「本質を見抜く」テキスト改訂方針を求めて(6) |
考え方26 「正しいこと」と「効率のよさ」を混同しない
「正しいことと、効率のいいことは相反する。
近代文明は、相反するものを一つにしようと、論理を上塗りしたにすぎない。
中国や欧米で行き詰まった支配の哲学の『空』を知る」
著者は、これを「考えるポイント」として提示している。
さっそく、私は以下の自分の持論の検討に応用してみたい。
日本語および日本文化には、
「縁起にのっとった日本的な<情>起点の発想思考」という美点的特徴、
それを土台というか容れ物にして、
「因果律にのっとった欧米的な<知>起点の発想思考」の美点と
「共時性にのっとった中国的な<意>起点の発想思考」の美点とを
のせてきたあるいは取り入れてきた
という「ダイナミズム」がある。
私は、
欧米的な発想思考の何をもって日本人が受け入れた美点的特徴とするのか、
中国的な発想思考の何をもって日本人が受け入れた美点的特徴とするのか、
について結論を保留しつついろいろ検討してきた。
そして、どうやら、
欧米的な発想思考については、「近代主義」を加速させたところは除くなり、条件づけるなりしなければいけないと思った。
中国的な発想思考については、母性原理の老荘〜道教は受け入れるとして、父性原理の儒教の何を美点とするかはっきりしなかった。
それが、この項目の著者の主張を読んで明らかになった。
答えは、「支配の哲学」を除いたところ、ということだ。
儒教は、徳川幕府が支配原理にしたのだから、そこには微妙な理解が必要だった。
「昔、中国では、科挙の試験で合格して高級官僚になった人たちは、試験合格までは儒教、つまり孔子・孟子を勉強し、合格した瞬間から、韓非子・孫子・呉子などを勉強し始めました。
儒教の『人はかくべし』ではなく、『人間支配、国家運営のためにどうしたらいいのか』『世の中はどうなっているのか』の勉強です。
受験勉強の間は、『正義とは』『正しいことは何か』と建前の勉強をし、受験を終えると、
支配の哲学、つまり『効率の世界』に入るわけです」
文化大革命で伝統的な価値が排斥された時代も、共産党の幹部やその子弟は孫子を読んでいたと聞いた事がある。
また、似たような転向は、若い頃は天下国家を論じたキャリア組が省益に走るなど日本でもあった。
ただ、日本と中国が違うのは、中国の官僚が一族の代表として個人的に私腹を肥やすのに対して、日本の官僚が省庁の門閥において集団的に利得を継承していくことにある。日本人の集団志向という特徴は、良いも悪いも一貫している。
著者は、こうした清濁のある世の中をこう評する。
「『正しいこと(真理)』と『効率的なこと(論理)』、この二つがそろわないと、世の中は成り立ちません。
『これが正しいことだから』と正義を求めているだけでは、日常生活が送れないでしょうし、
効率だけを求めて生活するのにも人間は耐えられません。
どちらか一つだけではどうにもならなくて、両方のバランスが必要です」
中国において建前の儒教と、本音のマキャベリズムがともに歴史を長らえてきたのは、中国人がこのバランスを重視しまたそれに長けてきたからだろう。
そして、私は、このバランスをとろうとする意志を、中国人の個人としての強さに、そしてそれを天の意志に関連づけて認知表現しようするところにみる。
この個人の意志と天の意志を関連づける原理が、易であり、共時性なのだ。
易は、易教に由来するが、その原理は宇宙原理であり、老荘と大いに重なる。
つまり、中国人の心性において、母性原理であり「部族人的な心性」に裏打された老荘〜道教と、父性原理であり「社会人的な心性」に裏打ちされた儒教とを乖離させずにバランスしうる連結を易、共時性という原理が担ったと言える。
日本人の心性の場合、母性原理であり「部族人的な心性」に裏打された神道と、同じく母性原理であり「社会人的な心性」に裏打ちされた仏教とを乖離させずにバランスしうる連結を、神仏と人間の交流である祭りが、そして縁起という原理が担った。
「ところが、西洋では、キリスト教がすべて相反するものをくっつけて、一つにしようとしました。(中略)
ギリシャ、ローマには豊かな多神教の世界があったにもかかわらず、キリスト教はその上に立って、無理やりこうした一神教の考えでこの世の中のことも仕切ろうとしたのです。
理屈の上に理屈をつくり、人間の実感とははるかに離れた論理で、支配の構造をつくっていきます。
『正しいこととは何か』ということと、『世の中を統治する、経営する』ということは、どうしても相反するところがありますから、『これらが合わない理由はこう(たとえば、魔女や異教徒のせい)だから、(戦いに備えて)こうする』と、二つのものの上に『上位概念』ともいうべきものをどんどんつくっていくわけです」
近代において神は死に、科学が経済がそして市場とそれに貢献する科学技術が神に成り代わっていった。
しかし、キリスト教の認知表現パターンはそのまま欧米人に踏襲されていった。
ちょうど、日本人がアニミズムの認知表現パターンをそのまま温存したようにだ。
