、一神教の外国人にも理解されやすい「世のため人のために善かれを想う」発想や「エコロジーで人と自然にやさしい」発想を導く。
だから、これはこれで英語や中国語に訳して、外国人にも理解活用可能な集団独創ノウハウにしていけると思っている。
しかし、折口が導いてくれるのは、弥生以前の縄文時代を生きた古代人由来の雛形である筈なのだ。
それは、
原初的な「祭り」の2系統のいま一つ、
「異界との重なり領域」で共同体の部外者と展開した
新秩序導入型=新知識発見導入型の「祭り」から導かれる、
「個々の独創を放任しておいて、それを適宜に集団に組織する」知識創造体制
における「日本型の集団独創」の雛形となるものの筈だ。
これについては、アキバや歌舞伎町のような街の隣接分野融合を特徴とする自然発生、相撲の巡業や取り組みなどの断片要素をいくつか収集したが、それら全体を根源的に体系立てる構造を確認するに至っていない。
現代の企業社会への応用モデルを具体的に考案し積み上げて行くことは可能だが、私はやはり物事の全体を俯瞰する構造的視座を先に求めてから、具体的なノウハウ体系化に向かいたいと思っている。
(参照:「コンセプト思考術のテキスト改訂の主旨と経過(13)」)
特に、アキバや歌舞伎町のような街にも相撲のイベント展開にも神社や奉納という形で「カミ」が関与していて「タマ」的ではないことが気にかかる。「タマ」的な展開は「芸能」そして「文学」に残ったとは思うのだが、私はむしろ形や文字に残らず絶ち消えてしまったかに見える、知的思考ではない身体の感覚や行動の流れがあるように思えてならない。それは「交易」の流れである。
「交易」は、時代変革の戦略手段として後醍醐天皇が近畿において重視し、信長がさらに国際化したのを、家康が封印してしまった流れである。
家康が大名以下キリシタンを大弾圧したことの背景には、秀吉の側近であったキリシタン大名がルソン(フィリピン)の日本人町を拠点として反撃を狙ったという説がある。これには天草四郎が秀吉の孫、秀頼の子であり、島原からルソンに逃げのびたという説がついてくる。つまり、鎖国は外の勢力と連携した内の離反を招く可能性という禍根を断つ政策だったというのである。わたしは個人的には、この説によって、信長も秀吉もしなかったキリシタンの徹底的な大弾圧の理由が了解できると思った。
その真偽はともかくも、国際的な「交易」が、薩摩藩が明治維新に向けた時代変革の戦略手段として活用するまで禁じ手となった訳だが、その間200有余年。私たち日本人の心性から、九州から台湾、インドシナ諸島に向かってあった南方への憧憬が抑圧されたままとなってしまったことは事実だ。
薩摩藩の琉球支配は帝国主義に近い形となっていて、藩レベルでは母なる原郷に対する心性はなくなっていた。こうして歪められた心性は国家レベルで太平洋戦争にまで行き着く。さらに、明治以来の脱亜入欧に引き続く戦後の親米追随の国家政策と表裏一体となった心性として、現代の私たちにも歪んだままにあるのかも知れない。
しかし私は、台湾から東南アジアにかけた諸国の一般庶民の親日的な感情に触れるたびに、知的思考では把握しがたい、理屈抜きの身体感覚として抜き指しがたい安堵感を抱いてしまう。
そこには、私の古代人としての情動の発露があるのかも知れない。
これは確かに、朝鮮や北方中国では感じないタイプの情緒なのだ。
無論、日本人の南方渡来諸説の影響による意識的なものではない。
私はこう感じるのだ。
ひょっとすると、私たち日本人は、母への憧憬を抑圧したまま成長してしまった大人のような発達心理学的歪みをもっているのではないか、と。
幼心ついた時にはお稽古と塾通いの毎日でそれ以前のやさしい母の記憶がない、ただただ西欧だ、アメリカだ、中国だと急き立てられて成長してしまった大人なのではないか、と。
もしそうならば、私たちは古代人がもっていた素朴で健全なる「交易」の心性を失っていると考えられる。
日本人は外国人との意志の疎通が苦手であるというのが通説だが、例外的な現象がある。
たとえば太平洋戦争では、中国および東南アジアの華僑は英米について、原住民の被支配階層は親日的であったと言う。それが戦後の商社マンの活動にまで延長された。英米の企業は華僑と提携し、日本の企業は原住民の現場階層と親密な関係をもった。それはそれで、現地で拮抗した勢力を形成してきたのである。
外国人とのコミュニケーション能力がけっして高いとは言えない日本人がなぜ台湾や東南アジアの原住民の現場階層と情緒を共有できたのか。
私は、国家レベルではない、民族レベルの人と人の「交易」の心性が働いたのではないかと推察している。
つまり、台湾や東南アジアの原住民とは、同じ古代人由来の「交易」の心性を持ち合わせた。しかもそれを現代でも発揮しあえる環境にあったために、情緒の共有そして意志の疎通がうまくできた、ということではないか。
日本企業という会社レベル、日本軍という国家レベル、さらには信長や秀吉といった支配者レベルの歴史ではなくて、歴史に残らぬ名もなき庶民同士の交流にこそ、私たちがどこかに置いてきてしまった古代人由来の「交易」の心性があったのではないか。(このことについてはいすれ、網野善彦著「海と列島の中世」を読んで検討したい。)
「芸能」は、演ずるのも観ずるのも同じ日本人同士だ。しかし現代のグローバル社会においてはこちらは日本人、相手は外国人である。そこでは私たちは、古代人由来の「交易」の心性を見極めて現代的に活用すべきだろう。
古代人由来の「芸能」の心性は、外国人も意識せず持ち合わせる深層の古代人的情緒に働きかけるコミュニケーションを成立させている。たとえば、ジャパンアニメに日本人が巧まずして盛り込んでしまう古代人由来の「芸能」の心性は、外国人も意識せず持ち合わせる深層の古代人的情緒を揺さぶってしまっている。
これと同じように、古代人由来の「交易」の心性も、すでにそういう無自覚的な形で国内的には日本人同士で継承されてきていて、現代世界においても国際的に展開していくことができるのかも知れない。仮にそうだとしても、古代人由来の「交易」の心性がいかなる根源的な構造のものか判明しなければ話は始らない。
「未知なる人々」と出会って交流することではじめて浮上する有意義な発想がある。
ところが、未知なる人々と出会って交流することを、日本人は嫌う。
嫌っているという意識がないほどに無自覚的に嫌っている。
「未知なる人々」とは、必ずしも面識のない他人のことではない。知識創造論の立場からすればまず、自分の知らないことを知っている人や、自分とは異なる意見の持ち主のことである。自分の縄張りである職場に、そういう部外者をわざわざ呼ぶ前向きな発展家がどれだけいるだろうか。そういう人が少ないから、そういう奇特な人が出世したり成功するのだ。無論、調査対象のモニターをヒヤリングするために呼ぶ、という話ではない。部外者と恊働して知識創造をしようという人がどれだけいるだろうか、ということだ。
では次に、自分が他者の縄張りである職場に出向いて、恊働による知識創造をしようと働きかける人がどれだけいるだろうか。これはもっと少ないから、そういう奇特な人が出世したり成功するのだ。
月並みな平凡人は、そんなことをしても良いことはない。そんなことをしても自分に得になることはない。そんなことをする必要がそもそもない。いろいろなしない理由を上げて、自らの不作為を正当化するに違いない。
以上のように、日本人は一般的に、部外者との知的恊働に意義を見出せない。
つまり自分の日常的な生活や仕事において、未知なる人々と出会って交流することを、日本人は同じ日本人が相手だとしても嫌っているのだ。
さらに相手が外国人となれば、もっと億劫になり、その億劫による不作為を正当化する理由をさらに上げてくる筈だ。
ビジネスはグローバル化しているから、外国へのアプローチをしない訳にはいかない人たちが現実には増大している。不承不承対応している人ばかりでは勿論ない。意欲的に熱意をもって外国人に対応している人々が多い。
しかし、どうだろう。基本的には英語圏であったり、英語を共通語とする職場であったり、新興の中国であったりするのではないか。その際もっぱら、日本人らしさを消去して相手の言語に適応しようとばかりしているのではないか。
つまり、当たり前のように、知的思考に重心を置いて、個人対個人で対応しようとしている。
そして、身体の感覚や行動で現地や現場や相手に馴染むということを、現場に行くまで念頭にない人々が多い。