第二次大戦後、キリスト教の認知表現パターンを現実の行動として先鋭化してきたのがアメリカである。
2001年の同時多発テロは中東諸国からのその報復だった。
アメリカはさらに報復する戦いをアフガニスタン、そしてイラクへと展開させた。
ブッシュは「テロとの戦い」と命名した。これに、中央アジアのイスラム諸国の離反を嫌っていたロシアが同調する。そして気がつけば、キリスト教対イスラム教の「文明の衝突」だとお先棒を担ぐ学者も出てくる。
そして、八百万の神の日本の政府までが「テロとの戦い」に同調した。
本当は、多神教の日本は文化多元主義をもって、一国大国主義がおしつける経済至上主義という名の文化一元主義に反対するべきところだが、「成長なくして改革なし」としたネオコン路線の小泉政権、北朝鮮の脅威からアメリカに守ってもらうしかない日本である。アメリカに文化論をぶてる立場にはなかった。
結局、日本および日本人は、国内的にも国際的にも、経済至上主義に半ばつきあいながら、どうにかして国際政治の力学を軍事経済から生活文化にパラダイム転換する方途を、それに賛同する諸国や国際的なキーマンと連携して狙って行くしか、自立的かつ恒常的な安定を図る道はない、と思う。
それは著者の主張とも一致する。
著者は言う。
「『効率のよさ』を第一義に考えると、それがあたかも倫理的に『正しい』ことのように思われます。その流れは現代にも及んでいますから、われわれは、いつも『正しさ』と『効率のよさ』を混同しないようにしなくてはなりません。
いや、むしろ、その両者は相反するものであることを頭において、ものごとを考える必要があるのです。人間にとって『効率の良さ』とは、結局、別のリスクを増やしていることを、いつも意識しておきましょう」
国を守る、それを強大な軍事力だけによるとするのは、分かりやすい「効率のよさ」だ。
さらにその大部分をアメリカに肩代わりしてもらうとするのも、分かりやすい「効率のよさ」だ。
その分、経済活動に集中してこれたし、これからも行けるのだから、さらなる「効率のよさ」だ。
いやいつまでもアメリカが守ってくれると思ったら大間違いだ、むしろ北朝鮮に対抗するのは同じように核を持てばいい、核武装はむしろ安上がりだという論も聞く、これも「効率のよさ」だ。
こうして列挙していくと、「効率のよさ」というのは一元的な基準となる価値があって、それ以外の価値が論じられないことに危険性があることが見えてくる。
つまり、どの方策が一番効率がいいかを追求する「効率のよさ」論議自体に、生活文化や精神文化からどんどん人々の思考と感覚を引き離して行く力学があるのだ。
あえてドラスティックに国家の軍事で例解したが、国家の経済も、そして企業の経営も、家庭の生活も同じだ。
それが著者の言う、
「人間にとって『効率の良さ』とは、結局、別のリスクを増やしている」
ということだと思う。
考え方27 「効率」と「精神」のバランスをとる
「組織を支えるには、『支配の効率』と『精神のリスク管理』の両にらみが必要である。
しかもこれらを無理やり統一しようとせず、相反するものを、バランスをとりながら持ち続ける『太っ腹』こそ、現代に求められるもの」
ちょうどさっき、村上龍氏がホストをつとめる「カンブリア宮殿」に日本電産の永守重信会長が出ていた。赤字の会社を買収して一年足らずで過去最高益を出す、しかも一人のリストラもせずに、という能力と情熱と信念をもった経営者だ。
「『支配の効率』と『精神のリスク管理』の両にらみ」のまさに典型例である。
著者の言っていることは、企業社会のリーダーで言えば、こういう人物の実践を言うのだと実感した次第だ。
「二つの相反するものを無理やり統一しないで、『これは相反するものだ』『もともと合わないものだ』とわかっていて、しかも両方を持ち続ける、そのバランス感覚(つまり『太っ腹』になること)が必要です」
永守会長は、買収した会社の社員のリストラ不安を払拭して「精神のリスク管理」をした上で、1年間は言う事をきいてくれと開口一番訓示していた。そうなれば社員は従うしかない。会社を去るのは1年先でもいいからだ。その間、会長自らの陣頭指揮で永守イズムを叩き込まれる、つまり「支配の効率」が追求される。しかし、そこで社員はやる気と成果とやり甲斐をアップされてしまう。つまりは結果的にさらなる「精神のリスク管理」をアップする。
永守会長の場合は、「両にらみ」ではなくて、図にすれば陰陽の巴のような「循環システム」になっている。
「ときに精神世界に立ち返ることは(筆者注:精神生活を重視することは)、ビジネスの場での活力となって効率を生むし、ビジネスに猛烈に専念することも、結局、自分の『魂の浄化』に役立つ、という相乗効果があるのだと思います。(中略)
国家(筆者注:そして企業)の屋台骨を支えたような人たちは、『支配の効率』と『精神の世界』の両方を、同じように、最後まで失わずに持ち続けた人だといえるでしょう」
そういえば、私の大恩あるメーカーの創業者もキリスト者で最初の会社名は「福音商会電機製作所」だった。