それが現代のグローバル・ビジネスだという意識から当然のようだが、古代人とは真逆のパターンだということに思い当たる。
古代人は、現場相対した他の共同体や異民族の者と身体の感覚や行動をもって「交易」を始めたに違いない。しかも集団対集団で始めた筈だ。
日本人は、外国人との交流というと、個人対個人、言語を駆使した知的思考の交流が基本であり、だからこそ大変だと考えてしまう。確かに英語を共通語とする交流はそういうものだ。
しかしだ。
日本人はそもそも集団対集団、身体の感覚や行動といったノンバーバルな言語も大切にする交流が得意だった。
だから、言葉がまったく理解できない台湾や東南アジアなどを旅行して、彼らも同様の志向性があるため微妙な意思疎通ができたり、それができることでの安堵感を無意識的に抱いてしまったりする。ビジネスの場合も、ロングスパンではそうした日本人と現地人とのコミュニケーション上の効用が良い方向に蓄積していく。
私は、こうした身体知や暗黙知の共有をも大切にして、時間をかけて集団対集団で積み上げて行くコミュニケーションも、もう一つのグローバル化の流れとしてあると思うのだ。
ただそれは<ポリクロニック>×<ルーミング>な時空でしか成立しない。
だから、<モノクロニック>×<メッセージング>を基調とする近代主義やアメリカ型のグローバリズムが非効率的で不明快として排除してきただけなのだ。
(参照:「<モノクロニック>と<ポリクロニック>」
「<メッセージング>と<ルーミング> 」)
日本人は江戸の長い鎖国時代によって、自分たちの深層にあった古代人由来の「交易」の心性を歪めたまま抑圧し、それ以降、「交易」における身体の行動と感覚に蓋をして、知的思考のみで欧米人や中国人と対話しようとしてきた感がある。日本がモノづくり大国になったのも、知的思考の結晶としてのモノにだけ一人旅をさせたいという動機が潜在的に強かったと解釈できる。
このような歪んだ「交易」の心性では、国内的および国際的な「交易」的活動から得られる発想はかなり限定されざるを得ない。
なぜなら、「自然体で人間性を発揮し何事にも囚われない根源的に自由な発想」からはかけ離れたやり方だからだ。「自然体で発揮する人間性」の内の「未知なる人々」との出会いに期待する心性、そこに活路を見出そうとする心性を抑圧してしまっているからだ。
古代人由来の「交易」の心性には、たとえば不確定論を前提にするゆえに偶有性の活路を見出すというチャンスや楽しみがあった。日本列島の場合、折口はそれを「まれびと」信仰とし「原郷への憧憬」とした。それが日本人の「交易」の心性を発達させたが、鎖国によって抑圧されてしまった。
それを想うと、現代の海外ビジネスが、決定論を前提にする知的思考のみで一回一回の売買ゲームを繰り返すだけものであることは、何を意味するのだろうか。
日本人がそもそも得意としないし好きでもないやり方を無理してやっているように見えてくる。
しかも、それがeコマースで代替できる取り引きであったり、IT処理で遠隔管理可能な現地事業だとしたら、集団対集団のクロスカルチュアルな人と人の交流は、ただの経営効率を悪くさせる疎外要因とされていることになる。
しかし、異なる文化が出会い「未知の人々」同士が交流することで生まれる物事の方に価値があるのではないか。そして、地球環境や省資源、南北格差やフェアトレード、有機農業やロハスなどなど世界動向は、文化多元的に異文化が交流しあうことで経済を文化化していくことに活路を見出そうとしている。
古代人由来の「交易」の心性は、人類に普遍な交流の出発点であり深層である。
よって、その根源的な構造を捉え直すことは、現代世界の人々を個人から国家のさまざまなレベルで孤立化させている効率主義への懐疑を提示するだろう。
私はこうした現代のグローバル社会とも関わる古代人由来の「交易」の心性への関心から、折口信夫論じる「古代人」の検討と、中沢新一論じる「中世」の検討を始めた。
次項(4)における「芸能」の検討も、同じ関心を念頭に進めていきたい。
中沢氏が論ずる「はじまりの芸能」から、私は「はじまりの交易」の根源的な構造を「類化性能」によって推量していきたい。