戦後日本を支えて来た会社の創業物語はさまざまだが、著者の指摘する、「『支配の効率』と『精神の世界』の両方を、同じように、最後まで失わずに持ち続けた人」が創業者であったことは共通している。それこそが骨太の創業スピリットであり、今の多くの経営者たちが忘れているものだ。
「たしかにそれはむずかしいことですが、理想としてめざす方向だ、ということは知っておいていいことだと思います。
そうすると、日々の思考に幅が生まれ、行動においても『戦略的な感性』が深められます」
考え方28 効率を『量』ではなく『質』でとらえる
「日本の生きる道は、近代的な『量的効率』でなく、脱近代的な『質的効率』にある。
日本は世界に先駆けて、まさにその転換期に来ている。
これからのものの見方・考え方に、この視点を据えよう」
「日本の先覚者たち、たとえば西郷隆盛や松下幸之助は、『本当の効率を支えるものは何か』ということを考えてきました。
それを見つけ出さなければ、本当の効率主義は生まれません」
永守会長が見据えているのもこれだ。
テレビ番組「カンブリア宮殿」を私は本当にいいタイミングでみたと思う。(最近、よくそういうことがある。)
買収された会社が11ヶ月で変身する現場の経緯を映像で見ることで、この項目の著者の主張を具体的な感覚として受け止めることができた。
たとえば、著者のこの論述は、番組に出て来た買収された会社の社長や社員の表情を思い浮かべて読むとよりリアルに感じられる。
「戦後の日本は『世界と同じように』という考えでやってきました。そして長い高度成長期をひたすら走り続けたことで、元来タフなはずの日本人の精神が疲弊し、民族全体に大変『疲れが溜まっている』状態です。
最近の日本人は、『もっと豊かになりたい』『もっともっと仕事を拡張していきたい』と心底から思っている人は少なくなり、『ちょっとひと休みしたい』というのが、現在の民族的精神状況だとおもいます」
番組でも、ホスト側から「ハングリーな人々が減った」「みんな疲れている」「未来に希望がもてない」といった言葉が出て、永守会長から「だからチャンスなんだ」「否定的な言葉を発するのはよくない」といった言葉が返されていた。
私は、こう感じた。
永守会長が買収した会社は、共同体でなかった組織が共同体になった。
共同体になったから、孤立していた社員たちが仲間という集団になった。
社員は、自分の居場所とそこでのやる気とやり甲斐をもてたことで、
「精神的リスクの自己管理」ができるようになった。
肯定的な言葉を発し、前向きに対応する、それはよく聞く事だ。
しかし、それを何のためにするのか、ということは語られない。
永守会長は、明示知としては語らないが、誰もが彼の存在や表情や立ち居振る舞いを通じた暗黙知として予感し、そして11ヶ月後の現実として実感するのだ。
著者はこう予言する。
「これからは、日本の歴史的な『質的効率』の時代です。
『質的効率』という言葉自体、多くの方にまだなじみがないでしょう。企業でいうと、資産バランスを画期的に改善していくとか、自社にしかできない技術の高度化、つまり『差別化』を図るといったことです。
『もっと売れる物を』と躍起になるのではなく、売れる売れないというまえに、ともかく『他社が作っていない物を』と考えを切り換え、その『違い』や『差別化』を大切にする。
それが『質的効率』です。
それには、一見、非効率的に見える開発過程が必要ですが、いまだ『量的効率』にとらわれている古い世代の効率論には、そういう大きな視野が欠けているように思います」
まさに「ブルーオーシャン戦略」を、日本らしく追求していく、ということだ。
ところが現状はというと、「レッドオーシャン市場」での成功体験しかなく、「量的効率」にばかりとらわれる古い経営が、そちらに踏み込めないでいる。いな、むしろリスクを拡大し続けている。
「コンセプト思考術」では、「ブルーオーシャン戦略」と実質的に同じ理論を、<受け手側のコト実現の論理>にのっとった品態、業態、店態として例解し、そうした商品とサービスと顧客とのインターフェースを展開する経営と、これと相反する<送り手側のモノ提供の論理>にのっとった品種、業種、店種を展開する経営とを、以下のような概念図のように対照して示してきた。
後者の「◯◯種経営」は、「事業効率『量の効率』の中でしか質を検討できない」とし、
前者の「◯◯態経営」は、「生活効率『質の効率』の中で量を検討する」として、
量的効率を質的効率を、経営がどこを起点に物事を考えるかという観点で対照した。
そして、「働く人々の働きがいや育成される職能」として、
前者の「◯◯態経営」の場合、「生活者の生活の質を考え向上させる喜び、個性的で創造的な職能」であると解説した。
それは、商品やサービスや顧客とのインターフェースの企画や開発といった仕事を念頭においた受講者向けの表現であるが、「精神生活としての仕事」を捉えるものであった。
15年前に着想した「コンセプト思考術」だが、いまも古く廃れることのない本質を私なりに見抜いたものであったと自負している。
(「8)「種」志向か「態」志向かで企業はまったく違う生き物になる」を参照。)